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しなければとの気持ちと、何故私がしなければならないといった感情が交互に行きかい、心から手助けをすることができませんでした。だから意地悪な気持ちで朝も必要最低限、一つだけから始めました。食事の前の入れ歯の手入れ、健康に関する最低限の事から始めて一か月毎日続いたら次を増やしました。そうして何か月もかかって朝食前の手助けができるようになったのです。一つができてもまだできていない部分が残っています。完全なお世話ができていない状態が続きました。不思議なことに一つづつ増やすことで苦も無く自然とできるようになったのです。朝の準備が5分から30分になるのに何か月もかかりましが、習慣となったその介護に苦痛はありませんでした。
2022.06.24
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これは義母から教わったのだと思います。義母と同居を決めたが、正直好きな義母ではなかったので、心からお世話をすることは体が動かなかった。仕事を理由にしていたのかもしれない。義母の状態は精神的なもので体の状態に問題はなかった。つまり自分の身の回りのことはなんでも出来る状態ではあったけど、何もできなかった。例えば朝の洗顔や歯磨きはベッドのそばに暖かいお湯やタオル歯磨きの用意をしても何もしない。食事の前のすることだけでもずいぶんとあった。洗顔、歯磨き、髪を整えるなどです。そのすべてに手を出すことはできなかった。気持ちができなかったのです。
2022.06.22
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小豆をことこと煮て餡を作り、おはぎを作った。喜んでくれる人の顔を浮かべながら作る時間はそれだけで幸せをもらえるものなのです。お金を出せば便利も美味しさも簡単に手に入る。美味しい、便利と感じるかもしれないがそれで終わる。心は豊かにはならない。幸せな気持ちはもらえない。便利という誘惑に私たちは気づかぬ間に毒されているように思います。
2022.06.21
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時代の流れに翻弄され、便利を追及する生活はなすなす心をなくしていくのではないのでしょうか。掃除機やモップでフローリングを掃除していた習慣から、膝をついて雑巾で床を拭く掃除に切り替えた時、古びた廊下がありがたく、愛おしい気持ちになった。だから続けられる。汚れたから掃除をするのではなく、雑巾でありがとうと磨く動作は掃除を幸せな時間へと変えてくれる。生活の一つ一つが自分のためにできるのです。
2022.06.16
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簡単・時短の料理がもてはやされている。便利な調理器具が次から次と生まれる。それが当たり前の世の中になってしまった。ゆとりの時間の確保といえば心地いいが、私は坐禅で知った心の静けさでずいぶんとゆとりができた。そして料理も手間をかけることの楽しさと、美味しさを知ってしまった。簡単にできる料理も手間をかける料理も味は変わらないかもしれないが、その過程の時間は豊かさを味わえる気がする。料理は栄養も味もそして供する器も大切だと思うが、何より大切なのは喜んで食べてくれる家族を思い、健康を考え手間をかける時間が作る人の心だと思う。プロの料理人の味が素晴らしいのは、手間という時間が込められているからだ。
2022.06.15
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手間をかけるということ、時間をかけるということは心がこもるということだと私は思う。お寺の生活を身近にするとそれがわかる、それはまるで昭和初期のような生活だ。洗濯機やストーブなどの生活機器はあるが、作業一つ一つに手間をかけて丁寧な日常が繰り返される。雑巾で床を拭くこと、布巾で皿を拭ききちんと所定の場所に整える。木や漆の道具や器は丁寧に手入れが行き届いている。きちんと所定の場所で所定の道具が並べられている台所は見事だ。それは時間や手間を惜しむことなく、便利という動作は何一つないように思われる。現代の生活はいかに時間を短縮するか、便利であるかと言ったキーワードが氾濫している。
2022.06.13
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i経済の発展は常に新しい産業を生み出しています。その産業の課題の一つに便利というキーワードがある。なぜなら便利が購買意欲を引き起こし購買につながるからだ。テレビ・冷蔵庫・洗濯機をはじめとした便利器具は世の中を大きく変えた。時間を生み出したかのようだが、私は心を無くしているように思える。子供の頃、テレビや洗濯機が家庭に入った時期でもあったが、まだたらいや洗濯板や固形石鹸があった。その作業は膨大な時間を費やしたが、そこには心が存在していた。まあこんなに汚して、こんなところに穴をあけてと、母はこの服を洗濯した。時間と手間がかかり効率的ではないけれど、常に心があった。
2022.06.07
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様々な要因が集まってのことだと思う。縁は当人にとって必要になったとき初めて訪れるような気がするからだ。坐禅と出会った時期も私にとっては必然だったのかもしれない。今ではこのもっと早く病が癒されつつある。もっと早くと焦らなくても、急がなくても仕事量は変わらない。心をゆったり、きれいにした状態で仕事に望むことの方が良い仕事ができるようなきがする。もっと早くの病は家事や生活そのものを疎かにしていた。なぜなら家事などもっとも不要な時間で、評価されない時間だと思っていた。時間がもったいないのでできるだけ避けたい時間だったからだ。それが坐禅によって変わろうとは予想だにしなかった。なぜなら道元禅師の教えは坐ることと日常を大切に生きること今の私に理解できることはその二つのみだからだ。
2022.06.04
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常に頭の中は仕事の段取り、次の仕事に繋がる付き合いと心はいつも動いて、欲望に満ち溢れていました。遅い事や目先のことしか考えない人を疎ましくも思っていました。これが私の姿だった。世間的には笑顔を見せて人の評価を気にしていた。こんな人間が壁にぶつかり、出会いに育てられ、頭をぶん殴られるような経験をして、出会いや経験が私を変えていったように思います。心にはいつもどんよりとした不安を抱えていた。この不安が腫れることには絶望的だった。もっと早くが正しいと信じていたからだ。坐禅は最も効率が悪く、成果が期待できない時間だと思う。しかし、私は坐禅を選んだ。なぜかと問われても答えることはできない。
2022.06.03
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自営は動いたものが数字として表れる。数字はお金に繋がり、自分の成績になる。ましてや目の前の仕事だけでなく、明日への段取りや資金繰りなど考えることは山ほどある。段取りや効率がスムーズに仕事を進める。効率と言えばたとえば一時間でどれくらいの仕事をこなすか、それにかかった経費はと、私のような小さな会社でもすることはいくらでもある。長い間に身についたとはいえ、気が付けば常に早く、早く、もっと、もっとと時間に追い立てられていた。元来怠け者の私だから、無駄な時間を過ごすことは嫌悪感に繋がる。こうして気が付いたら、もっと早く病に侵されていた。
2022.06.01
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坐禅を始めて仕事に対しての取り組みも変わったような気がします。すこしゆったり、ありのままで対処できるようになりました。不安も怒りもずいぶん和らいできました。ですからストレスも軽減され、笑顔が増えたような気がします。仕事は私の修行の場です。相変わらず不安や焦りの要素はありますが、それが不安や焦りではなく、あるがまま、なるべくなる、今を精一杯、そんな気持ちが湧いてきて、その要素は私のg天気のエネルギーになっています。仕事を通じて出会った多くの恩人、友人、師匠には仕事で恩返しをできればいいなと思います。これからも坐禅とともに命ある限り仕事を続けようと考えています。
2022.05.27
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仕事の要望は自分が意図しないところで進み依頼が来ます。もちろん一つ一つを誠実にこなすことは基本ですが、失敗や迷惑をかけることもあります。喧嘩もしました。仕事は自分に見合ったものしか来ません。良い仕事、良い出会いを望むなら、自分が変わらなければならないことに気づいたのです。自分の未熟さや至らなさは誰よりも己が知っていました。できれば楽をしたい自分がいつもいました。そんな時坐禅の場所を見つけたのです。坐禅と出会ったのです。遅くなく、早くもなく、出会いと言うのは少しの狂いもなくぴたりとやってくるのです。仕事での出会いと、出会った人への感謝は表現できないままに今日に至ります。私は多くの人に恥ずかしくない自分になるために命ある限り坐禅と取組み、自分を浄化していつの日か恩返しがしたいと思っています。
2022.05.25
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たった一人の小さな会社です。会社を作って改めて銀行との付き合いや、そのためには数字が必要で大切だということが理解できるというお粗末でした。マットを持って引き合いがあるとどこにでも出かけました。一人の力は小さなものでした。リスクを恐れて冒険できなかったことも大きな要因でした。マットは自己満足に終わったような気がします。しかしマットでの出会いは素晴らしいものでした。私に社会の暖かさや厳しさを教えてくれました。多くのことを教わったのです。会社の存続のために介護リフォームを始めました。仕事は山あり、谷ありでしたが20年は過ぎました。坐禅との出会いも仕事が関係ないわけではありません。
2022.05.23
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若いゆえの安易な考えから始まりました。手探りの自営は大変でしたが私は多くのことを学びました。インテリアコーディネーターや二級建築士の資格も取りました。世の中に出ると資格が信用になるとわかったからです。そして私はインテリアの仕事が楽しくもっと様々な分野で生かすべきだと思いました。文具メーカーに営業をして専門のプランニングの事務所も作りました。出会ったお客様のヒントから介護用のマットの開発も始めました。介護環境はインテリアとは切り離せない分野で最も重視すべき問題だと思ったのです。介護用マットの開発販売では多くの出会いがありました。そして社会的信用を得るために会社を作りました。
2022.05.22
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お寺の生活と違っている点、それは私には生活の糧を得るための仕事をしなければならないことです。仕事は自然に与えられました。地元から離れた場所での専業主婦で二人の子育てを始めました。上の子が幼稚園の時、このまま狭いアパートでの暮らしはよくないと思いました。しかし育った田舎と違って土地から家となると莫大な費用が掛かります。幸い田舎には土地がありました。子供の為にも田舎暮らしが良いのではと考えました。私が家にいて子供たちを迎えるためには自営が良いだろうと単純に考えたのです。そこで田舎の土地に家を建てて引っ越しをしました。自営は主人の仕事の関係でインテリアの店を始めました。私も主人も初めての自営でした。
2022.05.21
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わが子に残す財産など、この為にと思う気持ちを捨てれば、人生の最後まで心は豊かに向かって行くと思います。家は子育てをする「巣」だと考えますが、子育てが済んだあとは、自分育てのために人と出会い、助け合えれば、新しい家族が生まれるのだと思います。家族は血の繋がりと言う枠を取り払う時代が来ているように思います。老後の心配をするより、今をどのように生きるかで、将来家族になれる人との絆を大切にするべきだと思います。
2022.05.19
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これからの家族は家と言う場で心をぶつけ合い、切磋琢磨しながら住まう自立した人たちで良いのではないかと思います。親である、子である、そして血縁であることへのこだわりはないほうがそれぞれの日常を向上させてくれるのではないのでしょうか。縁あって出会った人と一緒に住まい、家族として過ごせば、心の解放と同時に人間性の向上にも繋がると考えます。親が子に残す財産など、子のためにといつまでも思う気持ちを捨てれば、人生の最後まで心は豊かに向かって行くと思います。
2022.05.16
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子供が親に対しての気持ちがどの程度であるかは、親がどのように接したかで決められるのではないでしょうか。親である、子であることでの繋がりは当事者同士の問題なのだと思います。親であるから敬い、尽くさなければならない束縛は薄れています。尊敬すべき親であるかはそれぞれなのだと思います。介護の経験は私の場合、親を看取るということより、他人と同居して心が融合する過程だったような気がします。正直義母とは他人ですし、決して好ましい関係ではありませんでした。近くで手助けしなければならない人がいて同居を決心、自分の醜い心と向き合いながら、最後には義母と心が融合して、今は感謝すべき人になりました。
2022.05.15
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何もわからないまま結婚、子育て、介護と経験して、一喜一憂しながら、いつもそばにいてくれた家族に支えられ、今日まで命をつないでいたように思います。そして坐禅を通じて、改めて自分を振り返ると、綺麗でもカッコよくもない日々でした。改めて家族に感謝しながらこれからの家族と言う形を考えました。子育ては私の人生においてかけがえのない時間でしたが、子供が自立して、人間として客観的に観察できるようになると、子育てと言う時間はひとえに私自身にあったように思います。子育てが終わった時点で人間同士としての関係に変わりました。親孝行と言う言葉が死語に近い昨今ですが、子供が親に対して恩を感じてると言うのはあくまで子供の気持ちで親が強要も口にする言葉ではないのでしょう。
2022.05.10
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そのような関係が日常を同じ家で過ごすことで、心が通じるのに12年もかかってしまった。嫁姑ではなく人間同士として分かり合えたと思う。最初から親の介護、親孝行と思っていたらここまでぶつかりあえなかったし、好きな人だったら嫌いになっていたかもしれない。同じ家で過ごす時間を共有することで嫌いな人を心から思いやれる関係を築いてくれた義母には心から感謝している。本音で言えば育ててくれた母より好きな人だ。不器用で思ったことを口にしてしまう。感謝や謝りの言葉を出せない。綺麗ごともお世辞も言えないが一度信頼すると最後まで信じてくれる人だ。私は介護を通じて義母と家族になった。家族は血縁は関係ないと信じる。血縁に拘ると見えるものも見えなくなる。地人だと割り切って同居すると人間として心が触れ合える。これからの家族は結婚のみならず相手を理解できる関係を作る。自由な形で心が触れ合える環境を作ることだと信じる。
2022.05.09
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子育てと介護という経験をしてみて改めて家族とは親子とはと考えるようになった。親孝行と言う言葉がある。私は親孝行をするために介護をしたのではない。介護では親孝行と言う言葉は一度の意識したことはない。人と人とのぶつかり合い、それが介護だった。建前でぶつかり合っている間は分かり合えない。本音でぶつかり合えるようになって初めて二つの心が溶け出す。そこには親である立場も、子である立場もない。私達は介護で初めて同居を始めたのだが、基本的に他人だ。ましてやあまり好ましくない他人同士だった。最初の頃は走馬灯のように嫌な思い出ばかりが湧き出ていた。介護なんて綺麗ごとでできないし、かっこよくもない。
2022.05.08
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母は跡取りとの結婚でしたから、嫁姑の確執を避けるために三男である主人を選んでくれましが、結局私は義両親とのかかわりで一人前にしていただきました。介護が必要になったとき、さまざまな選択肢がありますが、後さき考えずに選んだ自宅介護で私は心を育てていただきました。どのような関係でも人と人が触れ合うことは無駄なことは何一つなかったのです。生きることはきれいでもカッコよくもないけど、素適です。
2022.05.07
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介護中は時には早く終わって欲しいと願ったこともあった。そんな私の心と向き合って耐えてくれたのは義母でした。これは介護が終わった今だから思えるのです。12年という時間が長いのは私の未熟さの為です。そして義母が私のために生きてくれたのだと思いました。義母との時間が無かったら今の私はなかったように思います。義母は私の家族になりました。義父の優しさとの触れ合いもありがたいと思いますが、義母との葛藤での触れ合いは大切な宝となりました。私は介護という経験をさせていただいて、義両親と本当の家族になったように思います。
2022.05.06
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ここまで来たら100歳まで頑張ろうかと思った矢矢先、食がなくなり、点滴で命をつないでいましたが、最後の数日病院で亡くなりました。決してほめられた介護でも嫁でもありませんでした。12年という歳月は私の未熟の為以外ありません。12年もかけなければ自覚できなかった自分の醜い心がありました。介護は拘束される時間は長くはありませんが、心は24時間拘束されます。そして介護する私にとっての苦痛は、自分の心のエゴや醜さと向き合う時間でした。何故あの時、腹が立ったのだろう。もう少し優しくできなかったのだろうか。そのような後悔と自己嫌悪との戦いです。しかし、嫌いだった義母と同居することで、目を見て話すことができ、相手を思うことができ、それを行動に移すことができるようになるために、私にとって必要不可欠な時間だったように思います。
2022.05.05
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それ以来死にたいと言われなくなりました。おそらく深く傷つけてしまったのだと思います。介護生活は12年続きました。12年というと凄いねと言われることもありますが、決してほめられた時間ではありませんでした。その12年の間に目を見ることもできず、何かにつけて腹を立てていた日々から、毎朝、髪を梳き、体を拭き着替えをしてもらってディサービスに送ることから、嗜好品のお菓子を買ったり、ディに来ていく服を揃えたりと自然に生活の中に、私の心に義母は溶け込んでいました。義母が80歳から同居を始めて亡くなったのは92歳でした。
2022.05.04
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その後まもなく義母がうつ病になりました。正直私は義父の時の態度に怒りを感じていましたので、嫌いな義母でした。義父を亡くして一人になった義母は私達以外に介護するものもいません。私は自宅で介護する決心をしました。この時は親切心などなく周りの人への反発や意地がありました。ですから介護の日々は苦痛でした。食事を運ぶにも目を見ることができませんでした。義母の発する言葉一つにも腹立たしさを感じていました。義母は義兄を亡くしていましたので、発する言葉は毎日「かわいそうに」と「死にたい」でした。始めのうちは丁寧に説明するのですが、数年たっても止めません。「死にたいのはこっちの方だよ。」と言ってしまいました。
2022.04.24
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義両親とは近距離別居でしたが高齢なこともあり何かと手助けの必要性がありました。義父の最後は入院を余儀なくされて数か月の入院後医師の勧めもあって退院、その数日後になくなりました。入院中は毎日何らかの食べ物を持って通いました。入れ歯を磨き、体を拭いて着替えをして帰るのが日課でした。その後仕事に向かうのです。毎日短い言葉を交わすのですが、それが何よりの慰みでした。「雨が降りそうだから車の運転気を付けてな。」と言われます。「わかった」そのような会話でしたが、通うことで気にかけてくれる存在の義父にはいつも暖かいものを感じていました。義母とは仲が悪かったので、義母は病院に行こうとしませんでした。優しい義父でした。
2022.04.21
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遠回りが悪い事とは思いませんが、子供に苦しい思い、寂しい思いをさせたのは自営で仕事を始めて愛情が行き届かなったこともあります。子供にとって一番身近な母親の影響は大きいのです。目の前のことに必死だったとはいえ未熟な親の影響はどこかに出るものだと思います。子供たちが遠回りしながらも育ってくれたこと、子育ての機会を二人に与えてもらって今では感謝しかありません。今の私は二人の子供を人間として心から尊敬できる。これほどの喜びはありません。子育てではなく子育てられでした。
2022.04.20
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高校は何とか卒業はしました。上のこと同じ大学に入ったのですが、数日して授業には出なくなりました。しかし姉の勧めでアメリカンフットボールに入部したのです。彼に団体行動ができるとは信じられませんでしたが、部活では誰よりも真面目でした。そして部活のためだけに4年間在籍して退学。一年浪人して希望の大学に入学しました。時々彼に聞きます。「なんか無駄な時間だったよね」と彼は「無駄ではなかったよ。」と答えてくれるので良かったのかと思います。子供が学校にいけない、行かないことは子供も親も本当に苦しい事でしたが、終わってしまえばすべてが必然だったのかとおもいます。只、その責任は母親である私にあったような気がしています。いえ、わたしです。
2022.04.19
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高校になると本格的に投稿拒否になりました。成績だけはよかったので、守ってくださる先生もいらっしゃって、何とか卒業はできましたが、本人はかなり苦しんだと思います。「僕は心が弱い。」と訴えました。その言葉を先生に話すと、弱くて良いではないですか、僕は弱い子が好きですと言われ、本人が自分で来ようと思うまでそっとしてください。卒業などどうにでもなりますと言ってくださいました。なんとか卒業はしました。
2022.04.18
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下の子は入園前に引っ越しをしましたが、自営を始めたので寂しい思いをさせました。本が大好きで、週末には本を与えておけば一日過ごしてました。手がかからないと思ったのですが、集団生活になじめず幼稚園から先生や友人たちとうまくコミュニケーションが取れなかったのです。幼稚園の帰りはいつもしょんぼりして帰りました。早く小学校に行きたいなと言いました。小学校に入っても先生によって接し方が変わり、良い子になったり、悪い子になったりと評価は極端でした。面談になると頭を下げてお詫びをするのが通例ですが、いつも最後にはこの子は良い子ですと先生に言いました。ひどく評価されても親だけでも良い子だと信じようと思いました。日頃接していて悪い子ではなく、とてもいい子だからです。学校生活の中だけの側面より、本質を見てほしいと思っていました。
2022.04.15
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上の子は以前の幼稚園では仲間が多くてたくさんの友達がいました。年長さんで引っ越しをしたのです。引っ越しをしても同じだと思っていたのでしょうが、田舎の幼稚園では新参者は好機の対象だったようですね。しかし彼女はとても強い子でした。翌日からは何もなく帰ってきました。睨みつけたようです。負けまいと。この子は本当にしっかり強い子で小学校に入学してからも常にリーダーになるような子でしたからいじめのことなどすぐに忘れてくれました。
2022.04.14
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私の子育ては決してほめられるものではない。子供たちが人として尊敬できるように育ってくれたことはひとえに子供の資質によるものだと思います。本を片手にすべてが手探りの子育てでした。上の子が幼稚園の年長で田舎に家を建て引っ越しをしました。通い始めた幼稚園でしたが、毎日制服は泥だらけで帰ってきました。聞くと一緒に帰る男の子達が汚い言葉を投げかけ、カバンを田んぼに投げるのだそうです。私は先生や親御さんに抗議しようかと思いましたが、引っ越しして間もなく事情も分からないので子供に言いました。「きっとね、貴方のことが気になるから悪いことをするのだから、今度からは睨みつけてやりなさい。負けてはいけないよ。」と
2022.04.13
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育児や食べ物のこと、手作りなど、私が必要な基礎はこの図書館で教わりました。ベースは子供の頃の祖母の生活だと思います。考えてみれば結婚まで習い事はしても家事は教わったことがなかったからです。何とか主婦として、母としてできるようになったのも図書館のおかげでした。私は子供を含めた家族を自分流に築いていったような気がします。側で手助けが必要な命を育てる環境を与えられ、気が付けば自分が育てられていたように思います。縁あった主人と子供達との家族の歴史は、私の成長の歴史でもあるように思います。子供にとって立派な親ではありませんでしたが、失敗も弱い心もすべて受け入れてくれ、育てていただき、子供たちも人間として私が尊敬できる人に育ったことは何よりありがたいことです。縁あった家族のおかげでここまで生きてきました。
2022.04.12
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私は何も知らないまま見合いという形で結婚しました。見知らぬ土地で家族を作らなければなりませんでした。何もわかりませんでしたので、本で情報を得るしかありませんでした。子供が生まれてからの場所には友人がいましたので、同じ年ごろの子を持つ親としてとても心強かったことを覚えています。彼女は地元でしたから様々な情報を教わりました。その中で地元の図書館通いはその後の家族に大きな影響を与えてくれたと思います。毎週借りれるだけの本を借りて読みました。子供は自分たちで選んだ本や紙芝居を借り、私は自分の好きな本を借りることができました。
2022.04.10
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家族というのは縁あって同居する魂の修行の場であるのかもしれません。母の人格、祖母の人格が相容れず葛藤と言う環境は同じ年代になって初めて両方の思いが理解できたような気がします。そして両方から色や形は違っても愛情をもらったことは、かけがえのない財産となりました。祖母の晩年は母に頼り、母に感謝し、母も精一杯祖母に尽くしたことは、二人の私への最高のプレゼントでした。私が義両親の介護を最後までできたことは、きっと二人からの伝言だったような気がします。
2022.04.09
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母の思い、父の思い、祖父母の愛情も同時に感じていたので、子供の頃の人との触れあいが多いほど、子供は学んでいくのだと思います。母と祖母の葛藤も近くで見ていました。子供の頃は母がすべてでしたが大きくなるにつれて正確な判断ができるようにもなりました。育った環境が昭和の時代であったことも幸せだったのです。高校生の頃になるまで薪でご飯を炊いていました。親や祖父母が子供に注ぐ愛情は無償の愛です。両親だけでなく、祖父母との生活は今の私の礎となっています。振り返れば、親、祖父母と言う立場ではあってもそれぞれの人格が家族として同居することでの軋轢や儒の中で私と言う人格を育ててくれたような気がします。
2022.04.08
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振り返って初めて祖父母の愛情を感じたり、多くの経験が居間の基礎になっていることを思います。嫁姑の確執を母の立場で育った子供の頃から当時を振り返る。両親や祖父母の人間としての資質を冷静に判断する。それぞれの立場でぶつかり、必死で生きてきて、それぞれの立場で子供である私を慈しんで育ててくれたのだと理解できます。私が小学生のころは祖父母が家計を担っていたようで、給食費などは祖父母に貰っていました。父の収入はすべてが祖母の管理のもとにあったようです。小さいころは祖父が様々なものを買い与えてくれました。遊具や洋服も今考えれば豊かに生活できていたようでした。母はと言えば祖母の目を盗んでこっそり卵を茹でて食べさせてくれました。きっと自由になるお金はなかったのだと思います。祖父母はとても厳しいというイメージで育ちました。それは両親が祖父母に遠慮していたからだと今は思います。子供の目は良心の目でもあったようです。大人になって初めて祖父母の愛情を再認識しました。
2022.04.07
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泣いたり、喚いたり、喜んで、悲しんでの人生。出会で育てられ、たくさんの助力をいただき、人を傷つけて、多くの自然の命をいただいた。一人の人間の人生を省みてダイエットを模索してみようと思います。家族人間が最初に出会う縁は家族、親です。それは宿命とでもいうのでしょうか。命が始まって与えられた環境です。私は良心のほかに祖父母と同じ敷地に叔父たち家族が同居していました。今思えば大家族だったのです。当然のごとく嫁姑との確執、叔父たち家族との確執と言う環境の中で育ちました。必要以上に人の顔色を伺いながらも、同居の中での思いやりや経験は核家族では味わえないものだったと思います。
2022.04.06
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泣いたり、喚いたり、喜んで、悲しんでの人生。出会いで育てられ、多くの助力をいただき、人を傷つけて、たくさんの自然の命をいただいた。私の人生を顧みてダイエットを模索してみようと思います。家族人が最初に出会う縁は家族、親です。それは宿命とでもいうのでしょうか。命が始まって与えられた環境です。私は良心のほかに祖父母と叔父、同じ敷地に叔父たち家族が住んでいました。今思えば大家族だったのです。当然のごとく、嫁姑との確執や叔父たちとの確執と言う環境で育ちました。必要以上に人の顔色を伺いながらも、同居の中での思いやりや経験は核家族では味わえないものだったと思います。
2022.04.06
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大心は大きな心と思います。私にとってこれが一番難しい。日常生活の中で自分の中のエゴや欲、見栄等くだらない心を消すことが難しいのです。自分の思いと違った出来事に出会うと心がざわつきます。理不尽なことがあるといつまでも言い訳ばかりしています。日常の些細な感情の行き違いに心が囚われます。もっと大きく、もっと広く心を持たなければと思うのですが、今の私は小さいです。この大心と言う教えは生涯をかけての目標なのです。まだまだ道のりは遠いです。自分が理解できることから門前の小僧は実践していきたいと思っています。
2022.04.05
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私はそんな祖母に何一つ恩返しをしていません。そんな祖母の思い出は今になって生きているのを感じます。私がどれほど心豊かに育てられたか今になって思われるのです。お金ものち家ではなかったようにおもいます。それでも祖母の日々の生活から豊かな心を育ててもらったような気がします。生きることで孫に伝えた祖母の心を生涯忘れることはないでしょう。言葉では表現できないような慈愛は私を豊かさへと導いてくれました。老心がどのような意味を持つのかはわかりませんが、私にとっての老心は祖母そのものです。見返りを求めることなく、誰のためでもなく日々の日常を大切に生きた祖母の生活そのものなのです。
2022.04.04
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老心は難しいと思います。私は祖母の影響を受けて大きくなっているので、祖母を思い出します。祖母の日常の中での手作りは私の今に生かされているように思います。お雛様には山でヨモギを摘んで、草餅に紅白のお餅を伸して、ひし形に切って三色の菱餅を作ってくれました。四季折々に手作りをしていました。お茶、味噌、干し柿、甘酒、私の記憶の中の日常は今もしっかり息づいています。子供の頃は一緒にお風呂に入り、さまざまなことを教えてくれました。稲を見てごらん、実るほど頭を垂れる、人間も偉くなるほど頭は低くするものだよ。頭を伸しているのは中身が薄いんだよ。仕事に出かける私には必ず声をかけてくれました。「お金はあるのか。」と、ないと答えると外に出ると何があるかわからないから持っていきなさいとお金を渡してくれました。
2022.04.03
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この言葉はお寺の掲示板に張られていた言葉です。何気なく見ていた言葉ですが、私にとって生きていくうえでの目標になりました。禅語は難しくて一人では理解できませんが自分なりに心にとめています。喜心は喜ぶ心。感謝して喜び、喜びを与える心だと思います。人の喜びは、自分の喜び以上に嬉しいものです。相手が何を望んでいるかを思いやり、できることをすることで、喜んでお貰えることは自分の幸せにつながるような気がします。生きることの一つに喜びがあるような気がします。生きることは苦しいと言った考えもありますが、喜びを大切にすれば、生きることはとても楽しくなるようなそんな気がするのです。
2022.04.02
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深い海の底に心が移動します。波の音も届かない海の底です。その海の底の心を持つと、風も嵐にも動じることがなくなるのです。人間の心がどれほど弱く、脆いのかを知っているからこそだと思います。結果を優先する今の社会には理解できないでしょう。これからの社会、目先の結果を追い求める人間性は生き残れない気もします。個人でも会社でも、経済社会そのものの結果を見直す時代が来ています。政治・経済・学び舎、すべての組織や場所のリーダーが深い海の心を持つ必要があることを確信しています。
2022.04.01
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様々な方法で変わりたいと努力しても、変わるための方法では変わりませんでした。目先の数字や出来事に一喜一憂して、対策で凌ぐ生活をしていたように思います。長年の習慣や生活は一変できるものではありません。なぜ坐禅なのかわかりませんが、私の心は長年坐禅に憧れていたのです。外国から坐禅に来られる方はそれぞれに社会的には立派に成功されている方が多いように思います。それぞれが素晴らしい能力をお持ちです。一見幸せな人生であっても満たされないものがあるのかもしれません。坐禅はその満たされないものを満たしてくれるのだと思います。坐るだけです。只座るだけなのですが、満たされるのです。
2022.03.31
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私が坐禅をお勧めしないのは、そのメリットについて語れないからです。何にもならないとは言えるのですが、今の私は坐禅によってここまで来たような気がします。坐禅の必要性を説明しようにもできないのは、結果を証明できないからだと思います。ちまたの物や行為には必ず結果が先に表明されます。金運を招くには、良縁に恵まれるために等々、結果が先に表明されます。その欲求を満たすために興味をしますのが一般的です。内に隠された不安や欲望を満たすために、結果に飛びつき喜んだり、悲しんだりの生活を送っているように思うのです。私はビジネスや人間性に行き詰まり、変わりたいと思ったときに坐禅を選びました。
2022.03.30
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大切にする命には喜びがあるのだと思います。それで何か変わるわけではありませんが、どんな命でも通い合うことはできるのです。お寺で毎回食事の前に自分たち以外の命のためにささげる食べ物の意味が分かります。自分たちの食べるものが少なくても、その前にささやかな捧げものをする。これも人間としての修行の一つかもしれません。人間以外の命との対話ができると、人として生かされている喜びは何倍にもなるような気がするのです。人間以外の命と仲良くすることは、人間へのこだわりを薄める役割もなるような気がします。地球は人間だけのものではありませんね。もっとほかの仲間に目を向けると、日常の人間トラブルがつまらなくなるのではないでしょうか。
2022.03.29
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井堰の横に段差のある水路がありました。よく見るとその水路の流れを大きな魚が上っているのです。最初鯉の滝登りかと思いました。それだけで感動していたのですが、よく見るとその魚は鯰でした。大きなナマズが水路を上っているのです。その下の水たまりには三匹の鯰がいました。その時、私はあの鯰のことを思い出しました。きっとあの鯰がお礼に来てくれたのだと思ったのです。奥さんができて子供もできたよと報告してくれたのだと勝手に思ったのです。人生で大きな鯰を見ることも、ましてや一度に四匹も見ることもありません。偶然や思い込みだと片付ければそれまでですが、命が通じていることを感じました。命はどのような命でも同じだと思いました。そして人間よりはるかにほかの生物のほうが言葉にできない力を持っているのではないかと思います。だから、命を大切にしなければならない。
2022.03.28
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お寺では食事の前に周りの命のために少しの米粒をとりわけ捧げます。それが作法のようです。人間のためではなくスズメやカラス達の命のためです。途方もなく無駄な事のような気がしていました。犬との散歩道に大きなナマズがいました。近くで蟹漁をしていたおじさんが網にかかったナマズを放り投げたようです。道の上でばたばたしていました。おじさんにもらってもいいのかと聞くと、良いよと快諾してくれました。とてつもなく大きなナマズでした。抱きかかえて、犬と走りました。おじさんが見えない川上まで行って、気を付けるんだよと言って川に戻してやりました。それから一年余りたったころのことでした。同じような散歩の帰り、ふと川に近づいてみました。普段は4.5メートル離れた川に近づくことはしません。なぜ近づいたのかもわかりません。
2022.03.25
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