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名古屋名物 ひつまぶし名古屋駅に到着今回の旅は熱田神宮・伊勢神宮の御宮参りです名古屋駅で朝食クリエイトレストランツのカフェ野菜が少し元気がない海外で食べるカリカリベーコンが懐かしい連れの朝食熱田神宮まで移動まずは昼食名物ひつまぶし神宮前の蓬莱軒さんうなぎだけでなく刺身定食などメニューは豊富ひつまぶしの食べ方①そのまま食べる②薬味を付けて食べる③出汁を入れてお茶漬けにして食べるうまき定食3300円巨大なうまきひつまぶし4600円大きなお櫃に盛り付けられる最初はそのまま食べる吸い物湯葉に焼き印①そのまま味付は薄味、有名店の味付はどこも薄味③薬味を入れてさっぱりした味になるが元々薄味なのでそこまでの変化はない③出し茶漬けにするこれは食感も変化するので面白い出汁の味もプラスされる最後はしっかり薬味をいれて食べるメニュー表にうなぎの産地記載がなかったので従業員に聞くと、皆さん分からない当分待って帰ってきた答えは 「海外産です」国名は言えないのか、わからないのか?別に美味しいくて安全ならば国は問わない店舗外観は普通の住宅風ですが中は高級感あふれる造り厨房もたくさんの料理人たぶん本場でひつまぶしは初めての体験ご馳走さまでした。熱田神宮に向かいます
2024.04.30
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広島市佐伯区 神原のしだれ桜令和6年4月2日訪問広島市内から車で30分街中から離れた山間にある有名なスポットちょうど満開の桜大きなしだれ桜が3本民家の庭先が開放されており設置された椅子に座りゆったり鑑賞空き地を開放し駐車場に広島県の南部でしだれ桜が見れるのはここだけらしい貴重な桜ランチは横川にある飯やさん店内は20席くらいですがオーナー一人で営業されているオンオペのお店メニューも豊富このお店の特徴①美味しい②ボリューム有り③炊き立てご飯特にご飯はいつ行っても炊きたてそして大盛りで提供連れはささみチーズカツこの広さのお店をオンオペ驚異的パフォーマンス繁忙時には少し時間がかかりますが皆さん美味しいご飯の為にぐっと我慢ご馳走さまでした
2024.04.29
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フィリピン マニラ 高山右近像旅の最終日は前回行った高山右近像再度訪問することにパコ駅の反対側の公園内に設置されているパコ駅前の通り中心部より少し離れているこの辺りは太平洋戦争時の戦跡が残っている地域と聞いていたが詳細は分からなかったパコ駅は無人駅丁度列車が到着機関車でしたマニラには路上生活者が多いこの辺りはあまり治安が良くないパコ公園に到着中心に高山右近像戦国時代のキリシタン大名徳川家康の禁教令により内藤如安らとフィリピンに国外追放されるこのパコ周辺に多くの日本人が暮らしていた到着したフィリピンでは歓迎されるも40日後に病気で亡くなった享年63歳 JNRIと書いてある意味は「ユダヤ人の王 ナザレのイエス」 ラテン語でINRIとかかれる事もある高槻市に設置されている高山右近像こちらもJNRI最終日の夜はオカダホテルのカジノロビー前のレストランで食事マレーシアのラクサ辛い海鮮ココナッツスープの米粉麺コクがあり美味しいロビーエントランスでビッグスターに遭遇フィリピンの英雄マニー・パッキャオさん元ボクシング6階級世界チャンピオン引退後は政治家として活躍フィリピンの大統領選挙にも出馬(落選)現役時のファイトマネーは1試合数百億円護衛など30人位を引き連れてホテル内移動高層階のVIPルームに向かっていたこの度一番の思い出になる翌朝早朝に空港着ラウンジで休憩海外のラウンジはレベルが高いフードやドリンクの品揃えが抜群に良いスイーツ炒めたミンチ肉サラダスティックサンドイッチ日本人にはうれしい牛丼セットアルコールも充実スパークリングワインも有ビールとソフトドリンク第1弾締めの牛丼エアアジアで関空まで機体に搭乗してからトラブル発生1時間待ったが動かない。結局別の機体になるとアナウンスあり一旦降りて違うゲートの待合に移動さらに1時間待ってから違う機体で無事帰国欠航にならなかっただけでもありがたい次は台湾旅行を計画しています
2024.04.26
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ロビンソンスーパーマーケットフィリピンの最も有名なスーパーの一つとくにこのお店はイオンモールのように全てが揃う巨大スーパー日本のような惣菜コーナーはなくフードコートと屋台風のお店が数店舗魚と肉のグリルのお店骨とり魚のグリルホテルに帰り実食塩コショウやトマトの酸味など効いて魚の臭みはない、骨とりなので食べやすい日本でも大人気のパパイヤ美白石鹸完熟パパイヤ、青パパイヤの2タイプ7日使うと肌が白くなると記載されている1個200円だが日本では1000円で販売されている広いフルーツ売り場モンキーバナナ1房100円次旅行に来た時は1房買って毎朝食べる事にする今回は食べなかったマンゴーパパイヤメロン黄色の食べごろメロンが上に陳列されている赤肉メロンやはり完熟した物を上に陳列カットフルーツの種類も多く安いやはりポメロが人気1パック398円綺麗に陳列された乳製品売り場日本より価格は高いカットと丸物を陳列するのは非常に分かりやすい精肉コーナー全て対面式鶏肉、豚肉の取り扱いが多い丸鶏600円むね肉、もも肉、手羽、内臓など日本と同じ様に細分化し販売豚肉はロース肉、バラ肉、もも肉中心内臓は見なかった鮮魚売り場人気は海老、価格は高いきれいな陳列だが鮮度は良くない活海老の販売元気が良すぎて場外へ飛び跳ねるロテサリーチキン800円最近は日本のSMにも導入されているところ多いモールの中にある鶴丸製麺さんで食事日本のフジオフードさん経営のチェ—ン店かつ丼も注文したがだし汁がまったくないカラカラのカツ丼、外食大手のマニュアルをもってしても現地従業員には伝わらない食事後はマカティ地区に帰りタイマッサージ2時間3000円マカティなので少し高め本場タイと比較すると少し荒い施術帰国日前日の為空港近くの安宿にグラブタクシーで移動一度は乗ってみたいジプニー本日の宿は独房タイプの部屋小さなベッド、シャワー、トイレ以外のスペースほぼなし小さな冷房と窓があるので良しとするタイだとグラブの中に3輪バイク(トゥクトゥク)が選択できるのでフィリピンでもジプニーが選択できれば面白いいつも旅行に持っていく便利グッズ現地で食べ物購入するので箸スプーンは必須東南アジアで販売されてるお茶には大量の砂糖が入っているので紅茶やコーヒーも持参毎回大活躍のアイテム歯ブラシ、ボディタオルなどは日本製の高いレベルがはっきり分かるアイテム本来はボディソープやシャンプーも持参したいが液体なので固形石鹸があれば良いちなみに小さなハサミ(眉カット)は空港で没収される確率高い。ハサミの先端が丸いタイプでも空港の検査員と揉めた(結局OKだっかが)
2024.04.23
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フィリピン サンデーマーケット土曜日のマーケットに引き続きサンデーマーケットに行ってきました場所はグリーンベルトショッピングに近く宿泊したホテルの裏側1分の所新鮮な果物売り場パインとポメロを購入レチョン子豚の丸焼き高級食材色鮮やかな花は日本の物と少し違う種類家庭料理の惣菜屋さん豚の揚物カリカリになって美味しそうインド料理サモサの揚物さすが多国籍国家巨大なソーセージ烏賊の揚物カットし揚げるので食べやすい形になる定番のバーベキュー屋台一番賑わっている一番人気の焼き魚背開きの骨とり香草焼きチキングリルのお店部位によって値段が違うむね肉とご飯セット550円を購入鮮度良い野菜以外に美味しいキューリのジュース西瓜フライ3個450円中にはフレッシュな西瓜が入っていたアメリカワシントン出身のオーナーのお店おばあちゃんのレシピらしい近くのカフェフレッシュ野菜を頂くホテルに帰り朝食チキングリルとプレーンご飯550円少し甘いタレが旨いポメロ450円毎朝少しずつ食べる日本では全体的に外皮を剥くがこちらは効率的な剥き方で最大限果肉を残すかっと方法完熟なのでどこを食べても柔らかく甘い次はマニラのパコ地区を訪問予定
2024.04.22
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グリーンモールショッピングモール友人のショッピングに同行グリーンモールショッピングセンターマカティ地区から車20分スーパーマーケットや雑貨などなんでも揃う広大なモール友人の行きたかった売り場タイなどに多い3坪位のお店が密集Tシャツやパンツなどお買い得品が並ぶもちろんコピー商品もあり値札はついていないその都度店員と交渉するシャツ1枚500円から1000円モールの中で昼食有名なチェーン店「マン・イナサル」チキンBQQのお店ハロハロ付きのコンボAセットをオーダー豚・鶏やセット物などメニュー豊富で安いコンボAセットチキンはムネ肉を選択ご飯はおかわり自由店員さんがご飯を持って店内周りますハロハロは日本人には甘過ぎるか?昼過ぎの遅い時間でしたが大量調理中、ピーク時間にはいつも満席状態友人が一足早く帰国するので空港までお見送り第3ターミナル空港に入るには入口のセキュリティに搭乗券など見せないと入れてもらえないそれだけ犯罪が多いということ関空行エアアジア無事チェックイン完了空港のフードコートで軽食ケンタッキーのチキンバーガーグレイビーソースも完備フォークなどは自分で湯煎し消毒各ターミナルを出たことろにはグラブ乗り場ありここから行きたいホテルなど設定すると乗車場所に迷う事なくドライバーが到着します。明日はサンデーマーケットに出かけます
2024.04.21
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マカティのサタデーマーケットマカティの街中で毎週行われているサタデーマーケット滞在時には必ず訪問する市場治安のよいマカティ地区公園や緑が多く朝からジョギングする人も多い公園を中心に道路にも露店が出店ピザ屋さん1枚700円前後お客さんの支払いはほとんどキャッシュレスカラフルなフルーツ巨大なジャックフルーツ一番人気はポメロ1パック450円ポメロは旅行中必ず購入するフルーツ酸味と甘味のバランスが良い2重焼きも人気教会(キリスト教)のお供え物?シーフードはどの国でも高級品炭火で焼かれた海鮮類骨とりの焼き魚はどこでも販売されており大人気ですトマトや香草類を加えて焼く豚の丸焼きレチョンも人気料理スペイン統治時代からの料理か?いつも賑わっている洋風料理屋台イタリアやフランス料理のお店写っているのがオーナーさんケイタリングやデリバリーのお店を経営明日開かれるサンデーマーケットにも出店される見事なキッシュいつもの定番場所に構える木工製品屋さんフィリピンのスイーツタイ料理のお店パッタイを作っている人気の屋台、容器も良い薄くなく上部でタッパーほど重くない蓋もしっかりしており液漏れしない市場からの帰り道に朝食「パンケーキハウス」フィリピンのチェーン店パンケーキを中心に一通りのメニューが揃っているこの日はワッフルとコーヒー友人はミックスサラダ的な商品明日はサンデーマーケットに行きます
2024.04.20
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フィリピン旅3日目は太平洋戦争の戦跡巡り①日米の激戦地となったパターン半島②死の行進と言われるパターン半島からの移動③最初の特攻作戦が行われた航空基地上記3カ所をチャター車で巡ります10時間4万円(本来は3万円だが移動距離が長いため)マニラのマカティから出発治安の良いオフィス街路上の屋台を利用するとリーズナブル、現地の方はこちらで朝食、昼食を購入スイーツの販売1カット70円歴史の復習1941年12月8日日本軍は南方イギリス領マレー半島アメリカ領フィリピンなど戦闘開始これが太平洋戦争の始まりで南方侵攻は真珠湾攻撃より2時間早かったフィリピンの作戦にあたったのは本間雅晴中将を司令官とする第14軍台湾から陸軍航空部隊によるフィリピンの米軍基地を破壊。12月10日には上陸作戦を開始南北から首都マニラに進撃米軍司令官ダグラスマッカーサーはマニラを無血開城しバターン半島に撤退(一部はコレヒドール島基地)させる最初にマニラから車で3時間バターン半島の激戦地サマット山にある資料館に向かいます。バターン半島には様々な資料館や記念碑がありますマニラから3時間サマット山と十字架が見えてきましたバターン半島は平地が多いためこのような山を使い基地を作り戦った。受付を済ませ注意事項のレクチャーを受けたあと入場できます。受付にあったトイレは旧式巨大な十字架は92mの高さエレベーターがあり登る事が出来るが。十字架の周りにはきれいな花コレヒドール島方面を望む開戦時フィリピンではバターン半島に後退した米比兵の合計は8万名を超えるこの兵力を養う食料も1月分しかなかった この日は資料館もお休み外壁の修理中でした攻める日本軍も広いバターン半島に苦労し食料などの補給物資もままならない状況であった。ここに陣地を構えた米比軍に日本軍が砲撃する壮絶な戦いの場であった修復中の資料館平地を見渡す山頂当初は米比軍が有利に戦ったが日本軍の援軍部隊もあり1942年4月9日にバターンの米比軍は降伏降伏後の投降した米比軍の数7万5千人、食料もなく衰弱し病気や負傷した兵士たち。投降後日本軍は収容所があるカパスまでの移動を決める。バターン半島から鉄道があるまでのサンフェルナンドまでの80kmを徒歩で3日から4日かけて移動させた。これ事が「死の行進」と呼ばれ戦後本間中将はじめとした将校が戦犯として処罰される事となるこの行進で多くの米比兵士が亡くなった徒歩での移動距離が1日20km~30kmの行軍なので当初は問題ないと考えたが米比軍兵士はそもそも衰弱しており次々と倒れていった日本軍兵士の虐待もあったと報告されている。その後フィリピン最後の米比陣地であるコレヒドール島も陥落1942年5月7日日本軍はフィリピン全土を掌握するちなみに米軍が降伏する前に司令官であったマッカーサーは家族を連れてオーストラリアに逃げている。しかも部下を昇進させ司令官として責任を擦り付けた敵前逃亡であり、もし日本が最終的に戦いに勝っていたら戦犯として処刑されていたであろう。名誉回復の為に逃げた写真は残さないが再上陸した写真などは演出付けて撮影し拡散させた(現代でも通用する手口)フィリピンに再上陸するマッカーサー1944年10月20日レイテ島次にむかったのは終戦間際に特攻攻撃が最初に行われた地「マバラカット」に向かいますサマット山から車で約2時間の距離「死の行進」とほぼ同じルートマバラカット視察(特攻基地)では事前調べで時間の許す限り色々周る予定です。交通ルールは存在しない一般道ではどこも渋滞するバターン半島から2時間日本の特攻隊基地(飛行場)があったマバラカットまで来ました最初に訪れたのは東飛行場跡神風飛行場の案内板この慰霊碑は元々マバラカットに暮らしていたフィリピン人ダニエル・H・ディソンさんが1974年に東飛行場跡に建てたのが始まりディソンさんは幼少期この飛行場が遊び場であった、そこで日本の特攻兵(搭乗員)かわいがられた。成人したディソンさんは特攻隊の事を知りマバラカットに特攻隊員たちの慰霊碑を建て顕彰したいと考え地元の反対を押し切って記念碑を完成させた。ディソンさんの慰霊碑は火山噴火により消失現在の慰霊碑はマバラカット市が再建した鳥居の奥に特攻飛行兵の像特攻神社昭和19年10月20日大西瀧次郎中将の発令により神風特別突撃隊(しんぷう)が編成されました。大西瀧次郎中将最初に発令したのは大西中将だが陸軍、海軍ともに特攻兵器は既に開発されており誰が最初に特攻命令を発するかであった。この像は俳優の故今井雅之氏が寄贈今井氏は神風特攻隊をテーマとした「ザ・ウインズ・オブ・ゴット」の作者であり役者も務めた。平和の祈りが書かれた碑まだ新しい敷地内は綺麗に掃除されていた管理人が毎日清掃しているのではないか?次に向かったのはマバラカットに近いバンバンの丘にある第一、第二航空艦隊司令部壕昭和19年11月中旬マニラからこの地に移された。ここの入り口には鳥居と大西瀧次郎記念碑その奥に司令部壕が広がっている。私有地なので管理人が案内してくれる(1人100ペソ)大西瀧次郎平和記念碑綺麗に管理されていた管理人は盆栽が趣味バンバンの歴史協会の有志が横浜市鶴見区にある大西瀧次郎のお墓を模して手作りで建てた日本から持参した線香 合掌慰霊碑の奥にある司令部壕跡管理人が懐中電灯を持って案内していただいた。当時は柱など補強されていたのだろうが現在はむき出しの状態で深い楯穴もあり大変危険な司令部壕足元もかなり悪い壕から出たところ大西瀧次郎記念碑と赤い鳥居綺麗に管理されている事に感謝次に向かうのはマバラカット西飛行場跡マバラカット飛行場に近い河川敷ここで特攻隊員とちの決別の水盃が行われた敷島隊の水盃が行われた河川敷関行男大尉や大西瀧次郎中将昭和19年10月20日飛び立つ前日大西瀧次郎記念碑から車で10分マバラカット西飛行場跡に到着ここ西飛行場は神風特攻特別隊が最初に飛び立った地昭和19年10月21日午前9時関大尉率いる敷島隊はゼロ戦に250kg爆弾を装填し飛び立ったが3日間は米国艦船軍を発見できずにいたが10月25日午前7時25分再び離陸、午前10時52分ついにレイテ湾タクロバン沖に米艦船団を発見、関大尉は最初に敵空母のセイント・ローに突入し撃沈しました(25日に飛び立ったのは東飛行場)慰霊碑の周りは綺麗に掃除されていたまた少し前には生花も献花された跡も西飛行場跡に慰霊碑を建立したのもフィリピン人のディソン氏のグループ最初に特攻隊が飛び立ったのは西飛行場最初に突入したときに発進したのが東飛行場ここでも線香して合掌今は射撃場の敷地内にあり許可がないと入れないエリア、この日はゲートの守衛が不在で問題なく入る事ができた。銃声がパンパン聞こえる中での訪問(かなり近い)少し怖い場所慰霊碑の横には洞窟があります特攻隊のパイロットはこの穴の中で寝泊まりしていた今にも崩れそうな穴ですが約80年前この壕の中に特攻隊員たちが待機していた遠くに見える山は「アラヤット山」あの山の先が敵艦船がいるレイテ湾方面、パイロットたちは離陸後アラヤット山を目指した現在日本軍が撤退した後もアメリカ軍のクラーク基地として長く運用されている火山噴火により一時的にフィリピンに変換されたが2012年よりアメリカ軍とフィリピン軍の基地として再利用されている。クラーク博物館を訪問アメリカの基地としてベトナム戦争では重要な役割を果たす拠点となった。山下奉文将軍フィリピンの法廷での写真か?当時使用していた武器特攻攻撃が始まった場所マバラカット飛行場からと飛び立った特攻隊員たち最後に向かったのは旧サンフェルナルド駅バターン死の行進ではバターン半島から80km離れたこのサンフェルナルド駅まで歩かなければならなかった。現在は資料館として公開されているがこの日は工事中で閉鎖中道路?鉄道?の高架工事サンフェルナルド駅近くにあった記念碑死の行進についての説明プレート太平洋戦争時フィリピンでの日本人戦死者52万人、そのうち37万人の遺骨が日本に帰ってきていない。今回の旅では下記の場所を訪問①バターン半島の戦場②バターン死の行進③マバラカットの特攻隊飛行場このような歴史の事実を知ると平和がいかに大事かが理解できる平和を守るために歴史の事実を知る事伝えることのためにも今後も様々な戦跡を訪問しようと考えている。国や学校やマスコミなどが発信しない歴史の真実を。
2024.04.19
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内藤ジョアン(如安)の記念碑を訪問内藤ジョアンは戦国時代から江戸時代の武将本名 内藤忠俊(ただとし)は17歳の時キリスト教に改宗、ジョアンは洗礼名丹波国(兵庫)の領主からはじまり九州の戦国武将小西行長に仕えたあと加賀藩の前田家に客将として迎えられる加賀では同じキリシタン大名の高山右近と出会い、家康の禁教令後は右近と共にフィリピンマニラ追放された。マニラパコ地区にある「ビンセント・デ・ポール・パリシュ教会」近くには高山右近の銅像もある当時は何千人もの日本人が暮らしていた地域学校などの大きな建物の間にある教会1600年代にはこの辺りに日本人街が広がっていた。荘厳な雰囲気の教会内信者の方が数人お祈りされていたこれが現在の内藤ジョアンの記念碑(終焉の地)根本から折れている。2002年にジョアンの出身地にある丹波(兵庫)の八木城跡と同じ記念碑をここに建てられた。12年間マニラで暮らし76歳で亡くなったマニラに人々に敬愛されたと書いてある壊れる前の記念碑(資料より)ジョアンの出身地である八木城跡マニラと同じ記念碑が建っている(資料より)内藤ジョアンの兜は十字架記念碑の修復を願います次に向かったのは近くのリサール公園国立歴史博物館があったので入場した(無料)館内最初に出迎えたのはホセ・リサール5階建ての立派な博物館中はフィリピン古代からの生き物など展示館内から出てヤシの実ウオーターを購入1杯150円ホセ・リサール記念像フィリピンの英雄はこの眠っているフィリピンの国民的英雄 ホセ・リサール(1861年6月19日~1896年12月30日35歳)医師であり革命家、フィリピンの独立運動の指導者スペインの植民地政府当局により逮捕、軍法会議にかけられ銃殺刑となる。日本で例えると坂本龍馬のような存在、今でも国民的英雄として学校教育でも伝えられている年中赤や黄色のハイビスカスの囲まれるホセ・リサールはアメリカ渡航中の中継地として日本を訪問。写真は日比谷公園内にあるホセ・リサール像(令和6年2月訪問)リサールは日比谷にあった東京ホテルに宿泊している数日の滞在予定であったリサールだが臼井勢以子さんという日本人女性と出会い恋に落ちる2人は日本各地を旅行するなどリサールは数か月間日本に滞在した臼井勢以子さんの肖像画マニラサンチャゴ砦内にあるリサール資料館に展示(現在は展示されていない)臼井勢以子さんとの関係が明らかになったのはリサールが亡くなった後遺品の中から勢以子宛の手紙などが発見されてから分かった事臼井勢以子さんはリサールと別れた後イギリス人の英語教師と結婚されます当時では遅い30過ぎてからの結婚またリサールが処刑された翌年の事勢以子さんは最後までリサールを待ってたのではないか?東京にある臼井勢以子さんのお墓(令和6年2月訪問)明日は日米の激戦地であったパターン半島に行きます
2024.04.01
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