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2021.03.05
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​​​​​​​​​​​ ​天に向かう決心を失わないように​​

一九五八年二月二三日 前本部教会


 「天に向かう決心を失わないように」こんな題目でお話します。


 決心の価値基準

 今日集まった皆さんの中には、心のうちにある決心を持っている方たちもいるのです。また人の前に自信ありげに「私の決心は正しい」と主張して出る人々もいるかも知れません。

 しかし今皆さんは、自身の決心が誰のための決心であるかを、考えでみなければなりません。即ち、皆さんが持っている決心が、自分のみのための決心であるか、さらには神のためにまでの決心であるかを、考えてみなければなりません。

 何よりも自分が抱いている決心が天のためか、そうではないか、ということを考えるべき時が、皆さんのまえに来ているという事実を忘れてはなりません。

 今日人々が持っている決心はさまざまです。甲が持っている決心と、乙が持っている決心は異なり、男性が持っている決心と、女性が持っている決心は違います。またこの民族とあの民族が違うように、彼らは各自異なる決心を持っているのです。

 それでは各自が主張し、各自が持っている決心が、どんな目的を達成するためであるのか。自分について冷徹に反問してみるとき、自暴自棄にならざるを得ない立場であることを認識するのです。

 終わりの日に処している我々、また地の上に生きている人類は、自分が持っている決心が、民族を動かすことができる決心なのか、世界を動かすことができる決心なのか、さらには天上にある千々万聖徒たちを動かすことができる決心なのか、またさらには神までも動かすことができる決心なのかと反問してみるとき、そうではないと告白せざるを得ないのです。

 このような私、このような我々に天の希望があるとすれば、我々が我々の心の底に何を納め、何を望んでゆくかというこの問題を、何よりも重要に思ってください。



 それでは今までの人類歴史は、何を立てるために発展してきたのか。これは人類の幸福のために、あるいは人類の永遠なる理念を立てるために発展してきたことを、天があるという事実を知るならば、否定することができません。天がある限り、人間に幸福の園がどんなものかを教え、人間をして永遠なる喜びの園を、建設させなければならないのです。この責任を完遂するために、歴史過程を摂理された神であるのですから、歴史の終末段階に処している我々とは、切っても切れない数知れぬ関係を持っているのです。

 従って天が動ずれば自分も動じ、天が静ずれば自分も静ずることができる基準を、心の本性のなかに持っていない人間は、歴史を蹂躪する者であり、神の所望に背反する者になるのです。


 神の決心

 全宇宙の運行の法度は、天倫の原則に従っており、この運行の中に全体の目的を成すための摂理があるとすれば、神もこの摂理の運行法度を通さなければならず、また人類もこの運行法度を経てゆかねばならないのです。であるなら今、私一自身を民族のまえに立てて考えてみなければなりません。

 この民族に対して運行されている神のみ旨が何であり、この民族を覚醒させるための神の決心が何であるを、皆さんは考えてみたことがありますか? ないというなら、皆さんは民族を天倫のまえに導くのを妨げる立場に立つということを、知らねばなりません。

 そして今日我々の心に悲痛なることがあるなら、この民族がいずれ行かねばならなこを行くために、一つの理念を中心にして団結した心で、闘争していないということです。また天倫に対して全世界人類が団結した立場に立っていないということが、天の哀しみであり、人類の哀しみであることを、皆さんは悟らなければなりません。

 そして今日我々は、自身がどんな立場に立っているのかということを、冷徹に分析して批判してみなければなりません。天は皆さんが民族のまえに自信をもって出て、自信をもって天倫に対することができる心の基となっているかということを、我々に問うておられるのです。

 神が人間に対して最大の所望があるとすれば、これが何であるか。まずこの地上にみ旨を成就させようという神の決心を、人間が果たしてくれることです。神は天地万物を創造する前に決心されたことがあり、この決心によって万物を創造されたのですが、この決心が未だにこの被造世界に実現されていないので、神は悲しみの歴史を経て来たことを我々は知っています。

 今このような事実を知る我々が、宇宙を隅々まで捜して見なければならないものがあります。これが正に神の決心です。我々はこれを捜し求めて、成してあげねばなりません。こうして神が抱かれる哀れさと悲しみを、解いて差し上げねばなりません。

 ですから今日我々はこのようなみ旨を中心に、一大革命の過程に立つという決心と、主義主張と覚悟を持たねばなりません。それでこそ神の悲しみを解怨することができるのです。

 神様は我々が知ることのない中で、ご自身が決心されたみ旨を地上の人間たちに知らしめるために、苦労の歴史過程を歩んで来られたのですが、これが今までの摂理歴史であることを、皆さんは知らねばなりません。

 神のこの決心をもって人間を代身する救世主が地上に現れ、すべての悪の勢力と対抗して、彼らを撃滅させなければなりません。このような使命を遂行する代表的な人間がこの地上に現れないなら、神のみ旨は成就されないのです。そして神の決心と、人間の所望の基準が、ある一日に連結されなければ駄目なのです。



 それゆえイエス様は「わたしは神と一体」であると主張されたのです。神とイエス様は二つではなく、一つだという言葉です。ここに神が喜ばれる条件ができたということを、皆さんは知らねばなりません。またイエス様は「神はわたしの父である。これに反対して阻もうとしても、わたしが感じ、決心しているこの内容は、何ら奪うことができない」と語られるほど、自負心を持っていたのです。即ち、イエスは命を失う覚悟をして、これを果敢に公表されたのです。

 神の決心を今日の数多くの信者たちに現すことが、イエス様の二千年の間の苦労の目的であったのです。神はイエス様を送られるために、六千年間の長い歳月を休むことなく、苦労されて来たことを、今日地上の我々は知らねばなりません。


 イエス様の決心と聖霊の役割

 今皆さんが天に対して出るならば、天のみ旨を代身すると決心していったキリストの性相を、皆さん自身の性相に代えて感じるときがあったかを、天は反問されるのです。

 イエス様はこの地上に来られ、三〇余年の生涯の間、言葉にもならない苦難の道を歩まれ、最後には十字架の道をゆく悲運の人生を送られたのです。ではあっても自身が持つ中心だけは、何ものも決して壊すことができない確固たるものとして、保たれたのです。

 それゆえイエス様は天に対する決心を、今日我々の心の底にまで植えつけられているのです。死がやってきても、弟子たちが背反しても、選ばれた民族が背反し、教会が背反しても、彼は創世全部が父の持つ決心の内容であると知っていたので、変わることのない立場を守ったのです。



 イエス様はこの地上で、自身の決心を分かってくれる一人の相対者を捜しだせなかったので、み旨を完全に成すことが出来ないまま逝かれたのです。この世においてイエス様を代身する、神を代身する決心を持つ人間がいたならば、神は彼の心情を通して直接的な権限を行使されて、統一の炎を燃やすことができたのですが、このような決心の所有者がいないゆえに、神のみ旨は成されていないのです。

 だからイエスには復活した後に、この地上に来た目的を代身する決心の主人公を再び立てるべき、責任が残っていたのです。それで自身の使命を受け継ぐ一人のお方を送ったのです。このお方が誰かといえば、人間のまえに現れた聖霊であるということを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは天の決心とイエスの決心は、誰において実を結ぶのでしょうか? 神は聖霊を通してご自身の決心を再度、人間のまえに現したのです。これをみ旨の主人公のまえに伝え、この主人公は新婦のまえに伝えてこれを足場にして、み旨の主人公が地上に臨在して一つの家庭に移し、家庭を中心とする親族、親族を中心に民族、民族を中心に国家、国家を中心に世界にまで移してゆくということが神のみ旨であることを、今日人類は知らないのです。信じている信徒たちさえ知らないのです。

 皆さんはイエスを信じ、聖霊によって神のまえに行くことができると、自信を持っていけますか? どんな苦難と犠牲があっても、またどんな誘惑が付いてきてもこれをはね退け、押し退ける神の心情を代身する決心と、イエスと聖霊を代身する決心を持っていますか? このような質問に、私はイエスを代身する心情と決心を所有していますと、自信をもって答えることができる人間にならなかったなら、イエスを背信し、イエスを売ったイスラエル民族よりも、さらに厳しい審判を逃れることはできません。

 なぜなら、イエス様のみ旨を受け入れなかった民族ですから、聖霊を苦労させ、聖霊のみ旨を受け入れない第二のイスラエル型の今日のキリスト教徒は、数多くの使徒たちを苦労させ、単に使徒たちのみならず、我々の数多くの先祖たちを苦労させたからです。このような苦労をさせている今日の我々ですから、我々がイエス様の持つ心情と決心を所有しないならば、神のまえに体面が立たず、イエスと聖霊のまえにも体面を立てることができなのです。のみならず、この時まで数多くの犠牲の祭壇を積んできた聖徒たちのまえにも体面が立たないのです。これから責任を果たさない人々が、自らを嘆く時が来ることを知らねばなりません。


 天の決心を所有しなければならない聖徒

 天は今日終わりの日にあって、我々に要求しているのです。イエス様と聖霊も我々に向かって訴えているのです。父の実体になり、父の決心を所有する人間になり、これを蹂躪するサタンを撲滅させる勝利の主人公になることを、神はこの時間も苦待されているという事実を、皆さんの骨と肉に染みて体恤しなければなりません。こうして「天が抱く決心を私に相続させてくださり、血がとびちる祭壇の過程を経ても耐えてきた使徒の決心を私にください」とする資格を持たねばなりません。ではなくて天国に行こうというなら、それは間違いであることを、我々は再認識せざるを得ない時が来たのです。

 現下のキリスト教を覚醒させなければならない責任が、我々にはあります。神の決心とイエス様と聖霊の決心と自分が連なって、一つの実体になって現れたなら、歴史を支配する権限を行使することができるのです。

 先に読んだ聖書の御言にはソドム、ゴモラに審判を下された神の切ない心情が現れていました。神様はその都に向かって審判をしようとされる時、愛するアブラハムの甥のロトがいました。神はロトが審判を逃れるようにしました。ロトが立派でソドム、ゴモラの審判が避けられたのではありません。神様はアブラハムを愛されていたので、何の苦労した功績もない甥にまで、審判を逃れるようにされたのです。ではあってもロトの家庭全体が神の心情を分かっていたかというと、そうではなかったのです。

 ロトと彼の二人の娘は、神様が避けようとされた所に逃げたのですが、ロトの妻は神のみ旨が何であるかを知らなかったのです。彼女が天のみ旨に対する決心や、み旨に対する配慮、または天に対する恐れよりも、自分たちの暮らした家とその環境を慕って振り返ったことが、ソドム・ゴモラよりもまず神の戒めを受ける他ない条件になったのです。

 人間には必ず歩むべき道があるのですが、この道がどんな道かといえば、天倫のみ旨に従っていかなる困難も覚悟して歩んで行く道です。これが堕落した人間が歩むべき運命の道なのです。ロトの妻も、自分のすべてのものを捨てて行く決心がつかなかったので、死んでしまったのです。神の命令を受け入れていった自分の夫を、神の代身者として信じて夫がやれという通りにしたなら、彼女は決して死ぬことはなかったのです。

 神が摂理歴史をなさる過程においても、神はご自身の心情を代身する人間を立て、ご自身を信じないとしても、その人間の言葉を聞いても決心ができるようにされるのです。ところがそれさえできない人間は、審判を避けることはできません。

 我々自身を見てみれば、堕落した宗族ですから経てきた悲しみがあるのです。大きな神のみ旨に対して最善を尽くしたく、自分の心身を祭物にして、新たな決心をして行動に移したい心は暗黙のうちに感じているのですが、この決心を断行できないわけは、我々が堕落の宗族であるからです。

 アダムとエバは自分たちを創造されて「取って食べてはならない」と言われた神の御言を心の奥深く納め、その御言と自分たちは離すに離せない一つの結合体と考えて、変わらぬ決心を持ってすべての万物を主管する責任が、自分たちにあることを実感したら堕落することはなかったのです。

 アダムとエバが堕落するようになったのは、エバがアダムと一つにならなかったからであり、またアダムが神と一つにならなかったからです。こうして各自がバラバラに分立してしまい、自由気儘、自由自在の環境において自分勝手に振るまって、創造理想の園を台無しにしてしまったのです。終わりの日にもやはり、神を中心にした決心を立てないで、自由主義を叫ぶ自由陣営も壊されてしまうのです。天地の道理がこのようになっているのです。

 神を代身すべきアダムが、どこの誰がみ旨を破るように誘惑したとしても、自身は絶対にそのみ旨を破らないと決心してエバを主管し、天使を主管したなら、堕落することはなかったのです。まず堕落したエバがどんなに自分を籠絡しても、アダムがその誘惑の言葉を聞かなかったら、アダムは死ななかったのです。もしもアダムが堕落しなかったら、エバはいくらでも再び創造することができるのです。

 天に背反したために天倫と遠くなり、許された御言とみ旨を自身の心に一つの中心として立てることができなくなって、アダムはアダムなりに、エバはエバなりに、天使長は天使長なりに分かれてしまったのです。こんな宗族になった我々は、今日信じていたことが明日は信じられず、この時代に信じていたことが次の世紀には信じられなくなり、次の世紀に信じたことが、その次の終わりの日には信じることができない環境になってしまうのです。

 神の解怨のための決心の主人公

 それでは神の案じることが何でしょうか? 天の悲しみが何でしょうか?「わたしが六千年の間、ひどい逆境と苦難の過程を経てきて苦労して、このようにおまえ一人を捜し求め、今やおまえに出会ったので安息できることよ」とされて、エデンの園で天使長に語ることができなかったその内容を、安息できる場において語り、ご自身の心境を吐露することができる一人の人間がいないことが、神の悲しみであることを知らねばなりません。

 我々はアボジを求めており、信仰生活をしてはいても、神が安息できる環境を持っていないのです。こんな立場にある我々は、行けば行くほど心の焦りを避けることができず、どんなに優れていると威張っていても、終わりの日が近づけば近づくほど、心の不安感を免れることができないのです。こうして個人的であれ、社会的であれ、国家的に、そして世界的に難しい立場に処しているのです。

 それでは終末時代に、いきなりやって来るこの恐怖と不安を押し退ける人間が、どこにいるでしょうか。人間を代身して大胆に出るのではなく、天倫を代身して大胆に出ることができる決心の主人公はどこにいるでしょうか。天はこんな人間を捜し求めているということを、知らねばなりません。

 神がアダム家庭を失うことによって、アダムと通じる創造本然の家庭を失ってしまい、同時にアダムと通じる親族と、アダムの血族を代身する民族と、アダムを中心とする国民と、アダムを中心とする天国の民をみな失ったのです。しかしながら神はこの失われたすべてのものを、再び捜し求めておられるのです。

 神はこの民族全体を求め、世界まで捜すために、まず一個人から初めて家庭・社会を捜し立てようとされるのです。これを基として民族型から世界型まで、さらにはこの世界全体を求めるために、神は摂理されておられるのです。

 神は一面では闘い、またあるところでは犠牲となって、歴史過程を通してこれを捜し求めて来られたのです。このような裏面で個人的な形態を得て、アダムを代身する家庭・親族・民族・国家・世界をこの地上に建設されておられるのです。

 ですからアダム家庭を失ったこの一つの事実が、アダム一身のみの悲しみではなく、アダムの血統を通して千秋万代の全人類にまで及ぶ悲しみであることを、皆さんは生活圏内において痛切に感じるのです。こんな状態で安逸を望み、安楽を享受しようとする人々がいても、こんな安逸で安楽な生活はいつまでも続かないことを、知らねばなりません。

 我々は恐怖の関門を前にして、これを越えるべき立場にあることを知らなければなりません。このような時を、いわゆる「審判の日」というのです。

 神はこんな恐怖を無くするために、選んだ一人の人間を立てた後、彼を中心とする民族を立て、この民族を再び世界の先頭に立てるために、今日まで切なく摂理されておられるという事実を、皆さんは知らねばなりません。

 これから天の国を建設することができる民族は、大きな民族ではありません。今日世界を支配している民族でもありません。天国主権を回復して、第二天国を建設しようという民族は、大きな民族ではありません。神様は何ということのない所に、隠密に天国を建設する作業をなさるのです。

 そんなわけで、神のみ旨に背反する人々は良い暮らしをしているのに、神のみ旨を受け入れる人々はむしろ食べず生きられない、こんな反対の現象が起こり、人類の闘争の歴史は今日まで継続しているのです。なぜならば神に対する心情を失った人間ですから、再び神が信じられる立場を復帰するには、このような過程を経なければならないからです。であれば神が六千年の間苦労されたこの苦難が、一時に自分にぶつかって来ても、これを乗り越えられる自分にならねばなりません。自分の命を失う恨があってもその前に屈しない決心の主人公になって、天が代表して出す一存在として、立たねばなりません。


 天に向かう決心を抱いて生きた先祖たち

 神様はそのような世界的な代表としてイエスを送られたのであり、そのような人間を立てるために数多くの我々の先祖たちが苦労の道を行ったのです。アダムが失った家庭を求めるためにアダムの代身、不信の心を持つその宗族と民族を蹴散らし、天に対して信仰の決心を抱く一人の人間が召命されたのですが、この人間がノアなのです。

 ノアは一二〇年間、天が引っ張っても引っ張っても変わらない決心を抱いていたので、これがアダムよりも素晴らしかったのです。アダムは未成年の時に堕落したことを、我々は知っています。アダムが神に背反したゆえに、神が再び信じられるためにアダム以上の苦労をするなら、何百倍の苦労をするとしても、これを貫いて行かねばなりません。

 ノアは自分の一身、自分の家庭、自分の親族、自分の民族、さらには自身と因縁を持つどんな世界万象が反対したとしても意に介せず、一瞬の決心を最後まで守ってアボジを抱えて一二〇年間闘ったことが、神を代身してこの時の人類のまえに立つ条件になったことを知らねばなりません。

 洪水審判を逃れて神の恩賜の圏内にいたノアにあって、何よりも重要なことは、神の心を持つこのノアの心を、受け継ぐ人間がいなければならないということでした。しかしノア自身も、このような事実を知らなかったのです。

 ノアが一二〇年の間苦労してこの切なく悔しい路程を経て、天倫を案じたその心を代身して、ノアの手を握って「お父さん、何なりと私に命じてください」とすることのできる一人の息子がいなかったのです。それゆえ一二〇年の間苦労して造った祭壇は、崩れてしまったのです。

 神に対して、真心を尽くす決心を抱くノアであることを、ノアの八人の食口が知っていたなら、死んでも生きてもノアのまえに絶対服従して、父が死ぬなら自分も死に、父が良いなら自分も良いという立場に立たねばなりませんでした。そうであったら他の物の数でもない内的な条件がしみ付いていたとしても、神を中心にして心情を結束させれば何の問題もないのです。ハムは父のノアの言葉を聞かなければなりませんでした。兄弟たちが何かの話をしても、父のみ旨に外れていれば聞いてはならなかったのです。彼が聞かなければならない言葉は聞かず、聞いてはならない言葉を聞いたので、ノアの一二〇年の苦労は無になってしまったのです。

 アブラハムも同じでした。アブラハムが故郷と自分の持ち物をすべて捨て、カルデアのウルの荒漠たる荒野に向かって去って行ったのも、やはりたやすいことではありませんでした。神のみ旨を知った後、アブラハムは人知れぬ決心を抱いて住みなれた故郷山川と、自分の親族もみな捨てて、カナンの地を求めて行ったのです。

 その後、アブラハムが故郷を捨てて神のみ旨一つを案じる、その心を最後まで捨てることなく、全勢力を注いで祭壇を守ったのも、ここに失敗があってはならなかったのです。祭物を捧げる自分が凄まじい立場であることを知り、自分の信仰のすべて、ある勢力のすべてを注いで、神と一致するという決心を持っていったのです。そして自身は小さな祭物であっても、自身の理念を立てて、全体の天倫のみ旨を代身する立場で神に対し、至誠みつる心で祭物を捧げたなら、ここで失敗することはなかったのです。

 祭物に失敗したアブラハムは、再び神のみ旨を受け継ぐために、祭物の代身にイサク献祭が必要であったのです。言い換えれば、アブラハムの心と一つになっている息子の姿を求め、ノアの心と一つになっている姿を求めなければならないのです。それでアブラハムは自分の心と、息子の心が一つに結実することができる立場を求めていったのです。


 背反されても変わらない決心の価値

 こうしてイサクをモリヤの山頂の祭壇にのせ、刃で刺そうとした場面で、死の祭物を代身するという天の認定を受けたのです。イサクも父のまえに服従したのであり、アブラハムも父のまえに服従して、彼らは天倫の指向する方向へ向かうことができたのです。

 その後イサクを経てヤコブのときに至って、ヤコブを中心にして初めてアダム家庭を代身し、ノア家庭を代身することができる基準を捜し立てたのでした。こうして初めて三代の親族形態を持つ七〇人が、カナンの地を離れてエジプトへと入って行ったのです。

 言い換えれば、息子から孫まで、地上に三形態の親族的な形態を持つ土台によって、彼らはサタン世界のエジプトに入って行ったのです。ところがこのように、個人から家庭、そして親族的な環境を立てた後にも、彼らは平安な道を歩んで行ったのではありません。親族的な七〇門徒を代身する彼らは、また再び民族を造成するための民族的な闘いを展開して、神を中心とする民族を形成しなければならない試練の舞台に上がったのです。これがパロ宮中四百年の苦役期間であることを、皆さんは知っています。

 この苦役期間に選ばれたイスラエル民族は、昔自分たちの先祖が神を恨んで神のみ旨に背反したことを後悔して、再び神を慕う心に帰ってゆかねばなりませんでした。こんな心が強ければ強いほど、イスラエル民族は激しいエジプト苦役に勝って団結して、六〇万をまるごと率いてカナンの福地へと入って行く道が、たやすく開くのです。

 ですから、エジプトで苦難を受けるイスラエル民族を導くべきモ-セも、パロ宮中で四〇年の間人知れず心中苦悶して、民族を愛する民族精神に燃えていったのです。ところがエジプト人を打ち殺したことが、結局荒野でもの寂しい牧者の生活をする動機になったのです。このような立場に処したモ-セは、エジプト宮中の豪華であったすべての栄光を捨て、逆にミデアンの荒野の苦役生活が近づいたとしても、変わらぬ心を抱いて自分を愛する心よりも、神のみ旨を案じる決心を持ったのです。

 荒野のあらゆる風雨にさらされる悲しみを味わってもこれを押し退け、民族から追われても神を抱えたモ-セの変わらぬ決心があったがゆえに、民族が難しい事情におかれ、モ-セがこのような困難の環境におかれても、民族が団結するようになったのであり、天はモ-セを立てて摂理することができたのです。

 ある民族を再び選んで国家として立てるためには、世界的な試練のまえにこの民族を追い込んでおいて、攻撃戦を展開させることが神の摂理の方法なのです。ですから神を中心とする一つの国家建設のために来られるメシアは、選ばれたイスラエル民族のまえに反対されるのです。復帰過程のゆえにそうなるのです。

 アダム家庭において、アダムに従うべきエバがアダムを打ち、ノアに従うべきノアの息子がノアを打ち、イスラエル民族六〇万大衆がモ-セに従うべきなのにもかかわらず、モ-セをミデヤンの荒野で追ったのです。このような歴史過程を経ていったので、イエス様が主人公として来られるとき、選ばれた民はイエスのまえに新婦格であるのに、むしろイエスに反発したのです。

 天倫の法度を知るイエス様はイスラエル民族から追われ、ユダヤ教団からも追われました。自身の親族に追われるだけでなく、天が選んだ洗礼ヨハネの一団からも追われ、従う使徒たちからも追われ、天と地を与えても替えられない三弟子からも追われました。それでも彼らを抱え、天のまえに連れてゆくイエスの事情があったということを、誰が知っていたでしようか。アダムがイエスのような事情にあって、エバの持つ凶悪な欺瞞と誘惑があってもこれを手折るべき立場にあったのと同じように、イエス様の立場も民族を捜し求めなければならないのです。モ-セがイスラエル民族のまえに追われて荒野の生活をしたように、イエスが民族のまえに追われるなら、世界のまえにも追われなければならない立場におかれることを、知らねばなりません。

 もしもこのように「民族が背反し、教団が背反しても、自分のアボジに対する一片丹心を誰が奪ってゆけようか。自分が立てる決心のまえには、天が立てた洗礼ヨハネが背反したとしても問題ではなく、自分に従っている弟子が背反したとしても問題ではない。さらには自分の肉体が問題ではなく、この決心があれば悲しい事があっても悲しまず、哀れな場であっても哀れな表情ができない復帰の運命に責任を負うイエスの心情を、今日我々は知らねばなりません。

 天に対する一つの決心を持って、祭物であることを満天宙のまえに押し立て、人間が反発しても崩れることなく、霊界にある千々万聖徒と、今日空中権勢を握っているサタンが総動員しても、奪われることのないそんな決心があるので、ここから歴史的な転換点が起ってきたのです。

 決心の相続

 こうして霊・肉共に実体的な勝利の基台が、世界的に起らなければならないのです。復活したイエスを中心に第二の決心を弟子たちに与え、霊界カナン復帰理念を立ててこられたことを、皆さんが知らねばなりません。

 イエス様は世界人類のためにこの地上に訪ねて来られました。世界の人々はイエスのまえには息子の立場、即ち相対的な立場にあるのです。エバがアダムを蹂躪し、イスラエル民族がモ-セを追い、祭物がアブラハムを讒訴し、ノアの息子がノアを追ったように、世界のキリスト教は行く所々、世界のいたる所で追われ、悲惨な路程を逃れることはできなかったのです。

 今日世界に広がっている第二イスラエルの祝福が、イスラエルを中心にして成就されなかったので、第二イスラエルとして選ばれたキリスト教徒を立ててこの怨恨を解き、天と地を復帰しようとされるのです。神は天宙復帰のみ旨を成就するために一人の中心人物、一つの中心民族、一つの中心国家を求めているということを、皆さんは知らねばなりません。

 なぜそうかというと、六千年の間苦労してみ旨に対してきたのですが、イエスが死ぬことによってノアも、アブラハムも、モ-セも、失敗した形になったのです。イエス様お一人が逝かれることによって、復帰摂理が完成を見ないことになってしまったのです。こうして今日、楽園にある霊人たちは失った第一イスラエルを復帰しようとされたイエス様のみ旨のための足場を築き、されに回復のみ旨を霊的に成就した型の、霊人たちなのです。選ばれたイスラエル民族が、元来第一イスラエルにならねばならないのですが、第一イスラエルが崩れてしまったので、第二イスラエル型が、霊的復帰の過程に留まっているのです。

 イエス様を失って結ばれた神の怨恨は、今日第二イスラエル型に属する霊界の霊人たちによって解かれるのです。第一イスラエルを選ばれた神のみ旨は、イエス様が成さねばなりません。それでこそ神に結ばれた怨恨の心情を、解くことができるのです。それゆえ今第二イスラエルを動員して、霊界の霊人たちを動員して、第二イスラエル回復運動に拍車をかける時が、終わりの日であることを皆さんは知らねばなりません。

 それでは今日世界に広がっているキリスト教徒たちは、どんな時代に処しているのか。モ-セの荒野四〇年路程に、匹敵する時代に処しているのです。モ-セがシナイ山に登って石版を受けるために祈祷した期間に相当し、イエスが昇天して以後、二千年の歴史過程は、モ-セの四〇日の断食期間に相当し、四〇年の荒野期間に匹敵するのです。またモ-セがいないことを見て、イスラエル民族が切なかった状況に匹敵するのです。

 このキリスト教は再び現れるモ-セを迎え、何をしなければならないのでしょうか。荒野のイスラエル民族は昔の旧約の御言、モ-セの十戒の御言を受けるべきが受けず、歓喜の心情を持たない民族になったのです。モ-セにおきましては、民族がモ-セの背反者になってしまったのですが、我々は天が願われる道を捜し求めなければなりません。こうして第三イスラエルの場を求め、勝利して世界カナン復帰の理念を成就しなければなりません。そのためには新しい御言を受け入れる覚悟を、持たなければなりません。

 モ-セの決心が、六〇万大衆の決心にならねばならないのです。今日、世界に広がっている第二イスラエルの祝福を受けるべきこの民族、あるいは世界人類とクリスチャンたちはイエスの決心を受け継いでいないので、モ-セのとき荒野でサタンがイスラエルの六〇万大衆を籠絡したように、今この時代もこんな時代にきているのです。

 これを見やってみるとき、今日わが肉体に血肉がおどり、わが心に何かを感じる皆さんであるなら、皆さん自身が忠誠を尽くしていかなければなりません。イスラエル民族がモ-セに出会うまでは、食べることも忘れ、着ることも忘れ、眠ることも忘れなければならないのに、そうではなかったのでイスラエルがモ-セを失い、すべてのみ旨が崩れていったことを忘れてはなりません。

 これと同じく、イエス以後の二千年間は荒野時代です。イエスを失ったキリスト教信者たちは、食べることも忘れ、着ることも忘れ、悔しいことにも憤りにも耐えに耐え、歯を食い縛ってイエス様に出会う時まで、かってモ-セの歩みの跡を死守しなかったことを、反対に蕩減復帰して、我々はイエスの歩みの跡を死守するイスラエルにならねばなりません。ところがこんな立場に処している今日のキリスト教徒が、自分たちにそんな使命があるということを、知らないでいるのです。


 終わりの日の現象と聖徒が抱くべき覚悟

 時が近づいてきたので、この時を準備しなければならない過程において、選ばれた民族を異邦の国に渡されるのです。皆さんが学んで知っているように、イスラエル民族がメシア降臨準備時代を迎えるために、イエス様が来る六世紀前に準備する期間として、バビロニア捕虜時代があったのです。

 イエス様再降臨六世紀前から、文芸復興運動を中心としてキリスト教を破壊させる世界的な攻勢が起こってきたのです。この闘いの路程を今日、世界のキリスト教信者たちはどのように対処しなければならないでしょうか? これを防ぐ責任を果たすために、我々がまず覚醒しなければなりません。

 一四世紀から一六世紀に至る時代において、文芸復興運動が誘発されたことは、人々が昔のギリシャの古代文明を研究して、新しい復帰理念を得ようとしたからです。このように革新的な文化の一面を起こさせたように、今日終わりの日を迎えている聖徒たちも、歴史を回顧して二千年前のイエス様の心情を体恤できなければならず、また堕落前のアダムとエバと神の心情を体恤して、心を革新しなければならない時が来たのです。

 み旨に対する直前のアダムとエバに、天使長の攻撃があったように、ノアにも、モ-セにも、イエスにも、み旨が現れなければならない末日の聖徒たちにも、このような攻撃が現れるのです。これはサタンの攻撃です。まずは物質的な攻撃があり、その次には情的な攻撃時代が来るのです。このような時代性が今日の我々のまえに展開されているのです。こんなキリスト教の歴史がある国、ある民族を通して進展する時、その路程は公式的な原理原則によってなってゆくのです。

 世界がキリスト教を外的に反対する、そんな時代がありました。この時代には昔イスラエル民族に反対したエジプト民族型が現れ、第二イスラエル民族のまえにモ-セのような人物が現れる時、民族が団結して彼を追い出す現象が現れるのです。

 それでは終末時代の信仰者は、全部どのようになるのでしょう? 我々の周囲においては、エジプトの地のような事が起こるのです。今日我々が生きている現実は、エジプト苦役時代を彷彿させる状態です。のみならず、象徴的にも実体的にも、あるいは信仰的に、すべての面において侵犯されざるを得ないような状態になってゆくのです。

 一時選ばれた選民の志操をもって自分たち同士が抱き合い、外部から来る悲しみを押し退けるためのイスラエルの団結運動があったように、今日のキリスト教徒たちにもこんな運動がなければならないのです。教派に依存する者や、自分の教会の年輪を自慢する者はユダの一派になるのです。モ-セの命に従って、カナン探偵から帰った十二支派の中で、ヨシュア・カレブに反対した十支派があったように、今日このような形態が起こらないと誰が言い切れるでしょうか? このような時が、我々の目前に迫っているのです。

 それでは我々は今、自身のすべてのものを忘れて出なければなりません。また、ソドムゴモラが受けたような審判を避けるためには、ロトの家庭が歩んだ足跡を我々の鏡としなければなりません。ヤコブがハランの地からカナンの地に帰る時も、すべてのものをみな捨てて出たのであって、我々の歩みもヤコブのような歩みでなければなりません。またイスラエル民族がエジプトの地を離れる時、すべての未練をはね退けて出たように、我々もそうでなければならないのであり、イエスがすべてのものをみな捨てて、十字架の道を独り越えて行ったように、我々もそんな道を行くという決心を持って行かねばなりません。 このような覚悟と決心を、すべての万物万象のまえに押し立てる資格を持つ人間がいますか。天はそんな資格を持つ人間を求めていることを、皆さんは知らねばなりません。今日世界に広がっている新教が、旧教に追われた過程は、哀れなモ-セの過程を反復するような現象なのです。


 キリスト教徒の使命 

 今荒野のようなこの世の中を開拓する、新しい使命者が出なければならなりません。今日のキリスト教で満足しては駄目です。イスラエル民族が荒野の生活でモ-セの身辺を守らなかったように、新教の出現の時もそうでした。新教が現れたのですが、荒野生活の形態で認定されなかったことが、モ-セの事情と同じでした。終わりの日にもこのような形態によって、神のみ旨が進展するということを、皆さんは知らねばなりません。

 モ-セとイエスは、人間的に見れば哀れな人々です。モ-セとイエスを考えるとき、皆さんの血肉に通じる感じがありますか? 皆さんの心に、モ-セとイエスが身のおく所もなくさまい歩いた、その歩みを考える一時がないとしたなら、モ-セの四〇日シナイ山断食祈祷の時に流した切なく哀しい涙を売り渡す、天倫の背反者になるのであり、荒野で倒れたイスラエル民族のようになるということを、皆さんは知らねばなりません。

 イエスの哀しい心情を我々が体恤して、第一イスラエルと、第二イスラエルが成せなかったことを、成就しなければなりません。これを成就しようとして来られたイエス様の哀しい心情と歩みを、皆さんは分かりますか?

 宇宙的な理念のみ旨を成すために「霊界の霊人たちよ! わたしが彼らの所願を解いてあげます。地上の万人よ! おまえたちの祭物になります。空中の権勢を握るサタンたちよ! おまえたちを捕虜にして、天の審判台に引きあげ、讒訴するのだ」という決心を持って、時代が変わり世界が変わっても、人間の主義主張がすべて変わっても、わたしは変わらないとされたイエス様の気概と忠節を、今日皆さんが持たねばなりません。このように時間性を越え、生涯の理念を越え、天倫の理念に通じる心的な覚悟と決心の基がなっていないとするならば、神のまえに無条件に従わねばなりません。でなれば審判を免れることはできません。

 シナイ山に登ったモ-セのまえに、イスラエル民族が無条件に服従したならば、彼らは乳と蜜の流れるカナンの地に入ったのです。またイエス様のときもそうであり、今日終わりの日もそうなのです。皆さんの前途には、人生全体の価値を決定すべき時が訪れているのです。我々が死ぬまで神のみ旨ただ一つに責任を持ってゆくという心で、天を代身してゆくことをアボジも望み、イエスと聖霊も望み、我々の先祖たちも望んでいることを、皆さんは骨髄に染みて感じなければなりません。

 こんな事実をまえにして、我々自身を振り返って見れば、自分を中心とするこの肉体が怨讐であり、自分を中心とするわが家庭が怨讐なのです。ノアにあっては家庭が怨讐だったのであり、ヤコブの家庭においては宗族が怨讐であり、その次に国家形態においては世界が怨讐でした。神はこのような歴史路程を歩んで来られ、今も数多くの山場々々を回り回って、ある中心人物が倒れれば他の人間を立ててでも、また繰り返さなければならない事情に処しているのであり、皆さんはこのような神の体面と威信を立てることを知る人間にならねばなりません。

 ある個人の力だけでは、神のみ旨を成すことはできません。神様は世界に分散する一つの民族形態を、捜し立てる包囲作戦をして来られるのです。こうして個人から家庭、宗族と民族を捜し立て、神を中心とする国家形態を得なければならない時が来たのです。

 それゆえ今日、全世界キリスト教十二支派を再創建すべき時期が到来しているのです。荒野に広がったイスラエル民族に班列があったように、世界キリスト教徒たちが班列を編成して、サタンに対する攻撃戦を展開しなればならない時代が来ているのです。これを知らないでいるクリスチャンたちは、荒野のイスラエル民族がモ-セが導く方向を知らなかったのと、同じ立場に立っていることを知らねばなりません。


 団結して強く雄々しく進べき時

 今我々は、手に手を取って行くべき共同運命におかれているのです。十二使徒の中でイエス様を売ったユダ一人によって十二使徒を蹴散らし、イエスを殺してしまったように、我々も同じ運命におかれることもある立場なのです。それゆえ我々の教会の食口たちは、すべてがこの時の決心がわが決心であり、この時の心がわが心であるとして、み旨のために一つになることができる班列的な、形態を持って行かねばなりません。そして紅海を渡り、荒野を過ぎてヨルダン川を横切り、カナン七族を全滅させなければならない我々の闘いの基が、残っていることを知らねばなりません。

 従って今、我々は歴史的な使命持って、これを蕩減復帰していかなければなりません。今までの祭壇では神が「捧げよ」とされたのですが、今は神様が「受け取ってください」とする祭物がなければなりません。

 天倫の決心が内的・外的な決心の実体として現れ、この決心を中心にして家庭と競い、その家庭を復帰しなければならず、教会を覚醒させ国家、民族を覚醒させて復帰しなければなりません。このような場面において自分が暮らしている家庭、社会、国家、教会が、そして自分が願い望んでいるこの世界が、我々を怨讐視することは不可避なことです。

 今日皆さん自身は、家庭と社会において迫害を受けています。ところでこの迫害に勝ったからといって喜ばないでください。この後の荒野時代にいろんな困難が襲いかかって、攻撃戦が起こってくるその闘いで、皆さんが倒れては駄目だというのです。天倫の運勢は一度打たれて越えなければならないので、世界的な復帰過程においてキリスト教を打つのです。外的に打ち、内的に打つそんな時が来るのです。第二イスラエルを動員する時代が来たので、霊界が動員されるのです。天にある霊界が動員され、世界的な第二イスラエルを世界的に広げておいて、第三イスラエル民族を建設しているのです。

 それではイスラエル民族が荒野でさまよって人が知らない物、他の国の人間が知らない物、誰もが想像できない命の食料を食べたように、今日皆さんはこんな時代に、天が降らすマナとウズラを食べることを知る人間にならねばなりません。今これからは不毛の時が来るゆえに、マナとウズラを求めてさまよう時が来るのです。

 今復帰の園を建設すべき時が来たので千辛万苦、肉が裂け骨が砕ける恨があったとしても、天倫のみ旨一つのために「アボジよ! 霊界の千々万聖徒たちよ! 役事してください」と叫ばなければなりません。イスラエル民族は霊界を動員しなかったのですが、我々は霊界を動員しなければならない時が来たのです。ですから皆さんには霊界の協助があるのです。我々食口は、霊界の霊人を呼べば来るのです。ですから今日、神霊役事が沢山起こってくるのです。

 我々は自分一身を立て、自分の家庭と民族、世界を動員すべき使命、またサタンをアボジのまえに屈伏させるべき最後の使命が、我々に負わされていることを知らねばなりません。ところで我々がいつ自分一身に対する試験、家庭に対する試験、教会に対する試験、社会に対する試験に勝ったかというのです。このような試験に勝つという覚悟を持ってこそ、天的な使命を完遂することが出来るのです。

 神がヨシュア・カレブに強く雄々しくあれとされましたが、今我々にも強く雄々しくあれという時が来たのです。皆さんは手に手を取って、心と心を合わせ、サタンと闘って勝利を勝ち取らなければならない時が来たことを肝に銘じ、強く雄々しくならなければなりません。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.03.05 23:59:20
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