のんびり・ゆっくりダイエット

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2023/06/10
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カテゴリ: 国内旅行



高知城まで車で約40分・・
高知城近くの駐車場に止めて
徒歩で高知城へ・・
追手門の裏の方から入ったら最初に出迎えてくれたのが





野村茂久馬 のむら-もくま

明治2年(1869)~昭和35年(1960)

安芸郡奈半利村の豪農の子に生まれる・・
明治30年ころ高知市に出
内国通運高知取引店を預かることになる・・
日露戦役に戦時輸送など陸海に事業を拡げる・・

明治末には大阪商船に関連を持って浦戸港他・・
高知県東西沿岸各寄航地の沖取荷役を独占する・・
そのほか四国のバス事業の統合・高知鉄道・土佐商船などの設立に力をつくす・・
昭和7年には貴族院議員に当選し
同8年高知商工会議所会頭となり土佐の交通王とよばれた・・
桂浜の坂本竜馬銅像建立にも協力した・・

(・0・*)ホ,(゜0゜*)ホ--ッッ!!!

実業家だそうです・・
クマさんも知らなかった人物・・
凄い人なんですね・・





高知城は鏡川・江の口川を外堀とした約44mの大高坂山に関ヶ原の戦い後
掛川から入封した土佐藩初代藩主の山内一豊が築いた城で
この地には
もともと南北朝時代に大高坂松王丸によって築かれた
大高山城という居城があったそうです・・





1603年(慶長8)に本丸・二の丸の石垣と本丸主要部が完成し一豊が入城・・
1611年(慶長16)三の丸の完成をみてほぼ全城郭が整いましたが
築城から126年後の1727年(享保12)
城下町から出た大火で城郭のほとんどが消失してしまいます・・





幕府の許可を得て再建に着手し
1753年(宝暦3)までに創建当時の古い様式の姿に戻すことに成功・・
四重六階の望楼型天守・本丸御殿(懐徳館)はじめ本丸建物群がそのまま現存する
日本で唯一の城郭遺構となっています・・





石樋(いしどい)

高知県は全国でも有数の多雨地帯のため
高知城も特に排水には注意が払われています・・
石樋は排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られていて・・
その下には水受けの敷石をして地面を保護しています・・

このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で・・
他の城郭では見ることのできない珍しいものです・・
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16カ所確認されていますが・・
下になるほど排水量が多くなるためこの石樋が一番大きく造られています・・





山内一豊の妻の銅像

本丸目指して進むと
まもなく山内一豊の妻千代と馬の像があります・・
高価な名馬を購入するために
千代が持参金を夫に差し出した内助の功の逸話がモチーフだそうです・・





三の丸石垣

三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石材は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三ノ丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。

三ノ丸の入り口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。

三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。

工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど原状復旧を基本として実施した。 改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21年度にかけて実施、総工費約4億円を要した。


現代の技術によって歴史という名の姿が保たれている・・
凄いことですね・・





雨の中階段をひたすら登ってきて
本丸が見えました・・
後少しです・・







懐徳館(かいとくかん)

藩政時代に築かれた本丸御殿では
この世に 2 つしか現存していない本丸御殿の 1 つです・・

ちなみに
高知城の本丸御殿のことを「懐徳館」と言うのですが・・
これは明治 6 年に高知城が公園として一般に公開された時に
懐徳館と名付けたのだそうです・・

そしてこの本丸御殿が天守への入口になっています・・

ここはまだ詰門です・・







詰門(つめもん)

詰門は本丸と二の丸の間の堀切に設けられた櫓門です・・
廊下橋としての役割も担っていて
二回部分が藩主のもとに向かう家老の待合場所だったことから
詰門の名が付けられたと言われています・・

一階部分は籠城に備え
塩を蓄えるくらになっています・・
入り口は東面と西面で食い違いになっていて・・
攻め寄せた敵が容易に突破できない構造となっています・・





そしてこの詰門を抜けると
本丸御殿と天守が見えてきます・・





功名が辻で仲間由紀恵さんが実際に着た着物が展示されています・・





本丸御殿欄間
高知城の本丸御殿は書院造です・・





書院造

書院造は寝殿造を母体として発展したもので
室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成しました・・
それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で
個々の建物(書院)は畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成されます・・

特徴として
部屋の外回りの建具に舞良戸(まいらど)・明障子(あかりしょう)雨戸が立てられ
内部は間仕切が増えて大小の部屋ができ
間仕切には襖・明障子が用いられています・・
柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾されています・・
また天井には格天井(ごうてんじょう)が用いられます・・

書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや
座敷飾りの位置・装飾などにより・・
身分と格式の序列を表現していて武家の権威を象徴する建築様式です・・





杉円盤標本(左上画像)
物見窓(右上画像)  

矢狭間塀に設けられた横連子(よこれんじ)の武者窓のことで
本丸東南面のも物見(監視)を担う軍学上重要な窓です・・
矢狭間塀には監視や鉄砲をうつためにある狭間が設けられていますが・・
確認できる範囲が狭いことから
監視範囲を大きくとった物見窓が設けられています・・

竹の節欄間(左下画像)

竹の節欄間畑の節状のデザインが束に用いられているもので・・
間仕切りの上部に使われています・・
この様式は平安時代の貴族の書院造りの館の間仕切りに用いられた
意匠と伝えられています・・

帳台構え(右下画像)

一応帳台構えでこの扉の向こうは納戸なんですが・・
藩主護衛の武士が隠れたことから「武者隠(むしゃかくし)」と呼ばれたそうです・・
書院造りの画像の真ん中の柱の左に少しみえています
わかりますか?





高知城は外観 4 重(内部 3 層 6 階)の望楼型天守です・・
つまり
ここから全部で 6 階まで上がっていくということになります・・





2 階には高知城の精巧なジオラマが展示していました・・
かっこいいよね・・










坂本龍馬的紋服(複製品)







山内容堂所使用的陣羽織(複製品)

見ごたえのある高知城でした・・
姫路には世界遺産の姫路城がありますが
それぞれに個性があって素晴らしいです・・

さて・・
高知城を後にして向かったのは・・
どこでしょうか?

もう皆さんおわかりかとおもいますが・・

o(*^▽^*)o~♪


続く・・


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Last updated  2023/06/10 11:55:30 AM
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