戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月28日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
前回延暦16年の続きです。

全体の流れは前回の後半を見ていただくとして、
ひとまず必要な分だけを前回からピックアップします。


1月14日、善珠を僧正に、等定を大僧都に、施暁を少僧都に任じる。
1月22日、善珠の弟子・慈厚に大和国の稲300束を与える。
2月、この頃行表が死去。
4月7日、山林での苦行で道を修めた4人の僧侶に対し、大和国の稲400束を下賜する。
4月21日、僧正・善珠が死去。

5月19日、キジが前殿に集まるという怪異があったので、宮中と東宮で「金剛般若経」を
転読させる。
5月20日、早良親王の霊に謝罪するため僧侶2人を淡路へ遣わし、転経・悔過をさせる。
5月22日、この日まで京内での洪水が続く。このため、宮中で仏の名を唱えて薬師如来の
礼拝・供養を行う潅頂経法を行う。

6月18日、畿内七道国諸国の名神社へ使者を遣わし、全国の安寧祈願のために幣帛を捧げる。
天皇は朝堂院の前庭まで出て使者を見送った。
7月2日、晴雨の占いが的中したので、陰陽允・大津海成に布などを下賜する。
7月3日、前年の長雨で山崩れが起こった大和の平群山と河内の高安山に陰陽博士などを
遣わし、神霊を鎮め祀らせる。
12月6日、最澄、内供奉十禅師に選ばれる。



まず最初の3人の僧侶への叙任。

このうち等定(とうじょう)は延暦2年(783)東大寺の別当になった方。
この2年後に高齢を理由に大僧都を辞退して認められるが、その際、

「ヒマな時でいいから、梵釈寺については
今後も監督して欲しいんだよね~」


と桓武から直々に依頼されている。
それによると、辞退した時等定は80歳。
70歳の時から引退を申請しているのに認められないままずるずると来てしまったが、


桓武は残念な気持ちでいっぱいで、その心は言葉では言い尽くせないと熱っぽく語り、
寒い時期だから(申請を出したのは12月)体をいとえよ、としながらも
80歳のジジイにまだ梵釈寺を頼むとしている。

梵釈寺は 「叡山攻め(46)」 で紹介した通り、大津京の近くに創建された大寺で
桓武の思い入れも深い寺。
前々回、延暦14年9月15日の勅に「梵釈寺を創建した」という不思議な記事が
ありますが、これは寺名を正式に梵釈寺としたという意味なのでしょう。
佐伯氏はこの引退劇について

 【これは、等定の梵釈寺との関係が、古くからあったこと、桓武天皇の同寺に対する
  強い関心、および等定への深い信頼感があったことを示している。これ以外に等定と

  将来した典籍を書写し、梵釈寺一切経のうちに収めたのは、等定であった可能性が大きく、
  またその中に『円頓止観』があった事実によって、等定と梵釈寺とは、天台宗の成立に
  一役買ったという推測がなされている。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

とする。


食料援助の手配を奏上した方で、 最澄を修行入位に推薦した可能性のある方。
また梵釈寺の住持でもある。

梵釈寺にゆかりの深い等定と施暁という2人の僧の存在。
さらに、最澄は梵釈寺で天台経疏をコピーさせてもらった可能性もある。
佐伯氏は最澄の修行入位授位にも、施暁だけでなく等定の存在の影響がある可能性を
指摘しておられる。


それで、僧正となった善珠(ぜんしゅ)ですが、
この方のエピソードについては別のところで書こうと思いますので、
ここでは簡単に・・・

早良親王の死後、桓武をおびえさせる様々な出来事がありましたが、
安殿親王の病気の原因は早良親王の祟りだとはっきり占いの結果が出ています。
で、善珠は安殿親王の病気平癒の修法で活躍したようです。

と言っても善珠が行ったのは「対症療法」ではなく、「根本治療」。
病気の原因はタタリなので、つまり早良親王の怨霊を慰撫し鎮める修法を行ったようです。

善珠の弟子・慈厚が1月22日に稲を下賜された理由としては、
「倦むことなく師に仕えた」とあるので、佐伯氏は【善珠のもとで早良親王の怨霊を
なぐさめる祈祷に、特段に力をつくしたためであると考えられなくはない】と語る。

上の抜き書きで5月から6月にかけての記事は、いずれも早良親王対策。
善珠は強い呪力を持ち、施暁も山林修行の経験があると思われる。
5月19日と22日の記事は桓武が怨霊対策のひとつの手段として仏教、
とくに厳しい山林修行で呪力を得た僧を用いたことをうかがわせる。
4月7日の山林修行者への褒賞も、優秀で強い呪力を持つ僧を必要としていた桓武の
ヘッドハンティング的な意味合いもあるのかもしれない。


さて、7月には陰陽師が活躍してますね。
平安遷都の際も陰陽道が活用されたフシがあり、またお天気占いが当たったからと
桓武が喜んでるあたり、この頃の桓武のマイブームは陰陽道のようです。

山崩れを起こした大和と摂津に陰陽師を遣わしてるんだから、
桓武の陰陽道に対する信頼もかなりのものがあったと思われますが、
井沢氏は『人物叢書 桓武天皇』(村尾次郎著)から興味深い話を引用しています。

 【仏教に対してあれほど合理的ともいえる考え方をした天皇が、今日では迷信の一語で
  片づけられる陰陽道にこれほどこりかたまるというのは、いかにも矛盾しているように
  感じられる。しかし、陰陽は、当時の人にとってはすでに指摘したとおり一種の
  科学であり、理論であった。(中略)

  しかし、問題は、陰陽道は人が活用するものであって、それにふりまわされたら
  おしまいだという点である。(中略)天皇は、はじめはこの積極的立場であったが、
  別の原因から陰陽道の捕虜になってゆくのである。それは、神や死霊の怨念が祟りを
  するという、本来陰陽道自身には存在しない精霊への恐怖にとりつかれ、陰陽道に
  救いを求めたところにある。陰陽家自身もまた陰陽道をこの怪力乱神を防ぐ万能薬に
  したてていった。一切がその辺から狂いはじめるのである。】

引用文はここまで。
今度は井沢氏自身の解説です。

 【ところでここで肝心なことは、仏教から陰陽道に走ったといっても、桓武自身の本当の
  信仰は何等変わっていないということだ。村尾氏の表現を借りればそれは「神や死霊の
  怨念が祟りをするという、本来陰陽道自身には存在しない精霊への恐怖」のことだ。
  つまり一言で言えば「怨霊信仰」なのである。(中略)日本人の心の中にはそれこそ
  有史以来「怨霊信仰」があり、外来の宗教はこの「怨霊封じ」の方法論として導入された
  のだ。そして、これ以外の受容は近世に至るまで無かったのである。】
  (『逆説の日本史3』より)

井沢氏の怨霊説は独特なのでなじめない方も多くおられるかもしれませんが、
すべてをそれで説明できないにしても、古い時代についてはおおむね
氏の考え方の方が無理がないような気がします。
聖武天皇なんかも殺しては寺を造り、殺しては仏像を造り、でついに
世界最大の金銅仏まで造っちゃいましたね

聖武の場合は仏教一本だったけど、桓武はバリエーションがある。
はじめ桓武が仏教に対してクールに接していたのは、
それこそ「大仏が役に立たなかったから」で、ゆえに陰陽道にハマッたのかもしれません。

ところが、怨霊が活発になるにつれ的外れの期待を陰陽道に抱き、
さらにそれだけじゃいてもたってもいられなくなった。
あらたに「金剛般若経」を使ってみたり、薬師如来様におすがりしてみたり・・・

それでもまだ不安で、今度は諸国の神様へ神恃みしてみた。
わざわざ旅立つ使者を見送るあたり、桓武の悲壮な思いも伝わってくるようです。

こんなに方々に頼みちらかすなんて一見信心がないようにも見えますが、
桓武自身の信仰は「怨霊信仰」で、それ以外の宗教は「手段」だったと考えれば
何の不思議もありません。

陰陽道は当時の「科学」で、その「科学」によって安殿親王の病気の原因が
わかりました。
この頃の桓武の状況を、井沢氏はこんな例えで説明してます。

 【今でもそうだが、「重い病気」を宣告された人は医学による「科学的治療」だけでは
  満足せずに、「野菜スープ」を飲んだり神社に願をかけたりする。つまり呪術的対応で
  ある。桓武が陰陽道だけでは満足せずに、仏教にも関心を示し、最澄を唐に派遣して
  学ばせたということは、せんじつめればそういうことなのである。】
  (前掲書より)

最澄の部分を除いては、結局そういうことだと考える方が自然だとわたくしは思います。
と言っても、最澄に関する部分も全面否定する訳ではありません。

この年12月、最澄が 内供奉十禅師 に選ばれてますね。

内供奉禅師は山林修行者の中から選ばれ、山林修行者は山での修行によって
特別な力を得ると考えられていた。

そして最澄が抜擢されたのは十禅師に欠員ができたためだったようで、
誰の補充に選ばれたのかまではわかっていないようなんだけど、
佐伯氏は報恩という名の禅師を挙げる。

報恩も色んな伝承があるようだけど、吉野の山で修行を積んだ僧ではあるらしく、
延暦4年(785)11月に桓武の病気平癒の加持祈祷を行ったという話があり、
そこで効果を上げたので「修行大十禅師」という号を与えられ、報恩は一旦は
山に帰ったものの、桓武の迎えがあって参内したという。

延暦4年11月といえば藤原種継暗殺の直後であり、
廃された早良親王に代わって安殿親王が皇太子に立てられた時期。
ここから佐伯氏は

 【加持に長けた報恩も、早良親王の怨霊の祟りに恐れさいなまれていた桓武天皇父子の
  護持僧として、内供奉十禅師に選任されたのであろう。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

と語る。

そういう人の後任として、しかも公然と怨霊対策にワタワタしてる時期に
内供奉禅師となった最澄に何が求められていたのかはもう書く必要もないでしょう。

もちろんこれは桓武側の事情と思惑で、
最澄自身の真摯な信仰とは何の関係もありません。

ただ、叡山に入ってまる12年、ひたすら地道に修行する中で
次第に実力者からも目をかけられるようになったことは事実。
最澄を内供奉禅師に推薦したのは、最澄の願文に感銘を受けたとされる 寿興 という説も
あるらしいが、佐伯氏は等定の可能性もあるとしておられる。

これまでの記事で最澄を「叡山に咲いた小さなハス」とも表現しましたが、
実際にはあちこちの山にハスは沢山咲いていた。
けど、選ばれたのは最澄だった。
もちろん本人の努力と資質のたまものだろうけど、最澄をバックアップする先輩諸氏の
引き立てがあり、そしてこういうご時世だったことも見過ごせない。

最澄に出世欲があったとも思わないけど、色々な要素が絡み合って
最澄は表舞台に躍り出ることができた。
最澄31歳。

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最終更新日  2014年10月28日 23時49分29秒


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