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何となく気持ちがすかっと晴れない。4月末から激動だった。生活を変える決断をしなければならない状況に追い込まれている気がする。よく「ゆでガエル」という言い方をするが、ぬくぬくした環境の中にいると、思い切った行動ができなくなり、本当に自分がやるべきことが見えないまま、徐々に環境が悪化して、人生が不十分なまま終わってしまう場合がある。「どうしても動け!」というときには、けっこうきついことが起こってきて、尻を叩かれる。それがぼくにとっては「今」かもしれない。変化の流れは見えてきた。徐々に動き始めている。これからどんなことが起こってくるのか。人生は思ったようには進まないが、思った以上の出来事に遭遇することも多々ある。へっぴり腰のぼくに、果たしてどんな明日が待っているのか。まずは、今日できることをがんばってやる。そして、あとはなるようになる。ならないようにならない。ということかな。
2024年06月08日
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大学時代、外国へのあこがれがあって、世界各国に営業所のある大きな企業に入った。たぶん、刺激的な仕事がしたかったのだろうと思う。しかし、配属されたのは、海外に行く機会がもっとも少ない(ほとんどない)部署だった。がっかりしたけれども、「海外勤務はかっこいいから」という薄っぺらな動機だったから、「まあ、いいか」というくらいのことで流していた。世界を回ってみたいというのは、夢というほどのものではなかったけれども、サラリーマンを辞めて、東京でフリーライターを始めて数年後、実現することになった。ヨーロッパ、中国への一人旅を決行。中国の旅で、真氣光の中川先生と出会い、先生の随行取材をすることになり、30ヵ国くらいを回った。間違いなく、サラリーマンとして海外に赴任するよりも、刺激的な体験だった。中国の旅では人生が大きく変わり、オーストラリアやバハマでイルカと泳ぐ旅をし、イルカがきっかけで結婚し、たくさんの本を出し、チェルノブイリ原発事故の被ばく者の気功治療を取材し、ネイティブアメリカンのホピ族の村も訪問した。人生観が一変するような旅だった。世界を回りたいという漠然とした思いは、ベストのタイミングで、最高の体験として実現したのだ。思いは実現するというのは事実だろう。しかし、その人にとって必要なことに限っての実現だ。夢や思いが実現しているという人は、自分の人生シナリオを知っているからこそ、そこに意識が向く。だから実現する。ぼくは、なかなかいい線をいっていると、自分では思っている。
2024年06月07日
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山梨で飼っているチャボ2羽を、鈴鹿に運んだ。飼って1年くらいになる。男の子がマネ、女の子がクリム。 鈴鹿には烏骨鶏(メス)が3羽いる。 段ボールに入れ、助手席に乗せた。途中、マネが大声で鳴いてびっくりしたりもしたが、無事に到着した。 烏骨鶏と一緒に小屋に入れた。上手にすみ分けしているようだった。 ところが翌朝、小屋をのぞいてみると、マネとクリムが血だらけになっているではないか。まわりにも血が飛び散っている。 「縄張りに勝手に入ってきたので烏骨鶏が怒ったのか」そう思った。 マネは重傷だ。氣恵が日曜日でも開いている獣医さんを探して連れて行った。 獣医師の診断によると、ニワトリ同士の争いではないらしい。アライグマか何か、獣が侵入して、マネが戦ったというのだ。 ぐったりと横になっているマネ。顔が血に染まっている。頭をかまられたのかもしれない。 「元気になっておくれ」一生懸命に氣を送った。しかし、マネは昨日の夕方、息を引き取った。 クリムは、マネが流した血がかかったために血だらけになっていたが、ケガはしてなかった。 3羽の烏骨鶏も無傷。 と言うことは、マネが必死で女の子たちを守ったのだ。 「よくがんばった。お前は男の中の男だ」ちょうど、血だらけのマネを見つけたとき、彼は倒れてなかった。2本の足で立っていた。いつ死んでもいい状態だったのに。まさに、弁慶の仁王立ちだ。 世間では、「男だから」「女だから」と言いづらくなっている。 しかし、男と女とは、考え方も習性も感性も違う。 マネは、男としての本能で、勝てもしない相手と戦い、それでも女の子を守って、敵を追い返したのだ。 あっぱれだ。 たった1年だった。ヒヨコのときからだから、いなくなるとさみしいものだ。 一緒に来たもう1羽、アローカナの真似ばかりしているのでマネと名付けた。 2羽ともオスだったので、アローカナは返却した。 そこへメスのクリムがやってきた。 2羽で仲良く暮らしていた。 もう少し、烏骨鶏たちとの暮らしも楽しんでもらいたかったが、これも彼の選んだ運命だろう。 ご苦労様でした。ありがとう。
2024年06月05日
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電子書籍のデビューが近づいてきた。6月20日に発売予定。タイトルは、「ライター ヤギ飼いになる!~やればできる! 六〇代からのチャレンジ」。ぼくはライターという仕事を40年やっている。主戦場は東京だった。60代になって、山梨へ移住してヤギを飼い、果樹栽培を始めた。田舎生活や農業にあこがれていたわけではない。でも、漠然とだが、都会生活への不安を感じていたのは間違いない。コロナ騒ぎがきっかけで、思い切った一歩を踏み出すことができた。そのいきさつを簡単にまとめた本だ。今まで本を出すというのは、けっこうハードルが高かった。特殊な体験をした人、大成功した人、発想力の豊かな人、文才のある人にしか門戸は開かれていないものだった。ぼくは、幸いにも人に恵まれ、少し時代の先を行くテーマをもっていたので、20数冊の本を出すことができた。これは貴重な体験と実績になったけれども、もっと簡単に本が出せるツールとして、これからは電子書籍が大事になると思っている。本来、人それぞれ、ドラマの中を生きているわけで、記録として残しておいてもいいではないか。小説が書きたければ、電子書籍で発表すればいい。小説家にはなれなくても(名乗ってもいいけれども)、小説を書いて出版するという夢はかなうわけだ。ぼくがなぜ電子書籍を出そうと思ったか。さっき言ったように、これまで20数冊の本を出してきたが、ぼくが企画を出したのは一冊もない。知り合いの編集者との雑談の中で、「それ面白いじゃないですか?」という展開があって、出版が決まってしまったのだ。本来、ぼくはプレゼンは苦手だし嫌いだ。自分自身や自分の企画を売り込むようなことができないタイプ。常に受け身の姿勢で生きてきた。ただ、お酒を飲みながらなら、あれこれ自分の体験や考えをしゃべることはできる。売り込むつもりなど毛頭ない。ただの酔っぱらいのおしゃべりだ。そんな席で、編集者が興味をもってくれたことが本になっている。山梨へ越して、編集者と話す機会がなくなった。編集者どころか、家族以外の人と話すことがあまりない。ぼくの話を面白がって聞いてくれる人がいないのだ。ブログは書いているが、ネットの発信も、ほとんどしない。60代70代と、これから何をするかと考えたとき、自分にできるのは文章を書くことだけと気づいた。それなら、死ぬまで書き続けるか。しかし、それなりに読んでもらえるものにしないと。ぼくの場合、ブログではなかなか「読んでもらおう」という気持ちになれない。それなら本にするしかない。と言っても、ぼくに興味をもってくれる出版社もない。出版社からの依頼は、この10年くらい、便利屋ライター程度の仕事だ。山梨へ来てから、便利屋はやめた。自分が発信したいことだけにすると決めた。となると、電子書籍はありがたい。プレゼンはしなくていいし、編集者の顔色をうかがうこともない。自分の意思を一番に書けばいいわけだ。そして、少しは収入にもなる。そんなわけで始めた電子書籍。すてきなアドバイザーにも恵まれ、長女がやり方を覚えてくれることになり、ぼくが原稿をまとめれば本になる、という仕組みが着々とできつつある。原稿を書くのが楽しみになってきた。
2024年05月31日
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若いころ、けっこうがんばったのは草ラグビーのチームを作って、10年ほどリーダーとして試合を組んだり、メンバーを集めたり、今振り返っても大したものだと思う。始まりは酔った勢いだった。ぼくは30歳くらい。20代の編集者3人と飲んだ。3人とも競馬とラグビーが好きで、酒がどんどん進む。だれが言い出したか、「ラグビーチームを作りませんか」「やろう! やろう!」どんどん盛り上がっていく。「チーム名はどうしようか」うーんとみんなが頭をひねる。一人が言った。「グリーングラスでどうですか?」「思い出のグリーングラス」という歌があるが、ぼくたちがイメージしたのは、1976年の菊花賞を勝った名馬だ。トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスの3強がしのぎを削っていた時代だ。一番遅れて登場したのがグリーングラス。長距離が得意な玄人好みの馬だった。ぼくが初めて馬券を買ったのは、1979年の暮れの有馬記念。グリーングラスの引退レース。彼は見事に有終の美を飾った。ぼくは馬券を外した。そんな思い出の名馬をチーム名に決めた。大学時代の先輩後輩に声をかけ、さらには、その知り合いへとつながり、練習用のグランドを探し、人が集まったら、試合相手を見つけ、あのころは獅子奮迅の活躍だった。あの飲み会から数ヶ月で試合をしたのだから大したものだ。週に1度は多摩川の河川敷で練習をし、ちょっとしたコネを頼って試合を組んだ。東大の検見川にある施設を借りて合宿もやった。ぼくが出版社で働いていたこともあって、講談社や小学館、ラグビーマガジンといったチームと一緒に、出版社リーグを立ち上げ、最初は下位の方だったが、優勝争いをするまでいったこともあった。キャプテン、監督を10年やった。新日鉄釜石のV7の選手も何人かチームにスカウトして、試合に出てもらったこともある。ぼくは試合中に膝の骨折をして2ヶ月の入院生活。それを機に引退した。よくやったと思う。ゼロから何かを立ち上げていくのは好きだった。ラグビーの場合は10年も続いたが、大抵のことは、立ち上げて軌道に乗ったら身を引くのが、ぼくの常だった。組織を管理し継続させるのは、ぼくは苦手だった。この才能を生かして、イベントを開催したり、小笠原のドルフィンスイムツアーをやったりして、そこそこやれたと思う。ひょっとしたら、使い方によっては、もっとでかいことができるだけの能力だったのかなと、思ったりもする。今はもう、何か組織を立ち上げようとか、大きな運動をしようとは思わない。小さなことを、慎ましくやっていく。そこで、ちょっとした才能を使えたり、培ってきた体験を生かすことができるかもしれない。ぼくの数少ない能力のひとつが、草ラグビーのチーム作りということで、形になったわけだ。よくがんばったと思う。
2024年05月29日
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子どものときを振り返って、ぼくは何に興味があったのか考えてみた。スポーツかな。やるのは苦手だったが、見るのが好きだった。野球が一番だった。巨人のV9の時代。長島さん、王さんが大活躍していた。高校を卒業してすぐに大活躍した堀内さん。テレビで巨人の試合を見るのが楽しみだった。同時に、12チーム、チーム名は同じだったが、長島さんも王さんもいない、架空のチームがぼくの頭の中とノートの上で、妄想ペナントレースを繰り広げた。選手名簿を作り(架空の選手)、ドラフト会議やトレードもあった。もうひとつ、我が家はなぜか毎日新聞をとっていたので、夏になると都市対抗野球の話題がスポーツ欄をにぎわした。それをヒントに、ぼくは、プロとアマの間に、地域別のセミプロチームを作り、全国大会を開いたりしていた。考えてみると、今の独立リーグの原型を、ぼくは小学校のときに考えていたことになる。相撲も好きで、想像上の力士を並べて番付表にし、毎日、取り組みを決めて、星取表も作った。そんなことを部屋にこもってやっていた。親は、勉強していると思っただろう。安心していた。そう振り返ると、ぼくは、現実よりも妄想の中で生きるのが好きなタイプなのだろう。今で言うオタクの資質をもっていたのだと思う。そこに活路を見出していたら、もっと面白い存在になっていたかもしれない。高校、大学、社会人と、現実路線を選んで、けっこうしんどい思いをして、20代後半でやっと自分の道へと足を踏み入れた。それが文章を書くことだったが、それでも、思いっきり妄想の世界に飛べない。せっかく、スピリチュアルという、思いっきり妄想力を広げられる世界をテーマにしているのに、現実に足を引っ張られている自分が、68歳になってももがいているわけだ。今年のドラフトの目玉は〇〇高校の△△選手。どこの球団に指名されるか。くじ引きなんかも作って、ワクワクしていた。自分の頭の中だけの出来事なのに、あんなにも楽しめたのだ。現実は現実として置いといて、もっと妄想の世界で遊ぼうと思っている。
2024年05月28日
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長年、ひとつの道を歩み続けてきた人は、本当にすばらしいと思った。昨日、石井光(あきら)先生の内観海外普及45周年、中野節子先生の信州内観研修所開設25周年のパーティに参加した。100名近い方がお越しになっていた。石井先生は、青山学院大学法学部の教授として教鞭をとりながら、自分自身が大きく変化した内観法という、自分を見つめる修養法を指導し、広める活動をしてこられた。日本で生まれた内観法だが、今ではヨーロッパ各国、中国、台湾、韓国など、世界に広まっている。その原動力となったのが石井先生の精力的な活動だ。中野先生も内観に出あい、自らが大きく変わるとともに、人が幸せになるツールとして可能性を感じ取り、内観研修所を設立して、内観法を指導してきた。「この道を行く!」お二人ともぶれることはない。そして、その根底には、一人でも多くの人が幸せになってほしいという願いがある。損得ばかりを考えて、得をする方に動こうとする人間は、お金を儲けることはできても、薄っぺらな人にしかなれない。損得関係なく、自らが信じた道を淡々、粛々と歩んでいく人は、人間としての深みを得ることができる。人が集まってくる。やさしいお顔の裏には、たくさんのご苦労が隠れていることだろう。悩みや葛藤に心が折れそうになったこともあったはずだ。しかし、自分の進む道はこれしかないという、強い信念が、折れそうな心を支える。そうやって、何十年もひとつの道を歩み続けてきたのだ。石井先生も中野先生も、ぼくよりも年上だ。まだまだ隠居する気はないとは思ってがんばっているつもりだが、あの方たちのアグレッシブな生き方と比べると、何だか、芯がぶれているし、ふにゃふにゃしているなと思ってしまう。ぼくのまわりはすごい人ばかりだ。ぼくにもやることはいっぱいある。気合を入れて、前へ進んで行こう!いい刺激をいただいた。
2024年05月27日
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ぼくは、どちらかと言うと、「アンチ」の立場で生きてきた。始まりは医療。主流である西洋医学よりも代替療法を応援してきた。今は、適材適所で、西洋医学と代替療法が融合した医学が実現すればいいと思っている。農業もぼくの好きな分野。それも、いわゆる農薬や化学肥料を使う慣行農法ではなく、自然農、自然栽培を支持している。そしてエネルギー。原子力ではなく自然エネルギーが広がってほしいというのが、ぼくの願いだ。でも、ぼくの願う形にはなかなかならない。その原因のひとつが、アンチの人たちのセクショナリズム。方法論の違いで仲良くなれない。代替療法なら、〇〇式と××式とがいがみ合っていたりする。違いを強調して、手を組めないのだ。自然農でも同じ。自分の考案した〇〇式が一番で、ほかのやり方は受け容れないという人がけっこういる。エネルギー問題でもそうだ。「原子力をやめようよ」というが共通の思いなのだが、それで手をつなげばいいのに、「太陽光はパネルのリサイクルの技術が確立されていないから嫌いだ」「地球温暖化の原因は二酸化炭素ではない」といった、枝葉の部分で足並みがそろわなくなってしまっている。何が目的なのか。西洋医学がすべてではないよね。農薬や化学肥料は減らそうよ。原発は危険だからやめよう。どの分野にも、社会を変えようとがんばっている人はたくさんいるが、根幹部分に目を向けていかないと、代替療法も自然農も自然エネルギーも、マニアックなもので終わってしまう危険性もある。べったりとつながる必要はない。でも、世の中をより良くするためには、自己主張ばかりしないで、手を組むところは手を組まないと。ぼくがこんなことを言っても、遠吠えにもならないのだが。ぼくには大きなことはできないから、小さなところで、静かに物事を進めていこうと思っている。
2024年05月25日
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台風1号が発生したらしい。小笠原へ行っていたころは、台風情報にはピリピリしていた。小笠原丸が欠航になれば、予定が大きく狂う。20人くらいの大人数だったので、主催者としては、ハラハラどきどきだった。出航しても船が揺れるのは嫌だ。初めて小笠原へ行ったとき、沖縄方面に大きな台風があって、そのうねりで、船がひどく揺れた。船酔いはしなかったが、一晩中、船がふわっと浮かんでは、ばーんと叩きつけられるような中で過ごした。やっと着いたと思っても、高波で海の状態は最悪。イルカとあうことはできたが、海に入っても、波に上下にもてあそばれて、怖くてたまらなかった。何回目だったか、八丈島付近(半分くらいのところ)で急病人が出て、大島まで引返すというハプニングもあった。予定変更でバタバタだった。イルカと泳ぎに行った帰りの船の中で、仲間が急に倒れ、亡くなってしまったということもあった。最後の小笠原となった2019年は、台風が小笠原諸島に居座って、一度も海に出られなかった。しかし、快適な宿だったこともあって、みんなんで自炊したり、島の人を呼んで講義やワークショップをやってもらったりして、けっこう楽しめた。予定通りに進まない、何が起こるかわからないのが人生だということを教えてくれる、小笠原の旅だった。いい経験だった。でも、落ち着いたらまた行ってみたいと思っている。台風発生と聞くと、10回ほど行った、小笠原の旅を思い出す。
2024年05月25日
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すももと桃の摘果作業を終えた。今年はすももも桃もあまり手がかけられなかった。暑かったり寒かったり、天候不順もあって、今のところ順調に育っているが、これから病気が出たりするかもしれない。すももは今年が3年目。桃は山梨へ来て4年目だが、3回目の挑戦だ。桃の初年度。無農薬でやると決めて、毎日、桃の木に「ありがとう」と声がけした。微生物溶液を噴霧した。ヒーリングミュージックを聴かせた。「1個でも実ったら泣いてしまう」それくらいの思い入れがあった。実ったときのうれしかったこと。ひと口かじったときの感激。忘れられない。こんなおいしい桃は今まで食べたことがない、ほどだった。自分で育てたということもあるが、ほかの人に食べてもらっても、大感激されたので、間違いなくおいしかったのだと思う。同じ農園でとれた通常の方法で栽培された桃とはぜんぜん味が違ったから。すももは桃に比べるとやりやすかった。これもおいしかった。ある化学物質過敏症の女の子。スーパーで買った果物は口にできないのだが、ぼくが送ったスモモはばくばく食べたそうだ。すももは6月半ば、桃は7月、8月に収穫が始まる。今年もおいしい実を授けておくれ。↑去年のスモモ
2024年05月24日
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このゴールデンウイークは、けっこう大きなストレスがあって、気持ちが重い状態が続いていた。そんな中、「あれっ」と思ったことがある。この数年、非常に寝つきが悪かった。横になればすぐに眠れたのに、寝る時間になると目が冴えて、2時間も3時間も、布団の中で寝返りを打ちながら、時間を過ごしてきた。最初のうちは苦痛だった。「今日も眠れない」と思うと恐怖と不安が膨らむこともあった。しかし、途中から眠れないことを受け入れることにした。寝付くまで、布団の中でいろいろなことを考えることにしたのだ。これまでのことを振り返り、今後のことを考える。あるいは、自分がやりたいことをイメージする。こんな本が書きたいなと構想を練る。これは功を奏した。不安が少なくなった。寝付きが悪くても、朝まで眠れないわけではない。いつの間にか眠っているのだから、それでいいではないか、と考えられるようになった。睡眠時間は少なかったが、昼間、眠くてたまらないわけではない。昼寝もできる。そんな状態がずっと続いていたのだが、不思議なことに、ゴールデンウイーク中のストレスの間、昔のように、すっと眠りにつけたのだ。ストレスがあると眠れなくなるはずが、逆に、いい眠りになった。どういうことだろう?東日本大震災で津波に飲み込まれそうになったがんの患者さんの、全身に広がったがんが消えてしまったという話を思い出した。火事場の馬鹿力ではないが、窮地に追い込まれたとき、思わぬ力が出るのかもしれない。人体というのは、ピンチになると自然治癒力が最大限に働き始めて、体調が正常に戻るのではないか。大きなストレスから逃れさせるために、強制的に眠らせようとする力が働いたのかもしれない。あれ以来、数年前までの快適な眠りを取り戻している。まだ、心の中にはもやもやしたものが残っているが、峠は越えた。生命には、ぼくたちの考えの及ばない神秘がある。生命力を信じることだ。生きる上で悩みや苦しみは付き物だが、結果的には、すべてはうまくいくようにできているのだから。
2024年05月23日
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2025年、人類が滅亡するほどの出来事が起こる。あちこちで言われている。世界各地で天災が発生し、戦争もあって、感染症も怖い。その規模が大きくなれば、本当に危ないぞと思うのはぼくだけではないだろう。さらに、この間の太陽フレア。各地でオーロラが観測されたそうだが、きれいな空にうっとりしている場合ではない。来年はもっと大規模な磁気変動に見舞われるそうだ。通信が大きな影響を受ける。原発の再稼働が進められているが、原発をコントロールする機器に問題が発生したらどうなる?地震に津波に通信障害。日本列島を囲むように、原発が並んでいる。福島第一原発のような事故が起これば、もう日本には住めなくなる。大地震で日本が破壊される終末イメージをもっていたが、原発が、日本の運命を握っているのではないかと、このごろ思うのである。大地震だけだと、まだ日本に住むことができて、生き残った人による復活も期待できる。しかし、そこに原発事故が連動すれば、放射線量の高いところだと、助けに入ることもできない。日本は死の地帯として、だれも近づけなくなる。世界のあちこちの原発で事故が起こったら。もう地球上で住めるところは限られてくる。人類を滅ぼすのは放射能。その原因となるのは原発と核戦争。世界に400基以上ある原発。1万2000発を超える核弾頭。普通に考えれば、来年までに何とかなる数ではないが、あきらめるわけにはいかない。人の意識が変われば、流れも違ってくるはずだ。一歩ずつ進んでいくしかない。まずは原発のない日本から。「原発を止めた裁判長 原発を止める農家たち」という映画がある。原発問題を考えるきっかけにしてほしい。山梨でも上映会が開催されます。2024/6/29 山梨県甲府市 樋口英明氏トーク付き[バリアフリー]主催:山梨県弁護士会日時:2024年6月29日(土)13:00開場 13:40上映(1回上映)会場:山梨県立図書館 多目的ホール(甲府市北口2-8-1)定員:150名問合せ:山梨県弁護士会問合せ電話:055-235-7202問合せメール:yamaben@minos.ocn.ne.jp
2024年05月22日
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ご先祖様を大切にしろと、ずっと父親から言われてきた。 父親の言う大切にしろは、ご先祖様が残してくれた土地や家を大切にし、お墓を守っていくということだった。 あくまでも「守り」の姿勢だ。 ぼくは反発した。ご先祖様が一番喜ぶのは、子孫が思う存分生きていることだ。子孫が楽しく、生き生きしているのが先祖孝行だ。家を守るために縛られるというのは間違っている。よく父と議論したものだ。 ぼくは「攻め」の姿勢だったわけだ。 実は両方とも大事なのだと、今になってわかる。 ぼくは長男でありながら家を出た。やりたいことをやらせてもらって、これまでの人生にあまり悔いはない。 実家にときどき帰る。一時は空き家になるのを覚悟したが、次女が結婚して住み始めてからは、犬に猫にヤギににわとり。おかげさまでにぎやかな家になった。「ご先祖様喜んでいるな」と感じる。ほんとうにありがたいことだ。 縁のある人たちが集まる家になるといい。我が実家を拠点に、村が活性化すればいい。そうなれば、「守り」「攻め」の両方面からのご先祖様孝行が実現するわけだ。 ご先祖様は、ぼくに何を期待しているのかわからないが、いろいろ仕掛けてきている気がする。変化には痛みが伴う。痛みが消えたとき、大きな光に包まれることがある。どんなことが起こってくるのか、楽しみにしていたいと思う。↓実家を守ってくれているワンコたち
2024年05月20日
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5月18日。父親の7回忌、母親の3回忌。実家に親戚が10人ほど集まってくれて、小さな法要を執り行った。お勤めのあとも、故人との思い出話をしたりして、いい供養になったと思う。父はお人良しだったが、自分がこうしたいということは曲げなかった。昔の職人らしく口も悪かった。母は、極度の心配性。物事を悪い方、悪い方へと考える性格だった。しかし、職人だった父が独立を考え始めたころ、父はあれこれ迷っていたのに、母が父の背中を押した。父の方が臆病で、母の方が大胆だった部分もあったのだ。2人とも働き者だった。農業では生活できないので、父は手先の器用さを生かしてブロックの塀を作ったり、家の基礎工事をしたり、トイレやお風呂を作る仕事を始めた。見よう見まねで覚えて、人に負けない仕事ができるようになって、あちこちから依頼がきたのだから大したものだ。母は、いつも父の仕事の手伝いについていっていた。父は口が悪い。母の手際が悪いと、ぼろくそに言う。あんなにもひどく言われて、よくぞがまんしたものだと思う。とにかく、家族が食べるため、子どもを育てるために、必死になってがんばってきたのだと思う。決して裕福ではなかったのに、ぼくは、不自由や不足を感じたことはなかった。ぼくは長男だったから、父も母も、ぼくに夢をもっていたのだろう。大学を出して、いい会社へ就職させて、出世してほしい。両親の希望通りにはならなかったが、紆余曲折はあったけれども、68歳までいい人生を歩むことができたのだから、ありがたい親だった。そんなことを考えた一日だった。両親には感謝しかない。
2024年05月19日
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50年というと半世紀。長い年月だが、考えてみれば、50年前、ぼくはすでに18歳だった。1974年、昭和49年だ。この年の3月に高校を卒業して、大学に入学し、名古屋での生活が始まって間もないころだ。4畳半の古いアパート暮らし。田舎者が都会へ出て、刺激は大きかったが、戸惑うことも多かった。50年後なんてじっくりと考えたこともなかったが、大学を出て、大きな会社に就職して、そこそこ出世して、定年まで勤めて、あとは悠々自適に暮らすものだと思っていた。当時は、終身雇用、年功序列が当たり前で、「安泰」のレールが敷かれていたものだ。しかし、たった2年で、そのレールから外れてしまった。あのままだったらどういう人生だったかわからないが、ぼくは、レールを外れたおかげで、20代、30代、40代、50代、60代と、とてもダイナミックな50年を過ごせたと思っている。会社を辞めるときは悩んだし、親とも激論を交わしたし、将来が不安だった。でも、どうしてもこのまま5年が過ぎ、10年が過ぎていくことには耐えられなかった。両親は言った。「石の上にも3年や! もうちょっとがまんせえ」「違う。3年もすれば、石の上でもあきらめるということや。俺はあきらめたない」屁理屈を並べて、親の話に耳を貸さなかった。50年、いろいろなことがあった。本が売れて、調子に乗っていたことがあった。そしたら、ぱたっと売れなくなった。経済的にピンチだった時期もある。18歳までは親の庇護のもとでぬくぬく暮らすひよこで、巣立ったあとの半世紀は、つらいことはいくらでもあったけれども、いいことはもっとたくさんあった。これからも、何があるかわからない。油断はできないし、楽しみでもある。もう少し、人間として成長したいと思っている。
2024年05月16日
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人の心はネガティブな方向に引っ張られる傾向にあるようだ。どんどんネガティブになっていくことを、真氣光では、マイナスの氣の影響を受けるという言い方をしている。 マイナスの氣とは、いまだに暗い世界にいる魂のこと。死んでしまってなお、苦しみやかなしみ、悔しさ、恨み、未練を抱え、肉体を脱ぎ去ったあとに本来行くべきところへ行けていない。 そういった魂は、自分の苦しみ、つらさを知ってもらいたくて、同じような思いを、この世に残っている人たちに体験させると言う。特に、ご先祖様の影響は大きいようだ。 何かネガティブな出来事に遭遇して、悩んだり心配したり不安になったりしていると、エネルギーが低下する。 そこに、マイナスの氣はもぐりこんでくるのだ。テレビやラジオ、携帯と同じで、悩みの周波数を発していると、同じ周波数のエネルギーが集まってくる。 そのままにしておくと、小さな悩みや心配事が、雪だるまのように膨らんでしまう。 マイナスがマイナスを呼び込む悪循環に陥ってしまうのだ。悪循環から逃れるためにはどうするか?真氣光では「まずは氣をしっかり受けなさい」と言われる。ハイゲンキという氣を中継する機械がある。ヘッドと呼ばれる装置を体に当てるだけでいい。簡単に氣が受けられる。真氣光とは縁のない人は、自分のなりの方法を考えておくといいだろう。たとえば、ぼくは、帯津先生から教えられた「延命十句観音経」という短いお経を唱える。腹式呼吸を意識するといい。車で移動しているときには、大声で何度も唱える。ネガティブなことから気持ちが離れていく。エネルギーが充電される。呼吸法だったりいろいろな種類の気功だったり瞑想だったり、不安定になっている心が落ち着くようなものをもっているといい。茶道や華道などで気持ちを静める方もいるだろう。武術やスポーツもいいかもしれない。もうひとつは、信頼できる人に相談することだ。話すだけでもすっきりするし、アドバイスが心に染みることもある。とにかく、心はネガティブに傾きやすいものということを知っておくといい。いつも明るく前向きに生きるなど、心の性質から見ると、そう簡単にできるものではない。ちょっとしたことで必ず落ち込む。悩む。かなしくなる。それを知った上で、どうしたらポジティブな方向にもっていけるか、日ごろから考えておくといいだろう。そして、沈みっぱなしということはあり得ない。いつか浮かび上がる。そのことを知っておくのもいいだろう。ぼくも最近、心が不安定になることがあって、重いエネルギーに包まれていた。しかし、ここで言ったことを駆使して、かなり回復してきた。すべてのことには意味がある。すべてのことに感謝する。頭ではわかっていても、心はコントロールできない。落ち込むときには落ち込むがよかろう。ネガティブな出来事に遭遇したときこそ、自分の身の丈がはっきりと見えてくるものだ。意味があって、ネガティブな出来事も起こっている。しかしあくまでも、自分のエネルギーを向上させるためだということを忘れてはいけない。ネガをバネに成長すれば、マイナスの氣にもたくさんの光が届いて、彼らの苦痛も減少するのだ。振り回されてはいけない。マイナスの氣を上手に活用して、成長していくくらいのしたたかさが必要だ。
2024年05月15日
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ストレスフルな出来事があったとき、瞬間瞬間に振り回されると、いい判断ができなくなる。 流れをていねいに見る。つらい出来事があっても、それがあったことによって見つかる「いいこと」がある。 この間のボクシングの井上尚弥チャンピオンの試合。第一ラウンドでダウンを奪われた。人生初のダウンだそうだ。 見てる方もびっくりする衝撃的シーンだった。 無敵の王者がダウンした部分だけを見ると、「大変だ!」ということになるのだが、あのダウンがあって、チャンピオンの力みが消え、ネリ選手の動きを読み切り、あとは一方的な展開となって、6ラウンドのKO勝ちにつなげた。 なんて強いんだ。 あの偉大なチャンピオンと同じ強靭なメンタルは、ぼくのような凡人には手の届かないものだ。それでも、日々のささやかなプレッシャー、ストレスを乗り越える上で、参考にはしたい。 不都合なことが起こると、そのマイナス面にばかり目がいく。「ダメだ、ダメだ」とどんどん落ち込んでしまう。腹も立つ。イライラもする。 しかし、大きなダメージを受けたとしても、まずは落ち着いて状況を分析する。冷静になって、今、何が起こっていて、自分には何ができるのかを考える。そして、マイナス面ばかりにとらわれるのではなく、「この出来事にも必ず意味がある」と、自分に言い聞かせていると、ぱっとひらめくことがあったりする。だれかのいいアドバイスが心に響くこともある。そこに、自分の考え、判断を加えて、次の行動を決める。 渦中にいるときにはわからなくても、何日かたつと、あふれるマイナスの中の、小さなプラスに気がつくことがある。 たぶん、人が成長する上で、この小さなプラスに気づいて、感謝して喜ぶことが、もっとも大切なことかもしれない。 だからこそ、神様は人間をマイナスに引っ張られるように作ったのではないか。 順調なときには、自然に「ありがとう」が出てくる。逆境のときはどうだろう?「何がありがとうだ!」と言いたくなるものだ。 重苦しい思いをしっかりと受け止め、不安や恐怖も拒否しないで、その上で、マイナスだらけの隙間の中にある、小さなプラスを探す。 そういう癖をつけた人は、必ず幸運を呼び込める。 ピンチはチャンス!つらいときこそ、光を見つける絶好の機会だ。 暗闇の中に上がる花火。明るさばかりを望んでいると、まばゆいばかり光の芸術は体験できない。夜でも光があふれる都会では、無数の星々の輝きを見ることができない。 人はかなしみの大地に種をまいているのだそうだ。かなしみという土壌にどんな花が芽吹くのか。かなしみからはかなしみしか生まれないのか。それとも、かなしみが深ければ深いほど、大きな喜びの花が咲くのか。 氣と出会ってから、こんなことも考えられるようになった。ぼくにとっては、大きな進歩だと思う。 毎週木曜日19時半から。真氣光の中川雅仁会長と、小原田泰久・弘美が、ライブ動画を配信中。 ぼくたちが体験した氣の体験をお話ししています。参考になることもあると思うので、ぜひお聴きください。 視聴はこちらから。
2024年05月14日
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ぼくの師である真氣光の創始者・中川雅仁先生は、「一歩は進み過ぎ。半歩だけ進んだことをやれ」とおっしゃっていた。そう言う先生自身は、1986年には氣を中継する機械を完成させていた。夢で教えられた通りに作ったら、その機械を当てるだけで体調が良くなる人が続出。さらに、1988年には手から氣を出して、さまざまな難病を治癒させていた。「これって半歩?」ぼくには、半歩どころかはるか前を歩いているように思えた。今、先生のおっしゃった意味がわかった気がする。先生のおっしゃる「半歩」は、「世の中よりも半歩前を進む」ということではなく、「自分のキャパシティの半歩先」ということではなかったのか。人には才能、能力というものがある。もちろん、生れたときに決まっているものもあれば、経験を積むことで変化するものもある。老境に達したときにぱっと目覚める才能もあるだろう。まずは、今の自分のキャパシティ、身の丈をしっかりと把握すべきだ。高くも低くも見ない。正当に評価する。その上で、半歩先を歩く。そうすると、余裕もあるし、次の半歩も見えてきて、これまでできなかったこともができるようになったり、新しい才能に気づけたりするのだ。ぼくは、これまで一歩二歩先を見て動いてきた。いいこともあったけれども、足もとがおぼつかず、転んでしまって痛い目を見たりもした。まわりの人を巻き込んでしまって、いろいろ迷惑をかけた。かなしい結果になったこともある。五月末から、世の中の運気が大きく変わるのだそうだ。それを機に、「半歩」を意識して生きようと思う。身の丈を知り、少し背伸びしたり、落ちても大丈夫なくらいの脚立を使えば手が届くくらいの、高さを目指そうと思う。
2024年05月10日
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「寂寥感(せきりょうかん)」という言葉がある。もの悲しくてわびしいという意味だ。重みがあって、深みがあって、潤いがある。ぼくにはそう感じられる。この言葉、どうやって、できたのだろう。やっぱり、喜怒哀楽、さまざまな感情を味わった人間が、このやるせない気持ちをどう表現すればいいかと考え、「寂」とか「寥」という、心に染みる漢字が生まれたのかもしれない。楽しいだけでは重みのある人間にはなれない。さみしさやわびしさといった、やるせない感情をしっかり味わってこそ、心や魂は育っていくのだ。だいたい、楽しいだけで生きている人はだれもいない。だれもが、苦悩の海で、孤独感の嵐の中で、迷路をさまよいながら、一歩ずつ進んでいく。努力などしなくても、かなしみを背負うことができるように、人間はできている。大事なのは、その気持ちを、しんどい部分はあるけれども、ごまかさないで、しっかりと味わうこと。努力などしなくても、楽しい日々を取り返せるよう、また人間はできているから。どんなかなしみであっても、こわがらないで、しっかりと見つめながら歩いていくことが大事だ。ただ、自分がもう少し強い人間であったらと、ときどき思うこともある。まずは今日をすてきな日にして、明日は明日の風が吹く。
2024年05月03日
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ぼくが真氣光とかかわってきて、これは忘れてはいけないなと思っているのは、「一見良くないことが起こっても、それは自分の成長のもとになる」ということ。 先代の会長も、若いころは人にだまされたり、会社を倒産させたり、つらい思いをしてきた。発明した氣の機械が薬事法で摘発されて、留置所に2ヶ月近く入れられたこともあった。それを乗り越え、大きな志をもってぐいぐい前へ進み始めたとき、脳出血で倒れて、59歳という若さで亡くなった。 その後、今の会長にバトンタッチをするわけだが、一人のカリスマリーダーにたくさんの人が群がってくる状態から、リーダーを中心に多くの人がまとまって、氣の世界を広く伝えていくという形に移行した。今の時代に合う形に変わることができたのだ。 59歳で亡くなった先代は無念だったかもしれない。しかし、新しい会長になって、真氣光は進化することができた。 今の会長も、順風満帆な人生ではない。いきなり、あの強烈な求心力をもった父親から真氣光を引き継いだのだから、大変だったと思う。さまざまなつらい体験もしながら、氣とは何かを追求し続けてきた。 氣とは生命そのもので、平穏無事ではない人生を経験してこそ、わかることがたくさんあるのだ。 だいたい、平穏無事、順風満帆な人生などない。 多かれ少なかれ、だれしもが苦しみや悩みを抱えて生きている。 苦しみ、悩みの日々の中で、どうすれば幸せになれるのか、そこを考え、行動するのが、人としての修行なのだろう。 「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず」 天下を取った徳川家康でさえもそう言っている。いや、重荷を背負って行くのが当たり前だと思っているからこそ、天下が取れたのかもしれない。 苦しみがない人生をだれもが望む。ぼくも同じだ。 でも、必ず苦しみはやってくる。 そのときにどう対処するか。人それぞれやり方があっていいのだが、苦しみ、悩みに埋没しないことは大切だと思う。 真氣光では氣を受けましょうと言っている。 氣のレベル、つまり生命力が落ちると、悪い方、悪い方へと考えがちになる。力を抜けば浮き上がれるのに、力んでしまって沈んでしまう。 少し自分自身から距離を置くことで、いかに自分が力んでいるかがわかり、どうしたら力が抜けるか見えているはずだ。 氣を受けたり、気功をやっていると、ふっと自分を外から見る瞬間がある。 その瞬間を大切にしたい。 自分にも言い聞かせていることだ。
2024年05月01日
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昨日は、電子出版の打ち合わせをした。「ライター、やぎ飼いになる」というタイトルで原稿を仕上げた。これをアップするのに、その方法を、Mさんという有能な女性にアドバイスしてもらっている。彼女は50冊の電子書籍をプロデュースしている。長女にも同席してもらって、作業を覚えてもらうことにした。原稿を書くのがぼくの仕事。そのあと、編集とアップを長女にやってもらうつもりだ。電子書籍は、だれでも出版ができるわけで、ブログみたいなものだと思われ、紙の本よりも格下に見られている。もちろん、そういう部分があるのは間違いないが、逆に、だれでも出せるハードルの低さこそ、電子書籍の良さなのではないか。そして、名もない人が書いた電子小説が、マンガ化、アニメ化されることはよくあることで、必ずしも作品のレベルが低いというわけではない。思わぬ才能が見いだされることだってあるのだ。つたない文章で書いた個人的な体験であっても、それを読んで救われる人もいる。売れるとか売れない、お金になるとかならないを超えて、意味のあるツールだと思う。「ヤギーず出版」というブランドを立ち上げる。出版したい人がだれでも出版できるということではなく、あくまでも小原田泰久目線の作品を基本とする。たとえば、今度の出版予定(以下タイトルは仮)は、「教えて裁判長 どうして原発はすぐに止めないといけないのですか?」ぼくが裁判長に質問するというスタイルだ。「シン・イルカみたいに生きてみよう~不登校で悩む親と子どもたちに」これは不登校だった長女と親であるぼくの体験をもとにまとめる。もっと気楽に生きようよという内容だ。選択肢はいっぱいあるよ。学校って絶対に行かないといけないの。長女は不登校で悩んでいたとき、イルカと泳いで癒されたという体験がある。「イルカみたいに生きてみよう」はシリーズ化できそうだ。「帯津良一からぼくが学んだ生き方」「真氣光からぼくが学んだ生き方」帯津先生や真氣光の中川会長に書いてもらうのではなく、あくまでもぼく目線の、帯津良一論であり真氣光論だ。「キッチンカービジネスの始め方」次女がやっているキッチンカー。お店を出すよりも気楽に始められる。しかし、軌道に乗せるのはとても難しい。次女の体験にプラスして、ぼくの見たキッチンカービジネスについてまとめる。といった感じで進めていきたい。いろいろ考えていると、ヤギーず出版が事業になるかどうかはわからないけれども、ぼくにとっては、とてもやりやすく、やっているうちに、何かが生まれてくる予感がする。うまくいくいかないは二の次で、心がときめくことをやっていこうと思う。
2024年04月29日
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鈴鹿の実家に帰っている。次女夫婦が1年ほど暮らしている。犬が4匹、ネコが1匹、ヤギが2頭、烏骨鶏が3羽。ずいぶんとにぎやかになった。すぐ横に竹藪があって、今年はタケノコがたくさん出ている。昨日はタケノコ掘り。そして、夜は知り合いが集まって、タケノコ料理で一杯やった。子どものころから、この時期はタケノコづくしだった。タケノコご飯、鶏肉との煮物。ほとんど毎日食べていたが、おいしくて不思議と飽きない。タケノコにはエネルギーがあふれている。一日一日ぐいぐい伸びる。あのものすごい成長力にはびっくりだ。春にたくさん食べることで、一年を乗り切るパワーが得られる。竹には、春のタケノコだけでなく、いろいろな使い道がある。竹パウダーは肥料になる。竹チップを庭に敷くと雑草を抑えることができる。竹炭は消臭や水質浄化など、快適な生活を演出する。竹酢液も入浴剤、虫よけなどに使える。とにかく、一年で山ほどできる竹。これを使わない手はない。邪魔者扱いの竹が、これからのヒーローになる。↓炭窯に火を入れたところ
2024年04月27日
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遅まきながら、U-NEXTでドラマ「不適切にもほどがある」を見た。面白かった。タイムトラベル、タイムスリップ、タイムトリップ、タイムリープ・・・。いろいろな言い方があって、違いはわからないが、とにかく、未来へ行ったり過去へ行ったりというドラマ。こういう類のドラマはあまり見ないようにしてきた。簡単に未来や過去に行ってしまうのは設定が安易すぎるし、いっぱいあるので手あかがついている気がするから。だから、「不適切~」にも興味がなかったのだが、ネットニュースで毎日のように、このドラマに関する話題が流れてくるし、娘も「面白いよ」というので、「ちょっと見てみようかな」という気になったわけだ。流れが軽快で、人間関係がわかりやすくて、笑えて泣けて、現代社会をチクリと皮肉っているのが良かった。昭和61年と令和6年行するする主人公は昭和10年生まれだから、ぼくよりも21歳年上。父親世代だ。戦争を体験し、食糧難を乗り越え、高度成長でうかれまくった。底辺から頂上までを知っている。近代日本人としてはもっともたくましい人たちかもしれない。彼が今をどう感じたのか。ちょっと適応力があり過ぎる気もするが、コンプライアンスという言葉がいつの間にか定着して、行動や発言がどんどん制約されてしまって、窮屈極まりないと感じるのは、ぼくも同じ。多様性を声高に叫ぶことで、多様性が阻害されてしまっている部分があるのではないか。昭和61年というと、ぼくは30歳だった。東京へ出て2年目。東京はあこがれだったし、文章を書く仕事にも慣れてきたし、楽しい毎日を過ごしていたんじゃないかな。ヨーロッパにふらりと出かけて行ったのもこのころだった。暇つぶしに習っていたドイツ語がどれくらい通用するかと、1ヶ月ほど、ドイツを中心に気ままに歩き回った。この先、どうやって生きて行こうかなどまったく考えてなかった。今日が良ければそれでいい。なんでフリーライターという不安定な仕事をしていながら、将来のことも考えず、平気でいられたのだろうか。多様性って言葉もなかったのではないか。大学を出たら、就職するのが当たり前。終身雇用なんてあって、会社を辞めることは完全に人生のドロップアウト。ぼくは、2つも会社を辞めが落ちこぼれ人間だったのに、不思議と堂々としていた。サラリーマンはとても窮屈で、ぼくには夢ももてなかったし、希望も感じられなかった。そこから逃れられただけで喜びだったのだと思う。籠から逃げ出した小鳥が、ウキウキしながら飛び回っているって感じだ。カラスにつつかれたり、トンビに食べられたりするなんて、考えもしないわけで、まったく能天気なものだった。そんなことを考えながらドラマを見ていた。昭和61年と今とどちらを選ぶかと言われたら・・・。あのころのぼくは、将来のことは考えてないと言っても、お金がほしい、有名になりたい、女にもてたい・・・目先のことにギラギラしていた。今のぼくは、成功したいとか、有名になりたいとか、そんなことは考えてない。だけど、これまで培ったものが、今にすごく生きているように感じているし、今やっていることが、社会的にもすごく意味があるのではと思えて仕方ない。だから、今の自分がすごくいいし、これから、「こんなことやろう」と思ったことを、どんどんやっていきたいと思っている。そういう意味で、30歳の自分よりもはるかにダイナミックに生きている。ぼくは「今」がいいな。ドラマを見ての感想として、多様性のこともっと書きたいと思ったけれども、うまく書けない。ゆっくり考えることにする。今は窮屈な世の中だけれども、ぼくは、上手に「いち抜けた」ができたのかもしれない。多様に生きている一人になれたのかもしれない。
2024年04月24日
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車で10分ほどのはやぶさ温泉日帰り入浴に行ってきた。昨日の昼間のこと。妻が買った回数券が3枚残っていたから。地味な温泉だが、「源泉かけ流し・美肌の湯」ということで、知る人ぞ知るところのようだ。1時間くらいゆっくり入った。休憩室ではご飯が食べられる。車の運転があるのでビールは飲めない。ジャージャー麺を頼んだ。冷やし中華のようなもので、ひき肉を豆味噌で炒めたたれが乗っているのが特徴かな。ピリッと辛みがある。ぼくはあまり食には興味がない。風呂上がりだから冷たいものがいいかなと思って注文しただけで、ジャージャー麺が好きだということではない。味はそこそこだったと思う。帰り際、代金を支払っていたら、厨房の方から丸い顔のおばさんが出てきた。「すいませんね」と謝るではないか。「え、え」何を誤っているのか意味がわからない。「キュウリがなかったので」そうか、冷やし中華にもキュウリは入っているし、ジャージャー麺もキュウリがつきものなのかもしれない。「大丈夫ですよ。まだ、キュウリの季節じゃないですからね。自家製のキュウリを使っているんですね」そんなふうに返したらえらく喜ばれた。「そうなんですよ。自家製の野菜を使っているんです」ひとしきり、野菜作りの話になった。道路を挟んだ向こう側に畑があって、できるだけ、野菜は自分たちで作ったのを出しているのだそうだ。ぼくはこういう話は好きで、けっこういい質問ができたりして、生産者の人には喜ばれる。丸顔のおばさん、厨房に戻ろうとしない。腰を据えて野菜談義をする気まんまんだ。盛り上がっても良かったのだけれども、ぼくにはヤギたちの世話があって、そろそろ帰らないといけないわけだ。ここで野菜の話をして、「ぼくはスモモと桃を作っているんです。スモモができたらもってきますよ」とか、「ヤギを飼っていて、あいつら野菜が好きで、捨てる野菜があったらください」なんて話をしたら、きっと仲良くなれたと思う。ぼくは人見知りで、あまり知らない人と話すのは得意ではないが、こんなひょんなことから、友だちができることがよくある。その人が面白かったり、ユニークな知り合い、たとえば自然栽培をやっている人、ヤギを飼っている人を紹介してくれたりと、ちょっとしたきっかけが、いい人とのつながりを作ることもある。もったいないことをした。あと回数券は2枚あるので、近いうちに行って、ジャージャー麺を頼んで、キュウリが入っていなかったら、「まだキュウリとれないんですね」と声をかければいい。キュウリが入っていたら、「キュウリとれたんですね」と話しかけよう。ジャージャー麺とキュウリがつないでくれた縁は、果たして広がるのか。楽しみにしておこう。
2024年04月23日
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大豆に豚の遺伝子を組み込んで代替肉を作る技術がアメリカでは承認されたそうだ。そんなネットニュースが流れてきた。すごいなと思う。AIもそうだし、遺伝子の技術も、とてもついていけない。ぼくが疑問に思うのは、これが本当に人間の幸せにつながっていくのかということ。最近の科学技術からは、温かみが感じられない。ぼくたちが何かを食べないと生きていけないのは、生命を維持するためであると同時に、命の循環を知ることができるからだ。他の命を自分に移し替えて生きる。そこには、命を捧げてくれる相手に対する感謝の気持ちもないといけない。自分の命もまた、だれかのために存在しているということを学んでいく。すべての命はつながっている。そのことを少しでも実感するために、ぼくたちは生きているのではないか。そのベースを崩してはいけない。今の科学技術の発展は、人間の都合ばかりを優先しているようにしか感じられない。それも一部の人たちの利益のために、世の中は動かされている気もする。自分のことだけを考え、今をごまかして生きる。そんな社会になってしまうのではないか。それを良しとする人はいっぱいいる。ぼくの中にも利己的な思いはたくさんある。ただ、大きな流れに流されながらも、これじゃいけないという反骨の気持ちをもち続ける。ちっちゃな抵抗しかできないし、一人や二人が何を言っても、社会は変わらないかもしれない。それでも、自分にできることをやる。そう思っている。ぼくは、遺伝子をいじることにはどうしても抵抗があるな。品種改良も遺伝子をいじることだと言われればそうなんだけれども、今の遺伝子操作は、あまりにも人間本位で暴力的な感じがする。
2024年04月22日
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桃畑の横にしゃれた家がある。持ち主は東京の人。2週間に1度くらいは来ているみたいだ。畑へ行ったら、ご主人が庭の草取りをしていた。「お久しぶりです」声をかけた。何度か話をしていて、お互い顔も知っているし、ぼくがヤギを飼っていることも、彼は知っている。もともと、奥さんがヤギ好きだということから話が盛り上がった。彼は四国の高校から東京の大学へ入り、そのまま東京で就職して、たぶん50代半ばだと思う。奥さんが山梨県の出身ということで、退職後の住処として、ここに家を買ったのだろう。「早くこっちへ来たいですよ」彼は言う。あと5~6年、会社を勤め上げ、こちらでのんびりと暮らすのが彼の人生設計か。夫婦ともに畑仕事が大好きなようだ。東京でも市民農園を借りて野菜を作っていると言う。彼の話を聞きながら思った。ひょっとしたら、田舎というのは、中高年の居場所になるのではないか。これから高齢者が増えて、都会での暮らしはもういいやという人も多くなるだろう。そうした人たちが、ゆっくり暮らす場所として田舎を提供する。野菜や果樹を栽培したりするのは楽しいものだ。健康にもいいだろう。ポツンポツンと家があるようなところなら、人間関係もそんなに煩わしくない。車の運転ができなくなっても生活が困らないような仕組みを作れば、成長産業になるだろう。都会は若者に明け渡そう。思う存分、ギンギンギラギラ生きればいい。年寄りは田舎でスローライフを楽しむ。そんなすみ分けがあってもいいかもしれない。
2024年04月21日
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ものごとがうまく進むポイントは、エネルギーを高めと方向性をしっかりと定めること。日々、こつこつとエネルギーを蓄えるのがまずひとつ。エネルギーにはプラスとマイナスがある。マイナスのエネルギーを集めてしまうと、迷走してしまう。プラスのエネルギーは、だれに対しても誠意をもって接すること。自分の損得で動くのではなく、少しでも人の役に立つような行動をすることで増えていく。感謝の気持ちをもてばもつほどプラスのエネルギーは集まってくる。小さなことに感謝し、喜ぶことだ。マイナスのエネルギーを集める行為としてよくありがちなのが、ウソと言い訳、ごまかし。小さなウソ、ちょっとした言い訳は、だれでもあるけれども、小さなことでも積み重なると、マイナスに足を引っ張られて、トラブルに巻き込まれたりする。ぼくも聖人君子ではないので、まわりにずいぶんと迷惑をかけてきた。偉そうなことは言えないが、できるだけ正直に生きようと心がけている。だますよりもだまされる方を選ぶ。今の世の中、多くの政治家はマイナスのエネルギーを原動力にしているような気がする。世の中が良くなるはずがない。次は方向性。何をやろうとしているかが重要。いくらエネルギーを高めても、たとえば、お金さえ儲かればいいという方向に進んでしまえば、一時的にはいいことがあっても、結果的に、崖から落ちてしまうことになる。社会のためになっていることか。人が喜ぶことか。自分が楽しくて、成長できることか。経済がきちんと回ることも大切なことだ。そんなことが方向性の基準になるのではないか。先を読むことに敏感な人が言うのは、5月から急速に世の中が変化していくということ。エネルギーの量と方向性によって、人が二分されていく。これまでの価値観(今だけ、金だけ、自分だけ)を引きずっていると、どんどん落ちこぼれていく。20世紀というのは、甘いお菓子を目の前にぶら下げられて、ひたすら物欲を満たすために突っ走る時代だった。物欲というのは、何にも増して強力な力をもっている。油断すると、すぐにやられてしまう。がんじがらめになってしまう。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない。そのごう慢さがマイナスのエネルギーと共鳴してしまうから。これまでは、ある程度口先だけでごまかせたが、これからはそうはいかなくなるというのが、多くの能力者の見立てだ。ぼくもそう思う。慎重に考え、これと決めたら大胆に動く。心して生きていきたいと思う。
2024年04月20日
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愛媛、高知で大きな地震があった。インドネシアでは火山の大規模噴火。さらに、ドバイでは大雨だったというニュースも流れてきた。被災した方には心からお見舞い申し上げます。これだけ天変地異が連続して起こると、怖くなってくる。しかし、怖がっていても仕方がないわけで、日々、淡々粛々と生きるしかない。気になるのは、能登も四国も、大きな地震が原発(志賀原発と伊方原発)のそばで起こっているということ。地球が生き物で、意志があるとしたら、意図的に、「本気で考えろよ」という危険信号を送っているというではないか。たぶん、原発が作られたときには、大きな地震がこんなにも頻発することはなかった。原発を地震が襲うことはないだろうと楽観視していたのではないか。福島の津波だって想定外だったわけだから。ぼくも阪神大震災まで、地震というものに実感がなかった。その後も、どんなに大きな地震がきても、原発はそれに耐えられるように作られていると信じていた。それが、実際には原発はとても地震に弱くて、一般の民家よりも耐震性がないというではないか。さらに、構造的にも配管がたくさんあって、それが破損したら重大な事故にもなりかねない。この間の能登も、今回の四国も、紙一重で救われている。福島と同じことが起こったら、日本は壊滅だ。そんなギャンブルを、どうして続けようとするのだろうか。地球が警告を与えてくれているうちに、方向を転換しないといけないのでは。今自分たちが置かれている状況を、しっかりと真剣に考えないと。
2024年04月18日
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「願いは叶う」自信満々に言う人がいる。実際、自分で願いが叶う体験をしたからこそ言えることだろう。昨日思った。なぜ願いが叶ったのか?それは、叶う願いだったからだ。ぼくも、ひとつ願いが叶った。別に強く願ったわけではない。何となく思っていたことが、思わぬ流れで思った以上の形で叶った。見たい映画があった。Facebookで、ぼくの知り合いが「すばらしい映画だった」と紹介していた。心が動いた。大地を癒し場の環境を整える環境再生医と呼ばれる方の活動を記録したもので、「杜人(もりびと)」という映画だ。ただ、劇場での上映が終わって、自主上映で広がっている映画なので、なかなか見ることができない。仕方ないなとあきらめて、忘れてしまったころに、またFacebookで投稿を見たりして、気にかけるということの繰り返しだった。昨日のこと。妻と一緒に、いつも通っている甲府の七沢歯科へ出かけた。院長の七沢久子先生とは親しくさせてもらっている。彼女は、不思議な歯医者さんで、彼女が直観で「ここだ」と思った部分をほんのわずか削ると、たちまち痛みが消えたり、かみ合わせが良くなったりするのだ。2時半からの予約だった。15分くらい前に到着した。いつもはだれもいないのだが、診察室から久子先生が顔を出した。「あら、いいところへいらしたわね」来客があって、その人を紹介してくれた。何と、彼が「杜人」の主人公の矢野智徳さんだったのだ。最初はわからなかった。名刺をもらって、スマホで検索したら、この人が「杜人」だとわかりびっくり。「矢野先生はもっと早くにお越しになるはずだったけれども、仕事が長引いて、この時間になったの。小原田さんと会うために遅れたみたいね」久子先生は笑っていたが、本当にそうかもしれない。会うべくして会った気がする。素朴でやさしそうで、それでいて意思は強い。そんな感じだ。ぼくの大好きなタイプだ。映画を見るという願いは叶ってないが、本人に会えてしまった。願いというのは願ったとおりに叶うわけではなく、もっとすごいことが起こってくる可能性がある。ただ、願ったから会えたわけではなく、会うべき人だから会えた。そう思う。「この映画を見たいな」という願いは、ぼくと矢野さんの関係性にエネルギーを注入してくれた。もともと叶う願いだったわけだ。たぶん、矢野さんとお会いしてなくても、近いうちに、またFacebookで「杜人」のことを読んで、それも割合近くで上映されることがわかって、映画を見ただろうと思う。それだったら、「いい映画だった」で終わっていただろう。しかし、実際にお会いして、お互いに気の合う部分を感じて、近いうちに再会して、一緒に楽しいことができる可能性も出てきたわけだ。「三重県もよく行くんですよ」そんな話もあったくらいだ。ぼくの実家へ寄ってもらって、場の環境を整えてもらうこともできるじゃないか。彼の本拠地は上野原市で、ぼくの住んでいる甲州市からそんなに遠くない。こういうのを、用意された関係と言う。ぼくはそう思う。小さな願いをいっぱいもつといい。でも、叶うとか叶わないとか、あまり気にしない。必要な願いは、必ず叶うし、願った何百倍もの結果がもたらされることもある。さらりと願うことだ。強く念じすぎると、やっかいなものを引っ張り込むことがあるので、注意が必要だと、ぼくは思っている。
2024年04月17日
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昨日、おばが亡くなった。90歳を過ぎた大往生だった。昨年、転んで大腿骨を骨折し入院した。車いすでの移動になったので、施設に入った。何度かお見舞いに行った。元気でよくしゃべっていたので、不自由な生活だけれども、まわりとお話をして楽しく暮らしているようだと安心した。ところが、先月末に2ヶ月ぶりに顔を見に行った。げっそりやせて、寝たきりの状態だった。そして昨日の訃報。ぼくのことをいろいろ気にかけてくれた。心配してくれた。感謝の気持ちでいっぱいだ。うちの父親は8人兄弟だった。長男が戦死、次男が生後すぐに亡くなり、長女が20代のころ、娘を出産してすぐに結核で亡くなった。次女は90歳くらいまで長生きした。三男は小さいころ親戚に養子に行き、70歳くらいで亡くなった。四男が父親で88歳まで元気だった。三女が昨日亡くなったおばさん。五男が小学校のころに高圧線に上って感電して亡くなった。8人中4人は平均寿命かそれ以上は生きていた。残りの4人は若くして亡くなった。あの時代は、それが普通だったかもしれない。おばさんが最後までがんばってくれた。「お前たちはよくやっていると、私がみんなに伝えるから。それが私の役割やからな」そんな話をして笑っていたこともあった。あの世へ行けば、親や兄弟と会えるのだろうか?会えたら、みなさんによろしく言っておいてください。本当にありがとうございました。
2024年04月16日
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長女にすすめられてアニメ「進撃の巨人」を見ている。人類は高さ50メートルの壁の中で暮らしていた。天敵の巨人から身を守るためだ。巨人は、小さくて4メートル、15メートルくらいのがたくさんいて、中には60メートルというやつもいる。人間をむしゃむしゃ食べてしまって、一度は、人類も絶滅しそうになった。人類は、防御のために高い壁を築いて、その中で平和を保っていた。100年ほど平和な時代が続いたが、ついに再度巨人が襲ってくる。身長60メートルの大巨人が壁を壊して、巨人たちがどんどん人間の世界に侵入し、たくさんの人類が食べられてしまう。そんな凶暴な巨人に勇敢な若者たちが立ち向かうという物語。すごい設定だ。津波対策で海沿いに高い壁が作られている、今の日本を連想してしまう。とにかく、人間が食べられるというのが強烈だ。ちょうど、このアニメを見る前、ぼくは、ミミズをとってきて、チャボにあげていた。ミミズを投げ入れると、チャボは一瞬のうちに、くちばしでつかまえて飲み込んでしまう。そのときに、「食べられるってどういう気持ちなんだろう?」と思いながらながめていた。捕食しようとする生き物が近づいてくる。恐怖で腰が立たなくなる。大きな口が近づく。ガブリ。体が引き裂かれる。想像するだけでも恐ろしいではないか。巨人というのは非現実的だが、大自然と人間との関係と考えるとわかる気がする。災害や疫病でたくさんの人が亡くなった。たくさんの人間が巨人に食べられているようなものだ。「巨人が憎い!」人間は自然を支配しようと自然に立ち向かう。しかし、自然は容赦ない。何十年かの平穏な時期があったかと思うと、いきなり暴れ出す。闘うしかないのか?このあとの展開が楽しみだ。
2024年04月14日
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ぼくは、28歳のときにフリーライターになって、この5月でまるまる40年になる。それまで、愛知県の小さな会社で、鉄の塊を販売していた。毎日、1トン車を運転して、大手自動車会社関連の会社を回っていたのだ。「世の中ってこういう仕組みなんだ」大学を出てからの2年間、大企業に勤めていたときにはわからなかった、社会の現実を身をもって知ることになった。3年間で人生観は大きく変わった。ひょんな縁で東京へ出た。ほとんど文章を書いたことなどなかったのに、フリーライターになった。文章を書いて生きていくというのはあこがれだった。だから、うれしかったけれども、やったこともない仕事だし、文章の才もあるかどうかわからない。何度も何度も書き直しさせられて、さんざん悩んだ。「東京なんか来なければ良かった。ぼくに文章は書けないよ」弱音ばかりを吐いていた。しかし、続けているうちに、文章も徐々に書けるようになり、人脈も広がって、仕事の依頼も増えてきた。フリーというのは、ぼくには向いている形態だった。やった分だけ収入になる。仕事をしなければく食いっぱぐれてしまう。100パーセント歩合の仕事だ。とは言うものの、緊張感をもって日々を生きていたわけではなかった。仕事は切れずにあった。4ヵ月も中国に旅をしたあとも、気功の先生との出会いから、思わぬ方向に人生が転換したのだ。そういう体験を通して、独特の嗅覚が育ってきた。「今はこれをやればいい」ひらめきがやってくる。たぶん、決まった給料がきちんともらえる仕事をしてきた人には、わからない感覚かもしれない。イルカもそう、代替療法(西洋医学以外の治療法)によるがん治療もそう、自然栽培もそう、ソーラーシェアリングもそう、竹炭もそう、電子書籍もそう。山梨へ来てから3年強。のんびりした空気の中で、ぼんやり生きてきたが、「動け!」という指令がきているのを感じている。またまた面白く、いろいろなことが動きそうだ。
2024年04月13日
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「ヤギーず出版」を立ち上げることにした。OfficeOharadaの出版部門。電子書籍を作る。基本的には自分の著書を出す出版社。ぼくは人とのコミュニケーションがあまり上手ではない。編集者と意見を交わしながら作る方がいい本ができるのはわかる。でも、苦手だ。一人であれこれ考えを巡らせながら文章を綴っていくスタイルが心地いい。いい本ができるに越したことはないが、売れる本とか、できのいい本ではなくても、自分が「これでいいや」と思えるもので十分なのだ。ただ、一人だけ忌憚のない意見を言い合える編集者はいるから、彼も定年間近なので、あと数年のうちに、彼と一緒に一冊は作ってみたいと思っている。そういうタイプだから、電子出版はありがたい。自分でいいと思ったらそれでいいのだ。第一作は、ぼくの山梨移住体験、ヤギとの暮らしをまとめた、『ライター、ヤギ飼いになる~田舎生活で元気もりもり六八歳』(仮)。東京から山梨へ移住した経緯と、山梨での3年間の生活の一部をまとめた。やっとのこと、原稿を仕上げて、電子出版のノウハウを教えてくれる方に送った。5月か6月には発売できると思う。この原稿をもとに、レクチャーを受けて、自分でも作れるようにする。頭の中には、いろいろな企画がある。どんどん出していこうと思う。もっともやぎ飼いの話は半年もかかっているので、簡単に「どんどん」というわけにはいかないだろうが、できるだけスピードアップしていかないと。10年間、原稿を書き続けるとして、年5冊だと50冊か。貝原益軒は、70歳から著述業に専念するようになって、84歳で亡くなるまでに200冊以上の本を書いたそうだ。その中に、有名な「養生訓」もある。そんな大層な人を目標にするつもりはないし、歴史に残るような名著は望めないけれども、とにかく、電子出版というありがたい手段があるのだから、できる限り、自分の思いを書き続けたいと思っている。題材はいっぱいあるのだから、上手に料理しないと。
2024年04月12日
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あちこちで地震が発生しているけれども、「自分の住んでいるところは大丈夫だろう」と何の根拠もないのに思っている人は多いだろう。ぼくもその一人だが、人間とは何とも能天気な生き物だと思う。しかし、そこがいいところでもある。近いうちに南海トラフ大地震がくるのだから、努力なんかしても仕方ない。目先の楽しさを追いかけて、面白おかしく生きればいいさ。そんなふうに思ってしまったら、生きている価値はなくなる。いつか死ぬことはだれもがわかっている。それでも、希望をもって生きられるのが人間の良さ。明日、巨大な隕石が地球に激突して、地球上の生命体がほとんど絶滅するということになっても、今日を一所懸命に生きられるたくましさが人間にはある。能天気さとは違うかもしれないが、能天気な部分も作用しているのではないか。今、自分の住んでいるところで大地震が起こるかもしれない。しかし、それはどうしようもないことだ。防災準備は必要だろうが、恐怖におののいているばかりではなく、不測の事態が起これば、そのときに対応を考えれば良くて、今は、やるべきことをやるしかない。一瞬先のことは、だれにもわからない。それを踏まえて今を生きる。難しいことだが、「難しいですね」で終わらせずに、その境地に一歩でも近づく。激動の時代からこそ、とても大切なことだと思う。
2024年04月10日
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だれしも不安を感じることがあるはずだ。プラス思考の考え方では、不安や心配はいけないとされている。しかし、本当にそうだろうか?ぼくが思うに、本当のプラス思考は、不安や心配をなくすのではなく、不安や心配にも意味があると考えることじゃないか。車にはアクセルとブレーキがあるわけだが、アクセルを踏んで、どんどんスピードを上げるばかりがいいわけではない。目的地に早く着きたいのはよくわかるが、早さだけではなく、安全性もとても大切だ。そのためにブレーキがある。不安や心配は、ブレーキの役割を果たしている。不安を感じたときには、少しスピードを落とそうと考える。いくらいい流れに乗っていても、まわりを見回す余裕をもつ。あまりにも不安が強いときには、サービスエリアに入って休憩する。人体というのは、自分を守るシステムがしっかりと装備されている。安全に安心して生きられるように作られているのだ。不安や心配を、「そんなのじゃだめだ」と振り切って、どんどん突っ走ろうとすると、必ず問題が起こってくる。動けなくさせられてしまう。病気だったり、事故だったり。自分の心が発する信号を大切にすることだ。単純に、「ポジティブが良くて、ネガティブが悪い」と考えるのではなく、ポジの意味、ネガの意味をくみ取りながら、そのときそのときに、いい判断をしたいものだ。心が不安定なときには、あまり急がないこと。しばらく休めば、一気にアクセルを踏み込む時期がくる。
2024年04月09日
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今年の春は遅かった。今ごろになって、桜や桃の花が咲いている。いつもなら桃、桜の順番なのに、今年は桜の方が早く咲いた。占い師である妻の見立てによると、5月いっぱいは世の中がなかなか落ち着かないそうだ。しかし、遅い遅いと言いながら、きちんと花が咲いて、きっと夏には実がつくように、自然は流れてくれている。どんなものにも時期がある。事業もそう。事業というにはおこがましいが、ぼくと妻と2人だけの会社、オフィスオハラダも、長女や次女夫婦も加わって、少しは会社らしい活動をしようと動いている。社会に少しでも貢献し、かかわる人が精神性を高められ、経済的にも成り立たせるということ。今、いい動きをしているのが、次女のキッチンカー。次女夫婦が鈴鹿へ引っ越してからもうすぐ一年。出店場所がどんどん増えている。大変だけど、喜ばれて、お金になって、いろんな人とつながれて、自分も成長していく。いい流れだ。次に動かせたいのが竹事業。次女の夫が竹炭作り、がんばってくれている。まずは、本格的な窯を借りることができたこと。アドバイスをくれる人もいる。何よりも、材料である竹はいくらでもある。竹はやっかい者。それが商品に変わるのだからすごいことだ。藪がきれいになってみんなが喜ぶ。こんなすてきな事業はないと思う。そして、ぼくは電子出版の事業をやる。世の中の役に立つ活動をしている人をたくさん知っている。そういう人を表に出していく。ぼく自身の活動も発信していく。まだ、準備段階だが、今年の後半から本格始動だ。長女や妻も、自分たちのペースで動いている。みんなの活動の歯車がぴたっと合えば、思わぬことがたくさん起こってくるはずだ。大きなことは考えてない。結果的に大きくなるのは大歓迎だ。とにかく、おもしろおかしく、楽しく、ワクワクしながら生きたいよね。自由に使えるお金が増えるのも、喜びのひとつだ。いい感じでつぼみが膨らみ始めている気がする。
2024年04月08日
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たとえば甲子園球場。ただの建物でしかない。ところが、高校野球が始まれば、そこで球児たちが厳しい試合に臨み、観客が、彼らのプレーに熱狂する。甲子園が生き物になる。コンサートホールも、無機的な建物が、アーティストが演奏し歌い、聴衆が盛り上がることで、命が吹き込まれる。 家も人が住まなくなると早く老朽化する。人が生活することで、家が活性化する。 パソコンもスマホもただの箱だが、アプリが入ると、そこに生命が宿る。 人間も、体だけを見れば、肉や骨の集まり。生命体となるには、何かプラスアルファが必要になる。 それが「魂」と呼ばれるものだが、魂にもいろいろあって、いくら甲子園球場だって、つまらない試合をわずかな観客が見ているだけでは躍動しない。 人間の体は、考えられないくらい精密に精巧に高度に作られている。ダイナミックな魂があってこそ、十分に生かすことができるのだ。どうしたら、自分の体を熱狂の甲子園にできるか。あくなき好奇心だったり、これをやりたいという意欲だったり、チャレンジ精神だったり、感謝の気持ちだったり、感動だったり、好きな人と一緒に何かを成し遂げる喜び、なのではないか。体を揺さぶるエネルギー。細胞の一つひとつが大歓声を発する。そんなシーンをたくさん作り出すことだ。暇つぶしの日々なんてまっぴらだ。
2024年04月05日
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昨日の朝は、沖縄に津波警報というのでびっくりした。台湾で大きな地震があったらしい。地球が大きく動いている。そもそも、地球は一日に一回自転し、一年で太陽のまわりを一周する。とんでもない速さで動いているわけだ。なのに、ぼくたちは静止空間の中で生きているような錯覚をしている。あり得ない現実の中にいるのに、当たり前だと思って暮らしているぼくたちの鈍感さ。宇宙に、地球に守られて生きているという謙虚さをもてば、静かな地球をぼくたちは享受できるはずだ。日本沈没という小説が話題になったのは、1973年だそうだ。すぐに映画になり、テレビドラマ化された。田所博士というと小林桂樹さんが思い浮かぶから、ぼくはテレビで見たのだと思う。テレビで放送された映画版も見たかもしれない。あのころは空想の世界だった。1994年に中川雅仁先生、帯津良一先生とホピ族の長老にお会いした。『ホピの予言』という映画を作った宮田さんが案内してくださった。長老は、「そのうち日本は沈むからこちらへ移ってきなさい。ここで潮のにおいがするから、アメリカ西海岸も沈むかもしれない」とスイカを食べながら話してくれた。ぼくは冗談半分に聞いていた。ただ、当時、中川先生も「日本は沈むかもしれない」と話していたので、あのときの長老の表情や声が、強烈に頭にインプットされたのを覚えている。そして1995年。阪神淡路大震災が起こった。ぼくは、鈴鹿の実家にいた。ものすごい揺れに飛び起きた。古い離れに寝ていたので、慌てて飛び出した。そう言えば、前の夜はきれいな満月だったはずだ。テレビでの光景は衝撃的だった。神戸の街が燃えていた。ビルが破壊され、高速道路が落ち、たくさんの人が亡くなった。「こんなことがあるんだ」日本沈没が現実化し始めた。しかし、また忘れていく。そして、2011年があった。その後、衝撃を忘れる間もなく、大きな地震が各地で起こっている。2024年の元旦は能登で。3ヵ月後の昨日は台湾。もうだれにとっても他人事ではなくなってきた。そして、日本沈没では触れられていない原発の事故。大地震がくれば、沈没しなくても日本に住めなくなることも十分に考えられる。すごい局面にぼくたちは立たされてる。さてどうすればいい?自分の頭で考えて、自分で判断するしかない。ぼくは、明日がくることを信じて、いや、明日人類が滅びるとしても、今日できること、できたらまわりの人、さらには地球が、少しでも喜んでくれることを一所懸命にやりたいな。頭でっかち、口先だけの人生から脱却して、行動する高齢者になる!
2024年04月04日
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28日から4泊5日で鈴鹿へ帰っていた。次女のやっているキッチンカーが少しずつ動き始めている。定期的に出している場所もあれば、年に一度のイベントに呼ばれることもある。30日31日は、四日市のシックイや土を使った、日本の伝統的な建築に取り組んでいる蒼築舎という会社がマルシェを開くということで、お呼びがかかった。小さなマルシェだったが、そこに氣恵のキッチンカーと、氣子のくじ引きのお店(ヤギーず商店)が出店することになった。ヤギも連れてきてほしいということで、ぼくもお手伝いに行くことになったのだ。会場の裏を流れる海蔵川(かいぞうがわ)の両岸にはたくさんの桜の木があって、ちょうど桜祭りの日と重なって、人がたくさん来るとのことで、大いに期待した。ところが、桜の開花が遅れていて、まだちらほらしか咲いてなくて、花見にはほど遠い状態。対岸には出店が出ていて、そこには人はいるが、マルシェまでは足を伸ばしてくれそうもない。だいたい、ここでマルシェをやっているなんて気づかない。期待できるのは、まわりの住宅の人たちか、蒼築舎の知り合いくらいだろう。初日はそこそこの人手だった。慌ただしいこともなく、それなりの売り上げもあった。子どもたちもたくさんいて、ヤギたちを見て喜んでくれた。お越しになった方たちとの交流もできたし、アットホームな感じで、ぼくはこれくらいの会が好きだ。2日目は、集まりが悪かった。午前中、売り上げも伸びない。その分、朝から来ていた子どもたちとワイワイ遊んだが、このまま終わるのではちょっと寂しい。午後になってスタッフが、「桜祭りの会場にチラシを配りに行こう」と言い出した。グッドアイデアだ。「それならヤギを連れて行こう」ぼくの提案。注目度が違うはずだ。これが当たった。桜祭りに飽きていた人たちが、何組も流れて来てくれた。子どもたちもたくさんいた。氣恵のキッチンカーも、氣子のくじ引きも、土曜日以上の売り上げがあった。ずっと外にいるのは疲れたけれども、天気も良かったし、楽しい2日間だった。こんな感じで仕事ができるのはいいな。仕事は、大変でつらいものだという思い込みが多い。ぼくたちのようなことをやっていると、「そんな甘いことで」と非難されそうだが、仕事が楽しくできたら、人生はハッピーになるはずだ。
2024年04月03日
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夢物語は、物語だから語らないといけない。少なくとも、語っていることで、自分がその気になれるのは間違いない。最初は、そんなことできるものかと思っていても、話しているうちに、ひょっとしたらできるかもと思えるようになってくる。そして、話し続けているうちに、あれっ、できちゃったということにもなるのだ。たとえば政治家なら、軍事につぎこむ予算はなしにする。もちろん、災害時のための自衛隊の活動の予算は必要だが、ミサイルとか戦闘機、戦車とかは買わない。そのお金は、原発を廃炉にするためと、日本人がどうしたら幸せに生きられるかを模索し、世界の貧しい人たちを援助することに使う。人類が人類を滅ぼすとしたら、原発と核爆弾がもっとも危険要因だ。これを日本からなくさないと。本気でそういうことをやり始めたら、武装などしなくても、どこの国も日本に攻めてこない。それくらいの覚悟でやることだな。そんな夢物語を、どんどん語った方がいい。バカにされるかもしれないけれども、このままじゃダメでしょう。政治家になったのなら、それくらいのことはやっておくれ。と思うよね。トルストイの「イワンの馬鹿」を読んでほしいわ。ぼくにも夢物語がある。徐々に語っていくことする。
2024年03月25日
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昔、師匠から、「先生と呼ばれるようになったら注意しろ」と言われた。先生、先生と持ち上げられているうち、自分は偉いと勘違いしてしまうことがあると言うのだ。「地獄は政治家と医者と弁護士ばかりだぞ」そんなこともおっしゃっていた。地獄のことはわからないが、いろんなニュースを見ると、政治家はうそばっかりついてどうしようもないし、学校の先生も不祥事を起こしている。危なっかしい医者も多いし、「先生症候群」と言ってもいいかもしれない。ぼくも30代のころ、本が売れて、講演会に呼ばれて、「先生」と言われた時期があった。最初は照れ臭かったが、次第に、先生が当たり前になってくる。偉くなった気になってきて、ついつい上から目線で人を見るようになってしまう。しかし、ぼくは師匠の言葉のおかげで、ピノキオにはならずにすんだ。今は、「やっさん」という子どものときの呼び名が定着してきている。とても居心地がいい。がんばっている「先生」もたくさんいる。ぼくたちも、職業や利害関係だけで人を判断するのではなく、その人の日々の行動や考え方をしっかり把握して、本物の「先生」とお付き合いしたいものだ。↓ ぼくの偉大なる「先生」
2024年03月23日
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運のいいか悪いかというのは、何か自分に都合の悪いことが起こったときの対処法にかかっている。たとえばがんになったとする。がんと診断されて落ち込まない人はいないと思う。しかし、一度は落ち込んでも、たとえば、ぼくの友だちのおーちゃんという人は、残りの人生、自分の興味あることで思いっきり生きようと、自然栽培を始めた。おいしい米や野菜を作った。末期のがんと診断されて10年間、彼は生き生きと過ごした。「今の人生を100点とすると、がんになる前の自分は5点くらいだった」そう言って笑っていたのを思い出す。悪いと思われることがあったら、それを上昇、変化のきっかけにできる人は、運を引き寄せる。逆に、ふてくされたり、やけにやったりすると、運は離れていく。だいたい、だれの身にも、いいことばかりが起こるわけではない。あの大谷選手だって、大リーグで大活躍して、すてきな人と結婚して、人生、バラ色だと思ったら、通訳の人の問題が起こってくる。ケガもあったし、不調なときもあるわけで、そのときに、やけになっていたとしたら、今の大谷選手はないだろう。親しくしていた通訳に裏切られたのかもしれない。心の中に思いものがのしかかっているはずだ。彼なら、このマイナス現象も、上手にプラスに変えていける気がする。さらなる幸運の始まりにできるのではないか。順調に物事が進んでいるときには、人は成長しない。竹と一緒で、節があってこそ、竹は丈夫に育つ。節を作るときには、いろんなことが停滞する。だからこそ、人は強くなれるわけだ。
2024年03月22日
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元スポーツ選手。現在70代後半。かつては日本を代表する選手として大活躍していた。高齢になって、忘れっぽくなってきた。診察を受けると、軽い認知症ということで、スポーツの指導や講演活動をやめて、家で過ごすことになった。ときどきデイケアにも行っていた。しかし、根っからのスポーツマン。体を動かさないのは苦痛でたまらない。そこで、施設の人が言い出したのか、本人から申し出たのかは定かではないが、施設でスポーツ教室を始めたのだ。ラジオ体操レベルの簡単なことだっただろうが、ユーモアも交えた教室は大人気となった。それも、元一流のスポーツ選手ならではの理に叶った動きを教えるので、参加者はどんどん元気になっていった。参加する人以上に楽しんでいたのは本人だ。スポーツは、彼にとっては生きがいで、教えることは、引退してからの彼のライフワークだった。彼の認知症がどうなったかまでは聞いてないが、認知症になったからと言って、人生はそこで終わるわけではない。家に引きこもってしまうのではなく、自分が得意だったことを表現していく。昨日、友だちから聞いたいい話だ。
2024年03月21日
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はしかが流行しているみたいで、またしても感染症の脅威に、人類はさらされている。「感染症は克服した」とされてきたが、新型コロナなら、新しいから仕方ないかと思えても、はしかという古典的な感染症が広がっているというのだから、克服なんていうのは、錯覚でしかなかったわけだ。ワクチンが絶対的守護神だった。しかし、その威光もかげりを見せている。文藝春秋にも京都大学の名誉教授がワクチン接種後症候群について書いていたし、ワクチンを打てば安心ということではないのは間違いないようだ。コロナワクチンを何回も打ち、インフルエンザのワクチンも打って、帯状疱疹があって、そこにはしかが加わるとなると、一体、体の中でどんなことが起こっているのか、だれもわからないだろうと思う。これからいろいろな感染症が流行するはずだ。そのたびにワクチンを打つという選択、果たして大丈夫なのだろうか。免疫システムというのは、非常に繊細なものだと思う。排除すべき異物が人工的に次々と入れられたら、誤動作を起こしても仕方ないだろう。実際、免疫システムが誤動作を起こして、自分の細胞を攻撃することで発症する病気はあるわけだから、あまりにも刺激や負荷を与えることは、リスクも伴うと思った方がいいだろう。本来、生命体には自己を守る機能が備わっている。免疫力もそうだが、たぶん、まだ知られていない治癒の力があるはずだ。擦り傷をすればいつの間にか治ってしまう。熱があっても、下痢をしても、知らないうちに元気になれる。末期のがんの人の自然治癒というのもある。自然治癒力はどうしたら発動させることができるかはわからないが、何かスイッチがあるはずだ。そのひとつは、自分自身の中に治る力があることを信じることだろう。薬は、病気にもよると思うが、できれば緊急避難的に使うだけにして、あまり常用しない方がいいのではないか。ワクチンも、眠っている免疫力に喝を入れるような使い方ならいいかもしれないが、ブラック企業のように、朝から晩まで、休みの日もなくこき使っていては、疲弊してしまう。だれの体にも自然治癒力があることは事実なのだから、もっとその力を信じて、大事にして、感謝して、喜んで、ここぞというときに働いてもらうようにした方がいいだろう。
2024年03月19日
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山梨生活4年目。ヤギの世話にしても、果樹栽培にしても、ずいぶんと要領もわかってきて、肉体的にも精神的にも楽になっている。ありがたいことだが、要領を覚えた分、刺激が少なくなっているのは困ったものだ。小さなことばかりだが、何か新しいことにチャレンジしていることで、ぼくのエネルギーは高まる。そういう意味で、今はちょっと停滞気味。そこで、原点に戻って、原稿書きに力を入れることにした。これまでの小さなチャレンジを、ぼくなりにまとめればいい。さて何を書くか。去年の終わり、「本当に伝えたいこと」だけを書くと決めた。ずいぶん偉くなったものだと言われそうだが、あと10年現役でいられるとしても、大して書けるわけではない。それなら、心が沸き立つようなことに時間を費やしたい。「何を伝えたいか」に焦点を合わせてパソコンに向かっている。しかし、伝えたいことを伝えるというのは、言うは易し行うは難しだ。今度は力み過ぎて、原稿が進まない。自分でハードルを高くして、つまづいて転んでしまうのだ。「身の丈で書けばいいよ」そんなふうに言い聞かせている。もともと大した才能があってライターをしているわけではない。ただ、曲がりながらも、40年間続けてきたことだ。多少の才能はあるのだろう。ほかには人に認められるような才はないし、これをやりたいということも特にないい。それに、ぼくの考えていることは、とても大切なことだというかすかなにおいは感じている。それなら、わずかな才能と直観にすがって生きようと思う。3月いっぱいで、今書いている「伝えたいこと」を仕上げると決めた。締切りがないと、だらだらとしてしまう。この日までと決めるのは刺激を生み出す。だらけた日々にピリッとした調味料を入れたつもりだ。フリーランスで生きるということは、自分で刺激を作り出さないといけない。それができたから、ぼくは40年間も、この仕事を続けてこられたのだろう。↓ 去年の桃栽培は失敗だった。「今年は」と作戦を練っている。これも刺激だな
2024年03月18日
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山梨へ来て4年目も3カ月以上たった。ずいぶんと生活には慣れた。最初のうちは、ヤギのお世話も大変だったけれども、近所の人が捨てる野菜をくれたりして、エサ集めも楽になった。今日も、近所の畑へ行ったら、いつも野菜くずをくれるおじさんが、「去年までは処分が大変だったのに、ヤギが食べてくれて助かるよ」と言ってくれた。こっちも助かっている。こういうのをウインウインの関係と言うのだろうな。気持ちいいよ。人間だけの社会だと、こういう関係は生まれにくい。片方が得をすれば、もう一方は損をするわけだ。夏場になると、耕作していない畑は草だらけになる。ヤギを飼っている側から見れば、そこは、ヤギたちの食料の宝庫だ。ヤギを連れて行って食べさせたり、ぼくたちが刈り取ってくる。お互いにプラスになる。これも、村になじむことができているから可能なわけで、基本には人間関係があるわけだ。いい関係を作っておけば、いい循環が生まれる。夏には、おいしい桃やブドウをいただけたりする。上手な暮らしができているかもしれない。↓秋にはたくさんの芋ツルをもらったので、干して冬場のエサにできた
2024年03月16日
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福島で震度5弱の地震があったとネットに流れてきた。千葉でも群発地震が起こっているし、本当に不気味だ。地震があったとき、建物の被害とか津波とか気になるが、今は、「原発は大丈夫か!」という不安が先にくる。原発震災という言葉はずいぶんと前に聞いた。しかし、あのころは原発は巨大な地震に耐えられるだけの造りになっていると信じていたから、地震で原発が事故を起こすなんて杞憂だと思っていた。しかし、東日本大震災では、福島原発の大事故につながった。地震と原発事故は密接な関係があることが明らかになった。先日のTBS『報道特集』では、地震と原発事故についての特集が組まれた。志賀原発では、公開されているだけでも、地震によるトラブルがいくつもあった。さらに、原発が建設されたかもしれない珠洲市の被害は甚大だった。もし、原発が作られ稼働していたらと思うとぞっとする。福島の原発事故でも、たくさんの奇跡があって、東日本壊滅という事態にはならなかった。今回も、ぎりぎりのところで惨事を免れたと言ってもいいだろう。原発建設に反対した人たちも出ていたが、本当に大変だったと思うが、よくがんばってくれたと拍手を送りたい。世の中、破滅へと向かわせる力が常に働いている。破滅を防ごうという力も働く。今は、そのせめぎ合いの中で、人類は綱渡りをしながら生存している。原発は、非常にわかりやすい踏み絵ではないか。地震や洪水といった自然災害は、人間の努力では防ぐことができない。しかし、原発は、人類の意思によって止めることができるのだ。天は、地震列島に原発が所狭しと並んでいる現状に、「危険だ!」というサインを何度も出してくれている。それをどう受け止め、どう行動するか。ぼくたちの意思次第で、右にも左にも行けるのだから。
2024年03月15日
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ホリスティック医学の重鎮、帯津良一先生。知り合ったのが1988年だから、35年以上のお付き合いになる。「ガンを治す大事典」では、先生の指揮のもと、ぼくは、全国の代替療法(西洋医学以外の治療法)を取材して回った。今から30年も前の話。免疫のこともまだ手探りだったし、自然治癒力という言葉は、代替療法に携わる人たちが、なぜこの療法でがんが良くなるかうまく説明できないので、「自然治癒力が高まります」といった言い方をしていた時代だ。今では普通に使われるようになった。そんなころから帯津先生の話をお聞きし、生き方についても、先生から多大な影響を受けてきた。何年か前、「そう言えば」と気づいたことがある。先生の著書やラジオ番組のお手伝いをしていて、だれよりも先生のお話を聞いているのだが、先生は「愛」という言葉をほとんど使わない。「医療では患者さんへの愛がもっとも大切です」と言っても不思議ではないが、なぜか、まるで封印しているかのように、「愛」は先生の口から出ないのだ。ご著書にもあまり出てこない。実は、ぼくも20冊ほどの本を出しているが、愛という言葉はほとんど使っていない。はっきりした理由は自分でもわからないのだが、なぜか使えない。先生の行きつけの日本食レストラン。生ビールをぐっと一杯飲んで、次は、米焼酎・鳥飼のロック。ちょっと顔がほてってきたころ、先生に聞いてみた。「先生はどうして『愛』という言葉を使わないのですか?」「そう言えば使わないな」特に意識していることではなさそうだ。しかし、しばらく考えて先生はおっしゃった。「畏れ多くて使えないんだよ」そうだ、恐れ多いのだ。イエス・キリストやお釈迦様がやっとたどり着いた悟り。人間の最高の境地。それが「愛」だとすると、ぼくたち俗人が簡単に口にできるものではない。そもそも愛とは何か、きちんと語れる人がいるのだろうか。そんなことなのかもしれない。ビールで乾杯する前、クリニックの一室で、先生に宗教のことをお聞きした。先生はおっしゃった。宇宙の意志を翻訳する人がいて、その人の訳した言葉に共鳴した人が集まってきて、宗教団体ができる。「私は、一切翻訳しない。原語で受け取る」だから、教祖にはならないのだ。宇宙を感じ取っていて、愛という宇宙の最高の意志に、とても手が届いてない自分も知っていて、だからこそ、畏れ多い。先生が、いつもニコニコしながら、さらっと語る言葉に、とんでもない深い意味があると、ぼくは感じてきたが、どうしても表面的な理解で終わってしまってきた。先生が原語で受け取っている宇宙の意志、そして、先生が感じている愛について、翻訳することができたら、どんなにすばらしいかと、昨夜は心から思った。世間で言われている愛とはまったく違う愛が、姿を見せてくれるかもしれないのだ。虚空もそうだし、生と死の統合だって、場の医学だって、さらっと流してはいけない。ああいう偉大な人(本人はそう思っていないから、そこがまたいい)と、月に一度、一緒に飲めるなんて、本当に幸せな男だ。
2024年03月14日
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ときには、自分が言ったり考えたりしていることと、実際にどういう行動をしているかを、しっかりと見つめ直してみる必要がある。ぼくを含めて、だいたいの人は、言うだけのことをできていないはずだ。立派な人の本を読んだり講演を聞いたりすると、「確かにそう生きないといけない」と思う。そして、少しでも実践しようとがんばる。どれくらい続くだろうか?残念ながら付け焼刃で終わってしまうことがほとんどだ。そこで、大切なのは、そのまま放置するのではなく、できない自分を見つめて、できないことを認めて、ハードルを下げてでも、できることからやってみること。いくら立派な人でも、昔から立派だったわけではない。紆余曲折をへて、今の自分に成長したのだ。その過程を見ずに、本を読んだり話を聞くだけで、瞬時に、立派な人になれるはずもない。すてきな人に出会って、こういう人になりたいと思ったら、できることから真似をすることにしている。ぼくのスタートは、1988年に上海で真氣光の中川雅仁先生にお会いしたこと。ずいぶんとかわいがっていただいて、考えられないような体験もさせてもらって、彼が亡くなる1995年まで、ずっとそばにいた。先生のおかげで、自分を中心に半径500メートルくらいのことしか関心がなかったぼくが、地球のこと、宇宙のことまで意識できるようになった。上海では帯津良一先生にもお会いした。今でも月に一度はお酒を飲んでいる。帯津先生のナチュラルな生き方には大いに影響を受けている。この2人のように生きたい。それがぼくの今生の目標だ。2人の生き方からどれだけのことを学んだか。まだまだ足元にも及ばないが、少しずつは近づいていると思っている。ほかにも、自然栽培の木村秋則さん、森のイスキアの佐藤初女さん、元特別支援学校の教師で作家の山元加津子さん(かっこちゃん)原発を止めた裁判長の樋口英明さんなど、たくさんのすてきな方にお会いしてきた。ぼくは、ああいう人たちにはなれないけれども、いいところは真似させてもらって、できるところから自分のものにしていきたいと思っている。今日は帯津先生との月に一度の飲み会。たくさんのエネルギーをもらってこようと思う。
2024年03月13日
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学校へ行って勉強することが大事だと、ぼくは教えられてきた。大学を出るまでは、そう信じてきた。大学を卒業して、就職して、会社で働いて一日が終わるという生活にすごく違和感があった。生きている実感がもてなかった。2年ほど働いて、その会社を辞めた。アルバイトをして、小さな会社に再就職して、そこでも同じような違和感があって、3年で辞めて東京へ出た。東京でフリーランスという立場で働くようになって、毎日がとても刺激的で、生きている実感がもてた。学校で習ったことではない、日々の実践の中に、自分の成長、進歩を感じることができたのだ。フリーランスというのは、基本的には、決まった給料がない。仕事をすればそれに見合った報酬がある。仕事をしなければ収入はゼロだ。感覚が鋭敏になった。安定ではなく、「ここぞ」というときには動けるたくましさが身に付いた。30歳を前にしてヨーロッパの一人旅にチャレンジした。海外は夢だったし、海外を知らないのはコンプレックスだった。この旅で得たのは、海外へ行くなんて大したことないということだった。コンプレックスは消えた。30歳を過ぎてから、中国へ行った。4ヵ月ほど中国各地をブラブラ歩いた。海外旅行なんて大したことないと思っていたが、この旅でぼくの人生は変わった。今の自分があるのは、中国の旅があったからだ。これも、「ここぞ」という波を感じ取って実行したものだった。フリーで働くことで、流れをつかむ感覚が磨かれていったのだと思う。不安定な状態は、生きる力を培ってくれる。いくら本を読んでも、偉い人の話を聞いても磨かれないものを得ることができる。もちろん、知識はあった方がいい。知識と実践の絡み合いの中から、たくさんのことを、ぼくたちは学ぶことができるのだ。とやかく考えていても前へは進めない。まずは、動いてみて、それから考えるのではいいではないか。
2024年03月12日
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