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2025年12月02日
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御醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の失敗、南北朝の対立、そいて室町政府の成立

まで、およそ五十年間の南北朝時代を描いた全四十巻の軍紀物語です。

 その文章・修辞は和漢混交文の極致に達したもので、和文の優美と漢文の勁健と、それぞれの特

徴を受けてそれを融和させ、、或いは壮絶に、或いは優艶に、多種多様なその姿態文姿は誠に自由

自在であるとの感じを読むものに与えずにはおかない。所謂、道行文も「太平記」で初めて完成し

た。

 とにかく、本文の鑑賞に入りましょうか。


           第 一 巻  序文

 蒙(もう、私)は密かに古今の移り変わる姿を採って、安危の来由を察するに、覆って外無きは天



 名君がこれを體して国家を保つ。載せて棄てることないのは地の道である。

 良臣は即ちこれに則り、社稷を守る。

 もしそれその徳が缺蹴る時は位有ると言えども保たず。所謂、夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧

野に贁られた。その道が違う時には威蟻と言えども、久しからず。

 嘗て聴く、趙高は咸陽に刑せられ、碌山は鳳翔に滅ぶ。

 ここを以て前聖は謹んで法(四書五経の類)を将来に垂れることを得た。

 後昆(後世)、顧みて誡めを既往に取らざらんや。


   御醍醐天皇御治世の事 付けたり 武家繁昌の事

     天下の大乱

 ここに本朝、人皇の始め、神武天皇より九十五代の帝、御醍醐天皇の御宇に当たって、武臣相模

の守平高塒と言う者がいた。



 これより、四海は大いに乱れて、一日も未だ安からず。狼煙は天を翳(かく)し、鯨波(げいは、

鬨の声)は地を動かす。

 今に至るまで四十余年、一人として春秋に富めるを得たる者なし。万民は手足を措くに所なし。

     その濫觴と源氏三代

 つらつらとその濫觴を尋ねれば、ただ禍は一朝一夕のことにあらず。



六十六箇国の総追捕使に補(ふ)せられて、これより武家が始めて諸国に守護を立て、荘園に地頭を

置く。

 かの頼朝の長男左衛門守頼家、次男右大臣実朝公、相続いて皆征夷将軍の武将に備わる。

 これを三代将軍と号する。

 然るを、頼家公卿は実朝の為に討たれて、実朝は頼家の子悪禅師公暁の為に討たれて親子三代、

僅かに四十二年で尽きてしまった。

           承久の乱 と 北条氏の仁政

 その後に、頼朝卿の屍、遠江守平の時政の子息、先の陸奥守義時、自然に天下の権柄を執り、勢

い漸くに四海を覆わんと欲す。

 この時の大上天皇は後鳥羽院である。

 武威を下(しも)に振るわず、朝憲(国を統治する法規)は上(かみ)に廃れしことを歎き思召して義

時を亡ぼさんとし給ったのだが、承久の乱(承久三年五月に承久の乱が起こる。六月、義時が京に

乱入して七月十三日に後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐に順徳上皇を佐渡へ入るした。六月

十三、十四日に宇治の勢多合戦であるから、一日も終えぬのに官軍が忽ちに敗北と言うのは誤りで

儚い敗北を誇張したものである)が出で来て、天下は暫くも静かではなかった。

 遂に旌旗(せいき、多くの旗)が日に掠(かす)めて、宇治と勢多にして相戦う。

 その戦い、未だ終わらざるに、一日で官軍が忽ちに敗北してしまったので、後鳥羽の院は隠岐の

国に遷されさせ給いて、義時はいいよ八荒(はちこう、八方、天下)を掌に握る。

 それより後、武蔵の守泰時・修理の亮時氏・武蔵野の守経時・相模の守時頼・佐馬權頭時宗・相

模の守貞時、相続いて七代、政(まつりごと)が武家より出て、徳は窮民を撫するに足りたる。

 威は萬人の上に、被ると言えども、位四品の際(あいだ)を越えず、謙に居て仁恩を施し、己を責

めて礼儀を正す。是を以て高しと言えども危うからず、盈(みて)りと言えども溢れず。

 承久より以来(このかた)、儲王(ちょをう)摂家の間に、理生安民の器に相当たり給える貴族を一

人、鎌倉に申し下し奉りて、征夷将軍と仰いで、武臣皆拝趨の礼を事とする。

 同じく三年に、始めて洛中に両人の一族を据えて両六波羅と号して、西国の沙汰を執り行わせて

京都の警護に備えられた。

 又、永仁元年からは鎮西(九州を言う)に一人の探題を下して、九州の成敗を司らせしめ、異族襲

来の守りを堅きした。

 されば、一天下は遍くかの下知に随わずと言う所はなく、四海の外(ほか)も均しくその権勢に服

せずと言う事はなかりけり。

           公家 對 武家

 朝陽(ちょうよう)犯さざれども残星光を奪わるるの習いであれば、必ずしも武家より公家を蔑

(ないがしろ)にし奉れともなけれども、所には地頭は強くして領家は衰え弱く、国には守護が重く

して国司は軽い。

 この故に朝廷は年々に衰え、武家は日々に盛ん成り。

          北条高塒の 暴逆

 これによって代々の聖主(優れた天皇)、遠くは承久の宸襟(天皇の御心、承久の乱に後鳥羽・順

徳・土御門の三上皇が遠嶋に遷された御怨み)を休めんがために、近くは朝議の陵廃(高い所が崩

れる意)を(朝廷の政の衰微)を歎き思召して、東夷(東国の武士を嘲り言う)を亡ぼさばやと、常に

叡慮を廻らされたのであるが、或いは勢いが微にして叶わず、或いは時いまだ到らずして、黙止し

給いける所に時政九代の後胤・前(さき)の相模の守平高塒入道崇鑒(すうかん)の代に至って、天地

命を革(あらた)めるべき危機(天命が改まる、即ち統治者が改まると言う危うい兆し)がここに顕

れたのだ。

 つらつら古を引きて今を見るに、行跡(行状)は甚だ軽くして人の嘲りを顧みず、政道正しから

ずして民の弊(ついえ)を思わず、ただ日夜に逸遊(ほしいままの遊び)を事として前烈(ぜんれ

つ、祖先)を地下に羞(はずか)しめ、朝暮に奇物を翫(もてあそ)びて傾廃(けいはい、国が傾き廃

る事)を生前(しょうぜん、生きている間に)に致さんとする。

 衛の懿公(いこう)が鶴を乗せた楽しみは早く尽きて、秦の李斯(りし)が犬を牽(ひ)いた恨みが今

に来たらんとする。

 見る人は眉を顰め(不快がる)、聴く人は唇を翻す(そしる)。

            後醍醐天皇 の 御聖徳

 この時の帝御醍醐天王と申せしは後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹(おんはら)で御坐(お

わ)したが、相模の守の計らいとして、御年三十一の時に御位に就き奉る。

 御在位の間、内(私生活)では三綱五常(さんこうごじょう、君臣・父子・夫婦の三道と仁義礼智

信の五徳)の義を正し、周公孔子の道に順い、外(ほか)には万機百司(ばんきはくし、すべての政

務)の政(まつりごと)を怠りたまわず、延喜天暦の跡を追われしかば(醍醐天皇と村上天皇の時

代の御事績を慕ってそれに近づく)四海風(ふう)を望んで悦び、万民は徳に帰して楽しむ。

 およそ諸道の廃れたのを興し、一事の善をも賞ぜられたので、寺社禅律(仏寺・神社と禅宗・律

宗)の繁昌、ここに時を得て、顕密儒道の碩才も皆が望みを達したのだ。

 誠に、天に受けたる聖主、地に奉ぜる名君なりと、その徳を稱じ、その化に誇らぬ者は無かった

のだ。





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最終更新日  2025年12月02日 10時40分11秒
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