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タウシュベツ橋梁はJRのポスターにもなったので、ご存知の方も多いと思います。旧国鉄士幌線の糠平駅と幌加駅間に掛けられたコンクリート造りのアーチ橋ですが、1937年に建設されてから1955年に糠平ダムが完成すると士幌線が人造の糠平湖を大きく迂回する形で路線変更になったため、結局18年間しか使われませんでした。私が1972年に初めてクルマで訪れた時は軽トラックが廃線になったこの橋梁の上を往来し、釣り人が橋に座って釣りをしていました。冬季は糠平湖の水位上昇で水没するとは聞いていましたが、殆ど注目されることのない単なる廃線跡という感じでした。その後、2017年から毎年訪れていますが、元々コンクリートの外皮の中に石を詰め込んだような簡便な構造であったうえに水没時の凍結の繰り返しで劣化が激しく、恐らく数年のうちにアーチの一部が完全に崩落して連なった姿は観れなくなると思います。地元の方々も保存のための補強計画を検討したことがありますが、数億円の工費が掛かるため、このまま放置して崩れ行く成り行きに任せるようです。雄大な景色の中に取り残されたようなアーチ橋の姿はまるで古代遺跡を思わせるだけに誠に寂しい限りです。写真を経年順に掲載しますので、崩落が進む状況を見ていただくとともに、時期や水量で橋の姿が変幻万化するのをじっくりご覧下さい。なお、現在立ち入りが制限されており、近くで観る場合は糠平温泉郷に朝6時ころに集合の2時間ほどのツアーに参加されるのがお薦めです。2017年7月まだツアーの存在を知らなかったので、対岸の展望台から遠景を観るだけでした。2018年8月初めてツアーに参加し、施錠されたゲートを通って、旧士幌線跡を通りながら橋梁に行きました。30年ぶりに変わり果てた姿を近くで見て、軽トラが走っていた昔を俄かに思い出せませんでした。この時もアーチの一部が崩れていますが、まだアーチ橋の柱の下に崩れたコンクリートや石が堆積しているところまで至っていませんでした。2019年8月 練平湖の水位が余り下がっておらず、アーチ橋が綺麗に水面に映っています。宮崎駿のアニメ作品に出て来そうな何とも幻想的な眺めです。橋の向こうから仙人が歩いてきてもおかしくありません。崩落部分も前年から殆ど変化がないようでした。それにしても古代の遺跡にしか見えません。橋の上面はどんどん浸食が進み、詰石が減って鉄筋がむき出しになりつつありました。2020年8月この年は春先まで糠平湖の水位が高かったのか、流木が旧士幌線跡の奥まで押し寄せていました。この年から橋梁に近づき過ぎないよう、ロープが全周囲に張られるようになりました。橋桁部分にクラックが入っています。橋の上端の鉄筋もかなり露出して見えるようになりました。崩落が進み、橋梁の柱の下に残骸が堆積しているのが観られるようになりました。腐った鉄筋が橋から柳にように垂れているのがはっきり分かります。近くで観ると、コンクリートの外側だけが残っているかのように見え始めました。2020年10月2020年の2か月後に再訪するとすっかり紅葉して寒いくらいでした。ここはツアーの集合場所がある糠平公園ですが、昔ここに下の写真のような大雪グランドホテルという大きなホテルがあり、2003年に倒産後も惨めな姿を13年間晒していたようですが結局公費で解体、整備され、現在に至っています。この旧士幌線跡に沿って林を抜けると橋梁が現れます。夏の姿とは全く異なる風情です。夏の農業用水需要が終わって、糠平ダムが貯水時期に入ります。こんな手すりのような鉄筋はなかったのになあと年々進む露出に驚かされました。2021年9月この年は数位が高く、ツアーには参加せずに対岸の展望台から遠景を観るに留めました。崩落が冬に進まないことを祈りながら・・・。2022年9月訪れたのが例年より遅く9月下旬でしたので、秋というか冬の足音を感じる気配がありました。寂寥感が胸に迫ってきます。2023年8月この綺麗なアーチの影がなくなると思うと切ないです。橋梁の上流側に広がる雄大な自然です。このような風景は北海道しか味わえません。何度も訪れる理由です。岸辺と接続する橋梁部分が崩落してなくなっていて驚きました。下に崩落破片が堆積しているのが見えます。もはやよじ登って渡るのも困難になってきています。もちろん、立ち入り禁止ですが。このように毎年確実に劣化が進んでいます。訪れるたびに私は古代遺跡の中に一人取り残されたような錯覚に陥ります。このまま崩れるのがいいのか、それが自然の輪廻かも知れませんが。
2024.04.15
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ハワイ Hawaii・・、何とも甘味でロマンチックな響きがある反面、今さらハワイかよと思われる方もいらっしゃると思います。実は私も一時そう感じていました。JALPAKでの家族旅行2回、学生時代のアメリカ横断旅行、新婚旅行、ビジネスマンとしての語学留学やアメリカ出張など、10回以上訪れ、これを最後にとコロナ前に初めてお正月を過ごしました。「常夏のハワイ」などと昔のイメージが消えず、暖かいかと思っていたら非常に寒く、震えながらディナーショーを観ていました。ヒルトンやJALのサービスの悪さも重なって、後味の悪い旅行でした。71歳ですので海外旅行とは言ってもあと何回も10日間くらい足を延ばすような機会は限られます。女房と相談し、「最後のハワイ」として今度は真夏にセレブのように豪華に過ごそうということになりました。もちろん、本当のセレブの方々は20億円オーバーのプライベートジェットに乗って、カハラやダイヤモンドヘッドの別荘で・・ということになるんでしょうが。それでも旅行に際して、ハワイの話をするとDEEP HAWAIIに精通した方々が思いのほか、沢山いらっしゃって色々教えていただき、現地での出会い!も含め、本当に感謝しています。結局昨年8月に夢が実現できましたが、円安もあって二人で400万円近く使いました。さすがに遊んだという完全燃焼の気分になりました。Lulu likerの皆さんには豪華旅行の次はコンドミニアムとABCマートなどで日常のハワイを満喫することをお薦めいただいているので、ヨーロッパ旅行はイタリアくらいにしておき、代わりにハワイにもう一度行きたいと考えています。お薦め情報がございましたら、コメント欄でご教示いただけると嬉しいです。どうかよろしくお願いいたします。なお、こんな形でブログをするとは思っていなかったので、写真が僅かしかありませんが、どうぞハワイの風と香りを浴びてください。Mahalo!ルルライカ―の方に強くお薦めいただいた通り、ホテルはやっぱり、ロイヤルハワイアンとハレクアニで決まりです。円安とハイシーズン、ダイヤモンドヘッド・オーシャンビューとは言え、素泊まりで1泊20万円はさすがです。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。ロイヤルハワイアンのマイタイバーです。この落ち着いた何とも言えない雰囲気。戸外の風景とのコントラストが最高です。ルルライカ―の方に教えていただいたロイヤルハワイアンのマイタイバーはハレクアニのハウス・ウィズアウトキーより緩やかな時間の流れを感じさせる雰囲気で癒されます。その方のお薦めはコナビールのロングボートです。確かにハワイの味を感じます。コナコーヒーと同じですね。ここは残念ながら自宅のベランダ。マイタイバーと思って全部飲んでしまいました。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。こちらは先述のハウス・ウィズアウトキー。ハレクアニですから、けっして悪いはずがありません。ハレクアニのロビー。華美でないのが素敵。ハワイでフランス料理のフルコースか?と日本からムール・レストランを予約する時に少し迷いましたが、一晩くらいあってもいいのが分かりました。素晴らしい。濃縮した、いい時間でした。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。このフラは本当にうまかった。波間に漂っているような・・・。日本でもフラの愛好家が老いのも頷けます。定番ですみません。甘いもの好きなので、エッグスン・シングスは外せないかと。ベテランガイドさんのサービス精神には仰天しましたが、横で見ているだけでもハラハラしました。ナベサダのレコードジャケットにもなりました。風と波の音だけ。何日もたたずんでいたい。別に観光地ではなく、普通の臨海公園です。葛西や須磨のような・・・。大違い(笑)昔「私は貝になりたい」という映画がありましたが、「私はカメになりたい」。ビショップ博物館へは往復シティバスを利用しましたが、ダウンタウンや市民の皆さんと会話できて「普段のハワイ」をちょぴり感じ取れました。残っている宝物の少なさが何となくハワイ王朝のもの悲しい歴史を感じさせます。外に出た時の太陽の明るさとのギャップが何とも言えないです。ギャングのTボーン、ニューヨークのピータールーガーを思い出しました。A5和牛もいいですが、牛にかぶりついているような香ばしさが異次元の魅力です。チーフズ・ルアウのショーとハレクアニのフラディナーは高くてもそれだけの価値はあります。20-30年前はヒルトンでも素晴らしいディナーショーが観れたのですが、今は見る影もない。見慣れたポリネシアンセンターのショーとは格が違いました。動画を掲載できないのが残念ですが、高いだけにこのタヒチアンショーやファイアダンスも圧巻でした。ここまで来れば、色々言わずにやはり最上のシートを予約したいですね。次回はハワイ通の方に教えていただいたノースショアのタートルベイリゾートのオーシャンバンガローで過ごしてみたいです。「日常のハワイ」と言いながら、真逆の世界かも知れません(笑)Mahalo!
2024.04.03
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北海道の苫前(とままえ)の三毛別(さんけべつ)六線沢で大正4年(1915年)に起こった史上最悪の羆(ヒグマ)による7人の惨殺事件をご存知の方は多いかも知れません。苫前郷土資料館に事件の展示があるほか、「復元現地」も現在の苫前町三渓に整備され、次第に観光地化されてきたので訪れた方もあるでしょう。ただ、最近では綿密な資料や現地調査もせずに、安易に他のネット記事を無断転用したような記事や表面的な観光地訪問記も増えていますので、私なりに突き止めた真相をまとめてみたいと思います。事件は大正4年12月9日、北海道天塩(てしお)山地の苫前村六線沢で34歳の太田(内縁 阿部)マユという開拓民の女性と6歳の男子(養子予定)が小屋でヒグマに襲われたことから始まりました。女性は惨殺されて山林まで引き去られ、熊の習性から獲物として一旦雪中に埋められたうえ、最後には頭蓋骨と手足を残して「完膚なまでに」食殺されたと当時の新聞は報じています。襲撃したヒグマはさらに翌日夜に何と二人の通夜の席上に乱入し、集まっていた6人を襲いました。そして続けて300mほど離れた隣家に集団で避難中の男性1人と女性、子供の計10人を襲ったのです。この現場には斎藤タケという妊婦の女性も居て、隠れていた俵の影からヒグマに引きずり出されて「腹破れんでくれ」「のど喰ってくれ」と胎児の命乞いをしたのですが、上半身を食殺され、胎児は体外に出されていたそうです。警察や軍隊など200名余りの討伐隊が結成されましたが、何度か追い詰めたにも関わらず、ヒグマを手負いにしながら撃ちそこなってしまい、結局は事件6日目の12月14日に一人で熊撃ちをしていた山本兵吉というマタギが漸く至近距離から撃ち殺しました。この巨大羆は11月から六線沢に出没して入植小屋にあった干しトウモロコシを獲ったり、事件の数日前には旭川や天塩で女性3人を食殺した同一個体ではないかと言われています。事件は添付写真解説のように映画化されたほか、ドキュメンタリー小説や漫画でも描かれました。しかし、実際の事件現場が現在のどこなのか、現状はどうなっているのかはよく分かりません。この疑問がずっと頭に残っていて、何度も現地調査を繰り返すうち、漸くその全容を解明することができました。添付写真の最後に一応地図を添付しましたが、現在の復元現地に至る道道1049号線と地図に示した当時の農道は大きく異なっており、三毛別川も改修が行われて蛇行が少なくなっています。復元現地周辺は現在も居住者無人地帯で道路も砂利道であり、写真の国有林林道は立入り禁止です。実際の事件現場を探すには1049号線から外れて草木、クマザサの中を踏み進む必要があり、全て自己責任にてお願いいたします。熊の被害に遭われても一切責任は負いかねますので、悪しからずご了承下さい。これらの著作は旭川営林局技官の木村盛武氏が昭和39年(1964年)に執筆された「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」や事件関係者本人などへの取材をベースに書かれていて、いずれも真摯な力作です。木村様の著書は初版が1994年、吉村様の著書は1982年で、いずれも重版を重ねています。漫画も1998年初版と古く、漫画は漫画でリアル感があって、一読の価値があります。留萌からサロベツ原野に向けて北上する国道239号線沿いに苫前町庁舎があり、その前にヒグマの看板が立っています。苫前町庁舎の国道を隔てた反対側に東へ入っていくと苫前郷土資料館があります。ご高齢の親切なオバサンが案内におられましたが、最後にお会いしたのが2019年で現在もいらっしゃるかは分かりません。三毛別羆事件の発生経過など、基本情報を収集できます。惨劇が繰り広げられた入植者の小屋を再現する展示があります。成人男性と男の子がいるので、12月10日に明景家を襲ったシーンと思われます。何度か訪問していると、入場者からの指摘で照明が暗くされたことに気づきました。現在の苫前町は海岸沿いにありますが、本州からの入植者による苫前地区の開拓は海岸線から三毛別川を辿って山間部の原野を南東に進む形で進められました。昭和26年の入植農家の風景ですが、事件のあった大正4年ころと比べると小屋も一部板壁になって、徐々に住環境は改善されているように見えます。本州からの集団入植は明治43年頃から始まりましたが、収穫量にも格差が出始めていて、写真の農家は広い窓が付いた板壁のしっかりした作りで比較的成功者のように見えます。いずれにせよ、事件が起こった三毛別六線沢地区の15軒の入植農家は事件翌年春には1軒を除いて全家離村し、昭和21年に大阪から入植した6軒の入植者も昭和45年を最後に全員離農し、現在は無人地帯になっています。三毛別羆事件で射殺された羆の写真は残されていませんが、当時の新聞には体長2.7m、体重380kgとあります。三渓地区ではその後も大きなヒグマが射殺されており、こちらは昭和32年の実際の写真です。昭和55年(1980年)に三国連太郎の主演により「熊嵐(クマアラシ)」という題名でTV映画化されており、そのビデオは郷土歴史館で観ることができます。1時間前後だったと思います。また、1990年にはこの事件をオマージュにして、家族を羆に殺された娘がマタギになって復讐するという別のストーリで真田広之主演の「リメインズ 美しき勇者たち」という映画が制作されています。復元現場は苫前町から道道1049号線を通って小一時間かかり、かなり山の奥地になります。三毛別三渓地区を過ぎて三毛別六線沢地区に入り、終点に復元現地があります。その先は国有林林道になっており、立ち入り禁止です。道道1049号線は「ベアロード」と名付けられ、何とも場違いな可愛いいクマのキャラクターの書かれた看板があります。しかし、三渓地区に入ると途中には三毛別事件で羆が最終的に射殺された現場があり、「射止橋(ウチドメバシ)」という地名が忘れていた不気味さを思い起こさせます。射止橋は元々、木橋で三毛別川のもっと下流側(右側)の旧農道にあったそうで、現在のコンクリート橋は三代目です。実際のヒグマの射殺現場は右前方に山際が見える山林の中腹標高150m当たりの滝の沢というところです。以前は歩道が多少整備されて木製の記念碑も建てられていたそうですが、現在はクマザサが一面に茂っており、危険なので探索は断念しました。さらに道道1049号線が砂利道に変わる復元現場の手前あたりに、三渓神社があって慰霊碑が建立されています。道を挟んだ向かい側の少し戻ったところに三渓小学校(現在、廃校。当時の三毛別分教場)があり、事件後、六線沢の農民は全員避難していました。事件による死亡者がこの慰霊碑では斉藤タケが身ごもっていた胎児を含め7名になっていますが、頭部を噛まれて重傷を負い、2年8か月後に後遺症で亡くなった明景梅吉は含まれていません。ネット記事などで死亡者が6名ー8名とばらつきがあるのはこのためです。また、12月9日に太田家の小屋で食殺された内縁の妻、阿部マユは太田姓になって死後入籍したようです。一緒に死亡した養子予定だった蓮見幹雄は太田姓にはなっていません。観光客向けに国有林を切り開いて整備された三毛別羆事件の「復元現場」ですが、実際の惨殺現場ではありません。事件に巻き込まれた開拓農家15軒があった三毛別六線沢地区は復元現場の奥にも広がっています。当時の新聞報道が正しければ、身長183cm、体重94kgの私より、身長で1.5倍、体重で4倍になるので、復元現場のヒグマ像は実際より大きすぎると思われます。ただ、襲い掛かるのを見れば、これくらいの凄まじい恐怖を巻き起こす印象だったでしょう。羆が襲ったのは、開拓小屋の外に干されていたトウモロコシを狙ったのがきっかけと言われています。復元現場に建てられた入植小屋の内部。壁はワラを巻いただけでヒグマはカンタンに侵入できます。中で焚火を焚いていたとはいえ、このような簡素な小屋で激寒の冬を過ごしたとは信じられません。ヒグマは火を全く恐れなかったようです。復現現場を越えてさらに奥に進みます。ここからの国有林林道は立ち入り禁止です。もし、進む場合はあくまで自己責任になります。この先に斉藤石五郎家、金子富蔵家の小屋跡があります。ヒグマの足跡です。クマザサやハスが倒されているところは熊が食べた跡なので、見た場合は引き返した方がいいと思います。12月9日に2人が食殺された太田三郎家跡です。三毛別川の支流である御料川のほとりにあります。12月10日に5人が惨殺された明景安太郎家の跡です。右下に三毛別川が流れています。水がいかに大切だったかは小屋の立地で分かります。私が探索時に使っている刃渡り30cmのナタと熊鈴です。ナタは常時手に持って、熊に対する防御だけでなく、クマザサやハスを切り裂きながら歩く時に非常に役立ちます。切り株などでケガをしないよう、手袋と底の厚い靴も必要です。熊スプレーは5m以内に近づいて噴射しないと効果がありませんが、安全バンドやピンを外す余裕や噴射時間が約7秒前後であること、風上に立って噴射しないと万一自分が噴射を被ると目が開けていられなくなることなども考えておく必要があり、私はいざという時に使えそうにないので、所持しておりません。この地図は当時の農道と三毛別川です。事件のあった翌年春には図の上のほうにある辻橋蔵家を除き、開拓農家は全員離村しました。その後、昭和21年になって大阪から難波開拓団の6軒が入植しましたが、昭和45年には全て離農しました。現在、この三毛別六線沢地区は居住者無人地域になっており、一部ある畑は三毛別三渓地区からの通い作です。現在の道道1049号線は昭和38年に国有林開発計画に基づく縦貫道路として、農道よりさらに右側(東側)を通るルートで整備されており、三毛別川も当時のようには蛇行しておらず、現在はかなり改修されています。むやみな立入りを控えていただくために、上記地図には敢えて現在の道道1049号線と三毛別川は書いておりません。現場探索は完全な自己責任でお願いします。
2024.03.11
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北海道の大自然により深く触れるだけでなく、地元で力強く生き抜いていらっしゃる方々と会話する機会にもなるので、JRのトロッコ列車や廃線跡などを活用したトロッコに乗って楽しまれることをお薦めします。さあ、出発進行!まずはJRのトロッコ列車から・・運行日や本数が限られているので出発駅に戻ってくるプランをお考えになる時は、観光案内所か切符売り場で戻りの予定時刻までにどこまで行って帰って来れるか、教えてもらうようにしましょう。■釧路湿原ノロッコ列車釧路湿原の中を走行し、ガイド案内もあります。途中で鹿や天然記念物のオジロワシを見かけることもあり、風雨でカヌーが運行できない代わりに楽しむ手段としても利用できます。釧路駅から塘路駅までを折り返し運転しています。塘路駅から釧路駅の帰路は最後尾の客車に運転席が付いていて、後押しする機関車を制御できるようになっています。■富良野ノロッコトレイン富良野と美瑛を結ぶ季節列車で、ハーブ園に臨時停車するようになっています。車内が開放的なだけでなく、ローカル線特有の大きな揺れがトロッコ気分を高揚させてくれます。■トロッコ王国美深廃線となった旧美幸線の一部を活用して復活させたエンジントロッコ路線で年間1万人以上の乗客があり、国土交通大臣賞まで受賞した地域振興のモデルとも言えます。今まで4回行きましたが、旧美幸線をそのまま走っているような錯覚に浸れます。詳しくはこちらをご覧下さい。https://www.torokkobihuka.com/宗谷本線の美深駅から終点の仁宇布駅までの旧美幸線の一部を使って地元の方々で運営されています。立派な堂々とした車庫や受付事務所も全て新たに建てられたものです。トロッコはエンジン駆動で運転免許が必要ですが、操作は至ってカンタン。ペダル式のブレーキにバイク同様のスロットルを回すと速度を調整できます。行き届いた車庫内のトロッコ保管整備スペース。旧美深線の枕木なども定期的に保守されており、カーブ、鉄橋、踏切ありの本格派です。本線は単線なので、折り返し地点がループになっていて、スタッフが待機。定時で4-5台ずつまとめて出発するトロッコが往路から全車到着するのを待ってポイント操作で復路に進みます。すべてが本格的なんです。脱帽!廃止された美深線は日本一の国鉄赤字路線として有名でした。しかし、上記新聞記事のように町長が先頭に立った廃止反対運動が根強く、廃線後も地域の活性化に繋げようという地元の強い意志が現在のトロッコ王国を生んでいます。元々、美幸線(びこう)と命名されたように現在の終点仁宇布駅からオホーツク海に面した北見枝幸駅まで延伸される予定で、道床や橋梁の工事も一部着工されていました。写真の道床もその名残です。最新のHPを拝見すると、今は仮設テントではなく、別棟の食堂も建てられたようです。お薦めの美味しい豚丼。訪れるたびに食べています。■三笠トロッコ鉄道廃線となった幌内線の一部を利用してクロフォード鉄道記念公園と三笠鉄道記念館を結ぶ路線3.8kmで運営されています。展望トロッコと運転体験トロッコの2種類があり、豊富な車両を揃えてかなり本気で組織だった法人運営がなされています。頑張れ!詳しくはこちらをご覧下さい。https://www.mt-railway.jp/沿線の景観の素晴らしさは爽快感に満ちて、トロッコ王国美深とまさに双璧です。三笠鉄道記念館に直接接続していますので、記念館の屋外展示車両の横を通り、鉄道マニアにはたまらない独特の雰囲気が味わえます。三笠クロフォード鉄道記念公園(旧幌内太駅)で、園内に三笠トロッコ鉄道の乗車受付コーナーや鉄道グッズショップがあります。■丸瀬布自然公園いこいの森オホーツク海にほど近い遠軽町にある森林公園で、園内には北海道遺産の旧森林鉄道の蒸気機関車「雨宮21号」が走り、キャンプ場も整備されているので、鉄道ファンだけでなく家族で楽しめます。https://engaru.jp/tourism/page.php?id=431雨宮21号はこの中にいますが、日曜運行のため対面はかないませんでした。■ひがし大雪高原鉄道旧士幌線の糠平駅周辺の路盤に新たに線路を敷設して足漕ぎトロッコを運営されていて、地元の方々も支援されていましたが、現在、残念ながら休業しているようです。何とか復活させてほしいものです。詳しくはこちらをご覧下さい。https://kamishihoro.info/sg_detail.php?id=56線路はすべて敷設しなおしたもので、カーブも短い直線(緩曲線)を繋いでありご苦労が偲ばれます。糠平駅跡には上士幌町鉄道資料館があり、旧士幌線の資料、写真、美品が数多く展示されていて、当時を偲ぶことができます。急坂路線だったため、登りの難所に加え、貨車の下り暴走事故もあったようです。■森のトロッコ エコレール札幌市の個人の方が地元に住み込みながら旧士幌線の廃線跡に心血を注いで復活させた本格的な木製軌道です。木のぬくもりのある足漕ぎトロッコと鉄張りレールが大きな特徴です。上士幌町から廃線跡地の貸与を受けて敷設されたコースは約500mで、整備保守も行き届いており、転車台操作と運転体験を通じて旧士幌線を彷彿させる鉄道の旅を手軽に楽しめます。ハイシーズンには奥様も運営を援助され、最近ではトイレの設置や延伸計画も精力的に進めておられます。詳しくはこちらをご覧下さい。https://kamishihoro.info/sg_detail.php?id=9場所は大雪山道路の三ノ沢駐車場横にあって、予約なしで利用可能です。駐車場に停められたワゴンの屋根看板が目印です。ぜひ、気軽に立ち寄ってみて下さい。■狩勝(かりかち)高原エコトロッコ鉄道旧狩勝線の新内駅構内で800mのレールがみごとに敷設され、電車、機関車を模して綺麗に製作された軌道自転車(エコトロッコ)でポイントや転車台、信号、踏切のある本格的な運転体験が楽しめます。鉄道マニアの方が奥様とともに新得町に移住して健気に運営保守されています。詳しくはこちらをご覧下さい。http://ecotorocco.jp/横にはNPO法人の旧狩勝線を楽しむ会が維持している蒸気機関車9600とブルートレインの客車が保存されている。以前は宿泊もできたようですが、現在は期間限定でイベントを開催しています。https://www.karikachi.org/オーナーがエンジニアだけに信号機も電子制御の本格派。実車の雰囲気をうまく取り込んだ素晴らしい仕上がりのトロッコです。かなり凝った転車台。キハ82系のほか、EF65のトロッコもあり、保存されたブルートレイン客車ともよくマッチ。これら足漕ぎトロッコ群のほかに電動のナロータイプ電車も製作されていて、以前元気に活躍していましたが車輪故障のため現在修理中です。再会の機会をお楽しみに。隣接して。周辺の乗馬をゆっくり楽しめるカフェもあります。ジャックさんというヤンジーが経営されていて、自家製のプリンも美味しいです。色んなサイトで紹介されています。https://www.tokachi-brand.jp/shop/tougenoterrace/https://twitter.com/wvsjack0212写真や資料を整理し、関係者の方々に教えていただきながら、今後追加更新していきますので、お楽しみに。
2024.03.06
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晴れの写真ばかりで投稿すると勘違いする方が増えるので、雨の北海道、今にも泣きだしそうな北海道の写真も入れておきます。「遠路はるばる来たのになんだ、この天気は・・」と怒らずに、これも北海道と楽しみましょう。大自然は人間を接待しているわけではないので、私たちがお邪魔している感覚で接したいものです。まず、晴れてほしいNo1スポットから・・・ここはバイカーの聖地。上から3枚目の日には、一人旅のバイカーが居て、寝袋を出しながら「明日晴れるのを待って出発します」と健気な一言。次に岬も基本的に風が強く天気が悪いことが多いです。積丹ブルーに出会えたら、感謝。しかし、喜ぶのはまだ早い。岬までは環境保護で時期によって立ち入り制限があり、岬まで行ければ大感謝。納沙布岬、ここもバイカーには人気のスポット。根室からも風蓮湖からも結構の距離があるので、やっとたどり着いてこの天気ではさすがに気の毒。ラーメン屋の気のいいオバサンと話すと元気が出ますよ。襟裳岬。森進一さんの仰る通り、風が強くて何もないのは確かですが、3回行って3回とも晴れでした。釧路港。霧の街で有名なので、晴天への期待値は元々低いと思いますが、市内も含めガスに見え隠れする景色がまた味わい深いと感じる街でもあります。と言って、負け惜しみ・・・港町ブルース、最後の締めくくり。は・・・稚内港。なぜか、最果て感があまりしない街。そう言えば、5回行って、一度も雨なし。釧路の「霧」と言えば、布施明さんの・・・駐車場のオジサンには要注意!「摩周湖、見えてるんですか?」→「は~い」クルマを停めて展望台に上がって行ったら、1枚目の写真の有様。「さっき、見えてるって言ったじゃないの。全然見えなかった」→「少し前まで見えてたのになぁ」次に見晴らしの良さで有名な・・次は山に・・・大雪山に6回行って、一番天気が悪かったのは4枚の写真のうち、1枚目の曇り空。なぜか雨に降られたことはありません。ただ、大自然は恐るべし。10月中旬でも冬の訪れが早く、正直怖ったです。夏タイヤだったこともあり早々と退散。また、写真を整理して追加します。雨空での写真はあまり撮らないので探すのが大変(笑)。
2024.03.06
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北海道を最近10年間で7回行って走り回った末に心に残っている痛快ロードです。定番あり、穴場あり、探すのも楽しみですから、所在地は詳しく書きません。いつも天気がいいわけじゃない。土砂降りで何も見えなくても大自然に感謝。まず最初は、定番中の定番 サロベツ原野。冬は日本海からの強風で雪が横殴りに降る絶景地。防雪トンネルで納得。牧草ロールが存分に見れる。一巻き300kg、近くで見る価値あり。これまた定番 美瑛ジェットコースター道路 外せない。道が直線だけに地球の起伏を体感する。観光客が多いので、9時前か15時以降に走りたい。これまた定番 斜里町「天に続く道」 外せない。登りより下りがインパクトあり。斜里町はスピード違反取締りのメッカ。バイクで1日に2回捕まったことがある。ご注意!定番続きですが、これも外せない 標津ミルキーロード 「しべつ」と読める人は北海道ライカ―!大雪山道路 季節と天気の違いで風景が激変し、何度走っても飽きない。地元高校生が自転車で登っていたのにはただびっくり。三国峠カフェの武田様ご夫婦、三股山荘の田中様ご一家、上士幌エコレールの野口様によろしく。宗谷丘陵 道に迷いやすいが、穴場多し。エゾ鹿の群れと並走したこともある。鹿は縄張り意識が強いので、入ってくるエイリアンを排除しようとする。遠別開拓農道 進入路が分かりにくく、時間を掛けられるリピーター向き。彼方に利尻富士が見える。開陽台周辺広域農道 目標物が全くないので、ナビでもいい道、いい撮影スポットを探すのが大変。リピーター向き、普通の方はまず、開陽台に晴れ間到着が目標。サロマ湖原生花園進入路 南湖岸の展望台に上って浮かれてしまい、見落としがちな絶景短路ビジターセンターから直進でカムイワッカの滝へ。遊覧船で見上げるのもいいが、滝を上から見下ろすのもいい。キタキツネ、エゾ鹿と頻繁に出会える地道で自然と触れ合える知床の常連向きコースだが、通行制限が厳しく期間・時間帯限定なので注意。知床道路 峠は霧の名所、羅臼岳がこれだけ綺麗に見えたのは6回行って2回だけ。太平洋シーサードライン ガス欠に注意。北海道ではメーター半分で給油が鉄則。襟裳岬まで一気に飽きるまで走る。猿払村エスサカ線 進入路分かりにくいが価値あり。寝転がって空を見るのがお薦め。生きててよかった!宗谷村「白い道」ホタテの貝殻を敷き詰めた農道。長い道や貝殻を撒いたすぐの「真っ白い道」はなかなか探しにくい。十勝平野の農道 自分でも二度と行けない。半日のんびり走り回ろう。以下、北海道で会った「仲間たち」、向こうは迷惑がってますが・・・・。絶対、エサをやらないでネ。彼らだって、腹ペコ、必死で生きてます!
2024.02.26
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北海道の開拓に関わった多くの人々の足跡をたどる旅。センチメンタルジャニー・・・切なく悲しい思いもありますが、元の大自然に戻ろうとしている大きな摂理も感じます。1.万字炭鉱を支えた国鉄万字線旧国鉄万字線の終点 万字炭山駅です。駅前からガードレールの横を炭鉱住宅方面に歩いていた学校帰りの女学生。今、どこで何をしているだろうか。木も生い茂り、山の稜線が分かりにくいので、同じ道かと疑ってしまうことが何度かあった。この場所も木が生い茂って山の稜線が水平部分しか見えないので探しにくかった。廃線最終列車が到着してから40年近く経った。採掘した石炭を貯めておき、貨車に積み込む貯炭施設(ホッパー)。今では土砂に埋まりつつあるが、ここに線路が敷かれていて万字線の本当の終点であった。終点の手前に炭山駅が設けられ、人間をついでに運んでいたとも言える。万字炭山駅の近く、道道の右側には万字小学校があった。当時は奥に炭住が並んでいたが、廃坑後に道が途中から右カーブに付け替えられており、左手前の労働組合事務所の空き地でやっと当時写真と同一場所であることが分かった。探すのに30分かかった。万字小学校の昭和19年卒業生が廃校後に集まって校歌を歌った様子が目に浮かぶ。初めて見た時、涙なしには読めなかった。この校舎も今は無い。万字小学校の近くには今も炭住が残っている。住んでいるお年寄りに聞くと、「ここからは離れない」と遠くを見る視線で返答された。裏手の山との位置関係から、恐らく上の現存写真と同じ炭住と思われる。現在駐車場になっているところにも炭住があと2棟並んでいた。万字炭山駅のひとつ手前に万字駅があった。現在駅舎は簡易郵便局になっている。駅舎を通って裏から階段を降りるとホームになっていた。階段には防雪屋根が付いていたが、今はない。この状態でも地元の方が草刈をなさったようで、前年に訪れた時は草が生い茂り、とても踏み込めなかった。万字駅のホーム跡。立ち木も成長して、自然に戻ろうとしている。前年訪れた時はハスの葉と雑草に隠れて分からなかった。前年訪れた時の状態。万字駅構内で左側がホーム、駅舎になり、本線、引込み線も入れて4本の線路が敷かれていた。立ち木が徐々に迫ってきて、開拓前の自然に戻ろうとしている。前年訪れた時の写真は、この昔の写真のちょうど機関車の位置に立って、右側方向を見た感じ。駅舎からの階段もはっきり見える。万字駅と終点の万字炭山駅を結ぶ旧道沿いに沢山の商店が並んで万字銀座と呼ばれていた。当時の写真は見当たらないが、余りの変わりように想像のしようがない。現状だけお伝えする。万字銀座沿いには金融機関もあったようだ。この道をさらにまっすぐ東に進むと、本来万字炭山駅の前(先出の写真参照)に出るが、土砂崩れで通行止めになっていた。2.シューパロ湖の湖底に消えた大夕張炭鉱 鹿島地区稀な渇水期で姿を現した旧国道452号線。国道の先が湖底に沈んでいる。曲がった速度制限標識がわずかに人の気配を感じさせる。こみ上げてくる圧倒的な寂寥感。30分ほど立ち尽くしていた。一番高くて向こうにあるのが、現国道452線。そこからは渇水期でなければ、湖面しか見えない。2番目の錆びた鉄橋が旧大夕張鉄道路線。私が立っている一番手前の地点「あかしばし」が旧国道452線。次の写真のように大夕張鉄道線と旧国道452号線は通常期には水没している。通常期の現国道452線からの眺め。2枚前の写真にあるトラス橋上部が顔を出している程度で、他の人工物は多くの人々の思い出ととともにシューパロ湖に水没している。同じ現国道452号線からの眺めであるが、満水時は全てが飲み込まれている。湖底に街があったとは俄かに信じられない。大夕張駅 駅舎大夕張駅駅前通り 山の形でかろうじて跡地が分かった。探すのに1時間近く徘徊。大夕張駅駅前通り 上から約30年ごとの風景の推移。MOBILのガソリンスタンド看板が悲しい。大夕張駅前通り。駅舎に向かって右(北)に行く。ここも探し当てるのに苦労した地点。当時の面影は全くない。3.帯広から大雪山を目指した士幌線跡。音更川の橋梁を走る蒸気機関車9600の煙の濃さが急勾配を偲ばせる。洞爺丸台風による大雪山の倒木を搬出していた貯木場に駅があった。終点のひとつ手前の幌加駅。今も続く小学校の廃校。昔話ではない・・・2018年に大雪山道路を走っていたら、手を振ってくれたので翌朝訪れた糠平小学校の先生と生徒たち翌年再訪したら、糠平小学校は上士幌小学校に統合されて廃校になっていた。生徒たちにも会えなかった。校舎は校章が付いたまま、廃校後も残されている。どこの廃校も同じ現象だ。すぐには取り壊さず、人々の記憶が薄れるのにつれて10数年、20年後に解体されている。廃校後も小学校の看板はそのままにしてある。地元の人々の思いが伝わる。4.羽幌炭鉱良質石炭採掘を期待された近代化炭鉱の羽幌炭鉱も政府の石炭政策の変更により、莫大な埋蔵量を残したまま、結局閉山に追い込まれた。他の炭鉱によく見られる平屋の炭住ではなく、高層化されたアパートになっているのが近代化炭鉱の証だが、今となっては短命に終わった羽幌炭鉱の象徴とも言える。アパートの室内を訪れると、ちょっと前まで住んでいた人々の声が聞こえるようだった。当時の週刊誌や漫画が残された部屋もあったが、せつなすぎて撮るのを止めた。アパートの近くには羽幌炭鉱の増産計画に対応して僅か閉山4年前に新設された太陽小学校の校舎も残っていた。ここは閉山後に休暇村に転用され、映画「幸せの黄色いハンカチ」のロケにも使われたが、現在は全くの廃墟になっている。廃校後に保養施設に転用されたが、それもかなわなかった。残された羆のはく製だけが妙にリアル感があった。校舎右側にあった円形屋根の体育館は積雪で倒壊した。何度も訪れる間にも風化が進む。炭鉱から少し離れたところに、羽幌町立の曙小学校の校舎も残っていた。羽幌炭鉱の急な閉山決定で、曙小学校の閉校も急だったようだ。平成2年3月16日が卒業式と閉校式だったことが分かる。早めの式典日程が人々の急な転出を想像させる。全校集会が繰返し開催されていたのも頷ける。ついさっきまでいたような・・・全てをそのまま残して神隠しにあったような羽幌曙小学校の生徒たち。片付けると自分たちがここで生きてきた思い出が消え去ってしまうと思ったのだろうか。残された校歌の「鉱脈 鉱脈」の文字と神棚がせつなさを誘う。 5.夕張炭鉱と夕張市 南北に伸びた鉱脈で全盛を誇った北炭夕張炭鉱。夕張炭鉱とともにあった夕張市にかって沢山住んでいた人々はどこに消えてしまったのか。規模が大きかっただけに凋落のギャップが非常に大きい。閉山後も観覧車やジェットコースターのある遊園地「アドベンチャーファミリー」や映画の祭典「ゆうばりキネマ祭」で街の再興を図ったが、それも潰えた。ともかく人影を見ない不思議な街角が圧倒的な寂寥感で迫って来る。神輿の歓声が聞こえてくる。ここも山の稜線がないと、昔の写真の場所が一体どこなのか全く分からなかった。本町通りの山手側に歓楽街があり、夜のネオンが眩しかった。夜のとばりで分かりにくいが同一地点である。夕張本町交差点。ここが銀座で言えば4丁目に当たるが、当時の賑わいを感じさせるものは何もない。細々と営業している洋品店や散髪店で聞いてみたが、意外なことに元の住民はほとんどいなくなったようで「昔のことはよく分からない。」と言われた。1960年ごろの絵葉書に観る夕張本町通り。次の写真にある丸丹おかむら百貨店は左のガラス張りのビルで、撮影方向は反対になる。向こうのアーケード当たりが前の写真の夕張本町交差点で、右下がりの山の稜線だけが微かに同じ場所だったことをうかがわせる。昔、「丸丹おかむら」百貨店があり、開店前に人々が並ぶほどの盛況だった。現在あるホテルシューパロも夕張線廃線で風前の灯か。偶然、私の取引先にここで結婚式を挙げた北銀出身の部長がおられたが、奥様が夕張本町商店街のご出身にも関わらず、写真を見せても昔のことになると口が重かった。その姿を見ていると、父が太平洋戦争での従軍のことを全く話さなかったのを思い出した。ジープの車列が年代を感じさせる。昔の写真は正月風景のようだが、このあふれる人波と現在の静寂のギャップには驚かざるを得ない。一旦、ゆうばりキネマ祭などで街の再生を願った残影も見られる。夕張線(正式には石勝線夕張支線)は2019年4月に廃線となった。「立入禁止」の看板は私には昔の夕張へは立入禁止と言われているように感じられた。
2024.02.26
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北海道、いいですね!中学生の時に家族で7-8日間の団体バスツアーに参加して以来、今までバイク自走で2回、飛行機レンタカーで3回、フェリーマイカーで6回行っています。自然と人間の割合が関西では20:80、東京では5:95くらいですが、北海道では99:1なので、人間の小ささと自然の雄大さ、怖さを体感できる唯一の場所ではないでしょうか。一番印象に残っている写真を添付します。上から順に、1.糠平の古代遺跡とも言えるタウシュベツ橋梁、2.大雪山のおどろおどろしい原生林の中に舞い降りた人工物、三国峠松前橋、3.どこまでも続く直線路と荒涼とした景色に圧倒されるサロベツ原野、4.ダム建設でシューパロ湖に水没した大夕張炭鉱鹿島地区の国道旧452号線、5.屈斜路湖から釧路湿原まで大自然に溶け込んだ釧路川4時間半のカヌーツアー北海道はちっぽけな人間が自然の中にお邪魔する場所です。当然、季節、天候により出会える自然の姿は千差万別。ここに掲げた写真は6-10月に何度も訪れて撮影した中で最良のスナップを選んだもので、全く景色が見えないなんてざらです。それも自然の姿であり、私たちの都合のいいようには接してくれません。それが北海道!ほかに別稿で沢山の北海道シリーズを投稿していますので、ぜひご笑覧ください。
2024.02.09
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