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一見無駄なことのように思えることも、振り返ってみると大切なことであったと思うことがあります。それがお喋りです。他愛もないお喋りを時間潰しだと思う時もありましたが、お喋りをしている間に仲良くなったり、気づいたり、信頼し合えたりするのです。何気ない話を通して、相手の人となりを知り、価値観を知り、信用できるかを判断しています。だからお喋りをやめずに、どうぞ続けてください。
2024.12.06
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何事も基本から始め、応用に進みますが、迷った時には基本に立ち返ることが大切です。特に慣れてミスをしそうになりかけた時には。慣れることには、良い慣れと悪い慣れがあると感じています。慣れることは、経験を重ねて、普段通りの落ち着いた心の状態でいられることです。良い慣れは、基本を押さえながらも、平常心で、さらに視野や考えを広げられます。対して悪い慣れは、平常心ではありますが、基本を忘れています。流れ作業的に物事をこなすため、作業の目的を見失ってしまうのです。目的を見失った行動は、問題の核心を見過ごしてしまいます。取り返しのつかないことになる可能性があるということです。慣れる頃にミスをしがちになるということなのです。慣れたということは、ある程度の経験を積めたということでもあります。経験と平常心と基本に立ち返る心で、さらに前進できることが望ましい姿なのです。
2024.12.05
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看護師をしているといろんな患者様・ご家族と関わる機会を頂きます。状況も様々ですが、表に現れる感情や行動の大本にあるのは不安です。不安は、心細さのためすぐに他の感情と仲良くなります。ですから不安のために泣いたり、怒ったり、落ち着きがなくなったりするのです。そんな時に大切なのが、看護師がペースメーカーの役割をすることだと思っています。どっしりと構えて、穏やかな表情で、相手の話を相手のペースに合わせて傾聴しながら共感していると、自然とこちらのペースに落ち着いてこられるのです。そしてたくさんお話になった後には「ありがとう」といつも通りの患者さん・ご家族のペースに戻っていかれます。患者さん・ご家族にとっての心の日常が戻ってくるのです。病院にかかることは非日常であって欲しいと思っています。でも突発的に日常から非日常に引きずり込まれることもあります。非日常の予測のつかない突然の出来事に困惑してしまったときに、心の日常を取り戻す事が、これから先の生活を考えて問題と向き合えるようにするのだと思います。
2024.12.04
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疲れた日は休むことが必要です。当たり前のことですが、意識しないと休めないことが多いのです。日々の出来事に追われて、休んでいるつもりでも、心が休まらずにずっとソワソワしていたり。心が落ち着かないと、体に力が入ったままで疲労感が抜けなかったり。忙しい日々の中で、ゆっくりと休む、というのは以外に難しいことなのかもしれません。テレビを消して、お部屋の電気も薄暗くして、雑事を全て片付けて心の余裕を持てた時に、ただぼんやりとして過ごすことが私にとっての一番疲れの取れる休み方になっています。セカセカした心を落ち着かせるのはとても難しいことではありますが、わずかな時間と1人になれる静かな空間を意識して持つようにしています。今日は、休職後始めての仕事でした。数ヵ月ぶりに働いた満足感と疲労感で満ちた体と心をゆっくり休めようと思います。また明日からも、この体と心に頑張ってもらえるように。
2024.12.03
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数ヵ月前から教会内で聖書の学びをどうやって持とうか話し合ってきました。準備に時間がかからず、手軽に始められて、コストがかからず、誰でも参加できるような集まりがいいねと話し合い、それぞれの好きな聖書箇所について話し合う流れで進めてみることになりました。初回はローマ8:31~39を取り上げ、聖書箇所にまつわるエピソードを話し、各々感じたことや、思い出したことなどを語り合いました。「聖書」という括りの中で話し合うため、とりとめのないお喋りのように話があちこち飛び交うことなく進めることができますし、もし脱線したとしても戻る場所がはっきりとしているため迷うこともありません。それに普段の生活ではなかなか話す機会のない信仰について話すため、様々な思いや考えを聞くことができました。わずかな時間でしたが、心満たされた時間でした。キリスト者同士が集まって、語り合ったり、励まし合ったりすることを「交わり」と言います。一般的に「交わり」というと、人同士が交流することという意味ですが、キリスト教では「イエスを手本として、人々と関わりをもつこと」を指します。イエスは分け隔てなく様々な人と関わり、愛を示してこられました。ですからキリスト者も交わりを通して愛の実践を学ぶのです。愛はこの世でもっとも優れたものではありますが、これを行うのは難しいことなのです。失敗を繰り返しながらも、成功への足掛かりをつかんで、少しずつイエスの示す愛へと近付いていくのです。
2024.12.02
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「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」柿の季節になりました。有り難いことに、柿をいただく機会に恵まれ、我が家にはたくさんの柿があるのです。重なる、と言えば良いことの時もありますし、悪い時のこともあります。悪いことが続いたときは「あー、またか」と1人ごちて、やるせない思いは飲み込むようにしています。何となく、悪いことは周りに伝染しやすいように感じるのです。私のところで留めて、悪いことに止めを差すようにしています。反対に良いことが続くときは、嬉しいですね。特に頂き物をした時は、有り難く思います。くださった相手の方の暖かいお気持ちのおかげで、こちらもの心が暖まることができるのです。頂き物をした時は、少しばかりですがお福分けをします。そうすると、頂いたときの「ありがとう」とお福分けをした時に相手から頂く「ありがとう」を体験させていただけます。今回頂いた柿もお世話になっている方々にお福分けしようと思っています。
2024.12.01
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私はアダルトチルドレンだ。アダルトチルドレンとは、「子供のままの大人」という意味ではない。親から受けた子育ての影響で、子供時代を卒業してからもずっと生きづらさを感じ続けている人のことを指す言葉だ。毒親は、1989年に出版されたスーザン・フォワード著の『毒になる親』で、「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」と記されている。毒親に育てられた子供がアダルトチルドレンになるケースは多い。別に虐待を受けていたわけではない。衣食住は保証されていた。だけど、あらゆる場面で親の監督下に置かれ、親の価値観を押し付けられ、反発するとその何倍もの力でねじ伏せられた。つまり、親の言うことに素直に従うような子供時代だったのだ。自分の意見や気持ちは尊重して貰えなかった。間違って自分の気持ちを言ってしまおうものなら、いつまでもからかいのネタにされた。学校の友人関係も親に口出しをされ、「あの子は変わってるし、あの子のお母さんも変わってるから、一緒に遊ばないように」と躾られた。常に行儀よく、成績がいいことを求められたが、それは親の育て方がいいと親が他者から認められるためだった。万が一にも悪い点数を取ってしまったら、親の前に正座をさせられて怒鳴られ、叩かれた。だから家に帰ったら遊びに行く前に宿題と勉強を強いられるため、遊びに行けた日の方が少なかった。書いているだけて頭が痛くなる。大人になって、親からやっと離れられたと思った。だけど親は未だに私の人生に立ち入ろうとしてくる。私はもう関わりたくないのに、子供の頃からの癖で親の命令に従ってしまう。毒親は自身でも気づかぬ内に、子供を自分の所有物として扱っているのだと思う。そして、その所有物が年齢を重ねようが、毒親にとっての所有物であることに変わりはないのだ。見方を変えれば、子離れできていないのだと思う。親自身が何かに依存していなければ生きていけない状態なのだと思う。前期高齢者を向かえた親が今さら生き方を変えられるはずもないが、せめて精神的に自立して欲しい。私は親がいなくても生きていけるから。反面教師にしてるから。
2024.11.30
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物事の捉え方が大きく変わった経験をしました。それが「ご褒美」です。私にとってのご褒美は、美味しいものをお腹いっぱい食べることです。特によく働き、疲れのたまっている時には甘いものは欠かせません。けれど、美味しいものでお腹を満たすご褒美は、お腹も心も満たされるのは美味しいものを頂いている時間だけ。満たされた時間はあっという間に過ぎ去って、いつもの日常が戻ってきてしまいます。そしていつも満たされていない感じを纏わせることになります。そんな中、商品券をいただきました。使い道がなくて眠らせていたのですが、年の瀬が近づいてきたのでお年賀用の美味しいチョコレートを買いに出掛けることにしました。お化粧をして、お気に入りの帽子とジャケットを羽織って電車に乗ります。電車の中で赤ちゃんをあやすお母さんを微笑ましく感じつつ、お店に向かいます。街中はもうクリスマス仕様で華やかに彩られています。お店にはどれも美味しそうなチョコレートたちが並んでいます。自宅にも1つお土産を買うことにしました。お店の店員さんは親しみやすく親切で、「買い物」という短いやり取りを交わします。家に帰り、家族と一緒にチョコレートを分け合います。その時に気づいたのです。ご褒美の捉え方が変わったことに。いつもなら、たくさんの美味しいものをお腹いっぱい頂かないとお腹も心も満たされませんでした。けれどこの時は、少しのチョコレートで心が満たされ、心が満たされることで満足していたのです。ご褒美とは、出来事を通して心を満たすことなのだと、目が開かれた思いがしました。それもチョコレートを頂いた瞬間だけではなく、出掛ける前の準備からご褒美が始まっていたのだ、と感じたのです。ご褒美を求めて飢えていたのは、体ではなく心だったのだと。今までは心が飢えていたことに気づかずに、必死に心を満たすために、食べることで満たそうとしていたのだと。心の欠けを満たすために食べることを「エモーショナル・イーティング」と言います。心の欠けは、過去に価値観を否定される出来事が原因で生じます。心が満たされていない状態では、自分の希望に気づくことができなくなります。だから、わずかな時間でも心を満たすために食べるのです。私にとってのご褒美は、ただ美味しいものを食べることではなく、心を満たすことを目的にしていたのです。だから食べても食べても心は満たされないのです。だって1日中食べ続けるわけにはいきませんから。そう気づいてからは、心の動きを見るように心がけています。お腹がすいたと感じているのは、体なのか心なのかと。
2024.11.29
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私は何も予定のない日でも行き当たりばったりに過ごすことが昔から苦手でした。前日の夜に、翌日の大まかな予定を書き出して整理しておかないと、翌日は頭の中で混線して物事がうまく進まなくなってしまうのです。ですから予定していなかった出来事が起こったときの調整をうまくできないでいます。何とかしたくて「時間管理術」だとか「仕事を早く終わらせる方法」といったビジネス書をたくさん読みました。いろんな考え方の方がおられましたが、私が読んだ本の中で3割は行動しながら考える方、7割は事前に予定を確認する考え方をお持ちな印象を受けています。割合が多いから事前に予定を確認する方法がよいというわけではありません。私はそれぞれの時間の感じ方にあった方法を選べばいいと思うのです。これは完全な推測ですが、行動しながら考える方は時間の流れ方が比較的緩やかに感じておられるのではないかと思うのです。緩やかであるから、行動しながらも考える余裕を持てるのではないかと。対して、事前に予定を確認する方は時間の流れを早く感じておられるのではないかと思うのです。早い時間の流れの中で、考えながら行動することが難しいから、予め考えを整理しておく必要があるのではないでしょうか。いずれにせよ、どんな方法を選んでも間違いではありません。自分に合った方法で対策を考えることが大切なことだと思うのです。「時間の流れ」で思い出したのが、奥の細道です。「月日は百代の過客にして、行交う年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかうるものは、日々旅にして旅を栖とす。」月日は二度と還らぬ旅人であり、行きかう年もまた同じである。船頭として舟の上で人生を過ごす人、馬子として愛馬と共に老いていく人、かれらは毎日が旅であり、旅が住いであるのだ。船頭として過ごす人と馬をひく仕事をする人とでは、同じ月日であったとしても、時の流れは同じではないと思います。それぞれの感じる時間の中で、豊かに人生を花開かせていくような、そのような過ごし方をしたいと願います。
2024.11.28
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話す、書く、聞くの中で、聞くことが一番得意でした。心を相手の方に向けて、ひと言ひと言を丁寧に受け止めることが好きだったというのも理由です。話ながら笑顔になられたり、自信に満ちたり、落ち着かれる姿を見ると、お役に立てたように思えて嬉しかったのです。けれど話すことと書くことは本当に苦手でした。研修レポートを書くときにはあまりにも文章が書けず、参考書やインターネットからそれらしい言葉を貰ってきたこともありました。ただ最近になって思うのです。書くことに自信が持てるようになってきていると。まだまだ拙い言葉たちですが、自分で読んでいて心地よいと感じられることがたまにあるのです。そう思えるようになったのは、ほんの数か月前から日記を書き始めたことがきっかけなのだと思います。鬱になってから自分の変化を客観的に知るために書き始めた日記でした。最初は書くのが難しくて、まとまりがなくて読みにくい文章でした。3ヶ月経った時に、ふと話をしているときに普段よりもすらすらと言葉が出てくることに気っいたのです。そして半年が経った頃には、自分が読んでいて心地よいと思える文章がちらほらと書けるようになり、現在は満足とは程遠いのですが毎日文章を綴れるようになりました。まだまだぎこちなく未熟な言葉たちです。けれどここまでたどり着けたのは続けてきたからだと思います。「継続は力なり」たった6文字の言葉には、その短さからは想像もつかない程の長い時間の流れが含まれています。この言葉は、何かを続けてきた人にだけ本当の意味が分かるのだと思います。もっと早くに本当の意味を理解したかったと思うのは、きっと欲深いのでしょうね。けれど私を戒める言葉として続きを添えてみようと思います。「継続は力なり。その力の始めは吹けば飛ぶほどの弱いものである。しかしその力はいずれ山をも動かす大きな力となってあなたを助けてくれる。だが力を得られるものは、長い年月をかけて継続した者だけである。」
2024.11.27
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鬱と診断されて7ヶ月目。内服で症状はほとんどないものの、今日は少ししんどい1日でした。最近のしんどさは頭の中で混線すること。といっても一時的なことなのですが、あちこちから次から次へと考えが生まれてきては、ロケット花火のように勢いよく飛び去っていくのです。不規則な軌道であちこちから花火が打ち上がるのを、必死に目で追いかけるような感覚なのです。「そろそろ晩御飯作らないと、あ、でも先にボールペンの芯変えとかないと…あ、いや、明日の確認をして…」こんな感じです。最初の内は真面目に飛び交う思いについていこうとするのですが、動作が追い付く訳がなく、中途半端になったものの山が自分の後ろに積み上がっていくのです。そして、ある瞬間に突然諦めようと思い立つのです。「今日は頭が混線している日。何をやっても中途半端で片付かない。仕方がない。」そう思えると、今まで不規則な軌道で飛び交っていたロケット花火が、ひとつの軌道にまとまって遠くへ去っていくのです。飛び去った後は疲労感が残ります。なかなか集中して文字を読むことができません。文字を目で追うことはできるのですが、理解する力が弱まってしまうのです。「結局、何が書いてあったんだっけ?」と何度も同じ箇所を読み返すことになります。そんな日はたまにやってくるのですが、急ぎの用事がないときは何も考えずにぼんやりできる日をもらったと考えるようにしています。いつも頑張っている体からの贈り物です。
2024.11.26
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自分自身の精神状態やその動きを内面的に観察することを「内観」と言います。内観をする時、自分の心の中でしこりとなっていることを深く掘り下げて見つめることを「深掘りする」と表現することがあります。深掘りするという表現は、私にはどうしても肌に合わないと感じてきました。内観の作業は「掘る」という動的なものではなく、「沈む」という静的な表現が合うように思うのです。心の澱に触れた時に感じたことです。心の中の長い間立ち入らないようにしていた光のない場所へと、静かにゆっくりと沈んでいく感覚。今にも消えそうなほどの小さな光を頼りにして。今まで向き合いたくないと思っていた場所。心に傷を追わせた刺がある場所。光は弱いながらも、向き合うと決めた心の暗がりを照らしてくれます。光に照らされたひとつひとつは、どれもかつて体験したけれど消し去りたかったものです。意識に上らないようにそっと、暗がりに沈めて忘れ去ろうとしたものたちです。そのひとつひとつが光で浮かび上がる度に、「あぁ、そうだった」と思い出すのです。当時は辛くて向き合うことすらできなかったことも、時が経つと触れることができるようになります。ひとつひとつに触れて受け止めると、今度は別の場所が浮かび上がるのです。浮かび上がるものは、思い出であったり、感情であったり、今まで心をを縛り付けてきた歪んだ考えだったりします。様々に浮かび上がるひとつひとつを受け止め続けるにつれて、ある時はっと気づくのです。そういうことだったのかと。なぜ心のしこりになっていたのかが、ありありと自分の手に収まるようになるのです。手の上にあるものは、長い間心に刺さっていたものです。どれだけ鋭く、太い刺が刺さっていたのだろうと覗くと、友人を守りたいと願う小さな花であったり、自分との約束を守れなかった後ろめたい割れたビーズであったりするのです。「こんなものが…」と思うようなものが心に刺さっていたことに気づかされるのです。自分の手にかつて刺だったものを握りしめた後から、目を逸らし続けてきた暗がりに光が届き、恐れていた場所ではなくなるのです。そして握りしめた手の中にあるものたちは、心を彩る宝石となって、心を豊かにしてくれるのです。私の経験した内観は、始めから終わりまで、静かに静かに柔らかく沈む旅路でした。
2024.11.25
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澱のようにいつまでも心に残る涙があります。私の涙ではありません。小学校6年生の時に、他のクラスの先生が流した涙です。私のクラスの生徒の何人かは、その先生に嫌われていると感じていました。「ほらまた差別してる」そんなことを、コソコソと友人同士が囁き合っていたのを覚えています。ある日、私のクラスは自習になって何をしてもよいことになりました。友人たちと運動場の一番広いところでキックベースをしようとしていた時、その先生が体操服に着替えた自分のクラスの生徒たちを連れて声をかけてきました。「体育の授業で使いたいから、場所を空けてくれる?」クラスの中で発言力のある子が、「嫌です」と答えました。他の友人たちも同意見のようでした。私は相手が授業で運動場を使うので譲った方がいいのでは、と言いましたが、多数派の声に負けて従いました。それはほんの数秒だったと思うのです。その先生が泣き出すまで。その場の空気感が失くなるような感覚を覚えました。一瞬の出来事だったはずなのに、とても長く暗い時間に感じたのを覚えています。その先生は、大人であることも、生徒の前であることも、外聞も気にせず泣いていました。そして「もういいです!」と大声で叫び、生徒を連れて校舎に戻っていったのです。それからは私のクラスの担任も巻き込み、慌ただしく時間が過ぎていきました。涙した先生のクラスは体育の授業だけでなく、その次の授業もなくなりました。私たちは、生徒を前にして教室で泣いている先生に謝りに行き、担任から関わった生徒1人ずつ聞き取りを受けました。担任の先生は私に「どうしてあなただけ泣いているの?」と聞きました。私はずっと泣いていました。その先生が泣き出した後からずっと。その時は自分でも分からず、「なんとも言えない気持ちで…」と答えたのを覚えています。そして聞き取りが終わった後から、何事もなかったかのように日常が再開されました。あの先生も普段通り、友人たちも普段通り。あの先生がどうして涙されたのかはもう分かりません。でも思い出したのです。20年以上も経ってようやく。自分の涙の理由を。私は敏感な子供でした。誰よりもその場の空気を読むのがうまかった。だから、「ある先生が、他のクラスの6年生の子供たちに嫌がらせをされて泣かされた」という事件を、できるだけ自分達への非がなくなるように子供の涙で解決しようとしたのです。卑怯なやり方です。誤ったことをしている自覚があるなら、自分の非を認める勇気と相手に謝罪する素直さを持っていなくてはと思うのです。非を認めることは悪いことではありません。むしろ強くなければできないことです。当時の自分にはできなかった。私の心に残る過ちです。20年以上経って思い出すのは、何か意味があるのでしょう。ふと、今の自分にかつてなかった勇気と素直さがあるのかと考えるのです。今の私は小学校6年生の自分よりも強い心をもっているだろうかと。すぐ答えられない自分は、まだ弱いままなのです。
2024.11.24
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指導する立場になった時には、自分の意思をできるだけ小さく保つ力が求められるのだと思います。自分の意思を小さく保ち続けることはとても難しいことです。まだ未熟な相手を見ていると、「こうすればいいよ」と余計な口出しをしたくなってしまうのが人の性ですから。自分の経験と価値観の入り交じった「こうすればいいよ」は相手に伝わらない場合があると感じています。それは相手にも独自の経験と価値観があり、私のものと同じではないからです。目的地まで教え導く目的は、相手の自立です。時に、目的地まで教え導く時間をいかに短縮するかが目的になっていることは残念なことです。相手に早く成長してもらいたいという焦りがある時に出る言葉が「こうすればいいよ」だと思います。相手の自立を願うならば、「どうしたらいいと思う?」と、相手が目の前の状況に向き合って、自ら答えを導き出す時間が必要です。うまくいかない時もありますが、失敗から学ぶことが相手にとっての何よりの財産になります。その経験は、その時の、その状態の相手にしか体験できないからです。体験には、感情や感覚や考え方が伴います。「こうすればいいよ」は感情や感覚や考え方を最小限にしてしまう言葉だと思うのです。相手より少し前に進んでいるがために、余計な口出しをして相手の経験の芽を摘んでしまうのは、大変惜しいことだと思います。そして、「こうすればいいよ」と言わざるを得ない指導する立場の人も同じように苦しいと思うのです。「こうすればいいよ」と時間に追われるなかでの一言を振り返る時、もっと時間があったら、という後悔は波のように心に打ち寄せてきます。でも現実は厳しく、限りある範囲で導いていくしかないのです。後悔を心に滲ませてはいるけれど、その時にできることはタイミングも環境も全て、完璧な舞台上での出来事だからです。「もしこうだったら」は起こり得ないからです。そして、後悔の心を持つからこそ、次こそはよりよいものを誰かに託そうとする技術が磨かれるのだと思います。失敗は敗北ではありません。失敗は目的を達成できなかっただけであって、むしろ自分に足りない知恵や方法を見いだす希望の光です。導く人も導かれる人も同時に歩み続けていきます。互いに学び合いながら、少しずつ前に進んでいきます。互いに近すぎず、遠すぎない距離で。互いの思いを理解し合えないかもしれないけれど、それすらも私たちにとって必要なものであると思うのです。
2024.11.23
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聖書には次のような箇所があります。「確かに、からだは一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、『私は手ではないから、からだに属さない』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が『私は目ではないから、からだに属さない』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神は御こころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で、比較的尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」長い聖書箇所を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。私は、家庭も学校も職場も社会も国も、聖書のいう「からだ」であってほしいと願っています。からだに属する一つ一つの器官が、私たち個人です。個性があり、ユニークで、1つとして同じ個体のいない人間が1つの集合体となるときに、完成した1つの組織となる。ただの理想的な楽観論だと思われるかもしれないけれど、お互いの得意で、お互いの欠けを補う関係は、互いを受け入れ合う多様性に溢れていると思います。健常者と障碍者、多数派と少数派、男性と女性。違いはあるけれど、その違いは区別するものではなく、個性だと思います。個性的で唯一の1人1人が、パズルのピースのように互いに支えられ、支え合う関係が築かれることを願っています。身体的、経済的、心理的、霊的。いろんな支え合い方があります。私の今日1日の中で、支えてくださった方々に、また、私に支えさせてくださった方々に心からの感謝を贈ります。ありがとう。
2024.11.22
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学生の頃は、パンツスーツを格好良く着こなすキャリアウーマンに憧れていました。仕事を的確にこなし、多くの人から頼りにされ、どんなことでも成し遂げて、仕事を愛している人。休まずに、戦い続けている人。一言でいえば、「疲れ知らず」でしょうか。疲れ知らずへの憧れを持ったまま、社会に出ました。理想としていた光輝くキャリアウーマンの姿は、想像以上に途方もない夢だったのではないかと頭を過り始めたものの、それでもまだ、歪んで見える憧れに望みを見出だそうとしていました。そこまでして拘ったのは、ありのままの自分を受け止められなかったからだと思います。歪んで見える憧れに少しも追い付けない自分を惨めな存在だと感じていたからだと思います。もし「どんな状態であっても、あなたの価値は損なわれない」と自分に語りかけていたなら、もっとおおらかな気持ちで仕事と向き合えたと思うのです。「疲れを知らない」戦士ではなく、戦いの後に家路につく「疲れを知る」戦士として。疲れを感じた時、今までの出来事を振り返り、挑んできたことを数えます。「あぁ、良く頑張った」疲れは自分を労うきっかけを作るものだと思うのです。疲れ知らずではなく、疲れを知ることによって、ありのままの自分を受け入れるのです。惨めに思う必要もなく、誇りに思う必要もない。ただ、受け止める。そうすることで歪んで見える憧れから、自分の本当に望む姿へと視点が変わっていくのだと思います。そして視点が変わった時に初めて、心から自分を労えるのだと思います。今日の疲れが、私を強めてくれますように。疲れ果てた人が労いを得られますように。
2024.11.21
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鬱と診断された直後は、普通の生活に戻れるかどうかが心配の種でした。少しずつ元気を取り戻してきた今は、仕事が見つかるかどうかが不安の種です。資格はあるものの、経験年数を重ね、鬱の治療中であることが足枷になるとは思いもしませんでした。先日の面接結果も見送りになりました。「あなたの性格ではうちの職場に馴染めないと思う」不合格の理由が性格だったのは初めてでした。心の中はなんとも言えないもやもやした感じ。もやもやしてるんだね、と自分に声をかけてみます。けれど、もやもやは次第にザワザワに変わっていきました。「体調不良だと話したから?」「真面目に答えたのがいけなかった?」いろんな思いが頭の中のあちこちから生まれては過っていきます。次から次へと止めどなく。受け止めきれないほどの思いの数に圧倒されて、少しずつ少しずつ不安が募っていきます。不安という感情は、心細さを抱えた子です。だから、すぐにお友達を作ります。不安がお友達になったのは、焦りでした。不安を感じながら、焦りも感じてしまう。こういう時の行動は、ろくな結果にならないことがほとんどです。だけど治まらない不安と焦りに、夜も眠れず、必死に職探しをしてしまうのです。どうか決断する前に冷静さを取り戻せますように。不安と焦りに溺れている人々に安らぎがありますように。
2024.11.20
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目が覚めて、体を起こしたときの感覚で、今日1日の結末を予想できるようになってきました。その感覚は日によってばらばらです。しっかり眠ったのに前の日よりも疲れている時もあれば、眠った時間は短いのに頭がすっきりとしている時もあり、体と心がちぐはぐな時もあります。そんな中でニュートラルな日の予想はとても難しいのです。疲れている日の予定は終わらないし、すっきりしている時はすべての用事を終わらせて暇をもて余すこともあります。でもニュートラルの日はどうなるかは自分次第。自分の心次第だと感じています。心を平らにして、目の前の事に集中できる日。頭の中のあちこちで、いろんな考えが飛び交って、何もはかどらない日。ニュートラルな日がどのように運ぶかは、その日の心がどう反応するかに左右されるように思います。振り返って考えてみると、心が平らな時は頭から沸き上がる考えを受け止めていることが多いのです。「そうなんだね」「今はそういう気持ちなんだね」「今日は落ち着かない日なんだね」そんな風に声をかけられる日は、心が平らでいられます。だけど、自分を受け止める声かけができるには、余白が必要です。時間的な余裕、心のゆとり、経済的な余裕、人間関係の心地よさ。余白があってこそ、自分を受け止められるのだと思います。いつもより少しゆとりのある予定にする、自分を駆り立てすぎない、誰かのために時間を割きすぎない。そういったほんの少し緩めることで、余白は生まれるのだと思います。明日も心地よく目覚められますように。
2024.11.19
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鬱と診断されて188日目。今日は私の、鬱になって188日頑張った記念日です。仕事が忙しすぎて「鬱になりそう」と思ったことはあったけど、まさか本当にそうなるなんて思ってもいませんでした。「まだ頑張れる」この一言が病気にさせた原因です。「まだ頑張れる」いい言葉です。自分の可能性を信じて、鼓舞する力が込められています。だけど言葉は使い方を間違えると、人を傷つける凶器にもなります。私は「まだ頑張れる」を凶器にしてしまった。その凶器は、知らず知らずのうちに私を傷つけました。だけど、今は「まだ頑張れる」を凶器にしてしまった自分に感謝しています。鬱になって初めて知った世界がありました。日常の見え方が変わりました。健康であることの大切さを実感しました。鬱になっていなかったら、今も疲れ果てた自分を奮い立たせていたでしょう。自分に休みを与えることを許していなかったでしょう。自分に厳しくすることが最大の愛の表現だと信じていたと思います。だから変えたんです。「もう頑張らなくていいよ」に。今まで頑張ることを頑張ってきたので、頑張らないことを頑張るのは、とても難しいことでした。今でもそうです。気がつくと頑張っている。体調が悪くなる行動をを選んでしまうんです。なかなかうまくいきません。だから今日は頑張らないことを頑張っている記念日にしました。188日鬱と歩んできたことを思い起こす日です。頑張らないと頑張ってきたことを思い返して、自分に「よく頑張ったね」と声をかける日。こんな日を作ることで、自分の力みを緩めています。どうぞ今日があなたの頑張った記念日でありますように。力を緩めて、自分に優しくしてあげてくださいね。
2024.11.19
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