December 6, 2009
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カテゴリ: クラシック音楽
東京へ行ってきた。

小澤征爾が指揮するベートーヴェンとブルックナーをどうしても聴いておきたいと思ったからだ。

すみだトリフォニーホールにおける初日を聴いてきた。

小澤征爾は世界中どこでもすごい人気だが、案外、「アンチ」派も多い。

彼に対する批判の大半には、成功者に対する妬みが基調にあるのを感じる。いまだに、日本人のクラシック音楽演奏に対する偏見もゼロではない。

一方、彼に対する賞賛もレベルの低いものが多い。彼の誠実さ、私心のなさといった人柄のよさ、人間性への賞賛を音楽に横滑りさせたものか、日本人大リーガーに端的な、欧米で重要なポストについている日本人へのナショナリスティックな共感を表明したものが多い。これは屈折した欧米崇拝だ。

小澤征爾の音楽の価値をほんとうのところで理解している人はいまだに少数であり、特にコンサートではミーハーが多いのを感じる。

小澤征爾が札響を指揮した1974年のコンサートが35年たったいまでも忘れられない。あのころ札響に在籍していた楽員はほぼ全員退団したが、彼らに「印象に残ったコンサート」をたずねると、このときのコンサートをあげる人が多い。たった数日の練習で、まったく別のオーケストラになったといえるくらい響きが変わった。

札響にはそのころから名指揮者と言われる人たちが来演していたが、小澤征爾に比べれば大したことがないというのが率直な印象だった。



日本人演奏家以外でもすごいのがいる、というのを知ったのは1990年、死の直前、72歳のレナード・バーンスタインを知ったときだが、欧米の演奏家の多くに、わたしには理解も共感もできない独特の癖を感じることが多い。

日本人にはクラシック音楽の伝統がないことが、逆に有利に働くのではないかと、彼らの新鮮な音楽を聴きながらいつも思ったものだった。

小澤征爾のモーツァルトやベートーヴェンには、たしかに疑問を感じたことがある。モーツァルトは一本調子なことがあったし、ベートーヴェンはテンポが速い、というより走りすぎるような気がした。聴いているときはいいのだが、聴後に残るものが少なかったのも事実だ。

その小澤征爾もバーンスタインが死んだ歳を超え、70代なかばに差しかかっている。最近は日本でもヨーロッパでもブルックナーを指揮する機会が増えているような気がするが、並ぶもののない近・現代曲やチャイコフスキーではなく、クラシック音楽のメインストリームであるドイツ=オーストリア音楽でどのような演奏をするようになってきたかを知りたいと思ったのだ。

「いい指揮者」から「大指揮者」への一歩はほんのわずかの距離だが、この距離を跳躍できる指揮者というのは少ない。そして、小澤征爾はその困難さをよく知っている。その困難さを知っている彼は、そのために何が必要かを考え研磨を怠っていないはずだ。大化けする兆しを発見できるかもしれない。

その期待はほぼ満たされたと思う。

一曲目、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番が始まる。最初の音からしてしっかりと芯のつまった「ベートーヴェンの音」になっている。少しくすんだ、暗めの重たい響きだが、リズムは重くない。日本のオーケストラがこんな音を出すのを初めて聴いたが、最初の弾むような4小節のフレーズが音程を変えてすぐ繰り返されるところで、小澤征爾はほんの少しだけ音を大きくした。

このほんのちょっとの音量の変化が音楽にどれほどの奥行きを与えるかを言葉で言うのは難しい。音楽に外から何かを付け加えたり、力で音楽をねじふせるのではなく、音楽そのものの持つ力を利用して前に進む。小さめに絞り込んだ編成なのに、響きが豊かなので芳香のような気品が漂い、しかも生命力に満ちている。

この曲でこういう演奏ができるなら、モーツァルトもすばらしい演奏になるだろうと思わせた。

上原彩子のピアノも第一楽章のカデンツァがやや冗長だったほかは万全のでき。

後半、編成を巨大化してのブルックナーの交響曲第3番は、やはり最初の音から「ブルックナーの音」がしたので驚いた。前半のベートーヴェンよりもさらに重心が低く、フレーズの始まりの音が丸く厚く響く。



100人以上の楽員が同時に音を出し続けていて、一瞬たりともそのバランスが非音楽的にならない、というのは気が遠くなるほど大変なことだが、それを小澤征爾と新日本フィルはやってのけた。

木管セクションなどもう少し積極的でも、と思える部分はあったが、初日でこれだけの完成度とはすごい。

数日前、FMでメータ指揮ウィーン・フィルのブルックナー(交響曲第9番)を聴いたが、ミスが多い上に生気のない、だらしのない演奏だった。その演奏に比べて、新日本フィルの演奏のレベルの高いこと!

整理整頓の行き届いた、清潔な演奏に心を洗われたが、こうした淡白なブルックナーを好まない人も多いだろうことは容易に想像がつく。しかし、見通しのよい、流れのよいブルックナーというだけではない、また人間主義的なドラマに還元するというのでもない、まず音楽として美しく、その上に音楽の行間にあるものに語らせるという小澤征爾の行き方は、間違ってはいないし、こうした誠実な音楽作りをする指揮者というのは、ほとんどいなくなった。

小澤征爾は今シーズンでウィーン国立歌劇場音楽監督の地位を去る。オペラの雑務から解放されてどんな活動をしていくのか興味が尽きないが、晩年のバーンスタインやギュンター・ヴァントのような音楽の高みに到達するかどうかは、この演奏を聴く限りでは即断できない。



ウィーンをやめた小澤征爾がどこを活動の拠点にするのかはわからないが、もしそれが東京でもミュンヘンでも、そこへ移住するつもりだ。

これほどの大音楽家と同じ時代に生まれ合わせ、その音楽に接する幸運を逃すのは、死と同義ではないかと思うからだ。





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最終更新日  December 10, 2009 03:54:38 PM
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