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本日の弁当は「こんにゃくと野菜炒め(人参・玉葱・椎茸)」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃牛乳が好きな子供だったのですが、我が家は牛乳を取ることさえケチる貧乏だったので飲むのは給食の時間だけ。ほんの一時期、宅配の牛乳を取っていた事はありましたし、ヤクルトも数年取ってはいましたが、いつのまにか親が解約してしまって、家庭内では満足に毎日飲んだという記憶は無く、学校給食の牛乳だけを人の分まで飲んでいました。その、ほんの一時期に取っていた宅配の牛乳、真冬などは石油ストーブの上に置いて温めて風味を増させてから飲むのですが、そうすると牛乳の表面に薄いタンパク質の膜が張ったりして、それを大事そうにスクって食べたりしました。時にはハチミツなどを入れて甘くしたものも美味しかったのですが、やはりそのままの牛乳の味が一番好きでした。こんな美味い物を「臭い」とか「牛の乳なんて」と敬遠がる人がいたおかげで、給食の牛乳を余分に飲めたわけですが、給食牛乳と宅配牛乳との味の差は特に感じず、どちらも美味しく飲んだものです。
2012年05月31日
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本日の弁当は「スクランブルエッグとピーマンの炒め物&玉葱と人参の炒め物」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学時代は牛乳嫌いの子が飲まずに余ったものを下校間際によく飲んだものですが家庭では牛乳を取っていなかったので、カルシウムが足らなかったせいか一年に5センチ伸びれば良い方の子供でした。牛乳と言えば、小学生の頃に行った遠足の帰り、春なのにかなり暑かった日で、学校に着いて児童が校庭で整列している時、誰もが異常な喉の乾きを訴えていました。点呼が終わって帰ろうとする直前に、1人の強面の教師が「そのまま立って待っとれ」と、非情な指示をしたので、誰もが泣きそうになって不満な表情を顔に出していると、「大人しくしとらんと牛乳やらんぞっ」ともう一声。やがて児童全員に配られた冷えた牛乳をみんなが無言で一気に飲み干します。あの時の牛乳が、今まで飲んだ牛乳の中では最高の味である事は変わりありません。
2012年05月30日
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本日の弁当は「モヤシとハム、卵の炒め物」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学時代は給食ではなく、各自弁当持参かパンを学校で購入する事になっておりました。このパンを購入する時は、パン当番に注文するわけですが、他人のお金を多く預かる経験は誰もが初めてだった事でしょう。当時のパンの値段は平均して25円。ちょっと美味しそうなパンだと30円。100円もあれば昼は満腹だったのです。牛乳は月曜から土曜日まで毎日支給されていて、牛乳が苦手な子もチラホラ居た為に多くの牛乳が余り、牛乳好きの私はクラブを終えて下校する前に2本ぐらい飲んで帰ったものです。
2012年05月29日
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本日の弁当は「カレーライス」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小学時代に限らず中学生時代にも当然ながら遠足はありまして、特に印象に残る物はないのですが、中学1年の時に行った静岡の中田島砂丘は、近くの磯辺で食べた昼食のおにぎりが特別おいしかったのを覚えております。磯の香りと融合したおにぎりに巻かれた海苔の香りが、なんともいえない美味しさを醸し出していたと思います。春の遠足であり、入学前の不安も霧散して新しい仲間と楽しめた中学一年時代の幕開けだったので、何をするにも楽しく、何を食べるにも美味しかったのでしょう。
2012年05月28日
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出走直前の八卦予想は「火地晋」の二爻の卦を得ました。これは、阻害されて前に進めず苦労しますが、女帝の贔屓を得たりしてじっくりと挑めば光明が差します。推測するに、逃げ馬が出遅れて馬群に沈むが、そこでスタミナを貯めて後半で一気に差し切る構図。もしくは後方待機の有力馬がなかなか前に進めないが、我慢を重ねて最終的に追い込むレースである。スローペースで行くかも知れない。気になる数字は3と8以上の事柄から勝ち馬予想は3枠6番と8枠17番の馬である。と、予想しましたが結果は大外れ。レースはややハイペースとなり、勝ったのは5枠10番、2着に6枠11番次回のG1レースの予想的中に期待したい。
2012年05月27日
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本日の弁当は「きんぴらごぼう(にんじん・こんにゃく入り)」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小学校時代は春と秋の二回、遠足という行事がありました。時には社会見学といって大企業、有名企業などへ行った事もありましたし、六年生の頃には徒歩で1時間かけて緑地公園までの遠足もありました。それは登校時の児童の列の比ではなく、学年全員がゾロゾロと道路際を歩くので、相当な危険な事だったと思います。それどころか緑地公園に到達した時、隣町の別の小学校の六年生らも同じように徒歩でそこへやって来ていたのです。引率の先生方も大変気を使っていた事でしょう。帰り道などは私達も緊張が解れて、談笑したりふざけたりして歩いていたので、注意力は散漫な状態だったと思います。事故も無く無事だったのは決して当たり前の事ではないでしょう。
2012年05月25日
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本日の弁当は「かにシュウマイ」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃今現在と相も変わらず児童達は集団登校していました。列を組んでズラズラと道の端っこを歩くのです。学校には正門と裏門があり、どちらも使用しては居たのですが、登校時には職員室から近い正門から入るよう規則がありました。私達の分団は裏門まで歩いて2分もかからない場所で集まっていたのものの、わざわざ5分くらいかかる正門まで遠回りをしなければなりませんでした。これは門番の教員を裏門に配置していなかった学校側の手抜きだったと思います。
2012年05月24日
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本日の弁当は「おにぎり&卵焼き(玉葱入り)」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小学校時代だけでも体罰は多く受けた方の児童だったと思いますが、果たして当時の先生方が本当に生徒児童のために叱咤していたかと言えば、疑問に思う部分も多々あります。小学五年の時、音楽の授業で縦笛を忘れた事がありましたが、それだけの事で授業時間の半分を占める説教を受けたのです。だから二度と笛を忘れないように気を付けるという習慣は身に付くかも知れませんが、一度アルコールの匂いを漂わせて教壇に立ち、机に突っ伏すような姿勢で何度も大アクビをしていた先生なので、日頃の鬱憤を私にぶつけていたような気がしないでもありません。また、当時は大勢の生徒達の前でぶん殴られる事は当たり前の事だったので、事のあらましを親に言おうが世間に広めようが私が「悪い」と諫められるのがオチだったと思います。
2012年05月23日
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本日の弁当は「カレーライス(人参・じゃがいも・たまねぎ)」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小学一年時、担任の女性教師から耳を引っ張られた事から始まり、多くの体罰を小学生時代に受けました。ほとんどが平手打ち。だいたいが往復ビンタ、そしてくどい説教がオマケに付きました。水道の出が悪い時、水道管を何度も叩いたり引っ張ったりしていると良く出たので、いつもそれやっていると先生に見つかって、怒声とビンタ。理科教室のドアが閉まっていたので天窓から入ろうとして、そこのガラスに膝が当たって割ってしまい、怒声、説教、往復ビンタ。こんな事ばかりで、決して良い思い出ではないのですが、私はこれくらいの体罰は賛成派です
2012年05月22日
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本日の弁当は「スパゲッティ」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小学校へ入学した当時は木造校舎で、3年後ぐらいに鉄筋コンクリート製の校舎が建てられました。それでも卒業してからも数年は木造校舎は残っており、中学校も入学当時から数年後までは木造校舎が残っておりました。小学一年時、木造校舎で授業を受けたのですが、放課後は教室にあった水の入った2つの防災用のバケツを廊下に出しておく日替わり当番があり、男女ふたりで1つずつのバケツを運ぶ決まりになっていました。ある日、私は隣の席の女の子に2つのバケツを任せて、何もせずに帰ろうとした所を担任の女性教師に見つかり、思いっ切り耳を引っ張られて教室内に連れ戻された思い出があります。言葉で言ってくれても素直に戻るぐらい大人しい児童だったのになぁと、今思います。
2012年05月21日
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本日の弁当は「卵焼き&人参とピーマンの炒め物」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃住んでいた長屋の庭にはミカンの樹もあれば苺もあったんです。ちゃんと実が成り、普通においしいイチゴになりました。それでもやはり市販のイチゴよりは半分ぐらいの大きさでした。特に世話をしなくとも、イチゴの実は成ってました。世話と言えば、小学一年時に一学年全員が朝顔の栽培をした事がありまして、当番制だったと思いますが登校するとクラス全員の朝顔の種が植えられた鉢に水をやるという世話をした思い出があります。当時は児童の数も多く、40人学級が4クラスあり、当然ながら木造校舎です。廊下側から教室に入る入り口の対面側には、外に面する出入り口があり、そこを出ると下駄箱があったりしました。その教室の外に面する場所にズラリと児童個人個人の名札が付けられた朝顔の鉢が並べられていたのです。芽が出る時期は個人差があり、土を破って芽が出て双葉になったりして、みんなが成長をワクワクして見守ったものです。私の朝顔は比較的に芽が出るのが遅く、他の子の朝顔が本葉になる頃にやっと芽が出て開花したのも他の物に比べると遅くて、なおかつ「ひ弱」な様相でした。まるでその後の人生を物語っている様な私の朝顔でした。
2012年05月18日
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本日の弁当は「キャベツとコンニャクの炒め物」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃住んでいた長屋の庭には小さな花壇があり、そこにはミカンの樹が植えられていて毎春になると蝶の幼虫の天下となる場所でした。図鑑で調べるとアゲハチョウの仲間の幼虫だと判り、興味津々で芋虫に指で触れると、オレンジ色の触覚を二本出して威嚇してきました。その時に気のせいかも知れませんが、芋虫から柑橘系の香りを感じたりしました。それらがサナギになるまで大事に見守りましたが、殻を破って蝶に羽化する現場を観る事は出来ませんでした。おそらく早朝に羽化を済ませてしまったのでしょう。
2012年05月17日
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本日の弁当は「サバの塩焼き」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃まだ幼稚園にも行っていない3歳か4歳の頃だったと思います。住んでいた長屋には狭いながらも質素な庭があり、そこにはミカンの木が植えられ、毎年春になると蝶の幼虫がモゾモゾと葉っぱを食べ始めたりする長閑な空間がありました。ニワトリも飼っていたので産み立ての卵も調達でき、近所にコケコッコーの雄叫びが轟いても何の苦情も起きない環境でした。ある日、母方の祖父がやってきて、知らぬ間に調理場に飼っていたニワトリを連れ出して何かを始めようとしていました。「何するの?」と聞いても無言で祖父はニワトリの羽根を毟りだしたのです。やがてニワトリを包丁で捌き、調理してしまったのです。何て事をするのだろう・・・と幼心にも憤慨し、悲しみました。しかし、その頃の幼い頭の中は、もう卵が食べられない、くらいに考えて居たのかも知れません。
2012年05月16日
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本日の弁当は「スクランブルエッグ(ピーマン、ニンジン入り)&ナスの漬物」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃我が家では猫を良く飼いましたが、なかなか居着いてくれずに二年ぐらいで死んだり行方不明になったりする事ばかりでした。小学二年の頃に飼っていた白黒の猫が、ある日居なくなって数日後、小学校の教室から眺めていた風景の中に木で出来た常夜灯のてっぺんに座っている猫の姿がありました。高さは6メートルぐらいはあったでしょうか。そんな丸木でできた常夜灯の頂上で猫が鳴いているのです。教室と常夜灯までは50メートルは離れていたと思いますが、家で飼っていた猫に良く似ていたので気になって仕方がなく、学校から帰ると早速その常夜灯の付近に出向きました。するとすでにそこは人だかりが出来ていて、みんなが常夜灯の上にいる猫に注目していました。間違いなくうちの猫でした。皆がどうする事も出来ずに呆然と上を見上げていると、段ボール箱を抱きかかえた1人の中年の男の人が颯爽と現れて、スルスルっと常夜灯を猿のように昇っていき、猫を箱に入れて降りてきてくれたのです。私は自分ちの猫だと名乗り出て猫を受け取り家に帰りましたが、あっという間の救出劇に驚きと嬉しさのあまり、そのおじさんにお礼も言わずに帰ってきたと記憶しております。
2012年05月15日
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本日の弁当は「シーチキンのマヨネーズ和え」ベランダの鳩の卵が今朝、無くなっていました。付近には黄身の流れた後と殻の破片があったので、おそらくカラスの襲撃に遭ったのでしょう。残念でなりません。さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃やはりこうした鳥や猫などを飼った経験があり、その生死に一喜一憂したものです。小学三年ぐらいだったでしょうか、ひよこを1羽飼ったことがありましたが、学校から帰ると私の後を付いて歩く姿が愛らしく、大事に育てようと思った矢先に成長の過程を観ることも出来ずに死んでしまいました。鳥類は最初に観た物体を親だと思うらしく、きっと私を親だと思って付いて歩いていたのだと思うと、泣けて仕方なかった事を思い出します。そっと庭に埋めてやりましたが、しっかりとした飼育法で飼ってやらなかった事が悔やまれます。
2012年05月14日
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鳩の卵がいつのまにか2つになっていました。一晩中、親鳩はベランダの隅に作られた巣の上で卵を温めているので、今の所は洗濯物も干せない状態です。昼間に何処かへでかけている親鳩の隙を狙って卵を撮影したのですが、どこからか観ていたのでしょう。バタバタと向かいの屋根まで飛んできて私の様子を観ているのです。これは雛に孵って巣立つまでベランダは使用禁止になりそう。
2012年05月13日
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これは鳩の卵です。一ヶ月前ぐらいから我が一室のベランダ付近で、早朝から鳩が2匹バタバタと騒がしくククククーっと鳴いている日々が続いていました。窓を開けると向かいの屋根に逃げてジッとこちらを観ているだけの鳩でしたので最初は何も気にはしていなかったのですが、昨日ベランダの排水溝付近に作られた無造作な巣の上のひとつの小さな卵を発見し、やっと状況が把握できたのです。2匹の鳩は夫婦で、いつ頃産んだのかは判りませんが卵をベランダで抱いて温めていたのでしょう。それを知ってからは窓のカーテンを開けるのさえ戸惑いますし、雨が降ったらどうなるのでしょう?
2012年05月11日
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本日の弁当は「キャベツの味噌炒め」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃私達子供は屋外で遊ぶとき、野球をよくしました。野球と言ってもソフトボールで、人数も九人ずつのチーム同士が試合をしたという訳でもありません。せいぜい5~6人が集まって3対3ぐらいのチームに別れて試合をしたのです。キャッチャーもなく、守備陣はピッチャーとファーストと1人の外野。もう少し人数が集まれば外野ぐらいは揃った程度でした。もしくは試合ではなく、1人のバッターと他は守備に回ってノック形式で遊ぶ事の方が多かったかも知れません。それでも当時は広い空き地があって、外野フェンスのような塀も据えられていたので、そこを越えればホームランを打ったような気分に成れたのです。
2012年05月10日
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本日の弁当は「焼き飯」キャベツ・人参・ソーセージ入り、ソース味さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小学校には卓球部の他に陸上部や野球部などがあり、運動神経の優れた児童などは複数のクラブを掛け持ったりしていたようです。何かの試合があれば陸上部部員となったり、卓球部員になったりしたのでしょう。そんなスーパー小学生が傍に居たのでは、私のようなそこそこ運動神経が良かった者はストレスが溜まるだけです。野球もまぁまぁ得意だったのですが、ゴロを取るような内野守備は好きではなく、クラブに入るまでの興味は湧きませんでした。遊びでソフトボールの練習をしていても、内野ゴロを捕球するする時に「腰が高い」だの「身体の正面で捕れ」だの周囲がうるさいので、うんざりする事もしばしばあったのです。私としては捕りやすい姿勢で、状況に応じた形で守備をするのが理想だと思っていたのですが当時の常識は私から野球の上達を阻んでいたのです。
2012年05月09日
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本日の弁当は「おにぎり(塩昆布)」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃小学三年の頃には卓球部に所属していた時期がありました。ラケットは今でも覚えてますが柄の部分を持ちやすいように削ったりして使いラケットにButterflyというロゴとビリーバーという名称が表示されていました。上手な人はドンドンと購入するラケットのレベルが上がり、ラリーも永く続けられるのでそれを目指して奮闘しておりました。しかし、上達に伸び悩んでいる時期に自分よりも素質のある人が入部してきてからは顧問がその人に付きっきりで指導し始めたので、やる気を失って退部してしまいました。その僻んだ私の行動に怒った担任は、その学期の私の体育の成績を5から3に下げてしまったのです。これぞ青菜に塩です。
2012年05月07日
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本日の昼食は「味噌汁ぶっかけ御飯」GWで8連休の最中、昼の御飯はワカメと大根の味噌汁をぶっかけた物です。こういう物は昔は飼い犬が良く食べさせられた食い物で、今現在では考えられない物です。残り物の御飯と味噌汁の処理は飼い犬の義務だった時代があったのですが、私などは子供の頃からこの味噌汁ぶっかけ御飯が大好きです。因みに飼い猫は削り節をふりかけた冷や飯が定番でしたが、今はどうでしょう?やはりキャットフードでしょうか。それでも昔、私が飼っていた白猫は、カリカリのあられみたいなキャットフードよりも削り節御飯の方を喜んで食べていましたよ。
2012年05月02日
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