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では、今回は御台所(みだいどころ)について。御台所とは正室の呼称で、将軍家、特に徳川将軍家の正室を指すというのが一般的な認識かもしれない。14代将軍・家茂(いえもち)の正室は激動の時代での降嫁ということもあって「皇女和宮」として有名な方ですが、内親王というプライドからか徳川家の嫁となっても武家風を嫌い、依怙地に御所風を通したという話もこれまた有名で、一連の「武家風」の中には、「御台様」と呼ばれることを嫌がって「宮様」と呼ばせたというものも含まれる。ところが、歴史的には御台所という呼称はなにも武家の専売特許ではなく、平安の昔から公家でも正室に対して使われていたものだった。ウィキペディアによると、平安中期までは三位以上の公家の正室は「北政所」と呼ばれていたのが、のちに「北政所」が摂政か関白の正室に対して贈られる称号となったため、摂政・関白以外の三位以上の正室に対する呼び名が必要とされるようになり、それで「御台所」や「御台盤所」(みだいばんどころ:御台所と同じ)という呼称が生まれたんだそうな。徳川将軍家の場合、将軍世嗣に嫁いでも「御台所」とは呼ばれない。夫が晴れて将軍になったあかつきに、初めてその正室は「御台所」と呼ばれる。夫が将軍となるまでの間は、「御簾中(ごれんじゅう)様」と呼ばれた。が、6代将軍・家宣がまだ将軍宣下を受ける前、家宣は正室の煕子を「御台所」と呼ばせた。先例のない出来事に老中は狼狽し、側用人の間部詮房を大奥へやってなぜ将軍宣下前に御台所と呼ぶのかその理由を聞いてこさせた。応対に出た局は、「あら?将軍家は室町御所の例にならうと京で聞いてたんで御台所と呼んでましたのよ~。でも、貴方のお話によるとどうも違う先例をお持ちのようですわね。ふ~~~ん・・・・ならついでに伺っておきますけど、今後は当将軍家を室町将軍家より一段低いものとしてよろしいかしらん?」とケロリとして言った。間部詮房がそれを老中に報告すると、「ナニソレ?室町幕府の先例!?ちょっと、どーゆーこと!!??」とあわててみんなで各種資料を探したが、わからない。幕府の学者に聞いても局の言葉の意味がわからない。家宣の妻・煕子は公家の近衛家の出身で、よくドラマなどにも登場して有名な天英院のことですが、この方の父・近衛元煕は有職故実に明るく、近衛元煕が幕府にあてた公文書の中で「御台所」と書いてあるのを見つけたので京の元煕にお伺いを立てたところ、室町3代将軍・義満の時代より将軍世嗣の正室に対しても「御台所」と呼んでいたという回答が、証拠書類と共に戻ってきたという。だから、御台所という称号は長い歴史の中ではなにも徳川将軍家だけのものではなく、さらに各時代においては将軍家の正室以外にも御台所と呼ばれた女性もいたし、武家の中だけで使われた呼び名という訳でもなかった。15人の徳川将軍は1人を除きみな正室を持っていた。正室を持たなかったのは7代将軍の家継で、これは当の家継が夭折したため、八十宮(やそのみや)吉子内親王とは婚約止まりだったことによる。もし家継がもう少し長生きしていたら、史上初の皇女の降嫁は和宮ではなく八十宮になっていた。その他の将軍には正室がいたけど、14人の将軍だから正室も14人という訳でもなく、継室を迎えた将軍もいたので、正室の実数は将軍の数より多い。将軍家の正室は宮家か摂家(近衛・鷹司・九条・一条・二条)から迎えるルールだったが、イエアス・秀忠のごく初期の将軍は江戸幕府の開府以前までに最後の継室を迎えているので、この2人の正室は上記ルールにはあてはまらない。生まれながらの将軍である3代・家光の代になって初めて鷹司家から正室を迎えたので、ここから正室ルールが始まることになるが、家光以降の将軍の正室にも例外がいた。それが11代・家斉の正室・茂姫と13代・家定の正室・篤姫で、この2人はともに島津家の出だった。ただし、2人とも近衛家の養女となっているので、形式上は原則から外れてはいない。「武家の棟梁」たる将軍家は武家中の武家、ともいえるだろうけど、だからといってしきたりの何もかもが公家と違うということもなく、ことに学問好きで温厚な6代・家宣は公家風にハマって積極的に公家の作法を取り入れたりもしたそうな。家宣は「上野第二編(4)」で少し経歴を紹介してますが、近衛煕子を正室に迎えたのはまだ父の綱重(家光の子)が生きてる時で、綱豊と名乗り、将軍世嗣どころか日陰の身からようやく次期甲府藩主として認められたばかりの頃だった。煕子との夫婦仲はまあまあ良かったらしく、また上にも書いたように煕子の父・元煕が有職故実に詳しく公家第一の学匠と言われるほどの人だったため、父譲りの学識と公家のプライドを持つ煕子の影響を受けて綱豊も公家風を好むようになっていったらしい。して、綱豊が家宣と改名し、ついで6代将軍になると、煕子も当然大奥へ入り、大奥も公家風に染まるようになっていった。大奥には沢山の年中行事があるものの、正月三が日などの重要な儀式がある日には御台所は衣裳・髪型・化粧などすべて公家式にならった装いをし、それが正装だった。まあそれでも、家宣の後には武家の気風を重んじる吉宗のような将軍も出たし、当初より公家風を取り入れたとはいっても公家そのものじゃないから、そういう本場の公家風とのギャップに和宮は抵抗を覚えたのかもしれない。さてと、ここからは御台様の1日を追ってみましょう。生活臭い話が大好きなわたくしにとっては、女同士が競い合う泥沼のスキャンダリ~な話よりも記録にも残らないような大奥での平凡な1日の過ごし方の方がよっぽど面白いんだけどね。ただし、200年を越える大奥の歴史の中では色々と変遷もあっただろうし、すべての御台所が寸分違わぬ1日を過ごした訳でもないと思うし、ものの本でも説明に多少の違いがある箇所もあるので、6代・家宣以降の御台所はだいたいこんな感じで生活してたのかな~ぐらいな感じで読んでください。まずは、朝のお目覚め。御台様は朝7時頃お起きになる。平時のスケジュールは規則正しく進められるものなので、早く目が覚めたとしても「お目覚めになってもよろしゅうございます」とお付きに言われるまでは布団から出たりはしない。それに、布団から出るまでにやることがある。それが髪を梳くことで、これは寝所で寝たまんまお付きに髪を梳いてもらう。髪が梳き終わると、起きて口をすすぐ。自ら洗面所に立って「ガラガラガラ~、ペッ!!」なんてお下品にすすぐ訳じゃなく、うがいセットが部屋に用意されてお付きが水の入ったコップを差し出してくれるので、それを持ってガラガラしてから「たらい」に吐き出す。たらいっつってももちろん「汚物入れ」的な粗末なものじゃなく、御台ちゃまにふさわしい豪華なたらいだけどね。それから手を洗う。手を差し出すとお付きがその手を洗ってくれて、拭いてもくれる。トイレにも行く。トイレは1人では入らず、大事な御用が済むとお付きがお尻を拭いてくれる。パンピーじゃないから当然トイレも広々としており、一説には御台ちゃま専用のトイレは深くふかあ~く掘ってあって一生汲み出すことはなく、代が変わるとまた新しい「穴」を掘ったという。ま、なんにせよ御台ちゃまは「出す」だけで後始末は自分ではしない。と、同じニンゲンなので朝起きてまずすることは現代人と変わらなくても、そのやり方はずいぶんと違っている。ここまでの間に朝食が用意されている。お朝食は午前8時頃。朝食は1人でお召し上がりになる。もちろん、食べるのが1人という意味で、周りには介添えのお女中たちがいる。一の膳にはご飯と汁物、刺身・酢の物などに煮物が付く。二の膳には豆腐や卵の汁物、プラス焼き魚。汁物は季節によっても違うらしいが、春にはシジミが多く、意外なことに「鯉こく」もよく出されたらしい。うっぷ、朝から胃がもたれそう・・・ついでにここでお食事全般のことを紹介しておくと、将軍と御台所のための食事を受け持つ役人は江戸城内に100人以上いたそうで、メニューは食材を用意する役人や調理担当の役人(御家人)が個人の嗜好を勘案したりしながら決めた。食材や食器類、下駄や家具などの日用品の買い付けは賄方(まかないかた)が行い、それぞれの役人が品物別に担当を持っていた。賄方の役人を統括するのが賄頭(まかないがしら)で、城内で使われるすべての食材は賄頭が一括して買い付けをした。魚は日本橋、野菜は神田多町(たちょう)で買い入れたというが、時価ではなく常に安値と決まっていたらしい。そして、買い付ける量は実際に使用される量よりはるかに多く、買った食材の多くは料理人が「これ、使えね~。あ、これもダメ」とダメ食材としてはじいておき、自分ちに持ち帰ってしまったという。あこぎな商売するのう・・・「香の物」のたくあんは城内でもかなり消費されたようで、高野山の企画展シリーズでコエビ(肥ビジネス)のことを紹介してますが、江戸城でも自分達のウンコと引き換えにたくあんをゲットしていたらしい。江戸城のウンコ争奪戦は相当激しかっただろうな。それ以外にも、食材は諸大名からも献上されたので材料自体はなかなか豪華なものだったが、素材も重要だけど料理のいい悪いを左右するのは何といっても料理のウデと調理法。将軍夫妻に出す料理だから、当然神経は使われる。ご飯の場合、まず御春屋(おつきや)で精米される。その後、御春屋の役人が米を黒塗りのお盆の上にざあっと広げて石やねずみのフンなどの異物が混入していないか、欠けた米粒はないか1粒1粒吟味をした上で米を研ぐ。米は白ければ白いほどよいとされたのでこれでもかってぐらい研ぎこまれ、そのため脚気になる人が多かった。炊き方もちょっと変わっていて、「炊く」んじゃなくて沸騰する湯の中に入れて「煮た」んだそうな。煮た上でそれを釜に移して蒸したというから一体どんなご飯に仕上がったのだろうかとちと興味は湧くけど、試してみる気にはならない。城内で実際に炊かれる米はわずかなもので、あとはこれまた役人が持ち帰った。献上された食材なども同じで、まさに「役得」な訳だけど、中にはそうして得た食材で弁当を作って他の役人に売る者までいたそうな。タダで手に入れた食材で小遣い稼ぎをする輩については、初期の頃はまだ大目に見られていたのが、のちには厳しく罰せられることになったんだと。そりゃそうだよなにほんブログ村
2016年03月04日
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本筋からは少々外れるかもしれませんが、先日、たまたま『殴り合う貴族たち』(繁田信一/柏書房)という本を知って、最初はタイトルに惹かれただけの興味本位だったのですが、読んでて当時の状況を知るに興味深い話が多かったので、一気に読みました。これは藤原道長と同時代を生きた藤原実資という藤原北家嫡流の公卿が遺した『小右記』という日記史料から様々なエピソードを拾って紹介した本で、さすがに『小右記』の原文にあたるだけの時間的余裕はなかったので『殴り合う貴族たち』から抜粋して少しご紹介します。もっと色々詳しいことを知りたい方は『殴り合う貴族たち』かその原典の『小右記』をご覧ください。 【楽天ブックスならいつでも送料無料】殴り合う貴族たち [ 繁田信一 ]さて、こちら藤原道長さんちの家系図の略図になります↓。 道長の父・兼家以降ここに名を出した多くの方が、驚いたことに多かれ少なかれ傷害・暴行事件のエピソードをお持ちです。他にも子供はいますが、ここで紹介する人だけを系図に載せています。系図を師輔(もろすけ)から始めているのは、腐るほどいる藤原さんちの中でも有名な方でもあるし、前回の表で道長とカブっている時期もある良源さんは師輔と親密な関係にあったので、時代感覚をつかむために名前を出しただけです。と、それから「公卿」とか「上達部」(かんだちめ)などという名称は源氏物語マンガバージョン『あさきゆめみし』(大和和紀/講談社)で知ってはいましたが、その具体的な位置づけなどは知りませんでした。が、『殴り合う貴族たち』によると大体こーゆー感じのようです↓。 貴族は数多いものの、その中で殿上人(でんじょうびと)、さらに公卿などとなると貴族の中のほんのひと握りの人達。兼家の息子たちのうち3人は公卿の最高職の関白を務めてます。その息子ともなれば、サラブレッド中のサラブレッド。今をときめく雲の上の貴公子たち・・・臣籍降下したとはいえ、帝の第2皇子として生まれ、ついには臣下の位を離れて准太上天皇にまで登り詰めたかの光源氏と同じような立場にあった彼らですが、下半身と強度のマザコンを除いてはまずまずの理想的な貴公子だった光君とは違って、法興院摂政兼家の子孫たちはとんでもないあらくれ者揃いでした。では、順番に。まずは法興院摂政・兼家。この方は兄弟との確執もありなかなか晴れがましい地位に就けませんでしたが、息子と組んで花山天皇を退位させ、自家の発展の基礎を築いた方。兼家が40歳の時はまだぱっとしない立場にあったが、右大臣藤原師尹(もろまさ)の従者と兼家の従者がケンカになり、師尹の従者から1人の死者が出た。これに怒った師尹の従者たちが屋敷を飛び出し、兼家の屋敷に大挙して押し寄せ、打ちこわしを始めた。兼家の方でも3人の兵を前に立てて何とか納めようとしたものの、攻撃側にも弓矢を持った者がおり、兼家側からケガ人が出た。さて、兼家の長男・道隆は関白にはなったものの、兼家と道長の間の「つなぎ」という評価が一般的のようで、ゆえに「間の関白」という意味の「中関白」(なかのかんぱく)と呼ばれるそうな。で、中関白家の御曹司たち、こいつらはひどかった。まず息子の伊周(これちか)・隆家の兄弟。内大臣・伊周(22歳)、中納言・隆家(17歳)はこともあろうに花山院に矢を射かけて従者同士が大乱闘となり、花山院の従者の童子2人を殺しその首を持ち帰った。伊周・隆家の2人が直接の実行犯ではないと思うけど、いくらアラクレ者どもとはいえたかが従者が院に弓を引くとも思えず、伊周・隆家の2人の指図によるものだろう。その頃、伊周はとある家の四女を愛人としており、花山院はその家の三女を愛人としていた。が、横恋慕されたと勘違いした伊周が院を襲わせたものらしいが、さすがに本気で院を殺そうと思った訳でもないらしく、ちょっと脅してやれ~と射た矢が院の袖を貫いてしまう。ここから従者入り乱れての大乱闘となったらしい。 【当時の公卿というのは、事実上、超法規的な存在であり、彼らに対する処罰を 決定できるのは、天皇ただ一人であった。】 (前掲書より)で、被害者の花山院はといえば、出家して法皇の身であるのに女の元へ通った際に襲われたというバツの悪い事情があったため事を表沙汰にはしたがらなかったが、自分に次ぐ地位にある伊周の失脚をもくろむ道長によって捜査が進められ、結局伊周と隆家の兄弟は左遷された。大変な罪を犯したにも関わらず左遷だけで済んだのもオドロキだけど、1年後には2人とも許されて帰京する。その2年後、2人の同母姉妹が一条天皇の第1皇子を産んだ。この子が帝位に就けば、伊周・隆家は一発大逆転が図れる。・・・しかし、そうなるには叔父である道長がとてつもなく邪魔。そこで、2人(33歳と28歳)は道長の暗殺計画を練る。当時、少し名の知れた武士を味方に引き入れ、道長が金峰山に参詣して警護が手薄になったところを狙おうとしたらしいが、結局これは実行されることなく噂だけが残った。つぎ~、伊周の息子・道雅。この人は 今はただ思ひ絶えなんとばかりを 人づてならで言ふよしもがなという恋の歌が百人一首に選ばれてもいますが、その実、「荒三位」(あらさんみ)と呼ばれるワルだった。21歳の時、敦明(あつあきら)親王の従者を拉致して自邸に連れ込み、みずから被害者の髪をつかんで自分の従者たちに「打ち踏む」ことを命じ、相当な重傷を負わせたらしい。この時は相手が親王の私的な従者だったこともあって処分を受けたが、それでもただの謹慎。 【もしも小野為明(被害者:ジジイ註)が有力者を主人としていなかったならば、 この事件で誰かが処分を受けることはなかっただろう。当時としては、殿上人の 暴力沙汰について何の処分も行われないというのは、まったく珍しいことでは なかった。したがって、きちんと相手を選びさえすれば、王朝時代の殿上人は、 思いのままに暴力を行使することができたのである。そして、気ままに弱い者 いじめの暴力に興じるというのが、当時の殿上人たちの実像の一端であった。】 (前掲書より)身分社会というのは実に恐ろしいものじゃ・・・ささいなことで貴族の恨みを買うと、いやそんなもの買わなくても貴族の機嫌が悪い時に運悪く通りかかっただけでもヘタしたら石を投げられたりリンチされたり家を壊されたりするかもしれない。そして、下々には直訴することもできない。奈良時代も様々な社会不安がある中で明日をも知れぬ庶民の暮らしというのは大変だったろうな~と思ったけど、平安じゃない平安時代もいつだって涙を呑むのはかよわい下っぱだった。神仏に「明日の小さな幸せ」を祈りたくもなるだろう。品行の悪い荒三位・道雅の醜聞は他にもある。35歳の時、親族と禁制の賭博をしていた道雅は相手と口論になり、別の男が道雅につかみかかって道雅の袖を引き破ったことで取っ組み合いのケンカとなり、通りかかった庶民たちがわんさか見物に集まってきたそうな。従者に指図して弱い者いじめをしただけでなく、御曹司自らも殴る蹴るの取っ組み合いのケンカをしたことがここからわかるけど、道雅のいとこの経輔も18歳の時、なんと宮中で取っ組み合いをしている。天皇の御前で相撲の観戦をしている最中、天皇の身の周りの世話をする蔵人頭と互いの「もとどり」を掴んでの大ゲンカを始めた。当時、烏帽子などの被りものを脱いで「もとどり」を公衆の面前にさらすのは現代でいうとパンツ丸出しのような恥ずかしいことだったらしいが、お互いに「もとどり」を掴んでいたというから両人とも恥ずかしいカッコでしかも天皇の御前でケンカしていたという・・・この一件で経輔の恨みを買った蔵人頭はその4日後、経輔から一方的な暴行を受けた。なんとか隙を見て宮中にある自分の宿所へ逃げ込んだものの、経輔の従者が宿所まで追いかけてきて部屋を打ち壊してしまったという。↓ぽちりとよろしくね。にほんブログ村
2015年02月09日
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雷門をくぐると、まずはずらっと長屋状に長く軒をつらねる仲見世がお出迎え。 写真に写っているだけではなく、裏手にも店が並んでいて現在は89店舗あるとのこと。「仲見世」の名称の由来は、雷門前の広小路とこの先にある仁王門との間にあったからだといい、元禄の頃、花川戸の住民に境内の清掃と引き換えに営業を認めたものが始まりだとされる・・・が、たぶんそれ以前から小さな屋台とかの類は周辺に集まって営業してただろうと思うんだよね。古くから人気の浅草寺だもの。それらを整理して境内清掃の義務を負わせるなどして整えたのが江戸中期なんじゃないかと個人的には推測します。明治維新の折にはさすがの浅草寺も寺領の没収は免れえず、仲見世は一旦立ち退きを命じられたあとで明治らしい赤レンガの洋風なものにリニューアル。が、関東大震災や戦災などでも被害を受け、その後復興。商売人のしぶとさ・・・あやや、たくましさを物語る仲見世の歴史ですが、まだ7時を過ぎたばかりのこの時間はどこの店も開いていない。店が開いてたら開いてたで色々見たくもなるだろうから、時間のない今回はこれでいいのだけど、江戸期の人々の娯楽の場でもあった寺の雰囲気を味わうには店が開いてる時間帯の方が望ましいだろうな。とはいえ、休日のオフィス街だとか普段人通りの多い場所が閑散としている中を歩くのは好きなので、これはこれで気分がいい。人が多ければイラつくのは目に見えてるし。それに、浅草寺仲見世には店が開いてる時には見られないものがある。 店舗のシャッターに描かれたこれは、平成元年にあの平山郁夫氏の指導によるグループが「浅草絵巻」と題して浅草の歳事を描いたものらしい。「いかにも江戸!」ってカンジの絵だけではなく、鎌倉期を思わせるような風雅な絵もあるので、人の少ない静かな門前街で絵を眺めながら歩くのもオツなもの。仲見世をずっと進んでいくと、左手に道がのびている↓。 ここには今も下馬札が立っている。馬でお越しの方はここで下馬してください。ここはそのまま正面へ進みます。伝法院通りは浅草寺の本坊・伝法院の敷地の南側に沿った通りで、敷地の東側は本堂へ向かう参道に面している。そこには浅草寺の歴史を語る文章や絵が並んでいた。浅草寺創建や檜前(ひのくま)氏については簡単に「将軍たちの宝(7)」で書いてますのでここでは解説の全文を紹介はしませんが、絵の方は少しご紹介していきましょう。 ガラスケース入りの絵なので、ガラスに映った後ろの建物も写りこんじゃってますが、これが浅草寺ができる以前の浅草を描いた場面。奥の方に広がっているのは今はなき千束池かな。この辺は今ではただの平地だけど若干の土地の起伏もあったらしく、水没することを免れた7つの小山が水面から顔を出している。そういう場所には古墳があり、浅草寺本堂裏手の熊谷稲荷の塚から出土したという石棺が現在も伝法院に保存されている。浅草寺のホームページでは、境内域から石棺が出土したことについて 【浅草寺のご本尊さまご示現以前において、浅草の地に有力な豪族が住んでいたことを 示している。】 (伝法院のページより)としている。さて、そういう古い歴史を持つ浅草でヒノクマ兄弟が観音様を曳き上げる↓。 個人的には、上記リンク先で紹介した塩見氏の創建についての推測もアリだと思うけどね。というより、その方が現実的だろうと思う。もちろん寺伝にケチをつける訳じゃないけど、浅草寺サイドでも檜前兄弟&土師中知の伝承以外にも 【そうした縁起とは別に、十人の童子がアカザという草で御堂を建てたという 伝承もあった。】 (現地解説板より)という文章を加えているし、十童子が草庵を作っている絵も並べてある↓。 絵の右下にちょこんと座っている坊さんが土師中知(はじのなかとも)ね。「無事故(645)で終わった大化の改新」の年に浅草寺を訪れて観音様を秘仏と定めた勝海(しょうかい)上人がいかなる人だったのかはわからない。でもまあ、公的な仏教伝来より100年ほど経ってるとはいえまだまだ日本仏教の草創期ともいえる時期のことだから、日本では「○○宗」というような明確な区分はなかった頃かもな。ちなみに、645年は仏法興隆の詔が布告されて、国家として仏法を奉じることが定められた年。浅草寺は国家仏教とほぼ同じ長い年月を歩んできた古いふる~いお寺でございます。さて、「将軍たちの宝」で浅草寺の歴史に触れる以前にわたくしは寛永寺シリーズで浅草寺に親近感を持ちました。現在の浅草寺は「聖観音宗」の大本山。これは昭和25年からで、じゃあその前はというと天台宗なんだな。「上野第二編(16)」でイエアスが入府した頃に菩提寺と祈祷寺の選定についての『落穂集』の話を紹介しましたが、浅草寺が天台宗だったことを知って自称・大乗なら天台!!のわたくしは急に浅草寺をぐっと身近に感じるようになりました。戦後になって天台から独立して聖観音宗を打ちたてた訳だけど、ぶっちゃけそんなものどーだっていいです。天台の歴史の方が長いし、わたくしの中では今でも浅草寺は天台宗です(勝手に・・・)。そもそもが何宗だったのかもわからないし、はっきりナントカ宗から天台宗へ改宗したと言っていいのか、いつ名実ともに天台宗となったのかなど詳しいことはよくわからんのだけど、少なくともこの時点からは天台宗寺院と言えるでしょう↓。 天台座主第3代の慈覚大師円仁さんの登場です。円仁さんが座主となる頃の話については「叡山攻め(81)」でも少し触れてますが、叡山のトップという立場にあった円仁さんが訪れたという寺はかなり多い。それだけで1冊の本ができてしまうほど多い。 記事はまだアップしてませんが、「叡山攻め」の後、再び叡山に行きましてね。「叡山攻め」の時はオフシーズンで泣く泣く下界に宿を取りましたが、再訪した時は念願の宿坊に泊まってきました。荷物を送る手配をしてチェックアウトしようとした時、「あっ、ちょっと待って」と言って奥に引っ込んだ延暦寺会館のおじさんが戻ってきた時手にしていたのがこの本。これを気前よくタダでくれるというので、「えっ!いいですよ、そんな・・・てか、これどこにあったんですか?」「いや、なんかあったから・・・こういうの、好きかなと思って」「好きですよ~、大好き!!うわあ、いいんですかあ~」・・・とちゃっかりもらってきたので今わたくしの手許にあるワケですが、チェックインの時わたくしはぶりぶり怒っていてチョ~態度悪かったので、おじさんはカンジの悪い客をなだめようと色々勧めたりしてくれた。ので、これもその一環だろう・・・手に入れたい方はこちら↓。【楽天ブックスならいつでも送料無料】慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼と、それはともかく、この本の表紙には「ゆかりの550社寺」とある。550だってよ!!国内だけでもゆかりの地といわれる場所は沢山あるのに、その他唐にも渡って沢山の苦労をしてきてるんだから、強靭な肉体と精神力、それと運がなければこれほどの伝承は生まれ得ません。で、その円仁さんは浅草寺で何をしたかとゆーと、絵の中で光輝く仏像を彫ってますね。勝海上人が観音様を秘仏と定めた後に浅草寺を訪れた円仁さんは、もうお目にかかれなくなった観音様の御前立(おまえたち)を彫ったとされます。もっとも、現在ではその御前立も秘仏化しているようなんだけど、1年に1回、年末の煤払いの翌日の法要の時だけは御開帳となるんだそうな。いくら御利益のあるありがたい観音様とはいえ、まったくそのお姿が拝めないんじゃ参拝した善男善女もテンション下がる。パンピーにはやはりビジュアルに訴えるものが必要だと考えたのか、「柳の御影」という観音様のお姿を彫った版木も円仁さんが作ったとされる。そのほか、円仁さんが将来したという伝承を持つ仏具も数点伝えられているんだそうな。これは写真で見ると密教法具のようで、円仁さんが持ち込んだものでなかったにせよ確かに浅草寺が天台宗として歩んだ歴史のかほりを匂わせている。そういう事蹟を遺した円仁さんは、浅草寺において中興開山とされる。現地での解説板ではこのあたりを 【版木が作られたことは、参詣者が増えてきたことを物語るのだろう。】としているけど、わざわざ中興の開山として今でも尊崇しているんだから、観音様が秘仏とされてしまったことによって一時は客足も遠のいていたのを、庶民向けの施策を円仁さんが打ち出したことで再び呼び戻してその後の発展の基礎を築いた、という風に考えることもできると思う。さて、円仁さんより100年近く後になると、また強い味方が登場する。 【平公雅(きんまさ)堂塔伽藍を建立 平安時代中期、天慶5年(942)安房の国守であった平公雅は京に帰る途次、 浅草寺に参拝した。その折、次は武蔵の国守に任ぜられるように祈願した処、 その願いがかなったことから、そのお礼に堂塔伽藍を再建し、田地数百町を 寄進したと伝える。その伽藍に法華堂と常行堂の二堂があったことから、 浅草寺が天台宗の法の流れに属していたことが知られる。】 (現地解説板より)平氏の簡単な略図については「将軍たちの宝(9)」などでも載せていますが、その系図には書かなかったものの平の姓を賜った高望王の子に良兼という人がいて、良兼の子が公雅。つまり、平将門のいとこにあたる方のようです。ウィキペディアによると、公雅さんが安房守となったのは将門の乱のあとのことで、乱によって浅草寺も荒廃していたのだという。ウィキではさらに 【天慶8年(945)の3月18日に公雅の枕元に観音様が立ち「この沖合に生ずる青、赤、 黒三通りの海草を食すれば、無病開運、来世は必ず仏果を得べし。」 と告げたので、 教えの通りにそれらの海草を集めて食してみたところ、非常に美味しくて体にも 良いことから「観音様の法(のり、教え)だから『浅草のり』だ」と評判になったという 伝説も知られている。】という愉快な伝承も紹介している。いや、浅草海苔はともかく、ここはやはり公雅さんが再建した中に法華堂と常行堂があったというのが目をひくよな。寺院の規模にもよるんだろうけど、天台宗ではこの2つのお堂はセットになってるからね。(「叡山攻め(111)」やその次あたり参照)浅草寺のホームページには年中行事の一覧も載ってるんだけど、正月の修正会(しゅうしょうえ)に始まり、中興開山である円仁さんの命日には「慈覚大師忌」の法要が行われ、日本天台宗開祖の最澄の命日には叡山と同じく法華八講が行われ、10月には「十夜会」として常行三昧があり、中国天台宗開祖の天台大師・智ギ(ちぎ)の命日には「霜月会」としてこれまた法華八講が行われるんだそうな。(「叡山攻め(62)」などなども参照)しかも、これまでまったく知らなかったけど、1月3日の元三の日には・・・長らくの読者様にはもうおわかりですね。元三(慈恵)大師・良源さんの命日であるこの日は、ぬわんと浅草寺でも良源さんの徳を讃える「元三会」の法会を行うんだそうな!!これ、過去の話じゃなく現代の話です。ちょっとネットで検索してみると、『浅草寺って天台宗なの?法要のスタイルも天台宗と同じなんだけど』なんてのが見つかるので、聖観音宗独自の法要も当然あるものの、古くから引き継がれてきた法要などは天台宗形式で行われているようです。円仁さんは中興の開山だからまだわかるとして、智ギや最澄、さらには良源さんの法要まで聖観音宗本山寺院が行っている・・・その上ホームページでは、「円仁さま」「最澄さま」「天台大師さま」と表記している。もちろん、わたくしの良源さんも「良源さま」となってます。延暦寺会館のおじさんにもらった本には、 【(浅草寺の)境内で円仁を見かけるのは、宝蔵門の手前、浅草寺幼稚園を過ぎた 参道左手にある絵説きの浅草寺縁起ぐらいだろう。】とある。確かに、ハード面ではそうかもしれない。でもソフト面をちょいと覗けば、今でも天台カラーがムンムンしている。浅草寺の宗派なんかどうでもいい?ま~、たいていの人はそうでしょうよ。でもわたくしにはテンションがチョモランマよりも高くなる重要事項なのだああ、浅草寺の元三会ってどんなだろ・・・でも浅草寺の元三会は伝法院でやるらしく、普段伝法院は一般公開していないので元三会も見られない可能性のが高そうだなそういえば、寛永寺の元三会にもまだ行ってないんだっけ。今年は行こうかと思ってたんだけど、すぐ後の連休のお出かけの準備で忙しかったから行くのをやめたんだよな。叡山横川の元三会も狙ってはいるんだけど、前回横川を訪れた時はちょうど四季講堂で良源さんのバースデーパーティーが行われる前日でね。「叡山攻め」の時と同じく参拝客はいなかったけど、翌日の準備で大わらわなのが門をくぐった直後からわかった。普段は静かな四季講堂が、ご住職らしきお坊さんまで総出でワイワイやっている・・・もうまともな参拝すらできないような状態で、良源さんを愛してやまないわたくしですから重要な法要だってのは十二分にわかってはいるんだけど、やっぱイベント嫌いだ~と心の中でぶつくさつぶやいたのも事実。時間が経った今となっては、もはやそれも懐かしい記憶ですが。にほんブログ村
2016年11月18日
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墓所を出て、境内へ。山の中の一軒家ってカンジ。 入り口は本瓦葺の鐘楼門。しおりによると、平成13年の再建。んで、この門の軒丸瓦とか、大棟にある家紋は・・・ う~~~んっ・・・毛利!?なんでじゃろ・・・新築じゃなくて再建だから、隆景100年忌以降に復興されたものをベースにしてるかとは思うんだけど、その当時は浅野時代。いつから米山寺に毛利紋がついてたんだろう?宗光寺が絡んでるからかなあ・・・(宗光寺は後で出てきますので、今しばらくお待ちください。)それとも、平成の再建で毛利氏の尽力があったとか?小早川惣領家の菩提寺でこの紋とは、ちょっと合点がいかないのは私だけだろうか・・・この門の妻飾りはこんなの。 アハハ、あんなとこにお茶目な顔が~。あれも大瓶束(たいへいづか。棟木を支える部材)って言うのかな。 門の真下。上に鐘があるので、穴があいてる。まだ真新しくて、キレイ。 門内から見ると、こんな感じ。 この左手の階段を上がると、天井の低い2階があるらしく、登った人もいるみたいなんだけど、ちょっと一人で登って鐘を撞くのは勇気がいるな。門の下にもヒモがぶら下がってたから、これを引っ張っても鳴らせたかもしれないけど。この時、庫裏(か住居)は網戸になってて、NHKののど自慢の音声が結構大きな音で聞こえてきた。・・・が、私が境内に入ってルートから外れて玉砂利の上を歩いた時に、その音で初めて私の存在に気付いたのか、TVのボリュームが下がった(笑)。別に気にならないから、いいんだけどね。で、こちらが本堂。 ここも、大棟には毛利紋が・・・ 本堂の右前には、ソテツ。うふふ、ソテツ・・・(ニヤニヤする理由は、「山口編(17)」をご参照ください) あれ?なんかいる・・・ んまあ、このクソ暑いのに、こんなとこで寝こけちゃって(笑)。本堂の左手前にはこの建物。 霊堂 小早川家歴代尊霊 仁王像(伝 運慶作) 閻魔王像って書いてある。あれ?仁王様がここにいるなら、これが資料館かな・・・ちょっとここは後回しにしよう。 この霊堂の蟇股は小早川紋。 ん、やっぱここには、こっちの方がふさわしいよな。 本堂と霊堂の間を奥に入ると、宝物館。 【重要文化財 絹本著色小早川隆景像 一幅 小早川隆景は、天文2年(1533)毛利元就の三男に生まれ、天文13年(1544) 安芸の豪族竹原小早川家に養子に入った。天文19年(1550)には沼田小早川家をつぎ、 兄の吉川元春とともに父元就を助けて毛利氏の中国統一を成就させた。 隆景は、天文21年(1552)に新高山城を修築し、永禄10年(1567)に 三原城を築城している。 この隆景像は、隆景が朝鮮半島に出兵して帰還した翌年の文禄3年(1594)、 京都大徳寺の塔頭、黄梅院の玉仲宗秀が寿像に賛をしたものである。中啓を持ち、 黒の袍をつけて座した衣冠の像である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換、玉仲宗秀の「秀」はホントは 「王」の字の”おうへん”が付く。)寿像(じゅぞう)とは、本人の存命中に描かれた肖像画。戦国時代頃は、あまり寿像ってないんだよね。この肖像画は、隆景像の中で最も有名なものです。ツイッターで今の私のアイコンになってるのも、この絵をもとにしたものです(笑)。前回の記事の、菅茶山の漢詩もこの肖像画を見て作られたもの。この他にも、貴重な品が収蔵されている。 【三原市重要文化財 木造小早川隆景像一体 附厨子・蓮華座 (前略)慶長元年(1596)に小早川隆景が練供養の装束を米山寺に寄進している。 このときの目録の中にこの像の記述があり、像底に文禄5年(1596)の墨書銘が ある。この像は、一木造りで、像高23.1センチメートルである。 木造行道(ぎょうどう)面八面 附小道具八点 この行道面は、米山寺で行われた練供養に用いられた面で鎌倉時代の作である。 面は、菩薩面が六面、天童面が二面ある。面高は菩薩面が20~21.5センチメートルで 天童面が19センチメートルである。 木造狛犬二対 この狛犬は、米山寺の鎮守社であった王子宮に安置されていたもので、全体的に 小柄である。二対の像は、一木造り、像高31~21.5センチメートルで、 鎌倉時代末期の作である。 米山寺文書七通 この文書は、米山寺に伝来した文書で、戦国時代から江戸時代にかけてのものである。 そのほとんどが小早川隆景の時代の文書で、「小早川隆景自筆書状」「警護番帳」 などである。】木造小早川隆景像は、しおりに写真が載ってるんだけど、手のひらサイズで「お手々のシワとシワを合わせて~」のポーズを取った可愛らしいもの。文禄5年(1596)の墨書があるそうだけど、生前に自分の像を納めたってこと?ホントに? にほんブログ村
2012年09月06日
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日光東照宮の宝物館の中には冷え冷えとしたトイレがありますが(笑)、外にも綺麗なトイレがあります。山内にはあちこちにトイレがあるので、私も安心して長居できます 日光は有名な寒冷地ですが、冬場は洋式便器はウォーム便座になるので、これはホントにありがたいです。日光の冬はマジで寒いからね~。今回(2012年12月1日)は日光で初雪が降った日でもあり、寒い中、特に御仮殿の透塀の撮影でかなり体力を消耗したので、こんな中、冷え切った陶器の便座に腰を下ろした日にゃあ、心臓止まっちゃうだよ~。・・・て、今回はトイレに苦労してないんだから、トイレの話はそこそこに。宝物館を出て右手に進むと、奥にはこんなのがあります↓。 【重要文化財 石唐門 石鳥居 これは寛永18年東照宮奥社に建てられたが、天和3年震災により破損したので 奥社裏山深く埋められて200数10年に及んだが、当宮350年祭記念として ここに移建した。 幕府の作業方大棟梁平内氏の設計により巨石から切出されたもので、江戸初期に 於ける代表的石造美術である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)まず、鳥居ね↓。 鳥居のすぐ左脇にはこんなものもある↓。 なんだコレ・・・これも灯籠っていうのかな?でも、下の部分には明りを入れそうな気もするしな・・・順序が逆転しますが、鳥居の手前には碑がある↓。 【松尾芭蕉句碑 あらたふと 青葉わか葉の 日の光 芭蕉翁おくの細みち日光山吟 松尾芭蕉は、江戸初期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。号は「はせを」と 自署するほか、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。 元禄2年(1689)4月、芭蕉が奥の細道行脚で、門人曽良を伴い、日光山に 参詣したと刻まれている。 小杉法菴の書で、昭和31年9月日光市・東照宮・輪王寺・二荒山神社が建立。】 (現地解説板より)ふ~む、芭蕉おじさんは日光にも来たのか・・・けど、当時って民間人が拝観できたのか?途中までは入れても、現在東照宮とよばれる場所の境内は入れなかったんじゃないかって気がするんだけど・・・で、鳥居の奥にあるのが、石唐門。 名前の通り、全部石造り。たったこれだけの門だけど、どっしりと風格があって間近で見るとなかなかカッコいいです。ま~はっきり言って、宝物館に寄る人自体が少ないので、その奥まで来る人は(たぶん)少ないです。が、唐門と鳥居はいずれも重文。上の解説だけじゃなんだかよくわからないよね。ので、今回も『謎と不思議 東照宮再発見』にお世話になります。鳥居と唐門はもともと奥社にあったもの。奥社は、東照宮の本社からさらに奥・・・というか上にある場所で、そこに家康の墓所もある。元和3年(1617)に家康が奥社に改葬されてから、元和7年(1621)頃に奥社に木造の多宝塔・唐門・拝殿・鳥居などが建てられた。家光による「寛永の大造替」の際も奥社に手が入り、寛永17年~18年(1640~1641)頃に建て替えられたが、この時に宝塔・唐門・鳥居が石造りとなった。東照宮の略年表によると、まず寛永18年(1641)に宝塔と唐門が石造りとなり、その後慶安3年(1650)に唐門と鳥居が石造りとなったとある。あら?唐門がダブってるんだけど。「御仮殿2」で山内の火災の記事を抜き書きしたけど、火災以外にも背後にそびえる女峰山から流れ落ちる稲荷川の洪水もあるなど、日光山内はたびたび自然災害にも見舞われた。が、自然災害の最たるものが天和3年(1683)の地震。これに奥社の建造物もやられた。一体どの程度の地震だったのかと検索してみたら、足利市のサイトに親切な一覧表が載ってた。以下は足利市のホームページ「歴史と文化と花のまち 足利市」からの引用です。 ◆1633年(天和3年)6月17日 8時(M6.0~6.5) 被害は、日光周辺で東照宮・大猷廟・慈願堂等の宝塔の九輪転落、 石垣多く崩れ、天狗堂・仏岩・赤薙山及びその北方の山が崩れた。 ◆1633年(天和3年)6月18日 11時(M6.5~7.0) 被害は北関東地方で、日光では御宮・御堂・御殿・慈眼堂・本坊寺院の石垣が 全て崩れ、東照宮・大猷廟の宝塔の笠石その他が破損した。 余震は、689回を数えた。 ◆1633年(天和3年)10月20日 5時(M7.0) 被害は栃木・福島県で、栃木三依川五十里村で山崩れが発生し、 川を塞いで湖を作った。日光でも山崩れが起き鬼怒川・稲荷川の水をせき止め、 修復半ばの石垣が崩れ、堂塔にも被害が出た。余震は、2100回を越えた。ぬわんと~、1回じゃなかったんですよ。しかも、この3回の地震の震源はいずれも日光付近と見られている。あくまでマグニチュードだから実際の震度がどの程度だったかはわからないけど、揺れのあった地域の中でも恐らく最も日光付近が揺れたってことだよね。規模だけ見てると、一体どれが本震なのかもはやわからない・・・が、関東以北の方は東日本大震災の記憶も新しいので感覚的にわかるんじゃないかと思いますが、最初の本震のちょっと後にもかなりデカい揺れが来たからね。被害状況を見ても、まず最初の6月17日が本震で、翌18日は余震の部類に入るでしょう。これだけならまだしも、10月20日のデカいのは痛かったよな。それまでの600回以上の余震などで地盤が弱くなっていたところに、追い打ちをかけたカンジ?2011年の震災でたわんだ石垣がまだそのままになってた写真を「山内入口2」に載せましたが、あの震災での日光市の震度は5弱。うちも発表では同じ5弱だけど、かなり揺れました。が、あの石垣は崩れなかった。東照宮での震災の瞬間の映像をYou Tubeで見ると、東照宮の陽明門なんかはびくともしてない。境内の石塔は幾つか倒れたりもしたそうだけど、建物には幸い大きな被害は出なかった模様。それと比較すると、一慨には言えない部分はあるけど天和3年の地震はいずれも震度5弱以上だった可能性が高いと言えるんじゃないか?さぞ、恐かったでしょうね~。それで、唐門と鳥居に戻りますが、天和の震災により被害を受けた宝塔は造替されて、現在の青銅製になった。『謎と不思議 東照宮再発見』によると、唐門と鳥居も宝塔と同時期に青銅製に改められたと誤解されてたんだそうな。そこで、略年表の慶安3年(1650)の唐門のダブリの記事が生きてくる。どうやら、前年の慶安2年(1649)にも大きな地震があったらしくてね。再び足利市のホームページ「歴史と文化と花のまち 足利市」から引用しますと、 ◆1649年(慶安2年)7月30日 2時(M7.0) 震源地域:下野・武蔵 被害は、栃木・埼玉・東京に及び、埼玉の川越では家屋700戸が、大破した。 日光東照宮では、石垣・石の井が破損した。余震は、日に40~50回を数えた。と、ページのタイトルが『栃木県・足利市の地震履歴』であるにも関わらず日光の被害状況まで記してくれて、大変ありがたいホームページですがこれで被害を受けたために慶安3年に唐門などが造替されたんじゃないかと『謎と不思議 東照宮再発見』では推測している。青銅製にリニューアルしてお役御免となった石造りの唐門と鳥居は、奥社のある山の中に埋められた。それを昭和42年に発掘して、現在の位置で再び日の目を見ることとなった。復元っていうから、「再現」の意味かと思ったら、『謎と不思議 東照宮再発見』には【残念なことに、袖の部分のみ発見されず新造。】とあるので、掘りだしたものをそのまま宝物館の脇っちょに据えたってことらしい。上の文章は、 【そのため、葵紋が、扉にある様式と異なってしまった。昭和48年に重文指定を 受けたため、今となっては取り替えたくても簡単には行かない。】と続く。その違う紋がこちら~。扉のほう↓。 袖のほう↓。 アハハッ!!まあ、こんなお茶目なエピソードがあってもいいよね~。「100年経てばこれもヒストリー」ってTUBEの歌に名言もあるしさこの近くには、なかば埋没した灯籠もある↓。あるいはこれも、一緒に埋められてたものかもしれないな。下部が欠損してたから、残った部分だけこんな風に地面に植え付けたのかもしれない。 にほんブログ村
2013年06月24日
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前回はやたら色んな事を書いて、「ジジイ、ついにボケたか!?」って心配した方もおられるかもしれませんが、あれすべて前置きです、前置き~。でも、あれでも全部書いてない。全部書いてたらキリがないので、カットできる部分は思い切ってごっそりカットしています。ホントは直接今回の記事とは関連のない事柄も含まれてるんだけど、そこはこれから安芸の旅日記がえんえん続くと思うので、書ける時に基本的な事を書いていかないと後がキビシイな~ってことで内容を選びながら書いてる訳です。さて、ほぼ1話まるごと前置きに使って、やっとスタートライン。ここからは鏡山城の歴史で最も有名な「鏡山城の戦い」に入ります。知ってる人にはかなり有名な話だし、大内・毛利ファンの私にとっては関ヶ原と同じくらいメジャーな戦いの気分なので(←大げさ)「今さら書かなくてもいいよね~」って言いたくもなりますが、それじゃ前置きを書いた意味がないしな・・・でもたぶん、鏡山城の戦いを知らなくても「ああ、このエピソードってこの時の話なんだ~」って思う方もきっとおられるはず。それくらい、ひとつの大きな転機を迎えた戦いです。時は大永。大内義興さんが京より帰国してからは、石見と安芸で尼子との争いが一層激しくなった。尼子経久に奪われていた鏡山城も、再び取り返したらしい。「石芸の国人ら、昨日は大内に質を出し、今日は尼子に礼を執りて」とは「陰徳太平記」の記述で、相変わらず国人衆は大国に振り回される日々が続いていた。毛利家では、元就と共に幼主・幸松丸の後見を務めていた高橋久光がとある合戦で討死し、唯一の後見人となった元就の存在感はアップした。同時に、安芸で勢力をふるった高橋氏の立場は低下し、代わって毛利家の立場が相対的に上がることとなった。また、この数年前に元就は初陣を果たし、大内義興さんを裏切った武田元繁を討ち取って武名を上げている。尼子経久は、国人衆の調略に励んでいたが、大永に入って尼子方の武田光和(元繁の子)の協力を得た厳島神主一族の友田興藤(おきふじ)が大内方の桜尾城を奪って公然と大内家に反旗を翻した。ほくそ笑んだ経久は、ついに腰を上げた。狙いは鏡山城。居城である月山富田城から出陣した経久は、大永3年(1523)6月、大軍を率いてまずは毛利領の北に位置する高田郡北池田まで進んだ。そこで重臣の亀井秀綱を使者として毛利家の本拠・郡山城へ送り、自軍への参加を要請した。毛利家中では当然困惑したが、大軍を前にしてはもはや選択の余地はない。幸い、尼子寄りだった吉川家とは姻戚関係もあったし、一揆の同盟者である平賀氏などもこの時点で尼子方となっていたので、孤独な裏切り者という状況にはならなかった。決断した元就は、9歳になる幸松丸を連れて尼子本陣へ向かった。経久66歳、元就27歳。英雄同志のごたいめ~ん「元就殿が同行するなら、猿掛城はカラにな~な・・・どげだらか、尼子の兵を留守居にしては?」 (←出雲弁)「いや・・・そりゃぁちぃと・・・」ここで毛利家家臣の桂元澄が助け舟を出した。「わしががっちり守っとくんから!安心してつかぁさい!!」英雄のお見合い、ハナから怪しい雲行き・・・安芸国人衆を従えて鏡山までやって来た尼子軍ご一行様。元就は鏡山の東北に位置する八幡山の麓の満願寺に、経久は下見峠、あるいは鏡山の北の陣ヶ平山に陣を置いたという。義興さんはこの時、九州に出陣していた。惜しかったなあ、もし義興さんがいたら鼻血モンの超豪華キャスティングだったのに(笑)。もちろん、義興さんの九州参陣を見計らって経久が来た訳だけど。これまで鏡山城の維持に貢献してきた西条衆も、この時ばかりは尼子の大軍を見て後詰めを諦め、自分の城を守るのが精一杯だったそうな。尼子軍は、一説によると数万だったともいわれる。経久の見守る中、元就は吉川軍ら4,000の兵と共に6/13に城攻めを開始。鏡山城を守るのは、蔵田房信。「鏡山城(2)」で東西条代官として名前の出た方です。代官とはいっても、平和な時代のことじゃありませんから、蔵田さんは文官じゃなかった訳です。それから房信の叔父・蔵田直信が副将として鏡山城を守備した。通常、城将が本丸にいるもんだと思うけど、この戦いでは本丸が手狭だという理由で房信が二の丸、直信が本丸にいたらしい。確かに本丸はそんなに広くはなかったからな。礎石建物が御殿場にあったというけど、あそこにそんなものがあったらもっと狭いわ。ここまでの本丸エリアの写真を思い出して下さい。あそこで実際に大内軍と毛利・吉川連合軍の激しい戦いが行われたんです。そして、鏡山城はなかなか落ちませんでした。ここで、元就さんの登場です。大内軍には後詰めも期待できないんだし、どこかに隙があるはずだ・・・そう考えた元就さんは、副将の直信に使者を送りました。「このままじゃ、蔵田の家は全滅じゃ。房信の首を取ったら、あんなぁ(彼)の所領をそのままあげるけぇ。蔵田の血を絶えさせるんか?」利にさとかったとも、甥である房信に不満を抱いていたともされるが、ともかくこの誘いに直信はあっさり乗ってきた。叔父の手痛い裏切りに驚いたのは房信。それでも本丸で一昼夜防戦したともいわれるが、最後は妻子の助命を条件に切腹を願い出た。・・・て事は、妻子は城内にいたんだね。東西条代官みんながそうかはわからないけど、少なくとも房信さんは単身赴任じゃなくて、家族と共にここで生活してたんだ。まあ、居館は別のところにあったかもしれないけど、東西条は最前線であり周囲の環境も複雑なところだから、妻子も城内で起居していた可能性は高い。房信の申出を経久に取り次いだところ、経久もこれを快諾。6/28に城は開城され、房信は自刃した。尼子方と大内方の殊勲者、元就と蔵田直信はそろって経久の本陣へ向かった。が、経久は房信の申出は受諾したものの、直信の裏切りについては激しく非難した。そして直信の処刑はすぐに実行されたという。この当時、裏切りは特に珍しいことでも何でもない。大内と尼子の争いひとつ取ってみても、安芸や備後で鮮やかに白と黒が入れ替わるオセロのようなことが幾度繰り返されてきたことか。オセロの駒は、もちろん国人衆。そしてこの先も、オセロは続く。だから、元就も直信も当時の慣習としてそこは割り切っていた。直信を処刑した経久の真意はわからないが、一般的には他の国人衆への見せしめ、それから元就への牽制といわれる。思いっきり約束を反故にされた元就は、まっつぁおになった。このままじゃ、下手したらイソップのオオカミ少年になってしまう・・・!しかも、出陣の際、経久は尼子の兵を猿掛城に入れようとした。この一連の出来事により、元就は経久への不信感を抱いたといわれる。この戦いには、もうひとつ有名なエピソードがある。蔵田房信の首実検に、9歳の幸松丸も立ち合わされたというのがそれ。幸松丸が房信の首を見たところ、房信の眼がぎょろりと動き、歯を3度噛み鳴らした。あまりの恐ろしさに幸松丸は卒倒し、そのまま息を引き取ったという。これの真偽はわからない。が、吉田郡山に戻った直後に幸松丸が発病して7月15日に亡くなったというのは事実。陣中で何があったにせよ、参陣による多大なストレスで幼い命を縮めた可能性は充分にある。先代の興元には、幸松丸の他には女子が1人あるだけ。9歳の幸松丸には、当然子はない。直系の男子で家督を継ぐ者はいなくなったので、元就が次代の当主となる訳ですが・・・ここでは書きませんが、元就の家督相続に関しても経久が絡んできた。それをするりとかわして当主の座に着く訳だけど、その後も尼子の思惑は元就に絡みついてきて、ついには自分の弟と家臣を粛清するという事態に発展した。この辺からも、経久の元就に対する警戒心が垣間見える。元就さんも、私と同じく結構執念深いタイプだからね、経久が用意したアジリティーをひとつひとつクリアしていくたびに、元就の中に暗い炎が静かに燃え広がっていったんじゃなかろーか。もちろん戦は感情論じゃないし、幸松丸が仮に参陣しなかったからといってそのまま長生きできたかどうかはわからない。けど、この戦いでひとつの流れが確実に変わった。経久は、幸松丸の参陣を強要したともいわれる。もしそうだったとしたら、アジリティーという名のジャンプ台の他に、経久自身も知らぬ間に元就飛躍のチャンスを自ら与えてやったようなもの。さすがと言うべきか、元就に警戒心を抱いた経久の目は確かだった。けど、詰めが甘かった。その詰めの甘さが元就の成長に力を貸し、のちに自らが築いた帝国を滅ぼす強力なライバルを育てる要因を作ったことを、鏡山にいる経久はまだ知らない。にほんブログ村
2013年01月16日
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天海の石碑から道なりに進むと、東塔の入口がある↓。 ここで拝観料を払って、いざ叡山の中心部、東塔へ。観光のメインエリアには各所に案内図も置いてある↓。 ただね、こーゆーとこって道がすごくわかりにくいんだよねわたくしはのっけから位置関係を把握するのに時間がかかった。とりあえずメシが待っているので、延暦寺会館を目指す。歩き始めると、延暦寺のロゴ入りの消防車があった↓。 おお~、山上に消防車を常備しとるのか!いざという時、歴史的建造物を守るために日夜待機しとるのだな。さて、わかりにくいながらも主要な堂宇をスルーして辿り着いたのがこちら↓。 これが延暦寺会館。ここは宿坊も兼ねていて、泊まることができます。ここに泊まれればベストでしたが、冬季は宿泊はやっていないので仕方なくランチだけ予約したとゆー訳です。受付で名前を言うと、2Fのレストランに上がるように言われた。内部はかなり綺麗な作りで、部屋に入るとわたくしの昼ごはんの準備ができていた。 窓際の席で、琵琶湖も見えた↓。 確か「ゆばどんぶり」みたいなメニューがあって、ゆば好きなわたくしはそれにしたかったんだけど、オフシーズンのためかメニューが限られていて、「比叡御膳」なるものを頼んだ。もちろん精進料理です。ここは予約制ですので、ご利用の方は事前の予約が必要です。お姉さんに「お飲み物は」と聞かれたのでコーヒーがあるか聞いたら、それは1Fの喫茶室に行かないとダメらしい。でオレンジジュースを頼んだら、出てきたのは昔なつかしい小ビンのリボンシトロンだったうっわ~、これってまだ現役だったんだ。こんなの何年も飲んでないぞ・・・今どきこれが活躍するのって、法事ぐらいじゃ・・・て、ここで今や叡山も霊園経営に乗り出してることを思い出した。そっか、延暦寺会館では法事の後のお食事会なんかもやってるのかもしれないな・・・思いがけないリボンシトロンの登場に動揺したけど、食事は美味しかったッス。人も少なくて静かだったしね。あ~、ここ泊まりたかったなあ・・・1Fには売店がある。あまり荷物が増えるのも困るけど、ここにはもう寄らないだろうから物色。結構本の類があったので数冊買う。あとお香を物色したんだけど、ちょっとオドロキの品があった。 結局買わなかったので現物の写真はありませんが、上のお香は寛永寺で買ったものです。パッケージがこれとそっくりの品が叡山にあったんですよ。まさか匂いも同じか!?と思って見本をかいでみたのですが、いつ開封したものなのかほとんど匂いはわからなかったが、寛永寺の東叡香とよく似た香りのような気がしました。現在の寛永寺と叡山が仲良くタイアップしてお香を開発するとも思えん・・・が、外見も中身もそっくりなんて偶然とも思えん・・・まさかどちらかが真似っこした訳でもないでしょうが、三山のお仲間がよく似たお香を出していることがかなりオドロキでした。ちなみに、日光輪王寺も数種類お香を出しているものの、日光にはこれと類似するお香はありません。買い物を済ませて外に出る。延暦寺会館の前には小さなお堂やら石碑やらある。 ↑ちょっとこのセンス、いただけない・・・ 「天上天下唯我独尊」かと思った。あとこんなのも↓。 アハハハ・・・しかし、「足利-比叡山完歩記念」てあるぞ。栃木から叡山まで歩いたのか?さて、東塔は3つのエリアの中でも中心的な存在であり、観光客が最も集う場所。が、明日も下りはケーブルを使うからここへまた来るし、今日と明日の空き時間でぽつぽつ東塔の堂宇を見ようかと思っているので、まずは遠い場所から攻めることにする。で、延暦寺会館の脇の道を下ろうと向かったら、まばらに溶けた雪が凍っていて大変なことになっていた。凍っていない場所を探しつつ脇の手すりにもつかまりながらゆっくり坂を下りる。こーゆー時、舗装路は始末が悪い。最初の凍った小さな坂をちまちま下りると、ふっかりと雪が積もっていた↓。 中途半端に雪が溶けた道よりも、こーゆー方が逆に歩きやすい。少し歩くともう雪はほとんどなかった。 さらに少し歩くと、お堂が見えてきた↓。ここまでが舗装路。 お堂へ寄る前に、舗装路の先っぽへ行ってみた。かなり急な斜面↓。 同じ場所から道の先を見たところ↓。明日は自分で登ってくるから、たぶんここへ出るんだろうな。 ではお堂へ向かいます。 この場所は赤マルのところにあたる↓。 古びたお堂は一見素木造りのようだけど、かすかに彩色が残っている。かつては朱も鮮やかなお堂だったのだろう。お堂の真ん前にでーんと1本灯篭が立つのは古い形式のものなんだってね。宝形造りのようだけど、屋根の真上にはプチ大棟みたいなものが乗っていて、変わった造りをしている。中には摩耗してかなり古そうな石仏が一体↓。 ここは聖尊院堂という。が、「亀堂」という名の方が通りがいいかもしれない。亀の由来はお堂のすぐそばにある大きな石碑にある↓。 事前の調べではここの情報は持っていなかったので、亀堂がどーのというより現地では別の視点で嬉々として写真を撮った。 何に喜んだかって、寛永寺にある了翁さんの石碑にそっくりでしょお~!【薬樹院之碑】というタイトルのこの碑は、織田軍による元亀の法難のあと、叡山の復興に努めた全宗さんを称えたものなんだそうな。碑文の全文を読めるほど現地では写真は撮ってこなかったんだけど、一部読める部分には「放火僧侶逃亡」とかそれっぽい文字が刻まれている。織田信長氏による叡山の焼き打ちは有名な話ですが、わたくしは一般に言われているほどの凄惨なものではなかっただろうと思うので、たぶん本シリーズでは自分から触れることはないと思います。が、全宗って・・・まさか、施薬院全宗のこと!?でウィキペディアを見てみたところ、 【元々比叡山菜樹院の住持であったが、織田信長による比叡山焼き討ちの後、 還俗して曲直瀬道三に入門し、漢方医学を極める。(中略)荒廃した比叡山の 再興にも尽力した。】とあった。そうなのか、全宗は叡山の僧だったのか!知らなかった・・・あ~、碑文の全文、写真に撮っておけばよかった にほんブログ村
2015年01月21日
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寛永寺両大師の記事を読み返すと懐かしさがこみ上げてきますが、あの頃のわたくしは長年日光で角大師にお世話になっておきながら、「慈恵大師」という人がいることはこれまた日光で知ってはいても角大師=慈恵大師だとは知らず、興味もなかった。それが、寛永寺で角大師=慈恵大師であり、元三大師とも呼ばれている「良源」という1人の生きた僧のことを初めて知って記事に書いて、そこから理由もなしに良源さんが好きになってついには山道を歩いてここ定心房まで来てしまったのだから、人生とはつくづく不思議なものです。ま、感慨はともかく角大師。信仰の対象としての元三大師像は、角をはやして骨だけの姿の角大師のほか、観音様の化身ともされるちっこい良源さんが33体並んでいる豆(魔滅)大師やふんどしをしめた鬼の姿の鬼大師という異形の姿をいくつも持っている。もちろん、人間の姿をした良源像もあるけど、その中でも単なる肖像画ではなく壁に残った姿を写した人間バージョンの良源像もある。過去の記事では天海が日光で徳川家綱誕生祈願に使った画像もそうだし、ここ四季講堂にある良源画像などは 【良源死去の前日、深夜まで止観三昧業を修したが、燈明のまたたきによって傍らの 壁に映った良源の影が、良源が立去ったあとも消えず、しかもその影は顔の表情から 衣文の色目まではっきりと映っていた。これを弟子の尋禅が書き写すと、写した 部分から影はしだいに消え去ったという。】 (『人物叢書 良源』より)という伝承を持っているそうな。多少のディテールの差はあっても、だいたい良源さんの画像というのはどれも似たりよったりのエピソードを伝えているので、そのソースは同じだろうという気がする。それにしても、壁に残った影がうんたらとかいう話が何で生まれたんだろうと思ってたんだけど、『人物叢書 良源』にはこんな話が載っている。 【天元4年(981)円融天皇はしばしば瘧病(おこり、マラリヤ)と邪気におそわれ 悩まれ、種々の卜占や加持祈祷、施薬が行われたが、その験がなかった。8月10日、 天台座主良源、広沢僧正寛朝・権少僧都叡山の余慶らが招ぜられ五壇法を修した。 良源が不動法を、寛朝が降三世法、余慶が金剛夜叉法を修した。良源・寛朝の修法の さまは、そのまま祈祷の諸天のようであったという。のちに寛朝自身が良源の降魔の 姿を見たと語っている。】 (出典は割愛)お護摩を受けた方や見たことがある方はわかるでしょうが、現在では一般人がお寺で受けるお護摩は日の光が入る明るい堂内で行われるものの、上の修法は天皇のピンチ、すなわち国家のピンチを脱するために行われる特別な祈祷だから、密室のような環境で厳粛に行われたものなんじゃないだろうか。閉ざされた暗い空間の中、5つに組まれたそれぞれの壇で降魔の火がめらめらと揺れる・・・当代随一の密教の験者が国家のために祈るとなれば、それは相当の迫力があっただろう。暗い堂内で炎にゆらめく良源さんの姿を想像してみた時、壁に映った影が「降魔の姿」に見えたということも充分あり得るよな・・・と思った。ちなみに、寛朝(かんちょう)さんは真言宗の僧で、 【平将門が関東で反乱を起こした際には自ら関東に下向し祈祷をした。その時に祈祷した 不動明王を本尊として創建されたのが「成田不動」で有名な成田山新勝寺である。】 (ウィキペディアより)という人なんですが、源信が「学徳の一物」と評された際の15人の僧侶のうち、寛朝さんは「真言の一物」のトップに選ばれてます。つまりは寛朝さん自身も密教で験のあった方のようなんだけど、その寛朝さんをして「降魔の姿を見た」と言わしめた良源さんの迫力というのは、それこそ鬼気迫るものがあったんじゃないかと思う。まあでも、そうそうギャラリーがいた訳でもないだろうから別にこの時の修法だけが元ネタになったとも限らないんだけど、天元4年の五壇法のうち分担がわかっているのは良源さんと寛朝さん、それに余慶さんの3人だけ・・・ただ、残りの軍茶利法・大威徳法のどちらかは禅師の君が受け持ったはずだと平林盛得氏は言う。愛弟子の禅師の君は常に良源さんにつき従い、特に重要な場面では行動を共にしていた。だから禅師の君はそういう気合いの入った良源さんの姿を何度も見ていたはずで、その辺から「影大師」が生まれたかもな、って想像が頭をかすめた。走井の元三大師堂の記事などでも書いてますが、良源さんへの信仰は時に最澄をもしのぐほどだったといい、かつての叡山三塔十六谷で良源さんの像や画像がなかったところはないともいう。現在ではそれらのうち相当の数が失われたようだけど、画一的な容貌ではなくバリエーションがあったと思われ、よく本などに掲載される良源さんの木像の顔は結構強烈な顔をしているそれでも、一説によると良源さんは実はイケメンで、そのお顔ゆえに宮中に参内した時に女官たちに騒がれるのがイヤで鬼の面をかぶって参内したなんて話がある。まあ、個人的にはイケメンであってくれたら嬉しいけど、ホントに鬼面をかぶって参内なんかしたら増賀ばりに奇人変人扱いされるんじゃないか(笑)。いやいや、ともかく降魔系の姿はここまでのエピソードなどが中心の元ネタになってるような気がします。あと良源画像の御利益といえば、疫病系。こちらは前回紹介した叡山バージョンの話よりも、どちらかというと寛永寺両大師の話の手合いの方が多いんじゃないかな。良源さんの伝記が初めて書かれたのは、彼の死後50年ほど経ってからだった。その頃はまだ良源さんの晩年の弟子が生きており、彼等が資料を集めて藤原斉信(ただのぶ)という人が書いたのが『慈恵大僧正伝』。ところが、『慈恵大僧正伝』を物足りないと思ったのか梵照という良源さんの弟子が個人的に伝記を記した。ちょっとどこで読んだのか思い出せないので細かいところは記憶がイマイチですが、近代に入ってから東寺で改修だか何かがあった時に梵照の伝記『慈恵大僧正拾遺伝』が発見されたとかって話だそうで、『拾遺伝』にはなかなか興味深いエピソードも載っている。で、梵照によると貞元2年(977)の夏の夕暮れ、定心房で 【良源は手で剣の印を結び、室外の壁の方にそろそろと進んだ。従僧が師の動作を 不審に思っていると、良源はつぎのように語った。外から一匹の鬼が来た。その顔は 紺青で壁を通って入って来たのだ。鬼は従僧には見えなかったが、病魔が良源を襲って、 良源の手印により追い返されたのである。以後数年良源は病むことはなかった。】 (前掲書より)という出来事があったそうな。疫病系のエピソードだと、寛永寺の解説に類するものでちまたに疫病が流行っていて良源さんのところにも来たので、試しに病魔に小指をかませてみた。するとあっとゆー間に病苦が良源さんの全身を駆け巡り、「アイタタタタ・・・こりゃかなわん、エイッ!!」とピンと指で病魔を追い払ったという。指で病魔を追い払ったというから、てっきりわたくしは鼻クソをピンと弾いて飛ばすように小指にとりついた魔物を追い払ったのかと思っていたけど『大鏡』で語り手のジジイが「弾指はたはたとす」(爪弾きをぱちぱちとした)という場面を読んで、「指ではじく」とか「爪はじきをする」という動作が鼻クソを飛ばすような現実的なものじゃないということを学んだ。橘健二氏の校註(小学館『日本古典文学全集』)によると、「弾指」は 【仏家で禍を除くためのまじないとしたことで、人さし指の爪を親指にかけて 強くはじくこと】なんだそうな。『大鏡』での弾指の解釈は訳者によっても違いがあるけど、訳の可否よりこの動作がどういう意味を持っていたかということがわたくしにとっては大事。印の剣であれ弾指であれ、物理的なものじゃなく霊的な動作で病魔を追い払ったということになる訳だな。梵照が直接良源さんを知っているからといって『拾遺伝』のすべてが真実とも限らないけど、この辺のエピソードが「病魔退散」の御利益へつながったという気もする。鎌倉初期にはすでに良源さんの像や画像が信仰の対象となっており、初めは堂衆と学生との対立などの山内でのもめ事に際して鎮圧・調伏の目的などで活躍したらしいが、次第にそれが山外にも広がって厄除けとして門前に画像を貼ったりするようになったそうな。「摺り供養」は時に万単位で大量生産されたこともあったそうで、元三大師信仰の人気の高さがうかがわれる。これには良源さんの験力を恃みとする向きもあったかもしれないけど、対立相手を調伏するところから出発しているのであれば、やはり長年にわたって発揮した強烈なリーダーシップが伝説的なものとなっていたからじゃないだろうか。良源さんの施策や用いた手段については賛否両論あるものの、リーダーシップについては多くの人が認めるところでもある。それが広く山外に広がると共に伝承が伝承を生み、現在でも厄除け大師として活躍し「天台のお大師さん」の栄誉を勝ち取った。そして千年以上の時を越えて、わたくしをはじめ今も多くの人を見守り、愛され続けている。にほんブログ村
2015年06月08日
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