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私
: グアム島
から来た 海兵隊
は 生存日本兵
を掃討する前に、 降伏勧告
をすることにした。
そして、グアム島に戦犯裁判の証人でいた 第4艦隊参謀長
だった 澄川道男
海軍少将
を勧告者として選んで、 ペリリュー島
に来てもらう。
少将
が メガホン
で呼びかけたが反応がないので、 文書
にして署名して、彼らの通り道らしいところに吊るした。
A氏 :日本兵の反応はどうだったのかね。
私
:米軍の謀略を疑い 無視
だね。
仲間で議論しているうちに、降伏しようと言い出した1人がいたが、あるとき背後から撃たれて 死亡
するという事件が起きる。
この日本軍の残留兵 34名
の中に 土田喜代一
上等兵
がいた。
彼はこの戦争は2年持てばよく、それ以上の戦いになると負けるだろうと思っていたという。
彼は海軍所属で陸軍の残留兵にたまたま合流したもので、陸軍の兵士と違い、多少、柔軟な思考を持っていたのだろう。
そこで、投降勧告の敗戦を信じた彼は、 4月2日 、仲間に書き置きして、一人脱走して投降する。
そこで、彼の情報から潜伏兵の家族に手紙まで書いてもらい、これを 澄川少将
が壕の近くまで行って読み上げる。
そこで、彼らは、壕を出て、澄川少将と話し合うが、一人の陸軍軍曹が頑として投降に反対する。
しかし、 澄川少将
の「 とにかく私に命を預けろ
」という一言で納得し、投降となった。
ときに 昭和22年4月22日
。
土田上等兵を含め、投降した 34名
中、 陸軍
は 22名
、海 軍
は 12名
。
陸軍の 22名
中、もとは水戸大隊だから、 18名
は 茨城県出身
。
A氏
: 1ヶ月間
ほどの説得だったわけだ。
いかに「 戦陣訓
」と「 鬼畜米英
」が彼らの身にしみつていたかだね。
私
:彼らは投降して「 鬼畜米英
」の 素顔
を知ることになるね。
投降して、すぐ 予防注射
をするとき、まだ、 毒殺
されると思い拒否する。
仕方がないので、最初に 澄川少将
がやった。
そして、2時間近くたっても問題ないので、ようやく注射をうけるという状態。
投降生活中、捕虜の扱いも兵隊と同じという 米軍の発想
に、日米の軍隊の違いを知る。
日本軍では軍人とは 将校
のことで 兵隊は軍人でも人間でもなかった
という。
消耗品だね。
これでは負けて当たり前と思ったという。
しかし、米軍側の別のペリリュー島戦記には、戦闘中、日本兵の投降者を射殺した例があるようだ。
投降生活
は2週間で終わり、航路、日本に向かう。 舟は民間の舟で船員は全部日本人。
これではじめて敗戦を信じることになる。
A氏 :一旦、身についた思想というのはこわいものだね。
私
: 米軍からの支給品
を持って舟を降りようとしたら、船員たちに税関で取られると騙され、舟に置いてきてしまう。
舟を降りて税関を待ったが来ない。
舟は出ていく。
詐欺にかかる。
A氏
:当時、日本は モノ不足
で、国民の気持ちも荒れていたんだね。
国を命を賭して守ってくれた兵隊だという気持ちはもう皆無だね。
もっとも、特攻隊崩れが、飛行機で軍需物資の余りをネコババしたこともあった。
私
:故郷に帰れば戦死者扱いで、配給もすぐに受けられない。
もたもたしている役所に怒って怒鳴り込んだ者もいたという。
A氏 :浦島太郎だね。
私
: 生還
した 34名
の潜伏生活は集団活動としてはいろいろあって、生還者は潜伏生活については多弁でなかったという。
人間の極限状態を生きてきた者としては当然かもしれないね。
34名
が再会したのは、 16年後
。
「 三十四(みとし)会
」とこの 戦友会
を名付けた。
戦友会
は自費で何回も 遺骨収集
に ペリリュー島
に渡っている。
最初に投降した 土田
氏は、
「いろいろな思い出の残る島に自分の骨を埋めてもらいたい。
それが 1万数千名の戦友
に対する努めのような気がする」
と言っているという。
この土田氏の言葉でこの本は終わっている。