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スタンリー.キューブリック・・・。たぶん、真の意味で鬼才といえる映画作家は、彼だけだろう。しいて、もう一人あげるとすれば、現代作家の中ではティム.バートンぐらいか・・・。確かに、『2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』は、面白かったし、作品への賞讃も至極当然だとは思う。映画史の中でも傑出した作品だろう。もちろん、『カッコーの巣の上で』や『現金に体を張れ』だって素晴らしい作品ではあった。だが、個人的な嗜好で論じると、スタンリー.キューブリックの作品を僕はそれほど好きではない。いや、愛してはいないと評したほうが適切か。感覚的な表現で申し訳ないが、たとえば、スピルバーグの『E.T.』より、ロン.ハワードの『コクーン』の方が愛おしいと感じる性質の人間なのだ。ウィリアム(トム.クルーズ)のフロイト的な、男性優位(男根主義)の女性心理の分析に激怒したアリス(二コール.キッドマン)は、かって強い浮気心を抱いた男性がいたことを打ち明ける。その秘密の告白にウィリアムは、妄想の虜となり、真夜中のニューヨークをさすらうが、彼の脳裏に浮かぶ、妻と見知らぬ男との性交シーンを消すことは出来ない。男の勝手さ、単純さを、妻に対する盲目性を下敷きに簡潔なストーリーで綴っただけの作品に誤解されかねない、この『アイズ ワイド シャット』を、スタンリー.キューブリックの全作品の中で一番愛しているのである。もちろん、この遺作が彼の作品群の中で最高水準にあるなどと主張するつもりは無い。ベルナルド.ベルトルッチなら、倦怠期を迎えた夫婦の心の襞を乾いた筆致で厳しく描いてみせただろうとか、『ヘカテ』のダニエル.シュミットなら、たった一つのシーンでフィルムに官能性を帯びさせたであろうといった、物足りなさを感じたりもする。しかし、その物足りなさが、まぎれも無くスタンリー.キューブリックの作品に違いないという魅力を惹き立てもしているのである。流麗な音楽に乗って、キャメラがふたりの住むアパートメントの室内を舐めるように移動しはじめ、パーティー出席のため慌ただしく身支度を整えているふたりを的確に収めていく。全編を通し、これがスタンリー.キューブリックの作品かと思えるほどオーソドックスで静かな演出なのだ。だが、実はキューブリックらしいトリッキーな仕掛けは映画以前にほどこされている。それも用意周到なまでに・・・。トム.クルーズとニコール.キッドマン。実際の夫婦が、映画の中でも夫婦として共演し、しかも性愛が描かれる。予告編を観た者なら、誰もがそのまだ見ぬ性愛のイメージに想像力を膨らましたはずだ。本編に向けて肥大化する欲望。それは、妄想の虜となったウィリアムの相似形でもある。スクリーンを見開いた眼(アイズ ワイド)で凝視するしかない観客の好奇心を肩代わりしているウィリアムは、街を徘徊して買った娼婦とも、仮面を被った乱交パーティーでも結局、セックスを果たせず、妄想の呪縛から自分自身を解き放つことができない。迷宮を彷徨っていた数日間から、現実へ帰還したウィリアムは、まるで動物が自分の巣へ帰るように妻のもとへと戻り、すべてを告白する。娘のクリスマスプレゼントを買いに出かけたショッピングタウンで、二コール.キッドマンは、トム.クルーズにこう話す。「あなたを愛してる、だから・・・私たち大事なことをすぐしなくちゃだめ」「なんだい?」「ファック!」と同時にスクリーンが暗転(シャット)になり映画は突然終わる。はたして、アリス(二コール.キッドマン)が、ウィリアム(トム.クルーズ)に語った告白は真実だったのだろうか?夫は、妻の掌のうえで踊らされていただけだったのではあるまいか・・・。ラストでトム.クルーズの肩ごしに、二コール.キッドマンの顔をアップで捉える。僕には、彼女が心の中で、観客に向かってウィンクをしているような気がしてならないのだが、それは妄想だろうか・・・・・・。
2007年11月30日
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それまでは、どちらかというと映像美にこだわっていたラース・フォン・トリアー監督は、『奇跡の海』を撮るにあたり、その撮影手法と縁を切る。ヴィム・ベンダースやジム・ジャームッシュの作品で知られる名キャメラマン、ロビー・ミューラーを迎えた彼は、手持ちキャメラを駆使し、フィルムに荒涼とした魂を焼き付けようと試みる。もちろん、監督にその選択を迫らせたのが作品のテーマであることはいうまでも無い。『奇跡の海』で夫に対する、いびつともいえる純愛の極致を描いてみせたトリアーは、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では母性愛の極致を描く・・・。と、とりあえずはそういえる。1960年代。アメリカのミュージカルに憧れチェコから移住したセルマ(ビョ-ク)と息子ジーン。遺伝性の病のためほとんど視力の無いセルマが工場での危険な仕事に従事するのにはわけがあった。このままだと息子ジーンも彼女と同じ運命を辿ってしまうのだ。彼女は、内職までして息子の手術費用をたくわえる。そんな苦境に彼女が耐えられるのも、ミュージカルで踊る自分の姿を夢見ることで喜びに浸れたからだ。しかし、そのかけがえの無いお金を親切にしてくれていた隣人ビルが盗む。返して欲しいと激しく迫るセルマ。揉み合ううちにセルマはビルを銃で撃ち殺してしまい、裁判で死刑の宣告が下される・・・。悲劇を構成するのに事欠かないモチーフに敷き詰められたこの作品は、悲劇であることを拒絶する。それどころか、ラース・フォン・トリアーは救いのない人間の魂をまるであざ笑うかのように、絶望的に描いてみせる。ラッセ・ハルストレムやジェームズ・アイボリーなら、審美的なキャメラワークで、観るものの感情移入を沸き立たせ、詩情溢れるウエルメイドな作品に仕上げたであろうし、マーティン・スコセッシなら、キャメラの構図設計に演出を費やし、滅びの美と醜を内包した心理的な作品に仕上げていたかも知れない。が、『奇跡の海』の監督は、そのどちらをも否定する。潔いまでに叙情性を断ち切ってみせるのだ。なぜなら、この『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、前回とり上げた『ALWYS続・三丁目の夕日 』と最も遠い位相にある映画だからだ。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を語るのに、『ALWAYS続・三丁目の夕日』を引き合いに出すとは悪い冗談だといわれそうだが、冗談ではない。『ALWAYS続・三丁目の夕日』を批評した際、この作品は、大衆演劇の骨格を模倣した物だと述べた。そこにおける楽天的な善意は、大衆演劇に裏打ちされた物であったからだ。それに対して、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、ドイツが生んだ偉大な劇作家ブレヒトの「異化効果」をそっくり援用し、換骨奪胎させた映画だからだ。つまり、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に対する賛否両論は、ラース・フォン・トリアーの意図するところだったのである。その意味において彼のもくろみは見事に成功したといえるだろう。ゴダール流の、手持ちキャメラと荒々しいジャンプカットで観る者の感情移入を断ち切り、そうすることで物語を叙事的に表現していたかとおもうと、セルマと登場人物が一体となってミュージカルを繰り広げるセルマの幻想(白昼夢)シーンでは、うって変わって律儀なまでの固定キャメラで端正な構図と審美的で、躍動感溢れる絵をつくる。現代において、純粋無垢であることは、ある意味狂人に等しい。狂人という言葉が相応しくないなら、聖なるものに憑かれた人と言い直してもよい。この世界で、自分自身に潔癖であり続けることなど不可能であろう。人間は処世術を身につけることで現実世界と折り合いをつけ生きていく。それを頑なに拒む者は、ハムレットのように死を選ぶしかない。憑かれた人。憑かれた顔・・・。『奇跡の海』のエミリー・ワトソンや、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークの夢見るような表情はもちろん偶然ではない。聖なる愛に憑依された者だけが許される特権的な顔なのだ。『奇跡の海』で重篤の夫を自分の死と引きかえに救ったエミリー・ワトソンのようにビョーク演じるセルマは、息子ジーンの視力と引きかえに自身の命を捧げようとする。そこには、母性愛と自己犠牲の極致が存在しているようにも見える。子供に遺伝するのを知りつつ息子ジーンを生んだセルマは、その贖罪として自身の命を投げ出そうとしているようにも見える。しかし、相変わらずキャメラは怜悧な視線で彼女を客観的に捉えるばかりで、救い=和解の感情を些かも滲ませたりはしない。むしろ、母性愛でも自己犠牲でもなく、自己愛に陶酔しているかのようにセルマを描く。死刑執行の日。死の恐怖のなか、息子の名前を呼び、泣き叫ぶセルマ。現世での最期の歌を未来にとどかせようと悲痛な声で歌うセルマの歌声も途中で途絶える。公開執行を傍観するしかなかったセルマの友人たちの視線を遮断するように閉じるカーテン。あたかも、ブレヒトの芝居の幕が下りたかのようなラストシーンの構図と劇中劇を思わせる構成。突き放され、異化された観客の心に重い錨が沈んでいく。芸術至上主義的な純愛の極致が、はたして現実世界で可能だろうか?映画作家ラース・フォン・トリアーは、その問いと厳しく向かい会っている。
2007年11月23日
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世の中には、泣きたいから映画を観に、映画館まで足をはこぶ人が少なからずいるわけで、それはそれで否定するつもりはない。ただ、いい年をした大人はともかく、若い人が古き良き時代などといってノスタルジーに浸るのは、あまり健康的ではないのではなかろうか。どちらかというと退廃的ではないのか・・・。この作品を巡っては、お門違いな批評も見られるが、そう目くじらを立てるほどの物でもあるまい。そもそも、この作品から啓蒙的なテーマを生真面目に引き出し、論じようなどと思わないほうが良い。テーマを論じようとするから、「お金よりも大切な物があるじゃないか!」という茶川の台詞に青臭いだの、甘いだのと過剰な反応が起きたりもするのだが、山崎貴監督にその手の批評は届かないだろう。若い人は知るよしも無いが、大阪に吉本新喜劇や松竹新喜劇があるように、昔は東京にも、「デン助劇団」という浅草喜劇が存在していたのである。『続・三丁目の夕日』の舞台となった昭和34年からは毎週1回、10年の長きに渡って現在のテレビ朝日で、その舞台が生放送されていたのである。その舞台を大人も子供もテレビの前で噛り付くように観ては、泣いたり、笑ったりしていたのである。1時間程度の上演時間に笑いと涙を凝縮させ、しかも見事なまでの予定調和とハッピーエンド。もちろん、テーマが安直だとか、人物描写が不十分などという者など誰もいない。それはそうだろう。テレビの画面の中で繰り広げられている舞台は、歌舞伎や新派や新劇ではなく、大衆演劇なのだから。それでもケチをつける輩はいるにはいた。その当時の言葉で言い表わすなら「ハイカラ」な人々である。しかし、それは野暮である。なぜなら、「天ぷら屋」に入って、「トンカツ」を喰わせろといっているのに等しいからだ。無いものねだりである。この続編の中でも、成城からやって来たミカが、鈴木家のすき焼きを見て、「これはすき焼きじゃない!牛肉じゃなくて、豚肉じゃない!」と叫ぶ象徴的なひとコマがある。先ほど、山崎監督にはその手の批評は届かないだろうと書いたのは、この作品が、「デン助劇場」のドラマツルギーをなぞるように造られているからなのである。その時代には、その時代が要請するものがある。時代の雰囲気といってもいいし、大袈裟にいうなら時代精神というやつだ。高度成長期初頭の昭和は、平成の時代ほどには複雑ではなく、むしろ単純であったのだ。山崎監督は、『三丁目の夕日』を撮るにあたって、東京ではすたれてしまった大衆演劇の骨格を模倣することを選んだのである。泣かせどころになると、必ず流れる、あの耳にこびり付いて離れないメロディーは、大衆演劇のメロディーその物といえる。茶川は、ふたこと目には「純文学はな・・・」と口にはするが、実際この映画の中には純文学的要素はひとかけらも存在しない。それは、茶川が書いている文章がおよそ純文学とは程遠い通俗的な文章であることでも分かるだろう。最新のCG合成と手作りのミニチュアセット。そしてオープンセット。それらが作り出した空中楼閣に、蜃気楼を塗りたくったのが『三丁目の夕日』なのだ。もちろん、この映画が特筆すべき名作だとか傑作であると主張するつもりは無い。しかし、間違いなく愛らしい作品には仕上がっているのである。日本映画が元気だった頃に量産されたB級喜劇映画の手触りを感じさせてくれるのだ。老若男女で満員の映画館に湧き起こる笑いとすすり泣き。その熱気と吐息は、映画が大衆娯楽の王様だった頃の記憶を蘇らせてくれる。確かに、東宝ではなく、松竹が製作していたなら、より良質のホームドラマに仕上がっていたかもしれないし、(しかし、松竹では冒頭のゴジラシーンは観れないが)、亡き相米慎二監督なら子供たちの顔をもっと魅力的にキャメラに収めてみせただろうし、『愛を乞う人』の平山秀幸監督なら、カラーとモノクロを巧みに操ったかもしれない。都電だけではなく、トロリーバス(路面バス)も走らせて欲しかったし、劇中にインサートされた石原裕次郎の映画場面も悪くは無いが、映画の中で映画が流される手法がありふれた光景になってしまったいま、大衆演劇を劇中劇で流した方がよりこの作品らしさを演出できたのではないだろうか等など。こんな風に、欠点をあげようとすればキリが無いかも知れないが、惜しい・・・といわせるだけの魅力は十分溢れている。実際、『HERO』やら『象の背中』など、どうやっても魅力的な作品には仕上がるまい。そんな、『三丁目の夕日』と観客はどう付き合えばよいのか?その答えは、作中の人物が握っている。三浦友和演じるタクマ医師である。娘が好物だからと、土産に包んでもらった焼鳥を片手に家へと返る途中、彼は酔いつぶれて寝てしまう。空襲で失った、妻と娘の幽霊を見たタクマは、焼鳥が平らげられているのを見て、狸に化かされたのだと思い込む。この1作目の挿話が続編でも繰り返される。林の前で焼鳥を手に、狸を誘き出そうとするシーンである。失った物(過去)に注がれる郷愁と愛着。その視線は、観客の目線でもあるのだ。つまり、タクマが狸に化かされたいと懇願するのと同様、1作目に化かされた観客は、また化かされたいと映画館に足をはこぶ。だが、この続編では、タクマ医師はふたりに逢うことは出来ない。1作目で、茶川の漫画小説を読んで感動した淳之介と、淳之介の小説を読んで感動した子供たちと同じように、続編では茶川の書いた小説に鈴木オートはじめ、町内の大人たちが感動する。だが、茶川の小説も芥川賞の最終選考に残りはするものの、落選してしまう。前作では許されていた楽天性の喪失が、時代の変化を微かに予感させているのである。 〔了〕
2007年11月16日
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マンションの建築予定地を歩く役所広司の足元をアップで捉え、寂しそうに捨てられた地面の空き缶を拾うと、病院の診察室でのガン告知シーンへ繋ぐあたりの呼吸は、さすがに『HERO』の鈴木雅之監督のそれよりは、遥かに映画的な導入となってはいる。末期のガンで余命半年と宣告された48才の不動産会社部長藤山(役所広司)は、延命治療を拒否し、「死ぬまでは、生きていたい」と決意する。そして、喫茶店に呼び出した息子にその覚悟を明かす。まともな嗅覚の持ち主なら、この主人公のきざな台詞に臭さを感じてしまう。そもそも、その類の言葉は台詞で説明する次元の物では無いからだ。『HERO』でも、「命の重さ」という台詞が出てくるが、観る者の心にその重さは響かない。映画を観終わった客の心に、感動が余韻と共に湧いてきて、それを言葉にしたときに初めて、「テーマ」が浮かび上がってくるのであって、台詞で説明する物ではないからだ。「ガンで余命半年」 。そう聴くと、誰しもが黒澤明の『生きる』を思い浮かべるだろう。志村喬が演じる役所の市民課長が、その残された時間を公園の建設に傾ける、あの作品である。この『象の背中』でも、確かに自分が担当しているプロジェクトを成功させるために必死になっている主人公の姿は描かれているが、クリエーター、秋元康には「生きる」の焼き直しを撮るつもりはさらさら無い。むしろ、彼はパロディーを描こうとしているのだ。『生きる』の志村喬が、他人のために命を捧げようとしたのに対し、役所広司は、あくまでも自分自身に殉じようとする。役所広司は、志村喬と最も遠いところにいるのである。息子にガンを打ち明け、「死ぬまで生きていたいんだ」と語った後に、彼が誰を訪ねたかを見れば、それは明らかだろう。彼は愛人のもとへ向かったのだ。クリエーター、秋元康が織成す絵空事の始まりである。夜中に自室でアルバム写真を眺めている藤山は、記憶の中に生きている大切な人と直接会い、別れを告げようと思い立つ。何のことはない。ジュリアン・デュヴィヴィェの『舞踏会の手帖』である。降りしきる強い雨。高校時代の初恋の女性(手塚里見)がさす赤い傘を俯瞰で捉えたショットは、本来なら、その叙情的な視覚的効果を高めるはずであるのに、そのすぐ前の喫茶店の窓辺で交わされた二人の会話があまりにも平凡極まりない物であったために、その効果がまったく機能しない。30年以上も前の思い出を打ち明けられ、初恋の人だったと告白されただけでも、手塚里見は戸惑いを隠せないでいるのに、「私は、ガンなんです」と追い討ちをかけられても、途方に暮れるしかないだろう。その困惑は、監督井坂聡の困惑ぶりをも露呈させてしまっている。別れ際に赤い傘の手塚を振り返させ、「藤山君に逢えて嬉しかった」と言わせるのだが、監督自身がその台詞と喫茶店での平凡すぎる会話に確信を持てないがために、キャメラが曖昧に流されてしまっているのだ。その後、喧嘩別れした高校時代の野球部の友人や、藤山の会社が倒産に追い込んだ会社の元社長に会ったりするのだが、どれもこれもが今迄に、散々見たり聞いたりしたような平凡な逸話に過ぎず、『舞踏会の手帖』の焼き直しどころか、パロディーにも成りえていない。もちろん、同じ『舞踏会の手帖』をみずからの感性で見事に換骨奪胎させてみせたジム・ジャームッシュの『ブロークン・フラワーズ』の足元にも及ばない。「死ぬまでは、生きていたいんだ」という主人公の生き方は途方もなく女々しい。母の死後、亡き父の後妻に納まった愛人と父に対する反発と憎悪から家を飛び出し、絶縁状態にあった藤山が、兄のもとを訪れ遺産をせがむ。いまでは、亡き父と同じように自分も愛人を囲っているにもかかわらず、義母を許さず顔も見ないで帰ってしまう。優れた監督、脚本家なら、この挿話だけで見応えのある秀作を撮り上げてしまうだろう。しかし、この作品ほど徹頭徹尾、主人公の視点からだけ描かれ、相手側の心理が置き去りにされている映画も珍しい。「死ぬまでは、生きていたい」肺ガン患者、藤山は煙草をスパスパ吸いながらの余生を海辺に建つ豪華なホスピスで送ることにする。家族と共に生活するその場所へ愛人を来させ、見舞いに来た兄には自分の遺骨を愛人にも分けてやって欲しいと頼む。「死」が間近に迫り、藤山の顔は痩せ細り、目も窪み、くまも深くなる。衰弱しきった体を、波しぶきがたつ海辺のデッキチェアーに横たえる。そう、『ベニスに死す』のラストである。しかし、藤山は、穏やかで美しい奥さんと、優しいふたりの子どもに看取られベッドで息絶える。もし、この作品の主人公が、『ベニスに死す』での老作曲家(ダーク・ボガード)の醜い死のように、砂浜で遊ぶ子ども達や、妻に気付かれること無く、独り寂しい最後を迎えていたら、怖い作品になっていただろうに・・・・・・。 〔了〕
2007年11月10日
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木村拓哉と松たか子のキスシーンを背後から捉えたショットでエンディングを迎え、スクリーンにクレジットタイトルが流れ出す。邦画としては異様に長いそれを空虚な想いで眺めながら、この連中が映画を食い物にしているのかと静かな怒りがこみ上げる。なるほど、2時間10分もの尺が必要なわけである。彼らに等しく仕事を分配しなければならないのだから。斜陽産業の映画界とバブル崩壊後の不況で広告収入が激減したのテレビ業界との持たれ合い。つまり、『HERO』は談合映画というわけである。(まず、キムタク検事はそれにメスを入れるべきだろう)。しかし、出来損ないの作品を宣伝するために、木村拓哉がカンヌ映画祭に乗り込んだと聞くが、本当だろうか?悪い冗談ではあるまいか。テレビの『HERO』を一度も観たことはないが、もちろん、海外の映画関係者だってそうだろう。ということは、『HERO』は純粋に一作品として客観的な評価を下されるということだ。誰が何処へ行こうと自由だが、旅の恥はかき捨て的なカンヌ行脚は余りにもお粗末だ。いくら厚顔無恥だとはいえ、商才だけは長けているテレビ局が、この作品が世界に通用する商品かどうか判らぬはずはあるまい。ブランドに弱い日本人だから、カンヌという流通経路を経て日本に凱旋すれば、より興行収入を見込めると考えたのなら、日本の観客もずいぶんと見くびられた物である。才能のある監督の作品ならともかく、伸びたラーメンのような弛緩し切ったフィルムを2時間10分も見せられる観客はたまったもんじゃない。物語を進行させる上で、伏線的な役割を果たすのならともかく、見終わってから、あのシーンは何だったんだろう?と白けた気分で呟かざるを得ないダンスシーンをはじめとして、非映画的な細部が多すぎるのだ。この作品のモチーフとテーマを考えたら、その種の贅肉をそぎ落とし、せいぜい1時間45分に収めるべきだろう。そうすれば、少しは活劇性も生まれたであろうし、フィルムも引き締まった物になっていたはずだ。だが、飽きっぽい視聴者の顔色を伺うことに馴れ切った、テレビ局の人間はそうは考えない。1時間45分もの上映時間を、観客があくびを噛み殺すことなくスクリーンに瞳を凝らすためには、ギャグやら笑やらを随所、随所に振りまかなければと考える。要するにテレビにおけるCMの役割を負うことになるのである。皮肉にも、そうすることでフィルムの尺はさらに長くなり、2時間10分もの上映時間になってしまう。結局、映画は薄めすぎたカルピスのように平板な物になってしまったのだ。長髪で、スーツを着ない型破りな検事という設定も古色蒼然としていて、何の違和感も齟齬もきたさない。『HERO』をまったく観たこともない人間ですら、遥か以前から見知っていたような既視感すら覚えるのである。長髪でスーツを着ない検事ではなく、短く刈った髪を七三に分けリクルートスーツのような紺のスーツを着用している木村拓哉の検事姿の方が、よほど型破りに違いない。だが、そんなこは所属事務所が許すわけも無い。何しろ、特攻隊の映画でさえ、木村拓哉は長髪のままだったのだから。検察機構には抗えても、ジャニーズ事務所には抗えないということなのか。ありふれた傷害致死事件を木村拓哉が担当する。だが、容疑者は法廷の場で一転して無罪を主張する。しかも、彼の弁護人は無罪請負人と異名を持つ有名弁護士だった。何故、彼ほどの大物弁護士がありふれた傷害致死事件を担当するのか?実は、この事件の背後には、ある大物代議士の贈収賄事件が絡んでいたのだ。巨悪を追及するために、傷害致死事件を利用しようとする特捜部に対し、「命の重さ」を訴える木村拓哉はじめ、同僚検事たちは強い反発と憤りを覚え、真実を暴く決意を燃やす。ストーリーが通俗的だとか、テーマが紋切り型すぎる等と揶揄するつもりは毛頭ない。芸術性を論じるつもりもさらさら無い。あくまで娯楽作品としてのクオリーティーが低すぎるといっているのである。野次喜多道中のような韓国ロケと出張費の無駄としか思えない木村拓哉と松たか子のまぬけな聴き込み調査。タイミングを逸したためにインパクトを欠いたイ・ビョンホンの登場シーン。はっきり言って、韓国で撮影されたシーンは、「映画」として成立していない。脚本を形容する言葉は、安直、陳腐、凡庸、平板と事欠かないが、それにもまして演出の投げやりな手抜きぶりには眼を覆うしかない。寡聞にして、鈴木雅之監督という人物を知らないが、テレビの小さな画面と異なり、スクリーンの多きい画面がよほど嬉しいのか、或いは、観客の感受性を信用していないのか、やたらとキャメラを動かしすぎるのだ。おまけに、観客を飽きさせないために配されたギャグが活劇性をも殺してしまう。ヤマ場である法廷シーンで木村拓哉が、「この裁判は、命の重さを知るための裁判なんです!」と声高に力説するのだが、肝心の、婚約者を失った女性の悲しみが、脚本でもキャメラでも綴られていないため、説明的な台詞は虚しく空回りするばかりで、観る者の琴線に触れる物は何も無い。冗漫かつ散漫。厚みの無い人物描写。脚本の欠点がここでいっきょに露呈してしまう。サスペンスがまったく機能しないのだ。同じフジテレビ製作の映画『踊る大捜査線』の青島刑事なら、こう叫ぶだろう。「映画は、会議室で作るんじゃないっ!!現場で作るんだっ!!」 〔了〕
2007年11月07日
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何しろ、この作品におけるクリント・イーストウッドは、牧師(プリーチャー)という記号的な存在のままで自身の名前すら明かされはしないのだ。ひとり不可思議な位相にあるイーストウッドの存在を、さらに怪奇な位相へと変貌させる人物がスクリーンに現れる。鉱山主に雇われた保安官ストックバーンである。あの牧師を知っているか?と詰め寄る鉱山主に保安官はこう呟く。「別人だ・・・その男なら死んだ・・・」とその台詞と共にクリントイーストウッドの背中に刻まれた六発の弾痕が蘇える。生きているわけが無いと思いつつ、自分自身に言い聞かせるように呟く保安官の表情には、釈然としない陰鬱な翳が差している。因縁めいた二人の再会を待っていたかのように映画は不気味な様相を呈していく。亡霊映画のような雰囲気が、辺り一面に漂い始めるのだ。実際、『ペイルライダー』を『亡霊映画』だと断じてもあながち間違いではない。六発もの銃弾を浴びて死なない者などいようか?鉱山主一味が、最初にクリント・イーストウッドを目撃したシーンを思い起こしていただきたい。無謀にも一人で町に買い物に来たヘルが、鉱山主の手下たちに取り囲まれるシーンである。手下の一人が何気なく振り向いた視線の先に、白い馬に乗ったクリント・イーストウッドが映る。見慣れない男に曖昧な表情を浮かべて、ハルのほうに視線を戻す。そして次の瞬間、再び男のほうへ視線を向けると、もうそこにはイーストウッドの姿は無い。幽霊のように忽然と姿をくらましているのだ。大天使(神の化身)、牧師、ガンマンに加え、亡霊という位相を獲得したクリント・イーストウッドを視覚的に表現した場面がもうひとつある。汽車の到着シーンである。汽車が、それまでスクリーンに映っていた平原を覆い隠すように駅に停車し、駅員が車両と車両の連結部分を通して、汽車の向こう側にいる馬上のクリント・イーストウッドに気付く場面だ。駅員は、馬上の男をちらりと見やる。そして汽車が出発し、スクリーンに広大な平原が開けると、もうそこには、クリント・イーストウッドの姿が無いのだ。我々の心をサスペンスで揺らす、この思わせ振りなふたつのシーンは、「ペイルライダー」の視覚的メタファーそのものなのである。村人たちのため、悪漢どもに一人立ち向かうペイルライダー=クリント・イーストウッドは、『シェーン』のアラン・ラッドが代表する西部劇のヒーローや黒澤明の時代劇に見られるヒーロー、いやどんなヒーローとも似てはいない。なぜなら、ペイルライダー=クリント・イーストウッドは、生身の人間ではないからだ。フィルムノワール的な黒い影に染まっていたクリント・イーストウッドが、やおら、『真昼の決闘』のような陽の光に自分を晒し、被っていた帽子を地面に置く。映画史上、最も静謐な決闘シーンの火蓋が切られるのである。ところで、映画監督クリント・イーストウッドと他の監督たちを隔てるものは何か?それは、別項でも指摘したが、恐るべき繊細さと息を飲むような大胆さが抗うことなく映画の中で同居している点にある。恐るべき繊細さだけなら、ヴィクトル・エリセの名前が浮かぶであろうし、息を飲むような大胆さなら、ベルナルド・ベルトルッチの名前をあげることも出来よう。しかし、このふたつを兼ねそなえた映画作家は極めて稀なのである。その稀有な才能は、ラストの決闘シーンでも遺憾無く発揮される。ペイルライダー=クリント・イーストウッドが単なるヒーローではなく、不可視な存在であることを「亡霊映画」を想起させる映画的なキャメラワークで説明して見せるのだ。保安官の部下が一人ずつ殺されていくとき、まるで必然のように不可視なペイルライダー=クリント・イーストウッドがそこにいるのだ。六人の部下たちは、ペイルライダー=クリントイーストウッドの姿を決して見ることは出来ない。それどころか、彼と対峙し闘うことさえ許されてはいないのだ。ただひたすら、見えない相手を捜し求め、眼にふれることも無く、クリント・イーストウッドにあっさりと殺されてしまうのだ。そうやって、一人また一人と殺されていく。家の壁に立てかけられた大きな板の背後から、あるいは古井戸の中から弾丸は発射されるが、我々もまた六人と同様ペイルライダー=クリント・イーストウッドを見ることは禁じられている。キャメラが、クリント・イーストウッドが推移する様をまったく映さないからだ。許されているのは、不気味で濃密な気配を感じることだけである。尋常でない静けさ。サスペンスで漲るで画面の充実。そこでの映画作家クリント・イーストウッドは、ヒーロー映画の常識、つまり善を代表する人物と悪を代表する人物が闘うさまをキャメラで映し、観る者のカタルシスを誘うような演出を施さない。むしろ、その常識から俯瞰した場合、ペイルライダー=クリント・イーストウッドは卑怯者とさえ言えるのだ。なにしろ、敵に姿を見せず騙まし討ちのようなやり方で相手を仕留めるのだから。それなのに観る者は、そのような感情を抱かないばかりか、緊張感の高まりを覚えるのは、クリント・イーストウッドの視線(主観キャメラ)から捉えられた絵が一切排除されているからだ。もし、主観キャメラで六人の敵を追い、そして不意討で相手を仕留める様子を見せられていたなら、我々の胸の内はまったく異なる感情に支配されていただろう。僕が、『ペイルライダー』は「亡霊映画」であると定義してみせたのは、映画監督クリント・イーストウッドが、ペイルライダー=クリント・イーストウッドを描く手法が「亡霊映画」におけるキャメラワークと酷似しているからなのだ。ラスト。ペイルライダー=クリントイーストウッドは、「亡霊」から「ガンマン」へと変身する。再びスクリーンに姿をあらわし、地面に置かれた帽子を頭に載せるプリーチャー。その気配に振り返る保安官。彼は唯一、クリント・イーストウッドに対峙する事を許された存在なのだ。銃に弾丸を込めながら悠然と保安官ににじり寄るガンマン、クリント・イーストウッド。驚愕の表情でクリント・イーストウッドを見つめる保安官の体に、彼は六発の弾丸を撃ち込む。彼が昔、六発の弾丸を打ち込まれたように。しかし、クリント・イーストウッドは保安官が「亡霊」となって蘇える資格を奪うかのように、保安官の額に7発目の弾丸を撃ち込むのである。 〔了〕
2007年11月05日
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