翔建築設計の所長日記

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yoshiki@ Re:●建築家のお仕事(634)竹内日祥上人の講演(01/21) はじめまして私も2000年から竹内日祥上人…
2013.05.01
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4月28日(日)一円塾の皆さんが、バス1台で二宮神社に
来られ、講演会を開いた。
私は今市一円会の会員として出席した。

市長や生涯学習課課長以下数名の市役所職員も参加。

一円塾主宰の長澤源夫氏の講演は十数年前に報徳会館で聴いた
ことがある。
86才におなりになるが、迫力と毒舌は健在だった。

日光での講演墓所参拝後、相馬に行き、南相馬市原町区の二宮家
住宅跡地や尊徳の一番弟子で尊徳の死後「報徳記」を著した富田


長澤源夫氏と元日光市郷土資料館館長の話
・内村鑑三の著した「代表的日本人」5人の一人に二宮尊徳が
 入っている。その中でもでも一番だと内村が思っていたのは 
 二宮尊徳だったという。それは箱根での「後世への最大遺物」
 と題した講演会で内村が述べたことだ。

 ・・・・・・さっそく「代表的日本人」と「後世への最大遺物」
       をアマゾンで注文した。

・二宮尊徳は、「野州の聖人」と呼ばれていた。

・相馬藩は、日光御神領の尊徳の仕法を援助するため、
 毎年500両(約5000万円)、10年間5000両を差し出した。
 日光御神領の立て直しに、幕府は金を出さず、尊徳の持ち金5000両
 と、相馬藩からの援助で仕法を行った。



・日光は米がとれないので、年貢米ではなく、現金で納めることになっていた。
 (約35%が税金)

・日光は扇状地で田が少なかった。

・日光山は、豊臣秀吉の小田原攻めの際、小田原方についたため、日光山と
 足尾を残して没収になり、たくさんの寺がつぶれた。


・尊徳は、56才で幕府の御普請役格として登用されてから、念願の日光御神領
 仕法開始の命令だ出るまでに21年かかった。尊徳は67才になっていた。
 70才で死ぬまでの3年間、息子弥太郎の仕法13年間。

・念願の日光神領仕法が開始できるよう、相馬藩は幕府に働きかけ、年500両
 の提供を申し出る。

・相馬藩は、藩の立て直しに尊徳仕法で恩義を感じていた。日光は相馬藩の絶大な
 支援のおかげで活性化できた。この恩は忘れてはならない。


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Last updated  2013.05.01 08:40:08
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