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『ドゥブロヴニクを見ずして天国を語るなかれ』数々の名言を残し、ノーベル文学賞を受賞したアイルランド出身の劇作家ジョージ・バーナード・ショーは、1929年にドゥブロヴニクを訪れ、そう言葉にしました。「街の風景は絵画のようで、女性は映画スターのようだ。」毒舌家のショーがここまで褒め称えた美しさは、旧市街を取り囲む、厚く堅固な城壁に登るとよく分かります。映画スターのような女性を見たい方は、街中を散策するようおススメしますが。(笑)東地中海へ至る海路上に位置するこの街は、島や入り江に守られた天然の良港の為、7世紀初頭には街の基礎が築かれ、早くから海上貿易の重要拠点として開けていました。それゆえ次々とやってくる外敵に備え、市街の周囲に頑強な城壁を築きました。その基礎は8世紀に着工され、その後も市域の拡大とともに拡張し、現在の形になったのが15~16世紀のことです。*周囲2キロほどの城壁の上は遊歩道になっており、3箇所の入口から登ることができます。私達は、ドミニコ会修道院近くにある聖レヴェリン要塞から入りました。城壁の上は思う以上に風がキツく、最初は深く被った帽子を手で押さえていた私ですが、諦めて帽子を脱ぎました。風が髪を乱します。彼に目をやると、上から下までずんぐり黒色にくるまっていました。びゅんびゅんと城壁に吹きつける風に負けないように、私はその黒装束(笑)に付いていきました。「君はここ以外にも欧州を旅したことある?」「ええ、何度か。」「一番のお気に入りの場所ってどこ?」待ってましたとばかりに、「ザルツブルクよ。^^」と私。「あ~、モーツァルトの街だね。 僕も一度だけ行ったことがあるよ。」確か、城壁ではこんな会話から始まったように思います。風でかき消されそうな声を一生懸命拾いながら。空は気持ちが良いほど晴れ渡り、眼下に広がるアドリア海も負けじと青く輝いています。私はすごく嬉しくなってしまって、大はしゃぎで要塞に登りました。「君は高いところが好きなんだね~。(笑)」「だって、こんなに気持ちがいいんだもの! 綺麗なんだもの!」「ねぇ、あなたもこっちに来てみなさいよ!」狭い石段を苦労して登る私を、ズボンのポケットに両手を入れて 涼しそうな顔で見ている彼に手招きしました。 「ねっ、ここからの眺めも最高でしょ!」青い海に白い壁、赤色の瓦屋根が見事なコントラストを見せてくれます。仕方ないな~って表情をしながらも、彼も高台に登って来ました。「そういえば、クロアチアってバスケットボールが強いんだっけ?」私は彼に尋ねます。城壁から見下ろす街中に、ところどころ小さなバスケットコートが整備されているのです。「さぁ、どうかな? もともとスポーツの盛んな国だからね~。」 ふふっ、クロアチアはバスケットも人気があって強いんだよ~ん。(笑)前もって読んだ本に、過去に五輪でも決勝まで進んだ優れたチームだと書いてあったんだから!物知りの彼もあやふやなことってあるんだって、ちょっぴり得意顔のpicchukoでした。^^v 「ホント、どこもかしこも絵になるのね~。」黒装束の彼も、ドゥブロヴニクの輝きを目を細めて満足気に眺めています。私も両手を広げ、アドリア海の空気を胸いっぱい吸い込みました。お喋り好きな彼、、、これで天国も語れるね。(笑)★ FC2ブログ『I love Salzburg』においても、同記事をアップしております。
2012.01.31

少しづつ観光客が行ききし出したプラツァ通りを、次はどこへという会話もなく、二人並んで歩きました。旧市街のメインストリートである僅か300メートルばかりのプラツァ通りを抜けると、旧港に突き当たります。その手前で左手の路地に入ると、見えて来るのがドミニコ会修道院。ロマネスク、ゴシック、ルネッサンスと各様式が混在した、どっしりと構えた大きな教会です。たぶん、アルゼンチンの彼はまずここを見たかったのかな?入口に続く石段を軽く駆け上がり、扉を引いてみました。「ダメだ、まだ開いていないみたいだ。」今度はその石段を軽く飛び降りながら、首を横に振りました。*ドゥブロヴニクの旧市街は、箱庭のような狭い街にも関わらず、地中海やアドリア海貿易の中継港として栄えた14世紀以来の文化遺産が至る所で見られます。それは、先述の薬局を併設したフランシスコ会修道院や、港町ゆえに蔓延しがちな伝染病を防ぐための検問所、そして上下水道設備など、中世の頃から完備された、市民のための公共施設や社会福祉施設といったもの。その一方で、ここには絵画や彫像といった装飾芸術があまり見られないのが特徴です。ドゥブロヴニクは、貿易都市として繁栄を極め、富を集積してきました。海上貿易で得たその莫大な富を、この街の商人たちは公共施設の建設やインフラ整備に注ぎ込みました。一部の特権階級の贅に尽くした産物ともいえる芸術に関心を示さず、また、政治権力者の銅像などといった、力の象徴を掲げることを禁じていたといいます。それは、『自由』を何より重んじて来た、ドゥブロヴニクらしい一面。この街で見られる数少ない銅像は、17世紀にこの街の自由と自治を謳った詩人と、自らの遺産を全て市のために寄贈した一市民を象ったもののみということですから…。そんなドゥブロヴニクではありますが、実は、修道院や大聖堂の祭壇画などには素晴らしい宗教画が残されております。そのひとつがドミニコ会修道院であり、たぶん、彼はそれをゆっくり見学したかったのでしょう。「ここはもう少ししてから また来よう。」この時には、旧市街を彼と一緒に巡ることが、すでに自然な流れになっていました。 息つく間もなく降って来る彼の英語。はじめは真面目に耳を傾けようと努力していた私も、少しづつ聞き流す要領を掴めてきました。彼の言う冗談も読めてきたし。(笑)そんな ちょっぴり余裕が出来てきた頃、ふと気付いたことがありました。あれ? この喋り方、どこかで聞いたことがある???こんな流暢な英語を話す友達なんていないはずだし、ニュージーランド人が話す英語とは全然違う。でも、何度も何度も耳にした喋り方。今度は彼の語る内容ではなく、その喋り方を思い出す為に、一生懸命 耳を傾けてみました。どこかで聞いた喋り方☆はっ!ある瞬間、私の脳裏にある顔が浮かび上がってきました。それは!それは、私が恋してやまない IL DIVO のスイス人テナー・ウルスの顔でした。何度も何度も繰り返して聞いたウルスの英語、その喋り方と、目の前にいるアルゼンチン人の彼の英語の喋り方がすごくすごく似ているのです。旅に出るたび、異国の地でウルスに似た男性に出会わないかな~。(*^^*)そう冗談ながらも期待した日々は嘘ではありません。(笑)あ~、確かにウルスの喋り方には似ているけれど~私が期待していたのは、ウルスのような まるで彫刻のように美しい男性であって、深く碧い湖を連想させるかのような歌声の持ち主であって、あ~、確かにウルスに似ているところはあるけれど~~~喜ぶべきか、、、複雑な私の気持ちにおかまいなく、彼の英語はその後も容赦なく、私の頭上に降り注ぎ続けておりました。(苦笑)★ FC2ブログ『I love Salzburg』においても、同記事をアップしております。可愛い壁紙が沢山で、最近 FC2ブログがお気に入りです。^^
2012.01.29

知らなかったから、感じられたのかもしれません。アドリア海に沿ってドゥブロヴニクを北上し、ある地点で川に沿うように方向を転換させて進んで行くと、確かに空気が変わったと感じる場所があります。それは国境を越えたとか、地形が変わったとか、それだけではなくて、感覚として異なる空気を肌が覚えるといった感じ。後で思うに、その時、自分のいる場所を知らなかったからこそ、逆にその感覚に偽りはなかったと思えるのです。この旅に出る前、私はドゥブロヴニクについて書かれたものを少しだけ読んでいきました。テレビでも何度かドゥブロヴニクが取り上げられ、美しい景観と 語られる悲しい歴史を知った上で出掛けました。それはそれで良かったと思うし、それによって感銘を受けた部分もありますが、それがなかったボスニア・ヘルツェゴビナで、その場所が 直接私に語り掛けてくれた感覚が、今一番私の中に残っています。あ~、これが旅をする意味なんだと…。私の心は、まだボスニア・ヘルツェゴビナに置き去りにされたまま。好きな国かどうかは分からないけれど、悲しいほど美しく切ないあの国を、心は今も旅し続けている気がします。私を呼んだのは、クロアチアじゃなくてボスニア・ヘルツェゴビナだったんだって、今なら間違いなくそう分かります。(笑)*そんなボスニア・ヘルツェゴビナが恋しくて、帰国後2本の映画を観ました。「サラエボの花」と「サラエボ、希望の街角」。どちらも、どうしてもあの紛争が先に立ってしまって、きっと暗く重い作品なのだろうと、何度か観ようとしてやめた作品でした。それでも観ようと決めたのは、その国と出会った縁ゆえに、これを機にちゃんと知ろうと思ったから。サラエボは訪れていませんが、今の私にとって、サラエボはいつかきっと訪れたい場所のひとつです。二作品とも同じ監督さん。1974年にサラエボで生まれ、多感な10代にあの紛争を体験した女性です。紛争の悲劇を描くことは、自分の傷を、恐怖を掘り起こすことだったはず。そこには相当の痛みが伴ったことでしょうが、だからこそ描くことができた素晴らしい作品たち。紛争の場面や当時の場面は全く描かれていないのに、それ以上に深い心の傷が描かれていて、でもそれでは終わらさずに、未来を感じさせる余韻ある作品に仕上げているのに感動しました。俳優さんの表情も仕草も、演技とは思えないほど良かったと思います。あ~、ボスニア・ヘルツェゴビナはこんな空気だった。映画を観ながら空気を感じられたのは初めてのことだし、こんな感覚も初めてのことかもしれない。もっともっとこの国を感じたい。また一つ、自分との縁を感じる国に出会えたことに感謝します。★ FC2ブログ『I love Salzburg』においても、同記事をアップしております。
2012.01.25

★ FC2ブログ『I love Salzburg』においても、同記事をアップしております。 実は、フランシスコ会修道院での写真は一枚しかありません。アルゼンチン人の彼と撮ったツーショット一枚だけ・・・。14世紀に造られたというその修道院の回廊は、細かい装飾が施されたアーチ状の美しい天井と柱が美しく、まるで中世にタイムスリップしたかのような錯覚をさせてくれます。この街は過去の内戦と大震災で二度大打撃を受けた場所なので、再建修復した後の姿ではありますが、映画のワンシーンにでも使えそうなその場所で、とにかく写真を一枚撮りたくて、薬事博物館のおじさんにお願いしました。ですが、出来上がった写真を見て、あらら~。 アルゼンチンの彼ったら、完璧に寝てるし~。(笑)*「お先にどうぞ。」彼はジェントルマンらしく、スマートに手を差し出します。9時になると同時に重い鉄格子の扉が開かれて、私達は中庭を囲む回廊に足を踏み入れました。「いえいえ、どうぞお先に。」大和撫子の私ですもの(笑)、つい殿方に先をお譲りしてしまいます。「いやいや、女性からどうぞ。^^」レディーファーストに慣れない、いや 日本ではレディー扱いさえしてもらえない(泣)私はすでにドキドキ。最近は日本でもこんな場面が多くなりましたけど、やっぱり本場(?)の男性がしてくれると様になります。(*^^*)さて、観光客は私と彼の二人だけ。石畳を擦る靴の音が回廊の静けさを強調します。その静けさに、彼は声をひそめて説明を始めました。「ほら、見てごらん。 ここの回廊は、中世 西ヨーロッパで広く好まれたロマネスク様式で~。」彼が指す方を見上げながら、私は半分以上は理解できていないであろう、彼の説明に耳を傾けました。「あの装飾はね~、、、」彼はガイドブックも開かずに、次から次へと説明して歩きます。「ほら、あれは、、、」例えば、日本のツアーに参加していてさえも、ガイドさんの話を真剣な顔で頷きながら聞いているそぶりで他事を考えている私。まして頭の上から遠慮もなく降ってくる英語の説明なんぞ耳に入るわけがありません。ただ彼が指す方だけを目で追い掛け、そのスピードについていくのがやっとでした。私、ゆっくり一人で見学したいんだけどな、、、。そう言いたい気持ちも、一生懸命 自分の知っていること全てを教えようと話す彼の言葉をさえぎることはできず、、、。そして、その一生懸命な説明に、「写真、撮りたいな~。」と言うタイミングすら見つからず、、、。その時、「中も見るかい?」 この修道院のおじさんでしょうか? ある扉を指さし、笑顔で声を掛けて来ました。その扉の向こうは、薬事博物館。ここフランシスコ会修道院は、1317年の創設時から薬局を併設しており、当時 ここは医療福祉を行う施設でもありました。その薬局の歴史を示す古い資料に、薬壺や秤など実際に使われていた古い器具、そして宗教画や宝飾品に至るまで、ずら~っと一堂に会されております。ちなみに、今なお回廊脇では、700年間伝わるレシピを受け継ぎながら、現役の『マラ・ブラーチャ薬局』が営業中です。「ここも見たい?」 アルゼンチンの彼は私に聞きました。うん、うん。 だってここのメインですもの。 内心そう思いつつ、私は大きく頷きました。「じゃぁ、中に入らせてくれ。」 彼はおじさんに答えました。「入るなら、××クーナがいるけど、いい?」とおじさん。(クーナはクロアチアのお金の単位です。)「ここではドゥブロヴニクカードを使えますか?」と尋ねる私に、「ごめんよ、ここでは使えないんだ。」なのに私が支払おうとすると、「二人だけど、一人分でいいよ。^^」とニコニコ顔でおじさんは言いました。「じゃぁ、半分、、、」と、すでに支払いを済ませたアルゼンチンの彼に近付くと、「ここはいいから。」なんて。「でもそれじゃぁ~、、、」 だって、会ったばかりの見も知らぬ方なのに。そんな私の表情にすかさず彼、 「じゃ、次の場所で君が払ってよ。」え? 次って?次の場所って? この次の場所も一緒に巡ると言ってるの???私、ひとり旅が好きなんだけど、、、。そう言いたい気持ちも、薬事博物館の中でも一生懸命 説明を繰り返す彼の言葉をさえぎることはできませんでした。。。
2012.01.22

大使命を担ってクロアチアの地に降り立ったpicchukoサンタ!果たして、Y郎くんの夢は守られるのでしょうか?*10日の午後、学校から帰宅したY郎くんがポストを覗くと、そこにはサンタクロースからのエアメールが届いていました。彼はすぐさま、近くに住むおばあちゃんの元へ!「ばあちゃん! サンタから返事が来た!!」これは、サンタクロースを信じる小学4年生の男の子にとっては一大事です☆その時のおばあちゃんの反応は分かりませんが、I石ママが帰宅するや早々、「I子さん(I石ママのこと)、あんた Y郎に返事書いたんか!」とおばあちゃん。「いやいや、だって うちは海外へや行ってないもん。」「ほな、picchuちゃんか!」・・・(☆☆) おばあちゃん、完全にお見通しです。(苦笑)I石ママがY郎くんの部屋へ行くと、ちょうどY郎くんはサンタからの葉書をじ~っと眺めておりました。「picchuちゃん、聞いて! Y郎ったら そん時、picchuちゃんから貰ったクロアチアのチョコレートを食べながら、葉書を見よったんよ!(^^;」 I石ママは次の日、その時のY郎くんの仕草を再現しながら、私に言いました。「ほんでな、そん時 ばあちゃんも部屋に入って来て、「Y郎、クロアチアから返事が届いたんか!」って言うたんよ。」・・・あちゃ~、それを言っちゃぁ~。(T_T)「たぶん、ばあちゃんはチョコレートの箱に書かれてた"CROATIA"の文字が読めて嬉しかったんやわな・・・。(T_T)」その言葉に、「かあちゃん、これクロアチアから届いたん?」とY郎くん。「そんな~、かあちゃんはサンタがどこにおるか知らんわ!」焦りを隠しながら、I石ママはそう答えたそうですが、、、。というのも、Y郎くんは幼稚園に上がる頃から大の地図好きで、小学校に入学する頃には一般的に知られている国の名前と場所はすべて把握しておりました。しかも、この"サンタの使命"の話が持ち上がった時は、私がすでに年賀状を投函した後のことで、そこには「お正月はクロアチアのドゥブロヴニクを旅します。」と書いてありました。元日も仕事のパパママより先に、パパママ宛ての年賀状もチェック済みのY郎くん。ママが帰宅した時には、私が送った年賀状片手に、地図でクロアチアを探していたそうです。だから、"CROATIA"と書かれた箱に入ったチョコレートをお土産にあげました。私がクロアチアへ行ったことを知るY郎くんが、葉書が投函された国を知ってしまったら、、、。(><)もう小学4年生ですもの~、ピンッとくるではありませんかぁ。(><)そうしたら元も子もない・・・。(T_T)なのに、あ~~~ん、おばあちゃ~ん!!!!!(大泣)これが私が一番危惧していたこと。だから、返事には決してドゥブロヴニクの葉書を使わず、あらかじめ用意していたザルツブルク郊外にあるオーベルンドルフという街の葉書を用いたのでした。オーベルンドルフには、クリスマスソングの"きよしこの夜"が誕生した場所に礼拝堂が建っており、サンタからのエアメールに相応しいかな~と思い選んだのでした。だから、葉書から投函先が分かることは絶対にないはず!となると、問題は郵便局で押されるスタンプと切手です☆切手は余分に買ってあったので、そこに"CROATIA"の文字がないことは確認済み。「ねぇ、スタンプに"CROATIA"って書いてあった?」私は I石ママに尋ねてみました。「それがな、どこにも書いてないんよ。 だから、Y郎もどこから出されたのか分からなくて、ずっと悩んどるみたいよ。(笑)」とママ。I石パパも、「きっと、気付いてないで~。^^」と一言。ほっ。。。というのも、クロアチアはクロアチアであって、クロアチアでは(正確にはクロアチア語では)クロアチアではないからです。(笑)クロアチアの正式国名・クロアチア共和国は、クロアチア語で、<Republika Hrvatska(レプブリカ フルヴァツカ)>。切手にもスタンプにもきちんとそう記されております。が、それがクロアチアだとは小学4年生にはちょっと難しいですよね。もしかしたら、その文字が国名であることも気付いていないかもしれません。^^私だって、クロアチアに行くまで知りませんでしたもの。ほ~~~。^^;Y郎くん、「かあちゃん、この返事 学校に持って行ってもええ?」Y郎くんのお兄ちゃんの中学1年生のM郎くんは、ボソッと「なんで、サンタはY郎にしか葉書くれんのやろ。」「M郎が学校に持っていったら、ええ笑いもんやわな~!!!(爆)」I石ママは成功したことの喜びと、未だサンタを信じ続ける兄弟を思い出しながら、大笑いして話してくれました。そして、子供の夢を守るって、なかなか難しいものだな~と、遠くを見つめるpicchukoサンタでありました。
2012.01.14
今から12年前に出版された『そうだったのか!現代史』のあとがきに、池上彰さんはこう記していらっしゃいます。「第二次世界大戦後の歴史を振り返ると、イデオロギーの対立と、自国の利益だけしか考えない大国の身勝手な行動に彩られています。また、理想を追求したはずが、いつしか同志や人民を虐殺してしまうという、冷酷な現実も見えてきます。歴史を学ばない者は、同じ過ちをくり返すといいます。ベトナムでのインドシナ戦争におけるフランス軍の失敗を学べば、アメリカはベトナム戦争の泥沼に入ることはなかったはずです。ベトナム戦争でのアメリカの失敗を研究していれば、ソ連はアフガニスタンに侵攻しなかったはずです。(以下、省略)」*そういえば、12年前の私に衝撃を与えたあの本に、旧ユーゴ紛争について書いてあった!私は本棚の隅に追いやられていた池上彰さんの「そうだったのか!」シリーズ第一弾を取り出し、再び読んでみることにしました。゛冷戦が終わって始まった戦争゛と題して書かれた旧ユーゴ紛争は、まさについ最近の出来事。この記事が書かれてからも、旧ユーゴでは分離独立が続き、6つの全ての共和国が独立を果たしたのは2006年のことです。旧ユーゴスラビアは、「一つの国家、二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国、七つの国境線」と表現される国でした。それだけ複雑だったということですが、それはまさに世界の縮図。この国の歴史を知ることは、この国と何かしらの縁を持った私にとって、とても意味あることのように思えてきました。私が歴史を学んだからといって、地球上から紛争が消えるわけではありませんが、同じ地球上に住む人間として、同じ時代に生きる人々の痛みを知ることの重要性を感じるこの頃です。*私が訪れたクロアチアのドゥブロヴニクが攻撃されて、街が壊滅状態になったのが1991年のこと。ボスニア・ヘルツェゴビナも1991年から紛争が始まり、モスタルの街の象徴であった『スタリ・モスト』という橋が砲撃を受け崩落したのが1993年11月のことでした。(写真は、橋に置かれた記念碑)ちょうどそれは、私が広島で幸せな大学時代を過ごしていた頃。ヒロシマの子供達とともに、世界平和や核廃絶について考え、祈り始めた頃のことです。胸に折り鶴の絵を描いたTシャツを着て、平和を歌うヒロシマの子供達。私もその仲間入りをした気分で、自分は平和な場所にいて、そんな活動に酔っていた頃でした。その同時期に、あの場所は数知れずの爆弾を浴びていた、、、。その事実に胸が詰まりました。あの頃、また別の場所で苦しみ傷ついている人々がいた。それを私は全く分かっていなかったし、知ろうともしていなかった。。。これまでも紛争のあった地域や悲しい歴史を秘めた町を旅したことはあったけれど、今回ほど複雑な思いが胸を渦巻いたのは初めてです。旧ユーゴでは今も、2008年にセルビアから独立宣言をしたコソヴォに対し、セルビアはこれを承認せず、一帯の政情不安は現在でも続いているとのこと。もちろん、世界中に火種はあるわけだし、紛争はどこかで続いているわけで、決してバルカン半島だけの話ではないのですが、この旅をひとつの縁に、旧ユーゴについてしばらく調べていこうと思っています。* * * * * * *「君、時計持ってる?」12月31日の午前8時55分、フランシスコ会修道院の入口で声を掛けられました。修道院が開くのは9時。 5分間の待ち時間です。「君はどこから来たの? 僕は、今はフランクフルトに住んでいるんだけどね、出身はアルゼンチンなんだ。」彫りの深いその顔からは、親しみやすさと知的さとが垣間見えました。というわけで、正解はアルゼンチン☆彼のお得意のダンスは、どうやらタンゴのようです。(*^^*)「君も踊れる?」 「まさか~!」私は日本でも超田舎者なので、本場のタンゴなんて これまでに見たこともありませんよ!(笑)
2012.01.11

アドリア海に面したドゥブロヴニクは、温暖な気候で晴れの日が多い街。天候に関しての不安は一切ありませんでした。ところが12月30日の深夜、ドゥブロヴニクに降り立った私を出迎えたものは、空から降ってくる冷たい雨でした。こんなお天気じゃ、遠路はるばる訪ねて来たのに゛アドリア海の真珠゛と呼ばれる絶景はお預けかしら…。空を見上げ、心配そうな顔をした私に、ドライバーさんはニコっと笑って言いました。「大丈夫! この雨も今晩まで。 明日は晴れて、最高のニューイヤーイヴになるからさ!^^」*その言葉の通り、朝 カーテンを開くと、そこには もうすぐ顔を出す太陽に照らされはじめたアドリア海が広がっていました。ここは欧州でも人気のリゾート地。昨年訪れたメキシコ・カンクンほどではないにしろ、シーズンにもなると、多くの欧州人がバカンスを楽しむであろう光景が目に浮びそうな海岸線やホテルが並んでいました。そんなホテル群から20分ほど東へ歩くと、゛アドリア海の真珠゛と謳われる美しい街並みを誇る旧市街に到着です。この日、旧市街とそれを囲む城壁を隈なく歩くことを決めた私は、ホテルから旧市街までの、ほんの1~2kmばかりの距離だけバスを使うことにしました。親切なバスドライバーさん、明らかに不慣れな旅人である私を気にかけてくれ、目的地である旧市街の入口゛ピレ門゛に到着すると、「着いたよ。」と優しく声を掛けてくれます。目の前には城壁で堅く守られた旧市街地が、静かに2011年最後の日の迎えようとしていました。早速 カメラを出して、旅のスタート゛ピレ門゛を一枚。城壁の頂上にたなびくクロアチアの国旗を一枚。さすがに朝の空気は冷たくて、少し手がかじかんできました。そうだ、まずはドゥブロヴニクカードを買おう。どの観光地にもある、街の主な観光スポットを無料で入場できるそのカードは、ザルツブルクでもブダペストでもお世話になりました。ピレ門から入場する前に、私は観光案内所に赴き、「×××カードをください。」と声を掛けました。これがブダペストカードなら上手く言えたと思うのですが、ここはドゥブロヴニク。寒さで凍えた私の舌は上手く回らず、ここで早速「ドゥブドゥブドゥぶぅ~~~」。(爆)はぁ~?って顔のお姉さんに、赤面した私は、ちょうど目の前にあったドゥブロヴニクカードを指さし、「これください。」が精いっぱいでした。(笑)*これで準備が整いました。ピレ門をくぐり、旧市街地へ入場です。お出迎えは、1438年に上下水道整備の為に造られた、16面の顔のレリーフを持つオノフリオの大噴水。それをしばし眺めてから、そのすぐ向かいにある、高い鐘楼を持つフランシスコ会修道院に入りました。ここには700年前から続くクロアチア最古の薬局があります。現在も営業中ということで、ちょっとだけ~と覗いてみることにしました。その入口で。私は同じく一人旅をしている ある男性と出会います。彼は現在、ドイツのフランクフルトで暮らしていると言っていました。話を続けていて、かなりびっくり!その彼、なんと『 European Central Bank 』で働いていると言うのです。高額の500ユーロ紙幣を見せながら、色々と説明してくれたのですが、残念なことに私には難しすぎてさっぱり分からず・・・。(笑)その上、ちょっとだけホントかな~?って疑っていたのも事実です。^^;帰国後調べてみたら、彼の話の節々(私が理解できた僅かな部分。笑)に真実性が増してきました。もしかして、彼は本当に欧州中央銀行の職員なのかもしれない。。。しかも、フランクフルトは欧州中央銀行の本店となる場所。もしかしたら、彼は超エリートだったのかもしれない。。。(汗)(ねぇ、ユーロ大丈夫???)確かに、私には到底ついていけないほどの博識で、これまで旅先で出会った男性の中では、ある欠点を覗いて完璧なジェントルマンでした。ある欠点とは、ものすご~くお喋りなこと!(笑)私が理解していようがしていまいがお構いなく、ひたすら喋る喋る!!!これがなければ完璧だったのにね、って感じです。^^* * * * * * *それでは突然ですが、ここで問題です☆この男性、南半球のある国の出身です。見た感じは欧米人と変わりありません。髪の色は黒が混ったブラウン。 目がものすご~く大きくて、鼻もものすご~く高いです。^^もしかしたら、とても情熱的な人かも。(*^^*)名前を言っちゃうと、出身地がかなり絞られちゃうかもね。では、彼は一体どこの国の人でしょうか?^^正解された方(先着3名様)に、クロアチアのお土産、1911年創業の老舗菓子店クラシュのヌガーチョコレートをプレゼント致します♪
2012.01.06
一日の観光が終わった夜、いつものように、ホテルのベッドに寝転びながら、私はパラパラとガイドブックをめくっていました。 ドゥブロブニクから少し足を伸ばしてみようかな。 変な冒険心が頭を出すのもいつものこと。(笑) ドゥブロブニクからはアドリア海沿いにある小さな町へ行くのも便利ですし、 クロアチア最南端に位置するため、隣国のモンテネグロもそう遠くはありません。 モンテネグロね~。これまで意識したことのない国だけに、イメージは沸きません。パラリ。 もう一枚ページをめくると、そこには『 サラエボ 』という文字がありました。 サラエボは、言わずと知れた第一次世界大戦の引金となった町。 そして、サラエボを首都とする ボスニア・ヘルツェゴビナは、記憶に新しい あの紛争の激しかった国ではありませんか! その国の、すぐ隣りにまで来ていることを、私は初めて知ったのでした。そうだった、、、ドゥブロブニクだって遠くない過去に内戦を乗り越えた町だった。頭では分かっていたつもりでも、あまりの美しさに ついそれを忘れてしまっていたのです。ボスニア・ヘルツェゴビナも気になる国だけど、まだちょっぴり恐いかな。 再びモンテネグロのページを開き、行き先をドゥブロブニクから約60kmほど南にある、世界遺産の町『 コトル 』と決め、私は眠りにつきました。*次の朝。 私は元日でバスが運休になるのを懸念して、タクシーを一日借りきることにしたのです。 「コトルへ行きたいんだけど、往復でいくらになるかしら?」 私の発音が分かりにくかったのか、 「え? どこへ行きたいの?」と、ドライバーさんは耳を近付けてきます。 私は再び「コトルまで」と言おうとして、 アルファベットで書かれたガイドブックの地名を見せた方が間違いないわって気付きました。 「オッケー、オッケー。ちょっと距離があるから、片道2時間近く掛かるかもしれないよ。」 普通なら、ここで確認をしますよね。 なのに私ったら、コトルへ行ける安心に、そのままタクシーに乗り込みました。 南に向かうのですから、当然のこと、アドリア海は右手に見えてくるはずです。 左側に続く海を眺めながら、しかし、それすら私は不思議に思わず、ただアドリア海の碧さに見とれていました。 「パスポート出して。」 国境を越えます。 少し進んで、またもや「もう一度、パスポートを出して。」 その後、車は内陸部へと方角を変えました。「パスポートを出して。」 また~? 一度国境を越えるのに、なんで何度もパスポートがいるんだろう?それに、コトルは入り江に面した町なのに? (゜_゜)私はハッと思い立ち、ガイドブックを開いてみました。 『 コトル ( Mostar ) 』ドライバーさんに見せたページにはそう書かれていました。 パラリ。 ボスニア・ヘルツェゴビナのページです。 『 モスタル ( Mostar ) 』もしや? 地図を開くと、あ~、やっぱり~。(ToT) コトルの綴りは当然のこと、『 Kotor 』です。 明らかに、ガイドブックのミスプリントでした~。(T_T) ということは、、、? 「ねぇ、ここって (もしかして) ボスニア・ヘルツェゴビナ?」 「そうだよ。 さっき入国したからね。^^」 あぁ、私が敢えて避けた国に私がいる~。(ToT)ボスニア・ヘルツェゴビナに私がいる~!(T^T) ~~~ どうか笑ってやって下さい☆(o≧∇≦)oこんな風に始まった2012年。私は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の中心都市、モスタルを旅してまいりました~。 (≧▽≦)ゞそれでは、只今からウィーンを経ちます。ウィーン時間 '12,01,02 PM 0:20ウィーン国際空港にて
2012.01.01
明けまして おめでとうございます。 私はまだ2011年を生きていますが(笑)、 たった今、日本が2012年を迎えた瞬間、 アドリア海に向かって、大声で「明けましておめでとう!」と叫んでみました。(爆) ちゃんと届きましたでしょうか?(*^_^*)私は今、夕暮れのアドリア海のざぶ~ん、ざぶ~んと押し寄せる波の音を聞いています。ドゥブロブニクの大晦日は風はキツイものの、気持ちがいいほどの快晴です。 では、2011年の私から、今年最後の輝きを送りますね。追伸:皆さんからのコメント、嬉しく読ませて頂いています。ありがとうございます。(^^)
2012.01.01
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