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「学び合い」や「教え合い」の効用が、一部の教育者たちの間で盛んに語られています。その声が高まるたびに、僕の心にも静かな共鳴が広がります。たしかに、それは学びのひとつの形として、もっと大切にされるべきスタイルだと思うのです。僕の教室でも、最近こんな場面が増えてきました。ハイレベルな集団授業の中で、互いの解答を批評し合う時間。それは単なる「答え合わせ」ではありません。もっと奥深く、もっと美しい知的な対話の時間です。「この解き方、速いけれど、ちょっと乱暴かもしれないね」「こっちは、少し遠回りだけど、論理がしっかりしていて説得力がある」そんなふうに、子どもたちは互いの思考を眺め、敬意をもって言葉を交わします。驚くのは、「正解」に至るスピードや正確さよりも、“どれだけ美しく論理的に導けたか”という点に、目を向けていることです。自分とは違う思考の流れに触れるとき、子どもたちはふと目を見張ります。「ああ、そんな考え方もあったんだ」「この人は、こうやってたどり着いたのか」その気づきが、さらなる学びの深まりへとつながっていきます。誰かの知恵が、別の誰かの視野を広げる。そんな「知の交差点」が、教室という小さな空間の中で生まれているのです。僕はこの現象を、奇跡だと思っています。教育というのは、時に「一方通行」になりがちです。でも、学び合いの場が広がると、そこには双方向の流れが生まれます。そして、その流れの中で、子どもたちはお互いを「先生」にしながら成長していくのです。もっと、もっと、こんな“自由な学び”を、子どもたちと共にしたい。心の底から、そう思うのです。数学を夢中で語り合っていたら、気づけば空が白み始めていた。歴史を学んでいたら、ふと「相手の国の目線でも見てみたい」と思って、チケットを手に一緒に旅に出る――。そんな、常識を飛び越えるような学びの時間を、もっと増やしていきたい。テストの点数や成績表だけでは測れない、“本物の学び”の喜びを、ひとりでも多くの子どもたちに味わってもらいたいのです。学校でもない、家庭でもない。この塾が、そんな学びの冒険が始まる「出発点」であってほしい。そう願いながら、今日も僕は教室に立っています。
2013.12.24
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教育において、どうしても私たちは主観的になりがちです。そのため、できるだけ客観的な立ち位置を保ちたいと私は考えています。その一つの方法として、データを蓄積することに力を入れています。例えば、毎年課している「ハイレベル100題+α」という課題がありますが、この100題は2004年から毎年一度も変わっていません。なぜ、同じ問題を繰り返し出すのか?それは、私が集めたデータと経験則が一致しているときにこそ、自分の主観が大きくずれていないという安心感を得られるからです。データと経験が示す通り、今年の塾生たちは、偏差値65を超える力を発揮しており、過去の塾生たちが達成した記録を次々と塗り替えてくれています。これは、本当に素晴らしいことです。私なりに分析をすると、今年度の塾生たちの成長には、ある特別な要因があると思っています。それは、教えることを減らしたことです。言い換えれば、彼らに与える「型」や「解法」を押し付けるのではなく、彼ら自身が自分で解法を発見し、正解へと導いていく力が養われた結果だと感じています。こうした姿勢を見ていると、私もつい「この解法はパターン化できるか?」とか、「このテクニックを他の問題にも応用できるだろうか?」と考えてしまいます。それは時に、少し情けない気もするのですが(苦笑)、結局、私が学ぶことも多いのです。教育は一方通行ではなく、互いに成長し合うものだと、改めて実感しています。生徒たちの独自の解法を見て、私自身も新たな発見をしています。その過程が、私の教育方法に対する確信を深め、彼らが自信を持って成長できる環境を作り出しているのだと思います。今後もデータに裏打ちされた分析と、柔軟な思考をもって、一人ひとりの塾生が持っている可能性を最大限に引き出せるよう努めていきたいと考えています。そして、彼らがどんな形で成長していくのかを楽しみにしています。
2013.12.12
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