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前回に引き続き、先月末に娘と出かけた東京旅行の報告です初日は新幹線の車窓から富士山を楽しみ、東京に着いた早々タイ料理のランチを食べて、迎賓館赤坂離宮を楽しみましたまだ午後も早いので、もう一つ観光しようとやってきたのは昨年9月にもやってきた上野、東京国立博物館です。このエリアって東京で一番多くリピートをするので、今までに20回位はきているんじゃないかと・・・明治33年に当時の皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念し計画され、明治42年開館をした日本初の美術館である表慶館は国の重要文化財に指定されてます今回の訪問の目的は、春日大社の千年の至宝展の為でして東京でどこに行こうかネット検索をしていて見つけまして春日大社に所蔵をされる国宝の数々、その中でも鎧や刀のコレクションを見たい!とコースに入れました。春日大社にも宝物館があるがテーマ毎の展示だったりで、このようにお宝が一堂に会すことはない確か私が奈良に出かけた時はお能のお道具や衣装が並んでいた無論、特別展示は撮影禁止なので、撮影OKだった春日大社の灯篭コーナーをパチリ。今回は槍や弓など武器の展示が印象的だったなぁ。特別展の内容についてはリンクから公式HPをご覧下さい。3月12日までやっているので興味のある方はどうぞ「特別展 春日大社 千年の至宝」の見どころあっ、これは撮影が殆どできる常設展示の鹿です。奈良と言えば鹿。それにしても特別展のチケットってお高いですよね。昔は1200円位だったと思うけど今回の場合には1600円ですよ。もっと高いところすらあるし(汗)そんな訳で春日大社の特別展じゃなくても国宝も重文も多いし常設展でもいいんじゃない?って事で、娘の方は620円の常設展のみのチケットで、私が特別展を見ているうちに本館や東洋館とか、うろうろ後から合流して、娘がまだ見ていなかった残りの本館二階と法隆寺館を一緒に見ることにした。やっぱここは圧巻だなぁ更に今回の旅でもう一つ私が楽しみにしていたのが、お隣にある東京都美術館で開催をされていた「ティツィアーノとヴェネツィア派展」(4月2日まで開催中)だ。先程の春日大社の特別展チケットを持参すると、100円引きをしてくれた上、ポストカードも貰う事が出来た私が初めて本物の絵画展を見たのが高校生の時に、名古屋でイタリアルネッサンス展で、一緒に行った友達はラファエロ私はティツィアーノが好きになった。その後に懸賞の招待旅行でイタリア行けて、バチカンの絵画や、ミラノの最後の晩餐やフィレンツェのウフッツィ美術館とイタリア美術の至宝をじかに見れてティツィアーノやボッティチェルリ、リッピとかが繊細で華やかで特に好きです。てな事で展覧会についてはリンク貼っておきます。娘の方は全く興味がないのでロビーでスマホしてました。もう外は暗くなり娘は初めてだという上野アメ横をてくてく街歩き「ティツィアーノとヴェネツィア派展」知らないという事は怖いです。上野御徒町のJR駅から秋葉原で乗り換えてJR飯田駅で降りで、地下鉄有楽町線で江戸川橋下車ってルートにしたけど、地下鉄大江戸線なら乗り換えもなく飯田橋に行けたし、なんで思いつかなかったのかなぁ~とか後から思ってたんだけど後で夕ご飯でホテル近くを歩いていたら、すぐ近くのバス停まで、上野松坂屋から乗り換えなしで来れる都営バスを発見娘、更に機嫌悪い。乗り換え2回。夕方で混んでたしなぁ~今回の旅の唯一の痛恨ミスだそんな訳で意外に交通の便も良かった、この大きなホテルはホテル椿山荘東京だ。お庭などもあり部屋も広くて、以前から泊まりたいと思っていた高級ホテル高級だけにお値段が高めなのがネックだったけど、何か4年位前に外資系ホテルとの業務提携を解消したみたいそのあたりも宿泊料金に影響でもあったのかな? まっスタンダードなお部屋でも広いし、従業員のサービスも間違いのないホテルだったが(素泊まりだけども・汗)ネットのホテル予約サイトで、一部の高級ホテルのみで利用が出来るという3000円割引も使えてたのも大きい素泊まりでツイン一人あたり1万円程ならば、私でも手が出く金額だし、東京への目的も定かではない中で以前から泊まりたかったホテル椿山荘東京に、お得な価格で泊まれるのならという訳で、東京旅行を決めたのだそれにしても東京のホテル絵図も、東京オリンピックに向けてまだまだ変わっていくのかもずっと前に家族で、たぶん大阪万博に合わせてた当時の有名なモダニズムの設計家がたずさったホテルに泊まったけど、階段一つにとってもこじゃれたデザインだった。そのホテルも今は低価格で有名な某温泉旅館チェーンになっているらしいし。昔みたいな宴会や、団体旅行目当ての大型宿泊施設は経営も大変なんだろうなぁ~と思うしちょうど春節の始まった頃で、このホテルも次の日のビジネスホテルもアジア方面の訪日観光客ばかりだったけど、日本旅館の浴衣と勘違いをしているのか、バスローブとスリッパ姿で館内をうろうろ歩いている女性二人に遭遇したのには驚いた今回もヴィキペディアの記事による椿山荘の説明をすると>武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に>面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地>だったため「つばきやま」と呼ばれていた。江戸時代は>久留里藩黒田氏の下屋敷だった。>明治の元勲である山縣有朋は西南戦争の功により年金>740円を与えられ、1878年(明治11年)に購入、自分の>屋敷として「椿山荘」と命名した。山縣は椿山荘において>趣味である作庭を行っている。>1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田財閥の>二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での>別邸とした。戦災で一部が焼失したが、1948年(昭和>23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が>移植され、1952年(昭和27年)より結婚式場として>営業を開始したまだ旅行にも慣れていない頃、ネットでのホテル検索などもなくて旅行会社の窓口で、ホテルパンフレットの写真と少ない情報だけで予約。東京銀座のホテル、荷物を置く場所もない程狭っ~!と、価格に伴わない宿泊にがったりした時代もあったけど・・・今はネットで、宿泊料金の比較はもちろん、部屋の大きさやお風呂の形態も、アメニティのブランドまで簡単にわかるし口コミやブログによって、実際に利用した人の感想などもあるので、昔のようなこれはないなっ・・・といった失敗もなくなり、お得に素敵なホテルに泊まる事も出来るお風呂場にもテレビがあるのはなかなかないし。ここはシャワーブースがバスタブと別にあったので、体をシャワーブースで洗い後から、のんびりと綺麗なお湯のお風呂に浸かる事が出来るのが良かったそして何より高台からの東京の夜景。ギリギリでお隣の部屋の窓越しにスカイツリーも見れるし、ビルの隙間には東京タワー。東京駅周辺や新宿副都心などなど東京の中心部分の夜景を見ることが出来たそんな素敵なホテルもお得に素泊まりなので、夕飯を食べに近場に出かける事にする。娘と近くのリーガロイヤルホテル東京に前に泊まったのでこのあたりのお店や地理はばっちりだ名前はロイヤルやプレミアムなんだけど・・・数年ぶりに電源を!なにせ早稲田大学のおひざ元、大学生相手の美味しいお安い飲食店も多い訳だし。前の宿泊では高田馬場で行列のできるとんかつ屋で夕飯を食べたので、リーガロイヤルホテル東京の真ん前にあった行列のできるラーメン屋には行けなかったので今回、リベンジ店の前に来たら中に二組、外にも二組の客待ちがあり並ぶとすぐ後ろにまたまた人が並んで、やっぱ人気がある店なんだと認識。ネット検索をすると阪豊中の有名店である豊中麺哲で修業してきた店主らしいが、やっぱ美味しいですわ。スープもあんな高級ホテルに泊まりながらラーメン店で夕食。まっ、そのギャップが我が家の取柄でもあります。豊中と言えば義姉の実家もあり、昔、次兄が住んでいたので何度か行った事もあるけど、そんなカリスマなラーメン屋があるとは。そこも行ってみたくなったという訳で、朝焼けですこのガラス張りっぽいコーナーが良いです娘は東京で暮らしたかったというけど、東京は暮らすのではなくて年に2度位、遊びに来れば私は十分だけど田舎には田舎の暮らし、都会には都会の暮らしがそれぞれあるのだし人にってそれぞれだけど、それぞれに良いところも困ったこともあるのだろうでもでも住めば都って事で、順応するしかない朝、ホテルをチェックアウトしてやってきたのはホテルの近くにあるパン屋の「関口フランスパン」で、やはり前もここのイートインに食べに来ようと、候補には入っていたお店だなんでも創業100年以上の老舗らしくって、日本で初めてフランスパンを製造販売したお店であるみたいだ。焼き立てバケットも次々と買われていくのだが私の好きなデニッシュとか美味しそうなパンもいっぱいあるんでそこでパンを選んで飲み物も買って、イートインで朝食といったお客さんも多いそれにしても昔はお屋敷街だったのか、この周辺のお宅ってゴージャス。このお店に来られる方もまるで芸能人?って感じの朝からばっちり決まったお高そうな服装の方もいるしうちは、こちらもモーニングセットにした。500円位のもの(飲み物による)だけどふわっふわの食パンが分厚いしっ、これは食べごたえがあった無論、大好きなデニッシュもひとつずつ買って持ち帰りお昼の軽めのランチ兼おやつにした。デニッシュ生地をボロボロ落とすのを期待してか、足元には鳩ぽっぽっ前回の日記のコメントのお返事ですが、ログアウト状態だったみたいでお返事をしたいお相手の名前を、書いた人のところに入れてしまいましたので、ご注意下さい 平成29年1月下旬に東京で撮影にほんブログ村
2017年02月20日
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この写真は、最初に国宝展(第二期)に出かけた10月末の京都なのですが既に紅葉も始まっていました。テレビか何かで水辺は夜など冷え込むと言ってましたがそれで、紅葉の進みも周囲よりも少しは早いのかな紅葉の盛りにはさぞかし美しいであろうこのお寺は京都でも有数の紅葉スポット浄土宗西山禅林寺派の総本山。禅林寺またの名を永観堂というが、その名の由来は、優れた徳の高い第7代の住職永観律師の永観からだとかしかし永観堂はえいかんどうと読むが永観律師の方はようかんと読むそうだ山号は聖衆来迎山、院号は無量寿院で本尊は阿弥陀如来。御開基は、空海の高弟の真紹僧都だそうで、古くより「秋はもみじの永観堂」と言われている禅林寺の本尊である阿弥陀如来立像は顔を左に曲げている像であるのだが永保2(1082)年、永観が日課の念仏を唱え、阿弥陀如来像の周囲を行道していると、須弥壇から下りた阿弥陀如来が永観と共に行道を始めたそれに驚いた永観が歩みを止めると阿弥陀如来は振り返って、永観遅しと言葉を発したそうだ。それより阿弥陀如来像の首の向きが元に戻らないままなんだとかこのような「みかえり阿弥陀」は、中国では北宋時代に遡る例があり、国内ではこの像が最古で、山形県の善光寺像など他にも若干の作例があるそうで、阿弥陀来迎時に浄土へと戻る際に、往生者を見守る為に阿弥陀が振り返る姿なのだとか東京国立博物館に寄託をされている寺宝の仏具の「金銅蓮華文磬」は国宝展で実物を見る事が出来た。今まさに臨終をしようとする信仰者の前に、阿弥陀仏と眷属たちが極楽から迎えに来た来迎の場面を描いた絹本著色山越阿弥陀図の方は東京で見たかどうかは覚えがない今回の国宝展では、京都国立博物館にあるものであったが、仏の胸と右掌には小さな絵絹の欠失があって、かつては五色の糸が結びつけられ、今まさに臨終をしようとする信仰者の手に握らせ、阿弥陀の縁を結ばせていたんそうだ。この話は金戒光明寺で聞いたところで「極楽」とは、阿弥陀の浄土の事だそうで、阿弥陀経には「衆苦あることなくただ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」とあるそうだ ウィキペディアによれば↓>この極楽という仏土は広々としていて、>辺際のない世界であり、地下や地上や>虚空の荘厳は微をきわめ、妙をきわめて>いる。この浄土にある華池や宝楼、宝閣>などの建物もまた浄土の宝樹も、みな>金銀珠玉をちりばめ、七宝乃至は百千万の>宝をもって厳飾されている>しかも、それらは実に清浄であり、光明>赫灼と輝いている。衣服や飯食は人々の>意のままに得ることができ、寒からず>暑からず、気候は調和し、本当に住み>心地のよいところである。また、聞こえて>くる音声は、常に妙法を説くがごとく、>水鳥樹林も仏の妙説と共に法音をのべる。>したがって、この浄土には一切の苦は>なく、ただ楽のみがある。(前後するが)>いまをさること十劫の昔、阿弥陀仏は>成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に>浄土を構えられた。そして、現在でも、>この極楽で人々のために説法している。他にも薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」や阿閦(あしゅく)仏の「東方妙喜世界」、釈迦仏の「西方無勝世界」、観音菩薩の「南海補陀落山」など諸仏の浄土が、娑婆(現実)世界から見ればあらゆる方向にあるそうで、それを十方浄土という各経に説かれた十方の如来や、仏を信じていればその浄土に行くという話だ。更に「一蓮托生」という言葉があるが、これは死後に阿弥陀の極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託したいという事から「他力本願」とは、阿弥陀仏が衆生を救済する本願の働きの事であり、「自業自得」は自ら行なった善悪の行為により本人自身がその報いを受けるで「因果応報」も同様でどれもが仏教から派生した熟語である南無阿弥陀仏というお念仏は、阿弥陀に帰依し極楽浄土に導いて欲しいという、浄土宗や浄土真宗で使われ、姉も西本願寺系だけど、うちのあたりは曹洞宗や臨済宗の土地柄だが、年寄りが御詠歌の他に、なむあみだぶつ~なんまいだ~と念仏をやっていたようなまっ、明治期の廃仏毀釈で虚無僧の普化宗がなくなったとドラマの中で扱われていたけどそれまでは神仏習合。神様、仏様。お念仏も盂蘭盆会も先人の行ってきた事は、昭和とかになっても続けられていたけど、戦後生まれが多くなってきた最近は風前の灯火ある意味で楽しみのない田舎での老後の娯楽でもあったように思います。それが昨今ではゲートボールとかカラオケ、ダンス、手芸や旅行となんでもありな老後の趣味。ご朱印状ブームのようにお寺や神社も、年配の人より若い人や海外の人の方が多いくらいですがそれもまた文化財があったり、歴史的な由緒を持つような、限られた寺社仏閣に限られた事であって、地域の人たちの為にある無名のところは檀家も減って、兼業でもしてないと生活も立ちゆかない修理も出来ずに、雨漏りだらけの屋根に食事はカップラーメンばかり。年収は生活保護以下といった地方のお寺の惨状をテレビで特集をしており、限界集落同様に限界のお寺も地方には数多くある。対策としてお寺の統廃合を打ち出そうとしても当然、廃寺となる側では反発をする声もうちの地域の神社も禰宜様が高齢で、最近廃業をしたので、神社の神事などは近隣の神社の禰宜様がやってきてくれるのだが地域での祭りでは、地域の住民が神事を簡素化し見よう見まねで行っている有様だ地域の要になる産業が無くなり、人が減り学校が無くなり、お店が無くなり、交通が無くなり、寺社が無くなり、集落が消えもとの野山となってしまうのも仕方がない話なのかもしれない。まだ、うちのあたりは観光業があるので、今後も集落が残るのは確実ではあるしなによりも観光客の為に、駅から路線バスが一定時間毎に運行されているので、車のない老人の足が確保されているのも有難い事だ更に中央道の神坂パーキングエリアに長年話だけはあったスマートインターの設置が具体化(2021年)したので交通の便が更によくなる話逸れました。戻します今は神社は彫刻もあって、朱色で華やかでお寺は茶色で、地味なイメージがあるけどそれらは、鎌倉期に武士に好まれた禅宗の影響があっての事で、それまでのお寺など朱塗りは魔よけの意味もあって派手な彩色などもされていたようだそういやぁ~京都の醍醐寺とか鞍馬寺平等院とか色鮮やかな朱色だし。この永観堂の今は緑の葉っぱも、11月の半ばになれば真っ赤っか。それもまた見てみたかった紅葉の有名なお寺なのに、その時期に一度も来た事がない。でも見返り観音とか、斜面を利用したお寺が面白くで何より、この階段のカーブが好きでして永観堂には七不思議があるそうでしてこの階段もその一つであるそうだ御影堂、阿弥陀堂、開山堂に続いている湾曲している急こう配の階段を臥龍廊(がりゅうろう)といい、まるで龍が体をうねらせているように見えるので名づけられたんだとか永正年間(1504~1521)に造られたものが昭和に改修されたそうである。ここも屋根がある回廊で巡れるので、雨の日観光に良いと考えてコースに入れたが、この頃には雨も止んでいた七不思議のひとつ悲田梅は、永観律師が境内に薬王寺(悲田院)という施療院を置いて、梅を育てて、梅の実を病人や貧しい者に分け与えたもので、その梅の木が一本だけ残っている更に七不思議の三鈷の松は、普通の松葉は二本であるが、この木の松葉は三本で葉の長さも30センチ近くにも及ぶ珍しい松で財布に入れておくと、お金がたまるとか箪笥に入れると服がたまると言われている更に春に三鈷の松の辺り一帯に棲んでいる蛙の鳴き声が、まるで木魚を叩くようなので木魚蛙と呼ぶが、誰もその姿を見た事は無い伝法堂(瑞紫殿)の阿弥陀如来坐像は応仁の乱で諸堂が焼け落ちた時も、右手が焦げたのみで焼け残ったといい火除けの阿弥陀如来として火除けの信仰を集めている古方丈の孔雀の間の欄間には、雀が描かれているが、向って右端の欄間には五羽の雀が描かれているハズなのに、四羽しかおらず一羽少なく抜け出してしまったと言われる臥龍廊や多宝塔付近の急斜面に生えている紅葉は、寺が建立される前にこの地に住んだ藤原関雄の和歌にちなんで岩垣紅葉と言う おく山の岩垣紅葉散りぬべし照る 日の光みる時なくて (古今和歌集)「菟芸泥赴」の中には「本堂の傍に聖衆来迎の松があり。永観説法の時、この松に弥陀如来影向ありしとなり。今は枯てなし」とあり、山号の由来を示す伝承で、阿弥陀堂の右手にある松がそれなんだとかと数えると1,2,3・・・8つ。あれれ七不思議なのに八つとはいかに。お寺には水琴窟などもあれば、足の悪い方のためにエレベーターなども設置がされていたので見返り阿弥陀も容易に参拝も出来る。という訳で10月の国宝展(2期)目当ての京都初日は祇園、東山、三十三間堂、国宝展二日目は二条城、南禅寺、永観堂であった午後には京都駅に出て小腹も空いたので食事をする事にしたが、私はどうしても京都らしいパフェが食べたくて、丼もどちらも食べられるという京都駅地下ポルタにある「nana's green tea」だがここって東京本社の全国チェーンなのねナゴヤドーム前のイオンとか、名古屋パルコにもお店があるんだ、まっいいか。姉はご飯が食べたいというし私はパフェが食べたいのだから、何も京都のお店に拘る事は無い。とは言っても本当は湯豆腐が食べたかったんだけど・・・次は11月の4期の国宝展の時の京都観光を紹介します。ではでは 平成29年10月28日に京都永観堂で撮影にほんブログ村
2017年12月06日
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大雪に降られた日よりも、前回の日記に あるような、良く晴れた冬の日の方が ずっと、冷え込んで寒いのだ 牛伏寺で冷え込んだ体を、野口冬人さんも お勧めのにごり湯100選にも入っていた 木曽は、桟(かけはし)温泉に立ち寄り 温まろうという、ありがたい旦那の提案 ではあったのだが・・・・ このブログで、前々から紹介をしたかった 木曽路のお気に入りの奈良井(ならい)宿の 写真を撮らなければとばかりに、ぶ~ぶ~ ほほを膨らませた旦那と、名物の木曽川に かかる太鼓橋を渡った 橋脚を用いない木の橋としては、なんと 日本一の規模の橋であり、無論、木曽檜を ふんだんに使った、総檜造りの橋なのだ 木曽谷に、へばりつくようにある奈良井宿は すでに太陽は山々に沈み、日が翳っていた とにかく寒い!というのを、完全に通り越し 肌を刺すような鋭い痛みさえ感じる 雪が降っているわけでもないが、フードを かぶって、ポケットに両手を突っ込んだ 道は凍りつき、うっすらと雪化粧をしていた そんな町の目抜き通りを、お年寄りが買い物に 出歩いたり、学校帰りの子供たちは、元気に 自転車で駆け抜けていた 中山道十一宿のうち、北から2番目の宿場町で かつては奈良井千軒ともいわれ、木曽路一の 賑わいを見せたという。江戸時代の宿場町の 町並みが残り、文部省選定による重要伝統的 建造物群保存地区にもなっている 妻籠ほどには完璧でもなく、さほど観光地化 されている訳でもなく、今も山間の生活の 生臭さを感じるこの町が好きだ。特に宿場の そこかしこにある、水場がお気に入りでもある 空がピンク色に染まり、薄暗くなった目抜き 通りに人影はなく、「温泉が良かった~」と ぼやく、旦那のため息だけが聞こえた 平成18年12月29日。夕刻に撮影
2007年01月19日
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息子が昨夏に新車を購入(足りない資金は親から 借りて返済中)したので、高卒から乗った中古車は 娘が貰って乗っていたが、流石にオンボロ具合にも 磨きがかかり、そろそろ乗り換えなければと今秋に 娘も新車を購入(親が代金を立て替え、まだ一銭も 貰ってないが・・・) 娘の新車購入時には、私の軽自動車を下取りに出し 半年後の無料点検時までは新車に私が乗って、後に 娘のところに引き渡す(それまでは娘は乗り慣れた 息子の中古車を乗る)つもりで、ピカッピカの娘の 新車の納車も間近な先月初め 息子と娘のは新車になったけど、↑の息子が乗って 娘も乗った11万キロ走った、10年近くの中古車も 来春早々に車検だし、再来年には買い替えしないと なんて旦那と話してたら、新聞広告に旦那と20年も お付き合いのある某ディーラーが50周年で、そこで 販売をされている車(選べる)の購入資金50万円が 当たると言うので、これは応募をしなければ・・・ 他社などは、30万円のを何時もやっているらしいが 50万円のはあまり見かけないし、車プレゼントなら 応募も増えるけど、50万円なら残金分を払わないと いけないので本気で、車の欲しい人しか応募しない だろう しかも岐阜県在住で、免許があって車庫証明の出来る 人しか応募できない限定付きだし、ネット応募が出来ず 一人一通のみハガキのみ応募というのと、極めつけが 応募期間が10日間程と短いのも当たり易い。何より 旦那の好きなメーカーのディーラーの懸賞だしね そんな訳で早速、旦那が応募をした。以前に、締切り 最終日の午後に応募したのが、海外旅行や温泉旅行に 当たった教訓から、前年度の色付き年賀状の残りの 未使用ハガキの年賀の文字を消し、今度は私の名前で 消印有効最終日に、駄目押しで応募をしたら 旦那の担当さんから電話があったので、50周年記念の イベント案内かと思ったら、私に50万円が当たったって 割引とは言え、50万円って懸賞最高当選額かも?とか 思いつつ、淡々と話されるので嬉しい気持ちとかではなく 最近は懸賞はご無沙汰だったけど、「あっ、やっぱ私って 運がいいんだ・・・」などと、妙に冷静な自分 契約や納車期限もあるので、早々に購入する車を決める 必要もある中で、「予算」って二文字に、有名なあの車や 人気の車も買える訳でもなく、無難な車に決めた 本来なら半年後まで、こちらで乗るハズだった娘の新車は 一ヶ月後の無料点検が終わった12月中旬、娘の手元に渡し かわりに、↑の息子のオンボロ中古車を持ち帰り・・それを 下取りでって感じで、担当さんが新車登録をせずに待って いたら、昨日から例のエコカー補助金の復活で10万円が 来春に国から戻ってくるらしい 娘の新車購入が無ければ、12月上旬の登録となってしまい 補助金交付の対象にならなかった訳で、その10万円分は 娘からの新車代金から割り引いてやるか このエコカー補助金に、来春までのエコカー減税、更には グリーン税制で来春の自動車の税金も半額になるそうだし 50万円以外でも20万円位は、更にお得になるようだ ちなみに自動車本体の当選の場合も、諸税やOP料金など 当選者の負担になるそうだし、このような車の購入資金の 場合、車のメーカーの懸賞の場合は、販売ディーラーから 通常の値引きが出来るが、今回のように販売ディーラーの 懸賞は、当選金に値引き分が含まれており、ディーラーの キャンペーンも利用出来ず、値引きも無いので注意したい だから○○万円も当たったし、高い車を買っちゃおう!と 気も大きくなると、通常の値引きの金額と変わらなくなり メリットも少ないので、こうゆう時にはお安い車の方が お得な買い物になる。ネットによれば購入車の値引き額は 10万円台後半なので、それを考えると額面は50万円と いっても、通常値引き購入より30万円以上の割引となった そんな訳で、カーナビなどオプションも含め二百万越えの 車が、(エコ補助金分を引くと)150万ちょっとで、年内に 納車。やっぱ娘の引っ越した先の富士山麓のパワーでも 貰ったのかな? これは10月に娘と出かけたコウモリ穴の入口に、日差しが 差し込んでいたので、娘が手に光を当てて上下した写真で ここに限らず、思うに世間で言う所のパワースポットとか ご利益スポットを、普段からまわっているのに驚いた。他の 今年8月以降に回った、運の良さそうなスポットは次回で 紹介をします。お近くの方などはお出かけされてみては? 平成23年11月11日に当たる ↑の写真の車を買った訳ではありません。車名・メーカー名 などは、推測出来そうなものでもコメントには書かないように お願いします
2011年12月21日
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こんにちは。今週は旦那の勤続40周年記念の旅行及び、休暇で先週末より今週末までお休みでした。が、鹿児島でまっ~たりしている時に実家や家から電話。何でも9月下旬にフォークの番組収録の観覧に姉と当選。出かける二日前に姉から施設にいる姑が入院したので、行けないとの連絡で私だけが東京に出かけて、NHKの番組収録の他に皇居付近や靖国、ここ東京国立博物館に出かけたのだが、その入院中だった姑さんが亡くなったとの連絡で、葬儀は鹿児島旅行から帰った次の日だったので参列をしてきたところだ。共働きだった親に代わって家で世話をしてくれたとの孫娘らの手紙を司会の女性が代読をしていた若い時は看護婦さん、助産婦さんもしていたそうでやめてからも近くの人が急病になると、医者が来るまで世話をしていたそうで、自分の事よりもまずは人の事を思いやる人であったそうだ。姉も認知気味の舅には悩まされたが、姑さんには恵まれていたと思う私の母親は長野五輪の頃に、70代前半で亡くなったが実家(長兄)義姉の母親は「元気、元気」らしくて、次兄と同居をしている義姉の母親もかなりのご高齢らしいが元気しかし認知症気味らしくって、ついさっきの自分の言動を忘れてしまうみたいだ。最近のネットニュースで読んだが10年程前に徘徊をする認知症の高齢の母親から目が離せず50代の息子が仕事をやめてその失業保険も給付停止で生活に行き詰まり、生活保護も受けられず、遂には心中を図ったそうだが自分だけが生き残ってしまったそうだ。その直前の母子の会話が子「もう生きられへん。ここで終わりやで」母「そうか、あかんか。一緒やで」子「すまんな」と自分の額を母の額にくっつけると母「わしの子や。わしがやったる」その言葉を合図に中年の息子は母の首を絞め、自分も自殺を図ったが生き残ってしまったという。裁判ではその過酷な境遇から温情判決が下され、執行猶予を受けながらも、事件から10年もたたず息子も命を絶ってしまったそうだ。所持金わずかに数百円と自分と母親のへその緒を一緒に焼いて欲しいとカバンに入れていた最近は認知症の高齢者の重大交通事故が多く、社会現象ともなっており、もはや本人や家族の力ではどうこう出来る状況でもないようにも思う。さて写真は何回も展示品を紹介してきた東京国立博物館、本館内部であるさすがに置かれた電話もレトロだったその本館は昭和7年に着工し昭和12年に竣工。翌年に開館をした。設計は公募で渡辺仁の案が採用されたそうで、日本伝統の木造建築の様式を踏まえた鉄筋コンクリートの和洋折衷な建築で、「旧東京帝室博物館本館」として国の重要文化財に指定されているこちらの建物は表慶館。ウィキペディアによると>1909年(明治42年)、東宮皇太子嘉仁親王(のちの>大正天皇)の成婚を祝う目的で開館した。設計は宮廷>建築家の片山東熊。建物は重要文化財に指定されている>石造及び煉瓦造2階建て、ネオ・バロック様式の建物で>中央と南北両端にドームがあり、中央のドームは吹き>抜け、南北のドームの下は階段室になっているといった感じで展示物同様に、その建物自体も価値がある東京国立博物館だった東京国立博物館の構外施設にあたる黒田記念館ウィキペディアによれば>博物館敷地から道路を隔てた西側にある。洋画家>黒田清輝の遺言により、黒田の遺産を活用して>1928年(昭和3年)建てられたもので、設計は岡田>信一郎である。黒田記念室と特別室があり、湖畔、智・>感・情をはじめとする黒田の作品が収蔵展示されているこちらは東京国立博物館の入館料を払わなくても開館時には、誰でも無料で拝観が出来るという嬉しい施設だ。という訳で私も見学をされて貰うことにした。ここも撮影がOKみたいだ。ネットでも内部や作品の写真を載せている人が多いので私も紹介します東京って近代的な建築や、江戸情緒なものも残されているけど私はやっぱ文明開化、和洋折衷を経ての帝都東京としての戦前のレトロな建物を見るのが、一番の楽しみだこちらは高村光太郎による黒田清輝胸像。なかなか恰幅の良い人物であったみたいだ。黒田は東京美術学校西洋画科で教鞭をとっており、光太郎は彫刻科を卒業後西洋画科に再入学をしていたとか、そんな縁から胸像ものちに頼まれたみたいだこちらは若かりし頃の黒田清輝の自画像。法律を学ぶ為にフランスに留学をするが、パリで洋画を学ぶ日本人の画家らに出会い自らも画家を志し、ラファエル・ラコンに師事するフランスの展覧会でも入選し、帰国後は美術教育者として活躍。塔虚位美術学校教授、帝国美術院院長などにもなり養父が亡くなるに至って子爵となり、貴族院議員ともなった黒田の遺言には、遺産を美術の奨励に役立てるようにとあり、その遺言に基づき黒田記念館が設けられたそうである。代表作である読書、舞妓、智・感・情湖畔の四作品を展示留守特別室は年3回のみの公開で見る事は叶わなかったそんな代表作まで寄贈するとは近代洋画家の父とも呼ばれた教育者でだけある。その素性は薩摩藩士の家柄で、伯父の子爵黒田清綱の養子になったそうで大河でも有名な黒田官兵衛の遠縁にもあたるらしいその向かいにあるのは、かつてあった京成電鉄の博物館動物園駅の建物。昭和8年の京成本線開通に合わせ、東京帝室博物館、東京科学博物館、恩賜上野動物園や、東京美術学校、東京音楽学校の最寄り駅として開業しかし利用者も減り、建物も老朽化していたので平成9年に営業停止。10年前に廃止となったが駅舎の他にホームなども現存しているらしいちょうどパラリンピックの期間であったのか、何やらイベントもしていたが時間がないので素通りこちらは「ル・コルビジェの建築作品、近代建築運動への顕著な貢献」の構成として、世界遺産にもなった国立西洋美術館上野公園からは遠くにスカイツリーも顔をのぞかせた新幹線の時間待ちで、東京駅のグルメスポットをうろうろしていたらこれは栗きんとん~。恵那の銀の森のものだった。まっこれを土産に買う訳にもいかないのでとりあえずは小岩井農場のソフトクリームを食べてみた東京では、このように日本全国の美味しいものを食べる事も出来るのがうらやましい夜遅くに家に戻ると、息子が食べたらしくってラーメンの残骸が。それを見て途端に現実に戻った 平成28年9月下旬に東京上野公園で撮影さて冬のような寒い朝も迎える11月。ついに初めての雪マーク登場。旦那は電源が入っていると思い込んで電源を消そうとしてるし、舅や姑も朝からボイラーの音がすると気がついたみたいで。電源が入っていようがなかろうが冷えた朝に、一定の温度を下回ると水道管が凍結をしないようボイラーが運転をするのだと教えた更にお風呂の方も、朝方に温度が下がるとお風呂の残り湯が撹拌され凍結しないようになっているので、こちらも残り湯を抜かないように頼んでおいた。なんでも綺麗好き(風水好き?)だかの奥さんが夜にお湯を抜いて掃除もして、窓も開けてたら朝には水道が凍結してしまったそうだし娘の部屋の☆3つと断熱が少し劣った小さな東向きのペアガラスの窓は隅の方が、寝室の北側の窓の次に結露しやすいんで、朝一で私がチェックし網戸が外しにくいので窓がふけないので、窓を少し開けてるんですけどその日の朝は、なんかちょっと違う。窓の下部の隅の方は内側に結露をしているが、窓の真ん中の方は外側からとWでくもっているし。もう、何が何だか。冬の間はミニのタオルを持って、あっちの窓こちらの窓と見回らなければならなそうだそんな訳で次回からは、久しぶりの飛行機で行く鹿児島の旅を紹介できたらと思うにほんブログ村
2016年11月19日
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さてさて、春に娘と出かけた桜咲く北陸の7つのお城の中で、一番、桜が見事だなぁと思ったお城は、この福井城である。広いお濠越しに石垣を彩っている桜は、とても華やかだ1泊2日の盛りだくさんの弾丸ツターももう終盤。このお城も今までに来た事はなかったし、もし今回の旅行が無ければ今後も行く機会もなかったかも知れないと思うと、こういう企画旅行は一押しをしてくれたようにも思えるいつかは行きたいとずっと思い続けているままの東北や、四国に、鳥取、日光だって行こうと思えば、スグにだって行けるとは思うのに、これだ!と思うようなツアーがあればいいのだけど桜の花にも負けないような、素敵な和服の女性もお花見なのだろうか。土曜日でもあるので花見客も多く、様々なイベントも行われていた横井小楠と由利公正(三岡八郎)が一緒に熊本に旅立った際の「旅立ちの像」。横井小楠は熊本藩士だったが、藩主の松平慶永(春嶽)に招かれて、福井藩の顧問として藩政改革に関わったそうであるし、春嶽を通じて幕政にも深く関与したそうだ由利公正もまた、春嶽に認められ横井小楠とともに藩財政の立て直しを行ったそうだ。更に坂本龍馬と親交があり、龍馬が福井に訪ねて来た事もあり、維新後は「五箇条の御誓文」の起草にも関わった人物だ島津斉彬(薩摩)、山内豊信(土佐)、伊達宗城(宇和島)らと並んで、幕末の四賢侯と称された。松平慶永(春嶽)は、田安徳川家第三代徳川斉匡の八男として生まれ、徳川将軍徳川家慶の従弟であるが、松平斉善の養子となって、わずか11歳で福井藩主となった肥後熊本藩主、細川斉護の娘である勇姫が正室となっている事から、横井小楠とも繋がりが出来たのかも。公武合体派として名を馳せたが、米国からリンゴの苗木を取り寄せ、日本で初めて栽培をした人物でもあるそうだ。自転車に初めて乗ったのも彼らしいまた明治や、元治などの元号の選定にも大きくかかわっているんだとか。幕末のファンとしては、春嶽の側近であった福井藩士、橋本左内も特筆すべき逸材だ西郷隆盛の盟友でもあったが、安政の大獄で若くして命を落としてしまったそんな訳で幕末の頃には、松平春嶽公や横井小楠、由利公正、橋本左内といった志を持った人たちが日本の行く末を憂い語ったであろう福井城に、私も出かけてみよう。今回もガイドの女性による団体行動だ現在、福井城の本丸内には福井県庁や福井県警察本部、県議会議事堂などが所狭しと並んでいるが、この日は土曜日であった為か花見の一般市民の姿が多かった。御本城橋を渡いよいよ城内へお城については、こんな感じです↑ ウィキペディアで補足すると・・・>1600年(慶長5年)に家康の次男である結城>秀康が68万石で北ノ庄を拝領すると、翌>1601年(慶長6年)9月には知行割を実施し>築城に着手した>1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され>名実共に御家門の居城にふさわしい城となる>よう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の>歳月をかけて完成する。完成した城は東が>新堀川(現在の荒川)、南は足羽川、北は加賀口>馬出までの2キロメートル四方に及んだ>石垣の積み方は、天守台、大手門、櫓台、隅角>部等の重要な部分は切込はぎ積で、その他の>城壁は打込はぎ積である。また、横線が波立って>いるが布積である。福井市小山谷町で産出した>笏谷石を用いている。 石垣の構築には、穴太積で>有名な穴太衆も携わったことが推測される>明治維新後、1871年(明治4年)、福井藩は>福井城の解体を幕府に願い出、旧城地は1873年>(明治6年)陸軍省の管轄となったが、旧藩士>たちが1879年(明治12年)同地を借り受け、>開墾を進めた > 現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、>天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、>県会議事堂、県警察本部などがあり、公園と>しても整備されている(中略)本丸御殿の一部は>(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築>されているさてさて、この城は徳川家康の次男の結城秀康が初代城主であるが、それについて説明してみると家康は正室の築山殿との間に、嫡子の松平信康がいたが、信長の命令で切腹をさせられてしまった本来であれば秀康が継ぐはずであったが、生母の身分の違いから、西郷局の子で三男の徳川秀忠が二代将軍となった徳川でもなく、松平でもなく、なぜ結城を名乗る事となったのか、ウィキペディアによれば>天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男>として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は>三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の>娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称>おこちゃ、小督局)幼名を於義伊(於義丸/>義伊丸/義伊松)と名づけられた秀康は、父・>家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。>その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に>思った兄・信康による取りなしで実現したもの>であったという。天正12年(1584年)の小牧・>長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の>条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は>人質)として差し出され、家康の後継者は異母>弟の長松(後の徳川秀忠)とされた>母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹>前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと>考えられる。羽柴秀吉の養子として「羽柴三河>守秀康」と名乗る。秀吉に実子の鶴松が誕生>すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の>後継者として指名。そのため他の養子同様に>再び他家に出される>秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる>加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子と>することを考えついた。結城氏は下野国の守護に>任命されたこともある名家であった。秀康は関東に>下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻>して結城氏の家督および結城領11万1,000石を>継いだ>関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万>1,000石から越前北庄68万石に加増移封>された。慶長9年(1604年)には松平氏に>復することも赦されているとする史料も>存在する僅か34歳で、梅毒で亡くなったそうである梅毒の日本での最初の記録は、1512年の記録で、南蛮からもたらされたそうであるが加藤清正、浅野幸長、前田利長、黒田官兵衛といった名高い戦国武将も梅毒で亡くなったという説もある。キリスト教や鉄砲以外にもそんな迷惑な南蛮渡来もあったなんてさてさて本丸御殿と、天守は内堀の中にあるが何代目かの藩主から、西三の丸に屋敷を構えてそこで暮らしながら、政務は本丸御殿の政庁で行う為に通うようになった藩主がその移動の際には、雨のなどで濡れないよう、橋にも屋根がつけられて、本丸と西三の丸御座所を結ぶ「御廊下橋」が、往時の姿に復元をされていた、は2008年3月に完成橋の長さ14.5メートル。幅3.6 メートル総工費は約1億5900万円だそうだそれに続く「山里口御門」も、復元整備を開始し2017年10月末、櫓(やぐら)門、棟(むな)門の建物と白壁の土塀が完成をした完成をした櫓門は、木造2階建ても切り妻造りで笏谷石(しゃくだにいし)による瓦葺きである2階部分の櫓の外壁は漆喰塗りで、梁(はり)はマツ、床、壁板、柱にヒノキを使用しているそれにしても何だかんだいっても、徳川家康の次男の城だけあって、その辺の大名のものとは違った、凝った造りで目を見張るものがあるウィキペディアによれば、その天守は>本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣を>ついて望楼型4重5階の天守が建てられた。>高さは、天守台も含めて約37メートルにも>及んだ。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上>重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風が>あり、元和大坂城天守に見られるような配置に>破風が並べられていた>寛文9年(1669年)に焼失した後は、同じように>類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し>天守の代用としている。古写真では、複合式>望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあること>から、3重5階の櫓であったと見られている>福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)>6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に>北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震>ともいう。震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市>丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃し>都市直下型地震。規模はM7.1(Mw 7.0)>大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・>淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)>などと並ぶ日本の災害史上最悪クラスの震災となった>2015年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ>戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時>あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および>現在の坂井市、あわら市に集中しており、その被害率は>日本の近代史上でも類をみない。>福井市中心部は昭和20年の福井空襲で壊滅してから>数年後、復興途上でバラック建築が多く、不安定な>構造だったためにかなりの建物が倒壊している。福井市内の死者930名、負傷者は10,000名。建物は全壊12,425棟、半壊4,418棟、焼失1,859棟といった有様であった。福井地震で崩れた石垣がそのままに残されていたもともと福井にあったお城は、戦国ドラマでもとても有名な北ノ庄城であった。しかし福井藩第三代藩主の松平忠昌が、北は敗北に通じるとして嫌って、縁起の良いよう「福の居る場所」という意味で「福居城」としたのが、後に今の「福井城」と改められたそうだ福井城の天守台には、北ノ庄城(後の福井城)築城当時からあったという「福の井」があり、こちらが福井の語源では?なんて説もあるそうだ。そこで汲まれた水を使ったお茶を振舞って貰えた福井県は、フクイサウルスをはじめとして恐竜の化石が多数発掘をされたことから「恐竜王国」と呼ばれおり、恐竜をモチーフにしたマスコットがいろいるようで、この子は昨年の福井で開催をされた「福井しあわせ元気国体」のマスコットの「はぴりゅう」ステゴザウルスをモチーフに、やる気を表現するために赤いツノを付けた架空の恐竜で、国体のキャラクターなので、ジャージを着ているそうで福井工業大学の学生さんのデザインが、公募で採用されたようだ恐竜王国だけに、福井の駅前にも巨大な首長竜がお出迎え。という訳でいよいよ北陸の7つの城も最後の訪問先へとバスは向かった 平成31年4月6日に越前福井城で撮影にほんブログ村
2019年06月13日
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