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逆境が人格を作る。 汝の心を教えよ、心に学ぶな。 学問のある人とは、本を読んで多くのことを知っている人である。教養のある人とは、その時代に最も広がっている知識やマナーをすっかり心得ている人である。教養のある人とは、そして有徳の人とは、自分の人生の意義を理解している人であ る。幸福は、己れ自ら作るものであって、それ以外の幸福はない。 慈善は、それが犠牲である場合のみ慈善である。 人間にとって最高の幸福は、一年の終わりにおける自己を、その一年の始めにおける自己よりも、遥かに良くなったと感ずることである。 悔恨がないのは、前進がないからであ る。謙虚な人は誰からも好かれる。それなのにどうして謙虚な人になろうとしないのだろうか。 私たちは踏みなれた生活の軌道から放りだされると、もうだめだ、と思います。 が、実際はそこに、ようやく新しいものが始まるのです。 生命のある間は幸福があります。 強い人々は、いつも気取らない。 孤独なとき、人間はまことの自分自身を感じる。 愛とは、大勢の中からたった一人の男なり女なりを選んで、ほかの者を決して顧みないことです。 確実に幸福な人となるただ一つの道は人を愛することだ。 いそいで結婚する必要はない。結婚は果物と違って、いくら遅くても季節はずれになることはない。 自分をその人より優れているとも、偉大であるとも思わないこと。また、その人を自分より優れているとも、偉大であるとも思わないこと。そうした時、人と生きるのがたやすくなる。 他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。 他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ。 もし苦しみがなかったら、人間は自分の限界を知らなかったろうし、自分というものを知らなかったろう。 悪に対して悪をもって報いることは、幸福を失うことである。悪に対して愛をもって報いることは、幸福を得ることである。 一番難しく、しかも最も大切なことは、人生を愛することです。苦しい時でさえも愛することです。人生はすべてだからです。 何の試練も受けていない者は、試練を受けている人に、何も教えることはできません。 額に汗して営々と働かなければ、健康な肉体はあり得ない。また健康な思想も頭脳に沸き得ない。 人間の真価は分数のようなものだ。分母は自己の評価、分子は他人による評価である。分母が大きくなるほど、結局、真価は小さくなる。 人生の唯一の意義は、ひとのために生きることである。 人々が夢中になって騒ぐもの、それを手に入れるために躍起になって奔走するもの、そうしたものは彼らになんの幸福ももたらさない。 誰もが世界を変えたいと思うが、誰もが自分自身を変えようとは思わない。 別の人間に仕立てようというような不可能なことを、相手に要求してはならない。 一生涯ひとりの異性を愛することは、一本の蝋燭が生涯燃えることと同じである。 この世における使命をまっとうせんがために、我々の仕事を明日に繰り延べることなく、あらゆる瞬間において、自己の全力を傾注して生きなければならない。 もし善が原因をもっていたとしたら、それはもう善ではない。もしそれが結果を持てば、やはり善とはいえない。だから、善は因果の連鎖の枠外にあるのだ。 良い人間とは、自分の罪をいつまでも忘れないで、自分の善行はすぐに忘れる者のことである。悪い人間とは、その反対に、自分の善行はいつまでも忘れないで、自分の罪はすぐに忘れる者のことである。 自分を許すな。そうすれば、容易に他人を許すことができよう。 愛には三種類ある。美しい愛、献身的な愛、活動的な愛。 一旦やろうと思い立ったことは気乗りがしないとか気晴らしがしたいなどと口実で延期するな。 直ちに、たとい見せかけなりとも、とりかかるべし。いい知恵は浮かぶものなり。 我々が知りうる唯一のことは、我々は何も知らないということである。そしてこれが人間の知恵が飛翔しうる最高の高みなのだ。 餓死する者はめったにいない。うまいものを食べ過ぎ、そして働かないために病死する人のほうがはるかに多い。 幸福になりたいと思い、幸福になろうと努力をかさねること、これが幸福への一番の近道である。 子羊を食らう前に泣く狼と、泣かない狼では、どちらがより酷いだろうか。 自ら精神的に成長し、人々の成長にも協力せよ。それが人生を生きることである。 嫉妬とは愛の保証への要求である。 小さな変化が起こるとき、本当の人生が送られます。 深く愛することのできる者のみが、また大きな苦痛をも味わうことができるのだ。 人と一緒に暮らしている時は、あなたが孤独な生活で知ったことを忘れてはならない。また一人きりになった時には、人間との交流によって知ったことをよく検討してみることである。 戦いに勝つのは、必ず勝とうと堅く決心した者だ。 多くの女性を愛した人間よりも、たった一人の女性だけを愛した人間のほうが、はるかに深く女というものを知っている。 怒りは他人にとって有害であるが、憤怒にかられている当人にとってはもっと有害である。 美女が女神だと思うなんて、なんという奇妙な勘違いだろう。 きわめてつまらない小さなことが性格の形成を助ける。 幸せになりたいのなら、なりなさい。 愛は人生に没我を教える。それ故に愛は人間を苦しみから救う。 金のないのは悲しいことだ。だが、あり余っているのはその二倍も悲しいことだ。 幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である。死への準備をするということは、良い人生を送るということである。良い人生ほど、死への恐怖は少なく、安らかな死を迎える。崇高なる行いをやり抜いた人には、もはや死はないのである。 自分を憎む者を愛してやりことはできるが、自分が憎む者を愛してやることはできない。 女 ― それは男の活動にとって、大きなつまずきの石である。女に恋しながら何かをするということは困難である。だがここに、恋が妨げにならないたった一つの方法がある。それは恋する女と結婚することである。 人間が幸福であるために避けることのできない条件は勤労である。 人間は、すべての可能性を自分の内に備えている。 人生の意義を探し求めようとしない者がいるならば、その人間は生きながら死んでいるのだ。 正しい結婚生活を送るのはよい。しかし、それよりもさらによいのは、全然結婚しないことだ。そういうことのできる人はまれにしかいない。そういうことのできる人は実に幸せだ。 敵はいるであろう。しかし、彼らのために苦しまないようにしなければならない。敵がいることが苦痛でないだけでなく、むしろ喜びであるように行動しなければならない。 神は人間に額に汗して働けと命じている。銀行に金を積んで、何もしないで食べていこうするのは人間の掟に反することだ。 十人十色というからには、心の数だけ恋の種類があってもいいんじゃないかしら。 流れ進むのはわれわれであって、時だはない。 あらゆる戦士の中で最も強いのがこれら2つである ― 時間と忍耐。 もし悪い人間が、お互いに結合して力をつくるなら、潔白な人間も、同じことをすべきである。 愛は生命だ。私が理解するものすべてを、私はそれを愛するがゆえに理解する。 音楽ってやつは、それを作った人間のひたっていた心境に、じかにすぐ運んでくれるんですよ。 芸術は技芸ではなく、それは、芸術家が体験した感情の伝達である。 思いやりはあらゆる矛盾を解決して、人生を美しくし、ややこしいものを明瞭に、困難なことを容易にする。 女というものはいくら研究を続けても、常に完全に新しい存在である。 人間が死んだり、金銭を失ったり、家がないとか、財産がないとかいうことが、哀れなのではない。なぜなら、これらすべてのものは、人間にもともと備わっているものではないからだ。人間は、自分の本来の財産、すなわち 愛するという才能 を失った時が、哀れなのである。 戦いにおいて最も重要なことは、最後の勝負に勝つことである。 不運は投網のようなもの。引く時は重いが揚げるとなんともない。そういうものだ。 過去も未来も存在せず、あるのは現在と言う瞬間だけだ。 すべての暴力は、戦うことなく相手を屈服させることは出来ようが、相手を従順にさせることは出来ない。 真実だけでできていたなら、歴史はすばらしいものだったろうに。 他人の罪は目の前にあるが、自分の罪は背後にある。 死ぬとき人間はひとりである。 人間誰しも自らの幸福のために生きている。幸福になるためのものを望み、それを獲得することの連続が生きるということ。例えば、空腹という不幸を、食べ物の獲得において幸福にする。 人間が生を感じるのは、自分の個我においてのみであり、他者の生命はただ観察によって間接的に類推することが出来るだけ。真の生命は私においてしか感じることができず、他の生命は自己の存在の一条件・環境としてあるだけだ。 他人の不幸を私が望まないとしても、それは私が不快・不幸な思いをしたくないからであり、他人の幸福を私が望むとしても、それが私を快く幸福にするからであり、結局、人は自分の内の幸福を第一に考えざるをえないのだ。 トルストイはロシアが産んだ大文学者ですが、晩年は不幸なものでした。シェークスピアの「リア王」を不自然なプロットと決めつけて不当に貶めていましたが、誰よりもそのリアに似ていたのは不幸な死を迎えたトルストイ自身だったような気がします。運命の皮肉を感じざるを得ませんね。 終わりよければ全てよし。幸福な人生の最後を有終の美で飾りたいと願うのは私だけではないでしょうが、人は皆、受身で生まれ、受身で死を受け取らざるを得ないのですから、思うに任せませんね。自分の精一杯の努力を傾注して、毎日を充実させる。それが、我々にできる限界ですから、精々後悔のない一日を送りたいものです。
2021年04月28日
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思い煩うな。なるようにしかならんから。今をせつに生きよ。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難される。つまり、世に非難されない者はいないのである。 沈黙している者も非難され、多く語る者も非難される。つまり、世に非難されない者はいないのである。 もし、清らかな心で生きている人がいたとしたら、幸福はその人の後に、かならずついていく事でしょう。 思慮のある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって激流も押し流す事が出来ない島を作りなさい。 善をなすのにのろのろしていたら、心は悪を楽しむようになります。 水が一滴でも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来るのである。 他人の過失を見る必要はありません。他人のした事と、しなかった事だけを見るようにしなさい。 自分で自分を励ましてあげなさい。 まず、自分を正しく整えてから他人に指摘しなさい。そして、他人に指摘したことは、自分も実行しなければなりません。 「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい。 生まれを問うな、行為を問え。 壮大な岩が風にまったく揺るがぬように、賢者は非難と称賛に動じないものです。 人は「私はこういう人間だ」と自分で考えるその通りのものになります。それと異なったものになることはありません。 戦いにおいて、一人が千人に打ち勝つこともある。しかし、自己に打ち勝つ者こそ、最も偉大な勝利者である。 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。 為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。 今日すべきことは明日に延ばさず確かにしていくことこそ、よい一日を生きる道である。 目的が達成されるまで、人は努めねなければならぬ。自分の立てた目的がそのとおりに実現されるのを見よ。 過去はおってはならない、未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。 愚かな人は常に名誉と利益とに苦しむ。上席を得たい、権利を得たい、利益を得たいと、常にこの欲のために苦しむ。 最大の名誉は決して倒れないことではない。倒れるたびに起き上がることである。 法(保つ、法則、規範)を見るものは我を見る、我を見るものは法を見る。 法を見るものは縁起(これある故に、彼あり、これ起る故に彼起る、これ無き故に彼無く、これ滅する故に彼滅す、の縁起を言う) 自灯明、法灯明(自分自身をよりどころとし、他の者をたよってはいけない、法・普遍的法則をよりどころとし他の者をたよってはいけない、の意) すべてのものは滅び行くものである、不放逸によりて精進せよ。 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。―― 車をひく牛の足跡に車輪がついていくように。 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。―― 影がそのからだから離れないように。 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した、かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。 「われわれは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、眼などの感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。―― 弱い樹木が風に倒されるように。 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実も無いのであるから、黄褐色の法衣にふさわしくない。 けがれた汚物を除いて、戒律をまもることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないとみなす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。 屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家には雨が入るように、心を修養してないならば、情欲が心に侵入する。 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、ふたつところで悔いに悩む。「わたしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、地獄などにおもむいて罪の報いを受けて、さらに悩む。 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜しふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ・天の世界におもむいてさらに喜ぶ。 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。 たとえためになることを少ししかかたらないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。 他人の過ちを見てはいけない。他人がなしたことと、なさなかったことのみを見よ。 私には子供がいる。私には財産があると、愚か者は悩み苦しむ。自分でさえ自分のものでないのに、ましてどうして子供が自分のものであろうか。どうして財産が自分のものであろうか。 善を成すのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。 人がもし悪いことをしたならば、それを繰り返すな。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。 人がもし悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事をこころがけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。 まだ悪の報いが熟しない間は、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし、悪の報いが熟した時には、悪人はわざわいに遇う。 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし、善の果報が熟したときには、善人は幸福に遇う。 「その報いは私には来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴づつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水をすこしづつでも集めるように善を積むならば、やがて福運に満たされる。 怒らないことによって怒りに打ち勝て。善いことによって、悪に打ち勝て。分かち合うことによって物惜しみに打ち勝て。真実によって虚言の人に打ち勝て。 他人の過失は見やすいけれど、自分の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らす。しかし、自分の過失は隠してしまう。狡猾な賭博師が不利なさいの目をかくしてしまうように。 「 般若心経 」 私はこのように聞いています。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。その時、観音様は深淵な 智慧の完成・般若波羅蜜多 の修行をされて次のように見極めるられました。 「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する五つの集合体・五蘊であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものではないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。 しかも、それらの5つの要素も幻のように実態がないのだ」と。 そして、この智慧によって、すべての苦しみや災から抜け出すことができました。 お釈迦様の弟子で長老のシャーリープトラ・舎利子は、観音様に次のように尋ねました。 「深遠な 智慧の完成 の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」 それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。 「シャーリープトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。 体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。 これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです。つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であると、お釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません。 シャーリープトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も、さまざまな心の思いもありません。目に映る世界から、心の世界まですべてありません。 つまり、お釈迦様が説かれた 十二処(主観としての感覚器官。即ち、眼・耳・鼻・舌・身・意と、そのそれぞれに対応する対象の、色・声・香・味・触・法を言う)は、小乗仏教が言うような実体ではありません。 迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。 つまり、お釈迦様が説かれた 十二縁起(苦が生じ、繰り返されるプロセスを12の因果関係で表したもの)のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく、生まれたりなくなったりしません。 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。つまりお釈迦様が説かれた 四諦(ブッダが成道の時に知見した 苦 の四つの真理)のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません。知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。 このような境地ですから、菩薩様達は 智慧の完成 によって、心に妨げがありません、心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に解放された境地にいらっしゃいます。過去・現在・未来のすべての仏様も、この 知恵の完成によって、この上なく完全にめざめられたのです」 以上、お釈迦様の教えの概要を要約した言葉を習いましたが、私の学習の成果は次の言葉に尽きます。 一切唯心造 ― つまり、この世の全ての現象は、我々の心が作りだしている。だから、妄念を止めて、「吾唯足知」― 私はただ単に足ること、ありのままの現実を素直に受け入れて、それで満足する、それが仏教の教えを実践する道だと、得心したことであります。
2021年04月16日
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真の紳士は、持てる物をすべて失ったとしても感情を表してはならない。お金はまったく紳士の関心の外にあることであり、気にかける価値もない。 ある社会の文明の発達の度合いは、刑務所に入ってみることでわかる。 楽園は我々一人ひとりの内にあるのです。それは今私の内にもあるのです。 人間の後半生は、通常、前半生で蓄積された習慣のみで成り立つ。 人間には、幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。 完全な自由というものは、生きていても生きていなくてもまったく同じになったとき、はじめて得られるものなんです。 苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、常に必然的なものである。 絶望のなかにも焼けつくように強烈な快感があるものだ。ことに自分の進退きわまったみじめな境遇を痛切に意識するときなどはなおさらである。 ひとは笑い方でわかる。知らない人に初めて会って、その笑顔が気持ちよかったら、それはいい人間と思ってさしつかえない。 左翼は主として無神論の問題である。無神論は現代的な肉付けをした問題である。地上から天に達するためではなく、天を地上に引き下ろすために、神なくしてたてられたバビロンの塔だ。 一番簡単で、一番明白な思想こそが、いちばん理解し難い思想である。 恋の悩みや嫉妬はすべて退屈のなせるわざなのだ。惰性に押し潰されたのだ。 神が存在しないならば私が神である。 希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい。 苦しむこともまた才能の一つである。 金が何よりも卑しく、しかも厭わしいのは、それが人間に才能まで与えるからである。 人類の最も偉大な思考は、意志をパンに帰るということである。 苦痛と恐怖を征服した人間が、神となるのです。そのときにこそ新しい生がはじまる。新しい人間が生まれる。すべてが新しくなるのです。 コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。文明のおかげで人間がより残忍になったとはいえないとしても、前より醜悪になったことは確かだろう。 人間は卑劣漢として生きることができないのみならず、卑劣漢として死ぬこともできない。人間は清らかに死なねばならない。 女、女こそ男を完成させる唯一のものである。 金を持っている人間は、貧乏人がそのはかない運命を訴えることを聞くのが大嫌いである。 「私にはその行為に責任があるのだろうか?ないのだろうか?」という疑問が心に浮かんだら、あなたに責任があるのです。 愛のないところには、良識もまた育たない。思想は感情のなかから生まれる。そしてその思想が人のうちに根をおろすと、今度は新しい感情を形成する。 あの言葉はもちろん、思わず言っただけによけい重大なのだ。 夫が妻にとって大事なのは、ただ夫が留守の時だけである。 私は何か善を行おうと思いながら、そこに喜びを感ずることができる。また同時に、悪を行いたいとも思い、そこにも喜びを覚えることもできる。 もちろん金は絶対的な力である。と同時に、平等の極致でもある。金の持つ偉大な力は、まさにそこにあるのだ。金はすべての不平等を平等にする。 利口な女と嫉妬深い女とは、おのおの異なった、まったく別個なものである。したがって、どんなに利口な女でも、同時に嫉妬深い女になることができる。 善い人とは、強い人たちのことではなく、誠実な人たちのことである。 人間というものは時として、何にそそのかされて我を押し通すのか、自分でも分からぬことがあるものだ。 思いやりこそは最も重要な、そしておそらくは全人類の唯一の生活の規範なのだ。 他人に尊敬されたいのなら、自分自身を敬うがいい。自分自身に敬意を払うことによってのみ、他人はあなたを敬うようになるだろう。 人間には愛がありさえすれば、幸福なんかなくったって生きていけるものである。 真実を語る者は機知のない人間だけである。 みんなのために自発的にいのちを捨てること、みんなのために十字架にのぼり火刑の火の中に入ることは、個性が最も強度に発達したときに初めてできることである。 問題は時間にあるのではなく、あなた自身にあるのです。 神様が時間を少ししか下さらず、一日に僅か24時間しか割り振ってくださらなかったもんだから、悔い改めることはおろか、十分に眠る暇もありゃしない。 感情は絶対的である。 そのうちでも嫉妬はこの世で最も絶対的な感情である。 しだいに高くそびえてゆく建物を見る喜びは、たとえ今までのところ、その建物にわずか一粒の砂を運んだにすぎない人でも、必ずやこころの渇きをいやしてくれるはずである。 僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ。 人間的なあつかいをすれば、神の似姿などとうの昔に消えてしまったような人をさえ、人間にすることができる。 人間、人間は哀れみなしにはいきていけない。 人間というものは、不幸の方だけを並べ立てて幸福の方は数えようとしないものだ。 人間として最大の美徳は、上手に金をかき集めことである。つ まり、どんなことがあっても他人の厄介になるなということだ。 耐え忍べ、働け、祈れ、そしてつねに希望を持て。これがわたしが全人類に一度に吹き込もうと願っている真理なのです。 幸福は幸福の中にあるのではなく、それを手に入れる過程の中だけにある。 人間のできる唯一のことは、自分自身が精神的に成長することです。 決して一か八かというきわどいところまで進んではいけない。それが夫婦生活の第一の秘訣である。 良き時代は天から降ってくるものではなくて、わたしたちが自分でつくり出すものです。それはわたしたちの心の中にあるものなのですよ。 理想主義者と現実主義者は、彼らが誠実で寛容でありさえすれば、その本質はおなじく、人類へ愛であり、その対象はおなじく、人間であり、違っているのは、対象を表示する形式ばかりである。 他人に対してもっとやさしく、もっと気を使い、もっと愛情を持つことです。他人のために自分を忘れること、そうすればその人たちはあなたを思い出してくれます。 人間というやつはいつでも、人に騙されるよりは自分で自分に嘘をつきたがるものなのだ。そして、無論、人の嘘より自分の嘘の方を余計に信じるのだ。 神と悪魔が戦っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。 新しい一歩を踏み出すこと、新しい言葉を発することは、人々が最も恐れることである。 人生は苦痛であり恐怖である。だから人間は不幸なのだ。だが今では人間は人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ。 苦痛こそ生活なのだ。苦痛がなければ、いったい人生にどんな快楽があろうか。 一杯の茶を飲めば、世界なんか破滅したって、それでいいのさ。 青春はそれが青春というだけで、もう清らかなのです。 自分はこの目の前に立っている犯罪者とまったくおなじような罪人である。いや、自分こそ、この目まえに立っている。人間の犯罪に対し、だれよりもさきに重い罪があるのだと、みずから認識しないかぎり、この地上には犯罪者を裁くことのできる者は存在しないのだ。 金こそは、取るに足らぬ人物を第一級の地位に導いてくれる唯一の道である。 そうだ、僕のまわりには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、こんなにも神の栄光があふれていたのに、僕だけが恥辱の中で暮らし、一人であらゆるものを汚し、日にも栄光にもまったく気づかずにいたのだ。 本当の真実というものはいつでも真実らしくないものだ。真実をより真実らしく見せるためには、どうしてもそれに嘘を混ぜる必要がある。だから人間はつねにそうしてきたものだ。 人生で何よりも難しいのは、嘘をつかずに生きることだ。そして、自分自身の嘘を信じないことだ。 地獄とな何か、それはもはや愛せないという苦しみだ。 「人類に対する愛」という言葉は、自分が心の中でつくりあげた人類に対する、つまり己に対する愛である。 誰も彼もがお前を見捨て、もう力ずくでもお前を追い払おうとしたら、そのときはひとりきりになって、大地にひれ伏し、大地を、お前の涙でぬらしなさい。 思想は常に人間よりも現実的である。 あらゆる堕落の中で最も軽蔑すべきものは、他人の首にぶらさがることだ。 夫婦や恋人同士の問題には決して口をだしてはいけない。そこには世間の誰にも分からない、二人だけしか知らない一隅があるのだから。 人が子供を持つのは、たとえ自分は死んでも、子供たちが生涯自分の感情や考えを持ち続けてくれるからさ。 謙虚な愛は暴虐よりもずっと効果の多い怖ろしい力である。 愛情に満ちあふれた心には、悲しみもまた多いものである。 良心の自由ほど魅惑的なものはないけれど、またこれほど苦しいものはないのだ。 太陽におなりなさい。そうすれば、誰もがあなたを仰ぎ見ることでしょう。 人間が不幸なのは、自分が不幸であることを知らないからだ。 ただそれだけの理由なのだ。 ほんとうに人間は誰でも、すべての人に対し、すべてのことにについて罪があるのです。人びとはただそれを知らないだけです。 人類最高の傑作と賞賛される「カラマーゾフの兄弟」の登場物の中で、次男にイワンと三男のアリョー者の性格が非常な対象をなして、私を魅了します。イワンはインテリの無神論者であり、アリョーシャは善良で敬虔な信仰心の持ち主。この二人が激しく対立ドラマがこの未完の物語を非常に盛り立てる立役者となっている。
2021年04月10日
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のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。 人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。 のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかもしれない。 あせってはいけません。ただ、牛のように、図々しく進んでいくのが大事です。 君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せてこないと怒る男だ。地団駄を踏んでくやしがる男だ。そうして山を悪く批判するだけを考える男だ。なぜ山の方に歩いて行かない。 自分の弱点をさらけ出さずに人に利益を与えられない。 私は冷ややかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。 女には大きな人道上の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集中される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます。 愛嬌というのはね、自分より強いものを倒す柔らかい武器だよ。 たいていの男は意気地なしね、いざとなると。 君、弱いことを言ってはいけないよ。僕も弱い男だだが、弱いなりに死ぬまでやるのである。 真面目とは、君、真剣勝負のことだよ。 わざわざ人の嫌がるようなことを云ったり、したりするんです。そうでもしなければ僕の存在を人に認めさせる事が出来ないんです。僕は無能です。仕方がないからせめて人に嫌われてでもみようと思うのです。 馬は走る。花は咲く。人は書く。自分自身になりたいが為に。 考えてみると世間の大部分の人は悪くなるを奨励しているように思う。悪くならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。 人間の目的は生まれた本人が、自分自身のためにつくられたものでなければならない。 自らを尊しと想わぬものは奴隷なり。 嫌な女も好きな女もあり、その好きな女にも嫌なところがあって、その興味を持っているすべての女の中で、一番あなたが好きだと云われてこそ、あなたは本当に愛されているじゃありませんか? 青年は真面目がいい。 ある人は十銭をもって一円の十分の一と解釈する。ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈する。同じ言葉が人によって高くも低くもなる。 もしも人格のないものが無闇に個性を発展させようとすると、他を妨害する。権力を用いようとすると、濫用に濫用に流れる。金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです。 うそは河豚汁である。その場限りでたたりがなければこれ程にうまいものはない。しかしあたったが最後苦しい血も吐かねばならぬ。 真面目に考えよ。誠実に語れ。 前後を切断せよ、みだりに過去に執着するなかれ、いたずらに将来に望みを属するなかれ、慢心の力をこめて現在に働け。 嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔が却って恋しかろう。 のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。離れればいくら親しくってもそれきりになる代わりに、いっしょにいさえすれば、たとい敵同士でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう。 金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。 ナポレオンでもアレキサンダーでも、勝って満足したものは一人もいない。 自由な書を読み、自由な事を言ひ、自由な事を書かんことを希望いたし候。 色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず。 恐れてはいけません。暗いものをじっと見つめて、その中から、あなたの参考になるものをおつかみなさい。 恋心というやつ、いくら罵りわめいたところで、おいそれと胸のとりでをでていくものでありますまい。 すべての夫婦は新しくなければならぬ。新しい夫婦は美しくなければならぬ。新しく美しき夫婦は幸福でなければならぬ。 細君の愛を他へ移さないようにするのは、夫の義務である。 鏡は自惚れの醸造器である如く、同時に自慢の消毒器である。 運命は神が考えることだ。人間は人間らしく働けばそれで結構である。 四角の世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んで良かろう。 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変つよくなりました。彼等何者ぞやと気概が出ました。 自己を捨てて神に走るものは神の奴隷である。 自分の好きなものは必ずえらい人物になって、きらいなひとはきっと落ちぶれるものと信じている。 道徳に加勢する者は一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従う者は一時の敗北者だが、永久の勝利者だ。 あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえがゆえに尊い。 教えを受ける人だけが自分を解放する義務を持っていると思うのは間違っています。教える人も己れを貴方の前に打ち明けるのです。 人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だよ。 人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。 他の親切は、その当時こそ余計なお世話に見えるが、後になると、もういっぺんうるさく干渉してもらいたい時期が来るものである。 金をつくるにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ。義理をかく、人情をかく、恥をかく、これで三角になるそうだ。 世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。 表面を作る者を世人は偽善者という。偽善者でも何でもよい。表面を作るといういう事は内部を改良する一種の方法である。 時代の風潮、自分を取り巻く環境、さまざまな環境、さまざまな価値観、それらを正しく見きわめ、自分の判断で行動できるのは、どこにも属さない 迷子 だけだ。 自分のしている事が、自分の目的(エンド)になっていない程苦しい事はない。 ああ、苦しい、今、死にたくない。 恐れてはいけません。暗いものをジッと見つめて、その中から、あなたの参考になるものをおつかみなさい。 あらゆる芸術の士は、人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にひとの世は住みにくい。 世に住むこと二十年にして、住む甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所に屹度影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。―― 喜びの深きとき憂愈(いよいよ)深く、楽しみの大なる程苦しみも大きい。これを切り離そうとすると身が持てぬ。片付けようとすると身が持てぬ。片付けようとするとすれば世が立たぬ。 とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時に、詩が生まれて、画が出来る。 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へいくばかりだ。人でなしの国は人の国よりなお住みにくかろう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。 人間の不安は科学の発展からくる。進んで止まることを知らない科学は、かって我々に止まる事を許してくれた事がない。 自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実で有り得ない。 結婚は顔を赤くするほど嬉しいものでもないけれど、恥ずかしいものでもないよ。 結婚して一人の人間が二人になると、一人でいた時よりも人間の品格が堕落する場合が多い。 呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。精神的に向上心がないものは馬鹿だ。 離れればいくら親しくってもそれきりになるかわりに、いっしょにいさえすれば、たとい敵同士でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう。 色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず。恐れてはいけません。暗いものをじっと見つめて、その中から、あなたの参考になるものをおつかみなさい。 凡ての創(きず)くちを癒合するものは時日である。 前後を切断せよ、満身の力をこめて現在に働け。 真面目に考えよ。誠実に語れ。摯実(しじつ、真面目の意)に行え。汝の現今に蒔く種はやがて汝の収むべき未来となって現るべし。 愛は堅きものを忌む。すべての硬性を溶化せずにはやまぬ。 人間は好き嫌いで働くものじゃない。 吾人は自由を欲して自由を得た結果、不自由を感じて困っている。 漱石の言葉で最も有名なのが、則天去私でありましょうか。近代人は例外なく、ガリガリの個人主義者ですから、「小我」を捨て去ることは困難な事と言うよりは、不可能であります。広大無辺の天に従い、天の命ずるままに行動出来たらどんなに気楽であろうか。そうした、漱石の肉声が響いてくるようなことばでありますね。私も、漱石同様に則天去私を実行したいものと、日夜己の小我を矯める為の努力を続けておりまして、少しは、硬い殻が溶けかけて、身動きが楽になっているように感じている今日この頃であります。
2021年04月06日
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ドイツの文豪、ヨハン・ヴォルガング・ゲーテ(1749-1832)の名言です。 自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる。 焦ることは何の役にも立たない、後悔はなおさら役に立たない。焦りは過ちをまし、こうかいは新しい後悔をつくる。 バラの季節を過ぎたる今にして初めてしる、バラのつぼみの何たるかを。遅れ咲きの茎に輝けるただ一輪、千紫万紅をつぐないて余れり。 自分一人で石を持ち上げる気がなかったら、二人でも持ち上がらない。 人間の最大の罪は不機嫌である。 本当に不幸なのは、できることを未完のまま放り出し、理解もしていないことをやり始めてしまう人々だ。彼らがやがて嘆くのも無理はない。 本当の自由な心とは 認める ということである。 毎日を生きよ。あなたの人生が始まった時のように。 あなたにできること、あるいはできると夢見ていることがあれば、いますぐ始めなさい。向う見ずは天才であり、力であり、魔法です。 すべてを今すぐ知ろうとは無理なこと。雪が解ければ見えてくる。 どこに行こうとしているんかわからないのに、決して遠くまで行けるものではない。 何事も初めは難しい、ということわざは、ある意味では真理かもしれないが、より一般的には、何事も初めは容易だ。最後の段階に登ることこそ一番難しく、これに登り得る人間は希だ、といえる。 我々は高みに憧れるが、歩き出すことには無関心だ。山々を望みながら、平らな道を歩きたがる。 愚者と賢者はともに害がない。半端な愚者と半端な賢者が、いちばん危険なのである。 人間を堕落に導くもっとも大きな悪魔は、自分自身を嫌う心である。 若くして求めれば老いて豊かである。 人喧嘩する時、双方とも悪いと感じている。 人間は常に迷っている。迷っている間は常に何かを求めている。 人生において重要なのは生きることであって、生きた結果ではない。 長いこと考えこんでいる者が、いつも最善のものを選ぶわけではない。 とにかく、とりかかれば心が燃えあがるし、続けていれば仕事は完成する。 あらゆる階級を通じて、目立って気高い人は誰か。どんな長所を持っていても、常に心の平衡を失わない人だ。 その夢を失くして、生きてゆけるかどうかで考えなさい。 われわれは結局何を目ざすべきか。世の中を知り、それを軽蔑しないことだ。 一つのことが万人にあてはまりはしない。めいめい自分にふさわしい流儀を求めよ。 拒絶するのに多くの言葉を費やす必要はない。相手はただ否という一言を聞けばよいのだから。 現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。 光が多いところでは、影も強くなる。 自由でないのに自由であると考えている人間ほど、奴隷になっている。 新聞をよまなくなってから、私は心がのびのびし、実に気持ちがよいです。人々は他人のすることばかり気にかけて、自分の手近の義務を忘れがちです。 真の知識は経験あるのみ。 人が旅をするのは、到着するためではありません。それは旅が楽しいかならです。 性に合わない人たちと付き合ってこそ、うまくやって行くために自制しなければならないし、それを通して、われわれの心の中にある、いろいろ違った側面が刺激されて、発展し完成するのであって、やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ。 生まれが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要はない。何世紀も普通の価値、普通の名声を保ってきた作品を持つ、過去の偉大なる人物にこそ学ぶことだ。 名誉を失っても、もともとなかったとおもえば生きていける。財産を失ってもまたつればよい。しかし勇気を失ったら、生きている値打ちがない。やる気になった というだけでは、道半ば。 国王であれ、農民であれ、家庭に平和を見いだせる者が、もっとも幸せである。 あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値あるものになったことだろう。 初恋が唯一の恋愛だ、といわれるのは至言である。というのは、第二の恋愛では、また第二の恋愛によって、恋愛の最高の意味が失われるからである。 女は決して自分の自然な姿を見せない。なぜならば女は、自然から生みつけられたままでもきっと人から好かれるものだ、というふうに考えることのできる男ほどのうぬぼれがないからである。 女性を力強く守ることのできる者だけが、女性の愛顧を得るのに値する。 自分を買いかぶらない者は、本人が信じているよりもはるかに優れている。 何をなすべきか、いかになすべきか、をのみ考えていたら、何もしないうちにどれだけ多くの歳月がたってしまうことだろう。 いつか目標に通じる歩みを一歩一歩と運んでいくのでは足りない。その一歩一歩が目標なのだし、一歩そのものでなければならないよ。 この動揺する時代に自分までぐらつくのは災いを増すばかりだ。おのれの志を守ってゆずらぬ者だけが世の中を作り上げて行くのだ。 希望は風雨の夜に早くも朝紅をさす。 私個人は多年人に噛みつかれることになれているので、経験からこう言いたいと思います。たとえ人の反対をうけても、自分の声がかき消されるなどという心配はさらさらない。ただ焦ってはいけない。つねに行動を続け、時に語り合うこと。そうすれば、われわれの考え方に賛成する人がしまいには結構たくさん出てきます。 自分を実際以上に考えることと、真価以下に見積もることは、共に大きな誤りである、 思慮深い人は、決して敵を侮らない。 若いうちの誤りは、きわめて結構だ。ただ、それを年をとるまで引きずってはならない。 種をまくことは、取り入れほど困難ではない。 小さな夢は見るな。それには人の心を動かす力がないからだ。 人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。多く知るにつれ、次第に疑いが生じて来るものです。 人をほめれば、その人と対等になれる。 人間は努力する限り過ちを犯すものだ。 世界は粥で造られてはいない。君等は怠けてぐずぐずするな。喉がつまるか消化するか、二つに一つだ。 生きている間は、何事も延期するな。なんじの一生は、実行また実行であれ。 戦の前に敵を見くびるのは愚かなことであり、勝利のあとで敵に追い打ちをかけるのは卑怯なことである。 大切なことは、大志を抱き、それを成し遂げる技能と忍耐を持つということである。その他いずれも重要ではない。 年をとるということが既に、新しい仕事につくということなのだ。すべての事情は変わっていく。我々は活動することを全然やめるか、進んで自覚をもって、新しい役割を引き受けるか、どちらかを選ぶほかない。 立派な目標と偉大な仕事をやり遂げる道は二つしかない。体力と耐久力である。体力はほんの一握りの恵まれた人間のものである。しかし厳しく身を守り、常に耐え抜く事は、ごく弱小な者でもできるし、たいていの場合目標を達成する。これは、彼の無言の力が時が経つにつれ、何ものにあってもへこたれないほど強力になるからだ。 神は、移ろいやすいものだけ美しくした。 卑怯者は、安全な時だけ居丈高になる。 愛する人の欠点を愛することのできない者は、真に愛しているとは言えない。 人間は現在がとても価値のあることを知らない。ただなんとなく未来のよりよい日を願望し、いたずらに過去とつれだって嬌態を演じている。 ある種の欠点は、個性の存在にとって必要である。 みずから勇敢に戦った者にして始めて英雄を心からほめたたえるだろう。暑さ寒さに苦しんだ者でなければ、人間の値打ちなんかわかりようがない。 我々の犯すひとつの大きな誤謬は、原因を常に結果の間近にあり、と考えることにある。 気持ちよい生活を作ろうと思ったら、すんだことをくよくよせぬこと、めったに腹をたてぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ、人を憎まぬこと、未来を神にまかせること。 高尚なる男性は、女性の忠告によって、いっそう高尚になる。 三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、闇の中にいよ、その日その日を生きるとも。 自分が経験したことは理解していると思いこんでいる人がたくさんいる。 十歳にして菓子に動かされ、二十歳にして恋人に、三十歳にして快楽に、四十歳にして野心に、五十歳にして貪欲に動かされる。いつになったら人間は、ただ知性のみを追って進むようになるのであろうか。 人にだまされることは決してない。自分にだまされるのだ。 人はいかに遇されるかによって、それなりの人物になっていく。 人間には多くの宝、多くの楽しみが与えられている。しかし人生最大の幸福、最も豊かな収穫は、なんといっても善良軽快な心だ。 天には星がなければならない。大地には花がなければならない。そして、人間には愛がなければならない。 真理はたいまつである。しかも巨大なたいまつである。だから私たちはみんな目を細めてそのそばを通り過ぎようとするのだ。やけどする事を恐れて。 なぜ、このように悪口が絶えないのか。人々は他人のちょっとした功績でも認めると、自分の品位が下がるように思っている。 考えている事を考え抜く事ができない時のみ、人は本当に考えているのだ。 私・草加の爺がゲーテに関心を抱き、ドイツ語を独学で勉強し始めたのは、誕生日が偶然一緒であったからであるが、森鴎外の天才に憧れて尊敬し、彼が留学したドイツに強く惹かれたからという、二重の意味でしかないが、そんなたわいもないことで始めたドイツ語への執着は、私をして語学フェチにしてしまう運命にあった。大学で、我が国の古典に目覚めて、外国へのあこがれも良いけれど、自分が生まれた母国語をしっかりと固めなくては、何にもならない事だという気付きへと自然に導かれたのである。 私にとっては忘れがたい恩人がゲーテであります。
2021年04月02日
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