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宮沢賢治の作品は、何作かは目を通したことがあるが、多くの人が言うような衝撃を受けたことはない。それよりも、「雨にも負けず」だな。これは、毎日とは言わないが、週に数回、仏壇の前で声に出して唱えている。文章を書く仕事をずっとやってきながら、文学とか詩とかよくわからないぼくだが、「雨にも負けず」の深さは感じる。ぼくも。そういう人になりたい。何年も前に買った本。読まずに段ボールの奥で見つけた。「銀河鉄道の父」。直木賞を受賞した作品で、読むのを楽しみにしながら、埋もれてしまっていた。お父さんもそうだが、宮沢賢治も人間的でいい。すごい作品を残した聖人君子ではなく、世間知らずで、あれもしたい、これはどうだろうと、道を迷いさまよっている賢治がいい。親にお金を無心して、「こいつ、大丈夫だろうか」と心配される。20代後半まで、ふらふら生きていた。ぼくのような凡人にも親しめる若者だ。3分の2ほど読んだが、文章を書く宮沢賢治はあまり出てこない。妹のトシに文才があると見込んで、しきりに「小説を書け」とすすめるくらいだった。トシが病に臥せっているときに「風の又三郎」を、妹のために書いたそうだ。トシが亡くなり、そこから文筆業に入る。経済的には父親が援助したのだろう。評価はされていたが、売れないのだから仕方ない。父親が助けないと、宮沢賢治という名前はとうに消えてしまっていただろう。26歳から本格的に童話を書き始めて、37歳で亡くなった。約10年の文筆家生活だ。彼が残した作品のファンはたくさんいる。いい仕事をして旅立っていった。雨にも負けず。からだ、こころ、いのち。たぶん、彼が傾倒した法華経の世界を通して、人間の本質まで深めていく中で、自分の理想を語った詩だと、ぼくは思っている。最後がいい。「そういうものに私はなりたい」この一行がないと、「人間はこうあるべきだ」という説教くさい話になってしまう。至らぬ自分をよく知っている。でも、理想を追求したいという思いも伝わってくる。一途で謙虚で夢があって、目に見えない世界こともよくわかっていて、いい男だなあ。
2026年09月07日
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地球の浄化というのはこういうことなんだと思わされる毎日だ。浄化というと、きれいになるからありがたいことなのだが、その過程がきついと言われている。長く患っている病気だと、良くなっていく途中に、痛みが出たり苦しかったり、悪くなっているのではと不安になるような反応が出ることがあるそうだ。東洋医学では「好転反応」「メンケン反応」と呼ばれているが、治療を始めると、一時的に症状が悪化したような反応が出たりする。好転反応なのか、本当に悪化しているのか、見極めは簡単ではないが、一度悪くなって、それから一気に回復していく例は珍しくないらしい。地球も、もっと快適な惑星になるために、こんなにも災害が起こったり、異常気象になったりしているのかもしれない。今の災害、異常気象がどれくらい重度なものなのか。何万年か前には氷河期があった。ノアの方舟伝説では、150日で地球が水に覆われてしまったと言われている。それに比べれば大したことはないと言う人もいるが、長い地球の歴史に比べて「人生100年時代」と浮かれている現代人の短い物差しからすれば、これまで体験したことのない世界レベルでの大変動ではないだろうか。もうギリギリのところまできている。このまま進めば、ノアの方舟レベルの地球リセットになってしまう。今夜も関東地方、東北地方では豪雨になるとの予報。この間の千葉の豪雨並みとニュースで言っていた。強烈なダメージを受けた千葉で、また同じくらいの雨だったらどうなってしまうのだ。前回、被災された人たちはどんな気持ちでひと晩を過ごすのだろう。被害がないことを祈りたい。ぼくの住んでいる三重県も線状降水帯が発生する予報が出ているが、鈴鹿は普通の雨。いつどんな状況になるかわからないので、油断せずに過ごしたいと思う。まずは対症療法で今を乗り切り、次は根本的な解決はないものか、考えていかないと。人間のライフスタイルや考え方に原因があるように、ぼくは思うなあ。
2026年09月06日
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飲食業のビジネスモデルが変わった?くら寿司にたくさんのお客さんが集まっている。長女に付き合って、お昼ご飯に行ってきた。なぜくら寿司なのか。今、爆発的にはやっている「ちいかわ」というアニメとコラボしているからだ。長女はアニメ好きで、ちいかわのグッズがもらえるというので必死なのだ。寿司がおいしいとかまずいとか関係ない。くら寿司は開いたお皿をテーブル横に細長い穴に放り込んでいき、5枚ごとにゲームができて、当たるとフィギュアやら缶バッチやらが丸いプラスティックのケースに入って出てくる。今日はちいかわグッズの日。アニメマニアにとっては、貴重なチャンスなのだそうだ。さらに、食べた金額によって、特殊なグッズももらえる。今日はちーかわのコップ。どんなものかはわからないが(ぼくは興味がない)、3000円で一個だとか。「5個ほしい」長女が子どものような表情で言う。3000円で5個ということは1万5000円。妻も次女もつき合わされたから4人で1万5000円のランチか。支払いはぼくの役目だし。これから倉庫を改装したり、いろいろ物入りなのにと、ぼくは思ってしまう。コナン君とのコラボのときもつき合ったしな。今年3回目だぞ。だけど、31歳の娘があんなにも無邪気な顔で、「ちいかわ」「ちいかわ」とのたまわっている。行列ができることはわかっている。だから、早めに出かけないといけないので、朝からヤギや犬の世話をがんばっていた。そんな姿を見ていると、ついつい甘い親になってしまうのだ。長女が早めに並んでくれたので、開店してすぐに席に案内してもらったが、どんどんお客さんがやってきて、すぐに駐車場は満車になった。くら寿司ばかりではなく、大手のチェーン店の多くが、アニメとのコラボで人を集めている。飲食店が食べ物ではなく、アニメで勝負しているのが現状だ。その策略に客はまんまと乗せられてしまっている。「こんなことでいいのか」とあきれてしまう。地震や洪水で困っている人がたくさんいるのに、フィギュアが出ただの、コンプリートできただの、たかが回転寿司に1万円も2万円も使うのは、「愚かじゃないのか」そう思ってしまうのだ。ぼくのように子どもにねだられてしぶしぶ来ている親御さん、じいさん、ばあさんもいるんだろうな。ぼくも愚か者だ。物価が高いと嘆く前に、企業に踊らされない賢い消費者にならないとと、今日のランチではつくづく感じた次第だ。「こんなのは年に一度にしような」長女にポツリと言い残して、ぼくは早めに店を出た。
2026年09月04日
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こんなことやろうと娘たちが言い出して1年半ほど。去年の今ごろは、業者に相談したり、補助金の申請に動き回ったりしていた。銀行にも相談した。自分たちがやりたいことをやろうとすると、どうあっても資金は足りない。補助金も簡単に降りるものではない。銀行もうちのような業績のない会社にお金を貸してくれない。さらには行政の壁が立ちはだかる。うちの土地はすべて市街化調整区域。商売をするにはさまざまな規制をクリアしないといけない。次女が何度も市役所へ足を運び、交渉を続け、書類を集めたり、建築設計士や行政書士にも動いてもらって、やっと許可が下りた。動かせる資金の中でどうすればいいか、家族で知恵を絞った。そこでたどり着いたのは、亡父が作った倉庫を改装しようという案だった。2階建てにして、犬たちが遊べればいい。外にドッグランを作ろう。キッチンカーを置いて飲食ができるようにする。小さな村だ。人が来てくれるかどうかわからない。本当に商売が成り立つのだろうか。しかし、ぼくたちの根底にはこの村をにぎやかにしたいという理想がある。利益を出すことも大事。あえて二兎を追ってみようと、娘たちも言ってくれた。この間、村のお寺でイベントをしたら、30人以上の人が集まってくれた。自信になった。こんな田舎でも、やり方次第で人は集まってくる。田舎であることが、逆に武器になることだってある。これは面白いチャレンジだと思う。いよいよ工事が始まる。思わぬことがいっぱい起こってきて、予定通りは進まない。3ヶ月遅れのスタート。何をするにも、想定外のことに上手に対応しながら、牛歩でいいので進めていくしかない。来年の1月にはオープンするつもりだ。ぜひ、のぞきに来ていただきたい。
2026年09月02日
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石川・富山の次は福井が豪雨に見舞われた。大野市も被災したとニュースで聞いて、妻は気が気でなかった。知り合いがいるわけではないけれども、父方のご先祖様は、北澤という名字だが、大野市に住んでいたようなのだ。妻は札幌で生まれ育った。北海道は移民がほとんどで、妻の何代前だろうか、福井から船に乗って、日本海を渡ってきたようだ。札幌ではなく、様似というところに住み着いた。妻の父はご先祖様のことをいろいろ調べていて、立派な家系図も残していった。毎年のように大野市を訪ね、お墓を見つけ、埋葬されている人の名前や戒名を刻んだ墓誌を新しくした。先祖孝行な人だった。父の晩年、妻や娘たちは父を連れて、お墓参りに行ったりしていた。だれにでもご先祖様はいる。さまざまな時代に、どんな日々だったかはわからないけれども、オギャーと生まれて、母親のおっぱいを飲んで、大人になって、仕事をして、子どもを育てて、病気をしたり、怪我をしたり、リッチになったり、貧しさに苦しんだり、悲しみ、喜びもあって、年を取って、あるいはまだ若いうちに人生を閉じる。善人だったか悪人だったかはわからないが、さまざまな人生ドラマの中で何十年かを生きたご先祖様がいたからこそ、自分がここに存在している。これはスピリチュアルな話ではなく、事実としてあったことだ。自分の人生は生まれたときに始まったわけではない。何千年も前から、小さなタネがまかれて、それが育って、一生をまっとうし、またタネが育って・・・というドラマの一コマとして、今の何十年かがある。ご先祖様はどんな人だったのだろう。どんな一生だったのだろうか。ぼくは興味があって、想像を巡らしている。ご先祖様のことを、孫たちにうれしそうに話していた義父の気持ちがよくわかる。大野市のお墓、水没してないといいが。
2026年08月31日
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父親がよく言っていた。「百姓はアホでもできるんや」百姓をしながら百姓をバカにしていた。だから長男であるぼくには田んぼや畑の仕事を手伝えとは一切言わなかった。よーく頭に残っている子ども時代の思い出がある。父親が畳の上に両手いっぱいの大豆をバラバラと置いた。そこから3粒をつまんで横に取り出す。「あのな。ここにいっぱいの大豆があるけど、偉いのはこの3粒だけや。あとはしくた(出来損ない)や。お前は勉強してこの3粒にならなあかん」ぼくにはあまり興味のない話だったから、「ふーん」と聞き流していたが、今でもあの場面をしっかり覚えているということは、ぼくの生き方に影響を与えた言葉だったかもしれない。人と少しだけ違う生き方をしようとしてのは、まともな世界ではとても3粒に入れないことを自覚していたからかもしれない。3粒はたぶん、父自身の夢だった。父は8人兄弟の6番目四男だった。しかし、長男は戦死、次男は早逝、三男は養子に出されたので、父が農業をやるしかなかった。父は嫌だったようだ。姉に頼み込んで猛勉強をした。優秀な姉だったようだ。嫁に行って出産したあと結核を患い若くして逝ってしまった。祖父にも、「俺は勉強をしたいんや。上の学校へ行かしてくれ」頭を下げた。「お前は百姓をしたらええんや。百姓はアホでもできる。学校なんか行かんでもええ!」そのひと言で父の夢はついえた。「百姓はアホでもできる」父の頭に強烈に残ったのだろう。お酒を飲んでいい気分になると言っていた。「俺にもっと学歴があったら偉い人間になってたぞ」政治家にでもなりたかったのだろうと、生前の父の言動からは想像ができる。四男なのに家業を継がなければならなかった身を嘆きつつ、自分ができなかったことを息子に委ねることにしたのだと思う。ぼくは3粒にはなれなかったけれども、おかげさまで面白い人生を歩ませてもらっている。父に伝えないといけない。今、田舎へ帰ってきて思うのは、百姓というのは尊い仕事だということ。朝早くから畑や田んぼで汗を流しながら働いているおじいちゃん、おばあちゃんが、神々しく見えてくる。本来の人間の姿ではないかと思えてくる。お金も大事だけれども、命を支えているのは、祖父や父が言った「アホな」百姓たちや。ぼくはアホにもなれへん。あと10年がんばってアホになろうと思う。
2026年08月29日
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三女と畑に行った。彼女も変わっている。「も」と言ったのは、我が家の場合、三姉妹みんな標準的な生き方ができないから。子どものときから勉強はしないしできない。受験勉強、就職活動、ほぼやったことなし。普通の高校には入れるがずがない。長女、次女は都立のチャレンジ校。不登校の子でも進学できるようにと、内申書も学力試験もなく、試験は面接と作文。願書と一緒に提出している志願申告書も点数がつく。長女は中1から学校へ行っていない。高校は同じような子が多かったので居心地が良かったのだと思う。生徒会活動を積極的にやったし、都の弁論大会にも出て、いい賞をもらった。次女は不登校ではなかったが、とにかく勉強嫌い。「勉強しなくていい学校」「校則が緩い」ということでチャレンジ校を選んだのだ。勉強しなくていい学校ではないが、不登校だった子が多いのでどうしてもハードルは低くなる。彼女にとってはとても都合のいいことで、アルバイト中心の高校生活だった。三女の話。彼女も勉強はさっぱりで学校もあまり行かなかったが、小学校のときから障がい者福祉に興味があって、生徒の半分は自閉症という高校に入った。希望して入った高校だったが、誤算だったのは、自閉症や不登校という落ちこぼれた子どもを、社会に適応できるように熱血教育するという正義感を持った学校だったことだ。「障がいがあっても楽しく生きられるし、必ず何らかの能力があって、それを生かすことができるはず」小学校のころからの彼女の信念だった。彼女自身、不登校だったが、不登校だからと言って、かわいそうな子ではないという思いもあった。自閉症の子たちと友だちになって、楽しく過ごせると思っていた。自閉症であろうと不登校であろうと、せっかく個性をもって生まれてきて、それを生かしていこうと思っているのに、現実という型にはめようとする教育には反発を感じた。「自分が正しいと思うことをやればいいよ。違うと思うことは反面教師にすればいいさ」父親の慰めに効果があったのかどうかわからないが、モヤモヤを抱えながらも卒業した。卒業後は、自宅近くの障がい者福祉施設で2年間アルバイトし、一人暮らしがしたいと札幌の専門学校へ入った。その後4年間、豊田市にある施設で働き、この3月に退職して、今は鈴鹿に住んで三重県農業大学校へ通っている。彼女が目指しているのは、有機農法、自然栽培による農業と福祉を組み合わせた農福連携。豊田の施設は、その最先端を行くところで、いい勉強になったようだ。いわゆる健常者、障がい者が一緒になって作物を作り、みんなで収穫物や販売した収入を分け合いながら楽しく暮らしていくのが夢だ。障がい者など社会に適応できない人が、社会に合わせるのではなく、自分ができることを大切にし、できないことはまわりから手助けしてもらいながら生きていくという社会。彼女が作り上げようとしているコミュニティではそれが許されるし、小さな世界で楽しく生きられればいいじゃないかという考え方だ。その第一歩として、畑をやり始めた。ぼくの母親が野菜を作っていた畑だ。どんな農業をするか、試行錯誤している。段ボールを敷いて、その上に堆肥を乗せてタネをまいたり、苗を植えたりする、「ノーディグ農法(耕さない農法)」にピピッとくるものがあったらしく、今日からチャレンジを始めた。ぼくはお手伝い。三女が施設を作ったら、ぼくはそこで働かせてもらうつもりだ。
2026年08月28日
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今、我が地元で大地震が起こったらどうなるだろうか?昔ながらの家は頑丈に作られているだろうが、屋根は重いし、2階建てとなるとあの強烈な揺れに耐えられるのだろうか。わが家は平屋だから、何とか持ちこたえてくれるのではないかと思うが、倒壊する家も何軒か出る危険性はある。崖崩れもあるかもしれない。村の東西北三方向は竹やぶ。急な下りの斜面になっている。竹は根が浅いしつながっているので、崩れ出したら一気にもっていかれる。わが家を含めて、斜面に近い家が何軒かある。北側には田んぼにつながら坂道がある。ここも危ない。下に向かって右側が上りの斜面。左側が下り斜面。両面ともに少しずつ崩れてきている。斜面には竹が生えていて、ここも崩れ出したら道は通れなくなる。まだ南側の道路があるから村が孤立することはないだろうと思うが、揺れによる被害はそれなりに出るだろう。そのあと、避難場所はどうすればいいだろうか。村にも公民館があるが、古くて、あそこに逃げるなら自宅にいた方が安全かもしれない。お寺もある。ただ、立派なものを作った分、屋根が重い。太い柱が支えているが、堪え切れるだろうか。歩いて10分ほどの小学校に向かうのが一番いいかもしれない。わが家は動物たちがたくさんいるので、避難するわけにはいかない。職人だった父親が、「この人なら信頼できる」と見つけた大工さんが作ってくれた家だ。大地震に耐えてくれることを信じて、ここで過ごすことになるだろう。災害は地震ばかりではない。今日は石川県、富山県が豪雨に見舞われている。テレビで見ると、孤立している集落もあるようだ。あんな大雨になったらこの村はどうなるか。雨による浸水被害は比較的少ないだろう。標高27メートルほど。水害には強い地域だ。しかし、地震と同じでがけ崩れは要注意。ライフラインも安心していられない。電気は、わが家のソーラーが壊れなければ、少しは役立つだろう。一軒に一台、ソーラーパネルを設置して、直接電気がとれるようなことも必要かもしれない。水はどうだ。村の中で生きている井戸はひとつだけ。南の田んぼにもいくつかの井戸がある。しかし、ポンプでくみ上げるわけだから、停電すると出なくなる。田んぼの井戸には昔ながらの手動のポンプをつけた方がいいか。トイレは、男性はヤブの中ですませばいい。女性はそういうわけにはいかない。雨水を貯めておいて、水洗トイレ用に使えばいいか。食べ物は?みんなでシェアする。煮炊きするエネルギーは薪がまわりにいくらでもあるので大丈夫。今や、日本中、世界中が災害だらけだ。「このあたりは安全だ」と根拠のない自信は通用しない。備えあれば憂いなし。地域全体の防災意識を高めておかないといけない時代に突入している。
2026年08月27日
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ぼくはあまりテレビを見ないが、日曜劇場だけは妻や娘たちと一緒に楽しんでいる。今は話題の「VIVANT」。だれが味方でだれが敵か。どんでん返しがあちこちに仕掛けられていて、その謎解きをするのが面白い。もっとも、ぼくは話の展開についていくのがやっとで、娘たちに「これはどういうこと?」と質問しながら見ている。「静かにしてよ」「コマーシャルになったら解説してあげる」このごろうっとおしがられていて、翌日にTVerで見直すようになった。2回目で「なるほど」と理解できる。この間の放送で、πみたいな人間だという言い方があった。πというのは円周率。3.14…と無限に続く無理数だ。πみたいな人間というのがどういう意味か、これはまた娘に聞いてみるが、ぼくは無理数について、ずいぶん前から疑問に思っていることがある。直径✖️円周率で縁の直径が求められる。直径は有理数だ。有理数に無理数をかけたらどうなるか。無理数になると思うのだがどうだろう。つまり円周は無理数となる。でも円周というのは、きちんと始まりと終わりがあって、無理数ではないと思うのだが、ぼくにはこれが理解できない。直角三角形の辺の長さ。90度、60度、30度の三角形だと、辺の長さの割合は、1:2:ルート3と習った。ルート3は無理数。辺の長さには始まりも終わりもある。◯◯センチときちんと測定できるじゃないか。無理数であるはずがない。そんなふうに思ってしまうわけだ。工学部出身なのだが、理数系が苦手で、ライターという仕事を長くやってきた。三角関数もルートも卒業してから70歳の今まで使ったことないのだが、ひょんなことから、工業高校の定時制の非常勤講師をすることになり、生徒たちに数学やら物理の基礎的なことを教えていて、「あれっ」と思うようになった次第だ。別に有理数、無理数のことなど知らなくても生きていけるが、VIVANTを見ていて、そう言えばと疑問がよみがえってきた。どうでもいい話、失礼しました。VIVANTは面白いよ☺️
2026年08月25日
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フィギュアスケートのリクリュウペアが婚約したそうだ。オリンピックの逆転劇はすごかったな。ショートプログラムで失敗したリュウ。慰めるリク。フリーでの完璧な演技。滑り終わった後の抱擁。ドラマと感動がよみがえった。日本中の人が、「あの2人、結婚するんじゃないか」と予感したし、「結婚するといいのに」と願ったのではないか。ぼくはそうだった。きっと幸せな家庭を築いてくれることだろう。ぼくが結婚したのは35年くらい前だ。結婚式のときだったか、ぼくの母が妻の母に「よろしくお願いします」とあいさつをした。そのとき妻の母はどう返したか。「いつまでもちますやら」ぼくは直接聞いたわけではない。母が戸惑った顔をして、「こんなこと言われたんやけど」と教えてくれた。「面白いことこと言うなあ」ですませたが、結局、どういう意図でそんなことを言ったのか、聞くことはできなかった。ぼくが頼りないと思ったのか。長続きしそうなカップルに見えなかったのか。妻が家庭にあっさりおさまるタイプだったからか。親に不安を抱かせるスタートだったが、何とか35年ももっているのだから、義母もあちらの世界で喜んでくれているのではないか。山あり谷ありの35年だったけれども、まあまあの二人三脚だった。あと10年か20年か、憎まれ口を叩きながら過ごしていくのか。そうそう、初めてのデートは浅草の花やしきだった。ディズニーランドよりも花やしきの方が好きだというセンスの人がぼくの好みで、彼女もそういう人に違いないと決めつけて浅草に連れて行ったのだが、実はディズニーランドが大好きで、ずっと恨み言を言われ続けている。夫婦にすれ違いは付き物。それでも長く夫婦でい続けるのも、ひとつの修行であり、成長の糧となるのである。リクリュウペアの婚約のニュースを聞いてあれこれ昔のことを思い出した次第だ。末長くお幸せに!
2026年08月24日
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フィギュアスケートのリクリュウペアが婚約したそうだ。オリンピックの逆転劇はすごかったな。ショートプログラムで失敗したリュウ。慰めるリク。フリーでの完璧な演技。滑り終わった後の抱擁。ドラマと感動がよみがえった。日本中の人が、「あの2人、結婚するんじゃないか」と予感したし、「結婚するといいのに」と願ったのではないか。ぼくはそうだった。きっと幸せな家庭を築いてくれることだろう。ぼくが結婚したのは35年くらい前だ。結婚式のときだったか、ぼくの母が妻の母に「よろしくお願いします」とあいさつをした。そのとき妻の母はどう返したか。「いつまでもちますやら」ぼくは直接聞いたわけではない。母が戸惑った顔をして、「こんなこと言われたんやけど」と教えてくれた。「面白いことこと言うなあ」ですませたが、結局、どういう意図でそんなことを言ったのか、聞くことはできなかった。ぼくが頼りないと思ったのか。長続きしそうなカップルに見えなかったのか。妻が家庭にあっさりおさまるタイプだったからか。親に不安を抱かせるスタートだったが、何とか35年ももっているのだから、義母もあちらの世界で喜んでくれているのではないか。山あり谷ありの35年だったけれども、まあまあの二人三脚だった。あと10年か20年か、憎まれ口を叩きながら過ごしていくのか。そうそう、初めてのデートは浅草の花やしきだった。ディズニーランドよりも花やしきの方が好きだというセンスの人がぼくの好みで、彼女もそういう人に違いないと決めつけて浅草に連れて行ったのだが、実はディズニーランドが大好きで、ずっと恨み言を言われ続けている。夫婦にすれ違いは付き物。それでも長く夫婦でい続けるのも、ひとつの修行であり、成長の糧となるのである。リクリュウペアの婚約のニュースを聞いてあれこれ昔のことを思い出した次第だ。末長くお幸せに!
2026年08月24日
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東京、埼玉で豪雨だった。今日も不安定な天気らしい。この間は千葉で大変な豪雨被害があった。30年以上、埼玉や東京に住んだ。やっぱり、関東で災害があるというのは気になってしまう。ぼくは今、生まれ故郷の三重県に住んでいる。三重県でも集中豪雨はあるのだが、わが家の近くはほとんど雨が降らない。うちの周辺に広がる田園地帯は、収穫が終わりつつある。今年も米は豊作らしい。値段は下落しているようだが、春から大事に栽培した米だ。高い安いも重要だけれども、我が子の健康を願う親と一緒で、自分が作った米がきちんと収穫できた喜びは格別のようだ。畑はけっこう苦労しているようだ。大きなペットボトルに水を入れて、毎朝、畑にまいているおばあちゃんがいる。「今年はカラカラ天気であかんわ」力なく笑っている。去年は、あちこちからキュウリやナスビをもらったが、今年はほとんど回ってこない。三女が畑を始めたが、水不足でキュウリもカボチャも枯れてしまった。予報を見ると、これから先もずっと雨マークがない。豪雨は困るけれども、たまにはザーッと降ってもらいたいと思う。このままいくと、生活のための水も不足してしまう。ここ数年の天候は、あまりにも極端すぎる。「適度」というのを天も忘れてしまっているかのようだ。ひょっとしたら、人間の意識を天が感じ取って、「適度を忘れているのはお前たちだろう」と教えてくれているのかもしれない。よく「罰が当たる」というけれども、罰じゃなくて、人間の集合的な意識が天に伝わって、それが現象化しているのが、今の災害であり異常気象じゃないのだろうか。このごろはそんなことばかりを考えている。人間が変わらなければいけないときにきている。もちろん、ぼくも変わらないといけない。自分と家族さえ良ければいいというのはまずいよ。少なくとも、自分と家族と近所の人、あるいは友だちといったレベルでいいので、いいことの輪を広げていかないと。大難を小難に、小難を無難に。天の神様、よろしくお願いします。
2026年08月23日
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SNSにマムシの親子を見つけたという話が出ていた。「すぐに殺してしまえ」「マムシ酒を作るといい」といったコメントがずらっと並んでいた。残酷な気もするが、噛まれたら大変だ。被害を被る前に駆除する。決して間違っていない。「アオダイショウなら毒もないし逃してやるんだけど」と言う人もいた。この書き込みとコメントを読みながら思ったことがある。マムシは毒をもっていて、人間が噛まれると死に至ることもあるから、何もしてなくても叩き殺されたり斬り殺されたりする。ぼくは、「核兵器をもつことで他国からの侵略を防げるか?」という議論が思い浮かんだ。マムシは毒という強力な武器をもって自分を守っている。しかし、毒があるからこそ敵視されて攻撃を受けてしまう。アオダイショウは噛まないし毒もない。だから見逃される。熊だって、人間を襲ったりするから“駆除“されてしまう。自分の身を守ろうと、食物を手に入れようと、熊はあの怪力、鋭い牙やツメを使うのだ。それが危険だから、人間は銃という武器を使うのだ。馬や牛みたいだったらどうだろうか。街を自由に闊歩されたら困るけれども、もっと穏やかな解決策がとられるはずだ。日本が武力を増強してまわりの国々にとって危険な国になったら、どこもが日本を警戒して怯えて、ちょっかいを出してこないのか。逆に、マムシが毒をもっているばかりに殺されてしまうのと同じように、放置しておいては被害を被るかもしれないと、攻撃のチャンスを虎視眈々と狙う国が出てくるかもしれない。アフガンで銃撃されて亡くなった中村哲さんだったと思うが、日本は戦争をしない国だと信頼されているので、自分たちは危険な地域であっても安全に活動できる、とおっしゃっていたと思う。踏みつけたり捕まえようとしたら、ぼくたちもかみつくよ。でも、敵意のない人に対しては何もしない。マムシやクマがそう宣言したらどうだろう。安心して山を歩ける。遭遇しても恐れることはない。世の中、荒々しく血生臭い世の中になっているけれども、日本は優しい国であってほしいと願っている。
2026年08月22日
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稲の刈り取りが進んでいる。農家の方は暑い中お疲れ様。我が家も3反ほどの田んぼがあるが、父親が亡くなってからは、業者にお願いして作ってもらっている。2〜3俵を田んぼの使用料として納めてもらえる。自分でやろうと半反は頼まずにいるが、なかなか手が回らないので、放置状態。ヤギのエサを取る場所になっている。今朝の中日新聞によると、今年の米の価格は去年の半分だと言う。去年は米が高かった。政府が備蓄米を放出して価格を抑えようとしていた。去年はあんなに高くて、今年は半額というのでは、米の価格がどう決まるのかは知らないが、米農家が気の毒だ。それでも文句を言わず、汗まみれになってコンバインを走らせる。「やってられるか」ひとしずくひとしずくの汗が訴えている。世の中の相場に振り回されない自衛策を考えないと。たぶん、政治家も官僚も、農家が泣こうが笑おうが気にしてない。遠い昔から、“百姓“は権力者に踏みにじられてきた。ぼくのご先祖様も米や野菜を作って生きてきた。貧しい生活をしながらも、支配者の顔色をうかがわないと食べていけない。悔しさ、虚しさも腹に収めて、ひたすら働いてきた。そんなDNAがぼくにも引き継がれているせいか、うまくいかないことがあると、「仕方がないさ」とすぐにあきらめてしまう。「こだわりがないですね」「肩の力が抜けてていいですね」いい評価を受けたりもするが、ぼくの本質は違うようにも感じている。18歳のとき、田舎生活とはおさらばしたつもりだったが、なんの因果か50年ぶりに故郷へ引き戻された。2年近く山間の村で暮らして、ご先祖様の無念の気持ちを晴らしたい気持ちが膨らんできている。世の中の理不尽さにはNo!と言える勇気をもちたい。農業が軽視されている現状を打破したい。田舎の魅力をもっと伝えたい。ここに住んでいることに誇りのもてる村にしたい。それを極めてソフトに実現させたい。米もあまり変動のない値段で直販できる体制を作ることだろう。安ければいいという人ではなく、農業の大切さを感じていて、農家を応援したい人だけを相手にすればいい。そのためにも、たとえ半反でも自分で作ることかな。何もやらずに口だけの人間は、特に田舎では嫌われるから。市場経済に振り回されないようにしたい。まずは来年、たとえ半反でもじぶんで米を作らないと。口先だけの人間は田舎では嫌われる。「仕方ないさ」は脇に置いといて、ここは踏ん張らないと。
2026年08月21日
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田舎に住んでいると雑草対策が大変だ。まめに草抜きをしていればいいのだが、なかなかできるものではない。近所のおばあちゃんは、朝夕、庭に出て椅子に腰かけて草抜きに余念がない。だから、きれいな庭が保たれている。それくらい労力をかけないときれいな庭は保てない。ぼくは横着なことをしている。草の上からブルーシート、ブラックシートをかけてしまうのだ。そうすると光合成ができなくなって、雑草は枯れていく。でも、枯れるまでに10日はかかる。シートを移動させながら、大まかな部分の草をきれいにして、残ったところは手で抜くわけだ。今日から試し始めたのが、ビニールハウスに張る透明シートを草にかぶせるというもの。これは、光合成を防ぐということではなく、蒸し焼きにして雑草を枯らせてしまうというやり方だ。ネットで見ると、暑い日が続けば数日で枯れてしまうと言う。どんな結果が出るか楽しみだ。雑草と相対しながら思ったのは、地球という惑星の主役は植物かもしれないということ。うちの村でも、雑草ばかりではなく、竹が迫り、外来種と思われる木々が繁茂している。じわじわだけれども、このままでは村を覆ってしまう恐怖がある。ぼくたちは、せっせとチェーンソーやのこぎりで切るわけだが、たぶん、5年10年たてば、陣取り合戦の勝敗は明らかになるのではないか。近くの竹やぶでは、重機が入って、バリバリと竹を押し倒して、整地をしている。何ができるのかはわからないが、見た目は支配できているが、時間がたつと、逆転現象が起きていうるのではないか。森を壊して住宅を建てたり、メガソーラーが広がったり、人類は植物たちを蹂躙している。だけど、植物たちはあまり痛手を被ってないのではないか。そこに住む動物たちは被害者だが、動物たちが行き場所を失って人里に現れれば、クマ騒ぎや農作物が野生動物に食べられることになって、困るのは人間なのだ。いくら人間が技術を駆使しても、日本中の森林を支配することはできない。植物たちはじっと反撃のチャンスを狙っているのだ。反撃と言っても、彼らは人間を攻撃するわけではない。人間の手の届かないところから、自分たちの勢力を徐々に広げていくのだ。うちの村でも、田んぼに向かう坂道の下に、雑草だらけの斜面がある。村の持ち物なので、みんなで草を刈らないといけない。しかし、草刈りは重労働なので除草剤で対処してきた。数年前、除草剤をやめた。なぜなら、土がもろくなって、ボロボロと斜面が崩れ落ちていく。「このままだと道路まで崩れる」だれが見ても危険な状態になってしまったのだ。雑草があることで、根が土をつかんで斜面が崩れるのを防いでくれていることに気がついた。今は、気がついた人が仮払い機で草刈りをしてくれている。雑草をやっつけようとすると、人間にマイナス面としてはね返ってくる。昔の人は植物と上手に付き合っていた。適度に竹や樹木を伐採することで、多種多様な植物で森が覆われた。植物は食べ物にもエネルギーにもなる。集落のまわりにできた里山は、人間の生活を支える資源の宝庫だった。里山よりも奥には一般の人が入ることはなかった。動物たちは、奥山で用が足りたから、人里に出てくることもなかった。さらには、深い山は神の領域として畏怖される場所だった。すみ分けができていた。雑草対策は、すごい除草剤を作って、雑草を木っ端みじんにすることではない。雑草とどう付き合うか、人間には知恵がある。もともとは共生のための知恵だったが、いつからか競争の知恵になってしまった。人間は、身の丈を知って生きないといけないな。雑草も竹もやっかい物のように思われているけれども、本当は、彼らも人間と仲良くしたいはず。ぼくたちの方が、彼らをありがたく思えるような付き合い方をしないと。涼しくなったら、竹やぶを竹も喜ぶようなきれいな場所にしたいと思っている。
2026年08月20日
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夏の高校野球。準々決勝に三重県代表の三重高校が登場した。だいたい三重県の高校は1回戦2回戦で姿を消す。2勝、それも大阪代表の履正社高校にも勝ったのだから、立派なベスト8だった。三重高校は、2014年に準優勝、2018年にベスト4と、たまに上位まで勝ち残る。三重県の高校で全国に通用するのは三重高校だけという印象がぼくにはある。春の選抜で優勝したのは、ぼくが中学生のころだった。前の年の夏の大会ではベスト8だったし、その年の夏は春夏連続優勝という期待もかかった。テレビの前で必死に応援していたのを思い出す。あのころは野球が大好きだった。夜の8時ごろから始まるナイター中継を見るのが何よりもの楽しみだった。昨日の準々決勝を見ていて頭によみがえったことがある。中学3年生だったか、「将来の夢」ということで作文を書かされた。卒業の文集に残っているのではないか。ぼくが書いたのは、「高校を作りたい」だった。それも野球が強くて、甲子園の常連になって、全国優勝するような学校。ぼく自身は運動は苦手で、自分が甲子園に出るなどとは思ってもみなかった。だから、観る側、応援する側として、マックスの興奮に浸りたかったのだ。たとえば三重高校に入学して甲子園で応援するというのも良かったが、それでは満足できない。もっと当事者として手に汗握る時間をもちたかったのだ。そのためには、自分がオーナーになればいい。高校名も、鈴鹿市の南の方にあるから、「鈴南高校」にしよう、「れいなん」とするか「すずなん」と読ませるか。そんなことまで考えて作文を書いた覚えがある。作文のことは、高校に入学したら忘れてしまって、今の今まで思い出したこともなかった。ただ、文章に書いたことは、形はそのままでなくても、似たような状況が作られることがよくある。今から高校を作ることはないけれども、作文の思い出がふっと浮かび上がったことで、自分の将来ビジョンがむくむくと形をなしてきた。我が村の小さなお寺を、「松下村塾」のような新しい世界を作る場にできないだろうか。ぼくが教えるわけではない。すてきな人を呼んできて、その人の思想なり活動を語ってもらう。この激動の時代をどう生きるか、本当に大切なことは何なのか、志のある人たちを集めて、みんなで学び、議論をしていければ面白いではないか。この2年間で何度かお話会を開催した。なかなか若い人は参加してくれないが、ぼくが魅力的なプログラムを作って発信しさえすれば、必ずや盛り上がるはず。1ヶ月ほど前、20代の若者がふらっとヤギさんに会いに来てくれた。彼はインフルエンサーで50万人ものフォロアーがいて、世界のあちこちを旅しているそうだ。何度もヤギを見に来てくれている。昨日は、友だちを連れて来た。まだ彼の人となりはわからないけれども、いきなりぼくの前に現れて、ぼくのやっていることに興味をもってくれたということは、何か意味ある出あいだと思う。異質な個性が混ざり合ってこそ、大きなエネルギーが生まれる。この間はこんなこと言っていたな。「毎朝、TikTokでおじさんがヤギの世話をしているところを動画で発信するといいんじゃないですか」SNSはブログを書くくらいしかできないが、もう一歩踏み込んで活用するのもありかもしれない。ぼくのような生き方に興味をもってくれる人もいるはずだ。変化というのは、たわいないことが積み重なっていくうちに起こるものだ。中学時代の夢が形を変えて実現するかもしれない。高校野球は明日の準決勝も面白そうだ。↓ 7月のイベントでは32人もの人が集まってくれた。お寺は超満員だった。
2026年08月19日
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わが家には1歳にならない犬が3頭、ネコが4匹いる。無邪気に遊び回っていて、あふれるほどの未来を感じる。しかし、考えてみれば、あいつらの余命は10~15年ほど。70歳のぼくも、日本人男性の平均寿命81~2歳まで生きるとして、あの無邪気な少年少女と同じだけの時間が残されているわけだ。時間がないなんて情けないことを言わずに、あいつらの一生分が残っているのだから、生まれたばかりの子犬、子ネコだと思って、これからの人生設計をすればいい。若いころの10年とは違う終盤戦。物語で言えば、クライマックスであり、ラストシーン。マラソンならたくさんの観衆の待つ競技場が見えている。競馬なら4コーナーを回って、急な坂を上り切るかどうか。大歓声が上がっている。もっとも盛り上がる場面だ。ただ、子犬や子ネコと違って体も心もけっこう消耗していて、息も上がっているし、脚も上がらない。自分の物語、レースは、途中で棄権できない。どんな形であれ、ゴールインしないと終わらない。さてさてどうする?10年というのは、犬やネコにとっては一生の大部分なのだから、決して短いものではない。その気になれば、いろいろなことができる。身を立て名を上げなくてもいいけれども、これまでの続きでもいいし、まったく違うことでもいいし、何かに取り組む姿勢は大事だと思う。愚痴や不平不満を言いながら、昔を懐かしみながら、ぼんやりと流してしまうのはもったいない。人生の中で一番充実していたと喜べるような70代を、ぼくは過ごしたいと思っている。
2026年08月18日
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5時に起きてワンコのミタラシ、アズキと散歩をし、朝ごはんを食べる。ヤギのエサを取りに行くこともある。早めの朝の仕事を終えたら、少し休む。ソファに横になって、ウトウトするのだが、いつもなら長くても30分ほどで目を覚ます。昨日はウトウトではなく、ぐっすり寝た。2時間くらいの朝の睡眠だった。気持ちよかった。体調を悪くしてずっと寝た切り状態だった老ネコのチーが、一昨日の朝、静かに息を引き取った。その影響もあったと思う。世話をしたのは妻と娘たちで、ぼくはいつもと同じ睡眠時間だったが、さすがに気持ちが落ち着かなかった。「いつ息が止まるか」と心配し、不安を抱えている時間は心が休まらない。穏やかな最期だったので、ぼくはホッとした。かなしいしさみしいけれども、あいつは十分に生きたし、ぼくたちもやれることをしっかりとやって見送った。一日たって、心の緊張がほぐれて、ゆっくりと眠らせてもらえたのだろう。眠りは一種の防衛反応でもある。それにしてもよく眠った。
2026年08月17日
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米の収穫も半分くらい終わっただろうか。うちも3反ほどの田んぼがある。2反半は父親の代からの知り合いに任せてあり、半反は自分で作るつもりだったが、なかなか手が回らず、放置してあって、雑草をヤギたちのエサにしているという状態だ。三女が農業をやりたいと鈴鹿に戻ってきたので、来年はチャレンジしてみたいと思っている。稲刈り、脱穀というと、ぼくが子どものころは秋の風物詩だったが、今は暑い夏にあわただしくやられている。大きなコンバインを使って、一気にやってしまう。今は専業で米を作っている人は少ない。多くの農家は、本業はサラリーマン。休みの日に農業をする。だから、盆休みに合わせて収穫ができるような段取りで、品種を選んだり、田植えの時期を決めたりしている。ここ数年、夏の暑さは尋常ではない。昔みたいに肉体を酷使して作業をしていては体を壊してしまう。機械化はやむをえないのだが、農業機械は安いものではない。いい車を新車で買うくらいの出費が必要だ。天気の悪い日にコンバインを田んぼに入れようものなら、泥だらけになってしまう。自分で洗えればいいが、業者に頼まないとできないような状態になることも多いらしい。そんなときには、何十万もの出費になってしまうそうだ。この間、農家の人に聞いてびっくりした。どこの農家にもトラクターやコンバイン、田植え機がある。乾燥機もいるし、全部そろえたら1000万円くらい楽にいるのではないか。しまっておく倉庫も必要だ。それでいて、収入はどうかと言えば、去年の米価は高くてありがたかったが、ことしは下落ときている。とても採算が合わない。農業をしているのは50代以上ばかり。口をそろえて言う。「自分の代で田んぼはおしまいや」親がやっていたら仕方なく自分もやっているというのが本音だ。畑もそう。「ニンジン、スーパーでいくらで売ってる。安いもんや。汗水たらして作らんでも、買うたらええんや」とりあえず、自分のところで食べる分だけは作っておこうかという流れになっている。「農業は大事や」ぼくなんかは偉そうに言うけれども、実際にやってみると、畝を作るだけでも汗だくになる。雑草の管理もため息が出る。それでうまくいくかと言えば、自分の家で食べるほどもできなかったりする。報いられない仕事だ。モチベーションはどんどん下がっていく。ただ、農業が好きだという人もいる。うちの村にも一人いて、こいつは隣村の人までが、「もう田んぼができないのでやってくれないか」と頼みにくる。ぼくよりも3歳年下だが、子どものときから農作業が好きで、コメ作りをさせたら、たぶん彼以上にできる人は少ないと思う。彼は慣行栽培だが、少し離れたところには本気で自然栽培に取り組んでいる人もいる。彼も根底には、農業が好き。農業こそ自分の表現手段だと思って取り組んでいる。有機栽培で野菜を育てている人もいる。やさしい女性で、気の合う仲間と一緒に広い畑でおいしい野菜を作り、全国の有名なレストランから注文が入っている。できたらぼくは、農薬や化学肥料を使わない農業を応援したいけれども、あまり制約をせずに、まずは農業の好きな人にスポットが当たるように仕向けていかないとと思う。農家ではなくても、農作業をしたいという人もいる。近所の人のところへ、月に一度くらいやってくる親戚がいる。50代のサラリーマン。彼は、田んぼや畑、山の仕事が大好き。汗だくになっての作業を楽しんでいるのだ。農作業に嫌気が差している農家は、そういう人に、楽しみの場を提供すればいいのだ。我が村は、「農業なんかやってられない」という農家が100パーセントに近い。農業をやりたい人がいれば、手伝ってもらえばいい。農家の人たちは、自分がこんなに嫌々やっているのだから、みんなそうだと思いがち。そうではなくて、汗や泥にまみれて働きたい人もいるのだ。そこに目をつけて、上手に仕掛けていくと、何かが起こってくるはずだ。ウインウインの関係は、面白いエネルギーを産み出すから。まずは、農家の皆様、米の収穫作業、お疲れ様です。熊本や千葉の農家の人はどうなのだろう?何の力にもなれないけれども、希望を失わないでください。農業というのは、大変ですが、誇れる仕事だと思います。
2026年08月16日
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雨があんなにも恐怖になるとは。一昨日の千葉の豪雨。東京も神奈川も猛烈な雨だったようだ。熊本の大地震の傷も痛々しい中でのさらなる災害だ。最近の災害は容赦がない。少しは手加減してやろうというのがないのだろうか。あれでも生易しいものだと言うなら、本気で揺らしたり水浸しにしたりされたら、どんなことになってしまうのか。ノアの箱舟のようなことがあるのかもしれないと怖くなってくる。わが家は三重県鈴鹿市の南部にある。千葉の大雨が別世界の出来事のように、うちの近辺は雨が降らない。土がひび割れているような畑もあるくらいで、熱心な農家は水やりに余念がない。軽トラに水を運んで、せっせと乾いた畑に黒いシミを作らないと、野菜は元気がなくなり、枯れてしまう。千葉の大雨の日、次女が隣の津市に用があって出かけて行った。「すごい雨だった」帰宅後、豪雨の模様を話してくれた。雨で前が見えず、車の運転が怖かったと言う。千葉はそれ以上の猛烈な雨だったのだろう。わが家の周辺は雨不足、10キロ20キロ程度離れると豪雨。天気がまったく違っていたのだ。このごろは、雨も狭く強烈というパターンになっているのではないか。まさしく集中豪雨だ。もっとまんべんなく、適度な量の雨を降らせてくれればいいのにと思うが、ぼくたちの都合通りに自然は動いてくれない。やっぱり、こういう強烈な災害によって、ぼくたちは試されているというか、警告を与えられているようにしかぼくには思えない。罰を与えられているのではない。ぼくたちが天に向かって吐いたつばが落ちてきただけのこと。悲しいかな、ぼくもつばを吐いてきた一人だから偉そうなことは言えないが、それでも、「このままではちょっとまずいよ」と思ったら、行動を変えていかないといけない。何をすればいいのか。「地球が喜ぶこと」大きなことはできないけれども、身のまわりのことで、心がけていきたいと思う。今日は3年ほど一緒に暮らしていたチーというネコが旅立った。
2026年08月15日
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台風15号は茨城県に上陸し、甲信越、東海と西に向かって熱帯低気圧になった。これまで見たことのない進路だった。あちこちで被害もあったようだ。17号も日本列島に東海上を北に進むという、奇妙な進路をとっている。いろいろ理由はあるようだが、地球が大変動期にあるというのは、先日の熊本の地震のこともあったわけで、確実なのではないか。地震に台風、山火事も多いし、夏の異常な暑さや冬には大雪、それに人間と人間の争い、熊やイノシシ、シカといった野生の動物の出没、感染症をはじめ難しい病気も蔓延している。このままだと人類は滅亡してしまうのではという危機感を感じる。人間は、地球を自分たちだけが快適に過ごせる惑星にしたがっているのではないか。動物や植物は、食べ物や愛玩物として存在してればいい。役に立たない生き物は殺してしまう。鉱物も資源として利用する。快適な生活をするために出たゴミは、地下に埋めたり、海に捨てればいい。細菌やウイルスといった病気のもとになるものは、すべて排除してしまう。人間中心主義と言えばいいのか、それがもう限界まできているのではないか。地球は偉大な惑星で、人間がいくら好き勝手しても動じることはないかもしれない。どんなに人間が傲慢であっても、しっかりと受け止めてくれる。しかし、人間の行動によって、変化は起きる。今の地球大変動は、地球にとっては「大」ではないかもしれないが、変化ではあるのだ。地球の変化は、人間にとっては大きな影響があって、今の状況になっている。つまりは、人間が自分の行動によって、本当は住みやすくしたかったのだけれども、結果的に、首を絞めることになっているわけだ。核戦争が勃発したからと言って、たぶん、地球がこの宇宙から消えてしまうことはないだろう。困るのは人間をはじめ、地球上に住む動物たちだ。いや、動物たちは人間が少なくなった分、のびのびと生きていけるかもしれない。早くそこに気づかないといけないと思う。だからと言って、人間がいない方が地球は幸せかというと、そんなことはないはずだ。地球がよりレベルの高い惑星になる上で、人間の大事な役割を果たす存在かもしれない。今のように、自分たちが快適ならいいということではなく、自分たちは地球にとって、どういう形でプラスになっているのか、謙虚な気持ちで行動を決めていけば、地球にとってもかけがえのない存在になれるのではないだろうか。日本ばかりではなく、世界中で大変なことが起こっているわけで、立ち止まって考えてみないといけないと思わずにいられない。
2026年08月13日
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27歳のときから個人事業主(フリーランス)として働いてきた。会社に所属していないから、給料や身分の保証はない。その分、決まった時間に出社して、就業時間までいなければならないという窮屈さはない。「この仕事を今月中にやってください」という依頼がくれば、「ハイ、わかりました」と返事をして、あとは自分のペースで進めればいいのだ。これがぼくには合っていたのか、何回も書き直さないといけないような原稿しか書けなかったり、締め切りを守らなかったりして、たくさんの人に迷惑をかけつつも、40年以上続けられている。フリーという仕事は100パーセント歩合だから、仕事がないと悲惨だ。ぼくの場合、気功の団体と縁があって、そこの会長にかわいがられたこともあって、団体の月刊誌の仕事があった。今でもある。その仕事があったからこそ、フリーライターとして長生きできているわけだ。単行本も書いたけれども、売れればいいが、ほとんどはすぐに本屋さんから消えてしまうものだった。時間をかけて書いたのに収入はわずかというのは、ぼくばかりではない。若いころは自由を満喫しているような気分になれて、貧しくても満足感があった。しかし、年を取ると、仕事は減るし、経済的には、先行きは暗い方向にしか読めないし、「こんなはずではなかった」と思う人も多いのではないか。ぼくたちの世代は、きちんと会社を務め上げた者の方がゆとりの老後を過ごしているのも事実で、それなりの資格でももっていれば、退職しても重宝されたりする。うらやましくもあるが、そういう生き方ができなかったのが自分だから、きちんと落とし前をつけてこそ、人生は完成するのだ。先は見えなくていい。フリーランスという道を選んだ以上、倒れるまで突っ走るしかない。
2026年08月10日
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久しぶりに昼ビール。午前中は外仕事が日課。犬の散歩から始まり、ヤギたちのエサである雑草を集めに行って、ヤギの世話やら、庭の草むしりなどで、しっかりと汗を流す。外にある水道でタオルを濡らし、体をふく。バケツに水を入れて頭からかぶることもある。本当はフルチンになりたいのだが、いくら田舎とは言え、近所の目もあるし、それは控えている。着替えてからエアコンの効いた部屋に入る。体の表面に冷気が走り、これが気持ちいい。冷蔵庫を開ける。妻が缶ビールを冷やしてくれている。ぼくはいつもアサヒドライ。ジョッキ缶だ。適度に泡があふれてきていい感じで飲める。「あー」ひと口目は声が出る。このごろは一缶飲むと、眠気が襲ってくる。夏場は朝の5時に起きて、涼しいうちに犬を散歩に連れていく。ここ数年、眠りの質があまり良くない。一時、なかなか寝付けない時期もあったが、それはなくなった。今は、おしっこに何度か起きる。夢もよく見る。熟睡してないのだと思う。そんな状態だから、眠気は仕方ない。結局、ソファに横になってうとうとすることになる。これが気持ちいい。しかし、起きたあとが大変。体がだるい。頭がぼーっとする。ただでさえも不足している集中力がさらに減少。まったくやる気が出ない。昼寝だけだと、ここまで空気が抜けた風船になることはない。昼ビール+昼寝は、束の間の快楽が得られる分、あとは時間を無駄遣いするばかりだ。まだまだやることはある。快楽に押し流されるわけにはいかない。昼ビールは土曜日か日曜日のどちらかだけにした。平日の昼はビールの代わりに炭酸水。ビールは「今日はよく働いた」と一日の終わりに飲めばいい。
2026年08月09日
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願望を叶えるためには、「叶っても叶わなくてもいいけれども、叶ったらうれしいな」くらいの軽い気持ちで、世の中でいろいろ言われている願望成就の方法を試せばいいのではないか。「何が何でも」そんな力むなよと言いたくなるような態度だと、空回りしてしまうことが多い。だいたい、願望というのは「我」であることが多い。もっと面白い道が用意されているのに、願望がそれを邪魔して、つまらない人生へと突入することもある。「〇〇大学に合格したい」「〇〇会社に就職したい」「出世したい」「金持ちになりたい」「美女と結婚したい」「マイホームがほしい」「毎年海外旅行に行きたい」だいたい、願望なんてそんな程度のもの。自分にとってエキサイティングで面白くて、生きてて良かったと思える生き方。自分の視野の中に入ってくる中に、果たしてあるのか。若い人なら、お手本になる大人というのは親か先生、近所の人。「こんな大人になりたい」ワクワクするような人はいるだろうか。なかなかいないと思う。会社の中に、あこがれることができる上司、先輩はいるだろうか。ごろごろいるわけがない。自分がイメージできる願望というのは、だいたいまわりの人レベルのもの。「好きなことをして生きたい」そう言う人は多いけれども、だいたい、今の世の中は好きなことそをして生きられないように作られている。願いが叶って大企業へ入ったとしても、いつの間にかがんじらめにされてしまうのではないか。ぼくたちはみんな自由なんか程遠い、かごの鳥になってしまわざるを得ない。それが現代社会が仕組んでいるコントロールシステム。願望をもつのは構わない。もった方がいいと思う。こうなりたいと、一歩一歩、願いに向けて進んでいく。だけど、今の自分はまだかごの中ではばたいているだけのこと、ということを知っていた方がいい。もっと広い世界があると、胸に刻んで一所懸命にはばたく。そうすると、あるとき、想像もつかなかった衝撃に出あうことがある。日々、小さな爆発を繰り返していると、あるとき、大爆発が起こったりするのだ。小爆発が、目先の願望に向かって努力すること。それもリラックスして。エネルギーが蓄積される。そして、ついにドカーンときて、それまでの願望など吹き飛ばして、考えもしなかった、もっとすごい世界へ導いてくれる。ぼくはそう思っている。日々、こうなったらいいなということは胸の中にもちながら、目の前に現れたことをコツコツとこなしていく。ときどき、想像を少し超えた出来事があれば、エネルギーがたまっていると大喜びし、またコツコツと働く。すると、あるとき、えっと思うことに出あえるという仕組みなのだ。ぼくはこの70年で、そのかけらくらいは見た気がする。願望を超えた、本当の生きる意味を知るのは、ぼくにはまだ先のことになりそうだ。近づいてきている気はするけれども。
2026年08月08日
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願望は叶うのか?叶う願望もあれば、叶わない願望もある。頼りない答えだが、自分自身の70年を振り返ってみると、願望は叶った方だと思う。ぼくの場合、文章を書く仕事がしたいという願望があった。最初に勤めた会社を2年で辞めた。さて何をするか?したいことがあるわけでもないし、できることも限られている。「教師でもなるか」会社を辞めて教師になる。よくあるパターンだった。当時の教員採用試験はなかなか合格できなかったけれども、会社務めが嫌になると、教員になろうかと考える人は多かった。ところがぼくは、教職の免許をもっていない(工業高校だけはあったが)。「通信教育で教職免許をとろう」玉川大学に申し込んで、送られてくる教材を読んで、レポートをがんばって書いた。夏休み。ちょうど今ごろ、スクーリングと言って、東京の玉川学園駅のそばに部屋を借りて、1ヶ月ほど大学に通った。仲良くなった男が明治大学出身で東京には詳しかった。「飲みに行こうか」誘われるままに新宿に出かけていった。歌舞伎町の入り口あたりだったか。当時、ぼくは東京にあこがれていた。華やかな世界で生きたかった。面接のときに、「東京で営業がしたい」と強く主張したのだけれども、配属されたのは、まわりは山と川と海という、今なら大歓迎なのだが、自然に囲まれた大きな工場だった。退屈な毎日だった。だから、たとえ1ヶ月でも東京で暮らせたというのは、これも願望がなかったひとつかもしれない。知り合いは、地下に広いフロアのあるパブに連れて行ってくれた。たまたま開店して何年目かのキャンペーンをやっていた。いろいろなサービスがあって、その一つがタロット占いだった。ぼくは占いにはあまり興味はなかったし、タロット占いがどういうものかも知らなかった。入店したときに整理券を渡された。順番がくると小さなブースに案内される。薄暗い中に若い男性が黒いマントをはおって座っていた。小さなテーブルがあって、ぼくは占い師に向かい合うように座った。少し雑談をしたあと、「何か占ってほしいことありますか?」みたいなことを言われた。「将来、ぼくは何をやったらいいんでしょうね」そのころ、教職免許はとるつもりだったが、教師になることにあまり魅力を感じてなかった。地味だから。もっと派手な世界でバリバリ働きたいというのが27歳の野望だった。カードを選ばされた。1枚だったか何枚だったか、選んだカードに意味があるようだ。彼はカードを見ながら言った。ぼくの人生がカチャカチャと音を立てて、ある方向に動き出した瞬間だった。「あなたには文才があります」えっ!思ってもみなかった展開ではないか。文才があるなんて言われたことなどない。「それも」「それも・・・」自分で言うのも恥ずかしいような言葉が、彼の口から発せられたのだ。「ただの文才ではありません。夏目漱石に匹敵するだけの才能があります」どういうつもりでそんなことを言ったのだろうか。本当にそんなことがカードから読み解けたのだろうか。舞い上がった舞い上がった。普段、「占いなんて」とバカにしていたのに、いいことを言われると、占いさまさまになってしまう。ああ、愚かなり。だけど、その愚かさが、文章を書く道へと導いてくれるのだから、願望を叶えるには、賢いばかりがいいわけではない。それにしても、「文才があります」だけではあそこまで飛び上がりたくなるような気持にはなれなかった。「夏目漱石のような」が効いた。あの占い師はその後どうなっただろうか。人の心を動かせるツボを心得ていた。詐欺師になっても成功したかもしれない。ただ、占い師の言葉をそのまま信じてがんばるほど、ぼくはお人好しではない。「夏目漱石のような才能」と言われてその気になれるほど能天気でもなかった。しかし、意識の中に文才、夏目漱石がはまり込んだのは間違いない。名古屋に帰ってしばらくしてから、新聞の片隅にあった「シナリオ教室」の宣伝が目に止まり、通い始めた。なかなか文才は芽生えなかったけれども、同郷の先輩との再会があって、その人が大手出版社の編集者で、ぼくが「シナリオ教室に通っている」と漏らしたことから、東京でフリーライターになる道が拓けたのだ。フリーライター生活は、最初は何度書き直しを命じられるなど四苦八苦の日々だったけれども、いじけてくじけて逃げ出すようなことはしなかった。与えられた仕事を決められた日までに仕上げれば良くて、やった分だけ給料になるというスタイルはぼくの好みだったのだと思う。継続は力なり。よくわかる。よく続けたものだ。結果的に30冊ほど出版することができたのだから、ライターとしては大成功だっただろう。うち2冊は10万部くらい売れた。講演にもよく呼ばれた。「先生、先生」なんて言われて、著書にサインなんかして、かっこいい人生じゃないか。占い師のひと言から、自分の願望を超えた世界がどんどん広がっていったのだ。残念ながら夏目漱石ほどの文才はいまだに発揮できてないけれども、まだあきらめる必要はない。地味でいいので、書き残したいことがある。それが今の願望。夏目漱石のような文才を、最後の最後に爆発させないと。
2026年08月07日
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ひじを左右に張るようにして、体は前かがみ。彼女が自転車でやってくると、遠くからでもだれだかわかる。M子さんは80歳少し前。よく働く。今、ぼくは6時には犬の散歩をする。いつも畑で作物に水をやったり、草を抜く彼女の姿を見る。今日は自転車で畑に向かうM子さんとすれ違った。「おはよう。今日は遅いんやな」あいさつをすると、M子さんは自転車を止めてサドルからお尻を下ろして足を地面につけると、「今日も蒸し暑いな」人懐っこい笑顔を見せてくれた。「さっき畑に水をまいたんやわ。ちょっと家に帰ってて」恐れ入った。「まだ仕事あんの?」畑仕事はいくらでもあるのは知っている。しかし、この暑さだ。もう帰って休んだ方がいい。「ちょっとだけな。今日はこれから窓の掃除や・じっきにお盆やから。いつもの年は7月中にやるんやけど、ちょっと遅れてしもたわ。年を取るとあかんわ」彼女の家はいつもきれいにしてある。庭に草一本生えていない。M子さんは独り暮らし。40代のころ夫と死別し、長男、長女を女手ひとつで育てた苦労人だ。とにかく面倒見がいい。うちの母親は10歳ほど年上だが、生前はどれだけお世話になったか。毎日、寂しくないかと顔を見せてくれて、たまには得意の料理をもってきてくれた。彼女の作る炊き込みご飯は絶品だ。スーパーや病院へも車で連れて行ってくれた。母はよく言っていた。「M子さんがおらんだら私は生きていけへんわ」毎日、ぼんやりしている時間はない。近くの公民館は常連だ。ヨガで体を動かし、健康マージャンで頭を使う。自分の家に友だちを読んでマージャンを楽しむこともある。まさにスーパーおばあちゃんだ。我が村には、彼女のように活発なおばあちゃんが何人もいる。ぼくから見るとすごいおばあちゃんたちなのだが、彼女たちは「ただの田舎のおばあさんやから」と謙遜ではなく、本気で思っている。自分たちの魅力に気がつかず、当たり前のように畑で作物をとり、きれいな花を作り、毎日、お墓参りをし、素朴だけどおいしい手料理を作り、まわりで困っている人がいれば手を差し伸べ、上手に息抜きをしながら、淡々と日々を過ごしている。自分がやっていることなんかだれでもできると思い込んでいるのだ。もったいないではないか。彼女たちも、田舎ならではの財産なのだ。これをどう生かすか。大げさにならず、負担にもならず、自然な形で生かしていく。さてさてどうしたらいいのか。そのうちいいアイデアがひらめくだろう。
2026年08月06日
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50年近く前、大学を卒業後、大企業に就職した。オイルショックの影響で景気はあまり良くなかったと思う。ぼくはゲームのような感覚で何社か就職試験を受け、第一志望の会社に合格した。しかし、仕事は面白くなかった。経理的なことだったので、ぼくにはまったく不向きだったのだ。2年ほどたったとき、夕方ジョギングをしながら、「俺はこのままだらだらと会社員を続けていくのか」と思ったら、涙が流れてきた。毎日が窮屈だったし、仕事にも意欲がもてなかった。思い切って辞めた。辞めてはみたものの、何をしていいのかわからない。教員になろうと、通信教育で資格をとり、採用試験を受けたが失敗。挫折。新聞広告を見て、今ではとても有名な会社のアルバイト職に応募。合格した。これが面白かった。ビジネスの第一線の一端を体験することができた。弱肉強食、24時間働けますか、の世界なのだが、若いぼくは、ビジネスの世界で成功してやろうという野望をもった。ところがすぐに挫折。数字ですべてが評価される営業の世界。ぼくにはついていけなかった。大学の先輩が声をかけてくれて小さな会社に再就職した。地味な仕事だった。毎日1トントラックに乗ってお客さんを回る。燃えない。やる気が出ない。ここでは企業社会の非情な現実を叩きつけられた。大企業の横暴さ。頭を押さえつけられ、へいこらしていないと仕事をもらえない下請けの悲しさ。「世の中、おかしい」ぼくの社会に対する目が少しだけ開いたのは、小さな会社で営業をしていたときだった。取引先の大きな会社と、自分が勤務する小さな会社の間にはさまれ、ぼくはクタクタだった。仕事が終わると、駅前の立ち飲みのお店に寄って、熱燗とおでんという日々だった。いつもイライラしていた。あのままだったら、ぼくは壊れていた。そんなぼくに救いの手を差し伸べてくれた人がいて、ぼくは東京へ出ることになった。フリーライターという想像もしたことのない仕事に就くことになったのだ。東京はあこがれの都。文章を書く仕事はカッコよくて、雲に乗って夢の世界へ導かれているような気分だった。28歳。機が熟し始めてきた。飽きっぽいぼくが文章を書く仕事は40年以上続けている。紆余曲折はあったし、誇れるような実績を残したわけではないが、この仕事に就いて良かったと思っている。そもそも、文章を書く仕事を意識したのは大学時代だった。ラグビー部に入って、ちょっと変わった先輩たちとかかわることになったのがきっかけだった。工業大学なのに、小説や詩を書いている先輩がいた。2人も。学校もあまり行かず、ラグビー部の練習にはたまに出るけれども、あとは、何をしているのかよくわからない。ぼくとはまったく違うタイプの人たちだった。まじめな田舎者のぼくには、彼らの姿は新鮮だった。あとから考えれば、大多数の人が疑問を感じずに進んでいく道を良しとしない生き方かな。ぼくには、みんなと一緒にぞろぞろ歩いていきたくないという意識が潜在的にあったのだと思う。だからと言って、多くの人が進む方向から大きく外れる勇気はなかった。先輩たちのようになりたいとは思わなかったけれども、彼らが自己表現している文章を書くという行為に興味をもった。文筆業という仕事は、ぼくの好む立ち位置を与えてくれるのではと、あのときはそんなことが考えてもなかったけれども、感じるものがあったのではなかっただろうか。サラリーマンを続ける能力はぼくにはなかった。しかし、社会を知る上では必要なことだった。まるっきりの世間知らずでは困るからという天の好意だったかもしれない。なんで運動音痴のぼくがラグビーをやったのかと不思議だったけれども、大学のラグビー部で、将来の方向性を決める出会いがあったということで、ぼくは納得している。「すべての出来事には意味がある」ぼくがモットーにしていることだが、これくらいの年齢になってから過去を振り返ると、いろいろなことがつながって、ぼくの70年間が作られているということがよくわかる。まだ人生は続く。これまでにまいてきた種が芽を出し、花を咲かせる。実をならせる。たくさんの種をまいてきたから、もうすぐ、すてきな「お花畑」が出来上がるかもね。
2026年08月05日
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盆が近づいてきた。我が村では、氏神様とお寺の掃除があった。氏神様もさびれてしまっている。それでも、たくさんの氏子さんたちが集まって、お社のまわりの草を刈ったり、枯葉を集めたりする。もっとも、年寄りばかりだけれども。コロナの前までは、何年かに一度、獅子舞が行われていた。神社の近くの広場でメインの舞があって、氏子の家を回ったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないし、記憶は定かではない。コロナ騒ぎが終結しても、再開される気配はない。神社関係者に聞くと、「もうできないかも」とのことだ。獅子舞は、大人が獅子頭をもって激しく舞う。尻尾をもつのが確か、小学生じゃなかったか。子どもが右に左に振り回されて、転ばないように必死でがんばっている姿が、ぼくの古いイメージの中にはあるのだが。その小学生が氏子の中にいなくなっていると言うのだ。何年も間が開くと、技術も忘れられていく。もし復活させるなら、今がぎりぎりのところだと思う。今のままでは、氏神様もすたれてしまうだろう。お寺も同じだ。11軒の檀家の人たちが御堂さんや境内をきれにするのだが、ここでも集まるのは60代70代80代。「廃寺にした方がいい」という意見も出ているが、5年先、10年先が見えない状態だ。神社もお寺も、コミュニティの中心として重要な存在だった。もう必要ないのだろうか。「神」とか「仏」とか、ぼくたちを生かしてくれている大きな力を信じない人が多くなっている。自分の身のまわりでは、自分の意思だけではどうしようもないことがいくらでも起こっているのに、それを「たまたま」とか「偶然」とか「ラッキー」とか「不運」とかで流してしまう。古人が「神」とか「仏」と呼んだ、目に見えない力が働いているから、「たまたま」が起こってくると考えられれば、神社やお寺にも目が向くのではないか。ただ、これまでのやり方では人は離れていく。「神」や「仏」はあるのだということを、もっと発信していかないといけない。それも、説教くさい言い方で伝えるのではなくて、楽しめる場にしていくことだ。たぶん、日本人は心の深い部分で、見えない力の存在を信じていると思う。初詣に行くとか、お祭りが盛り上がるとか、縁起を担ぐとか、自分の意思を超えた何者かに、畏敬の念をもっているはずなのだ。神社やお寺が存在の危険水域まで達しているのを肌で感じて、ぼくは、今こそ日本人の精神が蘇ってほしいと、願わずにはいられないのだ。日本の古代の歴史とか古事記を勉強している人も増えている。じわじわと底上げはされている。ぜひ、もう一歩踏み出して、小さな神社やお寺を復活させる動きが広がるといいのだが。↑ 我が村の小さなお寺ではお話会や音楽会を開いている。7月のお話会には32人もの人が集まってくれた。
2026年08月04日
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一昨日の土曜日は大阪へ行っていた。次女に近鉄白子駅まで送ってもらって、10時半の特急に乗った。津で特急ひのとりに乗り換え、難波に着いたのは12時07分。 そこから地下鉄で北浜という駅まで。目指すのは、「ラグビー部マーラー」という居酒屋。北浜から歩いてすぐのはずだが、けっこう大きな駅で、何番出口から出ればいいかわからない。友だちに電話して、4番出口と聞き、暑い中5分ほど歩いてお店に着いた。 ラグビー好きが集う居酒屋だけあって、世界各国の代表ユニフォームが壁にかけられている。有名選手のポスターやサイン色紙も飾られていた。 2台の大きなテレビが壁にかかっていて、この間の日本代表対フランス代表の試合が繰り返し流れていた。 ラグビーに包まれる場所だ。 お店は貸し切りだった。ぼくが参加したのは、名古屋工業大学ラグビー部のOB会の集まりだ。ぼくは昭和53年の卒業。へたくそながら4年間続けて、3年のときにはキャプテンを務めた。 この日参加したのは、長年OB会長を務めてくださって、今年リタイアされる83歳の小野先生(教授だった)が最年長で、次が73歳の乃木さん、そのあとにぼくたちの世代が続く。 一緒にプレーしたことがあるのは、25名の参加者のうちの半分くらい。 あとは若手たち。若手と言っても60代半ばから後半。見た目は先輩も後輩の区別がつかない。「ビールくれるか」先輩のぼくが空のジョッキを上げると、白髪の後輩が「ハイ」とやかんをもってくる。ビールをやかんで注がれたのは初めてだが、ぼくたちの時代は、試合のときけがをして寝ころんでいると、やかんに入った水を頭からぶっかけられた。それで元気を取り戻してプレーに戻るものだから、「魔法のやかん」と呼ばれていた。 上手でもへたくそでも、グランドで走り回ったり体をぶつけあったりしていると、とにかくきつい。そんなとき、打撲だったり足がつったり、頭を打ったりして倒れていると、やかんが登場する。体は痛いのだけれども、ほっとするやかんタイムなのだ。 宴会は小野先生のあいさつから始まり、乃木さんの音頭で乾杯。そして、しばらく飲んだあと、自己紹介があった。しんどい思いをして走り回った20歳前後は思い出深い青春時代だ。ぼくもぼくなりに4年間一所懸命にがんばった。4年のときに右手首を骨折して、最後の試合は出られなかった。後輩たちの話を聞いているうち、いろんなことが頭に浮かんできた。50年も前の話。影も薄くなった思い出だけれども、間違いなく、ぼくの人生に刻まれた歴史だ。こういう会を準備してくれた後輩たちには感謝したい。 運動音痴のくせに。いや運動ができなかったから、ボールをもって走ればいいラグビーならできると思ったのが、大きな勘違いだった。中3のときに初めてラグビーボールに触れたことから、ラグビーに付きまとわれるようになった。しつこく誘われるのでいやいや入った高校のラグビー部。だれもスパイクをもっていないのだから、そのレベルは説明の必要がない。部員もいるんだかいないんだか。試合になるとよその部から体の大きなやつを借りてくるという体たらく。高校の同窓会に行くと、「お前、一人ラグビー部でがんばってたな」とからかわれるようなクラブだった。大学でラグビーなんかやるつもりはなかった。ところが、最初にできた友だちがラグビー部に入ったばかりで、しきりにぼくを誘う。「俺はやらない」断り続けたが、いつもの癖で「まあ、いいか」と入部してしまう。大学を卒業して入社した会社。そこにもラグビー部があった。どこで調べたかわからないが、またまたしつこく誘われる。なんで社会人になってまでやらないといけないのだ。だけど「まあ、いいか」が頭をもたげてきて、入部してしまう。2年はやったかな。やっと辞められた。会社も辞めたけど。だけど、そこでぼくのラグビー人生は終わらない。30歳間近のとき、年下の編集者と飲んでいたとき、なぜかラグビーの話になった。「ラグビーをやってみたい」そんな話になって、「それならチームを作るか」と酔った勢いで言ってしまった。グリーングラスという草ラグビーチームを作って、10年間、ぼくはマネジメントをした。出版社リーグに入って、ラグビーマガジンチームとか講談社チーム、小学館チームと試合をした。このときは面白かったな。プレーヤーよりもマネジメントの方がぼくには向いているとわかった。10年やってピタッとラグビーから足を洗った。つもりだったが、60歳のときに、三女が高校のラグビーのマネージャーになって、お父さんチームの一員になった。2~3試合出させてもらった。それでももう満足。こうやって振り返ってみると、好きで続けたラグビーではないけれども、ぼくの人生に確実に彩を与えてくれている。「あなた、ラグビーをやってなかったら、友だちもいないし、つまらない70年だったんじゃないの」家に帰って、妻にOB会の報告をすると、あっさり言われた。そんなことはないさ。ラグビー以外にもいろいろあったもの。だけど、ラグビーがかなりの割合を占めているのは間違いない。ラグビーをやったことと、今の動物に囲まれた生活と関係があるのかどうかわからないが、まあいいか、動物ラグビー部だ。ぼくは監督。みんなにポジションを与えよう。楽しく生きるための、チームとしての戦略も考えないといけない。
2026年08月03日
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2004年の中越地震で被災し、引っ越した東北で東日本大震災を体験した知り合いがいる。震度7に2回も遭遇するなんてどういうことだろう?こんな言い方は失礼だが、彼のくじ運の悪さというか、良さなのかもしれないが、その話を聞いたときは驚いた。考えてみると、熊本には、3回も震度7を体験させられた人がたくさんいるわけだ。これもまた失礼な言い方になるかもしれないが、3回もの生きる死ぬにかかわる強烈な出来事は、経験としてプラスに働くようになるのだろうか、それともトラウマとして残ってしまうのだろうか。ぼくは1回だけ、死ぬかもしれないという体験をしたことがある。30代前半のころだ。9月だったか、1泊2日で伊豆の下田へ取材に行った。仕事を終えて伊豆急下田の駅に向かうバスに乗った。前の日から強い雨が降っていた。もう一泊しようと思ったが、翌日は朝から打ち合わせがあったので、「これくらいの雨なら大丈夫だろう」と帰ることにしたのだ。バスに乗り込んだら、雨はますます強くなった。山間の細い道を駅に向かう。左側は崖、右は川。川はあふれそうな猛烈な勢い。ゴーゴーと音が聞こえてきそうな荒々しさだ。バスにはぼくと運転手を含め10人くらいが乗っていた。登山帰りのかっこうのおばさんたちのグループと若い男性2人。こんな雨でも電車は動いているのだろうか。東京への帰り道が心配になるほどの豪雨になっている。「あれ。どうしたのかな」バスが止まった。ぼくは後ろの方の席にいた。ワイパーがせわしく動くフロントガラス越しに前を見た。えっ!がけ崩れだ。土砂が道をふさいでいる。バスでも乗り越えるのは難しそう。仕方がない、戻るしかないな。Uターンできるのだろうか。後ろを見た。えっ! えっ! えっ!後ろも道がふさがっていた。それも崖沿いにあった家を飲み込んでいるではないか。バスは前にも後ろにもいけない。ここで夜明かしだ。明日になったら救助がくるだろう。まだ割と余裕があった。そんなときに、大きな音とともにバスが激しく揺れた。崖崩れだ。バスに直撃。バスは濁流が流れる川に向かって、ずずっと横滑りした。もう一撃あれば、バスごと荒れ狂う川に流さる。恐怖が突き上げてきた。もう余裕はない。ほかの乗客もバスの外へ出て、右往左往している。どうしていいのかわからない。みおんなパニックだった。再度がけ崩れがあれば、ぼくの名前はこの豪雨の被害者として新聞に載ったに違いない。一番冷静だったのは運転手だった。地元の人だった。「ここを登れば蓮台寺の駅がある。そこまで歩けば大丈夫だ」彼は崩れた崖の横の比較的緩やかな斜面を登り始めた。ほかの人はどうしていいかわからず、おろおろしている。二番目に冷静だったのはぼくだった。「運転手さんについていくよ。ここを登るよ」ぼくが声をかけると、ほかの人たちもぼくのあとに着いてきた。運転手さんに先導してもらって、蓮台寺の駅にたどり着いた。3時ごろに登り始めて着いたのは5時。雨に濡れてびしょびしょの体だった。たぶん、運転手さんがバスから無線で連絡してくれたのだろう。蓮台寺の駅にレスキュー隊がやってきてくれて、ぼくたちを救出してくれた。このブログを書いていて「あれっ」と思ったことがある。35年ほど前の話だが、ぼくは今の今まで、崖崩れでつぶれた家の人たちのことを考えたことがなかった。数十メートル後ろで家がつぶされていたのに。作業小屋だったのか民家だったのか、そこも記憶はないが、民家だったら、人が生き埋めになっていたかもしれないのだ。もう自分たちのことで精いっぱいだった。そして、助かったら、良かった良かったで精いっぱい。あのとき生き埋めになっていた人がいたとして、ぼくには何もできなかった。しかし、そこに意識が向かなかったことに、あれっという思いがあって、今、ぼくは不思議な感覚の中にいる。バスの運転手から連絡はいっているだろうけれども、もっと「大変だ! 住宅がつぶれて人が生き埋めになったかもしれない!」と大騒ぎしても良かったのではないか。レスキュー隊の人に話しても良かったではないか。それも、そのことに気づいたのは35年後とはどういうことだろう。熊本で大地震があって、イオンの爆発でも、スタッフの人たちはお客さんを安全なところに誘導して、ほっとしてお店に戻って亡くなった方もいるそうだ。自分の身も危険なときに、人のために動ける人を、ぼくは尊敬する。バス会社が手配してくれた宿に着いて、お風呂に入ったときの幸せ感。おむすびがおいしかった。ビールは最高。その陰で、35年間、土砂に埋もれた家のことは覚えていても、その下にいるかもしれない人のことは考えたこともなかった。今更ながら、もしあの家の下で亡くなった方がいたら、ご冥福を祈りしたい。でも、なんで今。たぶん熊本の地震が引き金だろうが、これまでの災害では思わなかったことを、今回は・・・。なんでだろう???
2026年07月31日
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暑い暑いと言いながらも、去年に比べるとましなような気がする。毎朝6時くらいには犬を散歩させている。玄関を開けて外へ出ると、この時間なら、気持ちいい風に包まれることが多い。去年は、風はあってもむっとした熱風だった。近くに小学校があって、裏門のところに大きな木がある。名前はわからないが、さわやかな木陰を作ってくれるありがたい木だ。今年は、その木の下を歩くたび、うるさいほどのセミの声が降り注いでくる。去年もセミの声はあったが、こんなにも響き渡るような大音量ではなかった。昼間はセミの声が消えてしまっていたのではないかと思うほど静かだった。暑さでセミも鳴く元気がなかったのが、去年の夏だった。ぼく自身のことで言えば、今年は昼間でも外で働こうという気力がある。暑さがやわらいだわけではなく、体力が向上したのかもしれないが、ぼくは暑さの質に違いがあるのではと思っている。テレビやネットを見ると、猛暑だ酷暑だ40度超えだと騒いでいるが、数字は参考にしつつ、自分の感覚やまわりの状況を大事にして動いていきたい。日向だと耐えられない暑さであっても、日陰に入ると、ぐっと過ごしやすくなる場合もある。「今日は38度だから」と気おくれするのではなく、日陰でできることをやってみる。ぼくはそうしている。ヤギたちは上手に涼しい場所を選んで休んでいる。気持ちよさそうに目を閉じて、口をもぐもぐ動かして、暑い日中を過ごしているのだ。数字に右往左往してきた人間たちも、そろそろ野生のカンを取り戻して、自分の感覚で動くことをしていかないと、自然の猛威に押しつぶされてしまう。AIもいいが、人間はもっと優秀な感覚をもっているのだから。
2026年07月31日
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昨日は母の命日だった。亡くなってから4年になる。3年近く一人暮らしだった。近所の人が良くしてくれたが、さみしかっただろうと思う。母をひと言で言うと、「過剰な心配性」だった。近所の人も口をそろえて言う。何か事故があったニュースを見ると、すぐに電話がかかってくる。「あんたな、こんなことがあったんやに。気をつけやんとあかんよ」とにかく、悪い方悪い方へ考えるタイプだった。娘がこう言った。「おばあちゃんはお父さんのこと、鳥かごに入れて、ずっとそばに置いておきたいんじゃない」それくらいいつも心配心配だった。うっとおしいと思うことがどれほどあったか。友だちに愚痴を言うと、「心配してくれるのは母親くらいや」と、薄っぺらい反応しかない。もうちょっと深く考察してほしいものだ。ぼくは、子どもにとって母の言葉は大きいと思う。心配してくれるのはありがたいことだが、度が過ぎると、母親の言葉がまるで現実に起こったことのように頭にインプットされ、トラウマとして残ってしまうのだ。だからと言って母親だけを責めることはできない。母親の母親、つまりぼくの祖母だが、母に輪をかけてひどい心配性だった。母も祖母から、「あれは危険」「気をつけなあかん」とさんざん言われて育ったのだと思う。心配性の親が心配性の子どもを作る。ある小学生は動物が嫌い。特に犬には近づけない。実は、その子の母親も犬嫌い。「犬は怖い」と小さな子どもに植え付けていた。話を聞くと、おばあちゃんも犬嫌い、動物嫌い。ひいおばあちゃんも。このままだと、この家系はほぼ永遠に動物嫌いが続くだろう。別に犬が嫌いでもかまわないけれども、心配性も不安も恐怖も怒りも喜びも。感情の多くが、親、その親、さらにその親・・・の感情や行動、価値観を学習して作られたものなのかもしれない、と考えてみてはどうだろうか。ぼくも心配性だ。母から学習したものだろう。そう思うと、自分の性格だと思い込んでいいたものを、少しは客観的に見ることができる。だからと言って、親を恨むのではなく、学習したものだから、何とか変えることもできるはずだと、情報の上書きを試みればいいのだ。「心配」を「大丈夫」に変えればいい。母の命日、仏壇に手を合わせ、お墓参りをして、母のことを考えていた。大事に育ててくれた。ありがたいことだ。しかし、この歳になっても、親の価値観に縛られているところもある。「心配」という縄で次の世代も縛るのは、できるだけなくしたい。母も苦しかったに違いから。それも感謝の気持ちだ。
2026年07月30日
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熊本での震度7には驚いた。10年前の2016年にも震度7の大地震があった。それも1日おいてまた震度7という考えられないような被災だった。震度7。めったに起こらないような大揺れだ。震度7が初めて観測されたのが1995年の阪神・淡路大震災だった。それ以降31年で8回観測されている。阪神・淡路大震災(1995年)、中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、熊本地震(2016年 2回)、北海道胆振東部地震(2018年)、能登半島地震(2024年)に続く、8回目の震度7が熊本で起こった。8回中3回が熊本というのもどういうことなのだろうと思ってしまう。しかし、ほかの地域は大丈夫かと言えばそれはない。どこも同じ災害に見舞われる可能性は十分にある。「震度7の地震はどこにでも起こるよ。そして、その被害は、これまでの8回で十分にわかったでしょ」そんなメッセージとして聞く必要があるのではないか。イオンの爆発も、「原発だって簡単にあんなふうになるよ」という警告に聞こえた。2011年にぼくたちは体験しているのだから、何が大切か、真剣に考える。そうでないと、いよいよ待ったなしの危機になる。うちの近くでなくて良かったと胸をなでおろしたとしても、そんなのは一時的なもの。今日あるいは明日、自分の住んでいるところが昨日の熊本と同じ状態になっても不思議ではないのだ。自分事と考えて行動しないといけない。まずは自分の家。わが家は、5人の家族と、ヤギ6頭、犬7匹、ネコ7匹、ニワトリ3羽がいる。熊本のような地震があっても、動物たちを見捨てるわけにはいかない。実家は築30年ほど。作ってくれたのは、父親が旅行中に露天風呂で出会って、この人ならと感じて頼んだ大工さん。父親も腕のいい職人だったので、話をするだけで大工さんの腕を見抜くだけのセンスはあったはずだ。いい材料も使った。だから、震度7にも耐えてくれるはず。しかし、ライフラインは心もとない。停電したらどうする?隣に太陽光発電所(ソーラーシェアリング)を建てたから、そこから電気をとればいい。夜は困るので、蓄電機を用意しないと。水は?村には井戸水を使っているところもあるので、みんなでシェアするか。うちの井戸も水が出るようにしないと。雨水をためて濾過するシステムが必要かも。田舎だからどこにも米の備蓄もあるし、野菜は畑でとれる。何とかなるだろう。次に村。わが家はこれから、倉庫を犬たちが遊べる場所に改装しようとしている。エアコンもつける。ここに太陽光発電の電気をつなげば涼しく過ごせる。村の人全員は無理だが、少しは役に立つだろう。公民館があるが、古いし耐震性が十分とは思えないので、避難所にはならない。ここを災害時にも快適に過ごせる場所にすることも考えないといけないだろう。お金のかかることなので、簡単には進まないだろうが、一人暮らしの人でも、いざというときにはここがあるからという場所があったらどんなにか安心できるか。正直、これまで震度7の大地震が8回あったが、今まで以上に危機を感じる。ぼくの場合は、自分の家族と動物たちがどうすればいいかがメインで、村のことも少しは考えているレベルだが、さっそく動かないといけないなと思っている。被災された方、猛暑の中、どんな思いで過ごされているのか。亡くなった方もけがをされた方もいる。ほんの一部でしかないけれども、心痛が伝わってくる気がする。安っぽい慰めくらいしか言えなくて申し訳ありませんが、がんばって乗り越えてください。
2026年07月29日
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作家の東野圭吾さんが亡くなったニュースには驚いた。大腸がんだったとのこと。享年68歳。ぼくも東野さんの作品はずいぶん読ませてもらった。とんでもなく感動した作品は思い出せないけれども、どれもワクワクしながら、一気に読み進めることができた。すばらしい作家さんだったと思う。小説家の方がよくおっしゃるが、あるところまでいくと、作中の人物が勝手に動き出すそうだ。作家は、登場人物に命を吹き込む役割なのだろう。だから、自分自身のエネルギーを高く保っていないといけない。あるいは、まさにチャネラーのごとく、宇宙からのエネルギーを中継する力が必要だ。同時に、緻密な設計図があって、それをもとに、思考を重ね、イメージを膨らませて、文章表現の技術も高め、その上で、宇宙からの命が降りてくるのを待つ。そんな気がする。ぼくも文章を書いて生きてきた者として、死ぬまでに一度は、そんな体験をしたいものだと思う。東野さんには、たくさんのすてきな作品を残してくださったことに感謝するとともに、ご冥福を祈りしたい。ありがとうございました。
2026年07月28日
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数日前、懸案事項だったことが3つ解決した。まずは倉庫の改装。予定では5月末から工事が始まっていたはず。しかし、事業も兼ねた場所にするため、市の許可が必要だということになり、設計士さんや行政書士さんにも入ってもらって、あちこちの部署に何枚もの書類を出し、「もうええ加減にしてくれ」とめげそうになっていた。その許可が下りた。これで工事がスタートできる。予算はかなりオーバーしてしまうが、まあ仕方ないか。2つ目がネコ。いずれは保護しようと野良ネコに餌付けしていた。わけありのネコで、どうしても面倒を見たかったからだ。そのネコが、なんと我が家の古い納屋で4匹の赤ちゃんを産んだ。どうしたらいいのか思案していた。暑い日が続く。親ネコだけなら耐えられるかもしれないが、生まれたばかりの子ネコはどうだろう。死んでしまうかもしれない。次女と相談して、「保護しよう」ということになった。でも、やったことがない。かまれたり引っかかれたら嫌だなという気持ちもある。「やるしかない」次女は腹を決めた。ぼくがサポート役。一度目は失敗。だけど、子ネコだけは保護できた。親ネコは子どもが心配だから、遠くまで逃げない。段ボールに入れた子ネコたちのところに近づいてきた。そして、ついにゲット。ホッとした。3つ目がエアコン。2019年につけた10畳用のエアコンの効きが悪い。フィルターも掃除もした。それでもダメ。亡くなった母が購入したもので、たぶんここで買っただろうという電気店に電話をした。その日の夕方には来てくれた。冷風が出るところにほこりがたまっているのではと、手でごしごしこすってくれた。固まったほこりが落ちてきた。それで直った。今はとても快調に動いてくれている。同じ日に3つも解決するとは。うれしくなってきた。いい流れだ。この調子で進んでいきたい。
2026年07月27日
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家内と長女が1泊2日で山梨へ行っていた。山梨は、コロナ禍のころ、東京から移住して、4年間過ごした。そこでヤギを飼った。桃やすももの無農薬栽培にもチャレンジした。生活ががらりと変わった、とても思い出深いところだ。ちょうど桃の収穫の時期。山梨には何ヶ所かはね出し(贈答品にはならない)桃が買えるところがある。見かけも味も別に問題があるわけではない。少し傷があったり、へこみがあったりするものが、とても安く買えるのだ。彼女たちが行った一番の目的ははね出しの桃を買うこと。そして、山梨でお世話になった人にも会ってきて、なかなか充実した2日間だったようだ。桃はこちらでお世話になっている人や、近所の人に配った。すごく喜ばれた。わずか4年しかいなかったが、桃はぼくたちにとっても特別な果物だ。春には桜の前だと思ったが、濃いピンクの花が咲く。それが一面に広がっているところがあちこちにあって、あの桃色を見ると幸せを感じる。今のような収穫の時期には、「山梨では桃とぶどうはもらうもの」と言われているように、近所の人が「これ食べて」と届けてくれる。4年間でこれまでの人生60数年分の桃をいただいた。高級ブドウのシャインマスカットも十分すぎるほど味わった。そういう面では本当にぜいたくな生活をした。だから、桃をプレゼントして喜んでもらえると、ぼくたちも幸せになる。鈴鹿で生まれ育って、名古屋の大学へ行き、富山県の会社に就職して、また鈴鹿、名古屋でアルバイト生活、再就職。そして東京へ出たのが28歳のとき。埼玉県にも長く住んで、山梨、鈴鹿と続く。大学を出てからは、サラリーマンを少しやり、東京ではライター業、山梨へ行ってからヤギを飼い、果樹を育てるという体験をし、鈴鹿ではヤギばかりでなく、犬もネコもニワトリも一緒に暮らしている。さて、これからどうなっていくのか。住む場所が違えば文化や習慣も違う。会社を辞めなければ東京で暮らすことはなかった。コロナがなかったら山梨へは行っていない。家族で、「あそこにいたときには」と話すのも楽しい。一ヶ所でずっと暮らすのもいいと思うが、ぼくは、いろいろな地域で過ごせて良かったと思っている。楽しい人生を送らせてもらっていることに感謝したい。
2026年07月25日
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最近は、朝の5時に起きて、5時半には実家に向かう。1匹ワンコ(トイプー)の面倒を見ているので、ミタラシという名前のちっちゃな犬と15分くらいの距離を歩く。驚くのは、すでに数人のお年寄り(ぼくよりも7~8歳は年上)が、畑で仕事をしていることだ。「おはようございます。早いなあ」「あっついから朝のうちに仕事しよと思て」毎朝、同じあいさつを交わす。うちの両親もそうだったが、田舎の年寄りはよく働く。することがないからと言う人もいるが、そんなことはない。近くの公民館で、ヨガをやったり、健康マージャンを楽しんだり、パソコンを習っているおばあちゃんもいる。今は大相撲名古屋場所をやっているが、相撲好きのおばあちゃんは、毎年一回、名古屋まで出かけていって、相撲観戦をしている。同じような年齢の仲間4人と、10時ごろから人もまばらな升席に座って、ビールを飲みながら、相撲を肴にわいわいやっているのだそうだ。畑仕事も、お年寄りにとっては相撲観戦と同じような趣味かもしれない。楽しみながら畑をやっている人は、イキイキしている。何月には何の種をまき、苗を植える。きちんとルーチンがある。この野菜が得意だというのもあるみたいだ。数人で種や苗のお店へ行き、買い物をするのも楽しい。「あそこの200円のソフトクリーム、おいしいよ」そんな情報をくれたりする。車を運転する人も決まっている。なかなかいいネットワークが作り上げられているのだ。80歳を過ぎると、そろそろ畑仕事もきつくなる。長年、近くの団地から、うちの村の畑を借りて野菜を作っているおじいさんがいる。ぼくが村に戻ってきたときには広い畑と狭い畑と、かなりの面積で耕作をしていた。雑草がほとんどない、きれいな畑だった。しかし、去年、大きい方の畑は返した。今年は狭い方の畑も荒れてきている。なかなか草が刈れない。今年は耕してもいないし、野菜の姿もちらほらしか見えない。朝早く、おじいさんの姿を見ることがある。一生懸命に鎌で草を刈っている。しゃがんで作業をしているので、細くて小柄なおじいちゃんの姿は草に隠れて見えない。草の上の方が動いているので、おじいちゃんが草を刈っているんだとわかって、声をかけたりする。「なかなか進まへんわ」おじいちゃんは嘆くばかりだ。シャツはすで汗でびしょ濡れだ。この間はさすがに見かねて、草刈り機で刈ってあげたりした。体力が急激に落ちてきているようだ。そろそろ畑からも卒業だろうか。そうやって畑をやる人が減っていく。5時ごろから働いている元気なお年寄りも、いつまでもやれるわけではない。田舎の畑や田んぼは消えていく。農業も企業化して、野菜が工場で作られる世の中になっていくのか。あるいは、もっと輸入に頼るのだろうか。田舎の景色が変わっていく。
2026年07月23日
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35度くらいの気温では驚かなくなった。このままだと40度が当たり前になるのかもしれない。子どものころ、夏の夕方、庭に出て、縁台に腰かけてスイカを食べたときの記憶。父親が線香花火を買ってきてくれて、暗くなると、小さな赤い球から火花が散るのに夢中になれたときがあった。あのころの夏には風情があった。今の夏は、悲しいかな、「暑い」のひと言で言い表せてしまう。ぼくはまだ、田舎に住んでいるから、ときどき涼しい風が頬をなでることがあって、それだけのことでほっとひと息つける。コンクリート砂漠の都会。クーラーの涼を求めてさまよう難民たち。かつてはぼくもその一人だった。ちょっと油断すると周囲を覆い尽くす雑草には参ってしまうが、もう目をつむろう。秋になって元気をなくすまでのがまんだ。蚊やアブに刺され、むかでの出現におびえる。これも愛嬌さ。それでもやっぱり。ぼくは田舎の方が好きだな。ははは。あんなに田舎が嫌いだったのに。人は年を重ねれば変わるもの。
2026年07月21日
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我が村の最年長は95歳のおじいちゃん。2番目がその奥さんで93歳。最年長おじいちゃん、この暑い中、毎日、畑に出ている。おばあちゃんの姿もときどき見る。おじいちゃんの口癖は、「もう何にもできん。生きとるだけやわ」いやいやそんなことないでしょ。きちんと立派な野菜を育てている。「畑のことはひろっさんに聞けば何でもわかる」80歳のおばあちゃんの話だ。95歳のヒロシおじいちゃん。みんなからはひろっさんと呼ばれている。早朝、お寺の入り口でひろっさんに会った。「おはようございます」あいさつすると、ゆっくりとぼくの顔を見る。「おはよう。毎日、お参りしとるんやわ」ひろっさんの姿を見る時間と場所から想像すると、まず、彼はお寺参りをする。鍵がかかっているから、御堂に上がる階段の前で手を合わせるのだろう。それからお墓に向かう。台車のようなものを押して歩く。腰が曲がっているので、ほとんど地面ばかりを見ながら歩く。耳が遠いので、車がきても気づかない。ひろっさんのことを知っている人は、ひろっさんの姿を見ると車を止めて、彼が気づいて横によけてくれるのを待っている。クラクションを鳴らしたりはしない。お墓参りのあと、たぶん家で朝ごはんだと思う。ひと休みしてから畑へ行く。今は暑い時期なので、朝食前に畑仕事をしているかもしれない。暑い夏以外は、昼ごはんを挟んで、ずっと畑にいる。そして、4時前には帰る。大好きな「水戸黄門」をテレビで見るためだ。お風呂へ入って晩ご飯を食べて、早くに布団に入って、また翌朝、お寺参りからのルーチンが始まるのだ。淡々と日々を生きるすごさを、ぼくはひろっさんから感じている。たまに話をすることがある。彼が決まって言うことがある。人生唯一の悔い。ひろっさんは長い間、村の世話役(自治会長)を務めてきた。村を支えてきた功労者だ。「あのな。わしはな・・・」ぽつりぽつりと話始める。うちの村には、南北に2本のメイン道路がある。ひとつは昔からある道。車もすれ違えないほど狭い。もうひとつが、少し西側を走る、車がぎりぎりすれ違える道。ぼくが村を出てしばらくしてできた新しい道だ。新しい道ができて、西側に位置していた家にも、救急車や消防車が入れるようになった。いざというときには、この道は役に立つ。広い道を作るに当たって、リーダーシップをとったのがひろっさんだった。田舎の人は、地域のためとは言っても、自分の土地を提供するのは嫌がる。一軒一軒説得して回って、市役所とも話をして、やっとのことで工事が始まった。大仕事だったと思う。さて、ひろっさんの悔いとは。もう一本の狭い道についてだ。昔からある道。この道も広くしようと、ひろっさんは動き始めた。何十年も昔の話だ。新しい広い道ができたものの、残念ながら、その道は村を抜ける寸前で行き止まりになっている。だから、メイン道路にはなりえないのだ。村を便利にするためには、古い方の道を広くしないといけないと、ひろっさんは考えたのだ。うちの父親はひろっさんのいい相棒だった。当時は20世帯くらい。毎晩毎晩、手分けして説得に回ったのだろう。「ほんとにそれだけが心残りや。一人だけ賛成してくれんかった。それで道を広げれんかった。反対した奴ももうとっくに死んでしもたけどな。説得できんかった。もうちょっとやったのにな。一人でも反対する人があるとうまくいかん」ひろっさんはため息をつく。たぶん、あの道を広くするとしたら、そのときがラストチャンスだったと思う。今だったら、道の両側から家や倉庫やブロック塀が迫っていて、広げるのは無理だ。とりあえず、西側の新しい道を作ったことで、どうにか緊急車両がすべての家の前まで行けるようになった。それだけでも大した功績だと思うが、ひろっさんは納得していないのだろう。吹けば飛ぶような村ではあるが、たくさんの人の苦労があって維持されてきた。ぼくはひろっさんの次の世代として、村の今と未来を考えていかないといけない立場だ。ご先祖様をたどれば、たくさんの方々が、この村で喜怒哀楽の暮らしを送ってきた。その事実の積み重ねが、今にあるわけで、ひろっさんがとぼとぼとお墓に向かって歩いていく姿を見ると、彼の曲がった背中に、村の歴史を感じてならない。どうすれば、ご先祖様が喜んでくれるのか、ぼくにはわからないけれども、ご先祖様たちから何か託されているような気がしてならない。とにかく、特徴のある村にしたいと思って、今は動いているところだ。ひろっさんが、「あいつが帰ってきて村が変わってきた」と喜んでくれれば、ぼくのやっていることは間違いないと判断することにする。
2026年07月20日
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昨日書いた物置きの改装の件だが、なかなか物事が動いていかないときは、立ち止まるときだと思っている。思ったようにいかないと、ついついがんばって何とかしようとするが、動かないものはどうがんばっても動かない。それでも、ちょっとだけ角度を変えて取り組んでみると、すーっと前進したりすることがある。願えば叶うという神話があるけれども、願いは「我」でもある。この世は、我を超えた大きな力が存在していて、その力は、自分が本当に進むべき道へ導いてくれるものだ。叶わない方がいい願いもあるわけで、間違った願いに固執していると、さまざまなトラブルに見舞われて、ストップがかかるものだ。うちの妻は、生まれ育った札幌で一生を過ごすとつもりだった。大きな会社でたくさんの給料をもらって、結婚もするつもりなく、おいしいものを食べたり買い物をしたり海外旅行をしたりして生きていくという、決して高尚ではない人生設計を立てていた。それが彼女の願いで、20代後半までは順調だった。ところが、あるとき交通事故にあった。車で帰宅するとき、交差点で信号無視の車に左横からぶつけられて、車はひっくり返るほどの衝撃で大破。大けがをしなかったのが不思議くらいの大事故だった。ひどいむち打ち症になって、つらくて苦しい1年間を過ごすことになる。そんなときに、一枚のチラシを母親の知り合いが届けてくれた。それが真氣光という気功との出あいだった。わずか15分ほどの治療、それもビデオから氣を受けるという信じがたいような施術で、どれだけ苦しんだかわからない首や頭の痛み、倦怠感がきれいに消えてしまったのだ。彼女は大企業を辞めて、真氣光の会社へ就職する。困っている人を助けたい、世の中を少しでも良くしたい、真氣光の中川先生の手助けをしたいという、彼女の「やるべきこと」が表に顔をのぞかせたのだ。勤務先は東京。小さな会社だ。ここで札幌から出ない、大企業で働くという願いがひとつ崩れた。さらに、ぼくと知り合って結婚する。一生独身、そして経済的に苦労しないという願いを反故にすることに。子どもが生まれて、生活の浮き沈みはもっと激しくなる。彼女は都会生活が好きで、大きなデパートのないところには住まないと公言していた。コロナ騒ぎが彼女の願いを崩す。山梨に移住することになったのだ。ぼくが言い出したわけではない。妻が決めて積極的に山梨移住に向けて動き出した。ヤギを飼ったのも、彼女の発案。自分の人生設計(願い)はどんどん崩されていく。そしてついには、ぼくの実家のある鈴鹿に越した。これも彼女が言い出しっぺだ。「これしか選択がなかったのだから仕方がない」と妻は言う。大きな力は、仕方がないと思えるような形に追い込んでいき、願いなんて粉々になってしまう。しかし、どこか居心地の良さを感じさせてくれるのが、大きな力の演出なのだ。ヤギだけでなく、犬やネコ、ニワトリもいる。大きなデパートなんかない。ぼくにはまったく不満がないが、妻はこの生活に満足しているわけではない。まだ、かつての「願い」に未練があるのはよくわかる。しかし、ここまでどうやって運ばれてきたかを、冷静に見直してみれば、ちっぽけな我を手放すしかないとわかるはずだ。ぼくたちが置かれている状況の中で、上手く行っていることは何か? を見れば、これから進むべき流れがぼんやりと姿を現すはず。今まで進んできた道も大きなヒントになる。そこに一手を打てば、物事は一気に動き出す。今、ぼくたちはそういう節目にいる。焦ることはない。間もなく扉が開く。これまでの流れからすると、扉の鍵は妻が握っているはずだ。
2026年07月19日
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物置きの改装を準備している。父親から聞いたのは、1959年の伊勢湾台風のとき、うちの山の杉の木が何本も倒れたそうだ。それを材料にして作ったものだということは、築60年以上の古い建物だ。壊して新しいのを建てるという選択もあるかもしれないが、じっくり見回してみると、立派な柱や梁が、筋肉むきむきの腕のような趣で、台風でも地震でもどんとこいと言わんばかりに、建物の強度を保証してくれている。ところどころ崩れているが、少し黒ずんだ土壁はやさしい老女のように、暑さ寒さから中を守ってくれている。この昔ながらの部分は残した上で、入った人がほっとできるような空間はできないものだろうか。そんなことを念頭に置いて、父親のなじみだった工務店に相談した。父親と仲の良かった社長はすでに鬼籍に入り、息子さんが跡を継いでいた。縁とは面白いもので、その新社長、リフォームを得意としている。彼が施工した建物の写真を見せてもらったが、「和風」「自然」「癒し」をテーマにした、まさにぼくの好みとぴったりだった。父が引き合わせてくれたのだろうか。若いころ、父が前社長に引き合わせてくれたことがあった。そのときに言ったのは、「あいつはログハウスとか変わった建物に力を入れとるんや。お前と話が合うんと違うか」まだ「癒し」の世界に足を踏み入れる前の話だから、なぜ、ログハウスとぼくと結び付けたのか、いろいろ話をする中で、ぼくの嗜好をかぎ取っていたのかもしれない。確かに当時のぼくはログハウスにはひかれるものがあった。あるいは、変わり者同士、気が合うと思ったのか。そのことが記憶にあって、ぼくはその工務店に何十年ぶりかで電話をした。妻や娘と話して、改装をお願いすることを即決した。何度か打ち合わせをして、1階はヤギの見学に来たり、ドッグランで遊ぶ人たちが休む場所にすることにした。次女のキッチンカーで料理や飲み物を購入してもらい、おしゃべりでもしながらゆっくり味わう空間にすればいい。2階部分は図書室にする。仕事柄、ぼくはたくさんの本を持ち帰ってきた。かなり減らしたが、それでも何百冊とあるのではないか。それを壁面にずらりと並べようと思う。興味ある人に読んでもらえば、段ボールに入ったままだった本も喜んでくれるだろう。4月12日に契約をした。5月末から工事が始まって、今ごろは完成しているはずだった。ところが、大きな問題が行く手をはばむ。この地域は市街化調整区域に指定されているのだ。農林漁業をすることが優先されている場所で、市街化が抑制されており、建物の新築や増築、改装などに関して、さまざまな制約が設けられている。市役所と何度も話をしたが、特にうちのように、事業化を見据えたものに関しては、がんじがらめの規制がいくつもある。村が少しでも活性化するように、人が集まるような場所を作ろうというのは、市街化調整区域を管理する立場からすれば、言語道断、何を寝ぼけたことを言っているんだと、すばっと切り捨てられる事案なのだ。ビジネスを伴わない単なる改装なら問題はないが、資産家の年寄りが、故郷のために財産を使おうというのならともかく、日々の生活費を稼がないといけないわが身。家族が力を合わせて働き、そこそこの生活をして、その上で故郷の役にも立つという最高の計画だった。「次はこの書類を出してください」「ここを確認してください」市役所から返事があると、がくっと下を向く。それでも粘りに粘って、市役所の中にも応援してくれている人も現れ、親身になって手伝ってくれる人とも知り合うことができた。もうひと息のところまだ。最前線でがんばってくれている次女は、市街化調整区域の制約についてはだれよりも詳しくなったのではと思えるくらい、情報をたくさん集め、知識が豊富になった。ここまできたのだから、何とか踏ん張って、実現させたいと思う。「ハードルが高ければ高いほど燃えるんです」ぼくはそこまで強くないが、そういう人は間違いなくいて、面白いことを成し遂げている。うちの場合は、5人力プラス仲間の応援で目の前のハードルを乗り越えていく。あの物置きが、ステキな場所に様変わりしている姿をイメージしながら、市役所の要求を粛々とこなしながら、次のステージに進んでいきたいと思う。
2026年07月18日
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テレビドラマはあまり見ないけれども、「日曜劇場」は楽しみにしている。間もなく始まるのが『VIVANT』の続編。前作は3年前。妻と長女と、ああだこうだと展開を予想しながら見ていた。ネットニュースで流れてきたのが、原作者で演出を担当する福澤さんにパワハラがあったという話。でも、パワハラとかセクハラとか、ほかにもいろいろなハラスメントがある。だいたい、ハラスメントって何なんだ?「嫌がらせ」のことらしい。意図的な嫌がらせならパワハラと認定されても仕方ないが、仕事ができなかったり、大きなミスをすれば、上司からしかりつけられたりするわけで、果たしてそれを「パワハラ」と騒いでいいのかという疑問がある。まだ25~6歳のころの話。こんなことがあった。ぼくは名古屋にある小さな会社で営業マンをしていた。大手の自動車部品メーカーに商品を卸していて、在庫を最小限に抑えるという経営方針から、「すぐにもってきてくれ」「3日以内に」短納期の仕事がどんどん入ってくる。一番売り上げの多い会社だったので、「できません」なんて返事はできない。しかし、こちら側の現場も段取りがあって、「これ急ぎでお願いします」と発注すると、「またか」「そんなのできるか」とぼろくそに言われて、納期が遅れれば、大企業の購買係からはひどい言葉でののしられる。つらい苦しい板挟みだ。下請けの悲哀に何度悔し涙を流したことか。「なんでこんなことを言われないといけないのか」と、歯を食いしばりながら車を運転していると、涙がボロボロこぼれてくるのだ。これくらいはぼくたちの世代の人なら体験しているだろう。ぼくがあきれ返ったのは、1982年(昭和57年)。中日ドラゴンズが8年ぶりに優勝した。今日勝てば優勝だというので、ぼくは仕事が終わるや栄に出て、街頭テレビの前にいた。そして、優勝が決まった瞬間、大声をあげて万歳を繰り返していた。そしたら、目の前に長いマイクが伸びてきて、「おめでとうございます! 今の気持ちは?」とインタビューされた。「最高です! もう最高!」涙目になりながら興奮の声を返した。夜、喜びを反すうしようとNHKのスポーツニュースを見ていた。そしたら、「最高です! もう最高!」栄で興奮しているぼくの姿が映し出されたのだ。翌日、営業に回った。例の大企業には毎朝顔を出す。「おはようございます」とにかく元気にあいさつをすることは心がけていた。むすっとした顔をした購買担当者が出てきた。いつもむすっとしているので慣れっこなのだが、彼のこの日のひと言目は、「お前、今日から出入り禁止」なんじゃそりゃ。納期の遅れもないのに。「はあ」素っ頓狂な声を上げたと思う。理由の言わず、彼は部屋へ戻っていった。「おい、おい」もう一人の購買担当者が声をかけてくれた。「お前さあ、昨日テレビでおおはしゃぎしていただろ。あの人も課長も巨人ファンで、スポーツニュースを見て怒りまくっているよ。しばらく姿を見せない方がいいぞ」一週間、ぼくは出入り禁止になった。会社の上司にも、「何やってるんだお前は」と叱られた。無茶苦茶理不尽な話だと思うがどうだろうか。今でもあの購買係の仏頂面は覚えている。職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものこれがパワハラの定義。営業マンとお客さんの関係で、関係性の優劣は明確だし、業務上の範囲を超えているし、ぼくの就業環境も害された。職場ではないから、カスタマーハラスメントになるのか。ぼくは、小さな会社の営業マン時代の3年間で、企業社会の構造がよくわかった。大企業中心の社会に疑問をもつようになったのだ。その後、「西洋医学だけが医療じゃないんじゃないの?」「農薬や化学肥料を使う農業ってどうなの?」「便利さばかりを追求していいんだろうか?」「人間が一番という考え方もおかしいよ」「動物たちにも植物たちにも意思や言葉がある」「障がい者たちの才能を生かしたい」といった考え方になっていったのは、あの3年間の理不尽さがあって、現代の価値観や常識に対して、クエスチョンマークをつけることができたからだと思う。本当にそういう意味では、とても貴重な体験だったのだが、ああ、あのころはハラスメント漬けだったなあ。
2026年07月17日
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本格的な暑さが到来だ。今朝から、朝の6時集合になった。それでも日はしっかり照って、村の人と顔を合わせると、「暑いなあ」というあいさつになる。ワンコたちの散歩から始まる。夕方になっても気温が下がらない。だから、散歩は朝だけにして、長めに歩くことにした。ぼくはチワプーとトイプードルを連れて行く。まっすぐにきちんと歩くチワプーと、多動気味で、右に左に行き先が定まらないトイプー。こっちは両手を広げたり交差させたり、止まったり引っ張られたり、とにかく落ち着かない散歩だ。帰ったら朝ごはん。ヤギのお世話。このころには、外へ出るとじりじりと肌が焼ける。今日はそのあと、次女と一緒にヤギたちのエサになる草を取りに行った。次女は草刈り機の扱いが上手だ。しかし、今日は肩掛けベルトの留め具が壊れていて、新しいのと取り換えたりしてスムーズに進まない。外で直そうとしたものだから、その分、暑さのダメージも大きい。やっと数日分の草を集めてきたら、汗びっしょり。着替えてスイカを食べてほっとひと息入れた。これが11時くらい。もう一日分働いた。筋肉は消耗していない。暑さは、何に影響があるのだろうか。全身が倦怠感というか脱力感に包まれる。家に戻ったら、次女は頭が痛いと横になっていた。軽い熱中症だったかもしれない。まだ今日は風があって、ぼくの記憶では、去年の暑さには届かない、「ましな方」だ。ここ数年、35℃超えが当たり前になっている。暑さ、大雨、台風などなど、地球は確実に病んでいる。
2026年07月15日
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50年ぶりに故郷に帰ってきたのが一昨年のこと。ぼくが子どものころは陸の孤島のような村だった。30年ほど前からか、様相が変わってきた。山が切り拓かれて団地ができたのがきっかけで、徐々に我が村の近辺に住宅が立ち並ぶようになってきたのだ。自転車で少し走れば、田舎の家とは趣の違うしゃれた家が、広い道路が碁盤の目に整備された街並みにおさまった空間に出あえる。まだ銃が口は広がっていくようで、今でも造成が行われていて、かつてはだれも足を踏み入れなかったような山も、土がむき出しになり、トラックが土煙をあげて出入りしている。昔からの古い集落は空き家だらけになっているが、その周辺には新しい家がどんどん増えているという、ちょっとアンバランスな状態になっているのだ。いずれは我が村のような古い集落は姿を消してしまうのだろう。さらに10年近く前に、バイパスが近くを通り、車で移動するには便利になった。秋には、バイパスの横に大きなスーパーができる。「ぼくが住んでいるところはすごい田舎なんです」昔のイメージがあるから、ついついそんなふうに紹介してしまうが、実際に来た人は、ポツンと一軒家のようなところを想像してしまうのか、「思ったより都会じゃないですか」と期待外れの表情を見せる。うちの村へ来るときには、北側から入るといい。南側は、今言ったように団地が広がりつつあるけれども、北側からくると、田んぼがずっと広がっている中に、まっすぐな農道が伸びていて、突き当りがこんもりした山になっていて、細くて急な坂がある。トンネルのように竹や木々が上を覆っているので、この先に家なんてあるのだろうかと不安になるようなところだ。ある若い人は、「トトロの村に来たみたい」と喜んでくれた。坂の頂上部分、「トトロの村」の入り口にヤギたちがいる。昔ながらの古い家が何軒か立っているので田舎の風情がある。もう少し整備すれば、このロケーションはなかなかの売りになると思う。この坂を降りたあたりで、6月にはホタルが見られる。別の若い人はこう言った。「何か東南アジアの農村に来たみたいです」感慨深げにヤギスペースのまわりを歩いていた。彼は世界各国を旅行したことがあるそうだ。この村には、いろいろな要素が詰まっていて、住んでいる人にはわからない価値を、外から来た人が見つけてくれる。実は、この春から村の人たちに声をかけて、2ヶ月に一度くらいの割合で飲み会をしている。10数人が集まってくれる。先日、「村の外の人たちにも声をかけましょうか」と提案した。みんな賛成してくれた。9月にはバーベキューをする。村の外の人も数人が参加してくれる。長く住んでいると、自分の村のいいところが見えてこない。しかし、自分たちが価値を見出さないところに、外から来た人は感動してくれると、住んでいる場所が嫌いな人はいないわけだから、うれしいもので、故郷を見直すきっかけにもなる。外の人と触れ合うことで、前向きになれる村人も出てくるだろう。この村を舞台に、いろいろなイベントをしていこうと思う。人が集まれば知恵も出てくる。さっき言ったように、南側から入って北側を見て回ったり、逆に北側から入って南に歩いていくとか、ひょっとしたら、この村の楽しみ方というのがあるかもしれない。↓この間の大音寺でのイベントには32人もの方が集まってくれた↓ヤギたちが出迎えてくれる
2026年07月14日
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先週は夏休み前の最後の授業だった。工業高校の定時制に、週に一度、非常勤講師として通っている。学業という面で言えば、レベルは高くない。意欲をもって勉強する子もほとんどいない。「高卒の資格くらい取っておこう」くらいの気持ちで入学してきたのだろう。ほかに行ける学校もなく仕方なく入学し通っている子たちだ。昼間はバイトをして、夕方5時半から80分授業が2コマ。終わると8時35分。それを4年間。気分が乗らないと、「今日くらい休んでいいだろう」と思うときもあるはずだ。一度休むと、学校へ行くのが面倒になったりする。興味のない授業はつまらない。先生の側だって、ぼくも実際にやってみてわかったけれども、やる気のない生徒に向かって話をするのは、気持ちが乗らないもの。適当に80分を過ごすのは生徒ばかりではないのだ。かと言って、熱血の先生はうっとおしいわけで、どっちにしろ、彼らにとって平日の夕刻は、遠い世界の出来事のように他人事として流れていく。それが週に5日。高卒の資格くらいというモチベーションではなかなか続かない。お金がもらえる分、アルバイトの方が面白いわけで、結局、学校へ来なくなる子も少なくない。ぼくが所属する科の4年生の場合、12人が入学したが、6人が退学した。残った6人も好きで通ってきているわけでもないが、それでも4年間通っただけでもほめてあげないといけないのではと思うのだ。昨日は休み前なので、4年生は雑談の時間にした。ヤギやワンコの話、これからは世の中が大きく変わって農業が大事になる気がするという話、イルカのことも少し話した。教壇に立つぼくの前にいるのは3人だけ。だけど、真面目に聞いてくれる連中なので助かる。一人、ほとんどしゃべらない子がいる。寝ることもなく、よそ見もせずにきちんと話を聞いている。しかし、授業の内容がわかっているかと言うと、ほとんど理解していない。わからないのに毎日学校へ来て、居眠りもせずに話を聞いているというのも、またすごいことだ。この子の良さを見つけてあげたいと、いつも観察している。今日は発見があった。「お金を稼ぐのも大事だけど、もし農業がダメになったら食べ物が手に入らなくなるよ。輸入という手もあるけれども、世界中で食糧不足になったら、米や野菜を売ってもらえなくなる。そんなことあり得ないと思うかもしれないけれども、東日本大震災のときには東京でもスーパーの食料品の棚が空になったし、去年は米が足りないと大騒ぎになった。日本人がお腹いっぱい食べられるようになったのは、高度経済成長以降のことで、その前は食べ物がなくて餓死する人もたくさんいたわけで、また同じようなことになる危険性だってあるわけだ。自分の身は自分で守る。家庭菜園でいいので、食べ物を作るということを意識した方がいいと思うよ」そんな話をした。「でも、若い人は農業をやろうと思わないものな。農業やりたいと思うかい?」順番に聞いてみた。「いえ」と2人が答えた。3人目が無口な子だ。「君ならどう?」その子に問いかけた。こっちをしっかり見ているけど声は出ない。「農業は嫌いですか?」首を横に振った。「えっ、農業やりたいと思っているの?」うなづいた。ひょっとしてひょっとして、その子は4年間で初めて自分の意思を表示したのではないか。たしかにたしかに、その子が企業でうまくやっていけるとは思えないが、畑や田んぼで作物を育てている姿はイメージできる。人とは話せなくても、動物や植物とは気持ちを通わせることができるかもしれないのだ。「一度、うちに遊びにおいで。ヤギもいるし犬もいるし、畑もあるし。将来の参考になるかもしれないよ」下を向いてしまった。本当は来たいのだと思う。でも、それをぼくに伝えるのは、ちょっとハードルが高いか。ぼくができるのはそこまでだ。これから半年、週に一度だが授業がある。もう少し密なコミュニケーションができたら。畑で働く若者が一人増えるかもしれない。
2026年07月12日
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ある乳がんの患者さんの話。まだ早期の状態だったこともあり、主治医からは手術をすすめられた。主治医からすれば、早期なら手術で治るとわかっている。医者という立場からすれば正しい選択を伝えたわけだが、言い方がビタミン剤を注射しましょうくらいの軽い感じで言われたので、どう返事をしていいのか彼女も戸惑ったようだ。医者にとっては日常のことだけれども、彼女としては命にかかわる大事なのだ。それに女性にとっては、早期のがんとは言え、場所が胸だから、メスを入れることに抵抗があって当たり前だ。今は温存療法が主流と説明されても、彼女はすぐには「はい」と返事ができなかった。彼女はほかの医者にも診察をしてもらうことにした。できれば手術はしたくない。だから、西洋医学だけでなく、東洋医学や代替療法(西洋医学以外の治療法)まで視野に入れた治療をしている医者を探した。彼女が「この人なら」と感じたのは帯津良一先生だった。たくさんの著書があって、何冊か読んでみると、温かな人柄が伝わってくる。「こうしなければいけない」という医者にありがちな押しつけがない。「患者さんに寄り添う医療が大切だ」とどの本にも書いてあった。この先生なら手術をしたくない気持ちがわかってくれるだろうと期待をもって診察を受けたのだ。帯津先生は、手術や抗がん剤といった西洋医学の治療を否定しているわけではない。先生が考える、患者さんの現状にもっとも適した治療法を提案してくれる。しかし、手術が適していると思って伝えても、どうしても手術が嫌だという人も多い。先生は自分の考えを伝えた上で、「家族と相談して一週間後に返事を聞かせてください」と言って、その日の診察を終えるのだ。一週間後、「やっぱり手術をしません」と考えが変わらない人だったら、手術以外の方法を一緒に考えてくださる。彼女の場合も、先生の見立てだと、手術が一番の選択だった。決して難しい手術ではない。そのことを手術は嫌だという彼女にどう伝えるか。先生は言った。とっさに出た言葉だそうだ。「あなたみたいな美人ががんで死ぬなんて、私には耐えられないな」思ったことが口からぱっと出たのだろう。これが彼女の心を動かせた。「わかりました。手術を受けます」彼女は今も元気に働いているそうだ。ときどき帯津先生の診察も受けている。いくら初期と言っても、がんと診断されて平気でいられる人は少ない。動揺するし悩む。揺れ動く心に、どんな言葉が響くか。帯津先生のような粋なひと言が言えるのは、センスだろうな。だれでも言えるものではない。医学部では教えてくれない。こういう医者が増えたらいいなと、先生に会うたびに思う。
2026年07月10日
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「実は週刊新潮に『週間食卓日記』というのがあって、そこで私の食生活が紹介されました」わが師である帯津良一先生がうれしそうに話してくれた。今年の2月に90歳を迎えた現役バリバリの医師だ。ほとんどの患者さんが深刻ながんの人だから、エネルギーも使うだろうが、肌はピカピカ、いつもニコニコしていて、専制はきっと、エネルギーを使っても使っても減らないタイプらしい。気功をやっているから、常に補給していて不足することはないのだろう。さて記事だが、面白い。まずタイトルがいい。「朝からビール三昧。休肝日なくとも90歳まで無病息災」まさにその通りだ。6月9日から15日までの一週間の先生の食生活。「生ビール」が何回出てくるだろうか。一日一回なら7回ですむが、先制の場合は、出張だったり休日で診療がないときには、朝昼晩と生ビールをいっぱいやるのが楽しみになっている。この一週間では、9日に香港から帰国。火曜日だけど3回、水曜日は1回だが木曜日は昼に知り合いと食事をしたということで昼夜の2回。金曜日は1回。土日は北上に出張だったので6回生ビールが出てくる。一週間で合計13回も生ビールが出てくる。朝からビール三昧というのは当たっている。最後の献立評論家の方が採点をしている。「こんなに生ビールを飲んでいてはボロカスに言われるかと思った」普通はそう考える。でも、先生は悪びれない。言いたい人には言わせておけばいいという主義だ。そしたら、なんと100点満点で98点という高得点をつけてくれた。まあ、ずっと休肝日なしで、コロナで陽性になって地域の病院に入院させられたときも、「酒が飲めないなら帰る」と自分の病院でお酒の飲める入院生活を送った人だ。90歳まで大した病気をしたこともない。そんな人に、「お酒もほどほどにしてください」というのはおかしな話で、先生の元気な今が、98点という高得点につながったところもある。先生のお酒との付き合い方は、ひとつにはだらだら飲まないというのがある。6時ごろに飲み始めれば、だれが相手であろうと8時には引き上げる。好物をつまみながら、好きなお酒を飲む。話を合わそうとしない。沈黙が続けば静かに飲む。人のうわさ話や悪口は言わない。説教もしない。自慢話もない。それでいて、相手の人が愚痴を言ったり、不平を漏らしても、うんうんと黙って聞いている。「酒を愛することが大切だ」いつもおっしゃっているが、まわりを気にして飲むのは酒に失礼だという迫力がある。これだけ自分が愛しているお酒なのだから、体に悪いはずがないという、確固たる自信にあふれているのだ。ここまで慕われたら酒もさぞかしうれしいだろう。こういう飲み方をしてこそ、貝原益軒が言うような「天の美禄」になるのだ。新潮の記事を読んで、あらためて恐れ入りましただ。ぼくは、月に一度、先生と一献傾ける幸せな時間をもらっている。少しは先生に近づけないかと思うのだが、ここまでの度量の大きさは、ぼくには無理だな。
2026年07月09日
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定時制の授業ではプリントを配って、問題を解いてもらう。しかし、静かに問題に取り組むような連中ではない。わーわーと話をしたり、動き回ったり、無秩序状態だ。中には静かにしているなと思うと、AIで出した答えをそのまま書いて、「できました」とどや顔をしているのもいる。良し悪しは別にしてこれからはAIの時代になるから、ひとつの解決法としてありなのだろう。だけど、やはり危うい現実でもある。ぼくなりの考え方もあいつらに知らせたい。でも、まともに話しても耳を貸さないのは火を見るより明らかだ。この間、「ドラえもん」の第一巻を読んだ。1969年に連載が開始されたそうだ。60年近く前のこと。なぜドラえもんを読もうと思ったか。ドラえもんが出す道具が、あのころから見ると未来、つまり現代を予言したものだという話を聞いたからだ。確かに、ドラえもんの定番であるタケコプターはドローンだ。どこでもドアはVRかもしれない。こんな話があった。のび太がゴロゴロしていると、ママから「庭の草を抜いて」と命じられた。のび太はこのままゴロゴロしていたい。でも、やらないとママにこっぴどく叱られる。困ったときのドラえもん頼み。ドラえもんものび太には甘いので、面白い道具を出してくれた。その道具を使えば影を切り離すことができる。影はご主人様の命令に忠実。こんな都合のいいものはない。のび太は草抜きだけでなく、宿題をやらせたり、片づけをやらせたり、「わーい、楽ちんだ」と大満足だ。しかし、この道具を使うときの制約がある。30分以上は使ってはいけないというものだ。30分以上使うとどうなるのか。影がどんどん本体の人間に近づいて、本体の方が影に近づいていくのだ。そして、ついには本体と影が逆転してしまう。ゴロゴロしているのび太は影にならなければならない。楽ちんだと喜んでいたのび太。とっくに30分は過ぎている。姿を見ると、あれあれ、影のように黒くなっているではないか。影はのび太の命令をきかず、好き放題やり始めた。のび太は影になっていく。さてさて結末は?ぼくはAIで答えを出している生徒に、この話をしてあげた。そして言ってやった。「ドラえもんは予言書だ。未来の出来事が書かれている」「お前も影の話と同じで、AIに頼り過ぎていると、いつの間にかAIに命令される側になってしまうぞ。それでいいのか」きょとんとしていた。わからなくていいけど、ドラえもんを例に出すと、確かに聞く耳はもってくれた。第2巻を買うかどうかはわからないが、「ドラえもん」の予言を読み解くのは面白いかもしれない。
2026年07月07日
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あのとき違う選択をしていたらどうなっていただろうか?たまにそんなことを想像するのも面白い。よくパラレルワールドという。そんなのがあるのかどうか、ぼくにはわからないが、想像や妄想の世界では、いくらでもパラレスワールドに旅することができる。20代のころ、2年だけサラリーマンをしたが、「こりゃダメだ」と方向転換を考えた。だけど、何をやっていいかわからない。そこで教師になろうと決めた。ぼくは工業高校の教員免許をもっていた。しかし、大学で専攻したのは経営工学で、工業高校にはそんな科はない。統計学や情報処理、生産管理、システム工学、会計学、人間工学といった科目があったがさっぱりわからなかった。まして、工業高校だと機械や電気、電子、建築のことを勉強する。ぼくにはチンプンカンプンだ。とても工業高校の教師など務まらない。それで、玉川大学の通信教育で「中学社会科」の資格を取り、それで採用試験を受けた。中学校の社会科なら得意かもしれない。しかし、当時は教員になりたい人が多くて、中学社会はもっとも倍率が高かった。受かるはずがない。違う道を模索して、結果オーライだったが、文章を書く世界へと足を踏み入れたのだ。今思いがけなく、工業高校の非常勤講師をしている。ぼくが担当するのは機械科の機械設計という科目だ。設計などしたことがない。だけど、そんなぼくでも、やれることがある。設計をする際の基礎となる数学、物理学を教えればいいのだ。三角関数や力のモーメントといった、基礎的なものなら、何とか教えられる。長く工業高校の教員をやってきた友だちに聞くと、機械科を卒業した人が電気のことを教えたり、畑違いの科目を担当するのは当たり前で、みんなやりながら覚えていくらしい。そうしたことを総合すると、20代のとき、工業高校の資格で採用試験を受けても、何とかやっていけたかもしれないのだ。中学社会よりははるかに受かりやすかったはずだから、その気になれば実現していたパラレルワールドだ。三重県には、桑名工業、四日市工業、四日市中央工業、津工業、松阪工業、伊勢工業などがある。ぼくはそのどこかに配属されて、教員生活をしたわけだ。工業高校にはやんちゃな生徒が多い。どういうふうに彼らと向き合ったのか。非常勤をしていて、やんちゃはいないが授業はまともに聞こうとしない生徒がほとんど。ぺちゃくちゃしゃべったり、歩き回ったり、こっそりスマホを見たり、寝ている奴もいる。ホワイトボードに数式を書くと意識が違うところへ飛んでいく連中ばかり。ぼくは基本的にはあれこれ言わないようにしているので、まったく秩序のないクラスになってしまっている。いろいろ経験してきて70歳になったぼくは、この無法地帯は無法地帯でいいと思って、授業を少しずつ進めながら、一人ひとりと話しながら80分を過ごしている。しかし、20代のぼくはこれに耐えられないと思うな。「静かにしろ!」「うるさい!」と怒鳴っていたかもしれない。勉強などしたくない奴らに勉強を教えるのは、とんでもないストレス。勉強を教えることとは違うところに自分の存在意義を見出さないと、確実にパンクする。クラス担任になったら、勉強以外のことでも振り回される。ひょっとしたら、パラレルワールドのぼくは精神的に病んでしまっていたかもしれない。となると、今の世界のぼくは、ベストの道を選んだのだとホッとしたりする。パラレルワールドにいるぼくに対しても、「大変だよな」とやさしい気持ちになれる。この世界で、ぼくたちはいろいろな体験をする。メインの道ではなくて、脇道に入ることもあるが、その脇道というのは、もしパラレルワールドがあるなら、その世界の自分にとってはメインの道なのかもしれない。小さなつながりをもって、パラレルワールドとはかかわっていて、そこが横のつながりをもてるドアになっているのではと思ったりする。週一回、片手間の教師だけれども、ぼくのやっていることが、少しは別の世界の自分の役に立てればと思う。
2026年07月06日
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午後から雨が降り出して、夕方はWOWOWでラグビー観戦。ネーションズカップと言って、世界のベスト12のチームが、北半球と南半球に分かれ、北半球対南半球で6試合ずつ戦うという新しい世界大会だ。いつものことながら、日本代表戦は、絶望したくない、長いため息は嫌だ、という防衛本能が働き、負けることを前提に見る。80パーセント負け、20パーセント勝ちの割合かな。いい試合をしてくれたら御の字という思いで、熱くなりがちな胸を冷ましているのだ。ジャパンの大敗をどれだけ見てきたことか。そんな世代の人間だから。相手はイタリア代表。かつては対等のレベルだったが、この春はスコットランドにもイングランドにも勝っている。レベルアップが著しいチーム。先制のトライはイタリア。開始5分。テレビで見た限りは、簡単に抜かれてしまっている。これじゃ勝てないよ、と負け犬がささやく。しかし、そこからのジャパンは違った。スクラムも負けてないし、モールにも耐える。タックルもいいし。21歳のSO伊藤龍之介が途中から目立ち始めた。キャプテンのディアンズの推進力は勢いを与える。小さなウイング2人もいい動き。課題のハイボールも負けていない。ディアンズのトライ、広瀬→松永のトライ、そしてPKで17点。イタリアはPKを加えて10点。前半をリードする。後半。次の点数が大事だ。だいたいジャパンは後半が始まってすぐに痛い目にあい、ずるずると負け戦になってしまう。ところが、やったじゃないかベン・ガンター。トライだ。彼のパワーには紙一重の危うさがある。すごいスティールをしてピンチを助けることも多いが、ペナルティになることもよくあって、ハラハラする。タックルも強烈だが、ときどきハイタックルになってイエローカードをもらう。今回も「ああイエローだ」と頭を抱えてしまうシーンがひとつあった。きっとギリギリの高さだったのだろうな。だけど、あの激しいプレーは日本代表にはなくてはなららい武器だ。そのあとPGを決めて合計27点。おお、後半はイタリアを0点に抑えているではないか。あと2トライは取れた試合だった。ぜいたくな感想だ。日本代表が強くなったのか。それともイタリアの調子が悪かったのか。次のアイルランド戦でどんな試合をするか。「イタリアが本調子じゃなかったんだよ。ミスが多かったもの。アイルランドには歯が立たないよ」負け犬はまだまだ黙ろうとしない。「ジャパンは強くなった!」アイルランド戦で証明しておくれ。そして、ぼくの中の負け犬をだまらせてくれ。↓50年近く前のぼくの雄姿(?)
2026年07月05日
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