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東京からBAR好きの友人が遊びに来てくれたので、「久しぶりに、京都でBAR巡りを楽しもうか」と相成った。「さて、どこへ行きましょうか? 行きたいところ、ありますか?」「いやいや、お任せするよ」。そんなやりとりもあって、この夜出逢うBARは僕がチョイスすることに。 こういう機会には、リスクもあるけれど、まだお邪魔したことのない店を中心に攻める。期待外れだったというようなリスクはあるが、素敵な店に当たったときの喜びは大きい。 1軒目。烏丸御池から北東へ少し行った、閑静な家並みのなかにある「Bar Rosebank」(写真左上)。オープンして2年ほどのまだ若い店。マスターのMさんはまだ30代前半だけれど、京都の老舗Bar・K6出身の実力派。 店名から分かるように、Mさんは今はなき蒸留所(銘柄)である「Rosebank」に殊の外、強い思い入れがある。だから、ボトラーズ(独立系瓶詰め業者)での「Rosebank」の充実ぶりは凄い。 しかし、それよりも驚いたのは店内のインテリアのおしゃれなこと。普通のBARのような木目調の内装はあえて廃し、長い石のカウンター半分ほどに、右端から左端まで、本物の「せせらぎ」が流れている(せせらぎの水は循環するようになっている)。 そして、せせらぎの中に、1本の赤いバラ(写真右上)。それがスポット・ライトを浴びている。もう、なにをか言わんやである。せせらぎは、Rosebank蒸留所のそばを流れる川をイメージしたという。僕らはただただ、感心するばかり。 さて、2軒目。京都と言えば町家である。最近は町家を活用したBARも多い。そんななかで、前々から一度お邪魔したかった寺町通近くのBar「やなぎ野」(写真左)を訪ねる(「やなぎ」は「木へんに亜の下の横棒がない字」だが、パソコンの辞書でもなぜか出てこないなぁ…)。 表通りの町家の門灯にかろうじて店名が読みとれる。それだけが目印。細い路地を突き当たり、左に折れると坪庭があり、小さな離れがある。それが目指すBARだ。 シンプルな空間と聞いてはいたが、ほんとに究極のシンプルさ。白木のカウンターの上には何もない。バックバーもない。ただ壁に一輪の花が飾られているだけ(写真右)。店名はマスターの珍しい苗字からとったとか。 まだ時間が早かったせいか、僕らは初めての客だったよう。しかし、6、7人も入ればいっぱいになる。聞けば、来年早々、近くに移転する予定とか。もちろん、次に行く場所もまた町家だとか。楽しみだ。 3軒目。木屋町の三条を少し下がった処。「コルドン・ノワール」(写真左)というオーセンティックBARを訪ねる。ここはかつては「Main Bar」という老舗があった場所だが、「コルドン…」もオーナーは同じだから、姉妹店ということか。 「Main Bar」は今は祇園・縄手筋の南方へ移転したが、落ち着いた店の雰囲気は「コルドン…」にもきちんと受け継がれている。良心的な料金で楽しめるので、また来たい。 4軒目。10年ほどご無沙汰しているBARがあった。そこで、久しぶりに訪ねたのが「コルドン…」から、歩いてすぐの距離にある「Noily Bar」(写真右下)。ここも京都では今では老舗に近い存在かも。 ビルの6階。カウンターからはガラス越しに京都の夜景が見える。飾り気のないBARだが、居心地はとてもいい。でも居心地がいいからと言って長居はできないのがBARホッパーの性分。 5軒目。「コルドン…」で合流した友人の友人(京都市在住)が、「お連れしたい店がある」と言うのでタクシーで一緒に向かったのは、「Chez Quasimodo」という店(写真左下)。二条通と高倉通が交わった処から北へすぐ。角地の町家にその店はあった。フランス料理店みたいな店名だが、そこは、れっきとしたオーセンティックBAR。 温かい暖色系のライティングに包まれた店内。初めての人間には、中がそんな素敵な空間になっているとは、外からはとても想像できない。ジャズとシャンソンを愛するマスターは、物腰が柔らかく、優しそうで、親切を絵に描いたような方だ。気が付けば、店の片隅にアップライトのピアノが1台。当然、少し弾かせてもらった僕。どこか友人の家の応接間にお邪魔したような居心地の良さ。ここももう一度ゆっくりと訪れたいBARだと確信した。 さて、6軒目。もう時間(終電)も、体内のアルコールもそろそろ限界。で、最後の「締め」に、河原町方面へ戻る。最後に選んだBAR「文久」(写真右下)も町家の路地の奥。三条通りから二筋ほど北へ。 この頃になると、若干(いや、かなり?)酩酊気味。どうやって店にたどり着いたのか記憶が飛んでいるが、「やなぎ野」と同様、非常に見つけにくかったということだけは、はっきりと覚えている。 「文久」も小さなBAR。聞けば、花屋の蔵を改造したのだという。店名も、文久年間(1861-1864)に創業したという花屋にちなむ。店(蔵)はたぶん10人も入ればいっぱいの広さ。でも、幸い客は少なく、僕らは極上の時間を過ごすことができた。 京のBAR巡り。最後は、京都バーテンダーたちが注文して造らせたというオリジナルなモルトを頂いて、締めた。友人は「(京のBARを)十二分に堪能した」と言った。僕も、彼以上に堪能したかもしれない夜。千年の都は、夜の街も、訪れるたび新しい発見がある。 【Bar Rosebank】京都市中京区間之町通押小路上ル 075-222-0114 【Bar やなぎ野】寺町通姉小路西入ル 253-4310 【Bar コルドン・ノワール】木屋町通三条下ル 212-3288 【Noily Bar】木屋町通二条上ル 221-2932 【Chez Quasimodo】二条通高倉東入ル石屋町 231-2488 【文久】河原町通三条上ル2筋目東入ル 211-1982(営業時間、定休日等は各店へお問い合わせください)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/31
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ジャズのヴォーカル・アルバムでは聴くのは女性歌手が多くて、男性歌手のアルバムはわずかしか持っていない。別に男性を毛嫌いしているわけじゃないんだけど、ジャズの歌ものは、なぜか女声の方がしっとりくる。 そんな男性ジャズ・ヴォーカルだが、トニー・ベネット(Tony Bennett)だけは別格で、アルバムをいくつか持っていて、比較的よく聴く。 ベネットはあまり奇をてらった歌い方をしない。原曲のメロディーを大切にしながら歌う、正統派のジャズ歌手と言ってもいいだろう。 だから、安心して聴ける彼のアルバムは、ジャズ・ヴォーカルの入門アルバムとしてはぴったりかもしれない。 1926年8月、米国ニューヨーク生まれというから、ことし80歳。10歳の時からステージに立っていたというから、音楽生活はなんと70年! 「霧のサンフランシスコ」(写真右下=同名のタイトルのアルバム)という大ヒット曲の生みの親。そして、80歳にしてなお精力的な音楽活動を続ける偉大なエンターテイナー。その彼が、超豪華なデュエット・アルバムをつくってくれました。 10月24日に発売されたばかりの国内盤(タイトルもそのものずばり「Duets:An American Classic」)=写真左上=を、早速買い求めました(輸入盤には歌詞が付いていません。だから買うなら絶対国内盤!)。 この「Duets」、1曲を除いてすべてデュエット。とにかく共演しているアーチストの顔ぶれが凄い! 長いキャリアもあって、他のアーチストから尊敬されているベネットだからこそ実現できたアルバムだろう。 ポール・マッカートニー、バーブラ・ストライサンド、ジェームス・テイラー、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、セリーヌ・ディオン、ダイアナ・クラール、スティービー・ワンダー、エルビス・コステロ、スティング、ボノ、ジョージ・マイケル…と、まだまだいるんだけど書ききれないので、あとはCDを見てください。 曲は、ベネットが長年歌ってきた美しいスタンダードからの選曲だから、文句なし。唯一、スティービー・ワンダーとは、スティービーの曲「For Once In My Life」を歌っているけれど、これがまためちゃいい感じに仕上がっている。 ベネットは全編とてもリラックスした感じで歌っている。歌の合間には、共演者にジョークを飛ばしたりと実に楽しそうな録音。その雰囲気がまたいい(円熟っていうのはこういうのを言うんだろうなぁ…)。 しかも20曲も(輸入盤は19曲)入っていて、定価は2520円だから、凄いお買い得感! ジャズ好きな方はもちろん、日頃ジャズを聴かない方でも、きっとお気に入りの1枚になること保証します。 最後に一つ。ベネットと言えば、以前にブログのトップ・ページで紹介したビル・エバンスとのヴォーカル・アルバム「The Tony Bennett/Bill Evans Album」(写真左)も不朽の名盤。名曲「My Foolish Heart」をこれほど美しく歌い上げた歌手を、僕は他には知らない。まだ聴いていない方はぜひこちらもどうぞ! 80歳にしてなお輝き続けるトニー・ベネット。何歳になっても音楽への情熱を失わず、新しい挑戦をする。僕も、彼みたいなおじいちゃんになりたいなぁ。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/28
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東京でBAR巡りをし始めた20数年前には、まともな東京の「BARガイド」など、まだ1冊もなかった。 だから、BAR好きの友人やカウンターで出会ったBAR好きの酔客に教えを乞うたり、バーテンダーさんから老舗を1軒ずつ教えてもらったりしながら、「マイ手帳」に店のリストを増やしていった。 手帳は用紙が差し替え式(今どき「化石」の「8穴タイプのシステム手帳」!)になっていたので、ホルダーを更新しながら、用紙を追加しながら、現在でも(20年以上も!)大切に使っている。 その手帳の最初の方のページには、当時、銀座で回り始めた店の名前が並ぶ。「クール」「サン・スー・シー」「スミノフ」「うさぎ」「蘭」「あんて」「ルパン」「モンド」「カーネル」「よ志だ」「ダンボ」「ダルトン」「JBA・BAR」…。 名を挙げたBARのいくつかは、今はもうその姿がない。バブル期の地上げで店を追われたところ、後継者難で店を閉じたところも、そして「クール」のように一代限りで見事に幕を引いたところもある。それぞれである。 そんな銀座のBAR巡りのきわめて初期に出合った一つに、「いそむら」(写真左上)という店があった。これぞ銀座という格調高い老舗の1軒だった。そう頻繁にお邪魔したわけではないが、印象深いBARの1軒だった。 BARというよりも、英国の伝統的なパブのような、落ち着いた雰囲気。とくに「日本で初めてギネスを扱った酒場」というのが「いそむら」の自慢の一つだった。 そんな「いそむら」が半世紀近い歴史(1954年開店だったという)を閉じたという話を伝え聞いたのは3年ほど前(写真右=昔もらった「いそむら」のマッチ。他の老舗のマッチとともに額に入れて飾っている)。 「あぁ、また老舗が消えるのか…」と残念がっていた昨年末、ある雑誌で、マスター「磯村さん」のお弟子さんの藤本さんが、店の内装などをほとんどそのまま引き継ぎ、店名だけを「舶来居酒屋・ふじもと」と変え、再出発したという嬉しい記事を読んだ。 店の名前は変わっても、「いそむら」のスピリットは「ふじもと」に受け継がれた。なによりも老舗の店そのもの(内装)が残ったことが嬉しい。新装のBARでは、どんなに素晴らしくても老舗の味わいは望むべくもない。 「いそむら」時代から、名物のカツサンドも健在という。「舶来居酒屋」という冠を付けたのは、若い世代にも、老舗の良さを感じて、味わってほしいというマスターの心意気の表れだろう(写真左=看板は「ふじもと」と変わっても…)。 今度出張の機会には、生まれ変わった老舗BAR「ふじもと」にぜひお邪魔して、あの「いそむらスピリット」を肌で感じてみたい。【舶来居酒屋・ふじもと(旧Barいそむら)】東京都中央区銀座8丁目5-15 SVAXビルB1F 電話03-3571-6957 午後5時~午前2時(土曜は午後10時半まで) 日祝休(お値段は“銀座料金”。予算は2杯で5千円くらいは覚悟を)。【追記】理由はよく分かりませんが、残念ながら2007年2月末で閉店されたとのことです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/25
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スコッチモルト・ウイスキーのなかで、僕がとくに好きなのはシェリー樽熟成のモルト、そしてもう1種類、アイラ島で生産されるスモーキーでピーティーなアイラ系モルトだ。 アイラ島のウイスキー蒸留所と言えば、ボウモアやラフロイグ、ラガヴーリン、アードベグなどが有名。とくにボウモアとラフロイグは、日本のBARでも今では置かない店はないくらい親しまれている。 アイラ・ウイスキーには他にもカリラ、ブルックラディック、ブナハーブンという銘柄があり、そして今は閉鎖中のポート・エレンを入れても計8銘柄しかないというのがこれまでは常識だった。 中身が不詳の「フィンラガン」(カリラともラガヴーリンとも言うが…?)というアイラ銘柄もあるが、これは独立系瓶詰め業者(ボトラーズ)の商品だから、独立した蒸留所とは言えない。 他にも、「アイリーク」とか「セブン・アイルズ」とかいう銘柄もあるが…。これは確か、ヴァッティド・モルトだったよねぇ…?。 そんなアイラ島に、「新しい蒸留所が出来たという話、知ってますか?」と先日、あるバーテンダーの方に教えてもらった。 ブルックラディック蒸留所よりもさらに西、アイラ島の最西端、ロッホサイド・ファームという町に出来た「キルホーマン(Kilchoman)」という蒸留所(写真左上&右 ( C ) 日記で使用した写真4枚はいずれも同蒸留所のHPから拝借。多謝です!)がそれ。 ウイスキーマガジン誌などの情報によれば、同蒸留所は、大手資本には属さない独立したベンチャー資本による、小規模な経営スタイルをとるという。 自家農園で大麦も栽培し、ポットスチルはアイラ島の伝統的な形を再現したものを使い、初溜では手間のかかる石炭直火炊き方式を採用するとか。 興味深いのは、ラフロイグやスプリングバンクの元マネジャーがコンサルタントとして協力していること(写真左=KIlchoman蒸留所の熟成倉庫。樽の蓋が青いのが特徴的だ)。 ラフロイグのような超スモーキーなモルトを目指すのか、スプリングバンクのような、やや濃厚で、潮っぽい感じのモルトを狙うのか、それとも中間的な雰囲気を追求するのか、想像するだけで楽しい。 ただし開設されたのは、まだ昨年(2005)の6月。一番樽を仕込んだばかりというから、商品化されるのは早くても2010年以降だろう。 今のところは、同蒸留所のホームページでも見ながら、アイラの新顔誕生への期待に胸を膨らませるしかない。 一足早くこの蒸留所を訪れた日本人の方のブログに紹介されていた報告によると、いちおう観光客を受け入れるビジター・センター(写真右)は備えている。 しかし、センターには試飲用や土産用やウイスキーは当然まだないので、お菓子のようなものを売っているだけだったとか(ちょっと寂しいねぇ)。 果たしてどんなアイラモルトが誕生するのか。市場にお目見えする日まで、健康でお酒が飲めるように僕も頑張らなくてはならないなぁ…。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/22
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神戸のオフィスに先日仕事で立ち寄った後、同僚らと中華街(南京町)で軽めの夕食。その後、1軒BARをはしごした後、僕は同僚らと別れて、ひとり南京町からさらに南の「海岸通」方面を目指した。 「あのBARは今どうなっているだろうか?」とふと、思い出したから…。「店じまいした」という噂あるが、それが本当かを確かめたかったこともある(写真左=こんな暗い路地の奥に素敵なBARがあるなんて…)。 神戸に行っても、この港に近いエリアまで来ることは今では少ない。オフィスや小さなブティックやカフェばかりで、夜は人通りの少ない、静かなエリアになる。 だが、昔、20数年前、神戸で仕事していた頃は、夜は結構華やかだった。外国人船員相手の酒場、いわゆる「外人バー」が数多く集まる歓楽街としても知られていた。 海外からコンテナ貨物船が着くたびに、陸(おか)に上がった船員たちが集い、店内からは賑やかな声が、さまざまな国の言葉で、表通りまで漏れ聞こえてきた。国籍はデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ギリシァ、イギリス、タイ、フィリピンが多かった。 表のドアに「日本人お断り」と掲げた店が多かった。日本人は船会社の関係者くらいしか出入りできなかった(店が、外国人船員と日本人客とのトラブルをおそれたためらしい。)。そんな「外人バー」の名残りを伝える酒場は、今では数えるほど。朝着いたコンテナ船が夕刻にはもう出港してしまう現在、船員たちは陸に上がって酒場に癒しを乞うこともできない(さびしい時代になった…)。 いま、元町界隈の酒場には外国人船員の姿はほとんどなく、BARで目立つのは日本の若者ばかり。かつての「外人バー」はさびれ廃れ、今残る店はほとんどが「日本人もウエルカム」だ(写真右=怪しげな灯りがいいなぁ、このエントランス)。 僕がこの夜思い立ち、向かったのは、そんな昔の「外人バー」の1軒、「チャーリー・ブラウン(Charlie BRown)」という店。通い始めたのは20数年前。マスターは、「キディ」という愛称のデンマーク人(男性)だった(本名は「キディ・プリスコフ(Kidde Priskov)」と言った)。 彼自身、デンマークの船会社の船員だったが、縁合って訪れた神戸を気に入り、そのまま居ついてしまったらしい(そういう外国人・元船乗りは神戸に実に多かった)(写真左=とりあえず通りに面した青いネオンが目印)。 中華街から南へ歩いて数分。一見さんは絶対に見逃しそうなビルとビルの間の実に細い、暗い路地の奥に、その酒場はあった。紹介者と一緒でなければ、勇気が出ず、とても入れないようなロケーションにある。 まさに「究極の隠れ家BAR」と出合い、僕は一目惚れした。キディは日本語は少しは話せるのに、無駄口も愛想もほとんどなしという静かな男だった。僕には、そんなキディの所作がとても格好よく映った。神戸を離れた後も、年に数回は、キディの顔を見に訪れた。決して珍しい酒があるわけでもない。ただその怪しげな空間が何よりも好きだった。だから、一緒に連れて来る人は、大切な人に限った。 そんな「チャーリー・ブラウン」だったが、突然の病(後に知ったが、白血病だったという)がキディを襲う。闘病中も時々店に出ていたが、少しつらそうな姿で接客していた。そして1994年、別れを言う間もなく天国へ旅立ってしまった。まだ50歳の若さだった。キディの早すぎる死は、この酒場を愛する人間に取って、むごすぎる現実だった。彼が入院中、そして亡くなった後もしばらくの間、彼の妹と言う女性がカウンターを守った。 さらにその後も、関係がよく分からない外国人男性が店を仕切っていたが、キディのいない「チャーリー…」には、しばらくは近づく気が起きなかった(写真右=ドアを入ってすぐ右にはキディが愛したジュークボックスが…今も)。 しかし、僕の若き日の思い出が染みついた「チャーリー…」。この夜に躊躇はなかった。随分と久しぶりなので、店への道順も若干忘れ気味だったが、何とかたどり着けた。 店には常連らしい年配の女性客が1人。カウンター内には、初めて見る高齢の女性が1人いた。頼んだウイスキー味わいながら、僕が昔、この「チャーリー…」によく通ったことやキディという名のマスターがいた思い出などを話した。 すると、その女性が僕に近づいてきて、「私、キディの妻だった人間です。律子と言います」と話した。生前、キディは家族などプライベートなことは一切口にしなかった。長く日本に定住していたので、考えてみれば何ら不思議ではないのだが、彼に日本人の奥さんがいたことは少々驚きだった。 聞けば、キディさんよりは9つ歳上で現在71歳という。シャイだったキディの思い出や近所の外人バーの「その後」などを語り合いながら、僕は律子さんと素敵なひとときを過ごした(写真左=上等な高い酒は置いてないけれど、実にあったかい雰囲気)。 「キディ、素敵な店を残してくれて有難う。貴方の残した財産は貴方の愛した人にしっかり守られ、今も輝いているよ」。帰り道、僕は天上のキディにそうつぶやいた。【Bar Charlie Brown】神戸市中央区海岸通1丁目2-15 電話なし 午後7時くらい~11時半 不定休
2006/10/19
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BAR巡りをするには、空きっ腹では身体に悪い。だからいつも、まず、どこかで適度に胃袋を満たしてからBARへ出かける。 その「どこか」は最近は居酒屋が多い。例えば、大阪だと天満や京橋でまず腹ごしらえをして、それから新地や曽根崎へ繰り出す。 そんな「面倒臭~い動線」(関西以外の人には、地理的関係がよく分からないでしょうが、お許しあれ!)で、飲み始める。 大阪市内でも、ディープな阿倍野や新世界だと、先日(8月25日の日記で)紹介したような「明治屋」など、そんな場所に最もふさわしい。 神戸だと、三宮や元町の高架下に連なる居酒屋が僕のお気に入り。元町の「丸玉食堂」の豚足&焼きそばなんて、最高の組み合わせだ。 では、京都だとどこでスタートするか。日本料理の本場では、居酒屋はなかなか成立しにくい土地柄ではあるが、それでも探せば美味しい店はある。 最近の僕のお気に入りは、四条河原町交差点から西へ少し歩いた、新京極にある。四条通りから北へ折れて数分、新京極の商店街にある「スタンド」という店(写真左上&右)。 1928年(昭和3年)の創業というこの居酒屋。一歩店内に入ると、貴方はすぐ昭和20~30年代にタイムスリップしたような気分になるだろう。 現在の建物は、創業する以前の明治30年代のものらしい(元は「カフェ」か「大衆食堂」だったとか)。 「スタンド」自体の創業地は少し離れた場所にあり、その後しばらくして、現在地へ移ってきたのだという(写真左=味わいあふれる手書きのお品書きがぶら下がる)。 お値段は当然、涙が出るほど良心的。普通に飲んで食べた場合は、千円札が2枚もあればお釣りが来るから嬉しい。 昼間から開いているのもいい。3時くらいから、常連さんが1人、2人と顔を出す。 客のほとんどは1人でやってくる。そして、ひとり酒を味わい、さまざまなアテを楽しむ。 アテの豊富さも魅力だ。和風のアテはもちろん。ビーフンやシューマイなど中華系のアテも充実している(写真右=歴史の重みを感じさせる木製のレジスターは必見!)。 ちなみに、一番人気の名物メニューは「かた焼きそば」(これが1人前が優に2人分ほどの量がある)で、これを頼むお客さんが多い。 一年中、日本全国からの観光客であふれる京都。しかし京都の魅力は、寺社や京料理や祇園&舞妓さんだけではない。「スタンド」のような、素顔で、気さくな京都の一面も、知ってもらえたら嬉しい。【スタンド】京都市中京区新京極通四条上ル中之町546 電話075-221-4156 午後零時~午後9時 火休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/16
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好きなジャズの曲の「ベスト30」には、必ず入るであろう名曲の一つに、「Misty(ミスティ)」がある。「Look at me…」という歌い出しで始まる美しいスロー・バラード。 この曲を演奏し、歌わないジャズ・ミュージシャンはまずないというほどの有名な歌であり、今ではジャズ・スタンダード曲の定番中の定番(写真左=「Misty」の初演が収められたアルバム「Plays Misty」)。 そして、この曲をつくったエロル・ガーナー(Erroll Garner)というジャズ・ピアニストは、大げさな言い方をすれば、この1曲だけでジャズの歴史に名を残すことになった。 1921年6月ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。1954年、ガーナー33歳。レコーディングのため、ニューヨークからシカゴに向かう飛行機の機内、ガーナーは窓の外に見える虹にインスピレーションを得て、あるメロディが浮かんだという。それが「Misty」だった。 ただ、これも有名な話なのだが、正式な音楽教育を受けたことのないガーナーは楽譜の読み書きがほとんどできなかった(もっとも60年代以前に登場した黒人ジャズ・ピアニストには、貧しさが故に、音楽教育を受けられず、ほとんど独学でピアノを習得した人が少なくない)。 ガーナーは機内で浮かんだメロディーを必死で覚えて、シカゴで泊まったホテルのピアノで早速完成させたという。そして、よほど気に入ったのだろう。その「Misty」はアルバムの1曲目に選ばれ、タイトルも「Plays Misty」となった(写真右=実物のガーナーは結構男前です)。 発売されアルバムと名曲「Misty」は評判を呼び、翌年には早速、ジョニー・バークという人が詞を付け、59年にはジョニー・マティスが歌って大ヒット。ガーナーの名も広く知られることになった。 ほとんど独学でピアノを習得したガーナーの弾き方は独特。左手のバッキングに、少しタイミングをずらしたように入る右手のソロ(「ビハインド・ザ・ビート」というそうだが…)(写真左=1955年発表の「Concert By The Sea」も名盤として知られてます)。 もたもたした演奏という印象を持つ人もいるが、これはガーナーならではのスイング感とも言える。素朴で枯れたようなタッチとノリの良さは、他のどんなピアニストにも出せない味わいだ。 ガーナーは77年、56歳で死去した。僕がジャズを聴き始めるようになる直前だったので、彼の名前を知ったのも、その後随分たって後。「Misty」初演の入ったアルバムを聴いたのも、恥ずかしながら90年代に入ってからだ。 「Misty」はしばしばソロで弾く、大好きな1曲だ。ヴォーカルの人や、トランペットの人と一緒に演奏したこともある。もちろんガーナーの味わいにはとても及ばないけれど、いつか、少しでもガーナーっぽい「Misty」が弾けたらと願っている。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/13
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神戸には、今はもう姿を消した伝説的なBARがいくつもある。「ルル」「ギルビー」「サンシャイン」「マダムマルソー」「キングズ・アームズ」…そして、忘れてはならないのが「コウベハイボール」(「神戸ハイボール」ではなく、こう名乗った)。 その多くは、バブル期の地上げや後継者難で、さらに、追い打ちをかけたあの阪神大震災での被害のために、閉店を余儀なくされた。そうした伝説的なBARに出入りする機会が持てた私はある意味幸せだったが、店がなくなってしまった今では、寂しさばかりが募る。 とくに、最後に名をあげた「コウベハイボール」。私が神戸で仕事をしていた頃、勤め先があったビル(神戸朝日会館)の地下にあったので足繁く通った、とても想い出深いオーセンティックBARである(ついでに言えば、同じビルの地下にあった「銀串」という焼鳥屋にもよくお邪魔した。老夫婦が営む味わいある店だった)。 「コウベハイボール」は昭和29年(1954)の開業。店は平日、午後3時にはオープンしていた。私は夕方を待ちかねたように、同僚らと会社をそっと抜け出しては地下へ下り、スイング式のドアを開けた。スタンディングのカウンターはいつも、6時前にはもう客が溢れていた。 大阪キタにある「北新地サンボア」で先日、そんな「コウベハイボール」の想い出話をしていたら、お店の方が「昔の写真、ありますよ」と数枚のプリントを見せてくれた。セピア色の写真には、もっとも円熟していた頃の「コウベハイボール」(写真左上)と、マスターの河村親一さん(写真右&左下)が紛れもなく写っていた。 この古き良き酒場の情景を皆さんにも見て欲しいと思って、接写させてもらったのがこの日記でも紹介した3枚。どれも、私にとっては、懐かしさで涙が出そうなほどの情景だ 河村さんはいつも白いバーコートに蝶ネクタイというスタイル。あまり笑わない、寡黙なマスターだったが、仕事は何もかも超一流だった。お店の名物の「ハイボール」は、きんきんに冷やしたサントリー・ホワイトとウイルキンソン炭酸でつくる。 今はなき「神戸サンボア」の歴史を受け継いだお店とあって、河村さんは氷なしのサンボアスタイルを継承したが、これが絶妙の旨さだった(当時1杯確か400円)。ついでに言えば、付きだしで供されるカレー風味のピクルス、これがまた美味だった。 酒場でのマナーにも厳しい人だった。大声を出したり、騒いだりする客には厳しく注意したし、スタンディングのカウンターはできるだけ多くの客が飲めるようにと、いつも気を遣い、客に声をかけていた。は、この「コウベハイボール」でBARという場所での大人の飲み方や、酒場でのマナーを学んだと言っても過言ではない。 「コウベハイボール」は、入居していたビル(朝日会館)の建て替えにぶつかった1990年、惜しまれながら、半世紀近い歴史に幕を閉じた。当時まだ68歳の河村さんだったが、後継者がいないこともあって建て替え後のビルには入らず、一代で店を閉じる決断をした。 最終日には、「コウベハイボール」に通い詰めた客たち(僕もその場にいた)が、古き良き酒場に悲しいお別れをした。私は友人らと費用を出し合い、河村さんに花を贈った(河村さんは1995年頃、一度お会いしたが、その後の詳しい消息は知らない)。 「コウベハイボール」のバック・バーの棚は幸い、しばらくの時を経て、冒頭、写真を見せてもらった「北新地サンボア」(大阪市北区曽根崎新地1-9-25 電話06-6344-5945)に移設された=写真右(オーナーのSさんの情熱のおかげだ)。 大阪に、「コウベハイボール」の想い出に浸れる空間があることはとても嬉しいが、個人的には、「コウベハイボール」という素晴らしい空間(酒場)がこの世から消えたことが痛恨というか、残念でならない。 古き良き酒場のない都会(街)には、私はほとんど魅力を感じない。人の匂いも、潤いも、温かさも感じられない、そんな街には私は住みたくない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/10
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きょうは極めてプライベートなことを綴ります。すみません。 愛しのペットだった「かんろ」(写真左)が天国へ旅立って、きょうでまる2年。 いわゆる「三回忌」になります。ついこの間のことのような気がするのに、 歳月は、無常に早く過ぎてゆきます(一緒に過ごした日々の記憶は今もしっかりあるのに…)。 ブログでの僕のハンドルネーム「うらんかんろ」も、ご想像の通り、 この「かんろ」ともう一匹の猫「うらん」(こちらは健在です)からきています。 かんろは、1998年春に隣の家に迷い込んできた雌のノラちゃんでした。 隣の家の人は、すでに猫(うらん)を飼っていた我が家に相談に来ました。「うちには犬がいるから駄目だし、保健所に連絡した方がいいかしら…」と。 けれど、あなたの顔を一目見た連れ合いが、「我が家に引き取ってあげよう」と言いました。僕も、「淋しがりやのうらんのいい友だちになれるかもしれないなぁ」と思いました。 「いい友だちになる」ということは僕らの期待通りにはうまくいきませんでしたが、 それでも2匹の猫はそれなりに仲良く、我が家で“共存”していました。 我が家に来たときは毛並みがぼろぼろだった「かんろ」でしたが、 毎日丁寧にブラッシングしてあげた効果もあって、そのうちつやつやの毛並みになりましたね。 しかし元々ノラ育ちだったこともあって、あなたの人間に対する警戒心は、最初なかなか解けませんでした(写真右上=暖かい窓辺でまどろむ「かんろ」)。 タンスの上に上がったまま、しばらく降りてきませんでしたね。あなたを抱っこしようとして、何度爪でひっかかれたり、猫パンチを食らわされたりしたことでしょう。 でも、歳月が経つうちにあなたの警戒心は徐々に和らいで、そのうち膝の上に乗ってくるようにもなりました。 大好きだったサンマの干物も、手渡しで喜んで食べてくれるようになりましたね。 冬の夜は、人間が使うひざかけの上で寝るのが好きでしたね(写真左=大好きだった椅子の上で。椅子は今もそのままです。)。 しかし、一昨年のきょう。夏頃から得た病のために、治療の甲斐無く、あなたは眠るように天国へ旅立っていきました。10月7日の早朝でした。 ノラ育ちが故、年齢は不詳でしたが、お医者さんは歯を見て「14歳くらいかなぁ…」と言っていたので、高齢だったことは確かです。 あなたに精一杯のことが出来たかどうか、あなたが我が家に来て本当に幸せだったのかどうか、今でも自信はありません(あなたと話が出来て、心の内が聞けたらどんなに楽しかったでしょうか)。 でも、あなたは約7年間、僕ら家族にすばらしい時間と優しさをくれました。本当に、本当に有難う。今ごろは、天国で元気に遊んでいるんでしょうね。何年経っても、「かんろ」はずっと僕らの心の中で生き続けていますよ。
2006/10/07
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月曜~火曜と、3月、6月に続き、ことし3度目の松山&宇和島出張。前回は到着当日にJRを乗り継いで宇和島入りしたのだが、今回は松山で出先の担当者と打ち合わせがあり、松山泊まり。 で、仕事を終えた後、早速、久しぶりに老舗BAR「露口」(写真右)へ。6月には寄れなかったので、約半年ぶりの訪問。でも、マスターの露口さんも奥さんの朝子さんも僕のことを覚えていてくれたのが、何よりも嬉しい。 「露口」は松山で一番落ち着けるBAR。何と言っても、マスターのさりげない接客と、いつもニコニコの奥さんの笑顔が最高。ここへ来ると、お二人の温かい人柄に包まれて、心から和(なご)める。「スターター」の酒場として、例によってジン・リッキー、そしてウイスキーのハイボールを頂く。マスターはこの夜、雑誌の取材を受けていてちょっと忙しそうだったが、それでも遠来の僕を歓迎してくれた。 なぜだか、同じサントリー・バーが出自の「十三トリス」の話になり、僕が「この間、創業50周年のパーティーが山崎蒸留所であったんですよ」と言うと、「うちもあと2年で50年なんですよ」とマスター。 「あんまり晴れがましいことしたくないのやけど、お客さんがお祝いやれーって言うてくれるけん…」と少し照れくさそう。2年後の祝宴には、僕もぜひ駆け付けたいなぁ…(写真左=店内の壁にはアンクルトリス生みの親・柳原良平さんが描いた露口さんご夫妻の絵や故・佐治敬三サントリー会長の書も)。 露口を後にした僕は、前回、BAR巡りの最後にお邪魔して、酔いが回って記憶が飛ぶというお恥ずかしい体験をしたこともあって、すぐ近くにあるBAR「信天翁(あほうどり)」へ。まだ時間も早いこともあって、僕が最初の客らしい。でもそのおかげでマスターの玉岡さんを独占できて、共通の知人である大阪のバーテンダーさんたちの話にあれこれ花が咲く。 せっかくだから、カクテルの名手でもあるマスターのカクテルをお願いする。最初は、「さわやかな感じのロングを」と注文。そして作ってくれたのは、「ウオッカ・ソニック」(写真右)というカクテル。 「ソニックって何ですか? 初めて聞きました」と言う僕に、「いやぁ、ウオッカ・トニックの変形版みたいなもんです。トニック・ウオーターとソーダを1:2にして割るんですわ。トニックだけよりも、甘さ控えめでさっぱりした感じになります」。 なるほど、確かにさっぱりしている。トニックが嫌いな人でも、これならきっと気に入るだろう。続いての注文は、最近あちこちで同じお願いをしているが、「僕のまだ飲んだことのないスタンダードを」。で、マスターが出してきたのはブランデー・ベースの「スティンガー」。ミント・リキュールが効いて爽やかだが、いかんせん度数が高い。短時間で飲み干すと、これは効いた! 「信天翁」でもリラックスできた僕は、今回は一軒行きたい場所があった。それはジャズBAR(ライブハウス)。「信天翁」から北へ歩いて5分ほど。「グレッチ(Gretsch)」(写真左下)という店だ。 ネットで知ったBARだが、マスターが気さくな感じで、素人ピアニストの僕でもきっと歓迎してくれるかなという淡い期待もあった。ドアを開け、カウンターに座った僕にいきなり、「出張ですか?」とマスター。やはり雰囲気で分かるんだろうなぁ…。 「はい、徳島にいた頃から、松山のジャズBARには一度来てみたかったんです」と僕。バーボンのソーダ割りを頂きながら、徳島で一度お目にかかった松山出身の女性ジャズ・ピアニストKさんの話などをする。 「Kさん、週いちでうちでも弾いてますよ」「えー!そうなんだ。今度は出演する日に来たいなぁ」「きょうはライブないんだけど、あしたならあるよ」「あしは宇和島なんです、残念です」。そんな会話をひとしきりしつつ、マスターとの距離も近づいた頃、僕はあつかましく「ピアノ、ちょっとさわっていいですか?」と尋ねる。客は幸い僕だけ。「いいですよ」とマスター。で、恥はかき捨てとばかりに3曲ほどソロで弾く。 いきなり店に来てピアノを弾くなんて、「こいつはいったい何者や?」と思われただろうなぁ…。マスター、一見(いちげん)の僕に優しくしてくれて有難う。また来るからねー。 さて、本日の締めに選んだのも初めての店。「信天翁」のマスターが教えてくれたBAR「れんが亭」(写真右)。うかつにも僕は知らなかったが、松山のBAR業界では知らぬ人はない老舗の一つという。 木のやや重いドアを開けるのは少し勇気が要ったが、見るからに愛想のいいマスターにひと安心。カウンター10席ほどのこじんまりした店内には、常連らしき客が2組。「信天翁のマスターに紹介してもらいました」と言うと、「それは、それは、ようこそ」とマスター。本日最後(?)の酒場ではモルトをゆっくりと味わいたいと思い、「余市」をストレートで頼む。 松山の夜は更けていく。この日の締めの2杯目は予定通りの「レッド・アイ」(ビールのトマト・ジュース割り。これを飲めば、翌朝はすっきり)。次回の松山は来年1月の予定。信天翁のマスターからはもう1軒おすすめBARを教えてもらったのだけど、それは次回にとっておこうっと。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/04
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