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父が他界して20日足らず。院主さんの話にあった「しだいにお寂しゅうございます」の意味を噛みしめる毎日である。母方のおばあちゃんっ子であった私は、父と祖母の確執に次第と父への反発を抱きながら成長した。三姉妹の末っ子という甘えも人一倍あったのだと今ならわかる。だが、そんな我儘いっぱいの私に、父は最期を看取ることを許してくれた。そして入棺の際、足元でいた私に父は信じられないほど柔和で幸せそうな表情を見せてくれた。生前、私には見せたことのない顔だった。妻、子、孫、ひ孫、妹達に抱えられて、もしかしたら父の人生で一番の喜びの瞬間だったのかもしれない。父に対する感謝の気持ちが湧き上がると同時に、だがそれは父を傷つけてきた自分を永遠に許せなくなる瞬間でもあった。「しだいにお寂しく」無性に寂しさと後悔の念だけが続いている。*そんなある日、母が「高山へ行かないか」と言い出した。半年前、「高山にもう一度行ってみたいが、足腰が不自由になった今じゃ無理かな」と父が言っていたというのだ。飛騨高山の冬は四国とはくらべものにならないほど早いだろう。私は雪を懸念して、早々の高山行きを手配した。手配といっても、道中は私の運転する軽自動車なので宿を押さえるだけだったのだが。家族総出ということで2匹の愛犬も同行させた。母が助手席、後部座席に犬が自由に寝転がれる空間を作った。通常なら8時間ほどで着く距離も、疲れも溜まってか仮眠を取ることも多くなり、片道10時間近くかけての遠出によく辛抱してくれたものと思う。その週末は気温がぐっと下がり、雪を避けたはずが積雪の中車を走らすはめとなった。高速では飛騨清見手前はチェーン装着と掲示が続く。チェーンもなくスタットレスタイヤでもなく雪に不慣れな私だが、とにかく行けるところまで行ってみようと前に進んだ。運よく気温が上がると同時に雨が降り、道路上の雪は溶けていった。父に感謝しながら高山市内へと降りた。市内はまだ紅葉が残っており、次第に天気も良くなって初冬というより晩秋の表情で出迎えてくれた。もう大丈夫だろう。安堵しながら宿へと向かう。今晩の夕飯は飛騨牛だ。母と「楽しみだね」と話しながら、呑気にハンドルを持つ。その夜は温泉付きの犬も泊まれる宿ということで、奥飛騨温泉郷に宿をとっていた。奥飛騨といっても高山市、それほど遠くはなかろうと深く思いもしないし調べてもいなかった。だが、そこは飛騨高山。瀬戸内に面したわが町のようにいくはずもない。再び雪を被った山々が現れた。行きながら分かったことだが、どうやら宿のある中尾という場所は奥飛騨の中でも穂高に近い奥のまた奥らしかった。奥飛騨温泉と一括りで呼ぶくらいだから、その中にいくつもの地名があるなどと思いもしなかったのだ。まずい、今度は雪を避けられない。平湯というその辺りで最も標高の高い場所では雪は道路の真ん中まで覆っていた。ハンドルを改めて握り直し、息を呑みながら前を見つめる。この先、雪が増すのか減るのかさえ分からない私は、引き換えす場所の見極めすら難しかった。だが、ここでも父が守ってくれたのか、平湯を過ぎる頃より雪は道路上から姿を消していってくれた。無事、宿に到着。宿のご主人の勧めで、次の日は新穂高ロープウェイにて西穂高口まで登ることもできた。晴天に恵まれ、冬山では珍しく展望台からはこんな絶景が見渡せた。父も共に眺めていたに違いない。「しだいにお寂しく」もしかしたらそれが私が父にできる最後の親孝行かも、そう思えてもきた。
2014.11.24

劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』。多くの人の「凄くいいよー!」って声にずーっと観たかったから、地方公演を行うと知って興奮気味にチケットを取った。四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』には、ジャポネスクバージョンとエルサレムバージョンとがあるが、今回はエルサレムバージョン。私は日本調にアレンジしたものではなく自然な表現を好んでいたので、その夢も叶った。そして その期待を胸に観たものは、これまで見たミュージカルとは異なる意味ですごく良かった。イエス・キリストといえば、プロテスタントの保育園に通っていた私はクリスマス会の劇中で聖母マリアを演じたことがある。イエス誕生の劇で、イエス役は人形だったから主役はマリア役のこの私。地味な私が主役の座を射止めたのは、髪が腰まで長かったからだと記憶している。(笑)あの時、イエス・キリストは生まれながらに神の子であり、すでにスーパースターだった。そう教えられていた私には、その偉大なる救い主の悲痛な叫びなど考えもしなかった。しかし、今日目の前にいたイエスは違った。苦悩に打ちひしがれる姿に、私が彼を救いたい、そう思った。そこにスーパースターはどこにも居なかった。いや、スーパースターであったかもしれないが、一人の傷ついた男だった。十字架に架かることが逆に彼の救いになるんじゃないかとも思った。演出はもちろん、それはイエス演じる神永東吾さんが醸し出す独特の雰囲気とオーラゆえでもあるだろう。ユダもマグダラのマリアも素晴らしかったが、私はイエスにくぎ付けになった。だが、ユダ役の芝清道さんもさすがだった。ユダに対する印象も解釈も、このミュージカルと芝さんの勢いと迫力ある演技によって180°変わった気がする。ユダだって、イエスを愛するがゆえの、愛しすぎたゆえの裏切りだったんじゃないか。聖書の世界を詳しく知りたい、そう思うようになった。神の子ではなく普通の人間としてのイエス、裏切者ではなく愛情深いが弱くもある一人の人間としてのユダにまた会いたいと思った。マグダラのマリアの歌声にも胸が震えた。近頃 涙腺が緩んでいるのか、感情移入しすぎて泣けてしまった。
2014.11.18

いつだったか、親友のM子に「珈琲飲みにウィーンへ行って来る」と言って驚かれたことがあるが、ここ数年 私の海外旅行の一番の楽しみはカフェ巡りだった。カフェしか入らなかった街もある。遺跡や美術館なども魅力的だが、19世紀の宮殿を利用したカフェや原住民のアートが印象的なインテリアのカフェなど、その土地その土地の趣きある空間がたまらなく好きだ。最近は専らヨーロッパだが、中南米やオーストラリアの町外れなんかでも身震いするほど好みのカフェと出会えたりする。日本ではというと、それなりにお洒落なカフェも増えてはきたが、惚れるほど素敵な店にはまだ出会っていない。そんなカフェには結構こだわりのある私も、正直、ウィーンへ珈琲を飲みに行くと偉そうに言っても、じゃあ珈琲の味がわかるのかと言えば誤魔化すしかない。美味しいと感じれば、それが美味しい珈琲なのである。浅煎、深煎すら意識したこともなかった。苦ければ砂糖とミルクを入れる、それだけ。(笑)しかし今思えば、その苦味もいいかげんだった。苦いのが苦手と思い込み、たぶん浅煎か中煎を飲むことが多かったように思う。では珈琲の持つ酸味を満喫していたのかというと、それもあんまり。とにかく、居心地のいい雰囲気ならばそれでOK、味ではなく場所に酔うのが私だった。だが最近出逢った隣町の珈琲専門店の、「いろんな珈琲を愉しんでくださいな」というオーナーさんの一言に、私の珈琲生活が変わりそうである。近々苦〜い珈琲にも挑戦するつもりだが、私好みは中深煎〜深煎だということが大体分かった。ウィーンのザッハはどうだったかな?ヘルシンキのカフェ・アアルトは?私がこれまでで一番美味しいと感じた、オーストラリアはアリススプリングスの街角の珈琲色したカフェで飲んだ珈琲の味はどうだったろう?思い出そうとしても鮮明じゃないのが悔しいが、私が「ふむ」と思うのは、やはり酸味より苦味のある珈琲だった気がする。ほんの少し意識するだけで、珈琲の奥深さにちょっぴり感動してしまった。昨日淹れてもらったエチオピアンモカは飲んだ後、かすかに苺味が口の中に広がった。イチゴ味?「面白いでしょ?」と言うオーナーさんこそが、私の反応を面白がっているようだった。
2014.11.03
心をぞわりなきものとおもひぬる 見るものからや恋しかるべき古今和歌集にある、清原深養父(きよはらのふかやぶ)という歌人の歌らしい。『わりなき恋』とは、理屈や分別を超えて、どうしようもない恋。「どうにもならない恋、苦しくて耐えがたい焔のような恋のことだと思う。笙子、覚悟ある?」パリ行きのファーストクラスで、69歳の女と58歳の男が偶然、隣り合わせとなったことがはじまり。女の名前は伊奈笙子、男の名前は九鬼兼太。国際色ある小説を探していて出会った本が、この岸惠子さんの著書『わりなき恋』であった。この本が出版された頃、世間の話題に疎い私の耳にも入ってきてたくらいであるから、当時は相当注目されたのであろう。テレビ画面に映っていた80歳の岸さんの頬は紅潮して、その姿に「おばあさん」はどこにも見られなかった。だが、私は老人ホームで働く職業柄、どうしても70代にさしかかる女性の恋愛話に最初は戸惑いを感じた。だって現実のホームでは、おむつをしている70代の利用者は普通にいる。そこに「女」という「性」を感じろという方が難しい。その歳で恋愛? その歳で男と溶け合う?著者本人も何かの番組で、「70歳を超えると、認知症だとか、介護だとか、ネガティブで後ろ向きな話題ばかりになるけど、そういうのはやめにして、ポジティブに前向きな話をしませんか」という想いがそこに込められていると話したそうだが、それにしても女っぷりでも体力的にも70歳とは思えぬ主人公・笙子であった。いくつになっても男は男、女は女。そうわかっていても、どこか嫌悪感やら羞恥心やらが働くであろうに、こうも開けっぴろげに生きれるものであろうか。国際ドキュメンタリー作家と大企業のトップマネジメントという立場の2人であるから、舞台がパリに上海にブダペストにとそれが極当たり前に地球上にまたがることに、どこか非凡人的な背景を感じ、自然と笙子は私の頭の中で岸惠子そのものとして演じられていた。普通の男女なら、「プラハの春」から恋は始まらない。それでも、読み進めるうちにのめりこみ、この若くない2人の恋愛の結末が気になることもあり、ページをめくる指は止まらなかった。70歳ならではの恋の甘み、苦み、しがらみ、痛み。描写も美しく、選ばれた言葉も美しい。美しすぎて、逆に「こういうのもありかな」と思ってしまった。そして最後の最後、笙子が導いた先は、「さすがだな」と思うとともに、「理想だな」とも思う。岸惠子の自伝ではないだろうが、80歳を超えた岸惠子の美意識なんだろうなと感じた。いや、まったくの作り話でないことは、文中から溢れるつややかな表現からも汲み取れる。
2014.11.02
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