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関東管領上杉氏の本拠地であった平井城から約1kmほど行ったところに平井金山城があります。 平井城の詰城として機能しており、平井城が平城であるのに対し、こちらは山城です。 登城道入口久々の戦国山城なので、少し緊張気味でした。 登城道は搦め手方向から延びており、南側の斜面を直登するような格好となっています。 縄張図東西に延びる尾根上に本丸があり、さらに北に延びる尾根上にも曲輪が配してあります。縄張り図を見る限りでは、北側が大手でしょうか。 登城道の途中には野面積みの石積みが見られましたが、作業用に後世になって積まれたものだと思います。 尾根の直下の急勾配を登りきると堀切跡があり、尾根上には物見台と呼ばれる削平地がありました。 物見台跡 尾根上を行くと、削平された跡がはっきりと残っており、二の丸と三の丸の曲輪の跡だと思われます。 尾根の最も高い場所にあるのが本丸で、烽火台のようなものが置かれていました。 本丸何とも面妖な光景です。 本丸の反対側の尾根には、上州名物の雷用の避難小屋がありました。 さらに稜線をたどっていくと、井戸曲輪と呼ばれる曲輪があり、井戸の跡も残っていました。 井戸曲輪からは大手方向の南北に稜線が連なっており、櫓門の跡などが残っているようですが、再び尾根を上り下りするのが面倒なので、断念することにしました。なんだか戦国山城に対する姿勢がぬるくなっているように思います。
2020/04/23
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歴史の教科書などでは、1467年の応仁の乱が戦国時代の始まりとされていますが、それより30年も前の関東はすでに戦国時代にあったと思っています。しかも関東の戦国の歴史では、同じ名字の人が多数登場するので非常にややこしく、さらにはその人たちが対立し合ったりして、わけがわかりません。同族間での対立・抗争やクーデターなどが多発したことにもよるのでしょうが、当時の本人たちも「この人同じ名字だけど、敵だっけ、味方だっけ」みたいな感じではなかったでしょうか。ましてや現代人にとっては非常にわかりづらいので、個人的にはこれを整理するために、現代風に考えてみることにしています。すなわち京都の室町に本社のあるグループ会社があって、その関東エリアを統括する子会社が鎌倉にあり、いずれも同族で経営されていました。京都の本社から鎌倉の子会社へは、お目付役として世襲制の副社長が送り込まれ、代々これを監視する役目を負っていました。15世紀になって京都本社の絶対的権威が落ちてくると、鎌倉子会社は本社の言うことを聞かなくなり、やがては対立するようになりました。権威の落ちた京都本社は、その解決を鎌倉子会社の副社長に求めますが、解決どころか鎌倉本社の社長と副社長も対立する結果となっています。やがては世襲制の副社長も同族の派閥に分かれて対立するようになり、グループそのものが形骸化して弱体化してしまいました。その間隙を縫って小田原に本社を持つ別の会社が勢力を伸ばしてきて、やがては業界を席巻してしてしまうという構図です。京都本社=室町幕府(足利将軍)、関東統括子会社=鎌倉公方(のちの古河公方足利氏)、関東統括子会社副社長=関東管領(上杉氏)、小田原の会社=北条氏と考えるのはいかがでしょうか。さらに言うならば、その関東に秩序をもたらそうと、全く形骸化した上杉副社長職(関東管領)を継いだのが、越後にいる元部下、長尾景虎(のちの上杉謙信)です。現代に置き直してみたものの、やはりあり得ない話でしょうか。そんな戦国絵巻の渦中にあったのが群馬県藤岡市にある平井城で、室町幕府と鎌倉公方足利持氏が対立する中、足利持氏との抗争に備えて関東管領上杉憲実が築いたとされる城です。縄張図三の丸・二の丸・本丸の間に高低差がないため、曲輪の周りに一重の堀を巡らせただけの、中世の武士居館といった感じだったと思います。現在は本丸の一部が残っていました。本丸土塁本丸の曲輪跡本丸と二の丸の間は県道173号線(金井・倉賀野停車場線)で分断されており、二の丸跡には普通に畑が広がっていました。本丸からみた二の丸本丸の南西側にも遺構の一部が残っているようなのですが、本丸そのものも私有地で分断されているため、直接行くことはできません。住宅地の中を迂回するようなかたちで行ってみると、空堀の跡がはっきりと残っていました。空堀と土橋の跡に見えなくもないです。曲輪跡曲輪には石積みの跡がありますが、当時のものかどうかはわかりません。政権抗争の結果とは言え、「権威ある」関東管領の本丸跡には、様々な碑が建っていました。「関東管領上杉一族」の碑「上杉謙信公 奪還回復の城跡」碑上杉氏の家督と関東管領の職を継いだ時、本拠にしたのは前橋城ではなかったでしょうか。本丸から100mほど行った三の丸あたりには、「平井城資料展示所」と書かれた民家の一角に、三の丸の案内板が建っていました。資料展示所(普通の民家です)平井城資料展示所には、平井城に関する看板が掲げられています。平井城の歌永享の乱の歌どんなメロディーなのか、機会があればぜひ聴いてみたいです。関東管領上杉氏がいまも地元で崇敬されているのがよくわかりますが、それだけに栄枯盛衰を思わざるを得ません。平井城の築城時期については、2通りの説があります。1438年に勃発した「永享の乱」に際し、関東管領上杉憲実が、長尾忠房に命じて築城したとする説が一つ。そして1467年に同じく関東管領の上杉顕定が築城したとする説がもう一つです。室町幕府が開かれた後、関東を統治する目的で鎌倉公方が置かれましたが、その補佐を行ったのが関東管領上杉氏です。関東管領は代々上杉氏の世襲となりましたが、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏は仲が悪く、何度も争いを繰り返しておりました。さらに上杉氏も一族での争いが絶えず、扇谷上杉氏と山内上杉氏に分裂して対立が続いていました。(扇谷上杉氏の家宰が太田道灌です)政治の秩序を全く失った戦国時代の関東において、その間隙を縫って台頭してきたのが、相模小田原の北条氏でした。共通の敵が現れると、昨日の敵が今日の味方になるのは世の常です。それまで対立していた(山内)上杉憲政・(扇谷)上杉朝定・(古河公方)足利晴氏は、北条氏に対抗すべく同盟を結びますが、河越夜戦で連合軍は北条氏康に大敗を喫しました。河越夜戦の敗戦で扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉憲政も平井城に逃れてきました。そして1551年、今度は北条氏康が2万の大軍を率いて、平井城を攻めにやってきました。山内上杉憲政は、わずかな供を連れて越後へ逃れますが、頼った先は長尾景虎でありました。上杉憲政は長尾景虎に上杉家の家督と関東管領職を譲り、ここに長尾景虎は上杉政虎と名乗るようになりました。新たな関東管領となった上杉政虎は、北条方の手に落ちた平井城を奪還しましたものの、厩橋城(前橋城)を関東の本拠地としたため、平井城は廃城となっています。関連の記事平井金山城→こちら
2020/04/22
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群馬県からは沼田城・名胡桃城・岩櫃城が「続日本100名城」に選ばれており、いずれも真田氏ゆかりの城で、「上州真田三名城」とも呼ばれています。本丸に立つ幟大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも登場する岩櫃城は、草刈正雄さん演じる真田昌幸による縄張です。大河ドラマ放映中の平成28年4月にオープンした、「岩櫃城址観光案内所」にある城郭模型戦国城郭の本丸となると、山頂部分が平らな削平地となっている印象ですが、岩櫃城に限っては本丸も一筋縄では行かないようです。本丸そのものも、何段かの曲輪で構成されているようでした。本丸の背後には岩櫃山があり、その岩櫃山に向かって尾根道をたどってみました。城郭では搦手方向になるため、さすがに城郭の遺構はないだろうと思っていたところ、稜線の斜面北側には、桝形虎口の跡がありました。本丸北桝形虎口近世城郭でいうところの「丸の内」、城郭の遺構もさすがにここまでだと思っていました。一応「尾根道」を辿って岩櫃山に向かっていると、「尾根道」と「沢通り」の分岐点である五合目までやって来ました。さすがにここまで来ると城郭の遺構はないと思っていたら、稜線から延びる竪堀の跡がありました。城郭には築城主の性格がよく表れるものですが、真田昌幸の周到さには恐れ入ります。北側の「沢通り」に稜線をトラバースすると、こちらの斜面にも竪堀の跡が残っていました。道を横切って竪堀が下へ続いています。途中には櫓台のような横矢の掛かった土塁跡などもありました。土塁跡稜線の北側には沢が流れており、ここが岩櫃城の「水の手」になります。城攻めにおいて、「水の手」を断つのは武田信玄の常套手段ですが、武田氏の家臣であった真田昌幸にしてみれば、ここが岩櫃城の生命線だとみていたのでしょうか。そう考えると、搦手の防御が堅固なのも納得できる話です。水の手にある「水曲輪」跡沢通りの下側から見た竪堀上は中城の曲輪まで続いています。沢通りを下りて北側斜面を下から見上げると、とてつもない急斜面に見えました。この斜面の先には二の丸や本丸があるのですが、さすがにここを攻め登るのは無謀としか言いようがありません。岩櫃城の築城は古く、鎌倉時代の初期に吾妻太郎助亮によって築城されたと言われています。城郭の規模は上州最大で、後に岩殿城(甲斐国)、九能城(駿河国)と並び、「武田領内の三堅城」と呼ばれていたそうです。1563年に武田信玄が上州を攻めた時、岩櫃城攻めを命じられたのが真田幸隆(昌幸の父)でした。真田幸隆は岩櫃城を落城させ、岩櫃城の城代となったのですが、1574年に真田幸隆は病死してしまいます。真田幸隆の後には、長男である真田信綱が岩櫃城の城主となりましたが、長男の真田信綱と次男の真田昌輝が長篠の戦いで戦死したため、真田氏の家督を継いで城主となったのが真田昌幸です。その後は真田昌幸の長男である真田信幸の支配となり、真田信繁(幸村)も幼少期を岩櫃城で過ごしていました。豊臣秀吉によって1590年に小田原の北条氏が滅亡すると、岩櫃城は真田氏の本拠地となった沼田城の支城となり、やがて1615年の徳川家康による一国一城令で、この城も廃城となっています。日本城郭協会「続日本100名城」大河ドラマ 真田丸 完全版 ブルーレイ全4巻セット BD
2018/09/28
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大河ドラマゆかりの地を訪れるのは、放映前よりも放映中、放映中よりも放映終了後の方が宜しいかと思います。(放映時は施設などが整備され、各種展示資料や解説も充実するのですが、放映中は混雑するのが難点です)二年前の大河ドラマ「真田丸」では、真田昌幸の本拠地として登場し、オープニングの映像にも使われたのが岩櫃城です。大河ドラマ放映中の平成28年4月にオープンした「岩櫃城址観光案内所」には、岩櫃城の模型が展示してありました。岩櫃城模型こうした展示物が充実するのも、大河ドラマのおかげだと思います。岩櫃城の背後にそびえる岩山が、オープニング映像でも流れた岩櫃山で、岩櫃山から北東に延びる稜線上に曲輪を配した縄張となっています。模型では高低差がデフォルメされていますが、まさに難攻不落の要塞といった感じです。そしてこの要塞を築き上げたのが、大河ドラマでは草刈正雄さん演じる真田昌幸でした。岩櫃城への登城口は、岩櫃山への登山口ともなっていました。ガイドの方によると、ここも虎口の跡のようですが、尾根の北側にあるため、大手口ではなさそうです。岩櫃城を登城にあたって、軽登山装備で来たのですが、まず取り出したのはクマ除けの鈴でした。大河ドラマの影響で人が訪れることもあってか、ガイドの人によると岩櫃山ではクマの目撃情報がないそうです。登城道は稜線の北側から「中城」の曲輪に向かって延びており、稜線の斜面を登る途中には腰曲輪の跡が残り、土塁や堀切の跡も見られました。土塁跡堀切跡登城道は斜面の樹林帯の中を通っており、樹林帯が切れて稜線上に出ると、視界が開けた先に曲輪と思われる削平地がありました。中城の曲輪跡です。中城の曲輪は何段かに分かれているようで、本丸の防衛拠点だったのかも知れません。登城道は中城の東側を通るようになり、すぐ横は切岸状の急斜面になっていました。中城東側の切岸うかっり落ちたら、そのまま転げ落ちるしかないほどの急斜面です。中城の縁を回って稜線に取り付くと、稜線の取り付き点には大河ドラマの幟が立っていました。いよいよ岩櫃城の本丸を目指すにあたり、大河ドラマのオープニング音楽が頭から離れなくなっていました。ここからは中城の南側の稜線上を行くようになり、何段かに分かれた中城の土塁を横に見るようになりました。中城の土塁物見台の跡でしょうか。二の丸の直下まで来ると、手前には巨大な堀切がありました。堀切跡登城道からは外れますが、この堀切の底を辿ってみると、本丸へ向かう斜面上に竪堀の跡がありました。竪堀跡(斜面下方向)竪堀跡(斜面上方向)右が二の丸で、左が本丸です。竪堀跡(斜面の上から見たところ)この曲がりくねった竪堀は、いかにも戦国城郭らしく、岩櫃城の見どころの1つだと思います。この竪堀の先は、本丸と二の丸の間の堀切となっていました。なんともトリッキーですが、左側が本丸で右側が二の丸です。まずは二の丸に登って見たのですが、意外に狭い感じがして、もしかしたら本丸の出丸か馬出のような役目だったかも知れません。二の丸岩櫃城を振り返って見ると、本丸を中心に丸馬出を多用した縄張のように思います。丸馬出は武田流の築城術で、武田氏の家臣であった真田昌幸が丸馬出を多用するのも納得のいく話だと思います。さらには真田幸村が、その丸馬出を「真田丸」として完成させたと考えるのは、いくら真田贔屓(アンチ徳川)でも考えすぎでしょうか。二の丸から見た腰曲輪(丸馬出?)本丸から見た二の丸と竪堀戦国の城跡めぐりでは、どの城であっても本丸にたどり着くのは感慨があります。一度も落城しなかった当時の岩櫃城において、真田氏の家臣以外で岩櫃城の本丸にたどり着いた人はいなかったと思うと、岩櫃城の本丸は感慨もひとしおでした。「真田丸」オープニング、0分14秒に岩櫃城が登場します。クレジットの役者さんはもちろんですが、登場する武将の名前が豪華すぎです。(かつては大河ドラマの主人公だった人たちもぞろぞろ)
2018/09/27
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ユネスコの世界文化遺産、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の中で、最もアプローチが難しかったのが、荒船風穴でしょうか。史跡名は「荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡」ですが、世界文化遺産では「荒船風穴」として登録されています。群馬と長野の県境近く、ここに荒船風穴があります。長野と群馬の県境は、碓氷峠に代表されるような勾配とワインディングロードが続き、国道254線だけでもかなりの登りになります。さらに国道254号線から分岐してからは、一部離合困難な細いワインディングが続きました。(さすがにゼットも2速入れっぱなしで緩々と)駐車場からは徒歩で行くしかなく、舗装道ながらさらに斜面を下って行きました。荒船風穴遠景この上に建物が建っていたようです。「風穴」と聞いて、まずは鍾乳洞を想像してたのですが、野面積みの石垣だったのが驚きです。第3号風穴の石垣第3号風穴内部第2号風穴鍾乳洞では、年間を通じての洞内温度は14℃前後で、夏は涼しく冬は暖かい天然のエアコンといったところです。荒船2号風穴では、真夏でも3℃前後しかなかったそうで、天然の冷蔵庫といったところでしょうか。2号風穴の温度外気温20.1℃で、風穴内部は野天でも4.1℃しかありません。(温度計に写っている赤白の縦じまは、私のカープタオルです)この温度に注目したのが、庭屋清太郎と千寿の親子でした。高山社に在学中の庭屋千寿が、父である清太郎に蚕種(蚕の卵)に適した場所であると報告し、清太郎が蚕種の貯蔵庫の建設を始めたのが、明治38年のことでした。明治38年9月竣工の第一号風穴それまで蚕種は年1回の春蚕だけでしたが、荒船風穴の蚕種保存庫が完成したことにより、夏秋蚕も養蚕が可能となりました。年1回の養蚕が年3回となり、さらには農業の閑散期にも養蚕ができるため、繭の増産が可能となりました。「大量生産」と「品種改良」がキーワードとなる「富岡製糸場と絹産業遺産群」において、荒船風穴を養蚕に利用した技術もさることながら、その発想こそが文化遺産に値すると思います。荒船風穴から駐車場へ戻る登り道をひたすら歩いていると、これから荒船風穴に向かう人とすれ違いました。おそらくあまりにアプローチがしんどかったのかと思いますが、いきなり「見る価値ありますか?」と聞かれました。「人によると思いますが…」と苦笑いでしたが、その後の歴史を考えると、先人たちの足跡は一見に値すると思います。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/26
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ユネスコの世界文化遺産の中で、個人の住宅が構成資産に選ばれる例は少ないかと思います。世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」では、田島弥平旧宅が構成資産の1つになっており、さらには現在も住宅として使われているそうです。表門末裔の人の表札がかかっていました。田島弥平は幕末から明治にかけての人で、蚕の卵である蚕種を生産する養蚕技法「清涼育」を体系的に完成させました。それまでの自然飼育法と違って、蚕室で空気を循環させて温度と湿度を調整する近代的な養蚕飼育法が「清涼育」だそうです。清涼育では蚕室がある建物の向きだけでなく、その階数や屋根の構造も重要とのことでした。主屋1863年に建造された建物で、2階が蚕室となっていました。瓦葺の屋根の上には、空気を循環させるための櫓が付いています。この建築様式はここの地名をとって「島村式蚕室」と呼ばれ、全国に普及したそうです。新養蚕室跡やはり2階建ての蚕室で、屋根に大きな櫓が付いており、山形県鶴岡市の松ヶ岡開墾場の蚕室に踏襲されています。田島弥平が著した「養蚕新論」の碑敷地内には生活感のある離れが建っていて、「桑場」と書かれていました。屋根に櫓が付いていますが、養蚕は行われておらず、桑葉の収納と加工が行われていたようです。桑場の内部は公開されていて、ガイドの方もおられました。今回の「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産めぐりでは、ボランティアガイドの方に随分とお世話になりました。「私も絹の事を勉強しているのですが、なかなか奥が深くて」と仰っていたのが印象的で、熱心かつ真摯に歴史を伝える姿勢には感銘を受けました。(どこかの世界遺産とは大違いです)田島弥平の清涼育は、高山社によってさらに技術改良され、「清温育」へと発展していきました。「大量生産」の技術だけでなく、「品質改良」の努力があればこそ、成し遂げられた栄光がありました。島村地区では、今も見本桑園で桑が葉を広げていました。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/25
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神流川の上流部、支流の三名川の清流沿いに高山社跡があります。三名川そんなコミカルに言える話なのでしょうか。イノシシが出る山あいの中で、高山社の幟だけが妙に目立っていました。ユネスコ世界文化遺産の構成資産でありながら、高山社そのものは普通の古民家と言った風情です。長屋門が残っている民家も珍しくなりましたが、現在は修復中のようです。高山社の母屋明治維新からわずか40年後の1909年、日本は清国を抜いて生糸の輸出量で世界一になりました。その背景には、富岡製糸場の「大量生産」の技術だけでなく、高品質を追い求めた「品質改良」があったのは間違いありません。生糸の原料となる養蚕においては、高山長五郎によって「清温育」の養蚕法が確立されました。そして高山長五郎が1884年に自宅で開いたのが、養蚕の教育機関である「養蚕改良高山社」です。高山長五郎像高山社では、日本国内だけでなく中国や朝鮮半島からも生徒を受け入れていたそうです。とかく明治の「富国強兵」や「殖産興業」にはネガティブなイメージがついてきますが、日本の生糸が世界に認められ、外貨獲得の手段になったのは間違いありません。その背景には高山長五郎のように熱心に品種改良に取り組み、さらにそれを後世に伝えた人たちがいたことを忘れてはならないと思います。高山長五郎は1886年にこの世を去りましたが、その生糸の技術が後の日露戦争での国難を救ったと言っても、決して過言ではないと思います。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/24
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富岡製糸場というと、「女工哀史」や「あゝ野麦峠」にある過酷な労働環境が思い起こされ、ブラック企業的な印象を持っていました。実際に富岡を訪れてみると、袴姿の工女さんの衣装で街歩きができたり、「工女さんも愛した〇〇」みたいなメニューがあったりして、これまで持っていた印象と随分違っていました。富岡市のイメージキャラクター「お富ちゃん」(上信電鉄上州富岡駅にて)実際に富岡製糸場の工女たちは待遇も良く、高い技術と誇りを持っていたと聞きます。富岡製糸場正面入口「世界遺産 国宝 重要文化財 史跡 『旧富岡製糸場』」と、ここまで冠名が並ぶと壮観です。正面入口の先にある赤レンガの建物が、国宝指定の「東置繭所」です。東置繭所(国宝)国宝の建築物を見たのは久しぶりな気がします。東置繭所は1872年(明治5年)の建築で、1階が事務所・作業場、2階が乾燥させた原料繭の貯蔵庫となっていたようです。その東置繭所の1階部分は、自由に中に入って見学することができます。東置繭所内部歴史の教科書などで見る富岡製糸場の古写真では、たくさん並ぶ機械の前で工女が作業している光景を見かけます。おそらく繰糸所の内部だと思うのですが、その繰糸所の建物も現存していて、中に入ることもできました。繰糸所(国宝)こちらも明治5年の建造で、創業当時から残っています。富岡製糸場は片倉工業株式会社富岡工場として昭和62年3月まで操業しており、繰糸所の内部には当時の機械が並んでいました。ニッサンHR型自動繰糸機昭和41年から導入され、昭和62年まで使われていたものです。創業当時のフランス式繰糸機は、東置繭所の内部に復元されています。フランス式繰糸機(復元)富岡製糸場の創業当時に使われていたフランス式繰糸機は、「岡谷蚕糸博物館(シルクファクトおかや)」に現存しており、この復元機は岡谷で復元され富岡に寄託されたものです。官営工場時代の富岡製糸場では、工場と住居が同じ敷地に建っており、その当時の建物も現存していました。検査人館(国指定重要文化財)生糸の検査を担当したフランス人男性の住居だったそうです。女工館(国指定重要文化財)工女に器械による糸とりの技術を教えるために雇われたフランス人教師の住居でした。ブリュナ館(首長館)(国指定重要文化財)指導者として雇われたフランス人ポール=ブリュナが、政府との契約満了となる明治8年(1875年)まで家族と暮らしていた住居です。ブリュナの帰国後は工女の夜学校として利用され、片倉工業時代には片倉富岡高等学園の校舎として使われていたそうです。工場の敷地内には診療所もあり、また外国人の住居と工女の寄宿舎もあまり離れていないため、意外に和気あいあいと暮らしていたのではないかとも思いました。寄宿舎20世紀の初め、日本は生糸の輸出量で世界一となりました。元々はフランスの技術で導入された製糸工場でしたが、その世界一に至るまでの間、「大量生産」と「品種改良」に力を注いできたのは日本人です。「洋才」だけではなく「和魂」がなければ、成し遂げられなかった偉業だと思います。実際に富岡を訪れてみると、「歴史の教科書ではわからない歴史」を知ることができたと思います。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/23
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利根川水系の烏川が後背を流れ、中仙道を抑える要衝にあるのが倉賀野城です。烏川旧中仙道倉賀野宿に復元された高札場(2013年9月)倉賀野城跡は住宅地となっていて、本丸があったと思われる広場には城跡碑だけが建っていました。史跡めぐりのイベントツアーでしょうか、地元ガイドの方が倉賀野城について解説されていました。倉賀野城に限ったことではありませんが、地元のボランティアガイドの方の見識の高さには感服します。何よりも地元の歴史を伝えようとする熱心な姿には、頭が下がります。城址碑本丸跡から烏川の河岸を眺めると、腰曲輪のような削平地がありました。果たして城郭の遺構かどうかはわかりませんが、烏川の水流を引き入れた空堀のような跡も見られます。本丸跡から少し離れた場所、かつて二の丸のあった所には井戸八幡宮が祀られていました。元々は三の丸に祀られていたもので、1646年に三の丸から突然水が噴き出したことから、井戸八幡宮と名付けられています。倉賀野城の築城は知承年間(1177年~1181年)のことで、武蔵児玉党の秩父高俊がこの地に移り、倉賀野氏を名乗ったのが始まりとされています。以後は代々倉賀野氏の本拠となっていましたが、戦国時代に入ると小田原北条氏の北関東進出に加え、武田氏VS上杉氏の最前線にあったりして、なかなか忙しい城だったと思います。倉賀野氏は上杉氏や箕輪城の長野氏についていたため、武田信玄による箕輪城攻めの時は、箕輪城の支城としての役割を担っていたようです。最後は小田原北条氏についていたため、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時、他の関東諸城と同じく、廃城する運命となりました。
2018/06/23
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新田義貞が本拠地としたのが群馬県太田市、太田駅の北方にある金山城は新田義貞の築城とされています。太田駅前に建つ新田義貞像。新田金山城址碑同じ群馬県には関東管領上杉氏の詰城であった「金山城」があり、あちらを「平井金山城」、こちらを「新田金山城」と呼んで区別しているようです。現地案内板にある復元図尾根伝いに曲輪を配した、典型的な戦国山城の縄張となっています。尾根伝いに登城道を上がって行くと、途中には堀切がよく残っていました。西矢倉台の堀切ここまではありがちな戦国山城といった感じですが、金山城はここからが違っています。馬場下通路の虎口なんと総石垣造りです。石垣の高さこそないものの、打込み接ぎで積まれており、隅石もしっかりしています。関東で総石垣の城郭が登場するのは戦国時代も末期、豊臣秀吉が小田原城攻めのために築いた石垣山一夜城だと理解していたので、これは意外です。三の丸大手虎口現地の案内板をよく見てみると、「現存石垣と転用・新補石垣の間に鉛板を入れ区別しています」と写真入りで書かれていました。ということは、上部の石垣は後世になって積まれたということでしょうか。大手虎口の内側と外側には「月ノ池」と「日ノ池」と呼ばれる池があり、こちらも総石垣造りとなっています。月ノ池日ノ池水の手の確保もさることながら、祭祀的な意味合いもあったようです。山頂の本丸周辺は意外に広く削平されており、三の丸や二の丸以外にもいくつか曲輪が配されていました。井戸のある「大手虎口上段曲輪」月ノ池や日ノ池がありながら、ここに水の手があったようです。馬場曲輪発掘調査により建物の礎石が見つかったそうで、馬小屋が復元されていますがここに馬小屋があったかどうかは不明です。馬場曲輪の先には日ノ池に続く堀切が残っていました。この辺りから急に石垣がなくなっていました。本丸のある山頂部分に来ると、新田義貞を祀る新田神社がありました。それにしても謎の多い新田金山城でした。築城時期からして、なぜにここまで石垣の技術が高いのか、そして数ある関東の城郭の中で、なぜこの城だけが石垣造りなのか、謎は深まるばかりです。新田金山城は新田義貞が築城したと言われていますが、実は当時の遺構は発見されていません。したがって確証はなく、関東管領上杉氏に従っていた岩松家純が、1469年に築城したとされています。1528年には、岩松氏の重臣であった横瀬(由良)成繁が岩松氏を倒し、金山城の城主となっています。戦国時代になると、他の北関東の武将と同様に、由良氏も上杉氏(越後)と北条氏(相模小田原)の争いに巻き込まれて行きました。由良氏は上杉氏についたり、後北条氏についたりしていましたが、1584年に由良国繁が小田原で北条氏に幽閉され、金山城も後北条氏の支配下となりました。そして1590年に豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅亡すると、これまた他の北関東の城と同様、金山城も廃城となっています。日本城郭協会「日本100名城」
2017/06/02
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上野国碓井郡里見郷(現在の群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町)は里見氏発祥の地であり、鎌倉時代から続く里見源氏の本拠地でありました。里見ファンとしては、ぜひ一度訪れたかったのがこの里見城です。里見城跡は城山の地名が残る丘陵部にあって、現在は城山稲荷神社が建っています。あまりに大きい鳥居なので、とてもわかりやすい場所にあります。城山稲荷墓地のある向こう側が本丸だと思われます。さらに一段高くなった場所は削平地が広がっており、戦国城郭の「あるある」ですが、耕作地になっていました。本丸らしき場所に来ると、わずかに虎口の跡が残っています。満を持して虎口を抜けると、本丸の削平地にポツンと建っているのは、城跡碑と解説版だけでした。400年続き、房総を席巻した里見氏発祥の地としては、あまりに寂しい気がします。本丸はぬかるみがひどく、足を取られながらも南側へ行ってみると、土塁と空堀の跡のようなものが見受けられました。なかなか前へ進めません。それでも北側に回ってみると、堀切跡のようなものがありました。堀切跡?その先には腰曲輪のような削平地があります。「ところ変われば」とは言いますが、房総では英雄視される里見の本城にしては、あまりに地味なのでびっくりしました。里見城の始まりは、新田氏初代の源義重(新田義重)の子(庶子)である新田義俊が、里見郷に居を構えて里見義俊を名乗ったのが始まりとされています。里見氏十代の里見家基が1441年の結城合戦で討死すると、その子である里見義実は房総白浜に逃れ、安房里見氏の祖となりました。この結城合戦からの下りは、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」にも描かれています。【新品】【本】現代語訳南総里見八犬伝 上 曲亭馬琴/〔作〕 白井喬二/訳【新品】【本】現代語訳南総里見八犬伝 下 曲亭馬琴/〔作〕 白井喬二/訳里見義堯 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将【電子書籍】[ 小川由秋 ]
2017/06/01
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沼田城に続き、名胡桃城を訪れるのも9年ぶりです。沼田城から見た名胡桃城名胡桃城のある群馬県みなかみ町は上州でも最北端にあり、国境を越えれば越後の国、上杉氏の本領です。沼田城に続き、こちらも大河ドラマ「真田丸」の影響でしょうか、随分と様変わりしていました(いい意味で)。前回訪城時は野花が咲き誇る広い野原のような感じでしたが、名胡桃城跡案内所が出来て資料も展示してあります。縄張の模型図縄張図連郭式のシンプルな縄張で、どこにでもありそうな戦国山城です。しかしながらこの城が戦国時代の関東の勢力図を大きく変えることとなり、関東での戦国時代を終わらせる結果となりました。三の丸の馬出跡関東にありながら北条流の角馬出ではなく、三日月堀で囲まれた武田流の丸馬出です。ということは、真田昌幸の築城時代の遺構でしょうか。三の丸虎口三の丸の堀切遺構がとてもよく残っています。、遺構の各所には案内板が立ち、発掘調査の詳細な結果が紹介されていました。二の丸虎口木橋が復元されていますが、斜めに架けられていて、直進できないようになっています。土橋から空堀を眺めてみると、三の丸側と二の丸側では傾斜も高さも違っており、三の丸の大手口から二の丸は見通せない縄張になっていました。二の丸空堀左側が三の丸で、右側が二の丸です。このあたりはさすが真田昌幸といったところでしょうか。二の丸は三の丸に比べて奥行きがあり、掘立式の建物も建っていたようです。掘立式の礎石跡籠城戦となった時、ここが実質的な戦闘指揮所だったでしょうか。二の丸と本丸の間にも木橋が架けられていて、こちらも喰い違い虎口になっていました。本丸の堀切の法面はさらに険しくなっており、ここを攻め上がるのはかなり難しそうです。その本丸には昭和2年に建てられた城址碑があり、碑文は徳富蘇峰によるものです。城址碑地元の有志で結成された保存会によって、大正12年より保存活動が行われてきました。大河ドラマの影響もあるでしょうが、長く地道な発掘調査により、より当時に近い姿に復元されていると思います。史実にない模擬天守などを建てるのではなく、名胡桃城のように歴史に忠実に復元することこそ、将来に向けての有効な時間とお金の使い方だと思います。名胡桃城は沼田城の支城として、沼田氏によって築かれました。沼田地方は、上野(群馬県)にありながら、越後(新潟県)や信濃(長野県)との国境に近いため、北条氏・上杉氏・武田氏の三者が入り乱れての争奪戦が繰り広げられていました。沼田氏を滅ぼした後に勢力を張っていたのが真田昌幸で、武田信玄・上杉謙信亡き後は、代って真田昌幸が北条氏との戦いに奮闘していました。やがて沼田城が北条氏の手に落ちると、真田昌幸が沼田城を奪還するために築いたのが名胡桃城です。真田氏と北条氏の間では激しい争奪戦が繰り広げられたのですが、その調停役に入ったのが豊臣秀吉でありました。1589年に豊臣秀吉は、沼田城を北条氏の領有、名胡桃城は真田氏の領有とする裁定を下しました。しかしながらこの裁定に反して、北条方の沼田城代であった猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城を攻略しました。真田昌幸もさることながら、これに激怒したのは豊臣秀吉で、「惣無事令」に反するとして、ついに北条氏征伐を決定しました。その後の関東の勢力図は歴史のよく知るところで、これがきっかけとなって「小田原攻め」に発展し、1590年に関東の覇者北条氏は滅亡し、徳川家康が入封してきました。関東の勢力図を塗り替えるとともに、関東の戦国時代に終わりを告げるきっかけとなったのが、この名胡桃城です。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/05/29
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戦国時代の良妻賢母と言えば、この人の名前が挙がってくるかと思います。真田信之と正室小松姫(沼田城本丸にて)小松姫は徳川家康の養女という身分で真田信之に嫁ぎましたが、実父は一言坂で「家康に過ぎたるもの」と称されたあの名将です。鹿角前立兜に金の大数珠、本多平八郎忠勝です。(2009年11月、大多喜城にて)小松姫に数々の「武勇伝」がついてまわるのは、この親父のイメージかも知れません。小松姫については数々のエピソードを目にしてきましたが、菅靖匡さんの「小説 本多平八郎」の中には、こんなエピソードが描かれています。徳川家臣団が浜松城で正月を迎えた時のこと、新鮮な魚介類が獲れる浜松で振舞われたのは鮟鱇鍋でした。それを見た本多忠勝の盟友榊原康政は、「平八(本多忠勝)の愛娘なら、わしには姪も同然ぞ、それを土鍋で煮炊きしおるとは・・・」と、抜刀する勢いで調理場へ向かっていったそうです。皮肉とユーモアあふれる榊原康政らしい話でもありますが、小松姫が徳川家臣団からも可愛がられていたことを表すエピソードでしょうか。とかく小松姫については女傑や女丈夫などの形容詞がついてきますが、これは本多家の「お家芸」なのかも知れません。実父である本多忠勝は、幼い時に父の本多忠高が戦死し、後見人である叔父本多忠真も三方原で失いました。そんな本多家を支えてきたのが、小松姫の祖母に当たる忠勝の母小夜です。「本多の後家さん」と呼ばれ、徳川家臣団だけでなく、家康にも一目置かれる良妻賢母だったと言います。本多家の薫陶を受けていたであろう小松姫の墓所は、沼田城の大手筋を約1kmほど下った正覚寺にあります。数々の小松姫のエピソードの中でも、最もよく知られるのは関ケ原の戦い前の沼田城の話でしょうか。夫真田信之は徳川家康の東軍につき、義父真田昌幸と義弟真田信繁(幸村)が西軍につくことになり、「孫の顔を見たい」と沼田城を訪れた昌幸・幸村父子を、「もはや敵方」と小松姫が大手門で追い返した話です。一説には真田昌幸にはそれを口実に沼田城を奪取する意思があったとも言われます。また、義父を追い返した後、小松姫がこの正覚寺で密かに孫たちとの面会をさせたとも言います。この話が本当ならば、真田昌幸・信之・幸村に本多忠勝・小松姫と、徳川家康にとっては最強の敵を作る結果となってしまったのかも知れません。【楽天ブックスならいつでも送料無料】真田太平記 文庫改版 全12巻セット (新潮文庫) [ 池波正太郎 ]【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】小説 本多平八郎【電子書籍】[ 菅靖匡 ]
2017/05/28
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9年ぶりに訪れた上州沼田では、またもや大河ドラマの影響力を感じさせられました。大河ドラマといっても放映中の「おんな城主直虎」ではなく、昨年の「真田丸」です。真田信之以降、真田氏5代の本拠地であった沼田城は、まさに「真田丸」の舞台でした。前回はこのようなパネルはなかったのですが、これも大河ドラマの影響でしょうか。城跡の入口には、こちらは前回はなかった(?)冠木門が置かれていました。沼田城跡は沼田公園として整備されており、縄張も改変されているため、城郭の遺構を特定するのは大変でした。観光案内所にある、かつての縄張の復元模型それでも公園入口脇には、三の丸の堀跡がわずかに残っていました。三の丸の堀跡土塁跡思わず見過ごしてしまいそうな感じです。現在は市民の憩いの場となっている沼田公園は、沼田藩士の子息である久米民之助氏が、故郷に恩返しをしたいという思いから、私財を投じて整備したものです。開放感あふれる憩いの場ですが、ここに城郭があったことはなかなか想像できません。本丸部分に足を向けてみると、わずかに内堀の跡が残っていました。かつての本丸虎口跡本丸内堀跡かつての本丸には、真田信之によって五層の天守が上げられていました。天守のあった場所は、利根英霊殿の社殿となっています。社殿の後方あたりに天守台があったようです。さらに本丸の西側に回ってみると、鐘櫓が復元されていました。中の「城鐘」は第二代の真田信吉によって1634年に鋳造されたもので、現存する遺構です。城郭遺構としては、本丸西櫓台の石垣が残っていました。西矢倉台跡西矢倉台の石垣かつての本丸北側には「捨曲輪」呼ばれる独立した曲輪があり、現在ではこちらも公園広場となっていました。所々に起伏が見られるのは、かつての土塁や堀の名残でしょうか。捨曲輪の北側はビューポイントとなっており、正面にはいまだ雪を頂く谷川岳を眺めることができます。今年2017年4月6日の「城の日」に、沼田城は「続日本100名城」に選ばれました。日本100名城もそうですが、日本城郭協会の選定基準は明確です。・優れた文化財・史跡・著名な歴史の舞台・時代・地域の代表・各都道府県から1城以上5城以内さらには保存状態が悪かったり、史実にない模擬天守などは名城からは除外されてしまいます。保存状態から言うと、沼田城は名城の中に入らないかも知れません。それでも著名な歴史の舞台であったことは間違いありませんし、なによりも地元の人たちにリスペクトされていることがよくわかりました。現在となっては往時の姿を偲ぶべくもありませんが、公園となった城跡では子供たちが楽しそうに遊んでいました。大河ドラマの舞台になったことだけでなく、これからも沼田に沼田城があることを誇りにしてほしいと思います。真田信之の甲冑これも前回訪城時にはなかったもので、今回初めて目にしました。
2017/05/27
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廃藩置県によって藩庁がそのまま県庁になり、現在も県庁の敷地となっている城跡はいくつかあります。(これまで私の見てきた中では、福島城、駿府城、福井城、山口城がありました)群馬県庁のある前橋城(厩橋城)もそんな城跡の1つで、城跡は現在も群馬県庁の敷地となっています。敷地内に見えるレトロな庁舎は、昭和3年に建てられた昭和庁舎だそうです。そのレトロな昭和庁舎を囲んでいるのが、さらにレトロな前橋城の土塁です。石垣ではなく土塁で囲まれてはいますが、現在も残る前橋城の遺構は、江戸時代に築城された近世城郭のものです。前橋城の縄張り図前橋城は「関東七名城」の1つに数えられていますが、七名城に選定されているのは前橋城の前身である厩橋(まやばし)城、戦国時代の方の城郭だと思います。ところで関東七名城では、前橋(厩橋)城の他に太田城、宇都宮城、唐沢山城、(新田)金山城、忍城、川越城があり、誰が選んだのかはわかりませんが、なぜこの7城なのかいまだに不思議です。北条氏康・武田信玄・上杉謙信が争奪戦を繰り広げ、戦国時代から連綿と続く厩橋城でしたが、江戸時代に入ってから近世城郭へと改修されたため、現在ではその姿を見ることができません。さらにその近世城郭さえも、度重なる利根川の氾濫によって破壊され、江戸時代半ばに姿を消してしまいました。すぐ西側を流れる利根川戦国時代には上杉氏と北条氏が激しい争奪戦を展開した厩橋城も、江戸時代になって酒井氏が建てた三層の天守も、この激しい流れの中に水没したようです。酒井氏の時代の天守復元図現在残っている城郭は、幕末も幕末の1867年に再建されたもので、函館の五稜郭 (1866年完成)よりも新しい築城ということになります。あの五稜郭よりも新しい城郭ながら、県庁敷地の周囲に残る土塁を見る限りでは、なんともクラシカルな印象は否めません。県庁北側の土塁新前橋城の城郭では本丸のあった場所も、旧前橋城の城郭では三の丸に相当するようです。本丸虎口「高浜門」跡わずかに枡形が残っていました。県庁西側の土塁県庁北側の土塁上には、前橋城址の碑が建っていて、ここだけは土塁に上がることができました。土塁上にある「前橋城址之碑」旧前橋藩にゆかりのある人々によって、明治41年(1908年)に建てられたもので、厩橋城から続く前橋城の歴史などが書かれています。(碑文は全部漢字、しかも繁体字で書かれているので意味不明ですが、その隣に口語で書かれた意訳の解説板がありました)前橋は元々厩橋(まやばし)と呼ばれ、東山道の群馬の駅が近かったことに由来しています。厩橋城の始まりは箕輪城の支城であった石倉城にあり、箕輪城主長野氏の一族であった長野方業によって、15世紀に築城されたと言われています。しかしながらその石倉城も利根川の流れによって破壊され、残った三の丸を再建したのが、戦国史に登場する厩橋城でした。1560年に上杉謙信が厩橋城を支配下におさめると、以後は厩橋城が関東奪還の拠点となり、北条高広が城主となって厩橋城の防衛にあたっています。ところでこの北条高広なる人物、北関東の戦国史ではよく見かける名前ですが、紛らわしいことに北条を名乗りながらも上杉謙信の家臣で、小田原の北条氏とは敵対関係にありました。(さらに読み方は「ほうじょう」ではなく、「きたじょう」です)厩橋城をめぐって小田原北条氏VS上杉謙信の攻防戦が続く中、さらに紛らわしいことに北条高広が北条氏に寝返ったため、厩橋城も北条氏の支配下となっていました。(本人もさすがに紛らわしいと思ったのか、この時の北条高広は本来の姓である毛利を名乗っていたようです)1590年の豊臣秀吉による小田原の役では、秀吉軍の浅野長政の攻撃の前に、ついに厩橋城も落城しています。北条氏の後に徳川家康が関東に入封してくると、厩橋城には平岩親吉が入城し、平岩親吉が甲府城に移封になった後は、川越城から酒井重忠が厩橋城に入って、以後9代にわたる酒井氏の藩政が続きました。酒井氏の時代に厩橋城も近世城郭へと改修され、地名も厩橋から前橋となって、三層の天守が建てられていました。しかしながら再び利根川の激流によって城郭の破壊が進み、1767年に川越藩の陣屋扱いとなると、前橋城も廃城となっています。それから100年近く経った1863年に前橋城再築の許可が下り、ようやく悲願の城郭が完成したのが1867年のことでした。しかしながらその半年後に大政奉還が行われて、近世城郭としての前橋城も役割を終えることとなり、前橋城の本丸御殿が前橋県庁へと引き継がれています。関東七名城
2013/09/18
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井伊直政が本拠地を箕輪城から移すべく、烏川の東側に新たに築城したのが高崎城で、現在の高崎市役所などの公共施設が並ぶ一帯に城郭の中心部があったようです。高崎城の縄張り図を見ると、戦国色の強い箕輪城の中世城郭とは大きく違って、近世城郭であることがうかがえます。烏川の流れる西側に本丸と搦め手を配し、中仙道の通る東側に大手を配した縄張りとなっています。井伊直政が高崎城を築城したのは1598年のことで、それまで和田と呼ばれていた地名も、高崎に改称しました。箕輪城から本拠地を移したのは徳川家康の命だったようですが、中仙道と三国街道の交通の要衝であったことから、ここが城地に選定されています。戦闘拠点としての戦国城郭は役割を終え、政治と経済に重点を置いた城郭と城下町が出来たことで、当時の人たちも中世から近世への時代の移り変わりを感じたのでしょうか。その近世城郭としての高崎城の遺構としては、高崎市役所の周囲に一重の水堀と土塁の跡がわずかに残っていました。水堀と土塁の跡石垣は後世になって積まれたものだと思います。入隅の跡高崎市役所庁舎の東側には城址公園があり、公園周囲には土塁が残っていました。城内側から見たところ市役所庁舎南側の土塁道路で分断されていますが、元々の虎口だったのかも知れません。高崎城の本丸は、市役所敷地の北側一帯にあったようですが、現在となっては城郭を比定するのも困難でした。それでも群馬シンフォニーホールや音楽センターの北隣には、高崎城の建造物が移築復元されています。本丸「乾櫓」(内側から見たところ)本丸の四隅には隅櫓が建っていたそうで、乾櫓の名前にある通り、北西の隅櫓です。乾櫓を外側から見たところ高崎城に限ったことではありませんが、隅櫓は城外の方から見るのが最も秀麗かと思います。乾櫓の隣には、本丸「東門」も移築復元されていました。「東門」の名前からすると本丸の大手口にあったことになりますが、くぐり戸がついていることから、通用門として使われていたようです。高崎城のあった場所には、元々和田氏の依る和田城があり、鎌倉時代に和田正信によって築かれたと言われています。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐(小田原の役)の時、箕輪城と共に和田城も落城し、和田氏も滅亡しました。徳川家康の関東入封に伴い、井伊直政が12万石で箕輪城に入城しましたが、1598年に和田城のあった場所に新たに築城し、本拠地と城下町を移転しています。箕輪城のある旧箕郷町と高崎市街地には、「連雀町」などの共通の地名が見られたのですが、これも箕輪城から高崎城への移転の名残かも知れません。
2013/09/17
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榛名山からの帰り、せっかくなので箕輪城に立ち寄ってみました。箕輪城を訪れるのは2回目で、前回訪問したのは2007年8月と、実に6年前のことです。前回訪れた時の印象としては、遺構もよく残っていて、何よりもその城郭の規模に圧倒される思いだったのを覚えています。箕輪城搦手口搦手から見た光景は前回と変わっていないものの、幟が立っていたり本丸の土塁が見通せたりと、なんだかすっきりした印象はありました。見覚えのある「日本百名城」の看板日本城郭協会で100名城が選定されたのは2006年、前回2007年に訪問した時はこの看板も新しかったのですが、随分と色あせたように思います。搦め手口から登城道を行くと、帯曲輪を抜けて二の丸の曲輪の前に来ました。二の丸の前にある縄張り図を見ていると、ガイドらしき人がつかつかと寄って来て、箕輪城の説明を始めてくれました。せっかくの機会なので、どうしても気になっていることを聞いてみることにしました。「先日のニュースで箕輪城の門が復元されると聞きましたが、誰の時代のものなのでしょうか」と。ガイドの方からは即答で、「井伊直政です」とのことでした。その後でいくつかやり取りがあった後、二の丸前の縄張り図を指し示しながら説明してくれたのですが、ガイドの方が「曲輪」とか「堀切」とか、日常生活ではまず聞くことのない城郭用語を、普通に使い始めたのが衝撃でした。箕輪城は南北に長い縄張りとなっており、二の丸からは北側にある本丸へと向かって行きました。グーグルアースで見た箕輪城の縄張り二の丸と本丸の間にある空堀長野氏や武田氏時代の城郭を井伊直政(または北条氏)が改修したものでしょうか二の丸の北側、本丸にある城跡碑本丸本丸も井伊直政時代のものだと思われますが、戦国城郭にしてはかなりの規模があります。本丸から西側を見てみると、土塁のはるか下に空堀が見えていました。本丸の北側には、堀切を隔てて一段高くなった削平地があり、御前曲輪と名付けられています。本丸北側の空堀御前曲輪御前曲輪は長野氏の時代の本丸と考えられており、箕輪城が落城した時には、本丸にあった持仏堂に城主以下が籠ったとされています。御前曲輪には井戸が残っており、井戸を発掘したところ、長野氏関連の墓石などが出土したそうです。長野業正の時代、武田信玄の猛攻を何度も防いだ箕輪城でしたが、長野業正亡き後、ついに落城となりました。御前曲輪の北側にも城跡の遺構が広がっており、曲輪には「稲荷曲輪」「通仲曲輪」「新曲輪」などの名前が見られます。御前曲輪北側の空堀「新曲輪」の名前があるように、長野氏の時代から改変されたものだと思われますが、新曲輪には武田流築城術に特有の「丸馬出し」があることから、武田氏の時代に拡張されたのかも知れません新曲輪新曲輪の規模や馬出しの位置から推測すると、武田氏の時代はこの北側に大手口があったと思われます。 (武田信玄が備えるべき北側の敵と言えば、やはり上杉謙信でしょうか)新曲輪から先は藪が多かったこともあり、一旦御前曲輪に戻って、今度は御前曲輪と本丸の西側を戻ることにしました。御前曲輪と本丸西側の空堀が最大となっており、最大幅30mの深さが10mもあります。御前曲輪西側の空堀この空堀は井伊直政の時代のものだと思われますが、御前曲輪西側の土塁には石垣も見られました。空堀は御前曲輪から本丸・二の丸の西側に巡らされており、本丸の西側が特に広くなっていました。本丸西側の空堀本丸西側の土塁本丸西側には橋が架かっていたようで、その橋台の跡も残っていました。井伊直政の時代には、西側が大手だったようです。二の丸西側の堀底道を抜けると、三の丸の曲輪まで来ました。三の丸三の丸から南側も井伊直政によって拡張されたものだと思いますが、「あれ?」と思うところもあったりします。三の丸から見ると、本丸南側の空堀がよく見渡せたのですが、高低差のある空堀が交差していました。このような造りの空堀は、関東の戦国城郭でよく見かけるのですが、北条流のような気がします。二の丸・三の丸の南側は「大堀切」で区切られ、土橋が架けられていました。土橋大堀切不思議だったのは土橋の先にある方形の「郭馬出」で、北側には丸馬出があるのに対し、南側には方形の馬出があることになります。郭馬出長野氏、武田氏と城主が代わった後、箕輪城は北条氏の支配下になっていた時期がありました。郭馬出の周辺だけを見ると、北条氏の影響があるようにも思えます。郭馬出周辺の空堀この空堀が北条流の「畝堀」に見えてしまうのは、やはり考えすぎでしょうか。1590年の小田原の役で北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後、北条氏の後に関東に入封してきたのが徳川家康で、この時に徳川家臣団の中で最高の12万石で箕輪城に入ってきたのが井伊直政でした。(本多忠勝は大多喜城で10万石、榊原康政が館林城で10万石です)郭馬出の先には広くて平坦な曲輪が広がっており、「木俣」の名前がありました。木俣木俣曲輪を始めとして、南側には平坦な曲輪が連なっていますが、この辺りは井伊直政時代のものだと思われます。12万石の家臣団を抱えるためには、この箕輪城でも手狭だったようで、井伊直政が新たに高崎城を築城して本拠地を移すと、箕輪城も廃城となりました。長野業正から井伊直政の時代までは約40年の歳月があり、築城技術もその間に進歩してきました。箕輪城では、その様々な時代の城郭遺構を目にすることができ、それがよく残っている貴重な城跡だと思います。西上野の要衝にあって、箕輪城をめぐっては激しい争奪戦が展開され、城主もめまぐるしく変わってきました。何よりも実戦をくぐり抜けて来た、名城中の名城だと思います。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/09/16
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館林城の南東に広がる城沼のほとり、館林城から約2km離れたところに善導寺があります。元々は館林の城下町にあり、現在の館林駅付近にあったのですが、駅前の再開発によって城下町からは遠く離れた城沼のほとりに移転してきました。館林駅前の旧善導寺の跡地には、本堂前にあった井戸が残っています。「竜の井」館林城の城沼とつながっているとも言われています。善導寺の歴史は古く、和銅元年(708年)に行基によって開創されたそうです。戦国時代末期の1590年、榊原康政が10万石で館林城に入城すると、善導寺も現在の館林駅前に移転し、以後榊原家の菩提寺となりました。善導寺の境内には、榊原康政の墓所があります。その隣には長男である大須賀忠政(後に横須賀城主)、三男榊原康勝の墓所が並んでいました。榊原康政は1548年に三河国上野郷(愛知県豊川市)に生まれ、12歳で徳川家康の家臣となりました。1563年に三河の一向一揆で初陣し、功績を挙げたことから家康の一字をもらい、小平太康政を名乗るようになりました。以後は姉川の戦い(織田・徳川連合軍VS浅井・朝倉連合軍)、三方ヶ原の戦い(徳川家康VS武田信玄)、長篠の戦い(織田・徳川連合軍VS武田勝頼)、小牧・長久手の戦い(徳川家康VS豊臣秀吉)など、歴戦で功績を挙げて酒井忠次・本多忠勝・井伊直政と共に徳川四天王に数えられています。特に小牧・長久手の戦いでは、あちらこちらに豊臣秀吉を挑発する高札を立て、これに激怒した豊臣秀吉は榊原康政に10万石の懸賞を懸けたほどでした。徳川家康の功績はすなわち三河武士団の功績でもあるのですが、他の三河武士団と同じく、晩年は不遇の中で過ごしていました。そして故郷の三河の地を踏むことなく、自らが築いた館林で生涯を閉じています。盟友であった本多忠勝は、榊原康政の訃報を聞いて館林に駆け付け、榊原康政の亡骸を抱き起して号泣したと言われています。榊原康政肖像画三河武士のやかた家康館(愛知・岡崎)にて
2010/08/13
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徳川家康の関東入封時の榊原康政が10万石で入り、徳川綱吉(後に5代将軍)の時に25万石と、上野国(群馬県)最大の規模を誇ったのが館林藩で、その城下町の中心にあったのが館林城です。現在となっては、城下町・城郭ともにほとんど面影はありませんが、「紺屋町」や「鷹匠町」など、城下町を偲ばせる地名が残り、所々に往時の姿が復元されていました。復元された長屋門と旧宅復元された館林藩士旧宅鷹匠町にあったものを移築・復元したものです。城郭を見る時、普段はあまり城下町に気を留めないのですが、榊原康政が基礎を築いた館林の城下町だけに、すこしゆっくりと見て回ることにしました。紺屋町付近の登城道城下町と城郭の境目は、片側が町屋だったことから「片町」と呼ばれ、片町に大手門が置かれていました。大手門付近大手門から城内を歩いて行くと、(といっても普通に住宅地の中を歩いていただけですが)「土橋門」の櫓門が見えてきました。土橋門(外側)土橋門からが三の丸となり、土橋門の内側に枡形になっていました。土橋門(内側)三の丸は高い土塁で囲まれていたようで、周りの土塁も一部残っています。土塁は見事なのですが、三の丸の曲輪そのものは見る影もなく、文化会館の敷地に変わっていました。ここが城の曲輪だと、考える方に無理があるような気がします。三の丸からは二の丸が続いていたと思われるのですが、こちらは城郭の遺構すら残っていません。現在の二の丸は市役所の敷地となって、「日本一暑いまち館林市暑さ対策本部」が置かれていました。外を歩く人をほとんど見かけないのも納得です。二の丸は見る影もなかったのですが、それでも二の丸から本丸方向を眺めると、遠くに土塁のようなものが見えていました。本丸には三層の天守や櫓が置かれていたそうですが、現在は別の建物が建っているようです。そして本丸跡に行ってみると、近代的な「向井千秋記念こども科学館」が建っていました。こうなると如何ともし難い状況ですが、やはり榊原康政や徳川綱吉よりも、館林出身の宇宙飛行士、向井さんの方に軍配が上がるようです。そのこども科学館の南側には、先ほど見えていた土塁が残っていました。本丸の土塁館林城の本丸の南東側、ちょうど搦め手方向には城沼と呼ばれる大きな沼が広がっているのですが、その城沼と本丸の間にもいくつか曲輪が置かれていたようです。その曲輪の1つである「八幡曲輪」には、館林城の守護神として八幡宮が祀られており、現在も八幡宮が鎮座しています。八幡宮明治になってからは最後の藩主であった秋元氏の所有地となり、現在も秋元氏の別宅が保存されていました。本丸の周辺を探ってみると、他にも館林城の遺構があり、しかもそれが無造作に置かれていました。二の丸・三の丸から出土した石垣石田山花袋の旧宅敷地内に置かれていたのですが、ということは田山花袋も館林城跡に居宅を構えていたことなります。その田山花袋の旧宅敷地には、「浜田藩中奉納手水場鉢」も野ざらしのまま置かれていました。1836年に当時の館林城主であった松平斉厚が石見国浜田藩に移封になった時、松平家の家臣たちが館林在任中の感謝の意を表すため、館林城下の八坂神社に奉納したものと言われています。手水鉢の側面に家臣たちの名前が刻まれている貴重なものですが、もう少しマシな保存の方法はないものでしょうか。館林城の搦め手にあたる本丸の南東側には、周囲5kmもある大きな「城沼」が広がっています。城沼この天然の要害があれば、ここに城を築くのも納得ですが、実はここに縄張りを定めたのはキツネだったと言われています。館林城は、1528年に赤井照光によって築城されたと言われています。当時大袋城主であった赤井照光が、殺されそうになった子狐を救ったところ、次の夜に老翁が現われて、子狐を救った礼を述べると共に、大袋から要害堅固な館林に移るよう薦めたそうです。さらには次の夜に老狐が現われ、館林への道案内をするとともに、尾を曳いて縄張りを定めたと言われています。館林城は別名「尾曳城」とも呼ばれますが、このキツネが縄張りをしたという言い伝えに由来したもので、赤井照光は城内の一角に「稲荷曲輪」を設け、尾曳稲荷神社を祀りました。尾曳稲荷神社戦国時代になると、赤井氏は上杉謙信に降伏開城し、館林城も上杉氏の支配下となりました。その後も甲斐武田氏・小田原北条氏との三つ巴の争いを経て、最後は小田原北条氏の支配下となっています。そして1590年の豊臣秀吉による小田原の役の時、豊臣方の大谷吉継・石田三成の軍勢の前に降伏し、館林城は開城されました。小田原の役の後、徳川家康が関東に入封してくると、館林城には榊原康政が10万石で入城してきました。榊原康政と言えば、徳川四天王に数えられた功臣ですが、「なんでまたこの人が館林に?」という気がしないでもありません。(井伊直政が11万石で同じ上野国箕輪城(後に高崎城)に入ったり、本多忠勝が10万石で上総国大多喜城に入ったりというのも、同感ではありますが)いずれにしても上野国に榊原康政・井伊直政の2人を配することで、十分北への抑えになったことでしょう。関ヶ原の戦い後、榊原康政には水戸25万石への加増・移封の話があったそうです。しかしながら榊原康政は、館林城の方が江戸城に近いこと、そして関ヶ原の戦いでは功績がなかったことを理由に、この申出を断ったと言われています。その代わりに榊原康政は城下町の整備に勤め、堤防工事や日光脇往還の拡充など、館林の発展の基礎を造りました。そして1661年には、徳川家光の4男である徳川綱吉が、25万石で館林城に入りました。1680年に4代将軍徳川家綱の跡を継いで第5代将軍となり、館林藩は一躍将軍を輩出した藩となっています。
2010/08/12
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連日ニュースで信じられない暑さが報じられる群馬県館林市、その館林にあるのが「分福茶釜」のルーツとして知られる茂林寺(もりんじ)です。分福茶釜と言えば、茶釜を背負ったタヌキが綱渡りをしている絵を覚えていますが、「はて、どんな話だったか…」結局どんな話だか思い出せないまま、茂林寺の参道に到着しました。参道にはお店が並び、大小のタヌキの焼物がずらりと置かれていました。(関西では見慣れた置物ですが、明らかに信楽焼です)そして茂林寺の総門までやってきました。総門をくぐると、さらに参道の両側にタヌキの像が並んでいました。茶釜を背負ったタヌキもいますが、近くで見てみると結構グロテスクです。タヌキとの関わりがよくわからなかったものの、茂林寺の歴史は古いようで、総門のさらに奥にある山門を見ると、古刹であることがわかりました。山門(赤門)江戸時代の1690年に創建されたものです。本堂も古く、江戸時代中期の1790年に改築されたものが現存していました。本堂本堂の中を拝観することもでき(有料)、順路に従って中へと進んでいきました。こちらはリアルにタヌキの剥製が並んでいます。そしてガラス戸の向こうに茶釜が置いてありました。お寺の解説によると、この茶釜は守鶴という僧が愛用していた茶釜だそうです。守鶴は1426年に、茂林寺の開山である大林正通禅師に従って、伊香保から茂林寺にやってきました。ある時茂林寺で千人法会が開かれることになったのですが、その時に大勢の客を賄う湯釜が必要となり、この時守鶴がどこからか持ってきたのがこの茶釜だそうです。この茶釜はいくら湯を汲んでも尽きることがないため、守鶴は自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付けました。以上がこの「分福茶釜」の由来なのですが、タヌキとどういう関係があるのか、さっぱりわかりませんでした。タヌキと茶釜の関係はさておき、茂林寺の本堂内には、他にも貴重な資料が展示してありました。3代徳川家光、8代徳川吉宗から与えられた朱印状後柏原天皇(在位1500年~1526年)の綸旨結局タヌキの話はわからずじまいのまま茂林寺を後にすると、「日本でここだけ まゆ玉うどん」の看板が目に入ってきました。「まゆ玉うどん?」とは思いながら、ものは試しと入ってみました。「もり陣」の「まゆ玉うどん」一見すると釜玉うどんですが、うどんには蚕の繭が入っているそうです。(ご主人がわざわざ繭を持ってきてくれました)さすがにシルク入りのうどんだけあって、艶々とした滑らかさがありました。ところで、分福茶釜とタヌキの話ですが、茂林寺から東武伊勢崎線の茂林寺前駅に至る間、看板に物語がイラスト入りで描かれていました。ある時貧しい男が罠にかかったタヌキを見付たのですが、可哀そうに思って放してやることにしました。恩に思ったタヌキは、その夜に男のところを訪ね、茶釜に化けて自分を売ってお金にするように薦めました。男は茂林寺の和尚さんにタヌキの化けた茶釜を売ったのですが、茶釜を火にかけると熱くてたまらず、タヌキは半分だけ元の姿に戻ったそうです。タヌキはそのままの姿で男のところへ戻り、茶釜を背負ったタヌキのまま、見世物興業を行って稼ぎ、男に恩返しをしたとのことでした。何となく思い出したのですが、そんな美談だったとは・・・
2010/08/11
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