戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月30日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
最澄を野菜にたとえると。

ニンジンとかゴボウとかジャガイモとかの地面から掘り出すものというよりは、
ナスとかキュウリとかインゲンとかの地上に出てる部分で実を着ける野菜だろうな。
空海だったら根菜類・・・あるいは、地面を突き破って顔を出すタケノコかもしんない

叡山での長く地道な修行期間も確かにあるものの、
最澄の人生は総じてエリートコースを歩んだといえると思う。

しかし、最澄という名のナスが地上で実を着けるまでには、
最澄ナスの生命力もさることながら、鑑真・法進ら渡来僧がはぐくんだ豊かな土壌があり、
桓武という名の農夫がせっせと肥料を与えたことでぐんぐん最澄ナスは大きくなった。

肥料の名を「怨霊」という・・・

延暦16年は善珠と最澄の師・行表が死んでおり、
内供奉禅師となった最澄の前任者の可能性のある報恩も延暦16年6月28日に
死去したという。
ちょうど世代が交代する時期にもあたり、タイミングも良かったと言える。

延暦アグリ劇場・最澄ナスの成長記録に当てはめれば、
実を着ける大事な時期に天候にも恵まれたといったところだろうか。

同じ畑のほかの野菜たちからうらやましがられる環境に育った最澄ナスだったが、
宮中という名の権威のある品評会に出されることになった。
そして、ここから最澄ナスの評判も高くなっていく。


内供奉禅師は宮中にあって天皇のために加持祈祷などを行うのが役目。


「願文」 の内容はクリアしたと自分で踏んだのかはわからないけど、
最澄がここをひとつの節目と考えた可能性はある。

のちに最澄が執筆した中に、「最下鈍の者も、十二年を経れば、必ず一験を得ん」
・・・すなわち、

「どんなニブチンでも、ひとつのことを12年も
続ければ必ず成果は現れるもんさ~」


という言葉があり、ほかにも最澄がのちに定めた山内ルールの中に


「願文」であれだけ徹底した分析と自己批判をしたにも関わらず、
弟子たちにも

「12年ね、12年!!」

って言ってるあたり、延暦16年の時点をもって自分の修行という点では
まずまず満足できるセンまで行ったという自負とも取れるし、
「底下の最澄」でも12年でモノになったんだから、
誰だってやればできるんだよ~と自分の経験に基づいて「12年」を
持ち出したという見方もできる。

ちなみに、現在の延暦寺では12年の山籠修行は一般的にはやってないようですが、
一部で12年ルールが生きている。
それについては、旅日記の方で紹介しましょうね。



さて、内供奉禅師・最澄の具体的な活動内容はわかっていないらしく、
ゆえに内供奉禅師の経歴を疑問視する向きもあるらしい。

が、延暦16年に最澄はひとつの活動を始める。
それが、一切経および周辺書籍の書写。
この頃にはすでに数人の弟子がいたらしく、その弟子たちはのちのちまで
最澄の活動に伴って名が見える。

内供奉禅師は供養料として禅師本人には日米(にちまい)3升と2人の童子が付けられ、
童子にも日米1升5合が支給されたようで、その地位、あるいはお手当は終生のものだった。

しかし、膨大なお経や書籍の書写となると紙代などの実費もかかるし、
叡山には原本となるお経もまだ十分にそろっていなかったらしい。

が、面白いことに昔のお坊さんてのは歴史に名を遺す人ほど
驚くほどのバイタリティーや行動力を持ち合わせているもので、
最澄の場合は金欠を解決する手段として七大寺へカンパを依頼したそうな。

なんでも、弟子を使者として遣わして写経の意義を説明させた上で、
ひとつの鉢ごとにひとさじの米を入れてください、って内容だったらしく、
すべての寺がこの要請に応えたものかはわからないけど、
少なくとも大安寺の聞寂(もんじゃく)という僧はこれに共感を示し、
大安寺の別院で写経を行ったという。

大安寺は最澄の師・行表の本寺で、最澄自身も東大寺での受戒の際に
大安寺に入っていた可能性がある。

聞寂だけでも最澄にとってはありがたい援助者だったろうけど、
さらに強力なサポーターが現われた。
それが下野の僧・道忠(どうちゅう)。

道忠は鑑真から戒を受けた人だそうで、「鑑真の持戒第一の弟子」とか
「東国の化主(けしゅ)」と呼ばれ、広く衆生に仏法を伝える活動をしていたという。

 【道忠が奈良から東国に来たのは、鑑真のもとで戒律思想を身につけた道忠が、
  戒壇が設けられている下野国薬師寺の授戒師となって派遣されたことによるのかも
  しれない。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

下野・上野・武蔵などで幅広い活動を行った結果、道忠には多くの門弟がいたといい、
道忠の弟子や孫弟子の中から最澄のそば近く仕えて名を遺した人もいる。
最澄が晩年に東国におもむいた際にも、道忠の門弟から支援を受けており、
長きにわたって道忠ファミリーは最澄を強く支え続けた。

ウィキペディアの道忠のページにはこんな文章がある。

 【後に彼から菩薩戒を受けた円澄が最澄の門人となったことから両者の間に交流が
  生まれ、最澄が天台宗を広めるために広く経典の書写を呼びかけた際に仏法発展の
  ために支援を行ったという。】

しかし、道忠の門弟が大安寺の僧・広円の弟子であるという事実から、
道忠も大安寺となんらかの関わりがあった可能性があり、ここから佐伯氏は

 【道忠が、遠く東国の地で最澄の一切経書写の支援をしたのも、大安寺の聞寂の
  最澄への援助の波が、大安寺から起こり、大きなうねりとなって同寺と縁のある
  道忠のもとにまで達したことによるともいえそうである。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

と推測する。

一般で語られる最澄のサクセスストーリーには通常梵釈寺や大安寺は顔を出すことは
ありませんが、背後にこうした沢山の心ある僧たちの援助と引き立てがあってこそ
最澄が大きく羽ばたくことができたことはぜひとも知っておくべき事柄だと思います。



●延暦17年(798)

1月24日、神宮司は一度任命されると終身なのをいいことに神をあなどって
ロクに掃除もしなかったりする者がおり、しばしば神の祟りを引き起こしていると聞く。
今後は諸国の神宮司などには清慎な者を選んで、任期を6年と定める。
1月26日、ウサギが朝堂院の東道に出てきて捕らえられる。

4月10日、地震。
4月15日、年ごとに定員のある年分の得度者は若年の者から採用することが慣例と
なっていたが、得度者の質が落ちているので、今後は35歳以上という年齢制限を設け、
さらに心構え・知識・修行の充分に備わった者を対象とし、試験のハードルもぐっと上げた。
また、戒律を破っている僧も多いので、破戒僧は寺へ居住させたり法会へ参加することを禁止。
法(戒律)を守る僧はますます精進に励むように勧め、戒を守らない者は僧尼令などにてらして
処罰し、反省の気持ちを起こさせるようにせよとの勅を出す。

閏5月25日、丹生神社で雨乞い。
6月4日、丹生神社で雨乞い。
6月21日、相模・武蔵などの諸国に住む帰順した夷人が里心を起こして帰りたくなるのを
防ぐため、毎年夏冬の衣服などを与え、食料がなくなった時には恵んでやれという勅を出す。

7月25日、長雨が続いたので雨がやむよう丹生神社に幣帛を捧げる。
7月28日、旧都である平城京には寺が多いが、みだらな行いをする僧尼による乱行が
しばしば発生しているので、検察人を遣わすとする。
8月9日、大風により京中で民家が倒壊。

9月、阿波で飢饉。
9月16日、法相宗と三論宗は教説こそ違っても両宗によって仏法はますます盛んに
なっている。しかし、今、三論のベースである竜樹の教えは絶えようとしている。
これは僧綱の指導力不足によるものなので、両宗が永く廃れないようにせよとの勅を出す。
9月17日、子を持つ僧はすべて還俗させよという勅を出す。

10月12日、出雲と筑前では国造が郡領を兼帯しているが、神事を優先して郡領としての
公務に支障をきたしているので今後は兼帯は禁止する。
また、出雲大社と宗像神社では国造が神主を帯びているが、着任すると妻を離縁して
百姓の娘を神官の采女とし、みずからの妻としている者がいる。今後は国司が占いによって
采女を選定することとせよ、という勅を出す。
10月17日、破戒僧の中には経済活動を営んでる者がおり、それらを寺に居住させるのを
禁止する。尼は僧に準じる処罰を加えるとする。


11月、最澄が初めて法華十講の法会を催す。
11月26、雪が降る。
11月27日、大和国の荒廃した公田24町と古池1箇所を永く寺田として秋篠寺へ施入する。
12月7日、民が食料不足となっているので、畿内の官稲を安値で放出する。



この年は怨霊っぽい話は影をひそめたようにも見えるけど、
11月の秋篠寺への施入があります。
秋篠寺は早良親王の怨霊に関するエピソードなどがあるので、
ひそかに対策は続けられていたようです。

で目立つのは、またもや仏教界に対する桓武のお小言。

前年には尼僧が争って大和国の法華寺へ入るという状況があり、
延暦16年2月にはこれを全面禁止。
天皇の許可なくして法華寺へは入れないようにしたそうな。

その理由については不明なるも、その前に諸天の女や越の優婆夷がいたことから、
法華寺が妖言をもって民衆を先導する尼の溜まり場となっていたのではないかと
佐伯氏は推測する。

また、子を持って経済活動をするなんて俗人と変わらないじゃないか!
と桓武は憤慨しているが、『日本霊異記』の著者の景戒なんかもその1人だった。
つか、景戒の場合は満足に妻子を養う甲斐性もないと嘆いてますが

ただ、これまでは仏教界の破戒や好ましくない行為、あるいは集会ばかりが
ターゲットとなっていたけど、10月12日の記述を見るに神社でも同じようなこと
やってたんじゃないか~って思う。
佐伯氏によると、

 【桓武天皇の時代ほど、僧侶に対する取り締まりの厳重なことは、他に類稀(たぐいまれ)
  であったと評されている。なかでも延暦17年は、その取り締まりが厳重をきわめた。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

だそうで、桓武の考えでは戒を破ることは国法を破ることだとしている。

たしかに妻帯や経済活動はよろしくないけど、
別に集会をしてはならないなどと経典に書いてある訳じゃない・・・

しかし、僧尼令では徒党を組んだり吉凶を占ったり
妄りに罪福を説いたりすることを禁じている。
ので、これに照らし合わせるとNG行為ってことになるみたいだね。

この後は偉いお坊様でもなかば公然と妻帯する時代に入っていくので、
この時代だけを批判するのも気の毒だし、多くのお小言の中には
「為政者から見た場合の危険行為」も含まれているので、
そこらへんはきっちり分けて見ていく必要がありますね。


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最終更新日  2014年10月30日 23時44分01秒


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