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こんにちは、なやはらです。前回の続きから…重度のオスグッドで、中学校入学後すぐの頃に運動を禁止された私。それからあっという間に1年以上がたち、気が付けば3年生目前でした。そんな3年生目前の2年の冬休みに、もう少しで運動してもよさそうだと、主治医から診断を受けました。高校受験に大きな影響を与える内申点稼ぎには、体育の評定も関わります。そのため、見学だけだと非常に厳しかったので、かなりホッとしたのを今でも覚えています。このころには運動がようやくできる喜びよりも、受験に大きな影響を与えない喜びのほうが大きかったです。もう以前の運動大好きな子どもではなく、運動なんていまさら怠いし、受験のために仕方なくやる。そんな感じの子供になっていました。思春期特有の気だるい感じと、約2年も運動ができなかったイライラした精神。また、これまで自分よりも運動ができなかった同級生に、体力面で負けていく悲しさ。今振り返れば、もっとああすればよかった、こうすればよかったと思いつきますが、当時はそんなことはなく。ただただ、毎日運動ができないことにイライラして、そのうち運動自体も嫌いになっていました。だから、ようやく運動が解禁間近となっても、前述のとおり、嬉しさを感じる部分はすごく少なかった。受験の中で点数化される体育の評定が、平均的な点数であればいい、そんな感じでした。そうした迎えた中学3年生。ひたすらつまらない毎日でした。話が前後しますが、私は中学2年生の半ばころから、友達がいなくなりました。ある日ふと、「休み時間におれが話しかけにいってるな。」と思いました。誤解を招かないようにあえて書きますが、私は友達は多かったです。いじめをうけたこともありませんでした。そもそも、いじめがない学年だったと思います。いわゆるネンショーに入る不良や、カツアゲなどをする同級生もいなく、非常に平和な学校でした。でも、ある日本当にふっと思ったんです。「俺が誰にも話しかけにいかなかったら、人間関係はどうなるのだろうか」って。で、気づいた後は実践です。誰にも話しかけなくなったんです。不思議なんですが、これが全く苦痛じゃありませんでした。もともと1人で大丈夫な人間なんやな、と思いました。そして、幸か不幸か、だれも話しかけにきませんでした。始めはちょっとビックリしました。「俺って全然好かれてないんやな、むしろ嫌われてたんちゃうか」なんて思いました。でも、好かれてようが嫌われてようが、どうでもいいと思うようになりました。だって、中学2年生ですよ。どんなに長くても、あと1年ちょっとで卒業です。この先の長い人生において、その1年はどうでもいいと思いました。それからは、休憩時間はひたすら本を読んでいましたし、授業中にだれかと話すこともなくなりました。いま思い出そうとしても、何の本を読んでいたのかはわからないです。興味があった国際政治の本や、好きなSF本でも読んでいたのだろうと思います。そんな感じで、無口人間になった私は、なんとなく中学校生活を終え、卒業することになりました。家が裕福ではなかったので、塾には行かず、公立の3番手の学校に進学することになりました。私の地元では、公立高校は学区制でした。複数の学区があるのですが、住んでいる地域ごとに行ける学区が決められていました。私はその行ける学区の中で、3番手の学校に行ったのです。運動ができなかった分、勉強に没頭しておけばよかったと、心底後悔しました。当時の進学先の高校の偏差値は、56とか57ぐらいでした。今は改革をしたのか、偏差値が60ぐらいになっているので、ちょっと嬉しいです笑まぁそんな感じで、なんの充実もなく、なんの楽しいイベントもなく、本当にあっけなく中学校生活が終わりました。卒業式の日も、大して行きたくはなかったのですが、親に行けといわれ仕方がなく。なので、卒業アルバムの寄せ書きのページは真っ白です。卒業式が終わり、最後のHRが終わって、すぐに帰宅したので。まぁ、居残っていても、寄せ書きページは真っ白だったでしょうが。こんな話を書くと、暗い記憶と思われるかもしれません。ただ、当時も今も、私にとっては大して暗い記憶ではないです。「俺って人から好かれるタイプではないんやな」そんなことをしっかり実感できたうえで、特に嫌なイベントもなかったので、自己分析に役立った時期ととらえています。天性の人たらしだった秀吉のような性格だったら、人との関りが極端に薄まった中学時代はさぞ嫌だったでしょうが…さて、今回も長くなってきたのでこれまで。最後に当時の私がはまっていた、パソコンゲームを紹介します。ザ・プレデター【Blu-ray】 [ ボイド・ホルブルック ]価格:1,650円(税込、送料無料) (2025/4/29時点)楽天で購入プレデターと聞くと映画を普通の人は思い浮かべると思います。ただ、当時はプレデターVSエイリアンというPCゲームがありました。これで遊んでいたパソコン部にお邪魔して、一緒に遊んでいた記憶があります。運動ができない、バスケの部活も当然無理。ということで、誘われたパソコン部にお邪魔して暇つぶしをしていました。今思い出すと、パソコン部では一緒に楽しくゲームをしていた思い出があるので、意外と楽しんでいたのかもしれません。ただただ、自分から人に話しかけなくなった、というだけで、話しかけられれば応答はしていたんでしょうね。ロボットみたいですね。はい、無理やりまとめますと、プレデターはバリ強いから最高ってことです。
2025/04/29
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はい、みなさんこんにちは、なやはらです。前回からちょっと間隔があいてしまいました。ちょっとでも気が緩むとすぐこうです。クズですね。さて、前回は部活動に入ったところまででした。それではさっそく…バスケ部に入部した私は、一緒に入ったメンバーを見て、イケると思いました。イケる、というのは、レギュラーは余裕だなということです。その理由は、一緒に入ったメンツの中で、私が4番目に上手くなりそうだったからです。私より確実にうまくなる、もしくはレギュラーに近いと思ったのは3人でした。1人はオールマイティマン、1人は足速過ぎマン、1人は体力異常マン。彼ら3人は、後々入ってくる後輩を仮に考慮外とすれば、私と一緒に確実にレギュラーになると思っていました。その他のメンバーは、バスケ部に入ったのが不思議なメンツでした。あまり球技が好きなイメージがないメンツだったので、「水泳部じゃないんや!球技上手くなりたいのかな?」と思っていました。後々聞いたら、彼らも私と同じく、なんとなく運動部に入りたかっただけで、バスケが好きな訳ではありませんでした。似た者同士で面白く感じ、みんなそんなもんなんやな、と少し嬉しかった記憶も。さて、入ったバスケ部で毎日練習に励んでいたわけですが、3か月ぐらいたったころ、膝に激痛がはしりました。成長期の男の子によくある、「オスグッド」でした。オスグッドは普通は大したことがないのですが、私は重症でした。「痛い時だけ休み休み、痛みが弱いときは運動もできる。」、そんな普通のオスグッドではなかったのです。整形外科にかかったのですが、運動は長期間厳禁だと言われ、体育も部活動も見学する日常が始まりました。オスグッドで運動を禁じられる例はあまりなく、体育教師が驚いていたのをいまでも覚えています。スポーツ・運動は大体好きで、嫌いな運動は台上前転と持久走。そんな運動好きの普通の男の子だったのに、いきなり体育も部活動も見学生活になった苦痛は、ちょっと耐えがたかったです。大好きだった体育の授業が、一気につまらなくなりました。大好きだったわけではないものの、楽しかった部活動も、つまらなくなりました。ただ、他人の練習、プレーを見るだけ。何の意味があるんだと思いました。勿論、膝を使わない運動はできました。でもそれは楽しくなかった。膝をついて、ひたすらボールをつく練習。地味でした。ドリブルがしたかった。シュートも打ちたかった…そんな感じのつまらない見学とつまらない練習の日々。定期的に整形外科に通い、主治医の診断を受けましたが、運動解禁は遠く、あっという間に1年が過ぎました…だいぶ長くなってきたので、今回はここまで。さて、今日は運動厳禁で腐っていた私が、毎日楽しみにしていたものを紹介します。中学校に入学してから、英語の授業がはじまりました。今とは違って、小学校では英語がなかったので、ドキドキわくわくしていました。そんな英語の勉強。塾に行きたくても金銭面を考えてしまって、行かせてほしいと親に言えなかった私は、NHKの語学講座を熱心に聞いていました。なんてことはない、日常会話ばかりなのですが、それが楽しかった。街で外人を見かけることなんてほぼなく、あってもALTの先生でした。「外人や!」と思ったら、「ALTのあいつかい…」、失礼極まりないですが、そんな感じでした。そんな変わり映えのしない日常の中で、外国を感じられる語学講座。ラジオというちょっと古臭い手段も、なんだか楽しかった。今月は4月。NHK語学講座がスタートする月です。NHKラジオ 中学生の基礎英語 レベル1 2025年4月号[雑誌]【電子書籍】価格:620円 (2025/4/23時点)楽天で購入あなたも一度聞いてみたらいかがでしょうか?
2025/04/23
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こんにちは、なやはらです。さっそく自己紹介の続きを…小学生の頃は先に書いた通り、活発男子でした。運動が大好きで、特にサッカー好きの子供。でもサッカーは好きでもプロに憧れることはありませんでした。今でも覚えているのですが、サッカーを好きになった3年生の頃のこと。そのころに同じ学年の友人Aとよくサッカーをしていました。彼はお父さんが元Jリーガーで、もっと小さいころからサッカーをしていました。そんな彼からJリーガーになる難しさを子供ながらにたくさん聞いていました。彼はお父さんが元Jリーガーだから、お父さんに練習をしてもらっていたようです。そんな彼のサッカー練習話を聞いていると、小学3年生からプロを目指しても、間に合わないと思ってしまいました。今の私があの頃に戻れるなら、当時の自分に小学3年生ならまだまだ目指せるし、あきらめないでと言いたい。実際になれるかどうかよりも、夢を早くに見切り過ぎて、努力をしなくなることが後々大きなダメージに。夢は叶えば一番いいですが、仮に叶えられなくても、その過程が大事だと、今ならよくわかります。ただ当時の私は、競争心がないというか、今風に言えばコスパを考え過ぎていたというか…小学3年生よりも、早い段階、例えば5歳とか、からすでにサッカー漬けの少年には勝てないと思ってしまった。GKが大好きだったのに、GKなんてなれないと思ってしまった。プロなんて無理でしょうと。その思いはいつまでも変わらなかった。小学6年生の頃に書いた文集で、多くの友人たちがなりたい職業として書いていたスポーツ選手。6年生どころか3年生の頃に夢をあきらめてしまった私は、なりたい職業は書かなかった。何一つ夢がなかった。そんな中で公立の小学校を卒業して、公立の中学校に入学しました。中学校といえば部活動。部活動はいろいろ考えてバスケットボール部に入部しました。特段バスケが好きなわけでも、好きな選手がいたわけでもない。ただただ消去法で選びました。話しは前後しますが、私の両親は私が小学校2年生の頃に離婚しました。その影響で、裕福な家庭ではありませんでした。特に食事が今思えばひどかった。ほぼ毎日うどんでした。これは当時まだ飲食店で働いていた祖母が、勤め先のお店のご厚意であまりもののうどんを毎日持って帰ってきていたためでした。今思えば、なんて優しいお店なんだと思いますが、当時の私はそのお店が大嫌いでした。白ご飯が食べたいのに、持ち帰らせるせいでうどんを来る日も来る日も食べないといけない。そんないらだちを、お店にたいしていつも抱いていました。また、うどんばかり食べさせる家族にも苛立っていました。金がないなら、子供なんてつくるな。責任を持てないなら、子供なんてつくるな。子供にひもじい思いをさせるなら、子供なんてつくるな。どれも金銭に絡む思いですが、当時は思っていました。そんな金銭面で余裕がなかった家庭だったので、部活動はお金がかからないものをと思っていました。私が入学した学校の運動部にはバスケ部、野球部、サッカー部、水泳部がありました。金銭的に一番お金がかからないのはなんだろうと、中学1年生の頭で考えました。すると、野球部は一番に選択肢としてなくなりました。バット、スパイク、グラブ、ユニフォーム…また、試合のたびにつく土の汚れ。それを落とすために必要な洗濯洗剤と洗濯の回数。まず、これはありえないなと思いました。サッカー部もスパイクが必要で、ユニフォームがひどく汚れるため洗濯が必要。これもありえない。水泳は水着さえ買えばよさそうですが、遠征の際にはプールの料金がかかる…遠征の数は少ないですが、費用がどれくらいかかるのかが読めず、保留に。そして最後に検討したバスケ部。これはバッシュという靴さえあればよかった!ほかには何もいらなかった。ボールも買わなくていい、バットもグラブもユニフォームもいらなかった。ユニフォームは試合日のみレンタルでしたが、室内での運動なので洗濯するさいに汚れが多いこともなく。土汚れなどなく、ただただ自分の汗があるだけ。神だと思いました。バスケは好きでもなければ嫌いでもない。大した情熱もなかったですが、とりあえず運動部には入りたかったので、バスケ部に入部しました。とまぁ、部活動に入部するだけで、長くなってしまいました。今回はこれぐらいにしておいて、当時の私が好きだったシュワちゃんを軽く紹介します。コマンドー [ アーノルド・シュワルツェネッガー ]価格:1,320円(税込、送料無料) (2025/4/19時点)楽天で購入私はシュワちゃんが好きでした。今でも好きです。今でも私のヒーローはシュワちゃんです。一応書いておきますが、私はゲイでもホモでもないです。ただただ女性がすきなキモデブです。ですが、シュワちゃんはカッコよすぎて惚れます笑いつから好きになったのか、何がきっかけだったのかはわかりません。気が付いたら好きになっていた。そんな感じですね。小学2年生ぐらいの頃には、すでに好きでした。おそらく、コマンドーやターミネーター2を見て、好きになったんでしょう。シュワちゃんが好きすぎたので、地元の図書館で見つけたシュワちゃん本も読んでいました。「アーノルド・シュワルツェネッガー 知られざる過去」という本でした。小学生には結構強烈な性的な話もありましたが、いろんなシュワちゃんを知れて嬉しかった記憶があります笑おっと、シュワちゃんを語っていたらまた長くなってきました。今度こそ続きは次回にしたいと思います。読んでくれてありがとうございます。嬉しいです。
2025/04/19
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こんにちは、なやはらです。前回の自己紹介の続きから。幼稚園卒園後は、当然小学校に入学しました。幸い小学校生活では、卒業まで同じ小学校でした。小学校生活では、結構やんちゃ男子でした。喧嘩が学年の中では多いほうだったので、どちらかというと喧嘩っ早い子供でした。後から同級生に聞くと、喧嘩に負けたことがなかったので、強いと思われていたようです。でも実際は全然そんなことはなくて、ただ自分より弱い相手とだけ喧嘩していただけでした。そもそも本当に強い子は、やたらめったら喧嘩なんてしないですからね。恐らく1番強い子は空手を習っていた子でしたが、その子が喧嘩をしているところは見たことがありません。今思うと、なんであんなに簡単に些細なことで喧嘩ができていたのかが不思議です。でもたくさん喧嘩したお陰(?)で、仲直りは上手になりました。どれだけ喧嘩をしても、必ず次の日には仲直りをしていた記憶があります。そんな猿みたいな私ですが、スポーツは普通の出来でした。足がクラスで一番早いとか、ボールを一番遠くまで投げられるとか、そんなことはなく。ただただ普通の球技が一番好きな小学生男子でした。一方で持久走と台上前転は大嫌いでした。台上前転は何が楽しいのかがわからず、また持久走もひたすら走るのが苦痛でした。たくさんのクラスメイトが、楽しそうに持久走で競り合っているのを見て、不思議でした。一方で私は先述の通り、球技が一番好きでした。野球やサッカーを習っていたわけではないのですが、人並みにできました。また、水泳も水泳教室に通ってはいなかったのですが、クロールで25m泳ぐのが好きでした。当時の私のクラスでは、水泳教室に通っていない生徒でクロールで25m泳げるのは私だけでした。なので、それがちょびっと誇らしく、ちょっと運動神経に自信が持てていました笑そんな運動好きの小学生男子だった私は、中でもサッカーが一番好きでした。ポジションはGKが一番好きでしたが、幸いだれもGKをやりたがらなかったので、幸運でした。体育の授業でも、放課後に遊ぶ時も、いつもGKをやっていました。たまにGKをやりたいと言い出す子がいたときは、仕方がなくMFやFWをしていました。とはいっても、小学生のサッカーなので、FWもMFもDFもほぼごちゃまぜでした笑そんな中でGKだけが役割が明確なポジションだったので、恐らくそこに惹かれたのだと思います。学校生活では、喧嘩も多かったですが、友達も多かったです(過去形)今では友達ではないのですが、それはまた別の機会にお話しします。さて、学校以外の学びとしては、そろばんとピアノを習っていました。1年生の頃にそろばんをはじめ、6年生の時に1級を取得してそろばんをやめました。また、3年生からピアノをはじめ、これは中学3年生まで続けていました。ピアノを習い始めたのは、楽譜が読みたい、という私の希望を聞いた親がピアノ教室を勧めたからです。この楽譜を読めるようになる、という当初の目標はすぐに達成できたのですが、なかなかやめさせてもらえませんでした。一度自分でやりたいといったからには、ある程度は続けないといけなかったのです。大体の親もこんな感じだと思います。簡単になんでもかんでもやりたいなんて言うもんじゃないなと、その時によ~く学びました笑さて、ピアノは最終的にベートーヴェンのピアノソナタ悲愴を全楽章弾けるようになってやめました。個人のピアノ教室だったので、自分自身のレベルがどの程度なのかはいまだによくわかりません。ベートーヴェン 3大ソナタ (悲愴) (月光) (熱情) [楽譜] (Zen-on piano library) [ 全音楽譜出版社出版部 ]価格:1,650円(税込、送料無料) (2025/4/18時点)楽天で購入かなりレベルは落ちますが、結婚行進曲やトルコ行進曲なども人様に聞かせられるレベルではないですが、当時は楽々弾けていました。あとは、魔王の最初のほうだけ、有名アーティストの弾きに合わせて弾いて遊んだりしていました。中学生の頃に、Maksim Mrvica という海外のピアニストに少し憧れた時期もあります。結局レベルが違いすぎるのと、それほどピアノが好きじゃなかったので、結局やめたのですが。気が付けば、小学生と中学生の話がごちゃまぜになっていました。長く書くとこうなるのでしょうか、続きはまた次回にしたいと思います。
2025/04/18
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こんにちは、なやはらです。これから、自己紹介をしていきます。全部で何回になるかわかりませんが、よかったら全部読んでください笑読んでくれたらめちゃくちゃ嬉しいです。私は1990年代生まれの30代。日本の関西地方のとある場所で生まれました。生まれてから幼稚園の年少の頃までは、生まれた地域で過ごしました。そのころの記憶はほぼないですが、どうやら年が1つ上の、男の幼馴染がいたようです。まぁ年少の頃までなので、厳密には幼馴染とは言わないかもしれません笑年少の途中で、父の転勤により、四国に移りました。愛媛県に一家そろって移住し、貸家を借りて住んでいたようです。このころの記憶もほぼなく、ムカデが夜にでて、母が騒いでいたような記憶があるぐらいです。愛媛県に移住して1年ちょっとがたったぐらいで、今度は香川県に転勤になりました。いま振り返ってみると、たった1年ぽっちでまた転勤になるなんて、どんな会社やねんと思います。ただ、当時父が勤務していた会社ではそれが普通のようでした。香川県に移住後に、父と母はどうやら香川県に永住することにきめたらしく、一軒家を購入し、新築生活が始まりました。ただ、当時の香川県は私の身体には相性が悪く、小児喘息になりました。このまま香川にいても症状は改善しないという主治医の診断を受け、両親が移住を決めました。なので、1年もしないうちに家を売却し、また元いた関西のとある地域に移住することになりました。結局この関西のとある地域で、私は成人するまで過ごすことになりました。年長の頃に関西に戻ってきたのですが、このころの記憶はよく覚えています。幼稚園に転入した最初の日。同じクラスに、やたら背が高い女の子がいて、その子がはいていた靴下が強烈な印象でした。「ウォーリーをさがせ」という絵本があるのですが、そのウォーリーが描かれていたのです。たかがウォーリーなのですが、当時の私にはなぜかショッキングで、それゆえ強烈な印象でした。少し時をさかのぼりますが、年少から年中までは身体がそれほど大きくなく、普通でした。また、転園を繰り返していたので、友達もつくりづらく、結構内気だった気がします。ただ、年長になるころには身体が大きくなり、クラスの背の順でも後ろから3番目ぐらいに。幼稚園なので、男女あわせて30人ちょっとだと思います。たった30人の中での3番目なので、普通の範囲をでませんが、それでもなんだか誇らしかった。また、内気な性格も多少は直り、ちょっとやんちゃな小僧になっていた気がします。そんな幼稚園児の頃の夢は、宇宙。夢が宇宙とは意味がわからないですが、とにかく宇宙に関することが好きでした。これはたぶん、ドラゴンボールを見始めた影響で、なんとなく宇宙人を考えたのが原因かなと。ドラゴンボールも大好きでしたが、それ以上に宇宙に関連する絵本や本が好きでした。なので、いつかは宇宙飛行士になりたい、なんて今思えばすごく大きな夢を持っていました。その宇宙飛行士になるためには「虫歯になってはいけない」、なんてことを親から聞かされていました。なので、頑張って歯を磨いて、虫歯にならないようにしていました。そのおかげなのか、アラフォーになった現在に至るまで、虫歯になったことがありません。虫歯になったことがないので、アラフォーになっても虫歯が怖いです笑どれほどの痛みなのかがわからないので…さて、ちょっと長くなってきたので、続きはまた次回に。代わりに、幼稚園児の頃に宇宙が好きだったアラフォーオススメの本を紹介します。「星を継ぐもの」星を継ぐもの【新版】 (創元SF文庫) [ ジェイムズ・P・ホーガン ]価格:880円(税込、送料無料) (2025/4/17時点)楽天で購入SF界隈では、超超超有名作品です。ただ、リアルに交流する友人や知人にはあまり知られていなかったです。最近では漫画化もしているので、これからどんどん多くの人に読まれていくのかもしれません。まだ、読んだことがない方は、この機会にぜひ。
2025/04/17
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みなさんおはようございます、こんにちは、こんはんは。ダイエット生活をはじめて100日がすでに経過しました。今まで何度もダイエットに挑戦しては失敗してきました。今回こそは、最後の挑戦にしたいと思っています。このブログは、そのダイエットを続けるための、日銭稼ぎブログです。アフィリエイトで稼いだ分で、ダイエット用の食材やプロテインを購入したいです。ご協力いただければ幸いです。
2025/04/17
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