あえてひとまとめにする。
殺人も、自殺も、死刑も、すべて「ひとごろし」に他ならない。
殺さないで。「ひとごろし」をやめてください。
「命を大切に」とか「人の命は地球より重い」という言葉をいくら叫んでも、笑い飛ばされるのがオチで、本気で聞いてくれる人は少なくなってしまった。だからせめて言いたい。「殺さないで」。
昨日、3つのニュースが重なった。犯行時18歳1カ月の「元少年」に死刑判決が下された。新幹線の扉を自力で開けて投身自殺を図った男性の遺体が発見された。タクシー運転手を殺した自衛官は県警の調べに対し「殺すのは誰でもよかった。死刑になりたかった」などと新たに供述していることが分かった。
自殺を美化するのは間違いだ。自殺は殺人以上に凶悪な犯罪であり、遺族の心を激しく傷つける。遺族は怒りや憎しみの持って行き場がないだけに、苦しい。
家族を殺された人が犯人を憎むのは当然だ。もしも私がその立場に置かれたら、自分が処罰されても仇討ちしたいと切実に思うだろう。だが、国に肩代わりしてほしいとは思わない。そんなことを国にさせてはいけない。自分がどんな被害を蒙ったとしても、「ひとごろし」を願う権利や正当性を付与されるとは思わない。できることなら、自分でやるにせよ代行にせよ、仇討ち以外の方法で決着をつけたい。
殺人という「罪」を憎むなら、なぜ、国家権力による殺人を許すのか。そこの「倫理の飛躍」が理解できない。
死刑も殺人に他ならない。刑場の凄惨さ、残酷さを想像してみてほしい。命乞いするすすり泣き、叫び声、奈落の底が抜ける音、ロープがきしむ音、うめき声、声にならない声、首の骨が折れる音、すぐに絶命するわけではなく、体が痙攣し、ロープが揺れて、まるで暗闇で踊るダンサーのように見えるとか、失禁する人もいれば脱糞、射×する人もいるという、その強烈なニオイ、目玉が飛び出し、舌が垂れ下がる、体中の穴という穴から血が滴る、医務官は死刑囚の脈をしらべて確かに絶命したことを確認し、死亡時刻を宣言し、刑務官が遺体をひきずり下ろして棺おけに移す、その仕事は耐え難い精神的苦痛を伴う。
密室の中で秘密裏に行われ、死刑の意味は隠される。法務大臣は「ベルトコンベア式」の処刑を願う。
殺すな!ということを人々に教えるために、人を殺す矛盾。その矛盾が隠蔽されている。
死刑囚が死んでも、殺された人は戻ってこない。その意味では、死をもっても償いきれない。 2人殺したなら、二度死の苦しみを、3人殺したなら、三度死の苦しみを味わうべきなのに、それはできない。人間は、この不条理を引き受けなければならない。
憎しみは、死刑囚の死とともに本当に消えるのだろうか。遺族は愛が深ければ深いほど、何があろうと殺された人のことを忘れられないでしょう。深い深い悲しみを癒すことができるのは、赦ししかないのではないかというと、あまりにも綺麗ごと過ぎるだろうか。
赦しは、未来への希望ではないだろうか。
人を殺したいと思うほど経済的・社会的・精神的・身体的に追い詰められる人を、もうこれ以上出現させない社会を皆で協力して築いていくことはできないだろうか。
憎しみの連鎖を断つことはできないのか。
戦争もそうだ。自分や自分の友人、家族が武器を手にして誰かを殺すように駆り立てられることのない社会であり続けてほしい。
報復が戦争を始める大義になるなら、死刑も戦争も同じではないか。
拡大解釈過ぎるかもしれないが、憲法9条は死刑をも否定していると言った辺見庸さんの言葉が心に響く。
「ひとごろし」を、やめてください。