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オーセンティック・バーでも提供されることの多い自家製の「漬け込み酒」。実は何でもかんでも好き勝手に造れる訳ではなく、一応、法的な規制が厳然と存在します。バー業界のプロでも意外と知らないこうした日本国内での法的ルールについて、(以前にも一度書きましたが)改めて最新情報も含めてまとめてみました。ご参考になれば幸いです。 ◆2008年に自家製造のお酒の規制が緩和 バーUKでは、4種の自家製造の酒(しょうがを漬け込んだウオッカ、7種類のスパイスを漬け込んだラム、ザクロを漬け込んだカルバドス、レモンピールを漬け込んだリモンチェロ<ベースはスピリタス>)をお客様に提供していることはご承知の通りですが、友人やお客様から「それって、法律的に問題ないの?」と聞かれることが時々あります。 日本国内では、お酒を製造・販売(提供)するには酒類製造免許が必要です。お酒のメーカーが業として行う「果実や穀物などの原料から酒類を製造する行為」だけではなく、バーや飲食店等がお酒に様々な材料や他のお酒等を混ぜ合わせる「混和」という作業も、法的にはお酒の製造(新たなお酒を造っている)と同じ扱いを受けます。そして、アルコール分1%以上のお酒はすべて課税されます。 従って、バーや飲食店が無許可で自家製のお酒を造って提供するのは、基本、違法行為です。違反した場合は、酒税法第54条《無免許製造の罪》の規定に該当し、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(単なる無許可販売の場合は1年以下の懲役又は50万円以下の罰金=同法第56条)。 しかし現実には、許可を得ることなく自家製の果実酒等を提供している飲食店は、昔からありました。様々な果実やスパイス、ハーブ、コーヒー豆、茶葉等を漬け込んだ自家製のお酒を「店の名物」にしているバーも少なくありません。厳密に言えば、2008年の法改正までは、こうしたバーや飲食店等での「製造・提供行為」は限りなく「違法」行為でした。 国税庁もこれ以上「違法状態」を放置できないと考えたのか、それとも実態に合わせて少し制限を緩和すべきと考えたのか、2008年<平成20年>に租税特別措置法(酒税関係)が改正され、特例措置(例外規定)が設けられました。それは「客等に提供するため酒類に他の物品を混和する場合等、一定の要件を満たせば、例外的に酒類の製造に該当しないこととし、免許や納税等が不要となる」という特例です。 この結果、例えば「焼酎で作る梅酒」「しょうがを漬け込んだウオッカ」「ウオッカにレモンを漬け込んだリモンチェッロ」等は、酒類免許がなくても、バーや飲食店は法的な裏付けを持って堂々と製造し、提供することが可能になりました。 一方、個人が自分で飲むために造る酒(例えばよくある梅酒づくり等)は、かなり昔からとくに法的な規制はなく、旧酒税法(1940年<昭和15年>施行)でも禁止する規定はありませんでした。すなわち、個人の場合は事実上「黙認」状態でしたが、1953年<昭和28年>に施行された新・酒税法で初めて、「消費者が自ら消費するために酒類(蒸留酒類)に他の物品を混和する場合は新たに酒類を製造したとは見なさない」とする特例措置(酒税法43条11項)ができ、めでたく法的にも認められることになりました。 ◆使用が禁止されている穀物や果実に注意 このバーや飲食店等を念頭に置いた租税特別措置法の特例措置についてもう少し詳しく説明しましょう。適用対象は「酒場、料理店等、酒類を専ら自己の営業場において飲用に供する業」であり、具体的には、下記のようないくつかの条件を満たす必要があります。(1)酒場、料理店等が自己の営業場内において飲用に供することが目的であること(2)飲用に供する営業場内において混和を行うこと(3)一定の蒸留酒類とその他の物品の混和であること ※酒場や料理店等が客に提供するために混和する場合だけでなく、消費者(個人)が自ら消費するため(又は他の消費者の求めに応じて)混和する場合も、この「特例措置」と同様の規制を受けます。 また、使用できる酒類と物品の範囲は、以下の通り指定されています(この規定は個人が自分で飲むために造る場合も順守する義務があります)。(1)混和後、アルコール分1度以上の発酵がないもの(2)蒸留酒類でアルコール分が20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのもの(具体的には連続式蒸留焼酎、単式蒸留焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ<ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ等>、飲料用アルコール)(3)蒸留酒類に混和する際は、以下に示す禁止物品以外のものを使用すること (イ)米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん、又はこれらの麹 (ロ)ぶどう(やまぶどうを含む)=【末尾注1】ご参考 (ハ)アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料、又は酒類のかす (ニ)酒類(※国税当局に問い合わせたところ、「蒸留酒、醸造酒を問わず、ベースの蒸留酒と同一の酒類以外の市販の全ての酒類を指す」とのこと) ※なおこの特例措置は、前記のように店内での飲食時に提供する場合に限られ、お土産として販売するなどの客への譲り渡しは出来ません(個人が自宅で造る場合も、同居の家族や親しい友人等に無償で提供することはできますが、販売することは出来ません)。 ◆蒸留酒はOK、醸造酒はダメ 以上のように、例えばバーや飲食店等でよく見かける梅酒は、「蒸留酒である焼酎やウオッカ等(アルコール度数20度以上)に漬け込む」のはOKですが、日本酒は「醸造酒であり、通常アルコール度数も20度未満」ですから、二重の意味でNGです(まれに、度数20度以上の日本酒も存在しますが、バーや飲食店で提供する場合は「蒸留酒」しか使えないのでやはりダメです)。 また、梅酒に自然な甘さを出したいからと言って、氷砂糖の代わりに「麹」を使うのも「(3)の(イ)に抵触する」ため、当然NGです。また、ぶどう類を原料にして自家製ワインのようなものを提供すれば、ベースが醸造酒・蒸留酒等に関係なく、完全に違法行為となります。 さらに、年間に自家製造できる量の上限も、営業場ごとに1年間(4月1日から翌年3月31日の間)に1キロリットル以内と決められています(バーUKの場合は、4種類全部合わせても、たぶん月間で最大2~3リットルくらいなので、全然大丈夫です)。なお、この特例措置を受ける場合は、所管の税務署に特例適用の申告書を提出しなければならないとされています(バーUKも一応、申告書を提出しております)=【末尾注2】ご参考。 ◆「自家製サングリア」の提供は基本NG 気をつけなければいけないのが「自家製サングリア」です。サングリアとは「ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだワインカクテル」のこと。アルコール度数も低く、フルーティで、お酒が苦手な女性にも飲みやすいので、「自家製サングリア」を食前酒やカクテルとして提供するバーや飲食店も少なくありません(私も何軒か知っています)。 しかし、ベースがワイン(醸造酒)なので前述した条件の「ベースが蒸留酒」にも「20度以上」というルールにも引っかかり、事前に漬け込むことが一般的なサングリアは、場合によっては「発酵」も起こるので、租税特別措置法の特例措置は適用されません。許可なく製造・提供すれば違法で、刑事罰(前述)が科せられます。 従って、現在の日本国内では、基本、自家製サングリアの提供はNG(違法行為)です。プロのバーテンダーの人でも、この規定を知らない人を時々見かけますので、本当に注意が必要です(ただし、自家製サングリアを公然と、あるいは内緒で提供していたというバーが国税当局に摘発されたという話は、個人的には過去聞いたことはありませんが…)。 なお、お客様が飲む直前にワインにフルーツを入れて提供するような場合については、「店舗内で消費(飲む)の直前に酒類を混和した場合(例えばカクテルのようなドリンク)は、そもそも酒類の製造に当たらない」という特例措置と同等に扱われるため、まったく問題ありません。 ◆目に余る行為でない限り、現実には「黙認」 くどいようですが、日本国内でお酒を製造するには、(そこがバーであろうとなかろうと)酒類製造免許(酒造免許)の取得が義務づけられています。なので免許を取れば、店内で自家製のビールやワイン、そしてサングリアを製造・提供することも法的には可能です=【末尾注3】ご参考。 しかし免許取得には、管轄税務署より「経営状況」「製造技術能力」「製造設備」等の審査、免許を受けた後も1年間の最低製造数量を満たしているか等の審査があります。製造しようとするお酒の種類ごと、また製造所(店舗)ごとに免許が必要です。普通のバーや飲食店等が独自で取得するのはかなり高いハードルがあり、そう簡単ではありません。 現状では、「自家製サングリア」を提供するバーや飲食店は時々見かけますが、それはかなりの部分で「グレーな行為」だと思われます。だが、国税当局は「年間通して常時、公然と一定量を提供したり、お土産で販売したりする」ような目に余る行為でもない限り、事実上「黙認」している状況です(いちいち摘発する手間も大変だからでしょう)。 個人的には、年に1~2度くらいの特別なイベント時なら、事前に申請すれば例外的に自家製サングリアの提供を認めてほしいと強く思います。しかし現状では、何かのきっかけで国税当局が厳しく規制してくることも十分考えられますので、まぁ基本的には、バーでは手を出さない方がいいと考えています。サングリアに近いアルコール・ドリンクを提供したい場合、前述したように、飲む直前にワインにオレンジやレモン、ライムなどのフルーツを加えるしかありません。 ここまで書いてきたことの要点(大事なポイント)をまとめておきますと、バーで提供できる自家製のお酒は、(1)20度以上の蒸留酒を使うこと(2)ぶどう類以外の材料を使うこと(米などの穀物類や麹もダメ)(3)店内で作り店内だけで提供すること(持ち帰り販売はダメ) ということです。この3つだけは常に頭に入れておきましょう。 ◆その場でつくるカクテルはOK では、バーの花形である「カクテル(Cocktail)」はどうでしょうか? バーでのカクテルは通常、お客様の注文を受けてその場でつくられ、飲む直前に提供されます。1953年に成立した酒税法には「消費の直前に酒類と他の物品(酒類を含む)を混和した場合は、前項の規定(新たに酒類を造ったものとみなす)は適用しない」(第43条10項)という例外規定があり、2008年の租税特別措置法の改正でも、この例外規定は受け継がれています。 従って、その場で作ったカクテルを提供することは全く問題ありません。提供の直前につくるカクテルなら、フルーツなどを混ぜても「発酵」することはあり得ないからです。また、店舗前のテラス、ベンチ等は、客がその場で短時間で消費する前提であれば、店舗内と同じ扱いとなります。ただし、店舗内・店舗前に関係なく、自家製酒や作ったカクテル等を容器に詰めたりして販売する(無償譲渡することも含む)などの行為は、「無免許製造」となるのでできません。 なお、個人が自宅においてカクテルを飲む直前につくる場合、家庭内で消費する限りは家族や来訪した友人にも自由に提供できますが、(別の場所に住む)他人の委託を受けてつくったりすると「違法」になるので注意が必要です(当然、販売行為もNGです)。 ◆「期限付酒類小売り免許」も一時制度化されたが… ちなみに、国税庁は2020年4月、コロナ禍で苦しむ飲食業を支援するため、バーや飲食店等が6カ月の期限付きで酒類の持ち帰り販売ができる「期限付酒類小売業免許」を新設しました(現在ではこの制度は終了)。昨年は、この「期限付小売業免許」を取得して、ウイスキー等を量り売りするバーもあちこちで目立っていました。 加えて、国税庁が「カクテルの材料となる複数の酒類や果実等を、それぞれ別の容器に入れて、いわゆる”カクテルセット”として販売することも、期限付酒類小売業免許を取得すれば可能」という見解を示したことを受けて、カクテルの持ち帰り販売(材料別に密閉容器等に詰めての販売)をするバーも登場しました。 ミクソロジストとしてバー業界でも著名なバーテンダー、南雲主于三(なぐも・しゅうぞう)氏は「期限付免許」を取得したうえで、自らの店舗で持ち帰り用のオリジナル・カクテルセットを販売されました。その後は、酒類製造免許を持つ会社とタイアップして、完成品の瓶詰めオリジナル・カクテルの販売(通販がメイン)も始められました。その南雲氏の体験談はとても参考になります(出典:食品産業新聞社ニュースWEB → https://www.ssnp.co.jp/news/liquor/2020/04/2020-0413-1634-14.html)。 ◆出来たこと・出来なかったこと ご参考までに、「期限付酒類小売業免許」で出来たこと・出来なかったことや許可要件等を少し紹介してみます。(1)瓶(ボトル)や缶のままでの販売は可能(※この場合の瓶や缶とはウイスキーやビール、ジン等の未開栓の商品を指す)。(2)来店時にその場で酒類を詰める量り売りも可。量り売りの場合、容器は客側が用意することが前提(店側が容器を用意する場合、容器代の伝票は別にすること)(3)来店前にウイスキー等の酒類を詰めておく「詰め替え販売」は、詰め替えをする2日前に所轄の税務署に届け出をすれば可能。(4)カクテルなどをプラカップに入れて蓋をして販売することはできない。(※ただし、事前にカクテルを材料別に密封容器に詰めておく「詰め替え販売」は、(3)と同様、事前に所轄の税務署に「詰め替え届」を出していれば可能)=【末尾注4】ご参考。(5)量り売りの場合はラベル表示は不要だが、詰め替えはラベルが必要。(6)2都道府県内にまたがる配送は不可。(7)酒税法10条(酒類製造・販売免許を得るための人的・資格要件)に違反していないこと。(8)新規取引先から購入したものは販売不可。既存の取引先からの酒類に限り、販売が可能。 ◆「期限付免許」は2021年3月末で終了 前述したように、期限付免許での「詰め替え届」が出ていれば、カクテルを材料別に密閉容器にボトリングまたは真空パックにしてセット販売することが出来ました。南雲氏は例えば、ジン、カンパリ、ベルモットを密閉容器に詰めて、オレンジピールと一緒にして「ネグローニ・セット」として販売。お客様も自宅で手軽に、プロ並み(に近い?)のカクテルが楽しめたのです。 南雲氏は当時、「小売と同じことをしても価値はない。バーにしかできない売り方が付加価値となります。例えば、ウイスキーのフライト(飲み比べ)セット、自家製燻製とウイスキーのマリアージュセット、クラフトジンとライムとトニックのジントニックセットなど、可能性は無限大です」と大きな夢を描いていました。素晴らしい取り組みだと思いました。 しかし、国税庁はこの「期限付酒類小売業免許」を2度の期限延長を経た後、今年(2021年)3月末を持って終了(廃止)してしまいました。4月以降も継続を希望する場合は、通常の「酒類小売業免許」を申請するように告知しています。コロナ禍がここまで長引くとは思わなかったということもありますが、せっかくの「期限付免許」はコロナ禍が収束するまでは存続させてほしかったし、一方的に終了してしまった同庁の姿勢はとても残念に思います。 その後も南雲氏は、日本国内のバーで、カクテルのデリバリー販売、テイクアウト販売が常時認められることを目指し、様々な団体やバーテンダーと連携して、国税庁への働きかける活動を精力的に続けられています。ぜひ応援していきたいと思っています。 ◆出張バーテンダーの扱いは? 時々見かける(そして、私自身もたまに依頼される)出張バーテンダーっていう営業は、出張先で用意された酒や材料を使ってカクテル等つくる場合においては、法律的な縛りはまったくありません(出張料理人・シェフも同じ条件ならば合法的な行為と見なされます)。厳密に言えば、食中毒を起こさないように注意する程度です。 ただし、出張先(店舗外)で提供するカクテルを、事前に作り置きして容器に詰めていくことはできません。租税特別措置法では、「当該営業場以外の場所において消費されることを予知して(事前に)混和した場合、特例措置にいう『消費の直前に混和した』こととはならず、無許可の酒類製造に相当する」とされています。 要するにバーにおいてのカクテルは原則として、「自らの店の中でつくって提供すること」「注文の都度つくること(作り置きすることはNG)」「注文した人が飲むこと」の3つの条件を満たす必要があり、出張先においても「(出張先は)自らの店と同じ扱いになる」ことも含め、この3条件を守らなければなりません。 以上、長々と書いてきました。2020年1月以降長く続くコロナ禍で、バーを含む飲食店は、非科学的なアルコール規制のために、苦境に立たされています。しかし、ピンチはチャンスでもあります。我々バーテンダーは、コロナ禍が収束した暁に、バー空間で味わうお酒の楽しさをお客様に実感してもらえるように、関係する諸法律には誠実に向き合いながら、より一層の創意と工夫を加えて新しい自家製酒やカクテルを提供していこうではありませんか。【注1】他の果物は混和してもいいのに、なぜ、ぶどう類だけは禁止になっている理由について国税庁は説明していませんが、おそらくは(正式の免許を受けて醸造している)国内のワイン用ぶどう栽培農家=製造業者の保護という観点があるのではないかと考えられています。【注2】特例適用申告書については、店で少量の自家製酒を不定期に提供している何人かのバーのマスターに聞いてみましたが、実際、個人営業の店で申告書を出しているところはそう多くないようです。現実には、少量で不定期ならば、国税当局も事実上「黙認」しているようですが、私は、妙な疑いをかけられるのも嫌なので、一応、法律に従って申告しています。 【注3】アルコール度数1%未満であればビールやワインを醸造するのに許可は必要はありません。市販の自家製ビール(またはワイン)製造キットがこれに当たります。なお、店内に小型の簡易な蒸留器を置いているバーを見かけることがたまにありますが、無許可でアルコール度数1%以上の蒸留酒を造る行為は「違法」になるのでご注意ください。【注4】南雲氏との2020年4月の一問一答で、国税庁酒税課は「カクテルは、仕様がグラスやカップ、プラカップ等で直後に飲むことを前提としている容器であれば(店舗内での)提供」と答える一方で、「結果として客側が持ち帰ったとしても、直ちに販売と言うのは難しい」との見解も示し、蓋のない容器での「テイクアウト」も事実上容認していました。しかし、期限付免許が終了した現在、カクテルの「テイクアウト」販売は残念ながら再びNGになっています。【2025年1月追記】コロナ禍収束後、ここ数年の間に、酒類製造免許を持つメーカーからは、ボトルに詰めたカクテル製品が続々と市場にお目見えしています(有名バーテンダーとコラボしている商品も目立ちます)。しかし消費期限等の制約もあり、現状ではマンハッタン、ネグローニ、マティーニなど度数の高いもので、劣化しやすいジュース類は使用しないカクテルに限られています。この類の「ボトル詰めカクテル」商品が今後定着していくかどうかは、現時点では未知数というしかありません。【おことわり&お願い】この記事は、バーにおける「自家製漬け込み酒」等について、現時点での酒税法、租税特別措置法上の一般的なルールや法的見解等をまとめたものですが、個別具体的な行為や問題についての適法性まで保証するものではありません。個別のケースにおける疑問や法的な問題、取扱いについては、バーや飲食店等の所在地を所管する税務署や保健所にご相談ください(※ご参考:酒税やお酒の免許についての相談窓口 → 国税庁ホームページ掲載リンク)
2021/06/04
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私は2012年9月26日付の記事(リンクはこちら)で、SNS上の画像・写真の引用問題について記しました。その後、2018年と2019年に著作権法の改正がありました(2018年の改正は、主に環太平洋11カ国との「TTP協定」締結に伴うものです)。 今回遅まきながらですが、主な改正点を紹介するとともに、改正内容に合わせて前回の記事内容を追記・修正し、私たちがSNS上で「画像・写真を引用する場合」の注意点を、改めて紹介してみたいと思います(今回の追記・修正部分については、赤字で記しました)。【おことわり】前回同様の言い訳ですが、この記事は、あくまでSNS上での「画像の引用」ルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものです。しかし、私は法律の専門家ではありません。個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的なトラブルについては、私は一切の責任を負えませんので、疑問点等は文化庁や法律専門家にお尋ねください。なお、用語や解釈の間違い等のご指摘は歓迎いたします。→ arkwez@gmail.com まで宜しくお願いいたします)。 ◆改正・著作権法などの概要 改正著作権法は、2018年5月18日に成立し、2019年1月1日から施行されました。今回の改正は「デジタル・ネットワーク技術の進展により、新たに生まれる著作物の利用ニーズに的確に対応するため、著作権者の許諾を受ける必要がある行為の範囲を見直し、IT・情報関連産業、教育、障がい者、美術館等におけるアーカイブの利活用に関わる著作物の利用をより円滑に行えるようにする」のが狙いです。 具体的には、(1)一定の条件をクリアすれば、著作権者の許諾を得ないでも自由に利用できる範囲が広がった(2)IT技術開発・情報処理目的や検索エンジン(GoogleやYahoo等)のための著作物の利用は許諾がなくても可能に(3)授業などで教師が他人の著作物を用いて作成した教材を生徒に随時送信する行為も、公衆送信補償金の支払いで著作権者の許諾なく可能に(4)美術館などが収蔵・展示作品をデジタル化し、ネットワーク上で閲覧させる場合、許諾なく行えるようになりました。 また、ほぼ同時に、(5)TTP整備法を反映した改正(2018年6月9日成立、12月30日施行)も行われ、従来、作者の死後50年だった著作権保護期間は、米国の要請によって70年に延長され(末尾【注1】ご参照)、(6)海賊版の販売・送信行為への非親告罪化(著作権者の告訴がなくても起訴可能に)も導入されました。 ※(3)の補償金については、2020年4月からは年間1回のみの支払いで済む「ワンストップ補償金」制度が創設されました。この改正によって、オンライン授業における教材作成での規制や負担が大きく軽減されました(2020年度に関しては無料でしたが、2021年度から支払いが義務化されました)。「補償金」の料金体系や金額は以下の通りです。 ・学校種別の年間包括料金(公衆送信回数は無制限) 公衆送信を受ける園児・児童・生徒・学生1人当たりの額=大学720円/ 高校420円/ 中学校180円/小学校120円/ 幼稚園60円(※社会教育施設、公開講座等については、30人を定員とする1講座・講習を1回の授業として、授業ごとに300円) ・公衆送信の都度支払う場合の料金=1回・1人当たり10円(対象となる著作物、実演、レコード、放送、有線放送ごとに)。 ※「補償金」の支払い窓口・管理・著作権者への分配等は文科省から指定を受けた「一般社団法人:授業目的公衆送信補償金等管理協会(SARTRAS)」が担当します。料金等については3年ごとに見直しを行い、必要な措置を講じるとのことです。 ◆画像引用も基本は文章と同じだが… まず、基本的なことですが、写真やイラスト、絵画なども含むSNS上の画像についても、前回も紹介した「公正な引用のための要件」が適用されます。著作権法32条の「公正な慣行に合致し、報道・批評・研究など目的上、正当な範囲内で、定められ要件を満たしていれば、著作権者の了解なしに引用して利用できる」というのが前提です。 では、画像の合法的な引用・利用の基本要件はどうなるかですが、画像・写真の引用についても基本的に、「文章の引用」の場合と同じルールです。 (1)引用先は既に公表された画像であること (2)「公正な慣行」に合致すること =「公正な慣行」の定義は示されていませんが、判例等では、以下の(3)(4)(5)の要件がこれに当たるとしているケースが多いそうです。 (3)自分の著作物と、引用する画像との「主従関係」が明確であること =あくまで自分の文章が「主」で、引用された画像は「従」でなければなりません。「主」か「従」かは、著作物の目的・趣旨や引用した画像の大きさ、補足的なものとして使っているか等がポイントです。従って、小さな画像でもそれが「主」であれば違法となることもあります。 (4)引用する画像が、自分の著作物と明確に区別されていること(明瞭区別性) (5)引用する必然性があること(その引用が著作物の目的や構成上、必要・不可欠である) (6)出典・出所が明示されていること(著作権法48条) (7)画像に勝手な変更を加えないこと(加工したりしない) (8)引用しすぎないこと(過剰な枚数を引用したり、引用した画像のスペースが本文よりも大きいのは違法とみなされるおそれがあります) (9)報道・批評・研究などのための「正当な範囲内」であること(著作権法32条) ※(2)と(9)については、今回の法改正で追加された概念ではなく、旧法から存在した基準ですが、基本要件に含めている法律専門サイトが多いので、今回私も追加しました。 なお、「報道・批評・研究などのための『正当な範囲内』」という要件については、改正著作権法でも明確な定義は示されていません。唯一、判例で「社会通念に照らして合理的な範囲内のものであることが必要であり、具体的には、他人の著作物を利用する側の利用の目的のほか、その方法や態様、利用される著作物の種類や性質、当該著作物の著作権者に及ぼす影響の有無・程度などが総合的に考慮されなければならない」と示されている程度です(大阪地裁・2013年7月16日判決)。 すなわち、「引用に必然性・必要性があって、引用の分量や引用個所が適切であり、引用部分が明確に区別されている」などの条件を満たす必要があるのは当然だと思われます。 ◆出版社等の「禁止規定」は合法か、違法か 私たち個人がネット上で一番よく画像を「引用・利用」するケースとしては、(1)本や雑誌の表紙(2)CDやレコードのジャケット(3)映画のポスターや1シーン(4)市販商品の外観(5)ネット・オークションでの商品――などが代表的なものではないかと思います。このうち(5)については現在は原則、無条件の引用・利用が合法化されています。 (1)~(4)については、著作権法32条を守り、9要件をクリアすれば、誰でも合法的に引用・利用できるはずです。ところが、例えば出版社のHPにはよく、画像に関して以下のような禁止事項が列挙されています。表向きは、著作権者の許諾なしに一切の画像の使用はまかりならんという姿勢です。 ・出版物の装丁の画像の全体または一部を掲載することはできません ・キャラクターの画像および写真等の全体または一部を掲載することはできません ・ホームページの画像の全体または一部を転載することはできません ・法人企業のHPであっても、許可なく転載することはできません ・非営利であっても、個人サイトでの転載は「私的利用」にはなりません ・著作権侵害が行われた場合には法的手段をとることもありますので、ご注意ください 私も、Blogで時々、本の批評やCD、映画の感想など紹介しているので、本やCDジャケットや映画の1シーンの画像を借りることはあります。出典・引用元は可能な限り明示するようにしています。こうした利用は、著作権法32条に言う「公正な慣行に合致し、報道、批評、研究など目的上、正当な」という要件に当てはまり、合法的な利用です。 ここで疑問がわきます。「著作権法では正当な目的であって、主従関係を明確にして、引用元もきっちり明示すれば、画像の『引用』はできると認めている。こんな禁止規定自体が著作権法違反じゃないのか」という疑問です。そこで、法律専門サイト等でさらに調べたうえで、専門家の意見も少し聞いてみました。 ◆現実的には、出版社等は「黙認」姿勢 結論から言うと、文章の引用についてはこれまで判例がいくつもあって、様々な具体的ルールや指針がかなり周知されているのですが、画像については、争われた裁判(判例)がまだ少なく、違法か違法でないのかの基準が曖昧なままになっています。 知的財産や著作権法に詳しい杉浦健二弁護士は「一般的には、引用要件には法文上の明確な基準があった方がいいという意見もあるが、過度に明確化すると、インターネット等を中心とした利用形態の多様化に法律が付いていけず、弾力的な運用がしづらくなるため、引用要件にはある程度の“あそび”がある、現在の程度が望ましいと考えている」と記しています(出典:STORIA法律事務所Blog) 近年唯一、画像の無断使用で争われたとも言える有名な裁判に「脱ゴーマニズム宣言事件」(小林よしのり氏vs上杉聡氏)というのがあります。この裁判では漫画の引用問題が争点でしたが、1999年8月に東京地裁が出した判決「批評の対象を明確にするためには、絵も引用する必要があることを認める」「引用の要件を満たす限りは、引用が必要最小限であることまでは要求されない」(1999年8月31日)が現時点では数少ない判例です(参考:Wikipedia「脱ゴーマニズム宣言事件」)。 しかしながら、出版社はこうした判決が出た後も、禁止規定は撤回・変更していません。禁止規定は「任意規定であるから合法」という学説がある一方で、「このような規定自体が著作権法違反だ」という法律家もいます。法的見解が分かれる中、現実には、日本だけでも個人のHPやBlogで膨大な数の画像が引用・利用されています。 出版社やレコード会社等はいちいち告発したりせず、黙認しているのが現状です(おそらく、訴えたあげく不利な判例が出て、自分で自分の首を絞めるのが怖いというのもあるのでしょう)。現実には、個人やNPOのHP、Blogのように非営利目的であればあまり目くじらは立てないという姿勢だと思いますが、私たちはやはり、節度ある引用・利用に徹したいと思います(ちなみに、著作権侵害した場合の刑罰は、10年以下の懲役もしくは1000万円以下の罰金という結構重いものなので、くれぐれも安易な画像利用・引用には十分気を付けたいところです)。 ◆1、2枚の画像引用なら、まず問題なし 今回、法律関係者に直接尋ねたり、著作権問題を取り上げた法律事務所のWEBページの解説を調べたりしたところ、結論として、少なくとも以下のようなことは言えるかと思います。 ・SNS上の画像引用についても、冒頭にも挙げた、正当な引用のための「9つの要件」は最低限満たさなければならない。報道、批評、研究その他引用の目的上正当な範囲内であれば、原則として問題はないが、「正当な目的」と「正当な範囲内であること」が大事(単なる日常雑記のような文章に、権利者が存在する必然性もない画像を勝手にアップするのは避けるべきである)。 ・静止画については、「要件を満たしていれば、引用が正当な範囲内に収まる可能性が高い」(斉藤博『著作権法』236頁、2000年、有斐閣刊)というのが学界の多数説。音楽評論や映画評論で1、2枚の画像をコピーして載せるのはセーフ。しかし、「必然性もないのに、例えば、自分のブログのトップにミッキー・マウスの画像をコピーして載せるというのは危ない」とのこと(とくに、ディズニー社は著作権、商標権にうるさいことで有名なので要注意)。 ・引用する画像の色合い等を、画像ソフトを用いて改変してはならない(唯一、画像のサイズ拡大、縮小は認められている)。 ・「出所の明示は合理的な態様で」というのが法の規定。著作権者名があればベストだが、不詳であれば、出典WEBサイトのURLを明記することが望ましい。いずれにしろ、企業の公式HPならともかく、個人の私的なBlogに静止画を少し載せるくらいなら訴えられることはまずないだろう。 ・ただし、この問題に関しての最高裁判決はなく、下級審判決例も、上記の要件のそれぞれに対するウエイトのかけ方が異なるので、難しい面がある。そもそも、「公正」とか「正当」とか、必ずしも利用者にわかりにくい基準で、裁判になってみなければ、それに反しているかどうか結論は出せない。おそらくそのような現状からして、新聞社、出版社などの権利者側からは、原則に戻って、許諾がいるというように警告を発しているのだと思う。 ・著作権法の引用要件を明らかに満たしている場合は、利用者は権利者に事前に許諾をとる必要はない。権利者が「利用を認めます」と回答してくれる可能性は低く、かさねて許諾まで取りにいくメリットは皆無で、かえってリスクが高い行為になる(「ダメ」と言われた場合、身動きがとれなくなる)=上記STORIA法律事務所Blogより。 ◆画像転載が合法化されているもの なお、SNS上での画像の引用・利用が(条件付で)自由に認められているものもあります。例えば、以下のようなものです。 ・ネット・オークションに添える商品説明の写真掲載=インターネット・オークション等で売買する際、商品を確認するという必要性から、2009年の著作権法改正で、条件付き(著作権法施行令等で定めた大きさや精度等を遵守)でその画像を著作権者の許諾なく掲載することが合法化されました。今回の法改正ではさらに、美術品や写真の販売の際にも、カタログ等の図面として許諾なく掲載することが同様に可能となりました。 ・情報検索サービスを実施するために著作物の複製すること ・障がい者の教育・福祉活動等ために著作物を複製すること ・画素数を落とした画像、サムネイル(縮小)画像の利用 ※Amazonなどは「アフィリエイト」(【注2】)契約をすれば、画像を無料で利用できるというサービスをしていますが、私は利用していません。 ◆引用・掲載してはいけない画像とは 自分が撮った画像でもSNS上に掲載できないものもあります。例えば以下のようなもの――。 ・被写体から許可を得ていない画像(知らない人の顔がはっきりわかる状態で写り込んでいたら、肖像権の侵害だと言われるおそれがあります。モザイクをかけるなど個人を特定できないようにしてください。 ただし、友人らとの飲み会での写真なら許容範囲でしょう。いまどき、あなたがSNSをしていることを参加者が知っていて、携帯やデジカメで写真をとれば、参加者も「彼(彼女)のページに載るんだな」と了承したものとみなされるでしょうから)。 ・タレントなど著名人が写った画像(街でたまたま有名人を見かけて撮った写真を掲載すれば、場合によっては、「パブリシティ権」(【注3】)を侵害したと言われる可能性があります。店で女性と一緒のところを盗み撮りなどした画像なら、プライバシー侵害と言われる可能性もあります。 ・他人の著作物を撮った画像(滅多にないとは思いますが、著作権のある創作物を直接写真に撮ってSNS上に掲載すれば、著作権侵害と言われる可能性があるそうです)。 ・公序良俗に反する画像(これは当然ですね) ◆基本は自分の撮影にこだわりたい 私は基本的に、可能な限り、自分のSNS上では自分のカメラで撮影した画像を使うことにしています。自分の撮影を原則にしているのは、オリジナリティにこだわりたいことに加えて、リスク(転載を巡るトラブル)を減らしたいからです。 SNS上で無用なトラブルを招かないためには、安易に他のサイトから画像をコピーしてこないこと、そして引用・転載する場合でも、ルールやマナーをきちんと守ることが何よりも大切だと思います。私自身も現在、自戒の気持ちを込めて過去のBlogのページなどで使った画像について、順次、著作権法違反がないか再点検しています。必要な場合は、少なくとも「引用元」をきっちり明示したいと思っています。 【注1】1967年以前に著作者が死亡している場合: 著作者が亡くなったのが1967年以前であれば、2018年12月30日の改正著作権法施行以前に50年の保護期間(1968年1月から起算)が終了しているため、70年には延長されません(1967年に亡くなった芸術家で言えば、例えば、山本周五郎<作家>、壷井栄<作家>ら)。 なお、著作者が亡くなった後、著作権継承者がいなければ、原則として著作者死亡時点で著作権は消滅します。 【注2】アフィリエイト(Affiliate) 「成功報酬型広告」とも言われ、例えばHPやBlogである企業の商品の広告スペースを提供し、その広告を通じて商品が購入されたら、その企業や販売する店舗からHPやBlogの管理者(運営者)に成功報酬が支払われるという広告またはその形態を指す用語(出典:Wikipedia、All About「アフィリエイトとは?」 → http://allabout.co.jp/gm/gc/22964 ) 【注3】パブリシティ権 人に備わっている「顧客吸引力を中核とする経済的な価値」を保護する権利のこと(出典:Wikipedia、はてなキーワード → http://d.hatena.ne.jp/keyword/ ) 【御礼】この一文を書くにあたって、主に下記のWeb ページ上の解説やデータ、Q&Aから貴重な情報や示唆をいただきました。この場を借りて関係の皆様には心から御礼申し上げるとともに、そのページ(出典元)を紹介しておきます。 ・文化庁HP(著作権問題Q&A)→ https://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/ ・「画像や情報の引用について 専門家Q&A」→ https://profile.allabout.co.jp/ask/q-46093 ・「画像の引用・転載に関する著作権について(Yahoo知恵袋)」→ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/ ・「ネット時代の著作権(大塚商会)」→ https://qqweb.jp/QQW/STATICS/it/pc_howto/200911.html ・「HPやサイトで著作権違反にならない方法」→ https://nanapi.jp/15604 ・「著作権法上合法な引用の条件」→ https://puple.noblog.net/blog/a/10056206.html ・「ネット・Webサイトでの著作権」 → https://uguisu.skr.jp/html/kenri1.html ・「画像の著作権侵害を回避するために最低限理解しておくポイント」(東京スタートアップ法律事務所HP)→ https://tsl-magazine.com/category05/image-copyright-infringement ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作権法の引用要件を満たしているのに、かさねて許諾を得る必要があるのか」(STORIA法律事務所Blog)→ https://storialaw.jp/blog/6114 ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権を侵害せずに文章や画像を引用・転載する方法」(ベリーベスト法律事務所HP)→ https://best-legal.jp/copyright-quotation-4942 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.html【おことわり】この日記は、画像「引用」のルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものですが、個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的な疑問やトラブルについては文化庁や法律専門家にお尋ねください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/06/20
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先日、新聞を読んでいて、「方言の良さを見直そう」という特集に目が止まった。「お国言葉を守ろう」という運動も、各地で芽生え始めているらしい。そんな記事を読んでいたら、ふと脳裏に、かつて住んだ金沢で聞いた、 懐かしい言葉がよみがえってきた。「食べまっし(食べなさいね)」「あんやとね(ありがとうね)」「ゆーたがいや(言ったじゃないか)」……。 最近は、メジャーな映画でもセリフを方言にこだわった映画が増えてきているが、私は大賛成だ。コミュニケーションには共通語は大事だが、ふだん話言葉まで、標準語である必要はない。言葉はその地方の文化だ。その地域で、長年育ってきた人々の歴史であり、命のようなものだ。どこへ行っても標準語だったら、まったく味気ないではないか。 私は社会人になって初めて地元(実家)を離れ、北陸の金沢(写真左は、金沢のシンボル、兼六園)で一人暮らしを始めた。金沢は、ご存じのように加賀藩前田家・百万石の素敵な城下町だ。戦災(空襲)に遭わなかったおかげで、藩政時代の面影をよくとどめている。 前田の殿様は文化・工芸の振興に熱心で、このため、加賀宝生流の能楽が生まれ、友禅、金箔、蒔絵、九谷焼、輪島塗などという全国に名だたる工芸品も発展した。 金沢弁(加賀弁とも言うが、厳密には違う)が、どういう発展の経過をたどったのかは、言語学者でないので詳しくは知らない。お隣の富山や福井ともちょっと違う。同じ石川県でも、金沢地方と、加賀地方、それに能登地方ではまたかなり違う。能登は海を通じた交流のせいだろうが、山陰地方の方言とかなり似ている部分もある。 イントネーションは関西弁に近い部分もあるが、表現や単語(語彙)に共通するものは、数えるほど。思いつく言葉では「なんなん?」(何なの?)、「~ねんて」(~ですよ)、「いきしな」(行く途中)くらいか(これらは、なぜか関西弁でもまったく同じだ)。 イントネーションが近いのは、おそらくは航空機による行き来がまだ盛んでなかった頃、JR特急「雷鳥」(今は特急「サンダーバード」)による関西圏との経済的な結びつきが強くて、人の行き来が関東圏より関西圏が多かった影響もあるのかもしれない。 金沢弁と言えば、まず「~まっし」(~なさい)という接尾語が有名。「来まっし」「見まっし」「食べまっし」と、日常的に頻繁に耳にする。「~がや(なのです)」「~やぞ、~ぞいや(なのだよ)」「~うまいじ(うまいね)」「~ねーじ?(ないね?)」など語尾に濁音も多いのも特徴。 少し間延びした喋り方も独特だ。例えば、「あのぉ~ん、野村せ~んせ~い、きのお~う、会えんかった~からぁ~」なんて、いらちの大阪人が聞いたら「はよ言わんか」と怒りそう。僕は、若い女性に優しい声で耳元で、こんなしゃべり方されたらもうメロメロだったが…。 日常の単語でも、標準語とは少し違うものがあった。例えば、「きのどくな」=ありがとう、「あたる(あたった」=もらう(もらった)、「がんこな!」=すごいことだね!、「曲がらん」=曲がるよ、「こけ」=きのこ……。 またまったく独特な言い方をするものも。例えば、「な~ん」=いいえ、「あおくさ屋」=八百屋さん、「おかべ」=豆腐、「かいぶし」=煮干し、「おあんさん」=ご主人、「かーか」=お母さん、「にゃーにゃ」=娘さん、「おゆるっしゅ」=じゃぁね、よろしくね、「いじるかしい、いじくるしい」=面倒な、「かたがる」=傾いている、「1題目」=1番目……(もっとも、テレビや学校で標準語に慣れ親しんだ今の若い世代ではあまり使わないかもしれないが…)。 とくに同じ単語でも、使い分けが難しいものがあった。「おいでる」という動詞。とくに電話でのやりとりだと要注意だ。「**さん、おいでるか?」という電話があると、それは、「いらっしゃるか?(在席ですか?)」という意味。しかし、「これからおいでるか?」となると、「(こちらに)お越しになるか?」と聞かれている意味。稀に、「**さん、そちらへおいでるよー」と使う人もいる。こうなると、「(そちらへ)行くよー」という意味。 英語でいう「Be動詞」と「COME」の両方の意味で使い、前後関係で意味が変わる「おいでる」。今となっては懐かしい思い出だが、最初はよく間違って、行き違いの原因にもなった。 笑い話では、僕の経験談ではないが、酒席で相手から「はよ、しねま!」と言われて、険悪な雰囲気になったなんて話も聞いた。これは、金沢弁ではなく、石川県でも加賀地方の言葉らしいが、「早く、しなさいよ」という意味。突然言われた方は、そりゃ怒っただろうなぁ…。 金沢には5年暮らした。僕には第二の故郷…。あの冬の陰鬱な空もよく知っている。「雪国暮らしで、あれだけが、どうしても嫌」と言う人もいたけれど、僕はそれでも、金沢と同じくらい、金沢弁を愛している。
2005/02/14
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北京の旅も終りに近づいてきた。今回の旅の主な目的は3つあった。まずは北京在住の友人を訪ね、旧交を温めること。それから4000年の歴史都市・北京の世界遺産をこの目で見ること。そして、最後に北京でBarを開くオーナー・バーテンダーを訪ねることだった。 ようやく3日目の夜に、最後の目的を果たせる機会が巡ってきた。北京市内中心部の東のエリア、あのSMAPも公演したという工人体育館のそばに、目的のBarはあった。 「Glen Classic」。ホテル(複合ビル?)の中庭を通り抜けた奥という、謎めいたロケーション。ドアを開けると意外に広い空間が広がり、雰囲気はまるで日本のオーセンティックBarそのもの(写真左=Glen Classicへ向かう道の最初のゲート)。 ネットでの紹介記事には「北京に誕生した初めてのオーセンティックBar」とあった(それまで北京には、カラオケBarかカジュアルなCafe Bar、あるいはClubのようなBarしか存在しなかったらしい)。 オーナーのKさん=写真右=は、まだ30代半ば。銀座の名だたるバー2軒で、8年半ほど修業した。そして国際派の二人の師匠(Kさん、Uさん)の背中を追って、独立と同時にアジアへ飛び出した。「日本人が今さらヨーロッパやアメリカへ行くより、アジアで活躍の場を探したい」と。 縁あって、北京の物件で誘いがあり、中国人の共同オーナー(中国では外国人単独ではビジネスができないという法的ルールがある)と一緒に、Bar「Glen」を開いた。 Kさんが数年前からバーを営んでいることは、大阪のとあるBarのマスターからも聞いて知っていた。そして、いつか機会があれば訪ねてみたいと願ってきた。 ちなみに、僕はKさんとはまったく面識がないものとばかり、ずっと思っていた。だが、今回改めて話をしているうちに、意外な接点がいくつか分かった。 10年ほど前、NBA(日本バーテンダー協会)の全国バーテンダー・コンクールが神戸で開催された際、Kさんは出場していた。僕もその大会を見に行っていた。 また、Kさんがかつて勤めていた銀座のSというバーには、成田一徹さんと二度ほどお邪魔したことがあるが、ちょうどその頃、Kさんはそのバーで働いていたという。すなわち、僕はそこで出会っていたのだ(もちろん、その時は挨拶はできなかったが)。 さらに驚いたことが一つ。僕が8年ほど前にブログで知り合って、先般のスペイン旅行の際も現地のとっておき情報をいろいろと教えてもらうなど、ずっと交友があるHさんという女性がいる。 そのHさんとKさんは、なんと知り合いでスペイン・アンダルシア地方のシェリーのボデガ(醸造所)を一緒に見学したことがあるというのだ(Hさんは当時現地に短期留学中だった。Kさんは現地でシェリーの専門資格、ベネンシアドールを取得したという)。 Hさんはスペイン好きが高じて会社を辞め、現在は、スペイン・ワインやシェリーのインポーターをしている。先般は難関のベネンシアドール資格試験にも合格したバイタリティあふれる女性だ。 僕のBar・UK計画も後押ししてくれているHさんとKさんが知り合いだったとは! 世の中は狭いというが、北京で共通の知人が見つかるとはまさか思っていなかった。 さて、店(Glen Classic)の話に戻る。北京の友人夫婦が事前に下見を兼ねて訪れてくれ、この夜の僕の訪問を伝えておいてくれたおがげで、Kさんは笑顔でもって、僕らを歓待してくれた。 北京最後の夜に何を飲むか、しばし迷ったが、やはり、ベネンシアドールでもあるKさんに敬意を表して、ショート・カクテルのバンブーを頼んだ。すると、Kさんは、ボトルを3本用意した=写真上から3枚目。 通常、バンブーはドライ・シェリーとドライ・ベルモットだけを使う。しかしこの日、Kさんはシェリーをフィノと長期熟成のオロロソという違うタイプの2種を用い、オロロソは隠し味的に使った。なんと心憎いパフォーマンス!(写真左=Kさんとの2ショット)。 Kさんは現在、北京でもう1店、お店を営む(そちらは中国人店長に任せている)。そして、なんと近々、シンガポールにも3店目を出す計画という。「4年後くらいにはロンドンにも店を出したいという夢があるんです」と語るKさん。夢もグローバルで、スケールが大きい。 日本人バーテンダーは昨今、その技術や丁寧な仕事ぶりで、国際的にも高い評価を受けている。日本人バーテンダーは、Kさんのように、もっと世界へ目を向ける時なのかもしれない。 この夜は僕らは4人で訪れ、他にもフルーツ・カクテルも何種類か頂いた。僕にはさらにKさんからのサービスで、台湾のウイスキー蒸留所が造ったという珍しいモルト=写真右=もいただいた(味わいやクオリティの高さは、日本やスコットランドにも引けを取らないと感じた)。 楽しい時間はあっという間に過ぎた。心地よく、しっかりと酔いしれた。でも、もうお別れしなければならない時間だ。まだまだ何度もここに来られる友人夫婦が羨ましい。 僕は最後に、Kさんと店の前で一緒に記念写真を撮り、再会を約束した。ちなみにKさんは神戸出身なので、日本に帰れば神戸にもよく立ち寄るという。今度は神戸で会えれば嬉しいと思う。Kさん、心温まるおもてなしを本当に有難う! 今度は僕がBar・UKでおもてなしする番ですね(笑)。ぜひお越しくださいませ! <次回10回目は番外編>こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/11/13
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◆プロなら知っておきたい「知られざるカクテル」<中> ※原則、年代順に紹介しています。レシピは標準的なものです。★印は近年においても欧米のバー・シーンでは頻繁に登場する、とくに重要なカクテルです(かつて私のBlog連載で取り上げたものについては、その関係ページへのリンクも貼っておきます)。★ハンキー・パンキー(Hanky-Panky)(1903~20年代前半、考案者=エイダ・コールマン<Ada Coleman>) ジン45ml、スイート・ベルモット45ml、フェルネット・ブランカ2dash、オレンジ・ピール(シェイク) ※スイート・ベルモットを使う甘口系「マティーニ」(ドライ・ベルモットを使うマティーニが主流になるのは、1920年代後半以降)のヴァリエーション。ロンドンのサヴォイ・ホテル「アメリカン・バー」で2代目のチーフ・バーテンダーをつとめた女性バーテンダー、エイダ・コールマン(1875~1966)が、顧客の求めに応じて考案したと伝わる。★ベボー・カクテル(Bebbo Cocktail)(1920~33年、考案者は不詳) ジン40ml、オレンジ・ジュース10ml、レモン・ジュース10ml、ハチミツ10ml(シェイク) ※米禁酒法時代(1920~33)に生まれたカクテルと伝わる。奇妙な名の由来は定かではない。クラシック・カクテルには、ハチミツを使うものがしばしば登場する。氷が貴重品だった時代、カクテルを飲みやすくするバーテンダーの工夫の一つだった。(禁酒法時代の)粗悪なジンを使ったカクテルが飲みやすくなり、ジュースにも見えるため当局の摘発から逃れられるという実用的利点もあったと伝わっている。★メアリー・ピックフォード(Mary Pickford)(1920~33年、考案者は不詳) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・ジュース20ml、マラスキーノ10ml、グレナディン・シロップ1tsp、レモン・ジュース1tsp(シェイク) ※米国の禁酒法時代(1920~1933)に、キューバの首都ハバナを代表するバー「エル・フロリディーダ(El Floridita)」で誕生したと伝わる。サヴォイ・カクテルブック(1930年刊)にも紹介されている。パイナップルの風味が効き、マラスキーノ・リキュールがほのかに香る、爽やかな味わい。カクテル名は、サイレント(無声映画)時代のハリウッドの大女優の名にちなむ。 ちなみに、ピックフォードは自ら映画製作に乗り出した最初の女優として知られ、1919年にはチャプリンらと共同で映画製作・配給会社「United Artists」を設立している。「エル・フロリディーダ」は、ハバナをたびたび訪れ、居宅も構えた文豪ヘミングウェイが、大好きなフローズン・ダイキリを味わうために通った店としても有名。★ピスコ・サワー(Pisco Sour)(1920年代、考案者は不詳) ピスコ・ブランデー40ml、レモン・ジュース15ml、シュガー・シロップ10ml、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、卵白(シェイク) ※爽やかな酸味と、卵白の柔らかな舌触りが絶妙に調和したカクテル。1920年代、ペルーの首都リマでバーを誕生したと伝わる。その後米国へ伝わり、50年代に入って、ハリウッドスターらに愛飲されて人気が高まった。ピスコ・ブランデーは、マスカット系ブドウが原料。カクテル名の「Pisco」は、古代インカの言葉の「鳥」に由来する。★ブラッド&サンド(Blood & Sand) (1920年代、考案者は不詳) スコッチ・ウイスキー30ml、スイート・ベルモット10ml、チェリー・リキュール10ml、オレンジ・ジュース20ml、ビターズ(シェイク) ※1920年代に誕生。サイレント時代の名優、ルドルフ・ヴァレンチノ(Rudolph Valentino)が主演した映画「Blood And Sand(血と砂)」(1922年公開)にちなんで考案されたという。美女の心を掴(つか)むために闘牛士の主人公が猛牛に戦いを挑むが、敗れて倒れ、血が熱砂を染めたという映画のエピソードから生まれたカクテルと伝わっている。★アペロール・スプリッツ(Aperol Spritz)(1920年代、考案者は不詳) アペロール60ml、スパークリング・ワイン60ml、オレンジ・スライス(ビルド)(アペロール40ml、白ワイン60ml、ソーダ40mlというレシピも)。 ※「アペロール」は1919年イタリア北部の町パドヴァで誕生したリキュール。「スプリッツ」は20年代には地元ですでに飲まれていたスタイル。戦後もそう注目されることもなかったが、2000年以降、欧米の大都市のバーでブレイクし、おしゃれで飲みやすいドリンクとして近年の人気カクテル・ランキングでは常に上位にランイクインしている。サウスサイド(Southside) (1920年代、考案者は不詳) ジン40ml、ライムジュース15ml、シロップ15ml、フレッシュ・ミントの葉7枚(ビルド) ※1890年代、米国ロングアイランドの「Southside Sportman's Club」で誕生した「サウスサイド・フィズ」が、その後、禁酒法時代(1920~33)に、ニューヨーク・マンハッタンのもぐり酒場(Speakeasy)でソーダを抜いたショート・カクテルのスタイルに変化したものと伝わっている。エンジェル・フェイス(Angel Face)(1920年代、考案者は不詳) ジン、カルバドス、アプリコット・リキュール各3分の1ずつ(ステアまたはシェイク) ※英国ロンドン発祥と伝わる。『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したという説も伝わっているが、裏付ける資料は確認されていない。プレジデンテ(Presidente)(1920年代、考案者は不詳) ラム40ml、スイート・ベルモット(またはドライ・ベルモット)10ml、コアントロー10ml、オレンジ・ビターズ2dash(ステアまたはシェイク) ※1920年代、ハバナのバーテンダーが、キューバの第3代大統領マリオ・メノカル(「第5代ヘラルド・マチャド大統領」という説も)のために考案したと伝わる(「El Presidente」という名で紹介されるケースも)。他にも、「ニューヨークのクラブ「エル・チーコ」に勤めるキューバ人バーテンダーが考案した」という説も。 サヴォイ・カクテルブック(1930年刊)には「President」というよく似たカクテルが登場するが、こちらはベルモットは入らない別のカクテル。一方、ハリー・マッケルホーンのカクテルブック(1919年刊)に登場する「President」は、「El Presidente」に近いレシピであるなど、実に紛らわしいカクテルである。★コープス・リバイバー#2(Corpse Reviver #2)(1920年代、考案者=ハリー・クラドック<Harry Craddock>) ドライ・ジン、トリプルセック、リレ・ブラン、レモンジュース各15ml、シロップ5ml、アブサン2dash(シェイク) ※サヴォイ・ホテルの3代目チーフ・バーテンダーで、『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したと伝わる。 同時代(1920年代)のカクテルに、J.W.ターリング(Tarling)による「コープス・リバイバー」が、また、少し後の1950年代に誕生したパトリック・ダフィ(Patrick Duffy)による「コープス・リバイバー#3」も伝わっているが、欧米ではクラドックの「#2」が一番よく知られている。他の2つのレシピは以下の通り。 ・コープス・リバイバー=ブランデー30ml、カルバドス15ml、スイート・ベルモット15ml(シェイク)(※同名のカクテルでは「ブランデー、オレンジジュース、レモンジュース各20ml、グレナディン・シロップ2dash、シェイクしてシャンパンで満たす」というレシピも伝わっている) ・コープス・リバイバー#3=ペルノー45ml、レモンジュース15ml、氷を入れたタンブラーに入れ、スパークリングワインで満たすモンキー・グランド(Monkey Gland)(1920年代、考案者=ハリー・マッケルホーン<Harry McElhone>) ジン40ml、オレンジジュース20ml、グレナディン・シロップ5ml、アブサン 2dash(シェイク) ※パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」の創業者、ハリー・マッケルホーンが考案したと伝わる。カクテル名は直訳すると「猿の分泌腺」だが、1920年代、フランスの外科医セルジュ・ヴォロノフ(1866~1951)が「猿の睾丸を移植すれば長寿になる」ことを実証するため老人に移植手術したというエピソードに由来するという。パラダイス(Paradise)(1920年代?、考案者=ハリー・クラドック<Harry Craddock>) ジン45ml、アプリコット・ブランデー23ml、オレンジジュース23ml、オレンジ・ビターズ(シェイク) ※サヴォイホテルの3代目チーフ・バーテンダーで、『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したと伝わる。★ブールヴァルディア(Boulevaldier)(1927年、考案者=ハリー・マッケルホーン<Harry McElhone>と伝わる) バーボン・ウイスキー40ml、カンパリ25ml、スイート・ベルモット25ml(シェイク) ※レシピを見て分かるように、ネグローニのジンをバーボンに代えたバージョン。「Boulevaldier」の文字通りの意味は「大通り」だが、転じて、「伊達男」「遊び人」「流行りの場所に出入りする人」の意がある。近年の欧米の人気カクテル・ランキングでは、常に20位以内に入るなど再び注目を集めるカクテル。 ハリー・マッケルホーンは、パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」創業者で、1919年には歴史的名著『ABC of Mixing Cocktails』を出版した名バーテンダー。ブールヴァルディアは、彼の2冊目の著書『Bar Flies & Cocktails』の「Cocktail Round Town」の項で初めて登場する。ナイト・ライト(Night Light)(1920~30年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム40ml、ゴールド・ラム15ml、コアントロー20ml、卵黄(シェイク) ※1920~30年代に誕生したと伝わる、食後向きのナイト・カクテル。ブザム・カレッサー(前出)と同様、卵黄を使うカクテルで、英国で1937年に出版された「カフェロイヤル・カクテルブック」でも紹介されている。基本はロック・スタイルだが、ショート・カクテルでつくってもとても美味しいドリンク(バーUKではベースのラムは2種をブレンドしています)。ブランデー・ズーム(Brandy Zoom)(1930年代前半、考案者は不詳) ブランデー45ml、生クリーム30ml、ミルク20ml、ハチミツ10ml(シェイク) ※甘口でデザート感覚で楽しめるカクテル。1934年にパリで出版された「The Artistry of Mixing Drinks」(フランク・マイヤー著)で初めて紹介されたが、マイヤー自身のオリジナルかどうかは不明である。「ズーム(Zoom)」とはミツバチが飛ぶ羽音の擬音。転じてハチミツを使うカクテルは「Zoom Cocktail」と呼ばれるようになった。ベースにはラムやウイスキー、ジンも使われるが、ブランデー・ベースが一番人気である。★サイレント・サード(Silent Third)(1930年代前半、考案者は不詳) スコッチ・ウイスキー35ml、コアントロー20ml、レモン・ジュース15ml(シェイク) ※有名なカクテル「サイドカー」のスコッチ・ウイスキー版。1930年代前半、コアントローの独占販売権を持っていた英国の実業家が考案したと伝わる。カクテル名は「物言わぬ第三者」との意ではなく、考案者の愛車のサード(トップ)・ギアがとても静かでスムースだったことに由来するとのこと。ベースに使用するスコッチ・ウイスキーは、アイラ島のスモーキーなシングルモルトを好む人も多い。★ゾンビ(Zombie) (1934年、考案者=ドン・ビーチ<Don Beach>)以下の2種類のレシピが伝わっているA=ホワイト・ラム、ゴールド・ラム、ダーク・ラム各15ml、アプリコット・ブランデー、オレンジジュース、パイナップルジュース各10ml、レモンジュース、グレナディン・シロップ各5ml、アブサン少々、氷、オレンジ・スライス(シェイク)B=ホワイト・ラム、ダーク・ラム各25ml、ライムジュース、パイナップルジュース各15ml、グレナディン・シロップ1tsp、氷、オレンジ・ピール(シェイク) ※Aの簡略版として考案されたものだろう ※ハリウッドにあるドン・ビーチのバー「ドン・ザ・ビーチコンバーズ(Don the Beachcomber's)」発祥と伝わる。映画「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘプバーンがパーティ・シーンで味わっていたのがこのカクテル。★ヴュ・カレ(Vieux Carre) (1937年、考案者=ウォルター・バージェロン<Walter Bergeron>) ブランデー、ライ・ウイスキー、スイート・ベルモット各20ml、ベネディクティン1tsp、ビターズ3dash、レモン・ピール(ステアまたはシェイク) ※ニューオーリンズのモンテレオーネ(Monteleone)・ホテルのバー・カルーセル(Carousel)のバーテンダー、ウォルター・バージェロンが考案したと伝わる。「Vieux Carre」とは、観光名所「フレンチ・クォーター」地区の古名。上記26のブールヴァルディアと同様、近年再び人気が上昇している「クラシック」の一つ。アルゴンキン(Algonquin) (1930年代、考案者は不詳) ライ・ウイスキー35ml、ドライ・ベルモット10ml、パイナップル・ジュース20ml(シェイク)、マラスキーノ・チェリー=飾り ※ニューヨーク・マンハッタンにある老舗ホテル「アルゴンキン・ホテル」のブルー・バー発祥と伝わる。B & B(1930年代、考案者は不詳) ブランデー30ml、ベネディクティン30ml、氷、ロック・グラスで(ビルド) ※米国の禁酒法時代(1920~33)の1930年代、大都市にあった「もぐり酒場(Speakeasy)」で考案され、その後1937年、ニューヨークの有名な社交クラブ「21 Club」で提供されるようになって、幅広く普及したと伝わる。現代のバーでは人気カクテルという訳ではないが、今なお「スタンダード」としての地位を保っている。★ヘミングウェイ・スペシャル(Hemingway Special)(1930年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム40ml、マラスキーノ10ml、ライム・ジュース10ml、グレープフルーツ・ジュース40ml(シェイク) ※キューバ・ハバナの老舗バー「エル・フロリディータ(El Floridita)」のバーテンダーが、1930年代、常連客だった文豪ヘミングウェイのために考案したと伝わる。当初は、「パパ・ダイキリ(Daiquiri como Papa)」と呼ばれていたが、その後いくつか名が変わり、最終的に現在の名前になったとのこと。ヘミングウェイはこれを一日に12杯も飲んだという逸話も伝わっている。エース・オブ・クラブス(Ace Of Clubs)(1930年代、考案者は不詳) ゴールド・ラム40ml、ホワイト・クレーム・ド・カカオ10ml、ライム・ジュース10ml、シュガー・シロップ1tsp(シェイク) ※1930年代にバミューダ諸島の発祥と伝わる。カクテル名の「Ace Of Clubs」とは、1930年代後半、ニューヨークにあったバーの名(元々の意味は「トランプのクラブのエース」)。考案者はここに勤めていた無名のバーテンダーだが、彼は禁酒法時代、キューバのバーで働き、禁酒法廃止後、再びニューヨークへ戻ってきた。その彼がキューバでの日々を思い出し、ダイキリのヴァリエーションとして考案したという。カカオ・リキュールが入るが意外ときりっとして旨い。ミッショナリーズ・ダウンフォール(Missionary Downfall)(1930年代後半、考案者=ドン・ザ・ビーチコマー) ホワイト・ラム45ml、ピーチ・リキュール15ml、パイナップルジュース40m、カット・パイナップル2~3片(シェイカー内で潰す)、ハチミツ1.5tsp、生ミントの葉5~6枚 「宣教師の転落、破滅」という妙な名前を持つ古典的カクテルだが、名前の由来は不詳。「ラム・カクテルの帝王」とも称されるアーネスト・レイモンド・ボーモン・ガント(Ernest Raymond Beaumont Gantt)、すなわち米国のドン・ザ・ビーチコウマー(Don the Beachcomber)が考案したと伝わる。1907年にテキサスに生まれたガントは、禁酒法時代に酒の密輸業者として財をなし、34年に自らのバーをハリウッドに開いた。37年には自らの名前を「ドン・ビーチ」と改名。その後、自らの名を冠したレストラン&バー・チェーンを全米へ次々と展開、100以上のラム・カクテルを生み出した。サファリング・バスタード(Suffering Bastard) (1942年、考案者は、ジョー・セイアロム<Joe Seialom>) ブランデー30ml、ジン30ml、ライム・コーディアル20ml、ライムジュース10ml、ビターズ3dash、ジンジャー・ビア100ml、氷を入れた大ぶりのマグで提供する(ジンジャー・ビア以外をシェイク) ※セイアロム氏は、当時、エジプト・カイロのシェファーズ(Shepheard's )・ホテルのバーテンダー。★エル・ディアブロ(El Diablo) (1940年代、考案者は不詳) テキーラ40ml、ライムジュース10ml、カシス・リキュール20ml、ジンジャー・エール(適量)、ライム・スライス(ビルド) ※米国カリフォルニア州オークランドのバーテンダーが考案したと伝わる。1946年に出版されたVictor Vergeronのカクテルブックには「Mexican El Diablo」として紹介されている。Vergeron自身のオリジナルではないかという人もいるが、裏付ける資料は確認されていない。1960年代後半からは、単に「El Diablo」として紹介されることが多くなり、現在ではこの名前で定着している。【ご参考】過去のBlogでの関連ページハリケーン(Hurricane) (1940年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム15ml、ダーク・ラム15ml、レモンジュース10ml、パッションフルーツ・シロップ7.5ml、グレナディン・シロップ2tsp、オレンジジュース5ml、パイナップルジュース5ml(シェイク)、オレンジ・スライス&チェリー=飾り ※ニューオーリンズの「パット・オブライエンズ・バー(Pat O’Brien’s Bar)発祥と伝わる。★パロマ(Paloma) (1950年代、考案者は不詳) テキーラ40ml、グレープフルーツジュース20ml、トニックウォーター30ml、グラスの縁を塩でスノースタイルに ※メキシコでの人気スタンダードカクテルの一つ。同国テキーラ村地区で誕生したと伝わる。バラクーダ(Barracuda) (1950年代後半~60年代前半、考案者=ベニート・クッパリ<Benito Cuppari>) ラム(ハバナクラブ3年)45ml、ガリアーノ15ml、パイナップルジュース 45ml、ライムジュース7.5ml、シロップ少々。シェイクしてシャンパンで満たす ※地中海クルーズの客船上のバーで働くクッパリ氏が考案したと伝わる。同氏は1966年、このカクテルでコンペに出場し、何かの賞をもらったという。イエロー・バード(Yellow Bird)(1960年代、考案者は不詳) ハバナクラブ3年20ml、バカルディ・ホワイト20ml、バナナ・リキュール15ml、ガリアーノ10ml、オレンジジュース45ml、パイナップルジュース25ml、レモンジュース5ml(シェイク) ※ハワイの「ハワイアン・ヴィレッジ」にあるシェル・バー(Shell Bar)で誕生したと伝わる。ゴールデン・ドリーム(Golden Dream) (1960~70年代、考案者=レイモンド・アルヴェラス<Raimondo Alveraz>) トリプル・セック25ml、ガリアーノ25ml、オレンジジュース40ml、生クリーム25ml(シェイク)※4つの材料を等量にするレシピも ※マイアミの「オールドキング・バー(Old King Bar)」のアルヴェラス氏が考案したと伝わる。★ペイン・キラー(Pain Killer) (1970年代初め、考案者=ダフィニー・ヘンダーソン<Daphne Henderson>) ダーク・ラム(パッサーズ・ネイビー・ラム)30ml、パイナップルジュース60ml、オレンジジュース15ml、ココナツミルク(またはココナツ・リキュール)15ml、クラッシュド・アイス、ナツメグ・パウダー=最後に振りかける(シェイク) ※「痛み止め」という変わった名前を持つカクテル。1990年代以降、世界中で注目を集めるようになってきたが、考案されたのは、1970年代初めで、発祥はカリブ海に浮かぶ英領ヴァージン諸島の一つ、ヨスト・ファン・ダイク(Jost Van Dyke)島と伝わる。パッサーズ・ラム社のHPによれば、ダイク島の「ソギ―ダラー・バー(Soggy Dollar Bar)」のオーナー・バーテンダーで、英国人女性のダフィニー・ヘンダーソンが考案したという。 後日、「ペイン・キラーの美味しさ」の噂を聞いたパッサーズ・ラムのオーナー、チャールズ・トビアス(Charles Tobias)が、ヘンダーソンに「レシピを教えてほしい」と頼んだが断られた。しかし、トビアスは「調合されたサンプル」を入手し、2年がかりで味を再現して、世界中のバーに紹介していったという。 「ペイン・キラー」の普及には、ドイツ・ミュンヘンにある「パッサーズ・ニューヨーク・バー」(1974年創業)が大きく貢献したことで知られており、現在でも同店の看板カクテルになっている。【ご参考】過去のBlogでの関連ページフレンチ・コネクション(French Connection) (1971年、考案者は不詳) コニャック45ml、アマレット23ml(シェイクまたはビルド)※コニャックではなく普通のブランデーだと「Godchild」というカクテルになる。 ※1971年、映画「フレンチ・コネクション」の公開を記念して考案されたと伝わる。初出文献は、1977年に出版された「Jones Complete Bar Guide」。ジャングル・バード(Jungle Bird) (1973年、考案者=ジェフリー・オン<Jeffrey Ong>) ダーク・ラム45ml、カンパリ23ml、パイナップルジュース45ml、ライムジュース15ml、デメララ・シロップ15ml(シェイク) ※マレーシア・クアラルンプールのヒルトン・ホテル内「バー・アヴィアリー(Bar Aviary)」のバーテンダー、ジェフリー・オン氏が考案したと伝わる。★アマレット・サワー(Amaretto Sour) (1974年、考案者は不詳) アマレット45ml、レモンジュース23ml、シロップ1tsp、卵白(シェイク)、飾り=レモン・ツイスト、マラスキーノチェリー、ロック・グラスで提供 ※米国のアマレットの輸入業者が1974年に考案したと伝わる。本格的に普及したのは1980年代以降。近年の欧米の人気ランキングでは常に上位にランクされている。 なお、2012年にオレゴン州のジェフリー・モーガンタラー(Jeffrey Morgenthaler)というバーテンダーが上記レシピにバーボンを加える別バージョンのアマレット・サワーを考案し発表。若い世代のバーテンダーに支持されたこともあって、現在ではオリジナル・レシピと同じくらい普及している。レモン・ドロップ・マティーニ(Lemon Drop Martini) (1970年代、考案者=ノーマン・ジェイ・ホブディ<Norman Jay Hobday>?) シトロン・ウオッカ60ml、トリプル・セック7.5ml、レモンジュース20ml、シロップ15ml、グラスの縁を砂糖でスノースタイルに(シェイク) ※サンフランシスコ発祥と伝わる。考案者ではないかと伝わるホブディ氏については詳細は不明。フェルナンディート(Fernandito) (1970年代、考案者は不詳) フェルネット・ブランカ(リキュール)50ml、氷を入れたグラスに入れ、コーラで満たす(ビルド) ※アルゼンチン・ブエノスアイレス発祥。考案者はブエノスアイレスのバーテンダー、Oscar Becerraとも伝わるが、裏付ける資料は確認されていない。★ブランブル(Bramble) (1980年代半ば、考案者=ディック・ブラッドセルラス<Dick Bradsell>) ジン40ml、レモンジュース15ml、シロップ10ml、ブラックベリー・リキュール(クレーム・ド・ミュール)10ml。シェイクして、クラッシュド・アイスを入れたロック・グラスに。レモン・スライス&ブラックベリーの実=飾り。 ※ロンドンの「フレッド・クラブ(The Fred's Club)」のバーテンダー、ディック・ブラッドセル氏(1959~2016)が、故郷・ワイト島の香ばしいブラックベリー畑にインスピレーションを得て考案したと伝わる。今日でもなお数多くのカクテルブックで取り上げられる「モダン・クラシック」の一つ。ブラッドセル氏は80~90年代に数多くの素晴らしい「モダン・クラシック」を創り出したことで知られる。 <下>へ続く。
2023/04/18
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神戸を代表する老舗の酒場が、あす(28日)を最後に約40年の歴史を閉じる。 三宮のBar「SAVOY(サヴォイ)」。オーナー・バーテンダーの小林省三さん(75)は、世界カクテルコンテストで優勝したほどの素晴らしい腕を持ち、関西だけでなく、日本全国のバーテンダーにその名を知られた方だ。 物腰柔らかく、気配りあふれる接客、そして時折放つジョークの数々。これぞバーテンダーの教科書のような人で、その立ち振る舞いがすべて「絵になる」素敵なプロだった(写真左=「マティーニ名人」で知られる小林さん。流れるような所作も美しい)。 阪神大震災で受けた大きな被害(店は「震度7」のエリアにあった)も乗り越えて、店を再建した小林さんだったが、ことし奥様を亡くされてから、めっきり元気がなくなった。体調を崩し、店を休むことも多くなった。 弟子のバーテンダーの皆さんたちや常連客らが励まし続けたが、それでも店に幕を引く決断をしたのは、一緒に店を切り回していた“戦友”のような奥様の存在を失ったことで、体力や気力が奪われてしまったのが大きく影響したのかもしれない。 長年お世話になった小林さんに御礼を言いたくて、僕は昨夜(26日)、「SAVOY」にお邪魔した。小林さんは、店のフィナーレで連日たくさんの客の相手をしているためか、やや疲れた顔をしていた。 僕は、やはり最後にもう一度、「SAVOY」のカウンターで、小林さんのマティーニが飲みたいと思って、お願いした。道連れで同行してくれた友人ももちろん、マティーニを頼んだ(写真右=2杯目にいただいた「Sun Expo」は70年大阪万博でのカクテルコンテストでのグランプリ作品!) 「店がなくなってしまうなんて、ほんとに悲しいです。残念でなりません」と話しかけた僕に対して、小林さんは「いやぁ…これは僕の一事だから…」「もう、潮時だしね…」と言葉少なに語った。 小林さんほどの人脈があれば、探せばいくらでも後継者は見つかっただろう。お弟子さんは何人も育って、「SAVOY」の名を付けた「2号店」もあるのに、小林さんはそういう選択はせず、一代限りで幕を引く決断をした(その決断に、赤の他人の僕がどうこう言うべきではないだろう)。 小林さんはこの先の予定について、はっきりとは語らなかった。「元町でちょっと教える仕事もあるし…」とポロっと漏らしていた。店はなくなっても、またどこかで小林さんに会えるなら、とても嬉しいのだけれど…。 店を去る時、僕は小林さんの手を両手でしっかり握って、「元気でね。また戻ってきてよね。待ってるから…」と伝えた。小林さんはただ、「ありがとう、ありがとう」と言って、笑顔で僕の手を握り返すだけだった。その笑顔を見て、僕はもう少しで泣きそうになった。 こうして、老舗BARの灯がまた一つ消える。2代、3代と続くBARもあるが、バーテンダーに寿命がある以上、BARは永遠ではない。永遠であり続けるためには、その歴史を紡いでいってくれる後継者たちが必要だ。 「SAVOY」が一代限りで消えることは、寂しすぎる、悲しすぎる現実だが、僕の記憶の中では、小林さんの思い出とともに、「SAVOY」は永遠に生き続ける(写真左=「SAVOY」の玄関。このプレートも見納めかと思うと悲しい)。 「SAVOY」閉幕まで、きょうを含めてあと2日。もし、神戸の老舗BARの最後の輝きを見たいという方は、ぜひきょう、あすの2日間のうちにお越し下さい。【Bar SAVOY】神戸市中央区北長狭通2-1-11 玉廣ビル4F 電話078-331-2615 午後6時~午前0時こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/12/27
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バーUKは、本日5月2日(土)、午後3時~9時で営業いたします(ただし、ご入店は8時まで)。午後8時以降にご来店される場合、必ず8時までに店へご連絡くださいませ(電話06-6342-0035)。ご連絡がなかった場合、ご入店をお断りいたします。なお、本日は事前予約制の「GW感謝イベント」の最終日です。カウンター席は原則終日貸切となっております。一般のお客様はテーブル席のみご利用頂けます。以上、皆様のご理解、ご協力の程よろしお願い致します。Today( May 2nd )the bar is open from 3:00 to 9:00 pm( Your entry is until 8:00 pm). Counter seats are fully booked for our private meet-up and table seats only are available. Thank you for your understanding.
2026/05/02
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いささか旧聞になって恐縮だが、尾崎浩司さんのBar、「Second Radio(セカンド・ラジオ)」が6月末で、店を閉じたのだという。閉店の事実は一般紙に載るはずもなく、Bar業界と常連客だけが知り、僕の耳にはしばらく入ってこなかった。 尾崎さんが1972年、初めて世に送り出したBar「Radio」、そして「Second Radio」、さらに「Third Radio」については、以前、僕のブログ(05年1月15日の日記)でも触れた(写真左=Bar「Second Radio」の入り口のサイン=看板)。 神宮前にあったBar「Radio」は、僕が20代後半にお邪魔した伝説的なBar。おそらく、僕の東京BAR巡りの歴史でも、きわめて初期に出合った酒場だ。JR原宿駅で降りて、地図を頼りにたどり着くのに非常に苦労した思い出が、今もよみがえる。 そして、南青山の「Second Radio」もオープン当初に、連れ合いとともにお邪魔して、たまたま店がすいていたため、尾崎さん本人からアンティ-ク・グラスにまつわる様々なお話をじっくり聞けるという幸運に恵まれた。 「Radio」も「Second Radio」もどちらかと言えば、1杯のお値段が張るBARだった。チャージも確か前者が1500円、後者は2000円と、普通のBARに比べて格段に高かった(チャージを1500円以上取るようなBARには、僕は基本的には、店やマスターがどんなに有名でもまず行かない)。 だが、お通しで出される料理(3種盛り)の芸術性の高さ、見事なアンティークグラスを使ってつくられるオリジナル・カクテルの完成度、そして店内のライティング、生け花などの雰囲気など、高いチャージに見合うだけのものを客に提供してくれていると、僕は感じた(写真右=「Second Radio」の店内)。 僕はその後徳島へ転勤した。そして、徳島で尾崎さんのお姉さんと、あるジャズBARで出逢うという奇遇を得た。尾崎さんが徳島出身という話は知っていたが、まさかお姉さんと出逢うとは思わず、何か不思議な縁を感じた。 素晴らしいカクテル・アーチストでもある尾崎さんだが、Bar業界ではどちらかと言えば、あまり群れない「孤高の人」というイメージだ。そして、酒好きの友人の間でも、「尾崎評」や「Radio」系列のBarに対する評価は人さまざまだ。 僕も最初は、「寡黙で、とっつきにくい人」という先入観を持っていた。だが、「Second Radio」で会ってから、尾崎さんに対する印象は変わった。 BARで大人の振るまいができ、酒を愛する人間に対しては、きちんと接してくれて、結構おしゃべり好きな人なんだと分かった(写真左=伝説のBar「Radio」の店内。光ファイバーを使った天井の美しさは絶品だった (C) 「バー・ラジオのカクテルブック」から)。 そんな「Second Radio」閉店のニュースは、ショック以外の何ものでもない。店を閉じた理由について、尾崎さんは「粋なお客さんが少なくなったから…」とあまり多くを語らない(尾崎さんは現在、「Third Radio」のカウンターに立っているという)。 でも、嬉しいニュースも一つ。02年に閉店したままだった「Radio」が8月21日にリニューアル・オープンするという話を、あるサイトで知った。本当なのだろうか? あの伝説のBARがよみがえるとしたら、小躍りしてしまうようなニュースだ。 尾崎さんは「Third Radio」から「Radio」に戻るのだろうか? いずれにしても再開「Radio」にぜひお邪魔して、新たな「尾崎ワールド」の展開を見てみたい。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/08/12
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札幌の2日目。天気は小雨、時々みぞれも混じる。気温は2~3度と大阪から来た僕にとっては体感温度は零度近い。でも、旅先で「無駄な時間は過ごさない」のが僕の主義。で、2日目のBAR巡りまでの時間、僕はニッカ余市蒸留所(写真左)へ向かう。 札幌から快速に乗り、小樽で各停に乗り継ぎ約1時間。目指す余市に到着。天気が悪いとあって、駅前にはそれらしき観光客はまばら。前回訪れた時も思ったけれど、蒸留所内外の環境(雰囲気)は素晴らしい。蒸留所内には白樺の林も残る。 今から73年前(1924年)、創業者・竹鶴政孝氏がウイスキーづくりを始めた頃はもっとのどかな農漁村だったのだろうが、今も余市には、ゆったりとした時間と清々しい空気が流れている。 さて、前回(2年前)蒸留所内をひととおり見学した僕は、一直線で試飲もできるウイスキー博物館へ。早速、試飲コーナーで余市25年と竹鶴21年を飲み比べる=写真右。15mlずつのショットで計1300円なり。出来たて(?)のモルトを蒸留所で飲む幸せ。これだけは大阪では味わえない。 試飲を終えた僕は、ギフトショップでお買い物。「Sherry & Sweet」と名付けられた180ml瓶入りのカスクを何本か。そしてピンバッジ、ネクタイ、ウイスキー漬けの甘納豆、ウイスキーの入ったキャラメル等々を買って、宅配便での発送を頼む(写真左下=博物館でも限定カスクは買えます)。 そろそろお昼どき。前回余市に来た時は、駅前の魚屋さん直営のお店で海鮮丼をいただいたが、今回も同じでは芸がない。 で、選んだのは蒸留所内のレストラン。そのメニューのなかでとくに惹かれたのは「ウイスキー&白ワインによるラムしゃぶ定食」=写真右下。 文字通り、薄切りのラム肉をウイスキーと白ワインでしゃぶしゃぶして味わうのだが、これが想像した以上に旨い。ボリュームも結構あって、これで1200円は安い! あたりまえだが、アルコール分も入っているので、いい気分にもなる(メニューには「車で来られた方はご遠慮ください」とあった)。 さて、余市での予定を消化した僕は、次なる目的地・小樽へ。駅から再び各停に乗り、20分余。まだ午後4時すぎ。BARが開くまでにはまだ少し時間もあるので、運河方面へ歩いて、有名な「北一硝子」のお店に向かう。 「北一硝子」の「クリスタル館」という少し高級な製品を売っている店を覗いたが、僕の探しているカクテルグラスは1点もない。ワイングラスやシャンパングラス、ロックグラスは素敵なオリジナル製品がいろいろあるのに…(写真左下=余市駅前の魚屋さんの店先で。見よ、この安さ!)。 すると、「クリスタル館」の斜め向かいに「北一アウトレット館」という看板が目に入った。ダメモトで覗いてみると、なんとカクテルグラスじゃないけれど、アンティーク風のデザインのリキュールグラスがあった。 しかも1個1350円!「試作品なので、少し気泡が入ったりしていますが、お求めやすい値段になっています」とお店の方。見た目は全然問題ない。嬉しくなってつい2個購入。 さて、小樽の夜のとばりも下りてきた。BAR巡りタイムのスタート。まず1軒目は、2年前に行きたいと願っていてお邪魔できなかったBar・HATTA(写真右下)。 小樽の歓楽街は「花園」という地区にある。BARやスナック、居酒屋などはこの一帯に集中している。なかでもBar・HATTAは、この小樽にあって僕の知る限り、最高のオーセンティックBAR。 1983年のオープン。来年で四半世紀を迎えるから、小樽では老舗の部類に入るだろう。オーナーは店名と同じ八田さん。「大阪からやって来た」僕に対して、八田さんはもちろん、2人の従業員の方もしっかり笑顔で迎え、歓待してくれた。 当たり前だが、余市に近いこともあって、HATTAでは余市限定のカスクがすべて味わえる。せっかくだから、蒸留所では飲まなかった「カスク25年」をいただく。奥行きと、なめらかさ、そして上品な甘さ。ニッカは本場スコットランドに決して負けない。そんなことを改めて確信する(写真左=八田さんとのツーショット)。 昨晩の札幌のBAR巡りの話や、八田さんが親しい大阪キタのバーテンダーFさんやMさんらことなどでひとしきり盛り上がったが、札幌へ戻るまでの間にあと2軒をこなさないといけない僕は、涙をのんでHATTAを後にする。 2軒目。小樽で、ある意味もっとも有名なBARであろう「Donjuan(ドンファン)」(写真左下)へ。ここは僕の友人も「小樽へ行ったら、必ず行くべし」と言っていた。マスターのYさんは、全国にもその名を知られた「怪バーテンダー」。 8時頃お邪魔すると、「Donjuan」のマスター、Yさんはカウンター内の隅っこでお食事中。一見こわもてのスキンヘッドだが、実は優しくて、豪快な喋り方(トーク)で客のハートをすぐつかんでしまう(写真右=多彩なYさんの見事なボトル彫刻)。 Yさんに自己紹介すると、「腹も減ってるだろうから、一杯食べてよ」と、いきなりどんぶり鉢いっぱいの「アンコウのもつ鍋」を前にど~んと置いた。涙が出るほどの凝縮した旨さ! 胃が喜ぶ声が聞こえる。食い干した僕に、「これも旨いから」とでかいタラバの足2本が乗った皿を差し出す。う~ん参った! 何の酒を飲んだかよく覚えてないほど食い物の印象が強烈だった「Donjuan」だが、これだけ頂いて、お勘定は信じられないようなお値段。北海道のバーテンダーは、なんで旅人にこんなに気さくで優しいんだろう。Yさん本当に有難う! 御歳70歳というが、まだまだエネルギッシュなので、またいつか会えそうな気がする。 さて、札幌帰りの電車の時間を気にしながら、小樽の夜最後のBARへ向かう。オーセントホテル小樽内にある「Captain's Bar」のNさんに会うために。ここも、「小樽に行ったら、Nさんのところへぜひ」と大阪のあるバーテンダーから厳命されていた。 Nさんは数々のカクテルコンペで優秀な成績をおさめている、小樽きってのバーテンダー。だから、Nさんが仕切るBARが素晴らしいことは言うまでもないが、何よりも彼のオリジナル・カクテルを飲みたかった。 早速オリジナルを頼む。Nさんが選んだのは「ゆきあかり」というカクテル(写真右)。シャンパンベースで、ジン、ベネディクティン、コーディアル・ライムジュース。 ビターでしめらせた角砂糖を広口のシャンパンの中央(底)に置き、その上から、前記のカクテルを注ぐ。グラスの外側は粉糖でうっすらと覆われ、まるで霜のよう。味わいはきりっと爽やか。「旨~い!」としか言葉が浮かばない。 「また札幌に戻るので、時間があまりなくてごめんなさい」という僕に対して、「いえいえ、時間がないのにわざわざ寄って頂き、こちらこそ有難うございます」とNさんは嬉しいお言葉。「また必ず来ます」。帰り際、僕はBARの玄関でNさんと固く握手して、再会を誓った。 さて、快速電車で札幌に戻った(36分で着きます)僕。時刻は夜10時半頃。でも土曜夜のススキノも相変わらず賑わっている。僕には札幌でもう1軒行っておきたいBARがあった。 ススキノ交差点角のビルの2階にある「The Nikka Bar」。全国にNikka Barは多くあるが、「The」が付くのはここだけとか。ニッカのモルトやブレンディドの品揃えの豊富さは言うに及ばず、お値段もとても良心的な酒場である。 ここには業界でもその名を知られた菅(すが)さん(写真左上)という有名なバーテンダーがいらっしゃる。御歳80歳といい、札幌ではあの山崎達郎さんに次いで長老格という。しかし白いバーコートをおしゃれに着こなし、てきぱきと客をさばく姿はとても80歳には見えない(写真右=北海道で人気の「スープカレー」。結構ハマリます)。 とくに僕が驚いたのは、洗い物なども率先してされている姿。若い従業員は5~6人はいる。しかし菅さんはたまったグラスを黙々と自分で洗う。普通、80歳の店長のすることではないが、そんな姿勢にただただ感銘を受けた(写真左=帰途についた15日は雪模様だった)。 生き甲斐があれば人は歳をとらない。肉体的な衰えは誰にも訪れる。しかしその衰えは生き甲斐のない人よりは緩やかになり、精神的にも若くあり続けられる。そんなお手本が、僕には菅さんや山崎さんのような気がする。 【Bar HATTA】小樽市花園1-8-18 電話0134-25-6031 【Bar Donjuan】同市花園1-12-21 電話25-1399 【Captain's Bar】同市稲穂2-15-1 オーセントホテル2F 電話27-8100 【The Nikka Bar】札幌市中央区南4条西3丁目、第3グリーンビル2階 電話011-518-3344
2007/04/20
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吉田バーと言えば、誰もが認める大阪屈指の老舗BAR。大阪の旅行ガイドブックなら、まず例外なく紹介されるBARだろう。昭和6年(1931)の創業。ことし75年目を迎える。 創業当時は現在地(道頓堀川の南側、御堂筋から西へすぐ)より少し東方の、千日前という処にあったが、戦後、今の場所に移った。チーク材をふんだんに使った落ち着いた内装。長年集められたミニチュア・ボトルが棚狭しと並べられ、座れば少しきしむカウンターの椅子も歴史を感じさせる(写真左下は、店内カウンター席の様子)。 初代オーナーの吉田寿二さんは、もともと繊維関係の仕事をしていた。ところが、第一次世界大戦後の不況の余波で、経営していたメリヤス問屋を閉めざるを得なくなった。舶来のものに関心が強かった吉田さんは、当時まったく新しい業種であった、バー経営で再出発しようと心機一転、決意する。それが「吉田バー」の始まりである。 昭和初期、洋酒を仕入れるのは大変な苦労だったに違いない。だが研究熱心で、努力家の吉田さんを、常連客は海外出張の折などに珍しい洋酒を買ってきたりして支え、店は順調に発展してきた。 2代目オーナーとなった息子の芳二郎さんは、昭和26年(1951)、24歳から父親と一緒にカウンターに立ち始めた。芳二郎さんも、父親以上に研究熱心だった。その成果は、「洋酒入門」「洋酒入門2」(1968年、保育社刊)という2冊の著書に結実している。 実は意外と知られていないのだが、芳二郎さんは下戸で、お酒がほとんど飲めなかった。にもかかわらず、今も版を重ねる歴史的な本を著したのは、立派と言うしかない。本が出版された昭和40年代前半は、おそらく日本にはまともなカクテル・ブックなどなかった時代。年配のバーテンダーやBAR好きの方で、この芳二郎さんの本にお世話になった人も多いだろう。 残念ながら、芳二郎さんは2001年5月に78歳で亡くなられた。僕は初代の寿二さんは存知あげないが、芳二郎さんの仕事ぶりは、僕がBARで酒を飲み始めてからはずっと見続けてきた。いつも背筋をぴんと伸ばし、カウンターに立っていた芳二郎さん。無駄口はほとんど言わず、真面目で実直な人柄は、誰からも愛された。 店はいま、芳二郎さんの長女の啓子さんが3代目を継ぎ、カウンターを守る。長い歴史を持つが故、当たり前だが、常連客の年齢層は高い(50歳以上の比率がとても高い)。3世代で通うというファンも少なくない。店は一応午後4時開店だが、3時半くらいから常連客が集まり始める。そんなせっかちな客たちを、店は嫌な顔一つせず迎え入れるから、不思議なBARだ。 客たちは、BGMのない静かな店内で、新聞を読みながらウイスキー・グラスを揺らし、琥珀色の美酒を口に運ぶ。ミナミの繁華街の喧噪(けんそう)は、店の中までは聞こえない。吉田バーには今日も、昔と変わらぬ、ゆったりとした時間が流れている。【吉田バー】大阪市中央区難波2-4-6 電話06-6213-1385 午後4時~10時 第2・4土曜と日祝休
2005/03/28
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19.ブロンクス(Bronx)【現代の標準的なレシピ】ジン(40)、ドライ・ベルモット(10)、スイート・ベルモット(10)、オレンジ・ジュース(10) 【スタイル】シェイク 19世紀末から20世紀初めには誕生していたと思われる古典的カクテルの一つです。カクテルブック等ではしばしば「米禁酒法時代(1920~1933)に、当局の摘発を逃れるためのカモフラージュ(オレンジ・ジュースに見せかける)として考案された」と紹介されていますが、これは大きな間違いです。 カクテルブックの古典的名著である「173 Pre-Prohibition Cocktails」(トム・ブロック著、1917年刊)や「Harry’s ABC Of Mixing Cocktails」(ハリー・マッケルホーン著、1919年刊)にも登場していることからも、少なくとも禁酒法施行以前の1910年代に誕生していたことは確実です。 現時点で確認した限りでは、上記の「173…」が欧米で初出文献です。そのレシピは、「ドライ・ジン3分の1、ドライ・ベルモット3分の1、スイート・ベルモット3分の1、(スライス・オレンジを入れてシェイク)」となっています。レシピからも分かるように、マティーニのバリエーションの一つとして考案されたと考えられています。 カクテル名は、米国ニューヨーク市のブロンクス地区(またはブロンクス動物園)にちなむと伝わっています。ただし、考案者や時期等については、他の古典的カクテル同様、さまざまな説が現在まで伝わっています。Wikipedia英語版だけでも以下の3つの説を紹介しています。(1)1905年、ブロンクスのレストラン・オーナー、ジョセフ・ソルマーニ(Joseph Sormani)が考案(ただし彼がヒントを得た「ブロンクス」の原型はフィラデルフィアで日常的に飲まれていたドリンクだった)(2)1899年~1906年の間のある時、ニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルのバーテンダー、ジョニー・ソローン(Johnnie Solon)が常連客の求めに応じて考案。ソローンは、ブロンクス動物園の奇妙な動物たちの話をよくしていたその常連客のイメージから「ブロンクス」と名付けた(原資料=The Old Waldorf-Astoria Bar Book、1935年刊=でも確認)。(3)1908年に出版されたウイリアム・ブースビー(William T. Boothby)のカクテルブックによれば、「ブロンクス」はピッツバーグのバーテンダー、ビリー・マロイ(Billy Malloy)が考案したと記すが、なぜ「ブロンクス」という名前にしたのかについては触れていない(※マロイ氏は禁酒法時代にカクテル「オレンジ・ブロッサム」を考案したとも伝わる人)。 参考までに、「173…」以外の1910~40年代の主なカクテルブックに収録されている「ブロンクス」を見ておきましょう。・「ABC of Mixing Cocktails」(Harry MacElhone著、1919年刊) ジン3分の1、ドライ・ベルモット3分の1、スイート・ベルモット3分の1、オレンジ・ジュース4分の1個分・「Cocktails, How To Mix Them」(Robert著、1922年刊) ジン3分の1、ドライ・ベルモット3分の1、スイート・ベルモット3分の1、オレンジ・ジュース4分の1個分、オレンジ・ビターズ少々(好みで)・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊) ジン4分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1、オレンジ・ジュース4分の1・「World Drinks and How To Mix Them」(William Boothby著、1934年刊) ジン2分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1、オレンジ・ジュース1tsp・「The Artistry of Mixing Drinks」(Frank Meier著、1934年刊) ジン2分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1、オレンジ・ジュース8分の1個分・「Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S. Crockett著、1935年刊) ジン2分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1、オレンジ・ピール・「The Stork Club Bar Book」(Lucius Beebe著、1946年刊) ジン1オンス、ドライ・ベルモット4分の3オンス、スイート・ベルモット4分の3オンス、オレンジ・ジュース4分の1オンス・「The Official Mixer's Manual」(Patrick G. Duffy著、1948年刊) ジン2分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1、オレンジ・ジュース4分の1個分 「ブロンクス」のレシピ材料に卵黄を加えると「ゴールデン・ブロンクス(またはブロンクス・ゴールデン)」、卵白を加えると「シルバー・ブロンクス(またはブロンクス・シルバー)」と呼ばれることは、バーテンダーなら知っておいて損はないかもしれません。 「ブロンクス」は欧米からそう遅れることなく日本に伝わっており、1920年代の国内のカクテルブックにも登場しています。 【確認できる日本初出資料】「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)。レシピは「ジン3分の1オンス、ドライ・ベルモット3分の1オンス、スイート・ベルモット3分の1オンス、オレンジ・ジュース6分の1個分、オレンジ・ビターズ少々」となっています。・こちらもクリックして見てねー! → 【人気ブログランキング】
2016/12/13
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67.オーガスム(Orgasm)【レシピ1】アイリッシュクリーム・リキュール=一般的には「ベイリーズ」(またはドランブイ)(20)、カルーア・リキュール(20)、アマレット(15)、生クリーム(15)、牛乳(15)【スタイル】シェイクまたはブレンダーで 【レシピ2】コアントロー(30)、アイリッシュクリーム・リキュール(30)、グランマルニエ(20)【スタイル】ビルド(プースカフェ・スタイルで) 「オーガズム」は、1988年に公開(日本での公開は1989年)されたトム・クルーズ主演の映画「カクテル(Cocktail)」で登場し、その後、世界的にブレークしたカクテルです。映画では、バーテンダー役のクルーズが、フレア・バーテンディングの派手なパフォーマンスを披露したことでも知られています。 「オーガズム」とは思わずドキリとするような、意味ありげな名前ですが、味わいはまろやかで、風味も良いカクテルです。映画版「カクテル」では、「オーガズム」の他にも、「セックス・オン・ザ・ビーチ」「ジュ・ダムール(愛の汁)」「アラバマ・スランマー(アラバマの早漏男)」「デス・スパズム(絶頂)」などという過激な名前カクテルがたくさん登場したことで、当時とても話題を集めました(もともと日本生まれの「レッド・アイ」に生卵を入れるという映画版「レッド・アイ」にも驚かされました)。 ただし、この「オーガズム」もそうですが、原作の小説には登場していません。原作者であり、映画版でも脚本を担当したヘイウッド・グールドが、監督のロジャー・ドナルドソンと相談して、映画の内容(見た目)を派手に演出するために創り出したのではないかと言われています(グールドはバーテンダーの経歴もあるということですが、レシピを本人が考案したのかどうかは不明です)。 ちなみに、映画「カクテル」は興行的にはそこそこヒットしましたが、映画評論家らには「(内容やストーリーが)薄っぺらい」「全般的に下品で、深みがない」と酷評され、その年の最低作品を選ぶ「ゴールデン・ラズベリー賞」では、作品賞と脚本賞に選ばれました。トム・クルーズ自身も、自らの出演映画のワースト4に入れているという話です(出典:Wikipedia)。 「オーガズム」は、欧米のカクテルブックではなぜか収録している例はきわめて少なく、現時点で確認した限りでは「Cocktails & Party Drinks」(2001年刊)のみです(Webの専門サイトでは多数で紹介されていますが)。レシピは冒頭の代表的な2つ(レシピ「1」の方が一般的ですが)以外にも、以下のようなヴァリエーションが多数存在する不思議なカクテルです。【レシピ3】アイリッシュクリーム・リキュール(25)、カルーア・リキュール(25)、アマレット(25) ※プースカフェ・スタイルで。【レシピ4】アイリッシュクリーム・リキュール(20)、カルーア・リキュール(20)、アマレット(15)、バニラ・アイスクリーム(カップ半分) ※オンザ・ロックまたはプースカフェ・スタイルで。【レシピ5】ウオッカ(15)、アマレット(15)、トリプルセック(15)、ホワイトクレーム・ド・カカオ(15)、生クリーム(30) ※オンザ・ロックまたはプースカフェ・スタイルで/このレシピは「スクリーミング・オーガズム(Screaming Orgasm)」の異名を持つ。 「オーガズム」は、日本にも映画公開(1989年)と同時に伝わり、「(酒場の)話のネタ」になるからとバーでも提供するところが、90年代末まではよく見られました。しかし、映画の記憶が薄らいでくると、いつしか現場からは忘れ去られてしまい、今に至っています。現在の若いバーテンダーなどは、映画版を観た人も少ないでしょうから無理もありませんが、(その名前はともかく)意外と美味しいカクテルなので、個人的には、ぜひ今後もつくり続けていってほしいと願っています。【確認できる日本初出資料】「カクテルズ」(福西英三著、1994年刊)。レシピは、「ベイリーズ・アイリッシュクリーム20ml、カルーア・リキュール20ml、アマレット15ml、生クリーム15ml、牛乳15ml(シェイク)」となっています。日本国内の文献ではなぜか、他に収録している例をあまり見かけません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/09/20
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(120) みなと座の船出 1990年 ※どういうきっかけだったのか生前聞きそびれたが、一徹氏はエッセイストで評論家の西舘好子氏(作家の故・井上ひさし氏の前夫人)と生涯長く親交を持った。プロデビュー(1988年)直後から、西舘氏の連載エッセイの挿絵画家として起用された。 西舘氏は、当初は井上氏の立ち上げた劇団「こまつ座」のプロデューサーとして活動していたが、井上氏との離婚後の1987年、後に夫となる西舘督夫氏と劇団「みなと座」を立ち上げた。 その旗揚げ公演「幻ろさんじん」(1990年、山城新伍・主演、津川雅彦・演出)では、一徹氏はパンフレットに使う北大路魯山人の肖像画(この連載の第43回でも紹介)を依頼され、なんと油絵で描いた。この切り絵は、「みなと座」の船出を祝って一徹氏が贈ったもの。「幻ろさんじん」のパンフでも巻末で使われている。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/02/07
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42.ジャック・ローズ(Jack Rose)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)アップルジャック・ブランデー(カルバドス)(45)、ライム・ジュース(15)、グレナディン・シロップ(10) 【スタイル】シェイク ジャック・ローズは20世紀初頭に誕生したと伝わるクラシック・カクテルで、現代のバーでもよく注文が出る人気カクテルの一つです。1900年代後半の米国のカクテルブックに登場していることから少なくとも、1910年代には欧米・大都市のバーでは、かなり認知されていたと思われます。誕生や経緯・由来については以下のような諸説がありますが、決定的なものはありません。 (1)1900~1910年の間に、ニューヨークで生まれた。カクテル名は、当時の著名な暗黒街のボス、ジェイコブ・ローゼンワイヒのニックネーム「ボールド・ジャック・ローズ」から名付けられた(考案者は不明)(出典:Wikipedia英語版ほか)。 (2)1900年~1910年の間に、ニューヨークのジェイコブ・ローゼンヴァイヒ自身が考案した(出典:PBOのHP)。(※Wikipedia英語版はこの説に否定的) (3)カクテル名は、ジャックミノ(Jacqueminot)という名のバラの花の色がローズピンクだったことから(考案者や誕生の時期には触れず)(出典:ウォルドルフアストリア・ホテルのバーテンダー、アルバート・クロケットの回想録「Waldorf Bar Days」, 1931年刊)。 (4)ニュージャージー州ニューアークのレストラン経営者、ジョセフ・P・ローズ(Joseph P. Rose)が考案し、自らの名前から名付けた(考案時期は不明)(出典:Wikipedia英語版)。 (5)考案者や時期は不明だが、カクテル名については、ベースとなるアップル・ブランデー「アップルジャック」と、材料のグレナディン・シロップが生み出すローズ色に由来している(※カクテル名については、現在ではこの説が多数派です)。 「ジャック・ローズ」が欧米のカクテルブックに登場するのは、現時点で確認できた限りでは、1908年に米国人のウィリアム・T・ブースビー(William T. Boothby)が著した「World Drinks and How To Mix Them」が最初です。ブースビーのレシピは、「アップルジャック2分の1、グレナディン・シロップ4分の1、レモン・ジュース1tsp(4分の1?)」というシンプルなものです。 また、6年後の1914年に米国人のジャック・ストラウブ(Jacques Straub)が著した「Mixed Drinks」にも「アップル・ジャック1jigger、ライム・ジュース2分の1個分、グレナディン・シロップ4分の1jigger」が紹介されており、「ジャック・ローズ」は1910年代にはバーの現場でかなり認知されていたことが分かります。 なお、11年後の1919年、英国で出版されたハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)の「ABC of Mixing Cocktails」にも掲載されていますが、マッケルホーンのレシピは、「アップルジャック<またはカルバドス>3分の1、ジン6分の1、ドライ・ベルモット12分の1、スイート・ベルモット12分の1、オレンジ・ジュース6分の1、ライム<またはレモン>ジュース6分の1、グレナディン・シロップ少々」と、7種類も材料を使う複雑なものとなっています。 マッケルホーンのレシピは、ジンやベルモット、そしてオレンジ・ジュースまで加えるというとても興味を引く内容ですが、こうしたジャック・ローズのレシピは、調べた限りではマッケルホーンの本以外には見当たりません(しかしマッケルホーン自身は後年、「Harry's ABC…」の改訂版で、現代の標準レシピに近いもの<カルバドス2オンス、レモン・ジュース=分量指定なし、グレナディン・シロップ4dash>に変えているので、「バーの現場の大勢に従って」修正したのかもしれません)。 ちなみに、後の1920~40年代の主なカクテルブックに登場した「ジャック・ローズ」は、どういうレシピだったのか、ひと通りみておきましょう。・「Cocktails: How To Mix Them」(ロバート・ヴァーマイヤー著、1922年刊)英 アップルジャック3分の1ジル(ジルは昔の容量単位。1ジル=約142mlなので、約50ml弱というところ)、ライム・ジュース(またはレモン・ジュース)6分の1ジル(約25ml)、ラズベリー・シロップ(またはグレナディン・シロップ)少々・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著 1930年刊)英アップルジャック(またはカルバドス)4分の3、グレナディン・シロップ4分の1、ライム・ジュース1個分(またはレモン・ジュース半個分)・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年刊)米 アップルジャック45ml、ライム・ジュース半個分、グレナディン・シロップ1tsp、・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 アップルジャック(またはカルバドス)2分の1、グレナディン・シロップ2分の1・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 アップルジャック3分の2、グレナディン・シロップ3分の1・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 アップルジャック(またはカルバドス)4分の3、グレナディン・シロップ4分の1 レモン・ジュース(またはライム・ジュース)半個分・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(ビクター・バージェロン著 1946年刊)米 アップルジャック1オンス、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分 アーネスト・ヘミングウェイは、1926年に発表した「日はまた昇る(The Sun Also Rises)」の中で、ホテルのバーで登場人物がジャック・ローズを飲むシーンを描いています(出典:Wikipedia英語版)。また、往年のハリウッド俳優、ハンフリー・ボガードがお気に入りだったカクテルとしても知られています(出典:欧米の複数の専門サイト)。 「ジャック・ローズ」が日本に伝わったのは古く、1920年代に出版されたカクテルブックにその名前が見えますが、街場のバーで普及したのは戦後になってからです。 【確認できる日本初出資料】「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)。そのレシピは、「アップルジャック3分の2オンス、ライム・ジュース3分の1オンス、ラズベリー・シロップ少々(シェイク)」となっています。 グレナディン・シロップではなく、ラズベリー・シロップであるのは、日本にはマッケルホーンのレシピがまず伝わったことが理由でしょう。ちなみに、生ライムがとても貴重だったこの頃の日本で、果たして、このレシピに忠実につくれるバーがどれくらいあったでしょうか。
2017/03/26
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カタカナまたは英語で、ハッピーエンド(Happy End)と言えば、映画やドラマで安心できる、嬉しい終わり方。では、ひらがなで「はっぴいえんど」と書けば、貴方は何を連想する? 僕が想い浮かべるのは、1970年代の伝説の和製ロックバンド「はっぴいえんど」しかない。「日本語はロックにならない」という既成概念を初めて覆した4人のロッカーたち。活動期間はわずか2年余と実に短く、それ故に、今なお伝説のバンドとして根強い人気を保っている。 「はっぴいえんど」が偉大なのは、日本の音楽シーンに残した功績だけではない。解散後の4人の活躍、そして30年以上経った後も、4人が若いミュージシャンに与え続けるさまざまな影響など数え切れない。 メンバーは、細野晴臣(ベース、1947年生まれ)、大瀧詠一(ギター、1948年生まれ)、鈴木茂(ギター、1951年生まれ)、松本隆(ドラムス、1949年生まれ)。4人は作詞、作曲も自分たちでこなした。そして、洋楽のコピーから脱した彼らの斬新な音楽を聴いて、次世代のミュージシャンが育っていった。 はっぴいえんどの影響を受けて、和製ポップ・ロックの道を究めていったミュージシャンは、例えば、山下達郎、矢野顕子、大貫妙子、竹内まりや、松任谷由実、山下久美子…。他にも挙げきれないほど(写真右=はっぴいえんど。左から細野、大瀧、鈴木、松本。長髪が時代を映します)。 1970年8月のデビュー・アルバム「はっぴいえんど」(写真左上)は衝撃的だった。それまで日本のロック・ミュージシャンは、横文字(英語)の歌詞でしか歌わなかった。日本語は歌謡曲、演歌かフォーク・ソングのものというのが一般的な認識だった。そのロックのリズム、メロディーを日本語に載せて、はっぴいえんどは歌った。 一部の専門家からは高い評価を受けた。しかし、彼らの音楽が一般的な支持を得るほど、まだ日本の聴衆は成熟していなかった。翌年の1971年11月に出したセカンド・アルバム「風街ろまん」(写真左下)も、さらに高い評価を受けた。このアルバムからは「風をあつめて」「抱きしめたい」などのヒット曲も生まれた(「風をあつめて」はCMで使われたり、玲葉奈という女性歌手が数年前、カバーしてちょっと話題になった)。 しかし、それでも大衆的な人気というまでには至らず、73年2月、3枚目のやや実験的なアルバム「HAPPY END」(写真右下)を出して、バンドは解散する。この最後のオリジナル・アルバムは、米国の有名なプロデューサー、ヴァン・ダイク・パークスを迎えて製作され、ロック・ミュージシャンの間では評価が高い内容だったが、セールス的には成功とは言えなかった。 僕は、生はっぴいえんどを一度だけ聴く機会があった。1972年4月7日、今はなき大阪・高島屋ホール。「風街ろまん」を出して間もない頃で、コンサートでも「風街…」からの曲が中心だったが、大好きな「12月の雨の日」も演奏してくれた。バンドとして最も充実していた時期のはっぴいえんどが聴けたのは、幸運だったと言うしかない。 バンド解散後、細野はしばらくソロ活動をしていたが、78年、坂本龍一、高橋幸宏と組んでYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成、テクノとロックとポップスを融合させたような斬新な音楽で、世界的にも成功をおさめた。そして現在でも、プロデューサーとして、日本のポップ音楽のご意見番として活躍している。 大瀧はソロ活動と平行して、CMソング(三ツ矢サイダーなど)も数多く手がけ、他のミュージシャンにもさまざまな曲を提供した(松田聖子の「風立ちぬ」、ラッツ&スターの「夢で逢えたら」等々。森進一に「冬のリビエラ」を歌わせた時はびっくりしたけれど…)。 松本は、解散後は作詞家として独り立ちし、松田聖子、太田裕美、アグネスチャンらに詞を提供。数々の賞も獲り、今なお売れっ子作詞家の1人である。唯一、鈴木だけは主にソロ活動を貫き、その後大きく脚光を浴びることはなかったが、75年に出したソロ・アルバム「バンド・ワゴン」は、専門家だけでなく一般のロックファンからも高い評価を受けた。 はっぴいえんどは1985年に、国立競技場で一夜限りの再結成コンサートを開いた(ついこの間のことのような気もするが、もう20年も前か…。一応、ライブ・アルバムにもなってます)。ゲストにはユーミンら彼らを慕うミュージシャンが数多く集まった。 解散の原因はけんか別れでもなく、元々違っていた4人の音楽性が、3枚のアルバムづくりで煮詰まってしまっただけ。4人とも今も仲がいい。60代にさしかかろうとする彼らが今集まれば、どんな音を紡いでくれるかとても興味深い。だれか仕掛けてほしいなぁ。はっぴいえんどの32年ぶり、4枚目の「スタジオ録音アルバム」を…。
2005/08/12
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約1カ月ぶりのご無沙汰でしたが、Bar UK写真日記です(By うらんかんろ)。 マスターはこの日、お客様から誘われて、シンガー・ソングライターのRay Yamadaさんのライブにお邪魔しました。ライブの後は、お客様3人と一緒に居酒屋へ。その店のメニューに「たこ焼きセット」なるものがあり、もちろん注文しました。関西人にはやはり、たまらない味です! バーUKのお酒のラインナップに初めて梅酒が仲間入りしました。しかし、そこは普通の梅酒ではありません。ウイスキー樽で熟成させた梅酒(95%)と梅酒樽熟成のグレーン・ウイスキー(5%)とをブレンドしたという「山崎・焙煎樽梅酒」です。甘さ控えめの上品な味わいです。ぜひ一度ご賞味を! 「初めて来られたお客様にバーUKのことをもっと知ってもらいたい」というマスターの願いを生かした小冊子(A6判、4頁)ができました。バーUKのコンセプトや特徴、主なドリンク&フードメニュー、そして営業日・営業時間等のデータも紹介しています。もちろん、口コミの大切さを重んじるマスターは、常連のお客様にもお渡しして、まだバーUKのことを知らない方にも宣伝してもらえればと願っています。 常連のお客様のご協力もあって、上記の小冊子の英語版もできました。これは訪日&在日の外国人(とくに欧米から来られた皆様)のために作成したものです。来阪する欧米系の外国人の方がよく利用するホテルでもバー案内の際、役立ててもらえると思っています。 マスターは、きょうは閉店後にモルトのお勉強です。スコットランド・セントアンドリュースにできた新しい蒸留所「Eden Mill」。まだ日が浅いのでウイスキーは販売できず、蒸留前のニューメイクスですが、なかなか良い味に仕上がっていたとのことです。 マスターの趣味の一つは、バラ栽培。ことしもお気に入りのチャールストンが咲きました。 きょうは開店前に、ウイスキーのお勉強。台湾のモルトウイスキー「カヴァラン(Kavalan)」のセミナーです。「美味しいし、クオリティも高いんだけど、値段がねぇ」とマスター。購入先として、中国本土の金持ちがターゲットになっているので、高級路線の経営戦略です(ほとんどが1本1万5000円以上)。バーUKでは一番低価格(8000円台)の「コンサートマスター(ポートワイン樽熟成)」という銘柄を置いていますが、マスター曰く「これでも十分美味しい」とか。 きょうはマスターの休日。去年秋に旅したチェコの郷土料理「クバ(Kuba)」に挑戦しました。大麦とドライマッシュルーム、玉ネギを使ったリゾットのような料理です。大麦はこういう形で食べるのは初めてだそうですが、「プリプリした食感が美味しい、不思議な味わい」なんだとか。皆さまも機会があればいかがですか?【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途土曜に月2回、水曜に月1回不定休(月によっては変更されることも有り)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。オープン~午後7時まではノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/05/07
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少し古い話ですが、先般四国・高松に出張した際のBAR巡りの報告です。日帰りだったので、行けたのは3軒だけですが、いずれも素敵なお店でした。 【Bar Le Camarade(ル・カマラード)】1990年にオープンし、今年で22年目。高松では今や最も老舗と言ってもいいBAR。実は、うらんかんろは10数年前に一度お邪魔しているはずだけれど、その時は4人でやって来て、テーブル席で話してばかりいたので、恥ずかしながら店の記憶があまりない。 今回は、じっくりゆっくり飲もうと開店早々、カウンターに座った。マスターにご無沙汰の挨拶(もっともマスターは覚えていないけど)をした後、この夜のスターターの酒を味わいながら、最近の高松のBAR業界の景気などについてあれこれと話題に。 今回初めて名刺を交換したマスターの名前を見て、あれ?っと。3軒目で行こうと思っているBARのマスターと姓が同じである。聞けば、「ええ、兄弟なんです。僕が兄で、あっちが弟なんです。よく僕が弟と間違えられますが…」(笑)とのお答え。 それはともかく、気持ちの良い、温かい接客・サービスに、僕はすっかり満足。さすが高松で人気の老舗である。キャパも結構広いので、ゆったり落ち着けて、グループで行っても使える店だ。皆さまも高松出張の際にはぜひお越しを。【Cocktail Bar Dank(カクテルバー・ダンク)】上記・カマラードで修業したオーナーのHさんが開いたお店。Hさんは女性だが、NBA(日本バーテンダー協会)の全国コンクールでも優秀な成績をおさめられた、腕利きのバーテンドレスである。 そんなHさんだから、もちろんカクテルがウリな店なのだが、残念ながら、うらんかんろがお邪魔したこの夜は、店に来られるのが9時すぎになる(日帰りの僕はたぶんお会いできない)というので、スタッフのTさん(この方も女性)にカクテルをお願いする。 あとで聞いたのだが、Tさんもジュニアのコンクールに出ている伸び盛りの方という。先生がHさんということもあって、カクテルづくりの所作などは実にきちんとしていて、味わいも申し分なかった。「ダンク」はまだまだ発展途上だが、今後ますます楽しみなBARになることは間違いない。次回はHさんにお会いするために、一泊出張にして、もう少し遅い時間にお邪魔することにしよう。 【Barふくろう】3軒目にお邪魔したのは、1軒目「カマラード」のマスターの弟さんがオーナーの店だ。ダンクからも歩いてすぐ、「古馬場(ふるばば)」というエリアにある。重そうなドアを開けると、マスターは不在だったが。、スタッフの方が「もうすぐ帰ってくると思います」と応えてくれたので安心して飲んで待つことに。 店内は、オーセンティックBARの見本のよう。重厚で、落ち着いた雰囲気に溢れている。ハイ・スツールの椅子もとても座りやすくて、カウンターも居心地がいい。まさに、僕が理想とするBARの内装に近い。 間もなく、オーナーのOさんが戻ってきた。Oさんは、僕が大阪で行き付けのBARのマスターと懇意だったこともあって、打ち解けるのにまったく時間はかからなかった。話には聞いていたが、とても話好きで、気さくで、温かい方だ。第一印象だけで(マスターに)惚れ込んでしまうことがあるが、ここもまさにそんな店。 Oさんは高松で有名なPという老舗BARで長年修業され、いずれその店を継ぐものと誰もが思っていたが、事情があって、そのBARは数年前に、一代で店を閉じてしまった。そこで、今の「ふくろう」をオープンした。 店名の「ふくろう」はヨーロッパでは「幸せを呼ぶ鳥」で、「首がよく回る」ので「商売繁盛の鳥」なのだそうだ。時間の経つのを忘れるほど居心地の良い「ふくろう」が、高松で愛される理由は、Oさんの人柄に他ならないと思う。店もきっと看板のふくろうにように、繁盛し続けるだろう。【Bar Le Camarade(ル・カマラード)】香川県高松市瓦町2-1-16 エースファーストビル3F 087-862-0126 午後7時~午前3時 日休 【Cocktail Bar Dank(ダンク)】高松市丸亀町9-7 杉山ビル1F 851-1020 午後7時~午前2時 日休 【Barふくろう】高松市古馬場町7-7 宇野ビル1F 823-3925 午後7時~午前3時 日休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/04/23
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37.グラスホッパー(Grasshopper)【レシピ】クレーム・ド・マント(20)、ホワイトクレーム・ド・カカオ(20)、生クリーム(20) 【スタイル】シェイク 少なくとも1930年代前半までには米国内で誕生していたと思われるクラシック・カクテルです。誕生の由来については、以下のような2つの説が伝わっていますが、いずれも裏付ける資料は明示されていません。「グラスホッパー(バッタ)」という名前は、ミント・リキュール(クレーム・ド・マント)の緑色からの連想と言われています。 (1)米国ニューオーリンズの観光名所「フレンチ・クォーター」にある老舗レスランバー「トゥジャックス(Tujague's)」で、1919年に誕生した。考案者はこの店で働いていたフィリペール・ギシェーと伝わる(出典:Wikipedia英語版ならびに米国のカクテル史に詳しいジム・ミーハン氏情報) (2)1900年頃、サンフランシスコのパレス・ホテルのバーテンダー、ハリー・オブライエン(Harry O’Brien)が考案した(出典:PBOのHPほか)。ただし、オブライエン氏のレシピは、生クリームを使わないレシピだったと伝わる。 なお、「グラスホッパー」は誕生当初、3層のプースカフェ・スタイルでつくられていましたが、その後、シェイク・スタイルに変わったと伝わっています。 欧米のカクテルブックで「グラスホッパー」が登場するのは、現時点で確認できた限りでは、禁酒法廃止直後の1934年に出版された「The Official Mixer's Manual」(Patrick G. Duffy著)が最初です。そのレシピは、「グリーンクレーム・ド・マント30ml、ホワイトクレーム・ド・マント30ml、生クリーム30ml(シェイク)」となっています。 参考までに、1940~50年代の代表的なカクテルブックでの「グラスホッパー」のレシピを少し見ておきましょう。・「Trader Vic's Bartender's GUide」(Victor Bergeron著、1947年刊)米 グリーンクレーム・ド・マント1オンス、ホワイトクレーム・ド・カカオ2分の1オンス、生クリーム2分の1オンス(シェイク)・「Old Mr. Boston Official Bartender's Guide」(1949年版)米 グリーンクレーム・ド・マント3分の1、クレーム・ド・カカオ3分の1、生クリーム3分の1(シェイク)・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham編、1956年刊)米 グリーンクレーム・ド・マント3分の1、ホワイトクレーム・ド・カカオ3分の1、生クリーム3分の1(シェイク) 【確認できる日本初出資料】「オーソドックス・カクテルズ」(落合芳明著、1955年刊)。レシピは、「クレム・ド・ミント、クレム・ド・カカオ各2分の1ずつをシェイク」となっていて、生クリームは入手が難しかったためなのか、使っていません。 しかしこの4年後に出版された「カクテルの本」(間庭辰蔵著、1959年刊)では、「クレム・ド・ミント、クレム・ド・カカオ、新鮮なミルク各3分の1ずつをシェイク」となっていて、牛乳で代用するレシピになっています。その後1960年代に入ると、乳製品流通事情の改善もあって基本、「生クリーム」と指定するレシピに変わっていきます。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/02/12
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76.ソルティ・ドッグ(Salty Dog)【現代の標準的なレシピ】 (容量単位はml)ウオッカ(45)、グレープフルーツ・ジュース(45~90)、氷、塩でグラスをスノー・スタイルに【スタイル】ビルドまたはシェイク 「ソルティ・ドッグ」は、「英海軍生まれのカクテル」と言われ、多くのカクテルブックでもそのように紹介されています。この定説への異論は聞かれませんが、誕生の時期については、1930年代~40年代と幅があり、詳細は不明です。 カクテルに関する著作も多い作家のオキ・シロー氏はその著書「カクテル・コレクション」(1990年刊)で「1940年代に誕生したジン・ベースのソルティドッグ・コリンズが前身」と紹介しています。「ソルティドッグ・コリンズ」は、ジン・ベースでライム・ジュース、塩少々、ソーダ(適量)というレシピです。 オキ氏は根拠となる一次資料を明示していませんが、他にもこの「ソルティドッグ・コリンズ起源説」を紹介するサイトもあり、ソルティドッグ・コリンズが40年代に存在したことは事実なので、そのライム・ジュースがグレープフルーツ・ジュースに代わったバリエーションが、「ソルティ・ドッグ」として定着していったという説にはそれなりに説得力はあるかと思います。 「ソルティ・ドッグ」(塩辛い犬=「犬」は転じて「野郎」というような意味)とは、スラングで「海軍の甲板員」のこと。いつも波しぶきを浴びて、体じゅうに塩気を帯びていることから、この名がついたと言われています。スノー・スタイルは、潮まみれで仕事をする甲板員をイメージしているとのことです。 一方、「Dog」は、綴りの文字順を入れ替えた「God」すなわち「塩(海)の神(God Of Salt)」を意味するという説もあります(出典:Webの専門サイト)が、裏付ける資料は明示されていません。 以上のような経緯、すなわち当初の「ソルティ・ドッグ」はジン・ベースだったということはバー業界でもあまり知られていません。ちなみに昔は、グラスの縁に塩を付けるスノー・スタイルではなく、塩をひとつまみ直接放り込んだり(または一緒にシェイク)して飲むというスタイルが一般的でした。現在のようなウオッカ・ベースで、グラスをスノー・スタイルにするというやり方は、1970年代以降に米国の西海岸で誕生したと言われています(出典:Suntory HPほか多数)。 欧米で「ソルティ・ドッグ」の知名度が上がったのは1950年代の後半以降です(当初は、前述の通りジン・ベースが主流でしたが)。その後70年代以降、トロピカルカクテル・ブームにも乗って世界的に広く普及しました。しかし意外にも、50~70年代のカクテルブックで収録している例は、なぜかそう多くありません。 「ソルティ・ドッグ」が、(欧米の)カクテルブックで初めて紹介されたのは、現時点で確認できた限りでは、米国で出版された「Mr Boston Official Bartender's Guide(ミスターボストン・バーテンダーズ・ガイド)」(1935年初版刊)の1953年の改訂版です。そのレシピは、「ドライ・ジン60ml、グレープフルーツ・ジュース120ml、氷、塩ひとつまみを加えて、よくかき混ぜる(ビルド・スタイル)」でジン・ベースです。 ウオッカ・ベースでの欧米初出は、現時点で確認できた限りでは、フランスで1983年に出版された「The Larousse Book Of Cocktails(ラルース・ブック・オブ・カクテル)」です。そのレシピは「ウオッカ30ml、グレープフルーツ・ジュース適量、氷、グラスはスノー・スタイルに」となっています(70年代のカクテルブックでの収録例をご存知の方は、ご教示ください → arkwez@gmail.com までお願い致します)。 ソルティ・ドッグのベースがジンからウオッカに移行していくのは、概ね1970年代後半から80年代前半にかけてです。その理由は明確ではありませんが、第二次大戦後、米国で急速に普及したウオッカの販売戦略としてトロピカル系カクテルが活用されたことに加えて、ジンに比べてクセの少ないウオッカの方がカクテルのベースとしては使いやすく、バーテンダー側、客側の双方から選ばれていったのではないかという専門家もいます(ただし、米国内では現在でもジン・ベースのソルティドッグも割と普通に飲まれています)。 ちなみに、スノー・スタイル(塩)なしでこのカクテルを作れば、「ブル・ドッグ(Bull Dog)」、「グレイハウンド(Greyhound)」または「テールレス・ドッグ(Tailless Dog)」と呼ばれます。 ご参考までに、70年代以降の欧米のカクテルブックで、「ソルティ・ドッグ」がどのように紹介されているかを、少し見ておきましょう。・「The Bartender's Standard Manual」(Fred Powell著、1979年刊)米 ジン2ジガー、グレープフルーツ・ジュース4ジガー、塩ひとつまみ、氷(ビルド)・「The Book of Cocktails」(Jenny Ridgwell著、1986年刊)英 ウオッカ45ml、グレープフルーツ・ジュース適量、氷、グラスを塩でスノー・スタイルに(ビルド)・「American Bar」(Charles Schumann著、1994年刊)独 ウオッカ50ml、グレープフルーツ・ジュース50ml、グラスを塩でスノー・スタイルに(シェイクし、ショートカクテル・スタイルで)・「New York Bartender's Guide」(Sally Ann Berk著、1995年刊)米 ウオッカ2オンス(60ml)、グレープフルーツ・ジュース適量、氷、グラスを塩とグラニュー糖でスノー・スタイルに(ビルド)・「Complete World Bartender Guide」(Bob Sennett著、2007年刊)米 ウオッカ2オンス、グレープフルーツ・ジュース適量、氷、グラスを塩でスノー・スタイルに(ビルド) 「ソルティ・ドッグ」は日本には、1960年代、沖縄駐留の米軍を通じて広まりました。本土の街場のバーで知られるようになるのは70年代以降です。とくに大きなきっかけとなったのは、サントリー社が70年代後半から80年代初めにかけて展開した「トロピカル・カクテル・キャンペーン」です。そして、80年代前半までには日本国内でも幅広く認知されるようになりました。【確認できる日本初出資料】「たのしむカクテル」(今井清著、1976年刊)。レシピは「ジン45ml、グレープフルーツ・ジュース適量、グラスはスノー・スタイルで」となっていて、70年代半ばの日本でも、ジン・ベースが一般的だったことが伺えます。 しかし、著者の今井氏は「最近はウオッカでつくることも多くなってきました」とわざわざコメントを残しており、この頃から日本でも、ベースがジンからウオッカへ移行していったことも分かります。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/12/05
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ライフワークの一つとして、古い時代のカクテルのことをあれこれ調べていると、自分でも思わず、「そうだったのかぁー」「へぇー、知らなかった」と驚くことがあります。現代のBarでは「そんなの常識」と思われていることが、調べてみれば意外と(いや、まったく)違っているのです。当然、現代のバーテンダーの皆さんでも、古い時代のカクテルに格別詳しい方以外は、そんな「常識を覆す事実」を存じておられません。 先般出版された石垣憲一さんの名著「カクテル ほんとのウンチク話」(柴田書店、2008年刊)を読んで、驚かれた方(実は僕もその一人)も多いと思いますが、あのマルガリータの有名な「流れ弾伝説」に代表されるように、後世の「つくり話」を「常識」と信じ込まされていることさえあります。 今回は、連載中の「全面改訂版:カクテル――その誕生にまつわる逸話」でも取り上げたカクテルのなかから改めて、「常識のウソ」と歴史的事実のいくつかを、出来る限り詳しく紹介したいと思います(連載内容との若干の重複はご容赦あれ)。 1.マティーニは当初、ジンとドライ・ベルモットではなかった 「マティーニ」という名前が初めて本に登場したのは、石垣氏の著書によれば、1906年、ルイス・マッケンストゥラム(Louis Muckenstrum)氏が出版したカクテルブックと言われています(「パリで1904年に出版されたフランク・ニューマン(Frank Newman)氏の著書『アメリカン・バー』の方が早い」=出典:PBOのHPや欧米の複数の専門サイト=という主張もあるが、後者の本については1907年刊行説もあり、今なお決着は付いていません)。 しかし、古い時代のカクテルブックを見ていると現代とは違って、1930年以前のマティーニは、ほとんどがジンとスイート(イタリアン)・ベルモットでつくられているのです(おそらくは、マティーニがスイート・ベルモットを使ったマルチネス・カクテルにルーツを持つことがその大きな理由でしょうが…)。 1930年代になると、ジン+スイート・ベルモット+ドライ・ベルモット、あるいはジン+ドライ・ベルモットという組み合わせのマティーニ(バリエーション)も誕生していきますが、主流はまだまだジン+スイート・ベルモットでした。ちなみにサヴォイ・カクテルブック(1930年刊)では、マティーニ・ドライ、ミディアム、スイートの3種を同等に紹介していますが、マティーニ・ドライで「ジン3分の2、ドライ・ベルモット3分の1」です。 ジン+ドライ・ベルモットのマティーニが主流になるのは、1930年代後半~40年代以降です。そのきっかけは何だったのかは、僕はまだ正確には把握していませんが、今ではマティーニ材料の定番とも言えるノイリー社のドライ・ベルモットの米国への輸出が本格的に始まったことが大きいようです(このテーマについては、別の機会に改めて考察したいと思います)。 当初はジンとドライ・ベルモットの割合は1:1くらいでしたが、近年は、ますますドライ化の傾向が強まっているのは、ご承知の通りです。最近では、ベルモットは5ml程度しか入れないBarがほとんどです。氷やグラスをベルモットでリンスするだけというBarも結構あります。しかし、個人的にはベルモットの存在感があってこそのマティーニと思います。ジンばかりが自己主張しすぎる極端なドライ・マティーニは、「マティーニであってマティーニでない」と思うのは僕だけでしょうか。 2.アレクザンダーやソルティ・ドッグ、ベースの関する意外な話 これも意外と「プロ」にも知られていない事実です。アレクザンダーと言えば、「1901年に英国のエドワード7世の即位式、あるいは1902年のアレキサンドラ王妃の戴冠式の際に献上されたカクテル」というのが、近年最も信憑性ある説です(出典:上記・石垣氏の著書)で、現代では「ブランデー+クレーム・デ・カカオ+生クリーム」という組み合わせで、女性にとても人気のあるショート・カクテルです。 しかし、1940年以前の欧米のカクテルブックに「アレクザンダー」が登場していれば、ジン・ベースになっていることが意外と多いのです。なかには、「アレクザンダーNo.1、No.2」という形でブランデー・ベースと併記している文献もありますが、それでもNo.1はジン・ベースです。ブランデー・ベースが主流となるのは40年代以降です(主に欧州ではブランデー・ベースが、米国ではジン・ベースが発展していきました)。 ソルティ・ドッグも現代ではウオッカ・ベースが当然ですが、1940年代後半の誕生当初はジン・ベースでした(欧米のカクテルブックでの初出は現時点で調べた限りでは、1953年刊の「ミスター・ボストン・バーテンダーズ・ガイド」です)。 面白いことに、現代ではグラスの縁をスノー・スタイルにしますが、当時は、塩をそのまま放り込んで、グレープフルーツ・ジュースと一緒にステアしていました。 ジン・ベースのソルティ・ドッグはその後、70年代前半まで幅をきかせます。ウオッカ・ベースが登場するのは、手元にある欧米のカクテルブックでは、70年代に入ってからです(このきっかけもまだよく分かりませんが、当時、ブラディー・マリーやチチ、スクリュー・ドライバーなど、ウオッカ・ベースのトロピカルカクテル・ブームが始まっていたことにも影響されたのではないかと推察しています)。 3.ハイボールは必ずしもソーダ割りではなかった Barでハイボールと言えば、日本では通常、(ブレンディド・スコッチ)ウイスキーのソーダ割りを指します。しかし、欧米では、昔から「****・ハイボール」というカクテルは必ずしもソーダ(炭酸水)ではありませんでした。 実際、古い1890~1930年代くらいのカクテルブックでは、ベースの酒はウイスキーにこだわらず(もちろんウイスキーが一番多いですが)、また、水やジンジャー・エールなどで割っても「****・ハイボール」と呼んでいます。 しばしば「ハイボール」の語源として、「ソーダの泡がプクプクと上へ立ち上がる様から」と記しているカクテルブックがありますが、水を使ってもハイボールと呼んでいたことからも、この語源解説はまったく根拠がないことになります(ハイボールの語源については、「カクテルの逸話連載(45)」ご参照を)。 日本でも1950年代までのカクテルブックには、水で割っても、ジンジャー・エールで割っても「****・ハイボール」と呼んでいたのは、欧米の影響の名残でしょう。しかし時代が進むにつれて、「****・ハイボール」という呼称はソーダで割ったロング・カクテルに限定的に使われるようになり、今日に至っています。 4.誕生時のマイタイには、パイナップル・ジュースは入れなかった マイタイと言えば、「トロピカル・カクテルの女王」とも称され、暑い季節の人気カクテルです。1944年に、サンフランシスコのレストラン・オーナー、ビクター・J・バージェロン(Victor J. Bergeron)が考案したと伝わっています(出典:Wikipedia英語版ほか)。 現代の標準レシピは、「ラム+オレンジ・キュラソー+パイナップル・ジュース+ライム・ジュース+シロップ、最後にダーク・ラムをフロート」(出典:NBAオフィシャル・カクテルブックなど)で、シェイクしてクラッシュド・アイスを詰めたサワー・グラス等で供されることが一般的です。 しかし、当初バージェロンが考案したレシピは「ラム+オレンジ・キュラソー+オルジェート・シロップ+ライム・ジュース(シェイクしてロック・スタイル)」で、パイナップル・ジュースやダーク・ラムはありませんでした。 いつ頃、誰がパイナップル・ジュースやダーク・ラムを加えるレシピを考案したのかは、よく分かっていません(なおリサーチ中です)が、現代ではこのレシピが定着してしまいました。パイナップル・ジュースを入れるか入れないかは、好みの問題もあるのでどちらが正解とも思いませんが、バージェロンのオリジナルを味わってみたければ、やはりパイナップル・ジュース抜きで味わってみてほしいと思います。 【下】へ続く。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/05/24
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いさかか旧聞で申し訳ありませんが、1960~70年代に活躍した米国のフォークグループ「ピーター、ポール&マリー(PP&M)」のマリー・トラバースさんが9月16日、がん(白血病という話です)のため、米コネティカット州の病院で亡くなられました。72歳でした。 マリーさんは、ケンタッキー州ルイビル生まれ。グループは60年代前半にニューヨークで結成され、「風に吹かれて」「パフ」「花はどこへ行った」「500マイル」「天使のハンマー」「我が祖国」などのヒット作を送り出しました。「風に吹かれて」はボブ・ディラン作でしたが、この曲がきっかけで日本でもディランの存在が知られるようになりました。 PP&Mは民主党支持者で、ベトナム反戦運動や、黒人差別撤廃を求めた公民権運動にも精力的に取り組んだミュージシャンでした。「悲惨な戦争」など反戦的なメッセージソングを積極的につくり、若者に大きな影響を与えました。今でも反戦集会や市民集会では、「我が祖国」がよく歌われますが、これもPP&Mがそのきっかけをつくったものでした。 小学生でギターを始めた僕が最初、ギターの練習の課題曲としてよくチャレンジしたのがPP&Mでした。「悲惨な戦争」でアルペジオを習い、さらに「パフ」でツー・フィンガー、「くよくよするな」でスリー・フィンガーのピッキングを覚えました。 マリーさんの担当はギターでなく、ヴォーカルでした。そしてPP&Mの歌は3部のハーモニーのコーラスであることが多かったのですが、その中で「芯を貫いていた」のは彼女のしっとりとした歌声でした。 マリーさんのパートを男声で歌うのはしっくりこない感じもしたのですが、僕はよくPP&Mの曲をギターで弾き語りしました。PP&Mを手本にしっかりスリー・フィンガーを練習したおかげで、後に自分のバンドでCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の曲を演奏した時、おおいに役に立ちました。 PP&Mの生の歌声は中学生の頃、当時の大阪府立体育会館でのコンサートで聴きましたが、音響がいまいちの会場もものともせず、素晴らしい曲の数々を聴かせてくれて、ますますギターやPP&Mの曲にのめり込んだものでした。当時のほっそりしたマリーsんの姿(晩年はおばちゃん体型になりましたが(失礼!))は今も目に焼き付いています マリーさんの存在なくして、PP&Mというグループはあり得なかったと僕も思いますし、多くのファンも同じ思いでしょう。僕にとっても、PP&Mとの出会いなくして、今の音楽の素養もなかった訳ですから、彼女には、ただただ感謝するしかありません。 マリーさんはグループ活動休止の後も、終生、国内外で人権擁護活動に力を注ぎました。そんな真摯で、ヒューマンな人間性には頭が下がる思いです。72歳は、天に召されるにはまだ若すぎる歳です。彼女の歌声がもう聴けないと思うと本当に切ない気持ちになります。今はただ、心からご冥福をお祈りしたいと思います。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/10/03
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キース・ジャレットと言えば、現在活躍中のジャズ・ピアニストでも最高峰の1人と言っても、決して過言ではないだろう。ファンになって20年余。聴き手の1人としてキースの音楽のことを、そして「素人ピアノ弾き」からみたピアニストとしてのキースのことを、2回に分けて記してみたい。 キースは1945年5月8日、米国ペンシルベニア州アレンタウンに生まれた(なんと、今年還暦だ!)。子どもの頃からクラシック・ピアノに親しみ、3歳の時にはすでに即興演奏もこなし、作曲もする神童ぶりを発揮していたという逸話さえ残っている。名門バークリー音楽院を卒業。65年、20歳の時、アート・ブレーキーのバンドでピアニストとして活躍し始めた。 その後、マイルス・デイビスのコンポにも在籍したが、73年頃からはソロ活動を始めた。75年には歴史に残るソロ・ピアノの名盤「ケルン・コンサート」(写真左上)を発表。キースの名はジャズ界だけでなく、幅広い音楽ファンに知られることとなる 僕が初めてキースのピアノに接したのも、この「ケルン・コンサート」だった。神が舞い降りてきたかのような、研ぎ澄まされた音とメロディー。そして全編、即興演奏なのにこれほど完成された音楽に、ただ驚くしかなかった。 そして、その後80年代に入ると、ゲイリー・ピーコック(ベース)、ジャック・デジョネット(ドラムス)という不動のトリオで、「スタンダーズ」というトリオを結成。キース流の素晴らしい解釈とアレンジで、スタンダードの名曲の数々に光を当てる取り込みを今日まで続けてきている。 スタンダーズ・トリオで録音したアルバムは、(即興演奏のものも含めると)もう15枚以上にはなるだろうか。スタンダード・ナンバーを見事なまでにキース流に料理したアルバムは幅広いジャズ・ファンに受け入れられた。 スタンダーズのアルバムはほとんどが「スイング・ジャーナル」の金賞に輝いた。近頃は、「少しマンネリ気味かも」と思わないではないが、それでも騙されたと思って買うと、僕の知らない、隠れた名曲が何曲か必ず、ある。そして、またキースにしてやられたと納得してしまう。 順風満帆と思えるキースだが、96~97年にかけては、慢性疲労症候群という珍しい病気に襲われる。「とにかくピアノに触れる気力も起こらなくなるような、とても辛い有様だった」と、キースは後に語っている。 闘病生活から立ち直ったキースが98年に発表したソロ・ピアノのアルバム「メロディー・アット・ナイト・ウイズ・ユー」(写真左下)は、これまた素晴らしい、名曲ぞろいの1枚。深夜に聴くと、身も心もとろけそうになる。 スタンダーズ・トリオでのアルバムで、「どれがお薦めか」と聞かれたら、正直言ってとても迷う。強いてお薦めの3枚を選ぶなら、(1)「スタンダーズ(Standards)2」(写真右上)と、(2)「Still Live」(写真右中)、(3)「At The Blue Note」(写真右下)を推す。この3枚に入っている曲では、(1)の「In Love In Vain」、 (2)の「Someday My Prince Will Come」、 (3)の「The Days Of Wine And Roses」が最高! キースのコンサートは2002年に、スタンダーズ・トリオのステージを聴きに行った(大阪フェスティバルホール)。相変わらず、乗ってくると、椅子から腰を浮かせて振りながら、鼻歌でメロディーをうなりながら弾くキース。でも、ピアニシモの美しさは、惚れ惚れするくらいの透明感に満ちていた。 僕は、キースは神が地上に使わした「天才」だと信じて疑わない。まだ60歳。ジャズ・ピアニストとして円熟するのはこれからだろう。隠れた名曲の数々が、キース流解釈で紹介されていくのを、僕らはまだまだ楽しめるに違いない。【追記】2019年、キースは数度の脳梗塞に襲われました。幸い、命に別状はなかったが、左手に後遺症が残り、約2年間のリハビリも効果なく、2021年に「もはやピアノを弾けることはないだろう」という声明を発表しました。とても悲しく、悔しく、残念過ぎる事実です。新たな治療法が発見され、キースが再びピアノに向かう気力が起こる日を祈るばかりです。
2005/04/07
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70年代初め、日本に米ウエストコースト・ロックを伝えた「アサイラム」というレコード会社があった(今も存続しているのかな?)。ジャクソン・ブラウン、イーグルスらアサイラムが紹介したアーチストで、その後ビッグになった人(人たち)は多い。 そのアサイラムが同じころ売り出したアーチストにトム・ウェイツ(Tom Waits)という男がいた。ギターも弾くが、主にピアノで弾き語るシンガー・ソングライター。だが、日本で彼の歌を聴くには輸入盤を手に入れるしかなかった。 輸入盤と言っても、今と違って2700円~3000円くらいした時代。しかも試聴を簡単にさせてくれる輸入レコード店などなかった。アーチストについての情報は、洋楽に詳しい友人か、レコード店の店長から得るしかなかった。 僕はある友人から「一度聴いてみろよ。面白いから」と教えられ、彼のデビュー・アルバム「クロージング・タイム」(写真左上)を輸入盤で買い求めた(国内盤はまだ発売されていなかった)。 第一印象は、「何だこのしわがれ声は…」というもの。でも、メロディーは素朴で心地よく、歌い方も郷愁を感じる、とてもいい味わい。とくに1曲目の「OL’55」が素晴らしかった。一目惚れという感じで、セカンド・アルバムの「土曜日の夜」(The Heart Of Saturday Night)=写真右=も買い求めた。 ちょうどその頃、75年か76年だったかと記憶しているが、トムが来日した。大阪・厚生年金会館でコンサートをするというので僕は駆けつけた(ただし、大ホールではなく中ホールだったが…)。 ステージ中央にグランドピアノが1台置かれ、記憶では、バック・バンドはウッド・ベースとドラムスの2人だけというシンプルな音づくり。バックはいたけれど、ほとんどはトム一人の弾き語りだったように思う。でも、心地よくて、味わいのある、いいコンサートだった。 トムはMCもほとんどなく、淡々と歌い続けていく。ヘビー・スモーカーのトムはステージ上でも煙草をプカプカ(今なら問題になるだろう)。トムはもちろん「OL’55」も披露してくれた。興に乗って、一人社交ダンスなんて芸も披露していたなぁ…。 しかし、4枚目のアルバム「スモール・チェインジ(Small Change)」から、トムの音楽性は変化し始める。音づくりや歌い方はジャズっぽくなり、声自体の「しわがれ度」もさらにアップしていった(90年代以降にトムを聴き始めた人が、デビュー盤を聴いたら、同一人物とは思えないくらい驚くだろう)。 さすが、僕はこのトムの変化にはついていけず、その後のトムのアルバムを長い間買うことはなかった。久々に買ったのは、今回、トムのことをブログで触れようと思って、参考に買い求めた初期の頃が中心のベスト・アルバム「USED SONGS:ザ・ベスト・オブ・1973-1980」(写真左)。 久々に聴いたトムだけれど、やはり僕の気持ちは変わらなかった。僕にとっては、「クロージング・タイム」と「土曜日の夜」のトムが、僕にとって一番輝いていたトムだった。 名曲「OL’55」は今もトムの代表曲で、ポップスのスタンダードにもなっている(イーグルスもカバーしている)。僕も弾き語りのレパートリーに入れていて、時々歌う。何度歌ってもいい曲だ。 トムはその後もアルバムを出し続けているようで、2004年にも「Real Gone」というファンクぽいアルバム(写真右)も出した。熱烈な固定ファンは今でもいるようだが、僕にとっては、4枚目以降のトムは別人のようにも見える。 トムはもう25年くらい来日していない。米国内でも、公の場での音楽活動はほとんどしていないという。今年12月で57歳になるトム。ネットでのトムのファンサイトでは「再来日要請署名」なんて活動も行われている。でも、僕はもうトムのライブには行かないだろう。僕にとってのトムはもう「クロージング・タイム」がすべてだから。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/07/25
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※この記事は、2012年10月にアップされたものですが、今回、2018年の日本の著作権法改正を反映させて、以下の記述内容を少し修正いたしました。 私は法律の専門家でも何でもありませんが、ブログをやっていることもあり、不本意なトラブルを招かないように、著作権問題、名誉毀損問題などには普段から強い関心を持っていて、専門家(弁護士、大学の法学担当教官ら)の意見・見解も時々伺っています。 先日のことですが、ふと、素朴な疑問が浮かびました。「ミッキー・マウスって、1920年代に誕生したから、もう著作権の保護期間は終わってるんじゃないのか?」と。そこで、とりあえず、自分で調べてみることにしました(もし間違い等があったら、ご指摘ください。修正いたします)。 ◆外国の著作物は、日本国内で日本の著作権法が適用されるのか 最初に、基本的な知識や事実、データを10点ほどおさえておきたいと思います。 1.他国の著作物であっても、日本国内では、日本の現行著作権法(1971年1月1日施行、直近の改正は2018年&2019年)が適用されます。 2.日本の著作権法での保護期間は従来、「著作者の死後50年間、または法人・団体名義の著作物は公表後50年間」となっていました(ただし映画だけは2003年の法改正で「公表後70年」になりました)。しかし、「TTP協定」署名に伴う2018年12月30日成立の法改正で、保護期間は著作者の死後「70年間」に、また映画以外の著作物も「70年」に延長されました。 (※ただし、1953年以前発表の映画の保護期間は「公表後50年」のままです。また、2018年12月29日以前に、著作権が消滅しているものについては延長されていません。ちなみに旧著作権法<1899年~1970年。以下「旧法」と略>では「発表後または著作者の死後38年」でした)。 3.太平洋戦争時の旧連合国(英米仏カナダなど)の作品の著作権は、「戦時加算」としてさらに保護期間がさらに10年加算されます(第二次大戦中、日本が著作権保護に十分に取り組んでいなかったことが理由とのこと)。 4.ミッキー・マウスが初めて登場したのは、1928年製作・発表の映画「蒸気船ウィリー」です。 5.著作権の開始年の数え方は、「著作物の発表または著作者の死亡が公表された翌年を1年目する」となっています。 6.改正著作権法の規定を適用すれば、1953年以前に発表された「蒸気船」のミッキー・マウスの日本国内における著作権は、ディズニー社の作品であるという前提に立てば、発表翌年の1929年(始期)+70年(保護期間)+10年(戦時加算)で、2009年に消滅しています(法律専門家の間ではこの見解が多数派とのことです)。 一方、「蒸気船」でのミッキーがもしウォルト・ディズニー個人名義の創作物であるという前提に立てば、著作権の保護期間は、ディズニー没年の翌年1968年(始期)+70年+10年で、2048年で消滅ということになります。 7.現行法の附則には、「旧法による著作権の存続期間の満了日が、新法による著作権満了よりも後であれば、旧法の存続期間を優先する」となっていますが、旧法で計算すれば、映画が法人(ディズニー社)名義の場合、1928年(旧法では発表年が始期)+38年(旧法の保護期間)+10年(戦時加算)で、1976年に著作権は消滅しています。 もしディズニー個人名義ならば、1967年(旧法では死亡時の年が始期)+38年+10年で、2015年に著作権が消滅ということで、現行法を適用した方が保護期間が長い(2048年)ので、この規定はあまり意味を持ちません。 8.もちろん、ここでいう著作権とは「蒸気船ウィリー」に登場したミッキーに関するもので、現在よく知られているアニメのミッキーや、ディズニーランドで子どもに愛想を振りまいているミッキーは、少し顔が違うため、後年に公表されたミッキーは別の著作物という考え方が一般的です。 9.米国の著作権法は1998年に延長法が成立し、保護期間がそれまでより20年間長くなりました。原則、著作者の死後70年間に、法人の場合は発表後95年間となりました。その結果ミッキー・マウスの米国内での著作権も、最大2024年まで延長されることになりました。 10.ディズニー社は、ミッキー・マウスの国内著作権についての日本国内の専門家からの問い合わせに対して、現時点では「著作権に関しては一切お答えしない」との立場です。 ◆日本国内の著作権が切れたらどうなるのか 2009年に日本国内でのミッキー・マウスの著作権保護期間が切れたのかどうかについて、ディズニー社は今なお公式見解を出していません(出典:Wikipedia)。しかし結論として、Webで何人かの法律専門家の見解を読む限り、少なくとも1929年に公開された映画のミッキーは現時点では、保護期間は終了しているという意見が多数派です。 そして、たとえどんなに長くても、ディズニー没後60年の2027年には「蒸気船」のミッキーの著作権は消滅します。 その時には、ミニー・マウスも含めてパブリック・ドメイン(公共の物)になり、原則、誰でもブログなどで自由に使えるようになります。 ただし、気をつけないといけないのは、その後に誕生した顔が少し違うミッキー・マウスについては、まだ法人としてのディズニー社が、今なお著作権を持っていると考えられます。権利保護に関しては周到なディズニー社ですから、マイナー・チェンジを繰り返し、その都度創作の時点を延長、延長している可能性もあります。著作権が切れている初期のミッキーを真似た芸術作品をつくったつもりでも、「似ているから違法だ」と訴えられるおそれがあります。 また、いかがわしいアダルト・サイトがミッキーやミニーをキャラクターに使えば、「著作者人格権」(【注1】)の侵害として訴えられるでしょう。注意すべきことは、著作権は切れたとしても、商標権は、登録者が更新し続ければ半永久的に維持されることです。自分の会社の商品にミッキーの絵を描いて勝手に販売すれば、必ず商標権侵害で訴えられます。場合によっては巨額の賠償を請求されます。 ディズニー社は現在でも、個人がブログなどで私的に使用・利用する分についてはあまり目くじらは立てない方針のようですが、営利目的で使おうものなら、きっと厳しいクレームが来るのは間違いありません。営利目的での利用は基本NGと考えておいて方が無難です。 ◆著作権はどこまで保護されるべきか 米国では、ディズニーという巨大資本の圧力で、議会が著作権法の保護期間を二度(1976年、1998年)にわたる延長しました。いずれもミッキー・マウスの著作権が切れる直前に延命を図ったようなものだったので、“ミッキー・マウス保護法”と揶揄されました。98年の延長には、「自由な芸術活動よりも企業の利益を優先させるもの」と米国内からも大きな批判が巻き起こり、2002年には違憲訴訟も起きましたが、連邦最高裁は2003年、7対2の多数決でこの著作権延長を合憲と判断しました。 「著作権は一定期間保護されるべきだ」という考え方にほぼ全員が賛成すると思います。しかし、その期間が長すぎることについては、作家や音楽家の中からも、著作権が特定の団体、個人に独占されてしまうと、クリエイティブな創作活動にかえってマイナス面が大きいと反対する声も多いのです。 言うまでもありませんが、小説や映画、音楽などあらゆる芸術は、過去の古典や名作など蓄積の上に、新たなヒントを得ながら創作活動をしていると言っても過言ではありません。過去の創作物は一定期間が過ぎれば、人類共通の財産として、自由に活用できなければ、新たな創作物は生まれてこないでしょう。そういう意味でも、保護期間はできるだけ短い方がいいと思います。 ◆TPP参加問題を巡る米国からの圧力 新聞やテレビがあまり報じないのですが、米国は今、日本政府に対して「TTP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加したいのなら、著作権の保護期間を米国と同じ70年、95年にしろ!」と要求してきています。2003年の法改正で映画の保護期間が70年に延長されたのも、実は米国からの圧力があったのが背景でした。 現行の50年を70年へ延長することについては、国内には反対意見が数多くあります。「古い芸術作品の流通・販売が阻害され、ビジネスが成り立たなくなる」「新たな創作活動への障害にもなる」「インターネット時代にこれ以上の保護は必要ない」「著作権を持つ大企業、大資本が得をするだけで、一般大衆の利益にならない」等々。 しかし、すでにTTP協定に参加した国のなかには、韓国、オーストラリアなど米国の要求(圧力)に屈して70年に延長した国も少なくないということです。日本は米国の圧力に屈せず、現行の50年を死守してほしいと願うのは僕だけではないでしょう。【追記】残念ながら、前述した通り、2018年12月の著作権法改正で、保護期間は「70年」に延長されてしまいました。 ◆余談ですが… 最後に一つ、Web専門サイト「著作権講座」さんから拾った興味深い余談を紹介します――。日本で有名な人気キャラクターたちも、いつの日か著作権の保護期間が切れます(商標権は更新し続ける限り存続しますが…)。キティちゃんは2044年に(1974年に「サンリオ」名義で発表後70年)、サザエさんは2062年に(作者・長谷川町子さん没後70年)、ドラえもんは2066年(作者・藤子・F・不二雄氏没後70年)に、それぞれ著作権が消滅します(出典:著作権講座=http://www.geocities.jp/shun_disney7/club1.html)。ほかにも鉄腕アトムは2060年に著作権消滅(作者・手塚治虫氏没後70年)。 個人的には、こうした日本国民に広く愛されているキャラクターたちは、著作権が消滅したからと言っても、そのイメージが汚されることのないような何らかの仕組みができることを祈ってやみません。 【注1】著作者人格権 著作者の人格的な利益について保護しようとする権利。具体的には、公表権(著作物を公表するかしないか決定できる権利)、氏名表示権(実名かペンネームを著作物に表示するかしないか決定できる権利)、同一性維持権(無断で著作物を修正・変更されない権利)の3つがある。「一身専属性の権利」で他人には譲渡できない(著作権法18条~20条、59~60条、116条、119条第五項)。(出典:知的財産用語辞典= http://www.weblio.jp/content/ ほか) 【御礼】この稿を書くにあたって、以下の専門サイトから貴重な情報や多大な示唆を数多くいただきました。この場をかりて、著者、編者の皆様に御礼申し上げるとともに、参考にした専門サイトを紹介しておきたいと思います。 ・「著作権講座」→ http://www.geocities.jp/shun_disney7/club1.html ・「見えない道場本舗」→ http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080509/p4 ・「米国最新IT事情」→ http://itpro.nikkeibp.co.jp/members/ITPro/USIT/20021012/1/ ・「米連邦最高裁、合憲と判断:WIRED ARCHIVES」→ http://wired.jp/archives/2003/01/17/ ・「アメリカの著作権延長法について」→ http://homepage3.nifty.com/machina/c/c0004.html ・「著作権延長法」「著作権の保護期間」→ http://ja.wikipedia.org/wiki ・「知的財産用語辞典」 → http://www.weblio.jp/content/ ・ 文化庁HP「TTP協定の締結に伴う著作権法の改正」→ https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/hokaisei/kantaiheiyo_hokaisei/ ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.htmlこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/10/06
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神戸には、今はもう姿を消した伝説的なBARがいくつもある。「ルル」「ギルビー」「サンシャイン」「マダムマルソー」「キングズ・アームズ」…そして、忘れてはならないのが「コウベハイボール」(「神戸ハイボール」ではなく、こう名乗った)。 その多くは、バブル期の地上げや後継者難で、さらに、追い打ちをかけたあの阪神大震災での被害のために、閉店を余儀なくされた。そうした伝説的なBARに出入りする機会が持てた私はある意味幸せだったが、店がなくなってしまった今では、寂しさばかりが募る。 とくに、最後に名をあげた「コウベハイボール」。私が神戸で仕事をしていた頃、勤め先があったビル(神戸朝日会館)の地下にあったので足繁く通った、とても想い出深いオーセンティックBARである(ついでに言えば、同じビルの地下にあった「銀串」という焼鳥屋にもよくお邪魔した。老夫婦が営む味わいある店だった)。 「コウベハイボール」は昭和29年(1954)の開業。店は平日、午後3時にはオープンしていた。私は夕方を待ちかねたように、同僚らと会社をそっと抜け出しては地下へ下り、スイング式のドアを開けた。スタンディングのカウンターはいつも、6時前にはもう客が溢れていた。 大阪キタにある「北新地サンボア」で先日、そんな「コウベハイボール」の想い出話をしていたら、お店の方が「昔の写真、ありますよ」と数枚のプリントを見せてくれた。セピア色の写真には、もっとも円熟していた頃の「コウベハイボール」(写真左上)と、マスターの河村親一さん(写真右&左下)が紛れもなく写っていた。 この古き良き酒場の情景を皆さんにも見て欲しいと思って、接写させてもらったのがこの日記でも紹介した3枚。どれも、私にとっては、懐かしさで涙が出そうなほどの情景だ 河村さんはいつも白いバーコートに蝶ネクタイというスタイル。あまり笑わない、寡黙なマスターだったが、仕事は何もかも超一流だった。お店の名物の「ハイボール」は、きんきんに冷やしたサントリー・ホワイトとウイルキンソン炭酸でつくる。 今はなき「神戸サンボア」の歴史を受け継いだお店とあって、河村さんは氷なしのサンボアスタイルを継承したが、これが絶妙の旨さだった(当時1杯確か400円)。ついでに言えば、付きだしで供されるカレー風味のピクルス、これがまた美味だった。 酒場でのマナーにも厳しい人だった。大声を出したり、騒いだりする客には厳しく注意したし、スタンディングのカウンターはできるだけ多くの客が飲めるようにと、いつも気を遣い、客に声をかけていた。は、この「コウベハイボール」でBARという場所での大人の飲み方や、酒場でのマナーを学んだと言っても過言ではない。 「コウベハイボール」は、入居していたビル(朝日会館)の建て替えにぶつかった1990年、惜しまれながら、半世紀近い歴史に幕を閉じた。当時まだ68歳の河村さんだったが、後継者がいないこともあって建て替え後のビルには入らず、一代で店を閉じる決断をした。 最終日には、「コウベハイボール」に通い詰めた客たち(僕もその場にいた)が、古き良き酒場に悲しいお別れをした。私は友人らと費用を出し合い、河村さんに花を贈った(河村さんは1995年頃、一度お会いしたが、その後の詳しい消息は知らない)。 「コウベハイボール」のバック・バーの棚は幸い、しばらくの時を経て、冒頭、写真を見せてもらった「北新地サンボア」(大阪市北区曽根崎新地1-9-25 電話06-6344-5945)に移設された=写真右(オーナーのSさんの情熱のおかげだ)。 大阪に、「コウベハイボール」の想い出に浸れる空間があることはとても嬉しいが、個人的には、「コウベハイボール」という素晴らしい空間(酒場)がこの世から消えたことが痛恨というか、残念でならない。 古き良き酒場のない都会(街)には、私はほとんど魅力を感じない。人の匂いも、潤いも、温かさも感じられない、そんな街には私は住みたくない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/10
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50.マイタイ (Mai-Tai)【現代の標準的なレシピ】ホワイト・ラム(45)、オレンジ(またはホワイト)・キュラソー(10)、パイナップル・ジュース(10)、オレンジ・ジュース(10)、レモン・ジュース1tsp、クラッシュド・アイス、ダーク・ラム2tspを最後にフロートし、フルーツ(オレンジ・スライス、チェリーなど)を飾る 【スタイル】シェイク トロピカル・カクテルの代表格で、1940年代半ばに誕生しました。「トロピカル・カクテルの女王」の異名もあります。誕生の由来については、代表的な以下の2説がありますが、欧米でも(1)の説が多数派です。 (1)1944年、サンフランシスコ近郊、オークランドのレストラン・オーナーだったヴィクター・J・バージェロンが考案した(出典:Wikipedia英語版ほか多数。※Victor J. Bergeronの名前の読み方は、日本では「バーロジン」と表記している文献が多いですが、綴りからすると誤記と思われます。本稿では原音に近い「バージェロン」と表記します)。 カクテル名の由来について、バージェロン自身がその著書「Trader Vic's Bartender's Guide」(1947年刊)の中で、以下のように説明しています。 「私は自分が考案した新しいカクテルの最初の2杯を、たまたまこの日、タヒチからレストランに来てくれた私の友人夫婦、ハム&キャリー・ギルドに飲んでもらった。キャリーは一口飲んだと同時に、『マイタイ ロア アエ!(Mai Tai Roa Ae)』=タヒチ語で「この世のものならず、最高!」の意味=と叫んだ。私はその『マイタイ』という言葉を、そのままカクテルの名前にもらった。『マイタイ』は評判を呼んで、その後数年のうちに、カリフォルニア州全域やシアトル(のレストランやバー)で普及していった」 バージェロンのオリジナル・レシピは、彼の著書「Trader Vic's…」に掲載されているレシピと、Wikipedia英語版が「バージェロンのオリジナル」として紹介しているレシピには、以下のような分量の微妙な食い違いが見られます(どちらが正しいのかと聞かれたら、やはりバージェロン本人の著書に軍配を上げざるを得ませんが…)。・バージェロンの著書掲載のレシピ ジャマイカ・ラム60ml(またはダーク・ラム&マルティニーク・ラム各30mlずつでもよい)、オレンジ・キュラソー15ml、オルジェート・シロップ7.5ml、ロックキャンディ・シロップ=以下【注】ご参照=7.5ml、ライムジュース1個分、飾り=ライム・スライス、生ミント、フルーツ・スティックなど(シェイク)・Wikipedia英語版がオリジナルとして紹介しているレシピ ラム60ml(17年物のJ. Wray & Nephew Rum)、オレンジ・キュラソー(Holland Dekuyper社)15ml、オルジェート・シロップ15ml、ロックキャンディ・シロップ7.5ml、ライムジュース1個分、飾り=ライム・スライス、生ミント(シェイク) 【注】ロックキャンディは米国で人気のあるステック状の氷砂糖菓子。その氷砂糖でつくったシロップには、オリジナルのフレイバーが付いていることが多い(現代のバーではマイタイにはほとんど使用されていません)。 ※なお、マイタイの考案者名について日本では、「トレーダー・ヴィック(ス)(Trader Vic’s)」(出典:PBOのHPほか)としている資料も目立ちますが、これはバージェロンがオーナーをしていたレストランの名前(バージェロンのニックネームで、後に全米各地で展開する有名レストラン・チェーンの名)と混同したことによる間違いです。 (2)1933年、ハリウッドのレストラン&バー経営者(オーナー・バーテンダー)、ドン・ザ・ビーチコマー(Don the Beachcomber、本名アーネスト・レイモンド・ボーモン・ガント Ernest Raymond Beaumont Gantt 1907~1989)が考案した(出典:Wikipedia英語版ほか)。 ビーチコマーのレシピは、「ダーク・ラム15ml、ゴールド・ラム20ml、コアントロー1.5tsp、シュガー・シロップ15ml、ファレナム(Falernum)・シロップ=【注】ご参照=3dash、グレープフルーツ・ジュース15ml、ライム・ジュース20ml、アンゴスチュラ・ビタース1dash、ペルノーまたはアニゼット0.5dash、ミネラル・ウォーター30ml、シェイクしてクラッシュド・アイスを詰めたトール・グラスに注ぐ」という複雑なものです(出典:英国Wikibooks)。 【注】アーモンド、ジンジャー、クローブなどの香りが付いたカリブ産のフレイバード・シロップ。トロピカル・カクテルによく使われます(出典:Wikipedia英語版)。 ビーチコマー自身は生前、「マイタイを考案したのは、バージェロンではなく自分だ」と主張していたことでも知られていますが、バージェロンのレシピとかなり違ううえ、1933年に考案し、その時点で「マイタイ」と名付けたという根拠資料は明示されていません。 欧米のカクテルブックで「マイタイ」が初めて紹介されたのは、ヴィクター・バージェロン自身の著書「Trader Vic's Bartender's Guide」(1947年刊)です。現代のレシピでは、オレンジ・ジュースやパイナップル・ジュースも使い、クラッシュド・アイスを入れたグラスに注ぎ、最後にダーク・ラムをフロートさせますが、これはバージェロンのレシピには見られません。後年に、様々なバーテンダーによってアレンジされていったものが定着していったと思われます。 マイタイは、バージェロンの考案から9年後の1953年、彼自身がハワイのいくつかの大手ホテルに紹介したこともあって、ハワイ州全域に広く普及しました。1950年代から米本土~ハワイ間の航空機の機内ドリンクに採用されたりしたこともあり、米本土でもその知名度は急速に高まっていきました(出典:Trader Vic's Bartender's Guide P162~64)。 ご参考までに、1960~80年代の欧米のカクテルブックでマイタイのレシピをいくつかみてみましょう。・「Mr. Boston Bartender's Guide(ミスターボストン・バーテンダーズ・ガイド)」(1965年版)米 ラム60ml、キュラソー30ml、オルジェート・シロップ15ml、グレナディン・シロップ15ml、ライム・ジュース15ml、パウダー・シュガー0.5tsp、クラッシュド・アイス(シェイク)・「The Bartender's Standard Manual」(フレッド・パウエル著、1979年刊)米 プエルトリコ・ラム1ジガー(約45ml)、キュラソーまたはトリプルセック2分の1ジガー、ライム・ジュース2分の1ジガー、ファラナム・シロップ0.5tsp、クラッシュド・アイス(ビルド) ・「The Book of Cocktails」(ジェニー・リッジウェル著、1986年刊)英 ライト・ラム60ml、ジャマイカ・ラム30ml、オレンジ・キュラソー15ml、オルジェート・シロップ15ml、レモン(またはライム)・ジュース15ml、クラッシュド・アイス、飾り=生ミント、パイナップル・スライス、マラスキーノ・チェリーなど(ビルド) 「マイタイ」は、1950年代には日本へ伝わっていたと思われますが、カクテルブックに登場するのは、現時点で確認できた限りでは、1970年代になってからです。【確認できる日本初出資料】「バーテンダー教本」(銀座サントリー・カクテルスクール編、1970年)。そのレシピは「ライト・ラム45ml、ホワイト・キュラソー1tsp、パイナップル・ジュース1tsp、オレンジ・ジュース1tsp、レモン・ジュース0.5tsp、シェイクしてクラッシュド・アイスを詰めたオールドファッションド・グラスに注ぐ。デメララ・ラム2tspをフロートさせ、オレンジ、パイナップル、レモンの各スライス、マラスキーノ・チェリーを飾る」とあります。 ※注目すべきは、欧米のレシピではあまり見られないダーク・ラムのフロートがここで見られることです。ひょっとして、ダーク・ラムのフロートは日本人が考えたスタイルかもしれません。 なお、この同著ではマイタイの起源について、「ハワイのホテル・ロイヤルハワイアンのコック長、フレッド・ミヤケ氏が創案した」と記していますが、その根拠資料・データは明示されていません。ネットで調べると、フレッド・ミヤケ氏は実在していた人物で、ハワイの「Trader Vic's」レストランでマネジャー経験もある方とのことですが、欧米の専門サイトでこの説を支持しているところは皆無です。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/05/18
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89.ヴェスパー(Vesper)/ボンド・マティーニ(James Bond Martini)【レシピ1】ジン(60)、ウオッカ(20)、キナ・リレ(リレ・ブラン)(10)、レモンの皮(細長く切ったものを沈める) ※「ヴェスパー」の異名を持つ【レシピ2】ウオッカ(65)、ドライ・ベルモット(5)、アンゴスチュラ・ビタース1dash、オリーブ、レモンの皮(同) ※ボンド映画に最もよく登場するマティーニ 【レシピ3】ウオッカ(65)、ドライ・ベルモット(5)、オリーブの漬け汁2~3dash、アンゴスチュラ・ビタース1dash、オリーブ、レモン・ピール 【スタイル】いずれもシェイク 英国の作家、イアン・フレミング(1908~1964)原作の小説を映画化した「007シリーズ」(1962年~ 2015年時点で計24作)で、主人公の英国諜報機関のスパイ、ジェームズ・ボンドが、しばしばマティーニを好んで飲んだことから、この名が付きました。 マティーニのレシピやつくり方にこだわるボンドが、小説や映画の中でよく嗜むのは「レシピ1」と「レシピ2」の2つで、通常ステアでつくることの多いマティーニを「シェイクで」注文します。また、マティーニと言えば通常は、ジンがベースですが、ボンドはウオッカがお好みです。映画の中で、「レシピ2」のウオッカ・マティーニをボンド自身が頼む際のセリフ、「Vodka martini, Shaken, not stirred」(ウオッカ・マティーニを、シェイクで。ステアはしないでくれ)はとくに有名で、このウオッカ・マティーニはボンド映画シリーズの中でたびたび登場します。 しかし近年では、「レシピ1」の通称「ヴェスパー(またはヴェスパー・マティーニ)」の方が有名になりました。「ヴェスパー」は、1953年に英国で出版されたボンド・シリーズの小説第1作「カジノ・ロワイヤル」で早くも登場します(邦訳は10年後の1963年)。 「カジノ・ロワイヤル」はその後、1967年、ピーター・セラーズ主演で映画化され、このマティーニは恋人役のヴェスパー・リンドの名にちなんで、こう呼ばれるようになりました。セラーズ版「カジノ・ロワイヤル」はコメディ・タッチの映画で、ボンド映画の中では格下の “色物”的な扱いを受けました。このため当時は、「ヴェスパー」自体もあまり話題にはならず、注目されるようになったのは90年代にインターネットの普及に伴い拡散されてからです。 「ヴェスパー」のレシピは、原作者のイアン・フレミングが考案したと紹介している本もありますが、実際はフレミングの友人だったロンドンのバーテンダー、ギルバート・プレーティ(Gilbert Preti)氏が考案し、フレミングに教えたというのが真実のようです(出典:The Craft of the Cocktail by Dale DeGroff)。 そして「ヴェスパー」は、2006年、ダニエル・クレイグ主演でリメイクされた「カジノ・ロワイヤル」で再びお目見えし、再度注目を浴びるようになり、世界的な知名度も広がりました。この映画の中で、バーテンダーから「シェイクしますか?それともステア?」と尋ねられたボンドの答えが、「そんなこと、私がこだわるように見えるかい?(Do I look like I give a damn?)」。このセリフも、今後有名になるのでしょうか? ちなみに、映画ではマティーニはウオッカ・ベースしか飲まないボンドですが、小説の中では、合計19杯もジン・マティーニを飲んでいる事実を調べあげた奇特な方がいますから、ボンド・マティーニの話題は尽きることはありません(出典:「the Spruce Eats」という専門サイト)。 なお、「ヴェスパー」に使われる「キナ・リレ」とはマラリアの特効薬「キナ」の樹皮を使ったフランスのフレイバード・ワイン(ヴェルモット)。現在は製造中止となっていますが、現在は、復刻版として「リレ・ブラン」という製品が出ており、現代のバーではほとんどこのリレ・ブランが代用されています。 「ヴェスパー」は現代のバーではよく話題になり、注文も出るカクテルですが、意外なことに掲載しているカクテルブックは国内外とも数えるほどです(WEBの専門サイトではたくさん紹介されていますが…)。海外では手元で確認した限り、2000年以降に出版された著名なカクテル研究家、デイル・デグロフ(Dale DeGroff)氏の著書「クラフト・オブ・ザ・カクテル」(2002年刊)、「エッセンシャル・カクテル」(2008年刊)くらいしか見当たらりません。 「レシピ3」のマティーニは、2015年に公開された第24作「スペクター」でボンドが頼んだ映画では新顔のマティーニで、「ダーティー・マティーニ」の異名でも呼ばれます。オリーブの漬け汁を少し加えてシェイクするので、見た目が少し濁ったマティーニになります。しかし、歴史は古く、考案者は不明ですが、米国第32代大統領のフランクリン・ルーズベルト(在任期間1993~1945年)が大好きだったことで一般にも知られるようになりました。少し塩辛い味わいですが、普通のマティーニに慣れきった人には、少し毛色が変わって面白いかもしれません。 余談ですが、2015年に『BOND COCKTAILS』という本(洋書)が出版され、ボンドお気に入りのマティーニを始め、フレミングの原作やボンド映画に登場したカクテルの数々が紹介されています(サゼラック、ネグローニ、スティンガー、サイドカー、モスコー・ミュール、モヒート、ミント・ジュレップ、アメリカーノ、キューバ・リブレ、シンガポール・スリング、オールド・ファッションド、ブラック・ベルベット、ピンク・ジン等々)。見ているだけでも楽しいので、お勧めの本です。 ボンド・マティーニは、映画の人気が高まるにつれて、70年代以降、日本国内のバーでも徐々に有名になりました。しかし海外と同様、国内でのカクテルブックでも、なぜか掲載例ほとんどありません。不思議ですね。調べた限りでは「マイ・スタンダード・カクテル」(2003年刊)くらいです(冒頭のボンド・マティーニのうち、「ヴェスパー」を紹介しています)。 なお、1962年と1982年に出版された木村与三男氏の名書「カクテール全書」「新カクテール全書」には「ヴェスパー」というカクテルが登場しますが、レシピは「ジン3分の2、クレーム・デ・ノワヨー3分の1、オレンジ・ジュース0.5tsp、ビターズ2dropsで、シェイク」となっていて、ボンド・マティーニとは似て非なるものです(どこ発祥のカクテルかは不明です)。【確認できる日本初出資料】「マイ・スタンダード・カクテルズ」(内田行洋氏ら3人共著、2003年刊)。
2018/10/10
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皆さま、バーUK2026年5月の店休日と営業時間のお知らせです。【5月の店休日=予定】3日(日)~6日(水)、10日(日)、16日(土)、17日(日)、20日(水)、24日(日)、30日(土)、31日(日) ※27日(水)は原則貸切営業となります。 ※営業時間は、平日=午後4時~10時(ご入店は9時まで。酒類の提供は9時半まで)、営業する日の土曜日=午後2時~7時半(ご入店は6時半まで)とさせて頂きます。 平日午後9時以降(※土曜日は午後6時半以降)にご来店の場合は、必ず事前に店までお電話くださいませ=電話06-6342-0035。事前に連絡がない場合の入店はお断り致します。平日午後9時の時点(土曜日は午後6時半の時点)でノー・ゲストの場合は閉店させて頂きます。 ※なお、ご入店は4人様までに制限させて頂いております。 以上、何卒ご理解、ご協力の程を重ねて宜しくお願いします。 PS 1. 4月30日(木)~5月2日(土)の3日間は、恒例の「黄金週間感謝イベント(事前予約制)」を予定しております。 PS 2. 4月はあと、22日(水)、26日(日)、29日(水)=祝日=にお休みを頂戴いたします。【Notice for May 2026】The bar UK is closed on 3rd~6th、10th、16th、17th、20th、24th、30th、31st ※Open from 4:00 to 10:00 pm.< Your entry is until 9:00 and alcohol service is until 9:30 pm > on weekdays. If open on Saturdays, from 2:00 to 7:30 pm.< Your entry is until 6:30 pm >.
2026/04/21
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◆カクテル ―― その誕生にまつわる逸話(2012年版:ABC順)(1)【おことわり】レシピは標準的なもので、絶対的なものではありません。文献やバーテンダーによっては違う割合、違う材料でつくっていることもあります/レシピの丸カッコ内の数字(単位)はmlです。 1.アディオス・アミーゴス(Adios, amigos)【レシピ】ホワイト・ラム(30)、ブランデー(15)、ジン(15)、ドライ・ベルモット(15)、ライム・ジュース(またはレモン・ジュース)(20) 【スタイル】シェイク 【グラス】ラージ・カクテルグラス 3種類のスピリッツをベースにした、ユニークなカクテル。スペイン語で「さらば、友よ!」との意味のカクテルだが、誕生の経緯や考案者は不明。おそらくは、友との別れに際して、飲むカクテルとして考案されたのだろう。 著名な「トレーダー・ヴィック・バーテンダーズ・ガイド(Trader Vic Bartender's Guide)」=1947年刊=でも紹介されており、欧米では少なくとも1940年代には誕生していた可能性が高い。日本にも1950年代には伝わっていたものと思われる。 欧米の専門サイトでは、同名で別レシピのものも紹介されているが、こちらはとてつもない量とアルコール度数のヘビーなカクテルである。レシピ(=2人分に匹敵する量!)は、ゴールド・テキーラ(20)、ダーク・ラム(20)、ジン(10)、ウオッカ(10)、アマレット(10)、グランマルニエ(10)、カルーア(10)、トリプルセック(10)、クランベリー・ジュース(適量)。シェイクしてロック・スタイルで。 【確認できる日本初出資料】カクテール全書(木村与三男著、1962年刊)。 ************************************** 2.アドミラル(Admiral)【レシピ】ヨーロピアン・スタイル:ジン(30)、チェリー・ブランデー(20)、ライム・ジュース(15)/アメリカン・スタイル:ドライ・ベルモット(40)、バーボン・ウイスキー(20)、レモン・ジュース(15)、レモン・ピール【スタイル】シェイク 【グラス】カクテルグラス ヨーロピアン、アメリカンという2つのレシピが伝わるが、そのレシピの違いから考えると、それぞれ独立した形で考案されたと考えるのが、無難だろう。 「アドミラル」とは海軍提督の意。おそらくは英国内(海軍内?)発祥のカクテルと思われる。英海軍では、上級士官にはジンが、下級士官にはラムが支給されるのが一般的だった。上級士官でも将官クラスになると、パーティーなどではこのようなカクテルが振舞われたという。 ヨーロピアン・スタイルの誕生経緯や考案者ついては詳細不明だが、有名な「シンガポール・スリング」の現代レシピ(ハリー・クラドックが1920年代に考案)によく似ており、このバリエーションとして誕生した可能性も。 なお、アメリカン・スタイルが考案されたのは、1933年以降(米国の禁酒法廃止後)の30年代で、考案者はあの有名なジャズ・ミュージシャンのべニー・グッドマンと伝わり(欧米の複数のWEBサイト情報)、1956年刊の「エスクワイア・ドリンクブック」でも紹介されている。 欧米では、この「アドミラル」を取り上げているカクテルブックはなぜか少ない。現時点で確認した限りでは、「トレーダー・ヴィック・バーテンダーズ・ガイド」(1947年刊)くらい。日本では、1971年発行の文献がヨーロピアン・スタイルの「アドミラル」を紹介しており、少なくとも60年代には伝わっていたと思われる。 なお国内外のWEBサイトでは、カクテル「アドミラル」は数多く紹介されている。内訳では、ヨーロピアン・スタイルが優勢で、アメリカン・スタイルは2割ほど。 【確認できる日本初出資料】カクテルの本(間庭辰蔵著、1959年刊)※ジン・ベース ************************************** 3.アドニス(Adonis)【2016~19年改訂新版】で記述内容を更新しました。そちらをご覧ください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/06/03
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その11:バーテンダーとどう接するか ◆言葉づかいは丁寧に、見下した物言いは論外 BARのマスターやバーテンダーの年齢は千差万別だ。老舗BARなら人生の先輩でもある、60代、70代でも現役という方ものも珍しくない(現役最高は88歳だ!)。比較的新しい店ならそれに合わせて、マスターも25歳~30歳くらいと、貴方より若いこともある。さらに、マスターが貴方より年上だったとしても、そのBARで働くバーテンダーさんたちは、貴方よりは年下ということもある。 しかし相手の年齢がいくつであれ、そのマスターやバーテンダーがプロであることには変わりはない。彼らは日々誇りを持って仕事に打ち込んでいる。貴方は1人の人間として、言葉を交わす際は、その道のプロには敬意を忘れてはいけない。 たとえ、貴方がどんなに社会的なステイタスが高くとも、どんなに収入を得ていようとも、当然のことだが、職業には貴賤はない。たとえお店の方が明らかに年下であったとしても、目上の人と話すような丁寧な言葉遣いを心がけたい。ことさら敬語を使う必要はまったくないが、決して見下したようなものの言い方はしてはならない。 もっとも、これはどんな職業の方と接する時にも言えることだ。要は、良識ある普通の社会人としての振るまい、言葉遣いをすればいいのである。繰り返し言うが、BARは紳士・淑女の社交場である。丁寧なしゃべり方を聞いて不快感を持つ人などいない。貴方は「マナーのいい素敵な紳士」と店側の記憶に長く残るに違いない。 ◆「Bartender」という言葉 ところで、僕たちが何気なく使っている「Bartender(バーテンダー)」という呼び方は、どういう意味で、いつ頃生まれた言葉なのか。「Bartender」は見ての通り、「Bar(横木)」と「Tender(見張り人、世話人、相談役)」を組み合わせて生まれた言葉である。1930年代の米国内で定着した言葉だが、その起源はそれ以前の「西部開拓時代(1860~1890年)」の宿場にさかのぼると言われる。 「Bar(横木)」とは、西部開拓時代に各地にあった「道の駅(宿場)」の酒場で、酒樽と客を仕切った「横木」のこと(「道の駅」で馬をつないだ「横木」のことという説も)である。「横木」は、マナーの悪い客が酒樽から勝手についで盗み飲みをするのを防ぐ意味合いもあった。そしていつしか、宿場で休息し、酒を飲むことを「Barで飲む」、その後、酒場そのものを「Bar」と言うようになったという。 「Tender」はそのBarの見張り人、すなわちカウンターのなかで客の世話をする店主や従業員のことだった(米国とは少し違うBAR文化を持つヨーロッパでは、「Bartender」という言い方もするが、「Barman」「Barkeeper」などと言うことが多い)。 ◆家族以上の頼れる存在 しかし、「Tenderが持つもう一つの意味「相談役」こそが、うらんかんろは現代におけるBartenderの存在の大切さを象徴していると思う。米国のあるBARでの話だ。ある晩、男が独りでやって来た。彼は仕事で大失敗し、会社も解雇され、愛する人にも捨てられた。 そして、Bartenderにいろいろと悩みを打ち明けた。Bartenderは彼の話し相手となり、その話(悩み)をじっくりと聞いてやった。そして励ました。「たとえ破産しても、生きている限り人生はやり直せる。恋愛なんて、生きてる限りこれからいくらでもできるじゃないか」と。 その10数年後、立ち直って仕事にも成功した彼が、再びそのBARにやって来た。そして、かつて悩みを真剣に聞いてくれたBartenderに対して、「実は10数年前のあの夜、貴方に話を聞いてもらうまでは、私は自殺するつもりでいた。最期の1杯を飲むつもりで来ていた。でもあの時、貴方にいろいろ話を聞いてもらい、励ましてもらったおかげで(自殺を)思いとどまることができた」と涙ながらに話したという。Bartenderとは、ある意味、家族以上に素晴らしい、頼れる存在なのである。 ◆BARには「バーテン」はいない バーテンダーのことを「バーテン」と呼ぶ人が、時々いる。「いる」と書いたが、日本では昔はそう呼ぶ人の方が多かった。かつてオーセンティックBARなど日本国内にほとんどなかった時代、バーテンダーはいわゆる「水商売」に生きる一員として見下され、「バーテン」と呼ばれた。その言い方には、「水商売」全体を見下すニュアンスがにじんでいた。 現代では、客においしい「酒」をつくり、「ホスピタリティ」を与える職業として、バーテンダーは皆、自分の仕事に強い誇りを持っている。Barのマスターやバーテンダーの一部には「いやぁ、バーテンでもいいですよ」と言う人もいるが、「バーテン」は蔑称と受け取るバーテンダーも多い。 貴方はゆめゆめ「バーテンダー」を「バーテン」と呼ばないでほしい。敬意を込めて「バーテンダー」と呼んであげてほしい。そして、友人や同僚などが「バーテン」と言ったら、「その言い方は間違いだ」とそっと教えてあげてほしい(ちなみに女性バーテンダーのことは男性と区別して、最近は「バーテンドレス」と呼ぶこともあるが、まだあまり一般的ではない)。 ◆バーテンダーと馴れ馴れしくしてはいけない バーテンダーと仲良くなるのは楽しい。仲良くなれば、接客も違ってくる。時には美味しいお酒の「おこぼれ」にご相伴(しょうばん)できることもある。しかし店の営業時間内は、バーテンダーはすべての客と平等に接しなければならない。貴方といくら仲が良くても、貴方がどんなに金払いのいい上客でも、カウンターに並んだ客は、社長もヒラも皆平等だ。常連客だからと言って特別扱いはできない。 だから、忙しい時間帯はもちろんだが、たとえ余裕のある時間帯であっても、営業時間中である限り、マスターやバーテンダーとあまり馴れ馴れしくするのはやめたい。友達のような口をきいたりするのも避けたい。そんな行為をすれば、かえって迷惑になる。 貴方がどんなにマスターやバーテンダーと仲良くなっても、店の中ではあくまで「1人の客と店側の人間」という立場を守りたい。店と客は、どんなに常連であっても「一線」を守る方が良い関係が長続きすると僕は信じている。 ◆お店の方に「1杯どうぞ」はいいか BARでは時々、常連客がマスターにビールなどのお酒を勧めている光景を目にする。オーセンティックBARでは、マスターやバーテンダーは酒を勧められても、断ることが多い。客の前で飲むのを美しい所作ではないと考えるバーテンダーもいる一方で、普段からよく客と一緒に飲んでいるマスター(独りでお店を営んでいる人が多い)もいる。 常連客が、素直な感謝の気持ちを込めて、「1杯どうぞ」と勧めたい気持ちも僕は分かる。結論としては、この問いかけに対しては、いいとも悪いとも言えない。その店のマスターの考え方一つだ。「断らない方なら勧めても構わない」としか言えない。 ただし、絶対に「1杯どうぞ」と勧めていけない場合もある。そのマスターがマイカーで通勤していることを貴方が知っている場合は、厳禁だ(帰途にタクシーを使う場合は別だが)。夜に飲めば、どんなに酒に強いマスターでも、朝まで血中アルコールは残る。飲酒運転は犯罪だ。万一、マスターが帰りに検問にかかったり、事故を起こしたら、知っていて勧めた貴方も罪に問われる。店との良好な関係もそこで終わりになる。そういう悲劇だけは絶対に避けたい。【その12へ続く】【おことわり】写真は本文内容とは直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/30
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日本のフォーク、ロック、その黎明期を振り返る ◆歌謡曲、演歌、民謡しかなかった邦楽の世界に いま振り返ると、1960年代後半から70年代後半の約10年間は、日本の音楽シーンにとっては、とても重要な時期だったように思います。 60年代後半、それまで歌謡曲、演歌、軍歌、民謡くらいしか聴かれなかった邦楽の世界に、まずフォークというジャンルの音楽が登場します。70年代に入るとフォークは、フォーク・ロックという方向へ発展し、そして初めて日本語で歌うロックが生まれ、その後「ニュー・ミュージック」という新たなジャンルが生まれていくという、まさに新感覚の邦楽の黎明期でした。 この60年代後半から70年代初めにかけては、「米国の音楽に負けるな!」と、情熱あふれる若いアーチストたちが数多くデビューし、職業作詞家・作曲家に頼らず、自分たちの感性でメロディーや詩をつくり、歌うアーチスト(シンガー・ソングライター)が輝きを持ち始めた時代でした(歌謡曲の世界でもその後、職業作曲家が洋楽のセンスを織り込んだ和風ポップスの曲を生みだしてゆきます)。 先日、ある友人から、当時の音楽シーンはどういう状況だったのかを尋ねる質問を受けました。そこで、私の記憶や印象に今も残り、多大な音楽的影響を受けた歌手、グループを、当時のレコードレーベルも含めて、そして私自身の音楽遍歴も交えて振り返ってみました(データは一応Wikipediaなどで確認しましたが、正確性の保証はありませんので、悪しからずご了承ください)。 ★1965~69 ◆まずフォークから始まった 1960年代後半、日本にフォーク・ブームが起きます。そのきっかけとなったのは、60年代半ばに米国から伝わったPPM(ピーター・ポール&マリー)やジョーン・バエズ、ブラザース・フォー、ボブ・ディラン、キングストン・トリオらのレコードでした。小学校5年生で初めてギターを買ってもらった私が、まず始めたのもPPMの曲のコピーでした。 まもなく日本ではマイク真木が歌う「バラが咲いた」(1966年)やブロードサイド・フォーの「若者たち」(同)、森山良子の「この広い野原いっぱい」(1967年)が大ヒットし、大学ではカレッジフォーク・ブームが起きて、フォーク・ソング同好会やサークルが次々と誕生していきました。 加山雄三がフォーク路線を狙って「旅人よ」を出したのもこの頃でした(ビートルズも64、65年頃には日本で人気を得ていましたが、ビートルズから直接影響を受けて誕生した、オリジナルを歌う歌手やバンドというものは、残念ながらこの頃まだ登場しなかったと記憶しています)。 一方、関西では、思わぬ形でフォークが注目を集めるようになります。1967年12月、京都の大学生3人(加藤和彦、はしだのりひこ、北山修)からなるフォーク・クルセダーズ(通称フォークル)というグループがメジャー・デビュー。デビュー曲の「帰ってきたヨッパライ」は爆発的にヒットし、オリコン初のミリオン・セラーとなりました。 このコミック・ソングのようなデビュー曲は、私はあまり好きではありませんでしたが、その後の発表された、「悲しくてやりきれない」「イムジン河」「青春は荒野をめざす」はお気に入りで、友人と一緒にやっていたフォーク・バンドでもレパートリーにしていました。当初「1年限りのプロ活動」を公言していたフォークルは、68年10月に解散しました。 (加藤は解散後、サディスティック・ミカバンドやソロ歌手としてあるいは作曲家として活躍したが、2009年に自殺。はしだの「その後」は本稿の「はしだのりひことシューベルツ」で後述。京都府立医大の学生だった北山は、解散後は芸能界とは距離を置き、九州大学医学部教授も歴任、精神科医・エッセイストとして現在も活動している) ◆反戦・平和、そしてプロテスト・ソング 1968年になると、ベトナム反戦運動や反安保闘争がさらに活発化してきます。フォーク歌手のなかにも、娯楽的な歌詞から一線を画し、社会的、政治的メッセージの色濃いプロテスト・ソングを歌う人が増えてきました。曲も自分たちでつくるシンガー・ソングライターが次々と登場してきます。 69年には、「URC(アングラ・レコード・クラブ)」という関西フォークを発信する独立系レコードレーベルが誕生します。URCは社会性の強いアーチストを発掘したのが特徴でした。この頃、活躍し始めた歌手やグループには、高石ともや、五つの赤い風船、中川五郎、岡林信康、高田渡、斎藤哲夫、遠藤賢司、加川良らがいました。このなかで、私が一番好きだったのは岡林信康です。 岡林のセカンド・アルバム「見る前に跳べ」とサード・アルバム「おいら、いち抜けた」は今でも、凄い名盤だと思います。後に“路線転向”した岡林ですが、この頃は反戦・反権力をメインテーマにしていました(「見る前に跳べ」では、後の、はっぴいえんどがバックをつとめていました)。当時、大阪の「春一番」ライブや、中津川のフォークジャンボリーは「フォークの聖地」として人気を集めていました。 ★1970~73 ◆日本語を初めてロックに載せたはっぴいえんど 70年安保の混乱と熱気が去った後、様々な音楽が生まれ、その中から大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆の4人からなるバンド、はっぴいえんどがバンドとしてメジャー・デビューを果たします(70年8月、当初はURCレコードから発売、のちベルウッド)。 はっぴいえんどはご承知のように、「日本語をロック音楽に乗せて歌った初めての本格バンド」と位置づけられています。1stアルバム「はっぴいえんど」(1970年発表)と2ndアルバム「風街ろまん」(1971年発表)は不滅の名盤だと思います。私は、「風街ろまん」発売直後のライブを大阪・難波の高島屋ホールで聴く幸運な機会が持てましたが、大瀧詠一亡き今、とても貴重で少し自慢できる思い出です。(少し個人的な話で恐縮ですが、ちょうどこの頃、私の参加していた3人編成のギター&コーラス・バンド「木の葉がくれ」も結成されました。はっぴいえんどの音楽は私たちの心をとらえ、当初は、その曲のコピーに熱心に取り組みました。洋楽では、もっぱらCrosby, Stills, Nash & Youngのコピーをよくしてましたが、その後、自分たちでオリジナル曲もつくるようになり、それは2枚のアルバムに結実しました)。 一方、旧来のフォーク路線でも、第二世代の歌手たちが登場してきます。1969年、吉田拓郎、泉谷しげる、海援隊らを世に出す「エレック・レコード」という会社が設立されます(しかし、エレックは放漫経営がたたって76年に倒産します)。 ◆「学生街…」が大ヒットしたガロの悲劇 この頃デビューした歌手・グループで、前述以外では、どんな人たちが記憶に残っているかといえば、次のような面々です。ガロ、ザ・ディラン2(セカンド)、赤い鳥、六文銭、あがた森魚、はしだのりひことシューベルツ、ブレッド&バター、はちみつぱい、RCサクセッション等々(ブレッド&バターは今でもまだ現役で活動してます)。 このなかで、私がとくに好きだったのはガロとザ・ディラン2、赤い鳥、シューベルツでした。 ガロは1971年、「日本のCrosby, Stills & Nash」を目指して結成された、コーラスを重視した3人編成のバンドでしたが、72年にリリースしたシングル盤の「学生街の喫茶店」(当初「美しすぎて」というシングル盤のB面用の曲だったのがレコード会社の意向でA面に差し替えられた)が大ヒットしてしまったのが不幸の始まりでした。 ガロにはその後、歌謡曲っぽいイメージが付きまとい、テレビで歌わされるのは「学生街…」ばかり。本人たちも不本意だったのか、わずか5年で解散してしまいました(メンバーの1人日高富明は1986年に自殺。もう一人のメンバー堀内護も2014年病死、現在は大野真澄だけが健在です)。 ディラン2は、60年代末、西岡恭蔵、大塚まさじ、永井ようの3人が当初「ザ・ディラン」の名で結成し、活動していました。彼らのオリジナル、「プカプカ」「サーカスにはピエロが」は今でも凄い名曲だと思います。メンバーのうち、西岡は1971年に脱退し、「ディラン2」自体も74年に解散します。 西岡恭蔵はグループ脱退後、ソロ歌手として精力的にライブハウスなどで活動していましたが、残念ながら1999年、その2年前に先立った妻の後を追うように自殺してしまいました…(涙)。残るメンバーだった大塚まさじ、永井ようは現在もそれぞれソロで精力的に活動し、時折り一緒にステージに立っています。 ◆「翼をください」は今や教科書にも 5人グループだった赤い鳥は「竹田の子守唄」でデビューし、ヤマハの「ライトミュージック・コンテスト」で優勝します。当初はフォーク路線でしたが、その後、紙ふうせん(2人)とハイファイ・セット(3人、現在は解散)に分裂してしまいました(赤い鳥時代の「翼をください」と「忘れていた朝」は今も大好きな曲です。「翼をください」は今では教科書にも載っていますね)。 「風」が大ヒットしたシューベルツは、フォークル解散と同時に、はしだのりひこが結成したバンドでしたが、メンバーの突然死もあって解散。はしだはその後、クライマックス(「花嫁」が大ヒット)、エンドレスと次々グループを換えながら音楽活動を続けました。晩年はパーキンソン病を患い、闘病生活をしながら時折りソロ活動も続けましたが、2017年、72歳で亡くなりました。 はっぴいえんどは1972年に解散。URCからその版権を引き継いだのが「ベルウッド・レコード」(1971年設立)でした。当時の「ベルウッド」のアーチストとしては、ほかにはっぴいえんど解散後ソロになった大瀧詠一や、山下達郎、大貫妙子らが目立っていました。 ◆1974~77 ◆数多くのスターを生んだポプコン 井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等の4人が1975年、「フォーライフ・レコード」を設立します。ただし、経営方針をめぐるゴタゴタもあって、印象に残るような実績はあまり残せずに、2001年に会社は解散しました。 一方、ヤマハが1967年~71年に開催した「ライト・ミュージック・コンテスト」と、1969年に始まった「ポピュラー・ミュージック・コンクール」(通称「ポプコン」)からは後にメジャーになるアーチストが巣立っていきます。 ポプコン出身で目立っていたのは、中島みゆき、オフコース、チューリップ、小坂明子、八神純子らです(チャゲ&飛鳥もポプコン出身ですが、注目されるのはもう少し後です=1979年の「ひとり咲き」でメジャー・デビュー)。 中島みゆきは現在でも息長く活動中。オフコースのメンバーだった小田和正やチューリップのメンバーだった財津和夫はその後、ソロ歌手(シンガー・ソングライター)として活動し、現在でもなお名曲をリリースし続けています。 ◆ユーミンの衝撃デビュー ポプコン出身以外で衝撃的なデビューを果たしたのは、1972年に登場した荒井(現・松任谷)由実です。彼女の音楽は、コード進行やメロディーが当時としては、とてもおしゃれで、斬新でした。フォークでもロックでもない新しい感性の音楽分野は、まもなく「ニュー・ミュージック」と呼ばれるようになりました。 デビュー・アルバム「ひこうき雲」(1973年発売)と、セカンドの「ミスリム」(1974年発売)は、やはり日本の音楽史に残る名盤だと思います。昔、荒井由実時代のライブを天王寺野外音楽堂で聴けたことは、今でも私の自慢の一つです。 かぐや姫が人気を得たのもこの頃(1973~74年)ですが、個人的には、私たちのバンドの音楽的志向と少し違っていたので、「神田川」(73年発売)や「赤ちょうちん」(74年発売)はあまり好きではありませんでした(唯一、「妹」=74年発売=は好きでしたが…)。また、かぐや姫解散後、伊勢正三らがつくった「風」のシングル「22才の別れ」も結構好きで、聴いていました。 1973年にデビューした、名古屋出身の「センチメンタル・シティ・ロマンス」も都会的なセンスあふれる大人のロックを創り出すバンドで、現在でも息長く活動を続けています。 ◆ロック史上に輝く名盤「ソングス」 1975年、大瀧詠一は独自の「ナイアガラ・レーベル」を設立します。このレーベルからは、シュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子らが中心となったグループ、76年に解散)やソロでの山下達郎、佐野元春、杉真理らが育ち、メジャーになっていきます。 この頃、私は邦楽では、荒井由実時代の4枚のアルバム(上記の2枚&「コバルト・アワー」=1975年発売、「14番目の月」=1976年11月発売)と、73年にデビューしたセンチメンタル・シティ・ロマンスの1stアルバム(75年発売、タイトルはバンド名と同じ)、それに75年4月に発売されたシュガー・ベイブのデビュー・アルバム「ソングス」を、レコードの針が擦り切れるほど聴いていた記憶があります。 「ソングス」は今聴いても素晴らしく、日本のロック史に輝く名盤と言っていいと思います。とくにこのアルバム1の名曲「ダウンタウン」はその後、エポら多くのアーチストによってカバーされています。 以上、駆け足でしたが、日本のフォーク&ロック黎明期の10年を振り返ってみました(でも、急いでまとめたので、誰か大事なアーチストを忘れていないかなぁ…)。 (文中敬称略)【おことわり】ロカビリーやGS(グループ・サウンズ)はなぜ“無視”したのかと言われそうですが、ロカビリーについては60年代前半までがピークだったことに加えて、米国音楽の翻訳・模倣音楽であるため、日本人によるオリジナルとは言えないというのが理由です。 また、GSは基本的に歌謡曲の延長線上に誕生し、曲も職業作詞家、作曲家に頼っていたグループが多かったので、あえて触れませんでした(ブルーコメッツは作曲も取り組んでいましたが、曲の雰囲気はフォークでもロックでもなく、歌謡曲がポップに発展したものと僕は考えています)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/09/24
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東京出張のついでに、久しぶり(たぶん6、7年ぶり)に横浜のBARを巡ってまいりました。横浜は、同じく歴史ある港町・神戸と同様、街全体がエキゾチックな雰囲気に包まれています。 阪神間に住む僕は神戸が大好きなのですが、その神戸と同じくらい、横浜は魅力的だと思っています。そんな横浜の夜の街を歩き、酒場を1軒、1軒巡るのは至上の幸せな時間です。 さて、この夜の1軒目は、中華街(写真左)のほぼ真ん中にある「ニュー・ノルゲ(New Norge)」(写真右)。1972年オープン、ことし36年目の老舗だが、僕は初めての訪問。 店は、「ノルゲ」という名からも分かるように、元々ノルウェー人の元船員さんが開いた。創業者は他界し、現在では奥さんの日本人がオーナーとなっているという。 奥さんは店には出ておらず、若いバーテンダーさんがカウンターを守る。聞けば、「奥さんは元々関西出身だそうですよ」とのこと。それだけでなんとなく親近感が沸く。 古い港町の酒場の雰囲気をよく漂わせた店内。まずはお決まりのジン・リッキーがスターター。バーテンダーさんは気さくで、親切(コースターまでいただいちゃった!)。「今宵の1軒目としては申し分ない選択だったなぁ…」なんて、自画自賛。 さて2軒目は、1軒目の「ニュー・ノルゲ」の通りを挟んですぐ前にある「ウインドジャマー(Windjammer)」(写真左)。ここも「ニュー・ノルゲ」から遅れること数カ月後の1972年にオープンした老舗だ。 「帆船」という意味の店名らしく、店内は客船の中の応接室という重厚な雰囲気。バック・バーにも帆船の模型や船関連のグッズがいっぱい。 お店のウリは毎晩8時からあるジャズ・ライブだが、残念ながら、8時まではまだたっぷりと時間もあり、BAR巡りがメインの今夜はあきらめる。 さて、3軒目。中華街のランドマーク的な建物と言えば、加賀町警察署。その玄関のすぐ前にある、こちらも老舗の「ケーブル・カー(Cable Car)」。ここは昔一度お邪魔したことはあるのだけれど、その記憶も薄れるくらいだから今回はぜひ再訪したかったBARだ。 この店の特徴は、なんと言っても、長さ18mにも及ぶ長~いカウンターだ(写真右)。オーナーは米国人。横浜にはケーブル・カーはないのだが、同じ港町のサンフランシスコが好きなオーナーはこの酒場にシスコ名物の名を付けた。 細長い店内の細長いカウンターに座って飲んでいると、まるでケーブル・カーの車内にいるような錯覚に陥る。中華街は前日、旧正月の行事、春節祭でにぎわったというが、この酒場はいつも通り、常連たちが静かに杯を傾ける日常の風景だったという。 ギネス&バスペールのハーフ&ハーフ、さらにギリシャのパン「ピタ」でつくった、ボリュームたっぷりのハンバーグ・サンド(フード・メニューもめちゃくちゃ充実している!)を堪能した僕は、次の店を目指す。 さて、4軒目は中華街のメインストリートを抜けて山下公園の方へ向かう。目指すは、ホテル・ニューグランド。以前のブログ(06年11月12日の日記)でも書いたが、このホテルは、開国直後の日本で最初にBARができたホテル「横浜グランドホテル」の流れをくむ。 そして、このホテル・ニューグランドのメインBAR「シー・ガーディアン2(Sea Guardian 2)」の名物と言えば、やはり昔このホテルのBARで生まれた有名なカクテルたち、バンブー、ヨコハマ、ミリオン・ダラー…。 僕は、あえてバンブーは避けて、この夜は「ミリオン・ダラー」(写真左)と「ヨコハマ」を頼む。前者は、ジンをベースにして、スイート・ベルモット、パイナップル・ジュース、グレナディン・シロップ、卵白というレシピ。やわらかい甘さ、口当たりの良さは絶品。 後者の「ヨコハマ」も有名なスタンダード・カクテルだが、ちなみにレシピは、ジン・ベースで、オレンジ・ジュース、ウオッカ、グレナディン・シロップ、アブサン少々。飲みやすいけれど、調子に乗ると足にきそうなカクテルだ。 さて、5軒目。ホテルすぐ横の街場に、こんな素敵なBARがあるのだけれど、意外と知られていない「スリー・マティーニ」(写真右)。中華街の喧噪からは少し離れた静かなエリアにあるためか、静かに、落ち着いて飲める酒場だ。 以前に僕のブログ(05年5月24日の日記)でも一度紹介したことがあるけれど、ここのオーナーの山下マスターは、中学生の頃、兵庫県の西宮に住んでいて、大社中学という学校を卒業している。かつて初めてお邪魔した僕を、同じ兵庫県の阪神間から訪ねてきたということでとても歓迎してくれた。 お店と同様、「年中無休」と聞いていたYさんだったが、あいにく月曜だけは従業員に任せて、自分は店を休んでいるという。会えなくて残念だったけど、BAR巡りをしているとこういうこともある(写真左=「スリー・マティーニ」の店内はソファ席もあり、温かい雰囲気の空間)。 しかし、代わりに応対してくれたバーテンダーのNさんには、とても親切にしていただいた。生まれも育ちも横浜なのだが、若い頃、大阪の朝潮橋というローカルなエリアで働いたことがあるとかで、その話で盛り上がる。 また、Nさんは近く「スリー・マティーニ」を“卒業”し、馬車道近くにBARを開くのだという。居心地がいいので、このBARでは3杯も飲んで長居をしてしまう。Nさんとは再会を約束し、マスターへの伝言を頼んで店を後にする。 この夜泊まるホテルは少し離れた、馬車道の近く。で、そろそろ足をその方向へ向ける。途中、以前、ある雑誌で見てちょっと気になっていたBARがあった。この1軒だけイニシャルで記すが、「H」という少しスノブ系の内装の店。 雑誌では「腕利きの女性バーテンダーが切り回す」と記されていたのが、若い男性バーテンダーが一人いた。聞けば、今は彼がやっているという。 だが、やや長めの髪がボサボサで手入れがされていない。一目見て「(僕の趣味に)合わないBARだ」と思った。バーテンダーは多少の長髪でもいい。でも、やはりこの商売には清潔感が大切だ。 1杯だけでサヨナラし、気を取り直して、馬車道にある「西洋酒場・らんぷ」(写真右=店内のライティングは、もちろん温もりを感じる「ランプ」型の灯りだ)へ。ここは以前にも来たことがある。オーナー・バーテンダーのKさんはそのことを覚えていてくれて、僕は嬉しかった。 赤れんがの外観。温かみのあるライティングで、落ち着いた店内。Kさんこだわりの美味しいモルトもたくさんあって、嬉しい(写真左=翌朝、JR関内駅への道すがら撮った「らんぷ」の素敵な外観)。 残念なのは、この店の雰囲気を愛する常連が多いためか、キャパがそう広くない店はいつも盛況。この日、カウンターに座れた僕はついていたのかもしれない(ウイスキー好きの常連さんとも仲良くなりました)。 久しぶりに訪れた「らんぷ」はやはり、Kさんの気さくな人柄もあって、極上の時間が味わえる。モルトをついつい2杯、そしていつものように仕上げに「レッド・アイ」(ビールのトマト・ジュース割り)を頂き、幸せな気分でホテルへの帰途についた。 この夜、遠来の僕をもてなしてくれたマスターやバーテンダーの皆様に改めて感謝! 横浜には、まだまだ僕の知らない素敵なBARがたくさんあるに違いない。今度は野毛か桜木町あたりを攻めようかな。 【New Norge】横浜市中区山下町217 電話045-662-2309 【Windjammer】山下町215 662-3966 【Cable Car】山下町200 662-5303 【Sea Guardian 2】山下町10、ホテル・ニューグランド1F 681-1841 【スリー・マティーニ】山下町28 ライオンズプラザ山下公園104 263-0993 【西洋酒場・らんぷ】住吉町5-61 住五ビル1F 641-8901(営業日、営業時間は各店へお問い合わせください)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/02/21
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久しぶりに言葉の話題。関西以外の方は、関西弁なんて、関西へ行けばどこでも話されているし、地域でそう大きな違いはないと思っている人も多い。 確かに、いわゆるイントネーションだけで言えば、奈良出身の明石家さんまも、兵庫・尼崎出身のダウンタウンも、大阪市出身の綾戸智絵も、三重・名張育ちの平井堅(生まれは大阪だそうです)も、みんな同じ関西弁を喋っているように聞こえる。 しかし、実はそうではない。関西弁と言っても、地域ごとに微妙に、かなり違うということを知ったのは、なかでも神戸弁というのがあることを知ったのは、大学生になってからである(写真左上=神戸は港から発展した。海から見る景色は今も魅力的だ) 生まれは京都の僕だが、高校までは大阪だったので周りの友達も、大阪弁を話すエリアに住む友人がほとんどだった。たまに東京から転校生があると、クラスは、それは凄い騒ぎだった。聞いたことのない東京弁を、面白がって真似する子も多かった(写真右下=元町の旧外国人居留地には、今ではおしゃれなブランド・ショップなどが集まる。唯一今も残る洋館は、阪神大震災で全壊したが、部材を再利用してよみがえった)。 大学には、兵庫県の高校出身の同級生がたくさんいた。とくに神戸、長田、御影という有名な3つの県立高校から進学してきた人が多かった。彼らが話す関西弁は、もちろん僕には理解できたが、ところどころに、僕がそれまで聞いたことのない言い回しや単語があり、「あれ?」と思うことが時々あった。 それが「神戸弁」という、関西のある地域でしっかりと確立している方言であることを、僕は程なく知った。神戸弁のなかでも、僕が聞いて一番驚いたのは、(典型的な神戸弁でもあったのだが)例えば、動詞の語尾変化の「~とう」。 「~とう」は、標準語では「~ている」という意味。「知っとう」「書いとう」「来(き)とう」「見とう」「取っとう」などと言う。話すとき語尾を上げれば、そのまま疑問文にもなる。この「~とう」という言葉(表現)は大阪や京都では絶対に使わない。 また、標準語で「来ない」を、大阪弁では「けーへん」、京都弁では「きやへん」と言うが、神戸弁になると「こやへん」になるということも初めて知った。あと、「べっちょない」(心配ないよ、大丈夫だよ)という言葉も、(播州方面でもよく使うようだが)最初は意味が分からなかった(写真左=神戸と言えば、異人館。その代表格とも言える「風見鶏の館」) 「アホ」「バカ」に当たる言葉にも、「ダボ」という神戸弁独特の単語があるが、「ダボ」には、相手を威圧・軽蔑するというよりは、自虐的な意味もある(だから、自分に対しても使う)。あまり食べるところは少ないけれど、すぐエサに食い付いてくれる「ハゼ」のことを、「ダボハゼ」なんて言うこともあるが、これも語源は同じかもしれない。 神戸弁には、他にも面白い言い回しや言葉がたくさんある。「どないしょ(ん)?」(=どうしたの?)は、知り合い同士なら、挨拶代わりにでも使える。よく似た言葉で、「なんどいや?」(なんですか?)というのもよく使う(写真右下=開港以来、多くの外国人が住み着いた神戸。中華街=南京町=は今や神戸観光の人気スポットだ)。 「せんどぶり」(ひさしぶり)、「なしたまぁ」(おやまぁ)、「やっと」(たくさん)、「だんない」(大丈夫だよ)なども、神戸エリアでしばしば耳にする(最後の「だんない」は、地理的に近い徳島でもよく聞かれるけれど…)。 では、大阪弁と神戸弁はどの辺りが境界線なのか。阪神間の芦屋はどちらかと言えば、神戸弁。尼崎はほぼ完全に大阪弁。芦屋と尼崎の中間の西宮市辺りになると、神戸弁と大阪弁を喋る人々が混ざり合い、コミュニティを形成し、両方の言葉を聞くことができる。だから、この辺りが神戸弁と大阪弁の境界かもしれない。 神戸弁を聞きたければ、三宮か元町辺りを歩くといい(異人館の辺りは他県からの観光客も多いので、あまりおすすめはできない)。旧居留地辺りをゆっくりと散策して、これらの「神戸・お国言葉」が聞けば、きっと「あぁ、港町・神戸に来たんだなぁ…」と実感するはずである。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2005/08/30
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黄金週間の最後の5月4~6日、親戚のご夫婦のご招待を受けて、愛知県犬山から岐阜県下呂温泉へと2泊3日の旅を楽しんでまいりました。 犬山を訪れるのは初めてですが、新幹線と名古屋鉄道を乗り継ぐと、大阪からわずか2時間ほどで到着です(名古屋までの新幹線は黄金週間のピークとあって、結構混んでいました)。 犬山へ着いた僕らは、まずは親戚のご自宅へ。親戚宅の玄関には、白と赤の美しいつるバラが2階にまで伸びて、見事なアーチをつくっています(写真左)。 40平米ほどの庭には、色とりどりの花が咲き乱れ、花のほかにも、ハーブや野菜たちが、大切に育てられています。 ガーデニングは花への愛情と体力が必要な趣味ですが、広い庭をお二人でしっかりと手入れされているのを見て、ただただ感心。個人的には、オリーブの大きな木もあったのが羨ましかったです(写真右=手入れのよく行き届いた見事な庭)。 親戚宅で昼食をいただいた僕らは、ご夫妻と一緒に犬山で最も有名な観光名所である「国宝・犬山城」へ。犬山城は、昔から一度は行ってみたいと願っていた城です。 日本では、姫路、彦根、犬山、松本という4つの城が「国宝指定」されていますが、犬山城はなかでも戦国時代の天守閣が現存している唯一の城です(写真左=親戚の奥様は「トールペインティング」の先生もしています)。 犬山城は天文6年(1537)、織田信長の叔父にあたる織田信康によって築城され、戦国時代の間は城主が何人も代わりました。その間には秀吉が一時期城主だったこともあります。 しかし、江戸時代に入って元和3年(1617)に尾張藩付きの成瀬正成が城主になってからは成瀬家が代々城主を務め、廃藩置県の後も、成瀬氏の子孫が代々個人で城を所有するという不思議な形が、2004年に財団法人となるまで続きました(写真右=犬山城天守閣)。 黄金週間とあって、全国からの観光客でごった返しているだろうなぁと覚悟していましたが、意外や意外、天守閣へは(人出はそこそこありましたが)並ばずに入れました。 ただ、3層4階の天守閣の最上階へ登るには、彦根城と同様、急で狭い階段を何回も上らなければなりません。結構汗をかきます。いい運動になりますが、高齢の方にはちょっときついかも。 犬山城を見学した後、僕らは古い家並みの残る犬山の城下町を散策。夜は泊まったホテルのレストランでライトアップされた天守閣を眺めながら、美味しいフルコースをいただきました(写真左=古い家並みが残る犬山。これは酒屋さんです)。 翌5日は、朝8時半にホテルを出発し、親戚ご夫妻と一緒に犬山のもう一つの観光名所である「明治村」へ。明治村はその名の通り、全国にある明治時代の建築物を数多く移築・保存している屋外博物館のような場所です(写真右=神戸市内にあった大井牛肉店)。 約100万平米もある広大な村内には約60の建築物や客車、鉄橋のほか、路面電車、SLも動態保存されています。 ゆっくりじっくり見学すれば丸1日かかるような規模ですが、僕らは午後から下呂温泉方面へ移動しなければならないので、午前中いっぱいをかけてお目当ての建物を中心に見て回りました(写真左=京都市内にあった聖ヨハネ教会)。 僕のお目当ては2つありました。一つは、東京の千駄木にあった夏目漱石の旧居=写真右。初めて知ったのですが、この旧居(借家だったとか)は漱石が住む前には森鴎外も住んだことがあるので、「鴎外・漱石住宅」という表示がされていました。 漱石はこの平屋の建物に、明治36年(1903)から39年まで暮らし、この家の書斎であの名作「我輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を生み出しました。千駄木の旧居跡は現在、碑が立っているだけで、漱石が暮らした頃を偲ぶものは何もありません。 本来なら、千駄木の現地で保存されるべき建物だったとのですが、文化や文化財の保存についてレベルが低い日本では、このような移築保存しか道がなかった訳です。それでもこの明治村で文豪の創作空間を昔のまま見られることは嬉しいことです。 もう一つの僕のお目当ては、これも元は東京にあった旧帝国ホテル。ご存じのようにあの名建築家フランク・ロイド・ライトが設計した石造りの素晴らしい建物です(写真左=漱石執筆の間で漱石の有名なポーズを真似て…)。 移築されているのは旧ホテルのごく一部(10分の1ほど)=写真右下、本館玄関などの中央部分にすぎません。 それでも、3階まで吹き抜けの中央ロビー=写真左下=や大谷石や透かしテラコッタを使った見事なまでの内外装=写真右下=など、この部分だけでも十分にライト建築の素晴らしさにふれることができます。 ライトは建物自体の設計だけでなく、外壁装飾や家具、調度品(テーブルや椅子)に至るまで自らデザインしました。ライトがこのホテルにかけた情熱が伝わってきます。 レストランや喫茶では当時の椅子やテーブルのレプリカが使われていますが、そのデザイン(意匠)は、現代でも通用しそうなモダンな感覚に溢れています。 この旧帝国ホテルに泊まった有名人としては喜劇王チャプリンやあのマリリン・モンローらが知られていますが、二人ともこのホテルを絶賛したそうです。 このホテルも本来なら現地で保存すべき歴史的建造物でした。歴史的な文化遺産はその場所にあってこそ意味があり、その価値があるものです。 日本では、「移築すればいいじゃないか」「建て直す建物の中に一部だけ保存すれば十分」という発想が今なおまかり通っています。歴史や文化遺産を守ってゆくという意識は、残念ながら日本は欧米に大きく遅れをとっています。 イギリスやイタリア、フランス…どの国をとっても、古い歴史的遺産(建物)を大事に残し、現代の生活の中で活用しています。貧困な発想しか持ち得ない官僚や企業経営者には情けないというしかありません。 さて明治村でのお昼ご飯は、やはり「明治」にこだわって、「明治のカレー」=写真左下=をいただきました。明治中期のレシピを再現したというカレーはやや甘口でしたが、わさびくらいしか香辛料を知らなかった明治の日本人にはこれでも結構刺激的な味だったでしょう。 食事の後、明治村を後にした僕らは親戚のお父様が運転してくれる車で、一路、下呂温泉へ。途中、親戚のご両親が暮らす岐阜県・七宗町神淵というところに少し寄り道した後、渓谷沿いの国道を走り、午後5時頃、下呂に着きました。 下呂温泉は有馬、草津と並んで「日本三大名湯」と言われています(初めて知りました)が、四方を山に囲まれた盆地のようなのどかな場所にあります。温泉好きの我々としては以前から一度訪ねてみたかった場所でした。 下呂では、せっかくだから一番有名な旅館として知られる「S」に泊まりました(黄金週間なので料金もハイでしたが…)。「S」は約250室もの部屋数を誇り、皇族も泊まるという格式ある旅館と聞きました。大きな3つの建物のほか「離れ」が2カ所あります。 しかし、大きな旅館によくありがちなのは、料理は大量生産でおおざっぱで、きめ細かいサービスが不十分などという点です(写真右=下呂の温泉街)。 そんな不安は「S」にも的中しました。夕食の場所は大広間で、まるでデパートの大食堂状態です。子どもが走り回り、雰囲気はだいなしです。料理も工夫に欠けて、和洋中折衷の夕食コースは首をかしげる内容でした。 飛騨まで来てカツオのたたきやサーモン・ステーキを食べたい人はどれくらいいるのか(美味しい川魚があるというのに…)、塩胡椒だけで十分美味しい霜降りの飛騨牛になぜ、フランス料理のようなこってりしたソースをかけるのか。そもそも和洋中折衷コースのみという設定はいかがなものか。 温泉は館内に表情の違う施設が3カ所もあって、これだけは堪能できました。館内施設も充実しています。しかし、何かが足りないのです。料金に見合ったサービスを受けたという気がしません(写真左=下呂へ向かうJR高山本線は絶景の渓谷沿いを走る)。 最近、大きなホテルや旅館よりも、隠れ家のような小規模の宿に人気が集まっていますが、その理由がわかるような気がします。 若女将は帰り際もきちんと見送ってくれましたが、おそらくは規模が大きすぎて細かい部分にまで目が行き届いていないのでしょう。「S」が一流旅館であるだけに、頑張って改善していってほしいと思います。
2008/05/11
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【2005年7月17日の記事の再投稿です。原則として、当時書いたままの文章を再録しています】 キリンのお茶「茶来」のCMに、芸能界に復帰した中山美穂が登場している。ミポリンには特別興味はない私だが、バックに流れている曲を聴いて、思わず「あぁ、懐かしいなぁ…。いい曲だなぁ…。でも、40歳以下の人はこの曲、誰の曲か分からないだろうなぁ…」と独りつぶやいていた。 曲名はCM画面の片隅にも出ている通り、「地球はメリー・ゴーランド」。1972年、GARO(ガロ)という3人組のグループが出した2枚目のシングル曲(デビューアルバム=写真左=にも入っている)である。GAROと言ってもすぐピンと来ない人でも、「『学生街の喫茶店』を歌っていたグループ…」と言えば、思い出されるかもしれない。 GAROは、1971年にデビューした。堀内護(愛称「マーク」、当時22歳)、日高富明(同「トミー」、同21歳)、大野真澄(同「ボーカル」、同22歳)の3人からなるグループ。当時は「フォーク・ロック」というジャンルに入っていたかと思う。アコースティック・ギターによるコーラス・バンドで、カバー曲以外の、オリジナル曲づくりも自分たちでこなした。 当時、同じくギター・バンドをやっていた私にとっても、GAROはお手本でもあり、目標でもあった。彼らの曲もよくコピーし、歌った(写真右=GAROが残した唯一のライブ・アルバム。CS&Nなどの洋楽を演奏したライブ音源も、ぜひCD化してほしいが…)。 当時GAROは、単に「フォーク・グループ」と呼ばれることが多かったが、私は今でもこの言い方には馴染めない。高いコーラス・ワークとギター・テクニックを誇った彼らは、メジャー・デビュー前から、「和製CS&N(クロスビー、スティルス&ナッシュ)」とも言われ、注目されていた。実際、彼らが目指していたのも、フォークとかいう狭いジャンルにとらわれない音楽だった。 デビュー・アルバムでは、曲づくりやコーラスで、その素晴らしい才能があちこちに垣間見れる。初期の頃は、冒頭で触れた「地球は…」のほかにも「1人で行くさ」「涙はいらない」など、音楽的にもレベルの高い、クオリティの高い曲が多かった。しかし、大ヒットという訳にはいかず、GAROは一部の熱狂的なファンの間での存在だった。 それが一転したのが1973年、3枚目(4枚目説も)のシングルとして発売された「学生街の喫茶店」の大ヒットだった。実は当初、この曲は「美しすぎて」というシングル曲のB面だった。それが、GAROの「大衆化路線」を目論むレコード会社やプロデューサーの方針で、発売直前、B面の「学生街…」がA面に差し替えられたという(このためジャケットの裏面の歌詞では、A面は元の「美しすぎて」のままだった)。 この曲をつくったのは、すぎやまこういちという当時の売れっ子作曲家・編曲家だった(代表曲にタイガースの「花の首飾り」、ヴィレッジ・シンガースの「亜麻色の髪の乙女」などGS<グループサウンズ>に数多くの曲を提供していた)。GAROのメンバーは、この「歌謡ポップス」のような曲を、最初あまり歌いたくなかったと聞く。しかし、デビュー間もない3人に大レコード会社、大作曲家に抵抗できるはずもなく、言われるがまま「学生街…」がA面として売り出された。 それが幸か不幸か、それがオリコン・チャートで1位になり、70万枚を超える大ヒットになってしまった。その年のNHK紅白歌合戦にも出場し、この曲を歌わされることになる。そしてそれ以後、GAROと言えば、「学生街…」というレッテルが付いて回った。もともと洋楽志向だった3人にとって、「歌謡ポップス」のグループのように見られるのは、辛い現実だったに違いない(写真左=GAROのアルバムはほとんどが廃盤になっていて、現在はこのベスト盤のみが発売されている)。 GAROはライブなどでは、思い切り、洋楽のカバーや洋楽をルーツにしたオリジナル曲を歌っていたが、テレビではやはり、「『学生街…』を歌ってください」ということになる。しばらくは我慢していた3人だが、結局は、「これは僕らの求めていた音楽ではない」と気づく。そして、12枚のシングルと8枚のオリジナル・アルバムを残して、3年後の1976年に解散。3人はそれぞれの道を歩むことになる。 マークは、その後3枚ほどソロ・アルバムを出したが、その後は芸能界から姿を消した。しかし、90年代半ばからは再び音楽活動も再開し、様々なユニットでアルバムも出した。だが、残念ながら2014年12月、病気(胃がん)のため65歳で亡くなった(この箇所は2015年に追記)。 トミーは解散後、ロック・バンドを結成し、ライブ活動をしていたが、皆さんもご存じのように、1986年、飛び降り自殺をして、36年の短い生涯を終えた。音楽的な行き詰まりが原因とも聞くが、本当のところは分からない(私も詳しいことは知らない)。 ボーカルは、レコード・プロデューサー、ディレクターに転じて、現在も音楽業界にいる。7、8年前にはテレビに出て、「学生街…」を1人で歌っていたのを見たことがあるが、私は切なくて、悲しくて、途中でチャンネルを変えてしまった(自分たちの音楽の原点を壊してしまった曲を歌うことに、心に抵抗はないのだろうか)。 実質5年余の活動で音楽界から消えた伝説のバンド、GARO。その解散も、トミーの死も、私は今でも残念でならない。もし彼らが「望む道」を歩んでいたら、きっと、60代の今も現役で活躍しているCS&Nのように、息の長いバンドになっていたにかもしれない。彼らを間違った運命へ導いたレコード会社の幹部やプロデューサー、そしてGAROのために「学生街…」をつくったすぎやまこういちなる作曲家を、私は今も恨む。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/05/23
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先日、再び出張で福山(広島県)を訪れた。今回は1泊だったので、電車で20分ほどの距離にある、尾道の老舗・名Bar「暁」にお邪魔するつもりでいた。 尾道の「暁」と言えば、1945年開業、映画の街・尾道を舞台にした映画にもたびたび登場している、全国的にもとても有名な老舗Barである。以前から、一度は訪れてみたいと願ってきた。そして僕は、今回の出張で実現させようと計画した。ところが前日の夜、念のために電話してみても、応答がない。嫌な予感がしてネットで情報を調べてみると--。 何人かの方が、「暁の閉店」を惜しむ記事を書かれていた。読めば、店を閉じたのはことし2月末で、マスターの体調不良が理由だという。ただし完全な閉店ではなく、「一時閉店」なのだとか。 「こんなことなら、もっと早く行っておくべきだった」。悔やんでも悔やみきれない事実だった。しかし、ネット情報をもう少し詳しく読むと、暁には福山に支店があり、そちらは営業しているとある。それなら行かない手はない。あの暁の支店なら、雰囲気が悪い店のはずがない。尾道・暁の再開見込みについても、少しは情報が得られるかもしれない(写真左上=暁・福山店)。 で、福山の支店の営業を電話で確認した後、早速お邪魔した。電話に出たのは年配の女性だったが、店にいたのは年配の(マスターらしい)男性と女性の2人。 来意を告げて、「尾道の店の再開の見通しはどうなんでしょうか?」とその男性に尋ねる。すると、なんとその男性こそ、尾道「暁」マスター・佐藤軍治さん(66)で、女性は奥様だった。「体の具合がいまいち良くなくてねぇ…。またよくなったら再開しようとは思ってるんだけどねぇ」とマスター。聞けば、病気の後遺症で片足が不自由なのだという(確かに、歩くのが少し辛そうでした)。 しかし、福山の「暁」の雰囲気は、写真でもよく分かるように、尾道の本店にも勝るとも劣らない。オープンは1966年で、その後83年に現在地に移転したという。壁という壁はほとんどがウイスキー棚でボトルがぎっしり。その数は3千本以上とも。 しかも天井には、尾道店と同じように、たくさんのノベルティの灰皿が針金で止められ、ディスプレーされている=写真右。なぜか帆船の模型もぶら下がっている。その数と迫力に、ただただ圧倒されるのみ。 「尾道の店の飾ってるボトルは、ほとんどがホコリをかぶっていますが、こっちの方は一応きれいですよ」と笑わせてくれるマスター。何十年も前のボトルがごろごろ。これだけ集めるのにかかった時間と情熱を考えると、言葉を失う。 ご存じのようにマスターは2代目。尾道の本店のボトルはほとんど、亡くなった初代マスターのお父様が集めたという。「最初はサラリーマンをしていて、オヤジの仕事を継ぐことになるとは思いませんでした」としみじみ語るマスター。 福山の支店は、これまでもっぱら奥様が中心となって営んでいたが、今回、夫婦で営むことになった。だからかどうか分からないが、店内にはアットホームな温かい雰囲気に溢れ、居心地がいい(写真左=マスターの佐藤軍治さん)。 スコッチのハイボールを1杯頂いた後、せっかくだから、暁のオリジナル・カクテルをお願いする。ネーミングにひかれて前から飲みたかった「沈黙の艦隊」=写真右=を。 2種類のウオッカにブルー・キュラソー、グラスの底に緑色したマラスキーノ・チェリーを沈める。このチェリーは潜水艦を模しているんだとか。潜水艦に見えるかどうかは、貴方の想像力次第。度数は結構高いのに、爽やかで、きりっとしていて、意外と飲みやすい。ちなみにオリジナル・カクテルには、店の名にちなんだ「暁」というのもある(こちらは「パルフェタムール」というリキュールを使う)。 あまりの居心地の良さもあって、マスターや奥様と話し込み、気が付けば1時間半以上お邪魔していた。今回、尾道の本店には行けなかったけれど、この福山で、佐藤マスターと会えたのは幸運で、何よりも嬉しい(写真左=トイレの壁には、柳原良平さんが来訪時に描いたアンクルトリスの色紙も)。 マスターどうか無理せずにしっかり体を治されて、体調が戻ったら尾道の本店もぜひ再開させてくださいねー。あの暁・本店は、尾道にとっては「文化財」のような存在で、Bar愛好家には「宝」のような酒場なのだから。【舶来居酒屋・暁(福山店)】広島県福山市入船町2丁目5-5 電話084-923-2104 午後7時~午前2時 日休 新幹線福山駅からタクシーなら南東へ5分ほど。徒歩なら15~20分くらいです。【追記】その後、尾道に行く機会がありましたので、閉店中の「暁・尾道本店」を撮ってまいりました=写真右。こういう歴史と伝統のある店がこのまま消えてしまいなんて、想像したくもありません。「どなたかが後を継いでもらえたら」というのが、僕も含めBarを愛する人間の共通の願いだと思います。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/06/29
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ビートルズのポールがピアノへのきっかけを作ってくれたとしたら、育ててくれたのは、エルトン・ジョンとビリー・ジョエルだ。ビートルズの後、弾き語りに取り組んだのはまず、エルトン・ジョンの曲だった。 エルトンは、シンガー・ソングライターの中で、ピアノの弾き語りという分野を確立した、おそらく最初のアーティストに違いない。デビューまもない1970年にリリースした「Your Song」は大ヒットし、30年以上経った今、20世紀のスタンダード曲の一つとなった。独特の旋律の伴奏を伴った美しいメロディーは、今も輝きを失わない。 僕が曲のコピーを始めたころは、まだ楽譜(ピアノ譜)が発売されていなかった。しばらくして輸入楽譜が手に入ったが、なぜか譜面はレコードの伴奏と微妙に違った。プロ・ミュージシャンだった知り合いに、レコードからの採譜を頼んで、ようやく本物に近い伴奏になった。 「Your Song」は、今でもピアノBARでの弾き語りなどで、一番よく歌う僕の愛唱歌。「Rocket Man」や「Daniel」「Candle In The Wind」も好きだが、やはりエルトンは「Your Song」に尽きる。 一方のビリー・ジョエルも、弾き語りに向いた素敵な曲が多い。なかでも、僕が一番好きなのは「Honesty」。歌のキーとしては「New York State of Mind」の方が合っていて、こちらの方が比較的うまく歌えるのだが、やはり、「Honesty」や「Just The Way You Are」をリクエストされることの方が多い。 その二人が1998年春、「Face To Face Tour」と銘打って、一緒に来日した(写真左上は、ツアー・パンフの表紙)。僕も当然、聴きに行った。会場は大阪ドーム。第1部のステージには、2台のグランドピアノだけが、向い合わせに置かれていた。ビリーが「Your Song」を、エルトンが「Honesty」をと、お互いの持ち歌をうたい合うという、とても粋なオープニング。 そして、2部、3部はビリーとエルトンが別々に演奏。最後はアンコールで、ビリーの名曲「Piano Man」を、二人が2台のピアノでかけ合いで弾き、歌ったが、この時の「Pinao Man」の自由奔放な素晴らしさは、ちょっと言葉で言い表せない。 エルトンはそのとき51歳、ビリーは49歳。中年になって、二人とも立派なお腹をしていたが、やはりピアノも歌も素敵だった。僕は至福の時間に酔うとともに、ピアノと僕をさらに近づけてくれたステージの二人に感謝していた。
2004/12/23
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神戸に行く機会は、公私ともに結構多い方だ。月に2回は訪れているかなと思う。買い物にも便利で、素敵なBARや食べもん屋さんもたくさんあるし、第一、歩いているだけで楽しい街、それが神戸だと思う。 うちの会社のオフィス(支店)は、三宮や元町のちょうど中間くらいの場所に位置し、しかも旧居留地に真ん中と絶好のロケーションなのだが、残念ながら、会社の周りには、おしゃれなカフェはあっても僕の大好きなBARは少ない。 遊びで行くときはもちろんだが、仕事で行く時も、用件が早めに終わって日も暮れてということになれば、「きょうは直帰します」と本社へ連絡して、そそくさと夜の街へ消える。 一人で飲み歩くのもいいのだが、寂しいときは突然、知り合いに「三宮(または元町)まで出て来てるんだけど、ちょっとどう?」と電話したりする。友人を待つ間、時間をつぶすのにちょうどいいBARがあれば最高だが、そんなBARが三宮にはある。 三宮駅から徒歩数分、東急ハンズの東側に南北に伸びる「東門筋」という飲食店街の通りがある(神戸で「ひがしもん」と言えば大抵の人は知っている)。その通りの中ほど、南から北へ歩けば、左側にある「Azabu Bar」(写真左&右上)というこじんまりした酒場が、僕のお気に入りの「待ち合わせスポット」。 店の造りはBarというより、アイリッシュ・パブ風。1階はスタンディングのカウンターと少々のテーブル席。2階にはテーブル席があるというが、僕はいつもスタンディングのカウンターで飲むのが好きなので、実は、2階には一度も足を踏み入れたことがない。 「なぜ神戸なのに、アザブ(麻布)・バー?」と誰しも疑問に思う。オーナーは普段、店には出ておらず、店はスタッフだけで(バーテンダーさんがいつも数人)仕切っている。 ある時、バーテンダーさんにそんな疑問をぶつけてみたら、「いやぁ…、オーナーは若い頃、東京の麻布に暮らしていて、思い入れがあったので店の名前にもらっただけらしいですよ」と拍子抜けするような答えだった。 それはともかく、店の雰囲気はとてもいい。スタッフの接客・サービスもほぼ及第点だし、落ち着いた雰囲気で、お値段もリーズナブル(ノーチャージ!です)。年中無休というのも嬉しい。 さらに感激するのは、ここではウイスキーのハイボールを頼めば、サントリーの角瓶で氷を入れない「サンボア・スタイル」でつくってくれる(もちろん、「氷入りで」と言えばそうしてくれます)。 「なぜ?」と尋ねたがりの僕がまた聞くと、「神戸が発祥の地のサンボア・バーに敬意を表して」とバーテンダー氏。(大正時代末に第1号店が生まれたサンボア・グループは神戸が発祥の地だが、今はなぜか1軒もない)。 店名は「麻布」だが、いたって庶民的なこの酒場。皆さんも、三宮で待ち合わせの節にはぜひ一度ご利用を。目印は店の前に立つ「ビフィーター・ジン」のシンボル、近衛兵の大きな人形(写真右上=これは「東門筋」を北から下りて来て撮ったので、通りの右側に見えます)です。【Azabu Bar】神戸市中央区下山手通1丁目4-10 電話078-322-1189 午後5時~午前1時 定休日なしこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/01/19
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2カ月ぶりに広島への出張があったので、仕事の後、再びBAR巡りをしてまいりました(前回の広島BAR巡りの日記は、こちらに)。 出張の日(13日)は全国的に大寒波が襲い、広島も日中から雪模様の天気でした。歩いていると震えるほど。「とにかく早く開いているお店に入りたい」と探したのですが、広島は6時オープンの店が意外と少ないのです。ほとんどのBARは午後7時か8時の開店です(広島のお客は出足が遅いのだとか)。調べた限りでも、「6時開店」は2軒しかありませんでした。 で、最初にお邪魔したのはそのうちの1軒、「Bar・Fouque(フーケ)」=写真右=というお店です。まぁ、この店も以前から訪れてみたいと思っていたので、若干予定外でしたが、丁度よかったのかもしれません。 「Fouque」ではマスターはまだ店にお見えになっておらず、サブのHさんがカウンターを切り盛りしておられました。店内はオーセンティックBARというよりも、落ち着きの中にもスタイリッシュさを兼ね備えた空間でした。 聞けば、オープンしたのは1989年というから、もう20年ほど前。スタイリッシュさもあってか、そんな古さを感じさせない居心地の良い店です。バックバーのデザインやライティングも上品で、デザイナーの方のセンスやこだわりを感じさせられます。 Hさんはバーテンダー歴8年で、30歳というお話でしたが、そうは思えないほど行き届いた接客&サービスです。初めてのBARでは第一印象が大事といいますが、「Fouque」の第一印象はHさんのおかげで最上のものとなりました。 さて、1時間ほど「Fouque」で過ごした僕は、帰り際に出勤されたマスターのUさんとご挨拶をした後、広島最大の歓楽街「流川」エリアへ向かいました。 2軒目にお邪魔したのは「BAR福澤」(写真左は、店の入り口横の壁に架かる素敵なプレート)。1996年のオープンで今年で15年目に入るお店です。あいにくマスターはまだお見えでありませんでしたが、話し好きなサブの方のおかげで退屈せずに済みました。 「福澤」では、オリジナル・ハイボールというのがメニューに出ていたので、頂きました。ベースはウイスキーの「白州」。よそのハイボールと大きく違うのはレモン・ピールではなく、オレンジ・ピールにしている点です。 サブの方曰く。「レモンだと少しとんがり過ぎて、白州本来の味わいを押さえてしまうので、オレンジでやってみたところ、ちょうど口当たりもいい感じになったんです」。確かに、オレンジ・ピールは合います。飲みやすい感じになるので女性向きかもしれません。 さて、日帰りの予定なので、早々と3軒目へ転戦です。訪れたのは「福澤」からもそう遠くない場所にある老舗の「Bar・Degas(ドガ)」=写真右。ここは、全国のBARに詳しい友人の推薦です。お邪魔してみると、カウンターが5、6人ほどで、あとテーブル席が一つという意外とこじんまりしたお店でしたが、ほぼ満員の盛況です。 「Degas」は1958年の創業なので、半世紀以上の歴史をもつ老舗です。両親と息子さんという家族3人で切り盛りされていることもあって、とてもアットホームな雰囲気です。メニューはドリンク、フードとも充実しているのが嬉しいです。 僕はカウンターの中にいた息子さんのSさんにご挨拶し、「先日広島でBAR巡りをした際には、(福山のBAR)さくまのマスターと『Slaintheva』でばったり会いましたよ」という話をしたら、Sさんは「そうでしたか、お客様のことでしたか。佐久間さん実はそのあとうちにお越しになられて、その話をしておられましたよー」と応え、僕もびっくり。世の中狭いですね。 「Degas」ではウオッカ・トニックとホット・ウイスキーを頂き、手作りのお通しも美味でした。Sさんは忙しいにもかかわらず、温かい接客で、僕の話し相手もしっかりしてくださり、感謝感激です(写真左=「Degas」のメニューブックの表紙にはあの柳原良平さんのオリジナルな絵が)。 さて、3軒回っていい気分になった僕は、後ろ髪を引かれる思いで、路面電車で新幹線の広島駅へ(広島の路面電車は本数が多くて、繁華街から広島駅まで10分ほどというアクセスの良さが嬉しい)。来月もまた広島出張の予定があるので、次はどこを回ろうかなぁ…と今からワクワクしています(それにしても、広島のBAR経営者の皆様、もう少し開店時刻を早くしてほしいなぁ…)。 【Bar・Fouque】広島市中区鉄砲町4-7 シティコープ幟町1F 電話082-227-5837 午後6時~午前3時(日祝~午前零時) 年末年始のみ休み 【Bar福澤】同市中区流川町3-4 フジヤマビル4F 電話246-8695 午後7時~午前3時 不定休 【Bar・Degas】中区堀川町3-8 イテザ3ビル2F 電話241-3076 午後7時~午前2時(日祝~午前零時) 無休 【追記】今回の広島BAR巡りの際、あるマスターから「夕方の5時から開いてるBARが1軒だけありますよー」と教えてもらいました。「Bar・Brown」という店です。この店についての報告は次回の広島BAR巡りでいたしますので、乞うご期待。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/16
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(162) 追憶のブルックリン・ドジャーズ 1996年 ※ノンフィクション・ライター伊藤精介氏(故人)の連載「今宵どこかのBARで」(集英社刊「スーパー・ジャンプ」誌上)の第49回「追憶のブルックリン(2)」の挿絵として制作。 現在はロサンゼルスを本拠地とするプロ野球チーム、ドジャーズは、かつてニューヨークのブルックリンを本拠地としていた。連載では、伊藤氏がかつてドジャーズ・ファンが集ったブルックリンのバーを尋ね歩く内容だったが、この切り絵は、当時のドジャーズの主力選手たちの肖像である(右端の選手は黒人初のメジャー・リーガーとなった伝説のジャッキー・ロビンソン)。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ
2021/03/21
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80.シャンハイ(上海)(Shanghai Cocktail)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)ダーク・ラム(40)、アニゼット(15)、レモン・ジュース(15)、グレナディン・シロップ2dash ※アニゼットとは、アニスなどの薬草をベースにした甘苦いリキュール 【スタイル】シェイク 誕生の詳しい経緯等は不明です。従来、多くのカクテルブックでは、「1920年代、”魔都”と呼ばれた上海にあった『外国租界』のバーで生まれたカクテル」と紹介されてきました(アヘン戦争で清国が敗れた後の1842年、上海には、中国の主権が及ばない欧米各国や日本の「租界」が生まれました。その後、租界では外国人向けホテルやバーも数多く営業するようになりました)。 しかし、上海誕生説を裏付ける史料やデータは伝わっておらず、考案者が誰かももちろんよく分かりません。カクテルのレシピ(材料)には、あまり東洋的なものは見当たりませんが、ダーク・ラムとアニゼットでエキゾチックさを、グレナディン・シロップの赤で、当時の妖しげな「租界」の雰囲気を表現したのではないかと従来から言われてきました。 しかし近年になって、1920年代の上海で生まれたカクテルではなく、1915年以降の欧州で考案されたのではないかという説が提起されています。当初は様々なバリエーションがあったようですが、「サヴォイ・カクテルブック」(1930年刊)の著者であるハリー・クラドックが、自分なりにレシピを固め、同書で初めて活字にしたのではないかというのです(出典:http://shanghaidrinkersclub.blogspot.jp/2012/02/shanghai-cocktail-chinese-puzzle.html)。 その理由としてこのサイトはまず、上海で生まれたにしては、材料にまったく”オリエンタルなもの”がないことや、当時英国の植民地であったジャマイカのラムをベースにしていることなどを挙げています。 さらに、このカクテルの材料の一つ、アニゼット・リキュールが一般的になったのは、欧州の主要な国でアブサン(【注】参照)の製造・販売・流通が1915年までに禁止され、代替品としてパスティスなどと共に普及し始めてからで、20年代の上海でアニゼットが一般的だったとは思えないことも理由にしています(【注】幻覚作用を引き起こすというニガヨモギを使う旧タイプのアブサン。現在流通しているアブサンとは違う)。 私も昔は「上海誕生説」を支持していましたが、現在では、レシピからしても上海と言うより英国・ロンドンで生まれたと考える方が素直かなと思うようになりました(もちろん30年代以降、英国と上海との人やモノの行き来が頻繁になると、当然、上海の租界でも「シャンハイ・カクテル」は普通に飲まれるようになったでしょうが…)。 欧米のカクテルブックで「シャンハイ」が登場するのは、前述のように「サヴォイ・カクテルブック」が最初です。そのレシピは「ジャマイカ・ラム2分の1、レモン・ジュース8分の3、アニゼット8分の1、グレナディン・シロップ2dash(シェイク)」となっています。 ご参考までに、「サヴォイ…」以降、1930~50年代の欧米の主なカクテルブックで「シャンハイ」がどのように紹介されているのか、ざっと見ておきましょう。・「The Artstry of Mixing Drinks」(Frank Meier著、1934年刊)仏 ラム2分の1グラス、レモン・ジュース4分の1個分、ペルノー1dash、グレナディン・シロップ1tsp(シェイク)・「World Drinks and How To Mix Them」(William Boothby著、1934年刊)米 ジャマイカ・ラム2分の1ジガー、レモン・ジュース2分の1ジガー、アニゼット1tsp、グレナディン・シロップ2dash(シェイク)・「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Begeron著、1947年刊)米 ジャマイカ・ラム1オンス、レモン・ジュース4分の1個分、アニゼット1tsp、グレナディン・シロップ2分の1tsp(シェイク)・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1948年刊)米 ジャマイカ・ラム1ジガー、レモン・ジュース3分の2オンス、アニゼット3分の1オンス、グレナディン・シロップ2dash(ステア)・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米 ジャマイカ・ラム1ジガー、レモン・ジュース3分の2オンス、アニゼット3分の1オンス、グレナディン・シロップ2dash(ステア) 「シャンハイ・カクテル」は、日本でも比較的早く1920年代後半には伝わり、1930年代のカクテルブックですでに登場しています。個人的には、今も通用する個性的な味わいのカクテルだと思っていますが、現代の日本のバーでは、飲まれているのをあまり見たことがないのが少し残念です。 【確認できる日本初出資料】「スタンダード・カクテルブック」(村井洋著、NBA編 1936年刊)。 著者の村井氏は「ジャマイカ・ラム2分の1、レモン・ジュース8分の3、アニゼット8分の1、グレナディン・シロップ2dash(シェイク)」というサヴォイ・レシピとともに、石川欣一というロンドン特派員をしていた新聞記者が1927年の帰国時に、「ロンドンで大流行していたシャンハイ・カクテルとして、ジャマイカ・ラム3分の2、レモン・ジュース4分の1個分、グレナディン・シロップ茶さじ2(シェイク)というレシピを銀座界隈の酒場に教え、その後広まった」と紹介しています(アニゼットは抜け落ちていますが…)。 このことからも、1920年代後半のロンドンで、シャンハイ・カクテルはかなり普及していたことは間違いありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/04/07
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【おことわり】レシピは標準的なもので、絶対的なものではありません。文献やバーテンダーによっては違う割合、違う材料でつくっていることもあります/レシピの丸カッコ内の数字(単位)はmlです。◆カクテル ―― その誕生にまつわる逸話(2012年版:ABC順)(4) 10. B&B【レシピ】ベネディクティン(25)、ブランデー(25)、氷(ロック・スタイルのとき) ※ベネディクティンの上にブランデーをフロートする【スタイル】ビルドまたはステア 【グラス】ショット・グラス、ブランデー・グラスまたはロック・グラス 誕生の詳しい経緯や時期はよく分かっていない。カクテル名は材料として使う2つの酒の頭文字(B)に由来する。「ミスターボストン・バーテンダーズ・ガイド」の1940年版にも紹介されていることから、欧米では少なくとも1930年代には登場していたと思われる。 禁酒法時代(1920~33)の米国ニューヨークの「21Club」で誕生したという説(出典:Bar-Plcae.seesaa.net)もあるが、裏付け資料は明示されていない。 飲むスタイルは以下の4種類がある。(1)プースカフェ・スタイル=冒頭のレシピ(2)比重を利用して混合させる=ブランデー→ベネディクティンの順で注ぐ(3)ステアして冷やして混合させる(4)ロック・スタイル(出典:Wikipediaほか)。最近のBarではロック・スタイルが好まれることも多い。 ※ベネディクティンは、1510年ベネディクト派の修道院が考案・生産し始めたのがルーツの薬草系リキュール。長く生産中止になっていたのが1863年に復元された。27種のハーブを材料に複雑かつ繊細な味わいがする(出典:同)。 【確認できる日本初出資料】世界コクテール飲物事典(佐藤紅霞著、1954年刊)。 ************************************** 11.バカルディ・カクテル(Bacardi cocktail)【2016~19年改訂新版】で記述内容を更新しました。そちらをご覧ください。 ************************************** 12. バラライカ(Balalaika)【レシピ】ウオッカ(30)、コアントロー(またはホワイト・キュラソー、トリプルセック)(15)、レモン・ジュース(15) ※3つの材料を等量でつくるレシピもある。【スタイル】シェイク 【グラス】カクテルグラス バラライカとは三角形の共鳴胴を持つロシアの弦楽器。誕生の詳しい経緯等はほとんど不明だが、カクテル名はこのカクテルのベースの酒ウオッカ=ロシアのイメージで名付けられたと伝わる(出典:Webの専門サイトほか)。 おそらくは「ホワイト・レディ」のベースのジンをウオッカに変えたバリエーションとして誕生したのであろうが、欧米でウオッカが普及するのは1930年以降なので、このカクテルの誕生も30~40年代と思われる。 そこそこに知名度はあるのに、欧米のカクテルブックでもほとんど紹介されていないという不思議なカクテル。ハリー・マッケルホーンのカクテルブック(1919年初版刊)には登場しているが、上記の時期的な経緯からして初版時ではなく、1939年の改訂版か1986年の復刊版からの追加収録と思われる(後日改めて確認予定)。 日本にいつごろ伝わったのかについても文献資料が極めて少なく、現時点では確実なことは言えないが、少なくとも70年代半ばにはBarでも知られる存在だった。 バラライカのベースをラムに替えると「X・Y・Z」に、ブランデーだと「サイドカー」となる。「ホワイト・レディ」や「サイドカー」などの知名度に劣っているためか、日本のカクテルブックで取り上げている例は非常に少ない。 バラライカのレモン・ジュースをライム・ジュースに替えて等量でつくると「カミカゼ」というカクテルになるが、こちらは1940~50年代に米国内(または日本国内の米軍基地内)で誕生したものと伝わる。 【確認できる日本初出資料】カクテル小事典(今井清&福西英三著、1967年刊)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/06/16
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バーの切り絵をライフワークとした切り絵作家の故・成田一徹さん(1949~2012)の芸術と、ウイスキーと、音楽にこだわったBar・UKが、このほど(7月1日)大阪・北新地にオープンしました。 ◆バーUK “名付け親”は一徹さん バーUKという店名の名付け親は、マスターの長年の親友でもあった成田一徹さんです。生前、「いつかバーを開きたい」というマスターの夢を知っていた一徹さんは、約7年前、店の門燈とコースターのためのデザイン案をつくり、贈りました。なぜ「UK」と名付けたかについては、「(マスターが当時飼っていた)ペットの猫、うらんと、かんろの名前と、ウイスキーの故郷でもある大英帝国『United Kingdom』の両方からひらめいた」と語っていたそうです。 それ故、バーUKは、一徹さんなくして誕生し得ませんでした。当然、店の内外装は、あらゆる面で成田一徹とその切り絵ワールド(芸術)をかなり意識したものとなっています。一徹さんデザインの「UK」の門燈や店のコースターも、今回実際につくられましたし、店内は、一徹さんが遺した切り絵原画を飾るギャラリーのような雰囲気の、落ち着いた空間にもなっています。 オープン当初の店内には、約10点の原画が展示されています。展示(作品貸与)には、一徹さんの奥様も全面的に協力してくださっています。今後も原画は不定期で入れ替えて、未公開作品や初公開作品もできるだけ紹介していく計画だそうです(すなわち、バーUKを訪れれば、一年じゅういつでも一徹さんの個展が開催されているようなイメージです)。 店内では、好評の一徹さんの「公認複製画」も全種類を販売するのに加えて、著作や「オフィス一徹」オリジナルのポストカードやコースターも常時販売しています(ご遺族を支援するのが一番の目的なので、マスターは販売手数料等は一切とらず、売上はすべて、奥様が代表をつとめる「オフィス一徹」に入ります)。 ◆ウイスキーにこだわるバーに さて、バーUKのお酒について記します。基本はウイスキー・バーですが、ワインは6種類やシェリーもなんと4種類をいつも置いているそうです(スパークリング・ワインもあります)。カクテルもマスターができるものについては対応するそうです。 バーUKは、「様々なウイスキーの魅力を、最適なグラスで気軽に、じっくりと、ゆったりと味わってもらいたい」というのがコンセプトです。ハイボールや水割りはもちろん提供します。値段も1ショット500円からと、懐をあまり心配せずに飲める価格設定となっています。 オールド・ボトルやヴィンテージ・ボトルも、マスターが20年間近く買い集めた品々をすべて店で提供し、「お客様にウイスキー本来が持っている魅力を再発見してもらえるよう提案したい」とのことです。もちろんオールド・ボトルやヴィンテージ・ボトルには、それなりに高価なものもありますが、それでも、マスターは「できる限り、リーズナブルなお値段で提供したい」と話しています。 ショート・カクテルは当分の間は、提供できるのはかなり限られた種類になるでしょうが、長年のクラシック・カクテルの研究を続けてきたマスターは、店が落ち着いたら、「今では忘れられてしまった1890年代~1930年代のカクテルを、実際につくってぜひ味わってもらい」と意欲的です。 ◆平日は午後4時オープン、10時半クローズ 店は、平日午後4時にオープンして、午後10時半(午後10時ラスト・オーダー)です。土曜日は午後2時オープン、8時半クローズです。マスター自身が「(サラリーマン時代)早い時間から飲みたい人間だった」(笑)こともあり、こんな早いスタートな営業時間となりました。 定休日は、現時点では日曜・祝日です。「あまりあくせく働きたくない」マスターは、水曜と土曜は、8月から不定休、つまり時々休むようにすることを密かに目論んでいます。8月以降、水曜と土曜に訪店される方は、事前に電話でご確認いただいた方がいいかと思います。 なお、UKでは午後4時~7時の間はノー・チャージです。7時以降はお一人様300円の「サービス料」が発生しますが、「チャージ」というマスターの嫌いな言葉は使わず、「サービス料」とはっきり明示しています。もちろん、どこかのバーのように、チャージとは別にサービス料まで取っておいて一品の付き出しも出さないなんてことは、UKでは絶対ありません。マスターは「サービス料をとる以上、一品は必ず出します」と宣言しています。 ◆音にこだわり、時々ライブも 最後に、音環境について――。マスターは「音にはこだわるバーでありたい」と言っています。スピーカーはBOSE。店では、いつもインターネット・ラジオ局の素敵な音楽が流れています。流す音楽のジャンルはジャズやロック、ソウル、R&B、ボサノバ、J-Popやフォークが中心です。 ライブも、具体的にはまだ決まっていませんが、マスターは「落ち着いたら、できれば月1回程度はライブをやりたい」と目論んでいます。幸い、テーブル席を片付ければ、電子ピアノ、ベース、ヴォーカル(またはキーボード、ギター、ベース)くらいのトリオなら、ライブができるスペースが確保できます(キーボードとギターは店に常備しています)。ピアニストでもあるマスターも「ほんとは自分でも弾き語りをしたいけれど、そうすると酒はつくれない(笑)。誰かピンチヒッターでカウンターの中に入ってくれる人(バーテンダー)が来たら、考えようかな」なんて言っております。 マスターは「とにかく、居心地のいいなぁと思ってもらえる空間が願い。逆に、酒グセの悪い人や酒場のマナーを守らない人には厳しく接すると思います」と話しています。「店はお客様によって育てられるが、店側が良いマナーの客を育てることも大事だ」というのが、バー巡り歴35年余の経験を持つマスターの信条です。 全国の成田一徹ファンの皆さま、マスターこだわりのウイスキーを味わってみたいと思う皆さま、大阪に来られる機会がございましたら、ぜひ一度バーUKに足を運んでみてくださいませ! 【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=当面は日曜・祝日(8月以降は水曜と土曜を月に1回程度休むとのこと)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。 ※次回の日記では、Bar UKの外観や店内の写真をご紹介いたします。どうぞご期待ください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2014/07/04
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頻繁にお邪魔していた訳ではないので、自分を常連と言うのはおこがましい。それでも、たまには顔を出していた。そんな大阪ミナミのバー村岡のマスター、村岡正昭さんが7月に急逝していたという知らせを聞き、言葉を失った。 いつも明るい笑顔で気さくに接客してくれた村岡さん。全国にその名を知られる老舗・吉田バー出身で、いつかは吉田バーを継ぐのではないかとも言われたが、独立して自分の店を持たれた。店は、道頓堀の有名な老舗バー「ウイスキー」と同じビルの2F。あの温かい人柄もあって、店はいつも客であふれていた。 「体調不良」を理由に6月に休店された。それからわずか1カ月で天に召されてしまった(今頃まで訃報を知らなかった自分も情けない)。正確な歳は知らないけれど、まだ50代だったのではないだろうか。おそらくは、自分の天命を知って、最後まで頑張って店を開けられたのだろう。あのニコニコ笑顔の村岡さんと、もう永遠に会えないと思うと、とても切ない。謹んでご冥福を祈ります。
2014/11/03
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20.カイピリーニャ(Caipirinha)【現代の標準的レシピ】カシャーサ(ピンガ、アグエルデンテ、カニーニャなど他に様々な呼び方もある)(45~50)、ライム(1個分)=8等分にカット、シュガー・シロップ1tsp、クラッシュド・アイス 【スタイル】ビルドまたはシェイク カイピリーニャは、ブラジルを代表する国民的なドリンクですが、近年は欧米のみならず日本でのバーでもかなり知名度の出てきた、爽やかな柑橘系の味わいのラテン・カクテルです。 発祥は、ポルトガルの植民地だった16世紀と言われています(出典:Wikipedia英語版ほか)。現代に近い形のカイピリーニャは19世紀半ばに遡り、カクテル史に詳しい米国のバーテンダー、ジム・ミーハン氏によれば、「(ベースの酒である)カシャーサの産地のパラチーで見つかった1856年の文書にカイピリーニャのレシピが確認されている」とのことです(出典:Meehan's Bartender Manual)。また、(裏付け資料は明示されていませんが)1910年代、サンパウロ州ピラシカーバという町で風邪薬代わりに生まれたドリンクが起源だと伝わっています(出典:http://blog.goo.ne.jp/catmananfa/e/ほか)。 「カイピリーニャ」は、かつては「カイポーラ(Caipora)」(ポルトガル語で「田舎者」「田舎に住む人」の意)、または「カイピーラ(Caipira)」と呼ばれていました(※「カイピーラ」はインディオの言葉<トゥピ語>のクルピーラ<Curupira>に由来し、元々は「森の守護神」の意。現代では、「内陸部に住む人のこと」を差す言葉として使われていたと言います)(出典:http://tabatashingo.com/top/caipirinha/ほか)。 しかし、若い女性がつくることが多かったため、その後、「カイピリーニャ」(「田舎娘」「田舎のお嬢さん」の意)と呼ばれるようになり、この名で定着したようです(出典:Wikipedia日本語版のほか、 http://blog.goo.ne.jp/catmananfa/e/ にも)。なお現代のブラジルでは、「田舎者」という意味で使うことはほとんどなく、このカクテルそのものを指すということです(出典:Wikipedia英語版)。 ベースのお酒「カシャーサ」はサトウキビから造られたブラジル特産の蒸留酒で、ラムに近いスピリッツです。ラムはモラセス(廃糖蜜)から造られるのに対して、こちらは生のサトウキビの絞り汁を加水せずに直接発酵させ、蒸留して造ります。ラムよりも濃厚で風味豊かなホワイト・スピリッツです(出典:「Cachasa」のWikipedia英語版)。 このカクテルが世界的にブレイクしたのは、カシャーサがブラジル国外へ広く輸出されるようになった90年代に入ってからです。それゆえ、欧米のカクテルブックで紹介している本は、近年までほとんどありませんでした。現時点で確認した限りでは、「ニューヨーク・バーテンダーズ・ガイド」(Sally Ann Berk著、1995年刊)が欧米での初出文献で、他に掲載例が確認できたのは「クラフト・オブ・ザ・カクテルズ(The Craft Of The Cocktails)」(Dale DeGroff著、2002年刊)、「カクテルズ(Cocktails)」(James Butler & Vicki Liley著、2007年刊)等です。 プロのバーテンダーなら、ベースをカシャーサの代わりにウオッカを使えば、「カイピロスカ」という名のカクテルになることは常識かもしれませんが、ラムをベースにすれば、「カイピリッシマ」というカクテルになります。また、近年ではライムに加えて(あるいはライムの代わりに)、様々なフルーツ(パッション・フルーツ、キーウィ、イチゴなど)を使う様々なバリエーションが登場しています。 日本には、1970年代以降に伝わったと思われますが、街場のバーで認知され始めたのは90年代以降です。ブラジル生まれということもあって知名度はいまいちだったのですが、ラテン・アメリカ圏のカクテルがポピュラーになってきた近年、日本のカクテルブックでも掲載される機会は多くなっています。 【確認できる日本初出資料】HBAバーテンダーズ・オフィシャル・ブック(HBA編、2006年刊)(※もし、1970~90年代の日本のカクテルブックで紹介している例をご存知の方があればぜひご教示ください → arkwez@gmail.com までお願いします)。・こちらもクリックして見てねー! → 【人気ブログランキング】
2016/12/15
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【おことわり】レシピは標準的なもので、絶対的なものではありません。文献やバーテンダーによっては違う割合、違う材料でつくっていることもあります/レシピの丸カッコ内の数字(単位)はmlです。◆カクテル ―― その誕生にまつわる逸話(2012年版:ABC順)(3) 7.エンジェル・キス(Angel’s Kiss)【レシピ】カカオ・リキュール、ブルネル、ブランデー、ヴァイオレット・リキュール、生クリ―ムの5種(10~15mlずつ)を積み重ねるプースカフェ・スタイル。 【スタイル】ビルド 【グラス】プースカフェ・グラス 誕生の詳しい経緯や命名の由来は不明。冒頭のレシピは、サヴォイ・カクテルブック(1930年刊)のものだが、ハリー・マッケルホーンのカクテルブック(1919年刊行)に紹介されている「エンジェル・キス」のレシピはカカオ・リキュール(クレーム・ド・カカオ)に生クリームをフロートさせるだけとなっている。 サヴォイ・カクテルブックには、「エンジェル・ティップ」というよく似た名のカクテルも登場するが、このレシピは、なぜかハリー・マッケルホーンの「エンジェル・キス」と同じである。なぜ入れ替わってしまったのか理由はよくわからない。 日本では1950年代には伝わっているが当初、冒頭のレシピのカクテルは「エンジェル・ティップ」と呼ばれ、「エンジェル・キス」のレシピはマッケルホーンのと同じだった。日本でも名前の入れ替わりが発生したことになるが、こちらもその理由は不明。 1971年刊の今井清氏のカクテルブックでは、前述の入れ違いは解消しているが、レシピはヴァイオレット・リキュール(クレーム・ド・ヴァイオレット)抜きの4種類でのプースカフェとなっている。 【確認できる日本初出資料】オーソドックス・カクテルズ(落合芳明著、1955年刊)。 ************************************** 8. アラウンド・ザ・ワールド(Around the World) 9. アヴィエーション(Aviation) ※いずれも【2016~19年改訂新版】で記述内容を更新しました。そちらをご覧ください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/06/12
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ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone 1890~1958)と言えば、1919年に世界初の体系的なカクテルブック「Harry’s ABC Of Mixing Cocktails」を出版した偉大なバーテンダーであり、世界で最も有名な街場のバー「Harry’s New York Bar」の創業者です。 私は先般、この日記上で、マッケルホーンやその子アンドリュー(Andrew)、孫のダンカン(Duncan)という三世代について、集められる限りの資料やデータを元に簡単な伝記を紹介しました。ところがその後の情報で、いくつか修正しなければならない事実が出てきました。 ネットの世界ではいったん発信してしまうと、それが一人歩きしてしまう危険性があり、間違いを見つけた場合はすみやかに訂正・更新する必要があります。そしてもちろん、新たな情報があった場合は、できる限り追記するのが親切だと思っています(写真左=Harry's New York Bar (C)Photo By H.K )。 今回は、訂正すべきことが2点と追記が1点です。1.「2011年現在、56歳で健在」と記した「Harry’s New York Bar」の三代目、ダンカン・マッケルホーンは、実は1998年3月、肝臓病のため44歳の若さで急逝していました。このため、この部分は全面的に書き換えました。 (※ダンカンの動静については、執筆当時可能な限りフォローしたつもりでしたが、Harry’s New York BarのHPにもそうした情報は記されておらず、健在だと信じ込んでいました。この重要な情報がどうしてWEB上で最近までほとんど公開されていなかったのか、不思議でなりません)。2.カクテル「サイドカー」誕生にまつわる記述の部分については、このほど手に入った「Harry’s ABC Of Mixing Cocktails」の“初版本”=写真右=でマッケルホーン自身が、「ロンドンのバックス・クラブ(The Buck’s Club)のバーテンダー、マクギャリー(Pat McGarry)が考案した」と記していることから、書き換えました。 (※「サイドカー」はもちろんHarry's New York Barの看板カクテルであり、国内外の多くのカクテルブックでは、「サイドカー」の考案者をマッケルホーンと紹介している本がほとんどなのですが、マッケルホーン自身が否定している以上、いい加減にこの辺りで、訂正した方がいいのではないかと思います。「マルガリータ=流れ弾起源説」のように、後世のつくり話が一人歩きして、間違ったまま"定説化"してしまうことになります) 3.Harry's New York Barはダンカンの急逝後、妻のイサベル(Isabelle)がオーナーとなりましたが、2011年のHarry's Bar100周年記念パーティーを機に、ダンカンの長男で23歳(当時)のフランツ・アーサー(Franz-Arthur)が、父の遺志を継ぎ、四代目としてバーテンダーの道に進むことを決めたという嬉しい発表がありました。従って、このニュースを追記しました。 この歴史と伝統ある酒場が、フランツ・アーサーという新しい世代へ受け継がれていくと聞いて、安堵の気持ちを抱いたのは僕だけではないと思います。「Harry’s New York Bar」のさらなる発展を、Barファンの一人として心から願うものです。 今後とも、間違いや新たな事実が判明した場合には、それを恥だとは思わず、すみやかに訂正したいと思います。それが、物書きの端くれとしての良心だと考えます。過去の連載については、近日中に全面改訂版をリリースする予定です。何卒よろしくお願いいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/07/12
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お待たせいたしました。「1日の日記」で紹介した「大阪(関西)難読地名駅名クイズ」の回答でーす(なお、1~20は大阪市、21~33は大阪府下、34~36は兵庫県です)。1.西中島南方 ( にしなかじまみなみかた=または、「みなみがた」とも)=淀川区。地下鉄御堂筋線・新大阪~梅田駅の間にある駅名です。駅をつくる際、付近にある「西中島」と「南方」という地名を合わせた安易なネーミング。「南方」の由来は「南の干潟」とか。2.十三 ( じゅうそう )=淀川区。淀川の上流から数えて13番目の渡し場であったことが由来という説が有力。阪急電車の京都線、神戸線、宝塚線が交わる大乗り換え駅にして、駅前には庶民的な大歓楽街を抱える。僕の大好きな、あのBAR「十三トリス」もあります(写真右)。3.御幣島( みてじま )=西淀川区。大阪・住吉大社に、中国・朝鮮からの貢ぎ物を運ぶために寄進された「幣島浜」の名にちなむとか。JR東西線の駅名にもなっています。4.柴島( くにじま )=東淀川区。「柴」で「くに」なんて、まず読めません。平安時代には「国島」だったらしいが、いつのまにか…。大阪市民には市営最大の浄水場のある場所としても知られる。柴とは、薪材のこと。昔は薪材に「クヌギ」がよく使われていた。「クヌギ」が転じて「クニ」になったという説も。5.河堀口( こぼれぐち )=阿倍野区。788年(延暦7年)、和気清麻呂が開削した堀の名が由来。堀自体は現存していないが、近鉄南大阪線の駅名にその名を残すほか、天王寺区には「北(南)河堀町」という地名もあるので、これも河堀口の名残かな。6.茨田大宮( まったおおみや )=鶴見区。日本書紀にも登場する古い地名という。「茨田」は「茨」の田、すなわちかつては湿地だったことを意味する。「大宮」は文字通り神社のこと。現在も残る「大宮神社」にちなむらしい。7.放出( はなてん )=鶴見区。大阪の珍地名の代表格。知らなかったら、他県の人にはまず読めない。関西人には昔、深夜時間帯のテレビで放送していた「ハナテン中古車センター」のコマーシャルでお馴染み。「あなた、車売る? 私、高く買うわ」というセリフとともに意味もなく、半裸の美女が出てきたりして、もうB級CMの横綱!だったが、同社は2015年、BIGMOTORに買収されて完全子会社となり、あのCMももう見られなくなった(写真右=ハナテン中古車センターのHPから)。8.道修町( どしょうまち )=中央区。薬といえば道修町、道修町といえば薬屋という言うくらい、昔から薬関係の会社や薬の卸問屋さんが密集しています。この界隈に本社を置く国内大手メーカーも多かったが、最近の業界再編で、本社を次々と東京へ移すところが増えて、昔の活気はなくなりました。9.丼池( どぶいけ )=中央区。船場商人の集まる街・丼池。今も繊維関係の卸問屋さんが軒を連ねています。昔は「素人さんお断り」と表に書いた店がほとんどだったが、不景気もあって、今では「素人さん歓迎」という店も増えた(写真右下=船場商人の故郷、丼池商店街の風景)。10.靫本町( うつぼほんまち )=西区。靫公園という有名な公園も近くにあります。靫とは、あのどう猛な魚。江戸時代、この地に塩干魚の商人が数多く住んでいた名残でもあるという。11.立売堀( いたちぼり )=西区。大阪夏の陣の際、伊達氏の陣所となったことから「伊達堀」と言われるようになったという説と、川を利用して木材の立ち売りが行われるようになったことからという説などいろいろありますが…。12.四貫島( しかんじま )=此花区。昔は海であった埋め立て地。江戸時代、この地を開発した人が「四貫文」で買い受けたという説が一般的だが、定かではない。13.波除( なみよけ )=港区。阪神高速道路の「波除」ランプ(入り口)でお馴染み。貞亨元年(1684)、大阪湾の河口に造られた人工の山「波除山」がその名の由来とか。14.遠里小野( おりおの )=住吉区。万葉集にも詠み込まれている古い地名。瓜の名産地で、昔は「瓜生野」(うりうの)と言っていたのが、転じて現在の地名になったという説が一般的。15.粉浜( こはま )=住吉区。この辺りはかつては海岸だった。古くは「粉洲」とも言った。きっと、粉を蒔いたように美しい砂浜だったのだろう。16.杭全( くまた )=東住吉区・平野区。中世には「杭全荘」と呼ばれていたという。「河川が杭状に分かれた地形から」とか「百済」がなまったとか、地名の由来には諸説ある。「杭全神社」というのが今もあります。17.喜連瓜破( きれうりわり )=平野区。「喜連」と「瓜破」という地名が一つになったもの。「喜連」は渡来人の「伎人(クーレン)」が住みついた、「伎人郷」がなまったものという説が一般的。「瓜破」は、当地の法師が瓜を割ってお供えしたことからとか、「瓜」の産地であったことからとか諸説あり(写真右上=「瓜破天神社」というのが今もあります)。18.野江内代( のえうちんだい )=都島区・城東区。地名ではなく、地下鉄谷町線の駅名。新駅の名を付ける際、付近の地名の「野江」するか「内代」にするかで地元で綱引きがあり、悩んだ市交通局は2つを単純にくっつけたのでした。19.蒲生( がもう )=城東区。ご想像の通り、古来この地が低湿地で、蒲穂の産地だったことが地名の由来という。ちなみに埼玉にも蒲生っていう地名がありますね。20.鴫野( しぎの )=城東区。昔はこの辺りも干潟が多く、鴫(シギ)が舞い降りてきたのだろう。ちなみに、叶姉妹は、あんなにセレブぶってるけど、意外や意外、大阪市城東区鴫野の出身という話を上沼恵美子がある番組で暴露していました(写真右=かつては、大阪城の城内に位置していた「新鴫野橋」)。21.富田林( とんだばやし )=富田林市、22.枚方( ひらかた )=枚方市、23.交野( かたの )=交野市。いずれも市名です。地名の由来は省略します。富田林市はあの夏の「PL」の大花火で有名。枚方市は、同市出身でV6の岡田准一クンが「名誉園長」をつとめる「ひらかたパーク」で知られる。24.樟葉( くずは )=枚方市。古事記には「糞袴」(くそばかま)とある。これが「久須婆」→「楠葉」→「樟葉」となったという説が信じられているが、はたして?25.私市( きさいち )=交野市。交野には「私部」(きさべ)という珍しい地名もある。私部とは皇后のために仕事をしたり、世話をしたりする役所だったという。結構由緒ある地名らしい。26.水走( みずはい )=東大阪市。阪神高速の渋滞名所、「水走」出口で有名です。僕は大人になるまで、「みずばしり」だとばっかり思ってました。豪族「水走氏」が住んでいたことが地名の由来とか。ちなみに現在、地元に「水走」姓はなく、子孫は東京在住という。27.弥刀( みと )=東大阪市。弥刀は「水戸」「水門」から転化したもので、河口の意。地元には「弥刀神社」もあります。28.布忍( ぬのせ )=松原市。地名の由来には「白い布を敷いて神を迎えた」とか、「布忍」という豪族がいたとか、様々な言い伝えがあるが…(写真右上=地元にある「布忍神社」の本殿。朱塗りが鮮やかです)。29.七道( しちどう )=堺市。天平年間の740年頃創建の、地元の寺、浄得寺に七堂伽藍があったことが地名の由来とか。南海本線に「七道」駅があります。30.淡輪( たんのわ )=岬町。日本書紀にも「田身輪巴」と見えるというから、相当古い地名のようです。昔は海もきれいで、海水浴場として賑わいましたが…。31.深日( ふけ )=岬町。漁港として、そして、淡路島とを結ぶフェリーの発着港としても有名だったが、フェリーは経営難で現在廃止になったとか。万葉集にも「吹飯」(ふけい)として登場、「吹飯」が「深日」になったのは江戸時代という(写真右下=南海電車・深日変電所。明治44年に建てられた赤レンガが綺麗な建物です)。32.箱作( はこつくり )=阪南市。古くから見える地名。かつて石棺をつくっていた職人がたくさん住んでいたことが由来という。33.堅下( かたしも )=柏原市。由来は定かでない。「続日本紀」にも「堅下郡」として登場するという。この辺りは、ブドウの産地として有名。34.売布( めふ )=兵庫県宝塚市。地元にある「売布神社」にちなむ地名。出雲風土記にも登場する「売布の社」が由来とか。阪急宝塚線には「売布神社」駅があります。35.清荒神( きよしこうじん )=同・宝塚市。これも阪急の駅名になってます。平安初めに開祖の地元のお寺「清荒神清澄寺」にちなむ。「火の神(台所の神)」として有名です。36.大物( だいもつ )=同・尼崎市。平安末期の古文書には「大物浜」として見える。地名の由来には定説はない。「大物主命」「大仏」「大きな材木」とかいろいろ。阪神電車に「大物」駅あり。【追記】この日記の執筆にあたっては、大阪難読地名がわかる本(創元社編集部編)ほか、多数の辞典、参考書、ホームページのお世話になりました。この場を借りて心から感謝いたします。
2005/07/05
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昨日6月6日(金)は、うらんかんろの最も馴染みにしている酒場の一軒、大阪キタのBar「K」の20周年のお祝いでした。「K」と言ってもイニシャルではなく、店名そのものが「K」なのです。 「K」とはオープン直後からなので、もう20年近い付き合いです。マスターの松葉道彦さんは当初、この「K」のスタッフとしてスタートされました(写真左=Bar「K」のマスター、松葉さん)。 そして持ち前のセンスに加えて、血のにじむような努力を重ねて、数々のバーテンダーのコンクールでも優勝するなど、今では(まだ40代前半ですが)大阪、いや関西、西日本を代表するバーテンダーとなりました。 店の場所が会社の帰り道にあったので、Bar「K」には昔からよくお邪魔していました。スタッフはその都度入れ替わりがありましたが、松葉さんはスタッフとして、その後店長としてずっとこの店を守ってこられました。そして3年前、念願かなって「K」の経営者となりました(ご参照→05年6月7日の日記)。 「K」は、オープン当初はサントリー社系のBARで、メインのウイスキーはサントリーの角瓶でした。そのため、最初のオーナーが角瓶のイニシャルから「K」と名付けられたと聞いています。 今では、サントリーとは直接の関係はなくなりましたが、当初の縁もあって、店名はそのまま引き継いでいます。3年前に店名を一新する手もあったのですが、松葉さんは、「このKが自分の原点ですし、もうお客さんにも親しまれていますから」と、変えませんでした。 松葉さんが「K」のスタッフになったのは、店がオープン直後の20代前半の頃です。だから、彼とももうずいぶん長い付き合いになります。初々しい頃から知っていて、師匠のTさんに怒られながらも、どんどん成長していく松葉さんを見るのは楽しみでもありました。 松葉さんの素晴らしさは、オールラウンド・プレーヤーであるところです。バーテンダーに必要な条件と言えば、カクテル等をつくる技術、酒類の知識、トーク(話術)、接客(ホスピタリティ)などが挙げられると思います。 どれをとっても今では、松葉さんは超一流です。とくにトークは絶妙洒脱で、日本全国あちこちのBARを巡り歩いている僕ですが、いまだ、彼ほど話術が巧みなBARのマスター(バーテンダー)には出会ったことはありません(強いて言えば、銀座の「Bar保志」のマスター、保志さんが匹敵するくらいでしょうか…)。 この夜の20周年のお祝い。僕は同じく馴染みにしている友人と一緒にお邪魔しました。僕らはそれぞれ、とっておきのウイスキーをお祝いに持参しましたが、奇しくも両方とも「ラフロイグ」でした。 僕は、5月に「ラフロイグ友の会」の会員限定で発売されたばかりの「Cairdeas」ボトル(「Cairdeas」=カーディス=とはゲール語で「友情」という意味)。複数の17年物のクォーター・カスクを選び、バッティングしたとのことです。 一方の友人は、80年代の「オフィシャル10年」。この時代のオフィシャルは熟成感たっぷりで、現在のオフィシャル25年物に負けないくらいの奥行きがあります(写真右上=左からラフロイグ「Cairdeas」、同80年代の「オフィシャル10年」、3杯目に頂いた同「オフィシャル40年」!)。 どちらのボトルも極上の味わいであったことは言うまでもありません。新旧のラフロイグは、「K」の20周年と新たな旅立ちを祝福するうえでも、ふさわしいお祝いになったのではないかなと信じています(写真左=帰りにいただいだ20周年記念の革製コースター)。 僕にとっては、まるでホームBARのように居心地のいい「K」がこれからもますます発展していくことを祈らずにはいられません。松葉さん、心から有難う。20年間の友情に感謝です。これからも宜しくお願いしまーす。【Bar・K】大阪市北区曽根崎新地1丁目3-3 好陽ビルB1F 電話06-6343-1167 午後6時~午前1時 日祝休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/06/07
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90年以上の歴史を持つ関西屈指の老舗BARグループ「サンボア」(SAMBOA)のことはこれまでも折りに触れて何度か書いた(例えば、2005年3月12日の日記)。しかし、うらんかんろがまだ取り組んでいなかったことがあった。サンボア・グループ11店(この投稿当時でのグループ全店。※その後増えて2021年4月末現在では15店になっている)の「詳細な紹介」と「飲み比べ」である。 一口にBARサンボアと言っても、一様でない。微妙に違うのである。他のサンボアでは常識であっても、別のサンボアでは通用しないこともある。そもそもメインのお酒だって、「サンボアだから当然、サントリーの角瓶でしょう」と思っている貴方、そうじゃないという事実に驚かされるに違いない(写真右=堂島サンボア)。 貴方の持っている「バー・サンボアの常識」は当たっているのか。うらんかんろも今回11店すべてを改めて訪れて、初めて知った驚くべき事実がいろいろある。それではテーマごとに紹介していこう。 【メインのウイスキー】 バー・サンボアと言えば「ハイボール」が代名詞。そしてハイボールに使われるウイスキーの銘柄は基本的には、前述したように「サントリーの角瓶」である。 しかし、なぜか京都(寺町)サンボアと木屋町サンボアだけはニッカである(ちなみに、京都サンボアはグループ最古の歴史を持つ店)。前者はなんと竹鶴12年(ハイボールで飲むなんてもったいない!)、後者はスーパー・ニッカを使う(なお、竹鶴12年のコンスタントな入荷が難しくなってきた2015年頃からは、京都サンボアもスーパー・ニッカに切り替えたと聞いています)。 理由は正確には知らないが、BAR業界関係者に聞いたところでは、京都サンボアはサントリーの営業マンとある時、喧嘩別れしてから、ニッカ一本に宗旨替えしたのだとか(個人的にはやはりサンボアを名乗る以上は「角瓶」でやってほしいと思うのだけれど…)。(写真左=北サンボア)。 【氷を入れる・入れない】 サンボアと言えば、ハイボールに氷は入れないというのが定番。グラスに冷凍庫で冷やした角瓶とこれまたキンキンに冷やしたソーダを注ぎ、仕上げにレモンピールをさっとかけるのが正しいハイボールだ(写真右=北新地サンボア)。 店によってはグラスまで冷蔵庫で冷やしておいてくれる店もあるが、ほとんどの店は常温保存のグラスに注ぐ。だからいくらウイスキーとソーダがよく冷えていたとしても、20分以内で飲み干さないと美味しくは飲めない。 なお、「サンボア=氷なしハイボール」と書いたが、前項で紹介した京都サンボアと木屋町サンボアはなぜか少量の氷を入れる。理由はあえて聞かなかった。聞いても、「うちは最後までぬるくならないように、氷を入れた方がいいと思ってるんです」という答えが返ってくるのは予想できる。京都サンボアと木屋町サンボアは、サンボア・グループの「異端児」ということなんだろう(写真左=ヒルトン・サンボア)。 【飲むスタイル】 サンボアと言えば、これまたスタンディングで飲む店ばかりと誤解している人も多い。確かにカウンターがスタンディングの店は多い。堂島。北、梅田、北新地。銀座の5店はそう。しかし、それ以外の6店にはカウンターに椅子がある。またカウンターがスタンディングの店でも店内の別の場所に椅子席もあるので、疲れた場合はそちらに移動することもできる。 ハイボールは基本的にダブル(ウイスキーが60ml)で供される店が多い。これが強すぎるという方は、「シングルでお願いします」と頼めばそうしてくれる。ただし、お値段は半額とはいかず、100~200円お安くなるという程度(写真右=梅田サンボア)。 【付き出し】 「サンボアの付き出しと言えば、そら、南京豆に決まっているでしょうが」と思っている貴方、そうした先入観も大きな間違い。今回11店を回って、うらんかんろもそのバリエーションの多さに驚いた次第。 南京豆だけを出しているところは堂島、北、北新地、京都、木屋町、銀座の6店だけ。その他の5店は、梅田=塩豆、ヒルトン、南、島之内=南京豆とピクルス、祇園=ホット・サンドイッチだった(写真左=南サンボア)。 という訳で、付き出しとチャージ(後述)のコストパフォーマンスで比較してみると、ヒルトンと南、島之内の3店が一番お得感がある。個人的には、ヒルトンのピクルスは結構いける味わいで気に入っています。 【雰囲気】 サンボアだから基本的には英国調でウッディな造りの店が多く、どこもまず落ち着いて飲める。ただし、歴史と伝統に裏打ちされた重みという点では、やはり北、堂島、京都の3店が群を抜く。どの店も内装を見ているだけでも飽きない(写真右=島之内サンボア)。 個人的には、比較的新しいサンボアだけれど、北新地とヒルトンも大好きだ。前者のバック・バーの棚はあの伝説の名バー「コウベハイボール」のものを移築したもので、一見の価値がある。後者は意外といつもすいている都会の穴場で、ゆったり落ち着けるカウンターがとてもいい。 【ハイボール1杯のお値段】 サンボアだからハイボールのお値段は基本的にはリーズナブルだけれども、1杯のお値段は当然、店によってかなりばらつきがある。梅田、島之内=700円、堂島、北、ヒルトン=800~850円、北新地、南、京都、木屋町、祇園、銀座=900~1000円(写真左=京都サンボア)。 グラスの大きさや作り方も微妙に違うから、どの店が一番とは一概には言えないが、コストパフォーマンス的に言えば、堂島、北、ヒルトンが僕のおすすめ(なお、1杯の値段を「消費税込み」にしている店もあれば、「税別」の店もあります)。 【チャージ】 「サンボア=ノー・チャージ」と意外とみんなそう思っている。しかし、今回改めてお邪魔してお勘定をしてみた結果では、多かれ少なかれ何らかのチャージはとられていることを確認した。その額も店によりまちまちだ(写真右=木屋町サンボア)。 150円(北)の店もあれば400円(祇園)の店もある。だいたいが200~300円だ。ただし、どんなに高い店でも銀座や北新地で無意味に法外なチャージをとるBARに比べれば、十分良心的であることは言うまでもない。 【キャパ】 店の広さはまちまち。比較的広い店で言えば北新地、北、ヒルトン、南、銀座。中くらいなのは堂島、京都、祇園の3店(写真左=祇園サンボア)。 梅田、島之内、木屋町は10人も入ればいっぱいになるような小さい店だ。なお北新地と銀座では、広いキャパを生かして時々ライブ演奏などの催しもある。 【その他】 ・北サンボアと南サンボアでは、おしぼりまで出してくれます(北サンボアは、マスターも奥様もいつも笑顔で親切で、とても気持ちのいい接客です)。 ・午後3時開店の北新地と銀座では、6時までは「ハッピー・アワー」として、65歳以上は半額という嬉しいサービスをしています。それ故、開店後の早い時間帯はお年寄りが一人でふらっと来て、楽しそうに飲んでいる姿をよく見かけます(写真右=銀座サンボア)。 ・ヒルトン・サンボアでは、サンボア・グループではただ1軒、ランチもやってます。 ・祇園サンボアの正面玄関には素敵な暖簾がかかっています。暖簾の「サンボア」の文字は、ここの常連だった作家の故山口瞳氏の筆で、とても味わいのある筆致です。一見の価値があります。 ・京都と木屋町のマスターはスモーカー。目の前でタバコを吸われるのがお嫌いな方は行かない方がよろしいかと。 ◆サンボア・グループ(営業時間は各店へお尋ねください)【堂島サンボア】大阪市北区堂島1-5-40 電話06-6341-5368 日祝休 【北サンボア】同北区曽根崎2-2-12 電話6311-3645 日祝&第2土休 【北新地サンボア】同北区曽根崎新地1-9-25 玉美ビル1F 電話6344-5945 無休 【梅田サンボア】同北区角田町9-26 新梅田食堂街2F 電話6312-8987 日休 【ヒルトンサンボア】同北区梅田1-8-16 ヒルトンプラザイーストB2F 電話6347-7417 無休 【南サンボア】同中央区心斎橋筋2-1-10 電話6211-0215 日祝休 【島之内サンボア】同中央区東心斎橋1-6-23 清水町会館1F 6241-9513 日休【京都サンボア】京都市中京区寺町通三条下ル桜之町406 電話075-221-2811 火休&第2水休 【木屋町サンボア】同中京区西木屋町通四条上ル紙屋町367 電話222-2389 月休 【祇園サンボア】同東山区祇園南側有楽町570 電話541-7509 月休 【銀座サンボア】東京都中央区銀座5-4-7 銀座サワモトビルB1F 電話03-5568-6155 無休【追記】2010年以降、サンボア・グループでは新たに4店がオープンして、2022年1月現在、計15店となっています。新しくできた4店を以下ご紹介しておきます。いずれも素敵な雰囲気の店です。【数寄屋橋サンボア】東京都中央区銀座7-3-16 東五ビル1F 電話03-3572-5466 日休(2010年10月開業)。【浅草サンボア】東京都台東区浅草1-16-8 電話03-6231-7994 水休(2011年2月開業)。※オーナーは北新地サンボア、銀座サンボアと同じです。【天神橋サンボア】大阪市北区天神橋3-8-3 電話06-6360-4212 火休(2013年8月開業)。 【神戸サンボア】神戸市中央区加納町4-2-1 電話078-381-8179 定休日は現時点では未定(2021年4月26日開業)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/03/29
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