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ブラジルではサッカーW杯が開催され、日本ではなくボスニアやクロアチアといった旧ユーゴの国を応援している自分に気がついた。そして、ネット上では「第一次大戦100年」なんて見出しを見つけると、何よりもまず開いてしまう私がいる。(笑)ユーゴスラビアだなんて、昔は全く関心がなかった。 数年前の私なら、そんなややこしそうな国、知る前から拒絶していた。なのに2012年に一、二度訪れただけでこんなにも興味って変わるものなのかと、自分でもおかしいくらいだ。そんな旧ユーゴの、そんなサラエボ事件からの100年。過去にその地を訪れ、歴史を振り返ったこともある印象深いその事件を扱っている記事を、自分の為にここにコピペしておこうと思う。まずは「ボスニア首都で式典 民族間の溝深く 毎日新聞・坂口裕彦」セルビア人民族主義者がオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻を暗殺、第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」は28日、発生から100年を迎えた。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでは同日夜、イスラム教徒のボスニア人主体のサラエボ市当局が、オーストリアからウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を招き記念式典を開くが、セルビア人側は「暗殺者」を賛美する独自式典を開くなど、民族間の溝がなお深いことを印象付けた。1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻は、多民族国家だった帝国からの解放を求める19歳のセルビア人青年ガブリオ・プリンツィプに暗殺された。翌月には世界を巻き込む大戦が始まり、4年超にわたる戦争で約1500万人が犠牲となった。サラエボ市の式典会場は、ボスニア内戦(92~95年)の初めにセルビア人武装勢力の砲撃で焼け落ち、今年5月に再建された国立図書館。皇太子夫妻が暗殺直前に立ち寄った場所で、オーストリアのフィッシャー大統領も出席し和解をアピールする。だが、セルビア側は「セルビア人犯罪者の手で焼け落ちた」と銘板に書かれたことなどに反発し、記念式典に応じない構えだ。100年後のプリンツィプへの評価は、民族間のしこりを象徴する。セルビア人の多くはプリンツィプを「民族自決に若き身をささげた聖人」(カフェ経営のミロスラブさん)などと「英雄」視するが、ボスニア人やクロアチア人は「暗殺者」と冷ややかだ。現地の報道によると、サラエボのセルビア人居住区では27日、プリンツィプをたたえる銅像の除幕式が開かれた。ボスニア・ヘルツェゴビナでは8カ月ごとの輪番制で、ボスニア人とクロアチア人、セルビア人の代表が国家元首を務めるが、出席したセルビア人代表のラドマノビッチ氏は「自由のための100年前の行動は、今後我々が進むべき100年の方向を示している」と事件を正当化した。♢「民族紛争「何も生まない」…サラエボ 毎日新聞・坂口裕彦」世界を大きく変えた現場には100年前のあの日と同じように初夏の日差しが照りつけていた。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。1914年6月28日、中心部を流れるミリャツカ川に架かるラテン橋のたもとで、ハプスブルク帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が19歳のセルビア人青年、ガブリオ・プリンツィプに暗殺された。帝国からの解放を叫ぶ民族主義者の凶弾は瞬く間に大国を巻き込み、第一次世界大戦に発展した。・・・42歳、古里再生を「彼はあまりに若く、未熟だった。世界大戦のきっかけになるとは想像もしなかっただろう」。サラエボで4世紀以上も続く名家出身の出版社経営、ボヤン・ペステビッチさん(42)は、20年余り前に再びこの地を襲った民族主義の嵐の中、ふるさとを去らざるを得なかった日々に思いをはせる。当時19歳。くしくも事件当時のプリンツィプと同い年のことだった。宗教や民族が異なる六つの共和国でできていた旧ユーゴスラビアは、91年6月のスロベニア独立を皮切りに解体へと突き進んだ。サラエボでも民族間の対立が深まる中、セルビア系正教徒の父ミロスラブさん(68)と、イスラム教徒の母ヤスミナさん(63)を両親に持つペステビッチさんは、自らの生い立ちに翻弄される。同年10月、ユーゴ兵としての従軍に直面した時、「どちらかに加担する戦争には参加できない」と離郷を決心した。「両親のためにも銃を手にするわけにはいかなかった」と振り返る。おばを頼った避難先は、かつてのハプスブルク帝国の都ウィーン。プリンツィプとの不思議な縁を思わずにいられないという。92年に本格化したボスニア内戦は、北大西洋条約機構(NATO)軍のセルビア軍に対する空爆を経て95年に終結した。この間の死者は約20万人。200万人が家を追われた。サラエボはセルビア人武装勢力に包囲され、ペステビッチさんが生まれ育った家にも迫撃砲が何発も撃ち込まれた。オーストリアから英国へ移り、出版業を営んでいたペステビッチさんは2009年、妻や2人の娘と共に18年ぶりにサラエボに戻った。今は、サラエボ事件に関する観光資料をまとめようと取材を重ねている。「この街の100年の歴史から学ぶべきは何か」との問いにペステビッチさんは、「民族紛争は新たな紛争を生むだけで、何の解決にもならない」と即答した。主にボスニア人とクロアチア人が暮らす「ボスニア連邦」と「セルビア人共和国」から構成されるボスニア・ヘルツェゴビナは、今も三つの民族代表が8カ月ごとに国家元首を務める「人工国家」だ。サラエボでもなお、民族別の住み分けが続く。「多様な文化を尊重する街を復活させたい。僕はコスモポリタンだ」と話すペステビッチさんの表情には、民族主義の壁を乗り越えふるさとの再生に向かう決意がにじんでいた。「与えた影響は甚大だ。大戦後、ドイツやオーストリア、ロシア、オスマン・トルコの4帝国が解体し、新しい国々が誕生した」。かつての帝国の都ウィーンの軍事史博物館のオルトナー部長はこう解説して、付け加えた。「ただし、民族自決を果たした国々も、実は新しい国の中に少数民族を抱え込むことになった」。実際、プリンツィプへの評価も「暗殺者」として淡々と扱うボスニア人やクロアチア人に対し、セルビア人は「英雄視」する向きが強い。二度の大戦を経験した欧州は、EU(欧州連合)への統合を進め、旧ユーゴ諸国もスロベニアとクロアチアがすでに加盟。しかし、ボスニアは展望がまったく開けず、4月のEU外相会議では「周辺から取り残された状況」と指摘された。オルトナー氏の分析はこうだ。「二つの大きな大戦も、ユーゴスラビア連邦も、結局、この地の民族問題を解決に導かなかった。第一次世界大戦は結局、紛争終了まで続いたのではないか」民族問題。 旧ユーゴを旅して以来、私が最も気にかけている大きなテーマである。
2014.06.29