パクス・ジャポニカ Vol.2

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2013/09/18
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テーマ: 城跡めぐり(1252)
廃藩置県によって藩庁がそのまま県庁になり、現在も県庁の敷地となっている城跡はいくつかあります。
福島城 駿府城 福井城 山口城 がありました)

群馬県庁のある前橋城(厩橋城)もそんな城跡の1つで、城跡は現在も群馬県庁の敷地となっています。
前橋城群馬県庁 (500x375).jpg
敷地内に見えるレトロな庁舎は、昭和3年に建てられた昭和庁舎だそうです。

そのレトロな昭和庁舎を囲んでいるのが、さらにレトロな前橋城の土塁です。
前橋城土塁 (500x375).jpg



前橋城縄張り図 (495x500).jpg
前橋城の縄張り図


前橋城は「関東七名城」の1つに数えられていますが、七名城に選定されているのは前橋城の前身である厩橋(まやばし)城、戦国時代の方の城郭だと思います。

ところで関東七名城では、前橋(厩橋)城の他に 太田城 宇都宮城 唐沢山城 (新田)金山城 忍城 川越城 があり、誰が選んだのかはわかりませんが、なぜこの7城なのかいまだに不思議です。


北条氏康・武田信玄・上杉謙信が争奪戦を繰り広げ、戦国時代から連綿と続く厩橋城でしたが、江戸時代に入ってから近世城郭へと改修されたため、現在ではその姿を見ることができません。

さらにその近世城郭さえも、度重なる利根川の氾濫によって破壊され、江戸時代半ばに姿を消してしまいました。
前橋城利根川 (1) (500x375).jpg

戦国時代には上杉氏と北条氏が激しい争奪戦を展開した厩橋城も、江戸時代になって酒井氏が建てた三層の天守も、この激しい流れの中に水没したようです。

前橋城天守復元図 (500x375).jpg
酒井氏の時代の天守復元図


現在残っている城郭は、幕末も幕末の1867年に再建されたもので、函館の 五稜郭 (1866年完成)よりも新しい築城ということになります。

あの五稜郭よりも新しい城郭ながら、県庁敷地の周囲に残る土塁を見る限りでは、なんともクラシカルな印象は否めません。

前橋城土塁(5) (500x375).jpg

新前橋城の城郭では本丸のあった場所も、旧前橋城の城郭では三の丸に相当するようです。

前橋城土塁 (4) (500x375).jpg
本丸虎口「高浜門」跡
わずかに枡形が残っていました。

前橋城土塁 (5) (500x375).jpg
県庁西側の土塁

県庁北側の土塁上には、前橋城址の碑が建っていて、ここだけは土塁に上がることができました。
前橋城土塁 (1) (500x375).jpg

前橋城土塁 (2) (500x375).jpg


前橋城城址碑 (500x375).jpg
土塁上にある「前橋城址之碑」
旧前橋藩にゆかりのある人々によって、明治41年(1908年)に建てられたもので、厩橋城から続く前橋城の歴史などが書かれています。
(碑文は全部漢字、しかも繁体字で書かれているので意味不明ですが、その隣に口語で書かれた意訳の解説板がありました)



前橋は元々厩橋(まやばし)と呼ばれ、東山道の群馬の駅が近かったことに由来しています。

厩橋城の始まりは 箕輪城 の支城であった石倉城にあり、箕輪城主長野氏の一族であった長野方業によって、15世紀に築城されたと言われています。

しかしながらその石倉城も利根川の流れによって破壊され、残った三の丸を再建したのが、戦国史に登場する厩橋城でした。

1560年に上杉謙信が厩橋城を支配下におさめると、以後は厩橋城が関東奪還の拠点となり、北条高広が城主となって厩橋城の防衛にあたっています。

ところでこの北条高広なる人物、北関東の戦国史ではよく見かける名前ですが、紛らわしいことに北条を名乗りながらも上杉謙信の家臣で、小田原の北条氏とは敵対関係にありました。
(さらに読み方は「ほうじょう」ではなく、「きたじょう」です)

厩橋城をめぐって小田原北条氏VS上杉謙信の攻防戦が続く中、さらに紛らわしいことに北条高広が北条氏に寝返ったため、厩橋城も北条氏の支配下となっていました。
(本人もさすがに紛らわしいと思ったのか、この時の北条高広は本来の姓である毛利を名乗っていたようです)


1590年の豊臣秀吉による小田原の役では、秀吉軍の浅野長政の攻撃の前に、ついに厩橋城も落城しています。


北条氏の後に徳川家康が関東に入封してくると、厩橋城には平岩親吉が入城し、平岩親吉が 甲府城 に移封になった後は、川越城から酒井重忠が厩橋城に入って、以後9代にわたる酒井氏の藩政が続きました。

酒井氏の時代に厩橋城も近世城郭へと改修され、地名も厩橋から前橋となって、三層の天守が建てられていました。
しかしながら再び利根川の激流によって城郭の破壊が進み、1767年に川越藩の陣屋扱いとなると、前橋城も廃城となっています。

それから100年近く経った1863年に前橋城再築の許可が下り、ようやく悲願の城郭が完成したのが1867年のことでした。
しかしながらその半年後に大政奉還が行われて、近世城郭としての前橋城も役割を終えることとなり、前橋城の本丸御殿が前橋県庁へと引き継がれています。

関東七名城





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最終更新日  2014/12/24 08:49:48 PM
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