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関所(せきところ) 停止(ていじ)の事 それ、四境七道の関所は国の大禁を知らしめ、時の非常を知らしめんが為である。 然るに今、壟断(ろうだん)の利に依って商売往来の弊(ついえ)、年貢運送の煩いありとて大津、葛葉の外(ほか)は悉く所々の新関を止められたのだ。 元亨の飢饉に窮民を救い、記録書にて訴訟を聞き召さる 又、元亨(げんこう)元年の夏、大上に日の干(おおひでり)が地を枯らして田服(てんぶく、王城の四方五百里の地、畿内)の外百里の間、むんしく赤土のみ有り、青苗(せいびょう)はなし。 餓莩(がひょう、餓死者)が野に満ちて、飢人(きひと)が地に倒れている。 この年に銭三百を以て、粟一斗を買う。 君は遥かに天下の飢饉を聞し召して、朕に不徳が有るのであれば天は予(よ)一人を罪すべし。黎民に何の咎があってこの災いに遭うのか。 自ずから帝徳が天に背いていたのを歎き思召して、朝食偏に向(あさかれい)の供御(天皇の御膳)をやめられて、飢人(きにん)窮民の施行(施し与える事)に引かれたことは有難い事である。 これもなお万民の飢えを助けるべきものではないとて、検非違使の別当に仰せて、当時富祐の輩(ともがら)が利倍の為に畜積(たくわえため)る米穀を點撿して、二條町に假屋を建てられて、検使自らが断(断って、判断して)値を定めて売らせたのだ。 そうであるから、商売(売り買い)が共に利を得て、人が皆九年の畜(貯え)あるが如し。 訴訟の人が出で来たる時には、もしや下の情が上に達しないこともあろうかと、記録所に出御なって直に訴えを聞し召し明らめて、理非を決断なれたので、虞芮(ぐぜい、田地)の訴えが停み、刑鞭も朽ち果て、諌鼓も撃つひとがいない。 著者 の 批評 誠に理世安民の政(まつりごと)、もし、機巧(才知)に付いてこれを見れば、命世(めいせい、世に名を得た者)亞聖(あせい、聖人に次ぐ者)の才とも稱すべし。 ただ、恨むらくは齎桓覇(せいかんは、斉の桓公が覇道を行った。覇道とは権謀や武力で国を治める事。王者・聖人の道を行う者が忌む所である)を行い、楚人は弓を忘れた故事に叡慮(御醍醐帝の御考え)が少し似ている事である。 是、即ち草創は一天を合わすと言えど、守文(しゅぶん、先祖が武力で得た国を文を以て守る。即ち。国を維持し治める事)三載(三年)を越えざる所である。 この覇道的で狭量であらせられたことが、せっかく天下を併せんがら、これを維持する事三年を越えなかった理由である。ここは、後醍醐天皇が王道を忘れ覇道を行われたと諷したもので、冷徹な批評眼を持つと学者などから評価されている。 立后の事 付けたり 三位殿御局の事 藤原示す偏に喜立后 寵なし 文保(ぶんぼう)二年八月三日、後(のちの)西園寺太政大臣實兼公の御女が后妃の位に備わって弘徽殿に入らせ給う。 この家に女御を立てられたること既に五代、これも承久以後の相模の守代々西園寺の家を尊崇せられしかば、一家の繁昌あたかも天下の耳目を驚かせり。 君も関東に聞こえしかるべしと思召して、取り分け立后の御沙汰もありけるにや、御齢は既に二八にして、金鶏障(金鶏の絵を描いた障子)の下のかしずかれて、玉楼殿の内に入り給えば、夭桃の春を傷める装い、垂柳の風を含める御形、毛女偏の牆(もうしょう、麗姫)・西施も面を羞じ、女偏の降樹・青琴も鏡を奄(おお)う程であるから、君の御覚えも定めし類あらじと思えたのだが、君恩は紙より薄かったので、一生空しく玉顔に近づかせ給わず。 深宮の中に向って、春の日の暮難いのを歎き、秋の夜の長恨みに沈ませ給う。金屋(きんおく、美麗の家)に人無くして、皎々たる残燈(のこりのともしび)の壁に背ける影は、薫龍に香が消えて簫々たる暗雨(よるのあめ)が窓を打つ声、物事に皆御泪を添える仲立ちとなった。 人生では婦人の身となるなかれ、百年の苦楽は他人に依る。と、白楽天が書き残しているのも、断り也と覚えるのだ。 三位殿の局寵を専らにする その頃、安野の中将公廉(きみかど)の女(むすめ)に、三位殿の局と申す女房が中宮の御方に候われける。君が一度ご覧になられて他とは異なる御覚えありけり。 三千の寵愛を一身に受けたので、六宮の粉黛は顔色なきが如き成り。 すべて三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御・及び後宮の美人・楽府(がふ、漢の武帝が歌辞・楽律を制定するために設けた役所。ここは日本の雅楽寮の歌姫を指す)の妓女と言えども、天子顧眄(恩恵)の御心を付けられず。 ただ、殊艶尤態(特別な優艶な姿態)がひとりよくこれを致しただけではなくて、ただし善巧便佞叡旨に先だって、奇を爭いしかば、花の下の春の遊び、月の前の秋の宴にも、駕すれば輦(てぐるま)を共にし、幸(みゆき)すれば席をほしいままにし給う。 是よりは君王は朝政をしたまわず。忽ちに准后の宣旨を下されしかば、人皆が皇后・元妃(げんぴ、第一の后、皇后)の思いをしたのだ。 驚いて見る、光彩が始めて門戸に生まれた事を。 この時に天下の人は男を生むことを軽んじ、女を生む事を重んじたのだ。 されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、準后の御口入れであるとだけ言えば、上卿も忠がないのに賞を与え、奉行も理あるのに非とする、 関且偏に隹(かんしろ)は楽而不淫(たのしんでいんせず)、哀而不傷(かなしんでやぶらず)、詩人が採って后妃の徳とする。 如何かせん、傾城傾国の乱、今に有るであろうと覚えて浅ましかりし事どもであるよ。
2025年12月03日
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御醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の失敗、南北朝の対立、そいて室町政府の成立まで、およそ五十年間の南北朝時代を描いた全四十巻の軍紀物語です。 その文章・修辞は和漢混交文の極致に達したもので、和文の優美と漢文の勁健と、それぞれの特徴を受けてそれを融和させ、、或いは壮絶に、或いは優艶に、多種多様なその姿態文姿は誠に自由自在であるとの感じを読むものに与えずにはおかない。所謂、道行文も「太平記」で初めて完成した。 とにかく、本文の鑑賞に入りましょうか。 第 一 巻 序文 蒙(もう、私)は密かに古今の移り変わる姿を採って、安危の来由を察するに、覆って外無きは天の徳である。 名君がこれを體して国家を保つ。載せて棄てることないのは地の道である。 良臣は即ちこれに則り、社稷を守る。 もしそれその徳が缺蹴る時は位有ると言えども保たず。所謂、夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に贁られた。その道が違う時には威蟻と言えども、久しからず。 嘗て聴く、趙高は咸陽に刑せられ、碌山は鳳翔に滅ぶ。 ここを以て前聖は謹んで法(四書五経の類)を将来に垂れることを得た。 後昆(後世)、顧みて誡めを既往に取らざらんや。 御醍醐天皇御治世の事 付けたり 武家繁昌の事 天下の大乱 ここに本朝、人皇の始め、神武天皇より九十五代の帝、御醍醐天皇の御宇に当たって、武臣相模の守平高塒と言う者がいた。 この時、上君の徳に背き、下は臣の礼を失った。 これより、四海は大いに乱れて、一日も未だ安からず。狼煙は天を翳(かく)し、鯨波(げいは、鬨の声)は地を動かす。 今に至るまで四十余年、一人として春秋に富めるを得たる者なし。万民は手足を措くに所なし。 その濫觴と源氏三代 つらつらとその濫觴を尋ねれば、ただ禍は一朝一夕のことにあらず。 元暦年間に鎌倉の右大将頼朝卿が平家を追討して、その功あるの時に後白河院は叡感のあまりに六十六箇国の総追捕使に補(ふ)せられて、これより武家が始めて諸国に守護を立て、荘園に地頭を置く。 かの頼朝の長男左衛門守頼家、次男右大臣実朝公、相続いて皆征夷将軍の武将に備わる。 これを三代将軍と号する。 然るを、頼家公卿は実朝の為に討たれて、実朝は頼家の子悪禅師公暁の為に討たれて親子三代、僅かに四十二年で尽きてしまった。 承久の乱 と 北条氏の仁政 その後に、頼朝卿の屍、遠江守平の時政の子息、先の陸奥守義時、自然に天下の権柄を執り、勢い漸くに四海を覆わんと欲す。 この時の大上天皇は後鳥羽院である。 武威を下(しも)に振るわず、朝憲(国を統治する法規)は上(かみ)に廃れしことを歎き思召して義時を亡ぼさんとし給ったのだが、承久の乱(承久三年五月に承久の乱が起こる。六月、義時が京に乱入して七月十三日に後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐に順徳上皇を佐渡へ入るした。六月十三、十四日に宇治の勢多合戦であるから、一日も終えぬのに官軍が忽ちに敗北と言うのは誤りで儚い敗北を誇張したものである)が出で来て、天下は暫くも静かではなかった。 遂に旌旗(せいき、多くの旗)が日に掠(かす)めて、宇治と勢多にして相戦う。 その戦い、未だ終わらざるに、一日で官軍が忽ちに敗北してしまったので、後鳥羽の院は隠岐の国に遷されさせ給いて、義時はいいよ八荒(はちこう、八方、天下)を掌に握る。 それより後、武蔵の守泰時・修理の亮時氏・武蔵野の守経時・相模の守時頼・佐馬權頭時宗・相模の守貞時、相続いて七代、政(まつりごと)が武家より出て、徳は窮民を撫するに足りたる。 威は萬人の上に、被ると言えども、位四品の際(あいだ)を越えず、謙に居て仁恩を施し、己を責めて礼儀を正す。是を以て高しと言えども危うからず、盈(みて)りと言えども溢れず。 承久より以来(このかた)、儲王(ちょをう)摂家の間に、理生安民の器に相当たり給える貴族を一人、鎌倉に申し下し奉りて、征夷将軍と仰いで、武臣皆拝趨の礼を事とする。 同じく三年に、始めて洛中に両人の一族を据えて両六波羅と号して、西国の沙汰を執り行わせて京都の警護に備えられた。 又、永仁元年からは鎮西(九州を言う)に一人の探題を下して、九州の成敗を司らせしめ、異族襲来の守りを堅きした。 されば、一天下は遍くかの下知に随わずと言う所はなく、四海の外(ほか)も均しくその権勢に服せずと言う事はなかりけり。 公家 對 武家 朝陽(ちょうよう)犯さざれども残星光を奪わるるの習いであれば、必ずしも武家より公家を蔑(ないがしろ)にし奉れともなけれども、所には地頭は強くして領家は衰え弱く、国には守護が重くして国司は軽い。 この故に朝廷は年々に衰え、武家は日々に盛ん成り。 北条高塒の 暴逆 これによって代々の聖主(優れた天皇)、遠くは承久の宸襟(天皇の御心、承久の乱に後鳥羽・順徳・土御門の三上皇が遠嶋に遷された御怨み)を休めんがために、近くは朝議の陵廃(高い所が崩れる意)を(朝廷の政の衰微)を歎き思召して、東夷(東国の武士を嘲り言う)を亡ぼさばやと、常に叡慮を廻らされたのであるが、或いは勢いが微にして叶わず、或いは時いまだ到らずして、黙止し給いける所に時政九代の後胤・前(さき)の相模の守平高塒入道崇鑒(すうかん)の代に至って、天地命を革(あらた)めるべき危機(天命が改まる、即ち統治者が改まると言う危うい兆し)がここに顕れたのだ。 つらつら古を引きて今を見るに、行跡(行状)は甚だ軽くして人の嘲りを顧みず、政道正しからずして民の弊(ついえ)を思わず、ただ日夜に逸遊(ほしいままの遊び)を事として前烈(ぜんれつ、祖先)を地下に羞(はずか)しめ、朝暮に奇物を翫(もてあそ)びて傾廃(けいはい、国が傾き廃る事)を生前(しょうぜん、生きている間に)に致さんとする。 衛の懿公(いこう)が鶴を乗せた楽しみは早く尽きて、秦の李斯(りし)が犬を牽(ひ)いた恨みが今に来たらんとする。 見る人は眉を顰め(不快がる)、聴く人は唇を翻す(そしる)。 後醍醐天皇 の 御聖徳 この時の帝御醍醐天王と申せしは後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹(おんはら)で御坐(おわ)したが、相模の守の計らいとして、御年三十一の時に御位に就き奉る。 御在位の間、内(私生活)では三綱五常(さんこうごじょう、君臣・父子・夫婦の三道と仁義礼智信の五徳)の義を正し、周公孔子の道に順い、外(ほか)には万機百司(ばんきはくし、すべての政務)の政(まつりごと)を怠りたまわず、延喜天暦の跡を追われしかば(醍醐天皇と村上天皇の時代の御事績を慕ってそれに近づく)四海風(ふう)を望んで悦び、万民は徳に帰して楽しむ。 およそ諸道の廃れたのを興し、一事の善をも賞ぜられたので、寺社禅律(仏寺・神社と禅宗・律宗)の繁昌、ここに時を得て、顕密儒道の碩才も皆が望みを達したのだ。 誠に、天に受けたる聖主、地に奉ぜる名君なりと、その徳を稱じ、その化に誇らぬ者は無かったのだ。
2025年12月02日
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