聖セラフィムの証拠「聖なるかな、聖なるかな、聖なるであることは、主の元に来ることができる」

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熾天使4444

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2011.10.05
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 私は以前、『666(ルシフェル)に頼られているような気がする』と言ったことがありますが、人間は神が可能性であり、愛であることを知っています。

 神に近い人をイメージしてつくり出すのが人間なら、獣に近いものをイメージしてつくり出すのも人間。

 であるなら、『獣ではなく神に近い人をつくり出したい』

 そう人間は思うに違いないのです。

 そこから大勢の偉人、賢人、賢者が生まれた。
 もちろん、イエス・キリストもお釈迦様も聖母マリア(あいうえお順)も例外ではなく。

 実在のイエス・キリスト、お釈迦様、聖母マリアがどういう人物であったにせよ、後に人間が最も神に近い人間をイメージして、この世に存在させたのです。

 ルシフェルも人間がつくり出したのです。

 人間の想像力が神の可能性と結びついた時、全ての聖霊、人や物はこの世に現れる(創造される)。



 全てをつくり出すのは人であることを。

 神も天使も悪魔も偉人も獣(666)も核も全て。

 だから、全責任は生みの親(想像主、創造主)である人にある。

 きちんと始末すべきものは、その責任において始末しなければならないし、明らかにすべきことはきちんと明らかにする責任が人にはあるのである。





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Last updated  2011.10.05 22:47:47


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