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最近、風邪気味です。鼻は詰まるは、関節は痛む、消化に悪いものを食すとお腹に来る…。熱が出ないのだけが幸いですが、そのため、体内で風邪の菌が熾き火の如くジクジクと蠢いている様で、厄介です。明日は、医者ですね。これというのも、乾燥して暖かく生徒が大量にやってくる図書室で作業を行っているためです。いくら、換気をしようが細菌にとって、図書室は理想的な繁殖空間。オマケに各学年・各クラスの生徒が密集した空間に詰め込まれるので、感染しやすいですしね。冬休み前に、保健の先生と相談して図書室の前と図書室内の洗面台の前に「手洗い、うがい(作った後に、コップが無いじゃん!と、気が付きました…。)をしましょう!」というポスターを貼って、注意を喚起したのですが…。その当人が風邪をひいてしまうとは…。あと、体のことで厄介なのは、手の乾燥ですね。書架整理の時など一度に本を扱う時は手袋をはめて作業をするのですが、本の装備や修理、貸出やちょっとした作業の時は、手袋などはめずに作業をしてしまうのですが…。そうしたら、本というのは、まぁ、紙なのですが、手の皮膚を保護するための油を吸い取ってしまうのですよ!そのため、良く本に触れる右手の親指、人差し指、中指の先がカサカサになってさあ大変!家に帰って皿洗いや洗濯など、水仕事をしようものならあっという間に指が割れてしまいます。で、これが痛いんですよ…。直りかけは、痒いですし…。そのため、最近ではハンドクリームを持って学校へ行っています。さて今日は、少々不愉快な事が…。余菱さんの日記にもありましたが、この時は残った予算を使い切るため、アレコレとモノを買う段取りで忙しい時期でもあります。学校図書館では当然、図書の選書と相成るわけのなのですが…。ここで、ウエの方から(学校外の方からなのですが。)「マンガやらライトノベルをあまり買うな!」というような趣旨の発言があったのです。ライトノベルは生徒からのリクエストでちょくちょく購入はしているのですが、マンガは本年度はこうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』や先生からのご要望で入れた手塚治虫の『ブッダ』全巻ぐらいなもので、10冊も入れていないのですが…。また、この発言をした人が「軽い本ばかりではなく、もっと生徒にとって読み語応えがある本を入れなさい」なんて事を言うものですから。ムカ!ってきましたね。目の前で言われるますと。これまで、購入した図書のリストを見てみろ!って言いたかったですね。これまで、言ってきている様にライトノベルは、生徒を図書室に呼び込むための「誘い水」です。本当は、マンガが一番効果的なのでしょうが、選書の基準がうるさいのと、私にもやはり「活字が…」という意識があって、取り合えず公共図書館にも配架してある電撃文庫や講談社のホワイトハート、角川のスニーカーやビーンズを購入していた訳なのですが、それを頭越しに「教養のある本を入れてなさい」みたいな事を言われるとは…。まぁ、この人はライトノベルやマンガを読まない人なのでしょう。いつも思うのですが、マンガは言うに及ばすライトノベルは変な誤解をいっぱい受けていますね。腹立たしいことですが!幸い、最近の学校には田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』(新装の徳間デュアル文庫〔最初の『銀河英雄伝説(vol.1(黎明篇 上))』を。〕で入れて、と言われたのですが、如何せん全20巻、外伝9冊、ハンドブック1冊という量なので…。)や『創竜伝』(文庫版の1巻目『創竜伝(1)』です。)、水野良さんの『ロードス島戦記』や森岡浩之さんの『星界シリーズ』(初巻の『星界の紋章(1)』を。)を読んだ世代の先生方が多くなってきたので、ライトノベルに関する壁は薄く、低くはなってきてはいるのですがね。さらに、ライトノベル自体も質が高くなってきていますしね。時雨沢恵一さんの『キノの旅』なんて、ショートショートの旗手、星新一さんと張り合うほどの質を持っているのではないかと、最近では思うほどです。でも今日は、誰が何と言おうとも、森薫さんの『エマ』だけは入れてやる!と心に固く誓った日でもありましたね。こういう様な分からず屋や、頭でっかちを撃破・粉砕する手段を手に入れましたからね。何せ今回は、お国のご公認があるのですから、『エマ』には。文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞という素晴しい栄誉が森薫さんと『エマ』に与えられたことに乾杯!!! 付足之壱:こういう人たちって、なんでこんな言葉に弱いのでしょうかね?まあ、どちらにせよ、強行突破をする予定でしたが。私は学生時代から、2度、丁寧に玄関からお願いをして、余りにも無礼&理不尽な対応を取られると3度目は、裏口を蹴破るか、玄関にトラックで突っ込むというような手段を用います。院生時代には、「お前は戦車のような奴だ。目標に向かって障害をなぎ倒しながら一直線に突き進む。性質が悪いのは、穴に落ちても引き吊り上げて、地雷を踏んだり対戦車砲で粉々にされても、戦車を一から組み立て直してまた突き進む。始末に終えん」と後期過程の先輩から言われたことがあります。付足之弐:それにしても、私は文章を創作する人たちに偉そうに、この本は程度が低いだの、アレコレ言って評価、この場合はランク付けでしょうが、連中は嫌いです。評論家など、自分の顔と名前を出して職業にしている人は兎も角、理由も無くあれダメとか、この本は面白くなかったから、表現が気にくわないとかの理由で、他人に本の評価を押し付けるな!と言いたいです。感性その他の問題で、その人にとって合わなかった本でも、他人にとってはまた別の評価があるでしょう。それよりも、薀蓄垂れるだけの事が出来る人は、大学の卒論で原稿用紙100枚以上の論文を書いているのか?と聞きたいです。どれだけの人が、人に読んでもらうために(お金を払ってまでですよ!)文章を作ることが大変か、身にしみて理解しているのでしょうかね。
2006年01月20日
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はい、今日は課題図書で戦争話をやってみたいと思います。取り上げる本は、以前「図書室の選書のお話 その3です。」で紹介したゲイリー・ポールセン著、林田康一訳『少年は戦場へ旅立った』(あすなろ書房、2005年)です。このお話は、掻い摘んで内容を紹介しますと、時はアメリカの南北戦争勃発の1861年。北部・合衆国側(リンカーン大統領)のミネソタ州ウィノアに住む15歳の少年、チャーリー・ゴダード少年は、南部連合のサムター要塞攻撃の報に接し、戦争開始という周囲の大興奮の熱狂が伝染or取り付かれ、年齢を偽り15歳で軍へ志願をします。そして各地を転戦し、激戦(ゲスティバーグの戦いなど)にも参加、その結果、戦争で負った心の傷(戦闘神経症、つまり心的外傷後ストレス症候群・PTSD)が原因で戦後、1868年に23歳の若さで亡くなってしまったという実話を、現在のアメリカで最も優れた児童文学作家の1人であるゲイリー・ポールセン氏が描いた作品です。ちなみに、ポールセン氏の出身地もミネソタ州で、氏も家庭の事情から15歳で自立をし、様々な職業を経て27歳の時に作家としてデビューをしたそうです。さて、ここで南北戦争前のアメリカの軍事力について簡単に解説してみます。今や、世界に敵無しという凄まじき軍事力を保持するアメリカ合衆国ですが、この時代、19世紀の中ごろの合衆国正規軍の内容はさびしいものでした。なぜなら、この時代までアメリカは1823年に時の大統領、モンローが出したナポレオン戦争後の世界秩序(注:ヨーロッパ体制の再構築)のためのウィーン体制とそれを支持する欧州諸国のラテン=アメリカへの干渉を封じるための「モンロー宣言」により、欧州諸国との相互不干渉の外交政策が孤立主義へと変化していき、外征軍や防衛軍の必要が極めて薄くなっていた時期でした。一応は、このブログでも紹介したアラモ砦の戦闘で有名なアメリカ・メキシコ戦争が1846~48年まであったのですが、これもほとんど義勇兵(ディビー・クロッケットもその1人です)や独立したテキサスの軍隊がほとんどドンパチをしたので、合衆国陸軍は大した働きをしていなかったのです。最も、海軍はこの機会を目ざとく逃さず、メキシコ湾沿岸での作戦のために蒸気軍艦を購入し近代化を進めたのですがね。その先頭に立って海軍の汽走化を推進していたのが、あの黒船来航のペリー海軍准将だったのです。もともと、アメリカでは市民一人一人が国家(州)を守る兵士である、という認識が高くて(だから銃器の保持が国民の権利でもあり義務となっているのです)独立戦争以来、一朝有事の際には健全な成人男子は自宅からケンタッキーライフルを片手に飛び出して即、戦争へ、というような認識で軍隊を動員しようとしていたのです(このような兵士のことを、即座に応酬出来る民兵という意味でmiunteman:ミニットマンと呼びます。ついでにこの名称はICBN:大陸間弾道ミサイルの名称ともなっています。桑原クワバラ)ですので、正規軍は専門職、騎兵・砲兵・工兵などが主体で軍隊の規模が小さかったのです。また、国内のフロンティア(辺境)が広大で国境線が長いという地理的要因からも、動きが鈍く拠点防衛に向く歩兵より、小規模でも機動力がある騎兵が重宝されたという側面もあります。ですから西部劇の主役は騎兵隊なわけですよ。そんな理由で、南部諸州が連合を組んで北部合衆国へ喧嘩を売った時、北部にはまともな軍隊がありませんでした。なぜか、それはもうお分かりですよね。歴戦の勇士は南部側のテキサス州やフロンティアに面した南部諸州に固まっていましたし、職業軍人もヨーロッパ式の大農場経営者で上流階級を自負していた南部富裕層が正規軍の大半の将校を務めていたのですから・・・(ほとんどの将校、例えば南軍の名将、リー将軍も開戦と同時に南部へ行っちゃいました)。という次第で、サムター要塞攻撃のすぐ後、リンカーンが慌てて議会に正規軍の大動員の許可を取り付けても、まともな軍隊が動員できる訳がありません(おまけに、軍を召集・編成するにも議会の承認が必要な北部は、議員のご機嫌伺いのため軍歴も何も無い各州の有力者やその子弟を臨時任官で将校に任命、指揮を執らせたのですから・・・。惨状は推して知るべし)。ですので、戦上手な将校に指揮された南軍が初戦どころか開戦後2年間、北軍を翻弄し続けたのです。でもそんな優勢な南軍に対してなんで北軍が2年間粘れたかといいますと、それは海軍力のおかげなのです。幸い、海軍のほとんどが北軍に味方し、リンカーンは工業生産力のほとんど無い南部を海軍力で海上封鎖をして国外からの武器弾薬その他の物資の補給を止めたのです。そのため、南軍は武器弾薬、ひいては兵士に支給する靴までも不足し、交戦能力が失われていったのです。話を戻しまして、そのような、泥縄式の軍隊の編成状況がこの『少年は戦場へ旅立った』にも描かれています。で、その内容を滔々と書いていきたかったのですが、字数の制限に引っかかってしまったので、明日に回します。では、次回をお楽しみに! 世界各地の軍装をを知りたいならコレ!新紀元社より発刊された『オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ』の邦訳版より『南北戦争の北軍』と『南北戦争の南軍』の2冊を紹介します。この表紙を見てお気付きでしょうが、北軍のカラーはブルー、南軍のカラーはグレーです。最も、南軍は説明したように物資の補給が思うように運ばず、結局はそれぞれ自宅から着てきた服装のまま、とくに物資が底をついた後半では戦争をしていたそうです。
2006年06月20日
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