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少し前に東宝映画「怪獣大戦争」の合成シーンを現地調査して実物画像などを掲載しながら、つづったことがありました。考えてみると、東宝の特撮映画・怪獣映画には、避難シーンが当然ながらダイナミックに描かれていましたが、この群衆シーンのロケは、本物の自衛隊が進んで協力した攻防シーンと同じく、私の地元に近いところで、少なからず撮影されています。これからまだインフルエンザの脅威迫る本格の冬の到来を控えてもいますが、この時期を過ぎると、やがて水ぬるむ春の訪れとなります。ただ、季節は華やぐ春とは言っても、そこに暮らす人々の境遇には様々なものがあるのも事実です。それでも季節は来たりて去り、私たちの思惑と、その思いで明け暮れる様々な人間模様など、どこ吹く風と言わぬばかりに、移ろってゆきます。少しキザな書き方になったでしょうか。でも、私は人とはちっぽけな存在だと、いささかの厭世観と共に思い、それゆえに容赦なく移ろいゆく季節に身をゆだね、時季が来ればその季節に合わせて、衣替えもして、自然の営みの中に、覚えず生活行動も合わせながら、生きていることにふと気づきます。東宝が製作した数々の特撮映画にもまた、時には実景との合成も混ぜながら、ミニチュア世界として縮小再現した各地の風景が映し出されて、これもまた風情あるものだと思います。私がたとえば愛好おかないナナハンを駆って、現地に赴けば、これはもしかすると、自分の気に入った視点で見すえた写真が撮れるかも知れません。でも、趣味に没頭してばかりもいられませんので、いろいろな方法を尽くして、タイトルのようなシリーズを不定期ながら立ち上げようと思い立ちました。とりあえず、一度アップしてみます。以下一覧は、JRのローカル線の一つ「御殿場線」の駅一覧と、関連項目をネットから無断借用したものです。これを上から下へとたどると、本線「下り停車駅」などが一覧出来ます。読みにくいかも知れませんが、ワードからの貼り付けと直接書き込みを混ぜているので、誤操作による文面消去が心配で、安全のため、少しずつアップしています。ここでまたアップします。駅一覧駅名(営業キロ・接続路線・所在地) 国府津(こうづ)駅0.0 東日本旅客鉄道:東海道本線神奈川県小田原市下曽我駅3.8 上大井駅6.5 足柄上郡大井町相模金子駅8.3 松田駅10.2 小田急電鉄:小田原線(新松田駅) 足柄上郡松田町東山北駅13.1 足柄上郡山北町山北(やまきた)駅15.9 谷峨(やが)駅20.0 駿河小山駅24.6 静岡県駿東郡小山町足柄駅28.9 御殿場駅35.5 御殿場市南御殿場駅38.2 富士岡駅40.6 岩波駅45.3 裾野市裾野駅50.7 長泉なめり駅53.5 駿東郡長泉町下土狩(しもとがり)駅55.6 大岡駅57.8 沼津市沼津駅東宝昭和32年12月公開の「地球防衛軍」に登場したロボット怪獣モゲラと、その登場シーンで作られた鉄橋の巨大ミニチュアセット。 酒匂川(さかわがわ)第3橋梁この御殿場線の各駅の中に、山北(やまきた)駅と谷峨(やが)駅が隣り合って置かれています。全くの余談ながら、私と御殿場線とは縁浅からぬ関係でした。ようやく受かった高校が沼津市にあり、昭和43年(1968)、高一となった私は、当時はひどい田舎としか思えない御殿場市に住み、この御殿場駅から沼津駅まで、およそ50分ほどかかる距離を、蒸気機関車のD52、俗称「デゴニ」にゆられて通いました。車中は、時間帯によっては通勤・通学の行き帰りの社会人・学生生徒でかなり混み、時には立錐の余地もないほどでした。ある帰りの時など、既に満席で御殿場まで立ったままの状態を耐えねばならない混雑の中で、ふと気づくと、目の前に腰掛けて勉強している女子高生、これはあるいは沼津西高の生徒だった覚えがありますが、この女子高生の胸を真上から直角の俯瞰(ふかん)で見下ろす絶好の位置関係にあり、その胸の割れ目に視線を釘付けにして、胸の奥の実物を拝もうと、いえ、見つけようと、混雑のわずらわしさも忘れて、ひととき痴漢ならぬ視漢と化したうれしい思い出があります。すみません、病気が出ました。でも、高一生当時は、これくらいの好奇心は皆あったはずです。私は女の人を腕ずくではずかしめるような行為は嫌いです。当たり前ですね。それでは私の好きな行為はどういうものかというと。すみません、これくらいにしておきます。ま、少なくとも私と付き合って、今も何らかの連絡を取れる関係にある婦人は、私の行為を、これ以上ない恥ずかしい記憶と共に、懐かしくも思い出せることと察します。失礼しました。軌道修正します。かつて「東宝SF特撮映画シリーズ」という豪華な本が何冊か出ました。その中に、「VOL.5」として、「キングコング対ゴジラ」、「地球防衛軍」の2作品を扱ったものがあり、さらにその巻末近くに、長年特撮映画の演出を手がけたベテラン、故・本多猪四郎(ほんだ・いしろう)監督の詳細なインタビューが載っています。「東宝SF特撮シリーズ VOL.5」の裏表紙の一部。このインタビュー記事中に、「地球防衛軍」のロケ場所に言及した箇所があり、それが今回のテーマと符合するようなので、本文をつづったわけです。以下、本書から、興味深いところを抜書きします。本文のまま敬称は略します。――鉄橋を避難民が渡るシーンがありますね。本多「これも御殿場線の山北(やまきた)から谷峨(やが)に行く途中の鉄橋、今でもこれはありますよ」以上抜書き。この鉄橋が、いろいろ検索の結果、画像の「酒匂川(さかわがわ)第3橋梁」ではないかと思われます。今回は、思い込みの域を出ませんが、この推測は当っている気がします。万一、画像の鉄橋そのものではないとしても、この御殿場線の山北―谷峨間の類似の鉄橋のある一帯をロケーションしたことだけは間違いないと察します。
2007.01.29
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笑ったりしんみりしたりしながら楽しんだTVドラマ「だいこんの花」のシングル・レコードの話を中心にあれこれ書いて来たが、そろそろまとめてみる。私はつい先日、このドラマのテーマ曲と竹脇無我自ら歌う甘い歌声の主題歌をもう一度聴きたいと思い、ネット通販で何んとか在庫のある1977年発売のシングル・レコードを買った。 前の日記でナレーションの『・・こぼれ散り・・』にこだわったのはこの盤を買ったからだ。レコード盤は、特に冨田勲のテーマ曲を文字通り堪能出来る構成に録音されているから、余りの懐かしさに涙を流しながら聴き入った。もちろん竹脇無我のナレーションが初めに入るが、このレコード盤では『・・こぼれ散る・・』とハッキリ言っているのが特徴だ。テレビ放映のナレーションとは異なる。ただし、シリーズ途中からテレビのほうも『こぼれ散る』に変わったのなら、私の間違いだ。二面ともA面と言いきっても良いレコード盤だ。テーマ曲は、書いたように、以下のナレーションから始まる。『人知れず忘れられた茎に咲き、人知れずこぼれ散る、細かな白いだいこんの花』「堪能出来る」というのは、テーマ曲を二回繰り返すことだ。テレビ放映では言わばワンコーラスて終わってドラマに入るが、しコードでは、楽器の演奏のあと、全く同じメロディーを美しい女声スキャットを交えて演奏しているから、感動がさらに盛り上がる。もう少し正確に言うと、冒頭から女声スキャットが入り、続いて竹脇無我のナレーション、それから楽器による演奏が再び始まり、ワン・コーラスのあとに続けて女声スキャットが混ざるという順序だ。さて、いよいよ竹脇無我の美声で歌う主題歌である。レコードを裏返して針をおろすと、今度はうって変わってアップテンポのモダンなイントロが始まり、歌が流れる。歌のメロディーは、冨田勲の曲にそのまま歌詞を乗せたものと言える。少し横道にそれるが「YOU TUBE」はこのごろ余り好きでない。お気に入りに入れてしばらく聴かないでいて、しばらくぶりに聴こうとすると、著作権侵害とやらで削除されてばかりだ。洋楽の「ABBA」の「ダンシング・クイーン」を長くお気に入りに入れておき、先日久しぶりに聴こうとしたら、削除になっていた。録音技術のある人はいち早く取り込んでいつまでも楽しめるだろうからうらやましい。さて、「だいこんの花」も今のところは、いろいろ掲載されているだろうが、この運命も怪しい。そして何より竹脇無我の主題歌がさがした限りでは見当たらない。冨田勲の世界にうっとり聴きほれるにはテーマ曲だけのほうが良いが、竹脇無我の主題歌の味わいは、美声はもちろんだが、何んと言ってもさわやかでかつ、しみじみしたその歌詞にある。私は楽天ブログの著作権なぞ知らないから、忠告でもないあいだは、二番まで全部掲載する。以下の歌詞である。♪ 1 .春の日に咲いている、ひそやかな白い花、だれも目をとめないけど、美しく咲いている、いまは亡いかあさんの、やさしさによく似てるあのころはなにも知らず、生きていたぼくだけど、いまもなおその愛に、つつまれて生きている2 . 菜の花のかげに咲く、ひそやかな白い花、だれもほめないけれども、美しく咲いている、いまは亡いかあさんの、その姿思い出す子どもらのかげひなたに、生きていたその姿、いまもなお鮮やかに、この胸に生きている(間奏)あのころはなにも知らず、生きていたぼくだけど、いまもなおその愛に、つつまれて生きている以上、主題歌の二番までの全歌詞である。独り、ヘタな歌で歌う時、この軽快なメロディーを、冨田勲のテーマ曲のようにゆっくりと、さらに曲のリズムもそれに合わせて歌うと、また格別の味わいに、自ら感動してしまうのである。テーマ曲も、幸い半音がないから、ハーモニカで吹いて楽しむことも出来る。ふと思い出すと、かつて数々のドラマを楽しんだ記憶が、懐かしい場面と共に次々よみがえるが、それらのドラマの中で、全く危なげない、見事な演技で楽しませてくれた俳優・タレントの多くが既にこの世にいないという寂しさも、同時によみがえって、懐旧の情とはつくづく哀愁を伴うものだということもわかる。「だいこんの花」一つ思い出してみても、元海軍大佐で巡洋艦「日高」艦長だった永山忠臣(ながやま・ただおみ)を演じた森繁久彌、その息子役として余人を候補に考えられないほど、ピタリ息の合った永山誠(ながやま・まこと)を演じた竹脇無我、例を第2シリーズにとってさらに思い出すと、巡洋艦と同じ屋号をつけた料亭「日高」を経営する元部下の相馬京太郎(そうま・きょうたろう)役の大坂志郎、彼の一人娘・相馬麻子(そうま・あさこ)役の武原英子(たけはら・えいこ)、同じく元部下が経営する銭湯の長女・石川高子(いしかわ・たかこ)役の名女優・大原麗子(おおはら・れいこ)など、すぐ思いつくだけでも、これら映画・テレビに活躍した優れた俳優たちが、既に鬼籍に入っている。なお、料亭「日高」の主人をよく助けてドラマ中、ついに表に出ぬ脇役に終始した板前の善さんこと善吉(ぜんきち)役の服部哲治の、素直で明るい印象も忘れられない。名前の正確な読み方がわからないが、この人も、既に亡くなっている。この第2シリーズは、誠と杏子の出会いから結婚までが抜群に面白く、そのあとあたりから、まるで森繁が「ホンワカホンワカ、パパパー」と歌っているかのような関西喜劇風のBGMが鼻について来て、面白さ半減する。だがドラマ全26話を通して、物語自体は誠と杏子のさわやかな恋愛談にしぼられるばかりではなく、川崎敬三(かわさき・けいぞう)演ずる杏子の兄・高柳啓一(たかやなぎ・けいいち)と大原麗子演ずる高子とのコミカルな恋愛劇も二人のベテラン俳優によって、物語に見事に溶け込んで、いったいこのように楽しく見られるドラマは、なぜ今は見られなくなったのかと、残念でならない。多分、娯楽も私の時代ではなくなったのだろう。昭和の雰囲気のある人間を「昭和くさい」と言うらしいが、私見によれば、私にとって娯楽、特にTVドラマがつまらなくなったのは、「平成」の時代に入ってからである。美しい女性を美人といい、ハンサムな男性を美男子というが、竹脇無我のファンになった婦人の中には、「何んて美しい顔の俳優だろう」とうっとりしたという人も少なくないらしい。翻って、今顔立ちの良い男を「イケメン」と呼び、そう評価されるタレントが映画・テレビの主役をやっているようだが、私の目にはいずれもホスト・クラブから出て来たような顔にしか見えない。私のようなブ男でないのは確かだが、決して容貌の整った美男子ばかりではない。そのタレントたちが演ずる現代のドラマとなれば、内容も異なって来るのも当然だろう。ともかく私はテレビというものを全く見なくなった。新式の電波方式に合わせた薄型テレビも、とりあえず設置してあるが、壁に吸い付くように置かれたテレビは、地元の天気予報の画面を出す時、リモコン操作してつけるだけだ。ボリュームはほとんど絞って聞こえなくしてある。なお蛇足だが、ガンで訪れる死を待つばかりの俳優・入川保則(いりかわ・やすのり)氏は、若者に対するメッセージとして、「人間として生まれたら、もうだめだと思え。どうせそのあとは苦労ばかりで、それを背負って生きると、苦労が楽しみに変わる。そうやって50年も生きたら、大威張りであの世へ行ける」と言っている。亡き祖母も苦労した人間だったが、口癖のように「この世は苦の娑婆(しゃば)だよ」と言っていた。母がまだずっと元気だった頃、これも口癖のように「今夜寝て、そのまま明日になっても眠ったままで起きないといいんだけどね・・・」とよく言っていた。かく言う私も、神経症を抱えて生きて来たような人生だから、とうに厭世主義者である。体調不良になっても、臓器のどこかが悪いのか、生来の神経症なのか、区別がつかない。なまじ、ある程度の知性を持つ人間に生まれたのが運のつきである。今回の体調不良が持病の神経症再発ならば、前途への気力ある限り、大学入学時の発病以来、三たびの再発となるから、あるいは回復の見込みもないとは言えないが、それまでがなかなか苦しいものではある。二度の神経症から救ってくれた母には、もはや甘えられない現状となった。介護職の人々に相当助けられているが、所詮、唯一の介護家族たる私が体調をあるレベルに保たなければ、いずれ何も母を支えられない状況となる。神経症は誰でもなるおそれがあるというのは、ある意味で正しいかも知れないが、克服に必ずしも医家を必要としない強い人がいるのも事実だ。かつて『マカロニほうれん荘』という異色のギャグ漫画で週刊誌「少年チャンピオン」に活躍した鴨川つばめ氏は、売らんかなの編集側の非情・無情に嫌気がさし、突然の連載終了を断行した。その後、心身共にコワレた状態に陥ったが、元来病院嫌いで、しかも強い心身を持っていたがゆえに、自力で回復し、平成8年現在では、一時執筆の机に向かうのも苦痛だった漫画創作の世界に復帰しているという。平成23年現在の様子はわからないが、たとえば貸本漫画の世界に活躍したのち、すっかり筆を折ってなお、2009年、満75歳で亡くなるまで、自活して生き続けた徳南晴一郎氏(とくなん・せいいちろう、またはとくなみ・せいいちろう。幼児期の大病のため身長わずか140cmで成長がとまる)の、恐らく凄絶な生き方もある。人間、生まれた以上、衰え死するまで、何らかの方法で生きねばならない。改めて私にはこの世は生きるに値しないところである。何を書きたいのか定まらない妙な文章だが、それが私の現在の混迷を象徴しているのかも知れない。竹脇無我氏も凄絶なウツ病を8年間患い、糖尿病・高血圧を抱えたまま、劇的生涯を終えた。
2011.11.07
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西岸良平氏の傑作「三丁目の夕日」のコミックス第45巻を読んでいて、ハッと遠い記憶がよみがえった。私は小学二年の夏休み中に富士宮から御殿場へ引越し、二学期から、御殿場小学校へ転校となった。これも大きく私の運命を変えた分岐点となったと今でも確信している。昭和35年夏から秋へかけてのことである。西岸良平(さいがん・りょうへい)氏著「夕焼けの詩(うた)」第45巻。御殿場では自衛隊官舎に入った。次第に年齢が上がるにつれ、驚いたのは、この杉原自衛隊官舎には、学業優秀な子弟がごろごろいて、例えば県下有数の進学校・沼津東高、俗に沼東に通うお兄さん方がぞろぞろいるのはむしろ当たり前なほうで、なおかつ、東北大学医学部、京都大学などに進んでいる人もかなりいた。意識変革をもたらした御殿場の自衛隊官舎。画像右一番手前のお宅が、兄弟三人全員沼津東高、さらに当時上のお二人が国立大学(旧帝国大学)進学という秀才を擁したお宅で、事実は不動の迫力となって迫った。私のような平凡な頭しかないガキにとって、この環境はすぐにはピンと来なかったが、あとで考えるとやはり好環境だったと思えた。さて、ややそれた。軌道修正する。御殿場市自体は今でも余りパッとしない、どちらかというとみすぼらしい土地だが、学校は驚くほど違っていた。元の富士宮市のままだったら、大宮小学校という、悪しき環境下で私の意識は変化せず、その後の学歴が一変していたことは間違いない。おっと、又もそれた。小学四年の時から、春秋の遠足、文字通り歩く遠足に加えて、「社会科見学」というバス旅行が実施されるようになった。三年生以前には、バスを利用する遠足はあったものの、遠方までバスだけを頼るものはない。これがかなり豪華版だったので、今や記憶の中では、同じくバスを使う修学旅行との区別がむつかしくなっている。四年のときは日本平などへ行ったので、これはわかる。だが、翌年の五年生の時も、社会科見学で東京・横浜方面へ行き、その翌年、六年の時の本物の修学旅行もまた、東京・横浜方面へ行っているので、区別がむつかしくなった。ほとんどない記憶でせいぜい推測できるのは、六年の修学旅行の目的地のほうが数の上で優っていることぐらいか。東京・横浜以外に江ノ島・鎌倉にも寄っているからだ。西岸良平(さいがん・りょうへい)氏著「三丁目の夕日」の新書判コミックス「夕焼けの詩(うた)」第45巻所収の「お化け煙突」。で、西岸氏の漫画に出てくる「お化け煙突」を見たのはどちらの時だったかが、全く思い出せない。更に言えば、本来の目的地で見たはずの各地の風景が、絵葉書を上回るほどの強い印象を残していない。その中で、バスの車窓から食い入るように視線を釘付けにして見たお化け煙突だけは、いずれの旅行かは思い出せないものの、鮮烈な印象を今に残している。西岸氏の漫画、タイトルもズバリ「お化け煙突」によると、昭和39年には、取り壊されたとあるので、もしかしたら、前年小5の社会科見学の時だったのかもしれない。つまり昭和38年ということになる。バスガイドさんが又ややきれいで、しかも我々子供に溶け込み、なおかつリードすることがとても巧みなお姉さんだったのも覚えている。お化け煙突の刻々変わる様を興奮と共に楽しめたのは、このガイドのお姉さんの力もずいぶん大きかったように思う。どこをどう走っている時だったのかなど、まるっきりわからぬ田舎のガキであった。ガイドさんが、右手、左手などと見事に解説して飽かせることなくリードしてくれるうち、このお化け煙突の話題に移っていった。もうすぐ見えるときにいきなり話し出すわけがない。充分にして必要な時間を計算ずみの、見事な解説だった。くどいが、しかもこのガイドのお姉さん、ませガキの私の目に、確かにきれいだった。そう、今更に思い出した。歌がうまかった!!はっきり思い出せないが、砂に書いたラブレターというような歌があったとしたら、これをビブラート見事に歌った。ませガキの私は、これにも「ガツーン・・・!!」とカルチャーショック、大人の女の人ショック、ずーっとあとにオイルショック、っとっと、これしらける。軌道修正。(のちの検索で歌は先ごろ亡くなった弘田三枝子さん歌唱の「砂に消えた涙」と判明しました)とにかく、このきれいなお姉さんが時間を計りながら、私たちの関心度最大になるという頃、「ほら、(右手左手は忘れた)X手に、今お話したお化け煙突が見えて来ました。さあ、これからしばらくは、お姉さんの顔なんか見ないで、煙突をじっと見つめてて下さいね」こんなふうに誘導しながら、その煙突の見かけの本数が刻々と変わる様を、まさしく実況で説明してくれた。ただし、この頃、四本全部あったのかどうか、リアルタイムで現地で経験していない田舎者の私はわからないが、四本だったと仮定して、進める。「さあ、今四本見えますね、それがほら三本になりました、・・・さて、はい今二本になりましたね。一本は、ああ、あっという間でしたが、ほんの何秒か一本になりましたよ。さあー、皆さんはちゃんと見えたでしょうか?」緊迫の何十秒かがあっというまに過ぎた。見える本数の順序も、記憶がいい加減なので、適当に書いたが、バス旅行中、最もエキサイティングかつ楽しい光景であった。なお、お化け煙突とは、東京千住の「千住火力発電所」の四本の巨大煙突である。多分普通は常磐線の車窓から容易に眺められたものと思うが、バス旅行の窓から見る私たちにはこのあと二度とお目にかかれぬ貴重な眺めとなった。怪物漫画「こち亀」こと「こちら葛飾区亀有公園前派出所」コミックス第59巻。新旧に通じる抜群の面白さを維持した秋本治(あきもと・おさむ)氏の超ロングラン漫画。同じテーマでは、秋本治氏描く「こちら葛飾区亀有公園前派出所」第59巻に「おばけ煙突が消えた日」がある。両者甲乙つけがたい、風情のある一作である。同様の東京風物に勝鬨橋がある。これもぜひ一度、そのダイナミックな開閉の様子を見たかった。私にとってあらゆる角度で捕えようとすると、良き時代は昭和30年代で終わっている。
2003.06.04
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2003.11.09 対ソ国境線戦闘、関東軍の死闘「西部方面篇」。(加筆) カテゴリ:カテゴリー未分類 満州国境戦、資料文献を読み終えていないが、専門用語のまじった膨大な文章なので、読了の頃には記憶があいまいになるおそれも感じ、書き始めることとした。なお、本文は想科良次さん(現・想科さん)作成の別サイト、略して「怪獣少年の夢」コーナーに掲載していただく予定の「満州国境線配備の鉄人28号型戦闘ロボットジオラマ」に密接に関連する内容へと、次第に移行してゆくものだ。しばらくは読解困難な関東軍最後の描写が続く。しかし、このことを書かずして、空想物語への移行はできない。まず初めに書くのは、史実である。拙い語いを以て形容すると、勇戦奮闘・壮絶・猛抵抗・悲惨・死守・無私の精神によって展開された関東軍終末近き劣勢下の、対ソ戦描写である。関東軍。これは世界精強と形容された名実共に精鋭なる陸軍兵団であった。なお、再三書いてきたが、私は旧軍全面悪と評する謬見(びゅうけん。誤った見解の意)を正す考えからも、 大東亜戦争の終末近く、日本軍がいかに勇猛果敢なる戦闘行動を行なったかを、できるだけつづりたいと思うので、思想面に意見ある人には、私見をまじえず読んでいただけたら幸いである。再び関東軍について知るところのみ書く。関東とは言ってもこれは支那大陸の関東州のことである。満州帝国を樹立したのち、駐在部隊として次第に兵力を拡大発展し、世界的に有名になった一大陸軍組織として、「泣く子もだまる関東軍」とまで言われた。「関東軍」とは大日本帝国の中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京に移転した。淵源をたどれば1900年の「北清事変」にさかのぼるが、詳述は措(お)く。北清事変を描いた映画「北京の55日」。白人の活躍が目立つが、史実は距離に問題のあった英国の要請を受けて、我が日本軍が、即座に各国公使館死守に向かった。ただし、さらに近かったロシアも出兵し、これがのちの日露戦争につながる。昭和20年4月、ソ連は一方的に「日ソ中立条約」を破棄、通告してきた。破棄とはいっても、条約は一ヵ年は有効であり、そのかん戦端が開かれるはずはなかった。だがソ連はまともな国家ではない。半年も経たぬ同年8月9日未明、ソ連極東軍は大挙して国境線を突破侵攻開始した。ひとことにソ満国境といっても、大きく分けて三箇所の攻防の要所がある。すなわち東部・北部・西部国境地帯である。なお、昭和18年7月ごろの彼我の戦力比較以下の如し。師団数、関東軍20、ソ連軍25。総兵員、関東軍60万人、ソ連軍70万人。飛行機、関東軍600機、ソ連軍1000機。戦車、関東軍300台、ソ連軍1000台。戦闘は兵器・物量に優るほど優勢なことも確かだが、戦う兵員の鍛錬度・技量・精神力も欠くべからざる要素である。陸戦では海戦よりも、これが勝敗に大きく影響する。この点に於いて、昭和18年当時の軍容のままならば、我がほうが圧倒的優勢で、必勝疑いなしの実情だった。だが、大東亜戦争各地の戦闘状況、我れに優勢ならず、最終的には精強なる我が関東軍は、実に師団数20個を、主に南方戦線へ向けて転出の余儀なきに至った。ひとくちに20個師団という。師団とは、時代・状況により異なるが、大東亜戦争で見る限り、一個師団、二万人前後である。それがしかも選りすぐりの精鋭を以て整えられた確固たる20個師団であった。兵員数にして40万人。この精強なる40万人が南方を中心とする各地へ転用されたのだった。勝機の決定が兵員の精鋭度で計れる好例がミッドウェイ海戦である。本海戦は情報戦でもおくれをとっていたと言われるが、少なくも艦船350隻、航空機1000機、参加将兵約10万人の、世界海戦史上例を見ない一大兵力であった。そして、これには真珠湾攻撃で見事な戦果を挙げた優秀なるパイロットが充実していた。その海戦で敗れたあとの日本海軍もまた、質・量共に著しき低下を見ることとなった。対ソ戦の抽出20個師団もまた然り。劣勢は火を見るよりも明らかだった。すなわち、精強20個師抽出後の、昭和20年7月末の戦力比較以下の通り。師団数、関東軍24、ソ連軍50。総兵員、関東軍75万人、ソ連軍130万人。飛行機、関東軍160機、ソ連軍4800機。戦車、関東軍80台、ソ連軍3500台。師団数や兵員数だけ見ると、劣勢とはいっても、数に大差はないようにみえる。が、これらは間に合わせの軍容であり、24個師とはいっても、いわば固形物をかめない総入れ歯の兵団に過ぎなかった。それにしてもよく形ばかりとはいえ、24個師を集めたものだと思うが、詳述は省く。ともかく、2年前の20個師とは激差のある、寄せ集め軍隊には違いなく、わかりやすく言えば、「実力5個師団」と酷評できるほどの戦力であり、歩兵戦力はソ連軍の50個師に比して、十分の一でしかなかった。我が軍機械兵力に至っては、飛行機がソ連軍の1/30、戦車が1/40以下である。訓練・装備の大差をみると、恐らく勝負にならぬ戦になると誰もが思う。「大兵に戦術なし」とすれば、小兵にも逆の意味で戦術なしのはずだ。さらば、日本軍はなだれを打って敗退したか? 否、小兵なりとはいえ、関東軍には骨が残っていた。仮に各師団に一個大隊としても、20個師団総計20個大隊分の強兵が残っており、彼らは多く、国境の要所を固めて術と魂を以て、あるいはソ連の違法を懲らしめんと立ち上がり、あるいはソ連兵をのんでかかって、真正面から撃破せんと、躍り出る者あり、かくて、国境要所に激闘が巻き起こった。満州国境線西部方面ソ連軍侵入経路図など。まず、国境守備三箇所の要所のうち、防衛手薄の西部方面をみる。この広大なる地域は、北方国境都市、満州里からチチハルへの途上にハイラルの陣地がある以外は裸の戦場であった。ハイラルのみは、防備中枢として、昭和13年から築城され、五つの陣地を以て都市を包んでいたので、そこへ殺到したソ連軍は、予想の突破を阻止された。我が西部方面全軍頑強なる抵抗により、終戦まで大半の陣地を保ち得たのである。しかし陣地も準備もなかったノモンハン以南の長大なる国境はやすやすと急襲突破されただけでなく、国境アルシャンにあった第90連隊は、苦戦を重ねながら歩々退却、その主隊たる第107師は、途中から山道を迂回して退却に就き、そのため終戦の無電通ぜず、敵の大軍にはさまれて8月23日に救出された物語も生まれた。以上の如く、西部国境方面は、ハイラルの堅固なる陣地と我が軍の頑強なる死守による抵抗以外には、ソ連西部戦線軍の破竹の進撃にあって、反撃あたわず戦闘終了の余儀なきに至った。だが、残る北部・東部国境に於いては、ソ連軍にやすやすと突破攻略の余裕を与えず、その猛攻を各地で撃退した。ここで早くも私は空想物語の挿入を考えたき衝動を抑えられない。もし、西部国境のうち、手薄だった南部方面はもとより、頑強なる抵抗を為したハイラル方面にも鉄人28号が配備されていたら、我が軍の反撃は実現したばかりか、ソ連戦車の大砲弾はもとより、航空機の機銃・爆弾攻撃ことごとくをはねかえす装甲によろわれた鉄人の守備、否、「攻撃は最大の防御なり」をまこと実現してなお余りある鉄槌猛撃により、ソ連西部方面軍は、逆にこてんぱんにたたきのめされたこと必定と思うのである。今回は西部国境攻防戦記述にてしめくくる。参考文献 / 伊藤正徳氏著「帝国陸軍の最後・終末篇」昭和36年(1961)10月10日初版発行(文藝春秋新社)最終更新日 2003.11.09 13:30:10
2016.03.31
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2006.12.22 画像イラスト化計画 [ 雑記 ] 「ハンサムな天才科学者『田所修一』の原型再録」原則として画像一枚完成を以ってジオラマ完了という形式で続けて来た拙い特撮作品は『三大怪獣富士の大決戦』が最後である。ただし、この画像にはデジタル加工処理が施されている。いつもお世話になっているかたの、高度な技術のおかげである。この画像に一見の価値ありとするならば、それは私の拙い元の撮影画像ゆえでなく、このかたの加工処理の素晴らしさのおかげである。私の年齢と境遇、健康状態などをごく大ざっぱに考えてみると、目下更新中のこれまた拙い画像つきSF物語「恐竜境に果てぬ」を完結させられたと仮定しても、恐らくこれが大好きな特撮造型趣味の最後の作品になると予想される。さもなくば、ダジャレのようだが、タイトルのように、物語未完成のうちに、私は命果てて、死後の楽天ブログがしばらくのうちは残ることにもなりそうだ。さて、私がこれまでの一画像一作品という形式を突如やめて、なぜ拙い物語創作に気持ちを向け始めたのか、あれこれ考えた。結局自分でも納得する答えは出なかったが、きっかけの一つとなったことはわかった。天才にして友人である男の創出である。今や、気の置けぬ友達一人出来ずに悩む人は全国に少なからずいる時代となったらしいが、あるいは私はそのはしりである。昭和30年代を少年時代として過ごした者のほとんどは、一人や二人、そして複数の親しい旧友を持つものではないかと私は思う。ところが私は、学校時代から今に至るまで、気軽に行き来出来る友人の一人も持つことが出来ずにこの年になった。情けないことであるが事実に相違ない。この気持ちが常に燠(おき)のように胸中、脳中にくすぶり続けていて、やがて次第に形を取りつつあったのかも知れない。現に、私は三大怪獣ジオラマの次のジオラマを幾つか計画しても、どうも今ひとつ気乗りがしなかった。俵藤太のムカデ退治・月光仮面六分の一スケールのジオラマなどを考えたが、完成予想図一つ描かずに時だけが過ぎた。そのうち一人の人物像が浮かんだ。正直なところを書くと、私は東宝映画『日本沈没』の正確なラスト・シーンを覚えていない。あれだけ粉骨砕身、日本国民のために働く結果となった天才科学者・田所博士は、渡老人と共に日本に残り、巨大な日本列島という母艦と運命を共にしたと、勝手に記憶している。 少なくとも、詳細に描かれた小松左京氏の長編小説では、田所博士は日本列島に残り、迫り来る天災地変の中で、渡老人に、自らの本心を切々と語っている。「私は日本列島を女に例えるなら、ほれていたのです。心中(しんじゅう)にほかの国民を道連れにする道理はありません」という意味の告白までしている。田所博士の享年はわからないが、小説中の年齢でまもなく亡くなったとすると、65歳である。しかも彼は生涯独身だった。ここに私はおこがましきながら自分を重ね、人もあろうにSF界の巨人・小松左京氏が、力作中に、劇的な科学者像に描き上げた田所博士をスケールダウンさせ、彼に一子を与えて、その一徹な科学者魂のひとかけらだけを受け継いだ若き天才物理学者として、拙いブログ小説でデビューさせた。ここに鈍才・村松と恐竜世界冒険旅行に臨む田所修一が誕生した。これ以下、過去のブログを再録修正して、田所修一のモデルとなった一発明家を改めてクローズ・アップしておく。私の知人に、隠れた発明家がいる。断わっておくが友人ではない。・・・・・彼は、ある日私に「写真に特殊な操作をすると、その写真を撮影した時のあらゆる音を、その写真の写っている範囲からは、再現出来る」と言ったので、私は怪しんだ。とにかくこの人物は、申請すればとほうもない数の特許を取れるのだが、過去に、勤めていた会社の自分の手柄を抹消されて以来、世捨て人の環境に身を置いて、相変わらず、驚異的な開発作業に余念がないが、人嫌いは一級品で、私でさえ、迷惑がることがある。その理由を「画期的研究を、私が盗むとも警戒しているのか」と問うたら、「そんなことをしたら、この浅い交流も終わるわけだから、君は二度と俺の家の敷居をまたげまい」と、軽く返されて、イヤミがなかったので、私はむしろ、感服した。さて、話を戻す。ただし、彼の言う理論は、液晶テレビを「オモチャ」と一笑に付すほどの高いレベルの科学に裏付けられたものだから、聞いてもほとんど意味がわからない。「写真」から音声を取り出す作業はさほど困難ではないと彼は言う。以下、さっぱりわからないものの、聞いて覚えている通りのことを書いてみる。なお、この原理は、私が理解した範囲での記述ならば、たとえ一流電気メーカーにも理解不能だから、かまわないとも、やや皮肉気味に言われた。「音声再生写真装置」の理論は、彼曰く、以下の如し。★SL、つまり蒸気機関車の接近を撮影したとする。周知の通り、通常は汽車の姿が焼きこまれているだけだ。だが、音は音波、波動であるから、その時の空気を振動させて、カメラは空気の振動をも捕えている。つまり、無音の風景を撮影すれば、音源はないも同然だから、撮影した風景の中には、目だった音波はない。ゆえに、空気の振動がないに等しい。SLがポーッと汽笛を鳴らすと、その音波が振動させた空気をカメラは撮影しているはずである。言わば空気の振動が、撮影画像に目に見えない痕跡を残しているから、音の強弱が光の強弱となって、写真の紙に記録されている。この中から、特殊な再現装置を使って、光の強弱を音の強弱に変換すれば、あとはボリューム調整次第で、SLの汽笛を臨場感たっぷりに聞ける。★私は何でもいいから、音を聞きたいと思う写真を提供してくれと言われて、それでも半信半疑どころか、SFの域を出ない話で、私をからかっているのではないかと思った。だが興味が疑念に優った。私はバイクで走っているところを撮影してもらった過去の写真を持っていって見せた。彼は早速、装置にかけた。すると驚くべし、聞き覚えのあるバイクの排気音が聞こえて来たではないか。これはほんの一例である。さて、そこで私は、全くの思いつきで、「ぴんぼけ写真」から、鮮明画像を復活させるのは、これは無理だろうと問うと、そんなのは、朝飯前だと言うので、早速、楽天日記サイトから盗んだ一枚の人物写真を見せた。「なんだ、携帯電話の写真機か。なおのこと楽勝だ」と笑った。「ちょっと画像を拡大したみた」と彼が言うので、冗談か真面目かわからぬから、私は黙っていた。「ナニ、俺も年で、老眼が進んでな、ちょっと拡大したほうが、やりやすいと思っただけさ」半ばふざけているようにも聞こえたが、彼は真剣な目になっていた。彼は、にわかに顔を輝かせて、画像再現作業の説明をした。★ひとたび写真を撮ると、たとえぴんぼけでも、そこには、元の被写体が存在する。それはたとえばデジタル画像であれば、これは被写体各点を数置式に捕えて、それらを目に見える元の形に変換した結果だから、これらは情報表示にしてみると、乱数表の数字の如く、乱雑に並んだおびただしい数字(実際は各種文字)の羅列に過ぎなくなる。★私は、「『ぴんぼけ』画像をどう復元するのか」と問うた。彼曰く。人間に限らず、写った物体の姿には、ある共通点が確定している。たとえばと、今回再現作業を頼んだ人物画像を見せながら、彼はまたよどみなく、ほとんどわけのわからない理論を語り始めた。★現にここには一人の人物が写っている。人間の顔だちは、千差万別に見えて実は大差はない。まず、気になると思われる目鼻立ちの箇所をマークする。このマークしたところは、コンピュータ操作で、先ほどのデジタルの羅列で現われる。ぴんぼけ画像というのは、このデジタル羅列で見ると、鮮明画像に現われるデジタル羅列とは違ったデジタル構造で浮かび上がる。そこを、鮮明画像デジタル表示の、共通項目だけに絞って、数置羅列の補足作業を行なっていくと、ぼやけていたところの目鼻が、くっきり見えて来る。★私は共通項目以外の箇所は、復元不可能ではないかと聞いたが、あざ笑うように返された。曰く。★ぴんぼけ画像のたとえば目の部分のデジタル表示を、勝手に変えると、ほら、このように元のぴんぼけ画像の目とは違う形にズレて来るから、ここはやや根気が要るが、元のぴんぼけ画像の目の形を保つように、ある種のモーフィング処理を行なうと、ほら、・・・★モーフィングとは何かわからないが、これにこだわると更に面倒になるから、彼の作業を見守った。私は思わず声を上げた ! 彼の根気良く取り組む作業が進むにつれて、絶対に本人の顔はわからないに違いないと断じていた、そのたとえば今話題にしている『目』が、まるで今ここで撮影した鮮明画像のように、出現したのだ !「ほお・・。この人物は顔に何か肌荒れクリームのようなものをぬっているな」私はそんなこともわかるのかと驚嘆の声を上げたが彼は更に。「今復元した目のデジタル表示を見ると、この人物は何と言ったか・・」私は言葉をついで、この浮世離れした男の説明を少し助けた。「マスカラという化粧道具ではないかな・・」「ああ、そう称するのか。うん。確かに目の周りにその類いの化粧を施しては消すことの繰り返しをした痕跡が出ている」。まことに驚きの連続だった。だが私は彼に、特許申請を勧めることだけは禁物とつとに心得ていたので、しきりと感心してみせるにとどめた。こうして、目、鼻、唇と、次々にデジタル画像が、鮮明なものに生まれ変わって、次々に眼前に現われた。なお、話が前後したが、人物画像をさえぎっている文字やケーキのイラストは、写真とは全く別に加工処理されたものに過ぎないからと言って、彼は、これらも次々に画像前面から消去していった。今、私の手許にあるのは、それまで全くルックスの見当もつかなかった人物の鮮明極まる画像写真である。「だがな」と言って、彼は元のぴんぼけ画像を取り出して、何とトリミングをして、それからゆっくり言った。「どうだ。初歩的な作業だが、ケーキの類いを取り除いただけでも、この人物の姿が、わずかながらでも強調されるものだ。まあ、これこそはやや戯れ、稚拙なテクニックに過ぎないがな」ただ隠遁生活に限りなく似た生活をしている彼にしては珍しく、私に釘をさす面持ちで追加した。「まさか、その画像、日記に公表しないだろうな。それだけは礼儀と心得るべきだぞ」と。ま、人は見かけによらぬものだと感心もした次第だ。私は、イラストにして、やや劇画タッチに変えて、アップすると告げたら、彼は「脚色の好きな君らしい。ぜひそうするといい。なかなか整った顔立ちだから、思い切って、劇画にするのも一興だ。ただし、間違ってもハイパー・リアリズムを狙うなよ。君にそんな才能のカケラもないのだからな」と、また偉そうなことを言ったことも、付け加えておく。イラスト完成にはやや時間がかかるが、いずれ掲載する。私の欠点は、一度興味を持った対象に、しつこくして、最後は嫌われることだが、劇画調イラストで仕上げて、そののちいつもの通り義絶となるなら、是非もないことだと、不承する覚悟は出来た。編集後記 / 写真をイラスト化するなどということは、私如きにはとうてい不可能だとわかりました。常に魅力に富むデジタル・イラストを更新して、大勢のファンを獲得している人の見事なブログが存在します。この人が『お世話になっているかた』であるのは言うまでもありません。また「音声再生写真装置」のヒントは、藤子・F・不二雄氏のSF漫画『同録スチール』(初出誌・「ビッグコミック」1981年12月10日号)です。最終更新日 2006.12.22 04:57:05
2009.07.28
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『広尾のBarの話』by 島田秀平氏 2024/12/19開始何度か「怪談の羅列には飽いた」と書いたが、一級の不可思議談と呼ぶべき話に巡り合えることがある。話を紹介してくれたのは、島田秀平氏。You Tubeでも「お怪談巡り」と題して既に登録者数は80万人台に達している人気巨大サイト運営者である。ご自身の活躍ぶりも見事なものだが、私が感心して見ているのは、スカパー618チャンネル「エンタメ~テレ」でかつて「超ムーの世界」「超ムーの世界R」と題して何年ものあいだ楽しませてくれた番組の司会、そして現在は「シンオカルト倶楽部」の司会ならぬ主宰として番組を巧みに牽引してくれるのが頼もしいし、180cmを優に超える長身と共に、なかなかダンディーで、カッコいい。島田氏が司会あるいは主宰する番組中、手ごたえ充分な不思議譚をかなりの頻度で語ってくれて、ほとんど期待通りの内容だ。本ブログ今回のタイトルにある通り、東京は渋谷区広尾、明治通り沿いにあるまたはあると確認した人たちによるぞくっとする不思議譚である。名付けて「広尾のBAR」。この話を島田氏が初めて聞かせてくれたのはもう何年か前のことである。その時は「広尾のBAR」と題して語られたが、島田氏の怪談の醍醐味として、時に後日談を語って、話に決着をつけてくれることがある。もちろん島田氏はいわゆる幽霊談も聞かせてくれる。ただ、「知り合いの〇〇さんの体験談です」のお決まりの類いにとどまらないから、オカルトと称されるジャンルの心霊談以外の様々な不可思議に触れる楽しさがある。この点、「コヤッキースタジオ」は、怪談を敢えて語らないから、物足りない。(ただし、「コヤッキースタジオ」には独特の迫力があり、こちらも視聴いたしております。)さて、島田秀平氏は、私が2022年1月5日に録画した「超ムーの世界R」の第159回で、「広尾のBAR完結編」と題した後日談を巨細に語ってくれて、異世界ものとして一級の不思議談に一応の結論を出してくれた。この話を久しぶりにブログにアップしたくて、どうしようか考えていたが、結局画像を30枚余りテレビ画面の静止画から撮影することにした。すると下手な私の文章なぞなくても、画像に出て来る会話の字幕だけでも話の筋書きが読み取れるほどだと気づいたが、それでは余りに怠慢なので、いつものようにつづってゆくこととした。以下、島田氏の一人称の話を中心に書いてゆく。以前、東京都渋谷の広尾のバーについてお話ししましたが、今回はその完結編とでも言うべき話をしたいと思います。登場するのは当時50代のナレーター、声優など幅広く活躍されている男性のかた、そしてその親友の男性、さらに女性一人です。この仲の良い三人が体験する物語となりますが、このうちのナレーターと親しい男性のかたは既に重い病気に罹っていて、余命幾許もない状態でした。ただ、この頃から霊感に目覚めるようになったのです。そして、自分の運命を知った以上、せめて命のあるうちに、やり残したことを出来るだけやってみたいとの念が強く、親友のナレーターのかたも、「よし、それを実行しようじゃないか」ととても好意的でした。生あるうちにやりたいことは幾つかありましたが、その一つとして、「もうずいぶん以前から気になっているBAR(バー)がある」と言います。それが東京都の広尾にある明治通り沿いのバーでした。三人の意見はたちまち一致し、ある夜に行こうということになりました。なお、三人のうち、一人の女性には元々霊感があったそうです。広尾のバーは病を抱えた人の言う通り、ありまして、みんなで入りました。店内はまことにこじんまりしたカウンターバーで、テーブル席はありません。殺風景なそのバーの壁に狐の面が飾ってあったそうです。カウンターの中にはタキシードを着た若くきれいな店員さんがいて、注文を受けてウイスキーやハイボールをつくって提供していました。ところが注文を聞いてその女店員がきびすを返した時、皆、絶句しました。何んと、そのきれいな店員さん、タキシードの服は身体の前面しか身につけておらず、くるりと後ろを向いたその姿は丸裸でした。その時、霊感のある女性と霊感に目覚めた男性の二人は「ここはまずい」と恐怖を覚え、残るナレーターの人を急き立ててバーを出ました。何があったかと腑に落ちないナレーターの人は「何んだよ、せっかく後ろ姿が裸のきれいな店員だったのに、もう出て来てしまうなんて・・」と不満を言います。あとの二人は身に備わった霊感から「あのバーは何か変だ」と繰り返すばかり。霊感のないナレーターの男性は惜しいことをしたにも程があるとばかり、後日一人で広尾のバーへ行こうとしました。が、確かに明治通り沿いの「ここだ」と覚えて向かったその場所にバーらしき建物が無かった。確かにここだと狙い定めて行った先には、バーは無く、ボロッボロの古びた一軒家があるのみだった。確かに三人で狭いカウンターバーへ入って、注文したお酒も少し飲んだ記憶がある。なのに、目の前にあるのは古い一軒家だけ。壁にかかっていた狐の面の通り、狐にでも化かされたのか。そんなはずはない。ナレーターのかたは不可解な思いを思うばかりでした。さて、この話を先ほどの女性から聞いた私は、その場所に何があるのか、どうなっているのかを確かめたい一念やみがたく、ある日、見に出かけましたが、確かに古びた二階建ての民家が建っているだけ。こんなところに人は住んでいるのかと思うほどですが、今度はキックさんが夜出かけてみてくれました。すると中に電気が点いていて人の気配が確かに見えたのです。さらに後日私は昼間出かけてみました。するとこの場所は、更地になっていました。乗って来た車はガソリン満タンに近かったのですが、すぐ隣がガソリンスタンドなので、寄ってガソリンを入れてもらいながら、店員さんに聞いてみました。「ここは更地のようですが、今後何かを建てる話などあるのですか」店員さんは「バーが建つそうですよ」と答えてくれました。ここで私が気づいたこと。仲の良い年配のかたたち三人は、存在しないバーにどうして入ったのか。それはもしかすると、将来建つ予定の、つまり未来のバーではなかったか。未だ解明出来ていない何らかの現象が起きて、未来のバーに三人が迷い込んだのか、時空のゆがみで生じた異次元のバーに入ったのか、あるいは実は存在しないバーには誰も立ち寄れたわけもなく、三人ともある種の幻覚に見舞われたか。ここで島田氏の問いに答えて、博識見事な三上編集長が、時空のゆがみの話もするのに加えて、こうおっしゃった。「この余命が余りないかたは、何度か臨死体験していたのではないか」と。さらに霊感が強い人がいると、行動を共にした霊感のない人にも、束の間移ることがあるとも。島田氏が一通り語ったあと、周りの正規会員の人たちが思い思いに語っている中で、キック氏は「これはもう並木先生と速攻で出かけなきゃ」と言うし、角由紀子さんに至っては「ぜひ行ってみたい。働いてもみたい」とまで語った。ここで司会の島田氏はユーモア混じりにひとこと。「これ以上人の話をけがすのはやめてもらえませんか。真剣に話をきいてくれたのは三上さんだけですよ」と。この話は無論、「超ムーの世界R」で視聴も出来るが、その煩にたえぬという人のために、紹介しておくと、怪談家のぁみさんのYou Tubeチャンネル、ぁみ「怪談ぁみ語」で島田氏と、ぁみ氏のコラボ会で聞くことも出来る。★参考資料★スカパー618チャンネル「エンタメ~テレ」『超ムーの世界R』第159回目『広尾のBAR完結編』(2022年1月5日放送録画)
2024.12.20
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松田聖子メモリーグラフ21982年6月カレンダーより。肝心のカレンダー部分はスキャン範囲に入っていない。超売れっ子で睡眠もろくにとれないほど多忙だったはずの頃。同じ年月のカレンダーがほかにもある。年末のカレンダーは大変な売れ行きだったのは言うまでもない。たいしたこともない記憶などでみると、彼女のスリップ姿は、シングル『白いパラソル』(1981年7月21日)のジャケットを連想させるが、ヘアースタイルは全く異なる。同じ1982年6月のカレンダー。年月不明。アイドル街道ばく進中に相応しい一枚。そろそろ手持ちのグラビアなども、スキャンでははみ出してしまうので、今後は折をみて、カメラで撮影してから掲載してみる予定。
2018.05.02
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再録・山本夏彦コラムの世界『核家族礼讃を排す』2003.12.13 コラムの虫騒げど、未だ書けず。 カテゴリ:カテゴリー未分類 本物のコラムを書かんと欲して未だ書けぬ。既に書いた通り、手本は故・山本夏彦氏のコラムである。世間にエッセイストと称する者はやたらにいるが、彼らの書くほとんどは身辺雑記の域を出ず、たまに文明批評を書けば環境破壊を憂えるなど、新聞などで知ったことのオウム返しに過ぎぬ。エッセイですらない。ましてコラムとなると、これをまともに書いた文筆家の文章に触れることほとんど皆無である。山本コラムの真髄はレトリック(修辞法)にある。修辞法とは言葉を巧みに文章にとりいれて、表現見事に整える技法だが、これを自在に操る操觚者(そうこしゃ)は、私の見る限り山本夏彦氏一人である。それがいかなるものか、自力でお手本を再現するには自信がない。そこで山本コラムを頼ることとなる。一つ見事な一文がある。かなり長文になるので抄録抜粋では、本来のコラムを損なうおそれがあるが、挑んでみる。以下、私の文章にあらず、山本氏の文章を少し変えただけのものだ。タイトルは「核家族礼讃を排す」。既に昭和42年「文藝春秋」から発行されたコラム集の中の一つである。初掲載当時、「カテゴリー未分類」だったので、見つけるのが困難だった。以下、まことに恐れ入るが、抄録抜粋する。〇一所帯四人以下になった。ここには年寄りはいない。核家族は家族ではない。年寄りのいない家庭は家庭ではない。年寄がいないと衣食住の伝統は断絶する。着物を縫ってもらえなくなる。おふくろの味が滅びる。ついには言葉が通じなくなる。互いに言葉が通じなくなっては文明ではない、野蛮である。古い食卓にも一家の歴史がきざまれている。それとは知らず嫁に来たばかりの女は、この食卓を不潔だと、はやりのデコラのそれに改めようと言い出し、亭主と姑は初めて他人が入って来たことに気づくが、反対する理由がない。いわゆるおふくろの味は美々しい料理にはなく、芋の煮っ転がしにある。先祖伝来のものである。その先祖はおろか、父を母を追い出す。嫁が、その候補が断じて譲らぬ条件が両親との別居である。いずれを選ぶと迫られて親を選ぶ男はいない。彼は彼女に追随してまずアパートへ去る。核分裂するのだ。初め別居は若夫婦の理想であり、それが流行になり、そうなればしめたものだ。親たちの抵抗はなくなる。次いでちやほやする。嫁の意を迎え、きずだらけの食卓をデコラにとりかえる。けれどもちやほやする、されるのは幸福に似て不幸である。親たちは嫁に知る限りのことを伝えぬ。常に迎合をこととする。嫁はますます増長して、姑の知識を疎んじ、拒否するようになる。最も拒否するのは、育児に於いてである。若い母親は、ビタミン、カルシウムありとあらゆる栄養を与え、同時代の赤ん坊より大きくしたがる。育児の本を山ほど読んで、例えば抱くと抱き癖がつくと言って、一人赤ん坊を部屋に置き去りにして寝かせる。子守唄も歌わぬ。こうして育った赤ん坊は知らぬ歌を歌える道理がないから、長じて母になっても、次の我が子を抱かず、子守唄を歌わぬ、または歌えぬ。そもそも子を一男一女に限ったのは何ゆえか。子供を二人に限ったのは、貧なるがゆえではない。戦前の如き貧乏は既に去った。その根底には女の助平がありはしないか。ブックメーカーにだまされて、ねむれる女の助平は覚醒したのではないか。妻は怪しいネグリジェを着て、暮夜目を輝かせ、夫を待ち構えている。売笑は法律で失せたが、素人女たちに散って健在である。私は核家族のなかの、一男一女の前途を危ぶむものである。若い母親は危険を伴う遊びを禁ずる。昭和初年の母親も禁じたが、子等は目を盗んで禁じられた遊びを楽しんだ。ケガは無論ある。だがこの経験で危険と安全の境目を学んだ。禁じられた遊びを遊んだことのない子は、動物としての感覚を欠く。彼らはバスで電車で行って、歩くことを知らぬ。横断歩道で車が止まってくれたからといって、反対車線への警戒がおろそかである。時にドライバーの善意はあだになる。台所の包丁は目につくところにおくなという教えがある。ある晩ドロボーが入って、家族を追い詰めた、たまたま台所で、闇にキラリ光るものがあったから、ドロボー変じて居直り強盗になり、一家皆殺しにした。こんな椿事はめったにないが、あり得る。これが厨房の教えとなったのである。代々の経験と工夫がすべてである。核家族が増えると当然知るべきを知らぬものがふえる。ふえると衆をたのんで横車押す。昔は老人と孫との間に会話があった。子等はなんべんも同じ話を聞き、同じ個所で手に汗にぎった。たかが年寄りの話とあなどってはいけない。子等はそれによって過去とつながり、日本の英雄豪傑、妖怪変化となじみになったのである。すなわち日本の子供になったのである。核家族の主宰者はたいていママである。ボキャブラリーは貧しい、というより無に近い。昔話はおろか、いろはかるたも百人一首も知らない。それでいて我が子には本を読めと強いる。不安なのである。漠然たる不安を本に任せて自分は責任をまぬかれる算段なのである。けれども本を読むことは、五十年前、百年前の故人の話を聞くことである。十年前の言葉が初耳でどうして故人と話ができよう。彼らが奈良・京都を見物して感動したと称するのはうろんである。十年前の言語となら断絶して、千年前の古社寺とならつながって、たちまち感服するとは眉唾である。西洋人観光客の目で見物し、西洋人の如く感動したのではないか。在りし日の山本夏彦氏。再び老人のいない家庭は家庭ではない。と言えば老人は喜ぶ。核夫婦はいやな顔をするだろうが早合点である。今の老人はインテリ老人であり、本物の年寄りではない。核家族という言葉は新しいが、実物は早く存在していた。人は住宅という建物に従うから、核夫婦の親たちは何に従って今日に至ったのだろう。文化住宅である。彼らにせの年寄りは、昭和初年の怪しい文化住宅に従って若いと思ううち、いつしか年を取った者たちである。叱る時叱らず、伝えるべきを伝えなかったのは、彼らにせの年寄りである。「君たちの気持ちはわかるよ」などと言えば和気の如きものが生ずるが、そんな親を子は尊敬しない。老人は理解だと思っているが、若者への迎合である。日本語を疎んじ、外国語にばかりかぶれた。伝えるべきおふくろの味を既に知らず、着物も洋服も満足に縫えなかったから、娘に伝わらない。娘はそんな母親に学んだのだ。五十、六十のおやじ、ばあさんのくせして、手水場(ちょうずば)、はばかりと言わず、若者の口まねして孫を抱っこして「ママさんおトイレ」などと、猫なで声を出す。若い者の口まねを事として、伝統を伝える意志も能力もなければ、若夫婦は親たちと住んでも、何の得るところもない。追い出される、または進んで出て行くのも当然である。けれどもこれは、旧式の核家族が新式の核家族に追われたにすぎない。中身が大同小異なら、やがてはこの新式も、その子供たちから追われるだろう。〇以上山本夏彦氏著「茶の間の正義」の中から、「核家族礼讃を排す」を抄録した。凡俗のエッセイストに書けるのは、「老人のいない家庭は家庭ではない」という一テーマに絞って、大家族を讃える薄っぺらいテーマ内容だけである。または、核家族の肩を一方的に持った内容だけである。これだけ鋭く突き刺すような現状一刀両断のコラムは、有職故実に詳しく、更に人間通、世間通の人でなければ書けぬ。では世間通になるには、例えば友人を持ち、広く世間へ出て見聞を広げさえすればよいかというと、これがそうでもない。だいたい友人の多くはこれまた俗物であり、有能ならざる者である。山本夏彦氏はインテリア雑誌「室内」の社長だった。だが社員に「社長」と呼ばせず、「山本さん」と呼ばせるとも聞いた。海外なら若年の頃、フランスに長期滞在して、人間に東西なしとも悟っている。自らを「ダメの人」と称し、己れの内奥を見て、つとにこの世は生きるに値せずと結論している。自殺未遂を二度経験している。「ロバは旅に出てもウマになって帰って来ることはない」という西洋の箴言(しんげん)を好んで使った。要するに知識と学問のない者が海外旅行しても、得るところなしというのだ。又、それゆえか「戸を出でずして天下を知る」とも言っている。山本氏は生前、主宰する工作社の編集兼発行人として、多忙だった。その山本夏彦氏は、胃がんで余命いくばくもなきを知ってなお、ペンを持つ右腕には必ず点滴をさせず、死の直前まで「週刊新潮」連載コラムを執筆し続けた(山本夏彦氏は大正四年生まれ、平成十四年没、享年87)。この人の存在あって、私も又、生きるに値せぬこの世を何とか生きている。なまじ人生を全うすべしとしか言わぬ凡百の文化人の百筆より、この人の「人生生きるに値せず」が私を励ました。人は生を全うすべしというばかりが能ではないことを書き続けた山本コラムにより、むしろ私は元気づけられたのである。たまには、人生観たるもの、一度どん底まで落とし込んでみてはどうかと思う。すると、今まで見えなかったものが見えて来て、かえって気力が出て来て、不思議や私のような者は、自然生き続けるのである。と、偉そうなゴタクを並べましたが、私は去年12月で65歳になったもので、ブログのジャンルも「車・バイク」に設定してあります。目下の愛車は不細工バイクともけなされる「スズキバンバン200」。依然信号待ちなどで例えニュートラルにしていてもストールはありますが、200cc程度なのに、街乗りでこれだけ軽快に走ってくれるバイクがあったとは、驚きましたし、ありがたいことだと思います。なお、ストール対策はただひたすらスロットルを吹かし続けることです。そのうちバンバン特集など書けたら書きたいところです。「スズキバンバン200主要諸元」最高出力16ps/8000rpm。最大トルク1.5kg・m/6500rpm。車重128kg。シート高770mm。車格はファニーな形状ゆえか大柄とは見えないが、全長の単純比較だと、カワサキ・ゼファー750の2105mmより長い2140mmである。
2018.03.07
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前回は我が自慢話を少しく書いたが、今回は母の若き日のエピソードである。なお、早速えらそうなことを書いておくが、歌舞伎に興味がない人が多いようだ。よって、本日記、わからない人のための解説を細大もらさず書くことは字数に影響するので省く。プロフィールに載せていないが、私の趣味のうち、もう一つの大きなものが歌舞伎である。ただし、好きではあっても、たいていの興味なき人々が言うと同様、私も、ごくわずかの作品に興味を持ち、しかも、上演されるすべてを聞き取れるわけでもないし、理解できるわけでもない。ただ言えるのは、歌舞伎趣味は我が母の先祖、私からみると祖父母二人がそろって歌舞伎や芝居に若い頃から関心と知識があったので、私が40代をとうに過ぎたあたりからにわかに歌舞伎に夢中になったのも、血というものかもしれぬと、つくづく思うということである。それしか説明がつかない。さて、つい先日76才になったばかりの我が母若かりし頃、恐らく昭和19,20年ごろのことだと思うが、予餞会つまり卒業生を送る会で、女学生だった母は、普通の劇と全く趣の異なる芝居企画を思いついた。当時17,8の娘であったが、何しろ私の祖父の出身地である静岡県藤枝は、昔から芸どころとして、素人の人たちのあいだでも、歌舞伎に関連した義太夫などの芸事が盛んな地であった。祖父自身も、夕飯を食べ終わると二階へ行き、義太夫のけいこを一人でよくやったという。その影響も多分にあったに違いない。母が企画したのはまぎれもない、歌舞伎の演目のうちでも、代表的な一つ、「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の中の「熊谷陣屋(くまがいじんや)」だった。あらすじはこんなである。一ノ谷の合戦で、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、敵の平家の若武者・平敦盛(たいらのあつもり)と組打ちとなり、若くも武士として潔い精神を持った敦盛に討てとまで言われて、仕方なく首を討つということになる。これが普通「平家物語」で語られる敦盛の最期である。ところが歌舞伎はここがいきなところ。大将義経は、熊谷にこう言った。「敦盛には実は皇族の血が流れておる。人知れず命を救いたい」と。そこで結果どうしたかというと、熊谷は、共に出陣した16才の我が子・小次郎と敦盛が同じ年頃ということから、言い聞かせ我が子の首をはねて身代わりとし、敦盛を助けることで、義経の命令に従うこととした。ところ変わって、熊谷陣屋。首実検ですべてが露見するが、源氏がたのおえらい侍は、里にひっそり隠れ住む平家がたの者によって討たれ、事が鎌倉がたに露見することが未然に防げた。そこに既に義経が来ており、又、次なる軍(いくさ)に出なければならぬと知りつつも、もはや武士を捨てたいと決心していた熊谷の願いを聞きいれる。すなわち、熊谷直実は墨染めの衣を身にまとった上に、形ばかり鎧兜をつけていた。そして、やがて鎧兜を脱ぎ捨てると、見事に僧形となった熊谷の姿が現われる。出家の身となった熊谷がわきめもふらず、その場から立ち去ろうとしたその時、「コリャ」と義経が呼び止めて敦盛の身代わりに死んだ小次郎の首を見せようとするが、ここで熊谷は「十六年は一昔(ちなみに歌舞伎では多くこの場面のセリフは、十六年な一昔と言う)・・・夢だ、夢だ・・・」と言って、背を向けて立ち去ろうとする。ここで幕が引かれる。熊谷だけが、ぽつり残されて余韻がある。ここからこの演目の白眉ともいうべき、幕外の引っ込みの場面となる。「送り三重」という哀愁たっぷりの三味線の音が響き、この哀しい音色に送られながら、万感胸に迫った熊谷は、突如笠を深々とかぶると、ダダダダッとばかりに花道を去って行く。以上があらすじだ。実に若き女学生の母は、これを演出して、級友たちに演じてもらい、のち、人を通じて、英語の女教師が「あの歌舞伎は誰が演出したのですか?」と問うたことを聞かされたと言っていた。この芝居には大事な小道具がいくつか出てくるが、特に有名にして欠くべからざるものは、「桜一枝(いっし)を切らば一指を切るべし」と書かれた制札である。私の祖父、つまり母の父親は、母のこの企画におおいに喜びかつ応援を惜しまず、当時燃料販売事業の有能な従業員として祖父に請われて勤めていたある人が又、なかなかの達筆なことから、この制札の先ほどの文句を、墨痕淋漓(ぼっこんりんり)と揮毫(きごう)してもらうという、熱の入れようであった。今ではいや、我が村松家ならでは考えられぬ、ある意味で特異ともいえる芝居であった。時あたかも大東亜戦争末期の頃の、富士宮高等女学校での、母演出による歌舞伎名作「熊谷陣屋」の懐かしいエピソードである。最後に又皮肉を書いておくが、映画という創作媒体しか見ない人には、本当の芝居の味わいというものは、絶対にわからない。映画ばかり見て、そしてあるいはその評論めいたことにうつつをぬかすばかりの者には、「劇」の真髄は遂に理解不完全なままで終わるのである。
2003.07.01
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歌手のバーブ佐竹氏が亡くなった。死因は多臓器不全とあるが、このごろの新聞の訃報は、そもそもの病名を書かない。例えば慢性白血病で亡くなった元相撲取りの蔵間氏のときも、死因は多臓器不全とあったが、つかの間買って読んで捨てた未亡人の本には、白血病のことがたびたび出てくる。又、彼に関しては既に死亡の報道と共に白血病死が知らされたから、この違いにはけげんな思いである。いきなり多臓器不全に陥る病気があるのなら別だが、私のような素人にはわからない。察するに何らかのガンなどの死病があり、治療のかいなく最後の症状を呈したのか。バーブ佐竹氏と聞くとすぐ思い出すのが、萬屋錦之介氏主演で、今や犯罪者と堕した西川和孝の大五郎役で大ヒットしたテレビドラマ「子連れ狼」の最初の頃の主題歌である。「ててご橋」という。のちの橋幸夫氏の「しとしとぴっちゃん・・・」の歌も決して嫌いではなく、レコードも持っているが、ドラマが始まると共にバックに流れる歌としてはバーブ佐竹氏の「ててご橋」が抜群であった。「ててごと母御とゴトゴトと、一石橋で待てばよい・・・」と、子供のコーラスで始まるやや変わった歌詞の歌だ。バーブ氏は「迷子になったら、どこで待つ・・・」と歌い始める。何でこんなことを書き始めたかというと、バーブ佐竹氏と聞くと、忘れられぬことがあるからだ。学生時代、間借りしている家の主人が、ある日突然「君の兄さんは近藤正臣に似ているね」と言い、続いて「村松君は、バーブ佐竹に似ているね」と、言わば当代のかっこいい男と、そうとはお世辞にも言えぬ男とを引き合いに出したからだ。この時内心ムッとしたが、既にその自覚ある私は、むしろ一層バーブ佐竹氏に親しみをもった。彼のデビューは今からみると古く、昭和39年、私が小6の時だ。「女心の唄」でいきなりデビューヒットを飾り、当時としては破格の250万枚というヒットを記録した。そしてバーブ氏自身も、その歌の内容に縁ある、その道の女性たちの共感を得て、むしろもてたとも聞いた。彼自身が言って流行語になった言葉にも「顔じゃないよ、心だよ」がある。ぶ男の私ほか、多くの不細工男たちを慰めたかも知れぬ。お話変わって、私は学生時代、道を誤ったことを痛感して悩む一時期、東洋医学にやや凝ったことがある。直接感化してくれたのは例の三つ違いの兄だが、私自身も引かれるところが多かったに違いない。ある時、八度の熱を出して胃も悪くして、なかなか復調せずいらいらしていた。「もぐさ」は既に用意してあったので、風邪のツボ何箇所かに灸をすえてみた。一箇所ごと二、三回終わったあと、検温すると七度に下がっていた。これは卓効である。支那人は優れた民族だということを痛感した経験の一つである。呼び名にこだわっているとは言っても、ある意味で、表向きだけ「中国」、「中国人」とムキになって呼ぶ偽善者共より、よほど私のほうが、尊敬すべきはすべしと認めているのではないかと思うことがある。更に平成に入ってまもなく、顔半面の顔面神経マヒにかかった時も、治るに長きは二、三年と言われた症状を、鍼灸師の先生に一ヶ月ほどでほとんど治してもらっている。この先生は全盲にもかかわらず、スタスタ歩き、代金支払いも慣れた手つきでレジスターを開け、五千円払うと、見事におつりを手渡してくれた。尊敬こそすれ、この先生を「めくら」などと日記上で書く気持ちでおれるわけがない。そして今、「せんねん灸」という新しいタイプのお灸が売り出されて久しい。これには熱さの弱い順に「竹生島」・「伊吹」・「湖国」・「八景」・「近江」と五段階あるが、私はこの最も強い近江でもさほど感ぜぬほうだ。かつては、幼子のかんの虫を抑えたり、わがままな態度を懲らしめるために、もぐさをいきなり乗せて、火をつけたものだ。私にも記憶がある。母と祖母と三人でどこかへ出かけて帰宅、ちょうど昼時だったが、何が気に入らなかったか、かんしゃくを起こしてだだをこね、しまいには食べかけのご飯茶わんを放り出した。とたんに、母・祖母二人がかりで私を押さえつけてうつ伏せにして背中を出し、そこにもぐさを乗せ、線香に火をつけて、お仕置きとなった。すぐに「ごめんなさい、もうしませんよおーっ!!」と謝ったが時既に遅し。「もう一本すえようかね」と淡々とした祖母の声を聞いて、更に恐怖が増すと共に、子供にとっては凄まじい熱さに汗の出る苦痛だった。せっかんとはこのようにすべしと思う。母も祖母も幼い私を痛めつけようなどとはみじんも思っていなかったのは言うまでもない。火ぶくれぐらい放っておけば、じきにかさぶたとなって治り、旧に復する。それに比べると、今の虐待はもはや肉親の情ではない。大の大人が、全く抵抗力を持たぬ幼子を、大人のケンカよろしく、殴り蹴るとは、狂気の沙汰である。ただし、灸の効果的温度は当時私が教わったところではわずか40度足らずである。冬季、入り初めにやや熱く感じ、次第に慣れる湯温程度だ。それでも私はじかにもぐさを乗せる灸の体感にすっかり順応してしまったせいか、このせんねん灸でも物足らない。そこで、前夜、もぐさにツバをつけてツボに直接くっつける最も簡便な方法で、風邪のツボ要所にしつこいほど繰りかえし、チクッと熱さを感じてまもなくもぐさを手で取り上げるというやり方をやってみたところ、ただいま熱が八度を割った。やはり経絡と呼ばれる体中の連絡網に通ずる東洋医学の妙である。しばらくすると体温は再び旧に復して、まだまだ回復には至らぬが、再び三たび灸を施すことで、次第に症状は軽くなると察する。タイトルに対し、これほど無関係な内容を羅列するのも珍しいが、バーブ佐竹氏を引き合いに出したのは、まんざら無関係でもない。失礼ながらバーブ佐竹氏は、北京原人かジャワ原人に似ている。その彼に私が似ていると言われたのだ。しかもバーブ佐竹氏は「顔じゃないよ、心だよ」との流行語を残している。なお、以前大学時代に、優にやさしい女子大生にまんまとだまされた内容で、最後にとんでもないオチをつけて、読者をけむにまく如く終わらせたが、今更ながらやや覆す如きことを書くと、女のほうも初めから卒論のために私という誰が見てもさえない男に接近したのではなく、いくらかの興味と好感を以て近づいた側面もあると察する。ただ、気まぐれ、浮気女だったことは確かだろう。さて、字数制限迫るこのあたりから、ようやく本題に入る。我が富士市の自宅を出て、富士宮バイパスを通り、途中から降りて、ひたすら本栖湖を目指して車を走らせると、途中に、「もちや」という何ともセンスのない名前の食べ物屋があるが、今は道の駅を兼ねているのか、休日に立ち寄ると、大変な人だかりである。かつてはその名の通り、餅を付け焼きにしたりして売る貧相な店だった。二輪車館というバイク館がすぐ隣にあるが、見向きもしなかった。これまた狭い建物の中にいかにもバイクを押し込んだだけの感じで、いつでも見られるぐらいに思っていた。私が400ccバイクを買ったのは昭和58年(1983)3月初めだった。又この頃、四輪の免許も、家族にせっつかれて重い腰を上げて、それでもダラダラと通い、二、三ヶ月ほどかけて取得していた。だが日常の足は専らバイクである。しかもこのカワサキGPz400にほれていた。ある時、本栖湖まで慣らし運転を兼ねて行こうとバイパスへ上がって、例の通りの道を走っていた。途中からほぼ単調で広い上り坂の一本道となる。ある所へさしかかると、道端に軽自動車を寄せて、立ったり座ったりしている若い女の姿が目に入って来た。教習所の教官の講義で聞いた話だが、当時は自力でパンク修理できぬ女性が少なくなかった。一見して、パンクして困っていることがわかった。左後輪である。全く知識・経験のない者にとって、車載工具はその用途がわからぬだけでなく、修理手順にもややコツを要するので、自宅などであらかじめ練習しておかぬと、急なパンクでは往生するばかりである。今でこそ婦人たちは、ずいぶん車の扱いに手なれたものとなったが、当時は時々この手合いがいたのだ。再三書くが、およそ女に縁がない私は、まずチャンスを捕える方法ばかりとってきた。「パンクだ」とまず確認のあと、「まあ、通りがかりの車がそのうち止まるかも知れぬ」と思い、ちょうど青函連絡船の時と同様、短兵急な行動に出ることは避けた。一旦無視し、「もちや」の方向へそのまま走り続けた。通過しながらもミラーの視界に、後続の親切な車のないのを確認して、やや下心を持ち始めていた。しばらく走り、二キロほど過ぎたところでUターンし、再び元来た道を走っていくと、さきほどの軽自動車がまだ道端に止まったままだ。無論この時代、携帯電話なぞ存在しない。応援は望めぬ。私はやや速度を落とし、それでも徐行しては気づかれると思ったから、そこそこの速度で再び通過した。もちろん三たび通る予定である。更にUターンして、今度こそ、一台の車も止まらぬ様子を見て、決心し、徐行して、道端の車に近寄った。ただし、これが出会いとなるなどとは思っていない。できるはずもない。軽い下心だけあったのだ。バイクを止めると、向こうもすぐ気づき、こちらを向いて、視線を送ってきた。「相当困ったあげくの顔だ」とわかる。「パンクですか?」とわかりきったことだが、尋ねると「そうなんですけど、恥ずかしいことですが、教習所で教わったこと、忘れちゃったんです」当然、私がなおしてやることとなる。「すいません」という言葉を背中に聞きながら、車載工具で作業にかかった。この作業、ものの数分で終わる。あっけないものである。「じゃあ、お気をつけて。あ、それからパンクしたタイヤは、刺さったものを抜かないで、そのままスタンドかどこかへ持って行って下さい」やはりこれきりと思いつつバイクにまたがろうとすると、「あ、あの、あなたがなおしてくれなかったら、大変なことになっていました。後日お礼したいのですが、電話番号とお名前教えてくれませんか?」チャンス!!「お礼していただくほどのことでもないですよ」「いえ、本当に私取りたての免許で慣れるために出たとたんにこんなめにあったので、本当に一時はどうなるかと・・・。ぜひお礼させて下さい」「じゃあ、図々しいこと言うけど、どこか喫茶店で会うというのでもいいですか?」「はい、それでよろしければ、結構です」決まった。ある年上の人に、当たって砕けろの気持ちになったら、だめで元々、図々しく行けと教わったことがある。帰宅後私は卑劣な計画まで立てた。車のドアの改造である。つづく
2003.12.07
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何も「事実は小説より奇なり」という有名な言葉に逆らおうというのではない。事実は小説にも描かれぬ突飛、奇怪な展開で突如出現することを言った名言と思うから、これに異を唱える気は毛頭ない。ただ、小説家は、作り話より奇なる事実を知り、参考にはしようが、小説はあくまで小説。次なる構想の時は、己れの想像力、創作力を以て、決して奇をてらった実録事件まがいの話をでっち上げようとはしない。それを以て糊口する小説家には、既に一流独自の世界がある。小説原案を練り上げるには、奇っ怪な事実談は事実談として措いといて、己れの物語展開の骨子を守り続けるはずだ。事実をそのまま文章にすると、いかに文章力豊かな小説家の筆になるとても、それはいささかドキュメント・タッチになって、はっきり言って面白みがなくなる。小説家の本領は、いかにして面白い作り話をでっち上げるかということにある。だから多くのファンの支持を得るのである。史実に材をとった歴史小説も同じである。再三引用になるが、私が青年期に最も夢中になった海音寺潮五郎氏のヒット小説「天と地と」の、同名のNHK大河ドラマ化作品は一年間にわたるドラマ構成が見事で、私よりも兄を強く感化して、あっというまに終幕まで引っ張っていった。私は原作を読んでいない。既に書いた通り本嫌いであった。海音寺氏の小説はドラマ化で更に脚本家によって書き換えられているかもしれない。既に受験の時期に入りつつあったが、兄も私も大河ドラマ「天と地と」に夢中であった。上杉謙信は「正義とは人の踏むべき秩序なり」と言い、武田信玄は「正義とは力だ。力なくして何でこの世に正義が保たれようか。国を治めるにはまず、力、力。それ以外の何物でもない」と、両雄互いに全く譲らぬ。兄と私は「上杉謙信はやや正義の人間として描かれ過ぎる。正義を貫ける戦国武将が本当にいたのか?」と疑問を持つことで意見が一致し、私は学校の図書館で「上杉軍記」という書物を見つけ、ここで史実の一端が明らかになった。ドラマでは、長尾一族の政景(まさかげ)が少年時代から景虎(謙信)に友情を厚くして、景虎が政虎と改名して臨んだ川中島の合戦に参加して、勇戦ののち戦死する筋書きである。史実は、上杉謙信の軍師・宇佐美定行(史実では定満)の知らせを得て、政景謀反の動きあるを察し、ひそかに軍師・定行に命じ、舟遊びに誘い出して、暗殺するよう計画する。宇佐美定行は政景を舟遊びに誘い、あらかじめ船底に穴を開ける支度を整え、沼の沖に出たところで浸水させ、同時に政景に抱きついて離さず、二人とも水底に没することとなる。ここに於いて、謀反人・長尾政景だけでなく、軍師・宇佐美定行も運命を共にして絶命する。なお、上杉軍記によると、上杉謙信は、十のうち、七までは大善人、残る三は大悪人であったと評している。歴史小説といえど、史実をありのままに描いては、せっかくの戦国の名将・上杉謙信の生涯の物語が劇的にならず、つまらない。かなりの脚色があるのだ。司馬遼太郎の小説また然り。日露戦争と明治の群像を活写して見事と思った「坂の上の雲」もずいぶん夢中になって読んだが、これにも脚色があるはずだ。一方、日露戦争をドキュメントとして物した文筆家の文章は、戦史記録を長々つづってあるだけで、読み物としての面白みがない。古くは実在が否定されている武蔵坊弁慶の活躍を劇中に活写した「源義経」の物語なら、様々な作家が描いているが、弁慶一人除いたら、これもつまらぬ物語になる。維新の立役者・坂本竜馬を、「彼は剣の名手だと言う説は怪しい。だいたいあの写真の、なで肩の体格を見ても、剣の腕の立つ者には見えぬ」と異論を唱えた作家がいるが、これもおおきなお世話である。司馬遼太郎は竜馬を腕の立つ武士として描いている。このほうが面白い。その司馬遼太郎は、「殉死」という短編で、乃木将軍を「終生死ぬことばかり考えて暗い男であった」と決めつけ、物語冒頭の、乃木希典(のぎ・まれすけ)が生まれて少年時代を過ごした、麻布・日ケ窪(ひがくぼ)の地を、陽が射しにくく地面が湿った地であると説明して、乃木大将の暗い人生を象徴する材料として書き出している。だが、日ケ窪を知り、乃木将軍を知る年配の多くの人々から猛抗議を受けた。司馬が描いたような暗くじめじめした所ではないことを知る多くの土地の人などをあざむくことはできなかったのだ。私の見るところ、司馬遼太郎はどちらかというと反戦思想、左傾した作家である。以後、私は司馬の小説は読まなくなった。純粋に戦争を嫌う思想を厭戦(えんせん)思想と言い、これはまともな人間誰しも持ち合わせている考え方であり、思想というよりは自然の感情である。だが反戦思想となると、多くこれは共産主義・社会主義という政治思想であり、イラクのテロリズムを支持する者のほとんどが実はこの思想を脳裏に宿している。アメリカが「正義・民主主義」を標榜するのは表向きの公言であり、実はアメリカ人自身、アメリカを正義とは思ってなどいないはずだ。だが、テロリズムは卑劣な殺りく手段であり、イラク残党のこのやり方は、「戦闘行動」ではない。戦闘の手本は、我が国大東亜戦争各地の戦闘にかなり残っている。我が旧軍の戦い方こそが戦闘であり、それは敵軍だけに対する戦闘行動に終始していた。負けっぷりの是非はともかく、我が国は対米戦に敗れてのち、テロリズム、ゲリラ戦は一切やらず、全面武装解除した。だから戦後復興も順調に進んで、経済大国となり得た。南京大虐殺がでっち上げられたのも、蒋介石(しょうかいせき)の国民政府軍が、南京攻略ののちも、卑劣なゲリラ戦をやったためである。難を逃れようと南京の街を去った市民たちも、日本軍入城と聞いて、続々戻り、南京市人口はあっというまに旧に復した。日本軍が来たならもう大丈夫だと、南京市民たちが安堵したことがうかがわれる。南京大虐殺は、東京裁判で突如出現し、支那人の証言だけで実証が行なわれぬまま、証拠資料となってしまった。当時、南京市民は約20万人。それが今では30万人虐殺とふくれ上がっている。恐らく広島・長崎に卑怯な原爆投下したアメリカの奸智により、死者数のバランスをとるべく、強引に支那人証言だけを取り上げて、ねつ造したものと思われる。さて、漫画が隆盛となってからは、実在の人物をいきなり漫画で発表することも多くなった。私の知るところでは「空手バカ一代」である。原作者・梶原一騎も奸智にたけた作家だと察する。漫画の冒頭にいきなり文豪・アーネスト・ヘミングウェイの言葉を引用して、まんまと若き我々をでっち上げ漫画の世界に引きずり込んだ。曰く。「事実を事実のまま完全に再現することは、いかにおもしろおかしい架空の物語を生み出すよりも、はるかに困難である。 アーネスト・ヘミングウェイ」主人公の空手の達人・大山倍達は、特攻隊帰りという設定で、焼け野原となった池袋に力なくたたずむうち、日本人女性が黒人兵数人に暴行されかかっているのを見つけるや、かけつけて、あっというまに黒人たちを倒す。開巻冒頭の第一の武勇伝だ。のちに大山倍達氏が自著で語っているが、彼は初め陸軍士官学校を目指して学習に励むが、陸士は難関であり、念願ならず、結果飛行機の整備兵となって、終戦を迎えている。このかんの物語を、事実通りに描くのが果たして困難だったのか、おおいに疑問がある。しかも、大山倍達氏は、本来朝鮮人であり、帰化して日本人となっている。数々の武勇伝も、うそだらけで、それぞれの戦い方の実際は、これも大山氏自身が著書できちんと述べている。それを読むだけでも、大山倍達氏は、空手界不世出の達人だということが充分わかる。ついでに書くと、梶原一騎も朝鮮人である。門下生にも朝鮮人が何人かいる。朝鮮国籍を隠す必要はなかろう。我々日本人はその精神に於いても、大山倍達氏にかなわぬところ大なるものがある。私がただ一人指導した在日朝鮮人の青年も、「朝鮮の軍服はかっこ悪い。日本の旧陸軍の制服が一番かっこいいです」と称賛してくれた。そして、ほかの日本人高校生よりも礼儀正しかった。これは朝鮮に伝わる孝行の精神と、礼儀をきちんと受け継いで守っていることの表われだと察する。私と彼の母親とのトラブルにより、家庭教師中止となったが、後日彼自身からハガキが届き、「私たちの至らぬところにより、先生にご迷惑をおかけしたことをお詫びします」という意味の文面がつづってあった。こんな高校生を日本人の中に見たことはない。彼は指導中、日本は国防意識に欠けているという指摘もよくした。軍備は国家の常識であるとも言った。情けない思いだった。我が国の作家は多く、左翼思想である。そのこともあってか、私は最近ますます小説から遠ざかっている。そう言えば昨日NHKで松井秀喜選手を特集する番組をやったが、伊集院静なる作家が、佐藤浩市の語りに託して、松井選手の信念を述べているなか、「僕は戦争が嫌いです。人が互いに憎しみ合う世の中が嫌です」という意味のことを言ったが、私は「おや?」と思った。「憎しみ」というのは名詞だから、「憎しみ合う」とは面妖な表現である。「憎み合う」ならわかるが、「憎しみ合う」はおかしい。「苦しみ」という言葉は、名詞にも使われるが、動詞の「苦しむ」の語幹「苦し」に「み」がついた連用形があるから、例えば「苦しみ続ける」と言ってもおかしくない。しかし「憎しむ」という動詞はない。仮に松井選手の言葉だとしても、全国放送の場では作家の国語知識で若干の訂正をするのが常識である。これで名の通った現代作家である。昔の文豪の小説からは文章技術を学べる安心感があったが、現代作家は疑わしい。小説家も、もっと勉強してくれ。
2003.11.24
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☆いきものがかりってスゴい、関連会話☆夕子「ようやくわかったとは・・・。わたしもよく耐えたなあって、自分をほめたくなるわ」村松「一言(いちごん)もない」夕子「なぜ食わず嫌いなのよ ! 」村松「反省しました」夕子「よし。じゃね、当時を再現しなさい。忘れたとは言わせないよ」村松「準備は ? 」夕子「準備よろし。2010年ごろの会話へバックトゥーなんて」村松「海底軍艦だなぁ。そっちへ変えたくなる。少将、お待ちしておりました。これが海底軍艦、轟天号です。ただいまから試運転を行ないます。藤中尉」夕子「コラ。乗せるなよ。再現せよ ! 」村松「ムウ帝国皇帝みたいだな。マンダのいけにえにせよ、なんちゃって」夕子「誘導尋問式でこっちのペースに引き込んでやる」村松「ほお、出来るかな」夕子「『ゲゲゲの女房』遂に朝ドラね。怪奇もの好きのあなたには、まずまずの話題じゃない ? 」村松「むむ、再現性見事なり。まあね、俺の世代はね、同じ水木しげるさんでもね、『墓場の鬼太郎』だったんだよ。なあにが、ゲゲゲだ。俺はね、ゲの字が三回続くと、気分が悪くなるんだよ」夕子「ホントはお母さんの介護で大変な時だったよね」村松「もう、切り替え出来たから、遠慮するなよ」夕子「そう・・ ? それなら続きね。無視って割には『悪魔くん』お兄さんと一緒に夢中で、あ、ごめん、お兄さんのこと」村松「だからいいって。兄貴との距離は縮まったよ。俺も70が近いから。死んでも意識があったら、夕子のところに出るよ」夕子「やめてよぉ。薄情って言われても、これだけは本能で無理だから。一度死ぬとどんな親しい相手でも恐いものよ」村松「俺は未練が残りそうだけど、これは仕方ないな。えーと続きね。悪魔くんは実写ものだから別格」夕子「で、朝ドラの主題歌にウルウルしたのよね」村松「・・・」夕子「今の言葉嫌いなのよね、うふッ」村松「お前、含み笑い、色っぽいなぁ。今夜、がんばって挑んでみるか」夕子「お下劣オチ、健在ね。やれやれ。あっ。何話そうとしたのかな・・」村松「お下劣に抵抗力なし」夕子「ウソよ。いきものがかりの『ありがとう』の特徴、少し気取って音楽性かなぁ」村松「うーむ。とにかく、スカパーの『エムオン ! (ch641)』でさ、録画したあとピンと来ないの削除してた時ね、声のハリとメロディーにオヤと思って、残したくらいだからね。ヒット曲って・・。ああ、お前何か理論がありそうだな」夕子「ううん、そんなに大げさなものじゃないの。ただね、あたしなりの感想言うとね、この『ありがとう』はね、いきなりからサビになるの。それにね、歌い出しの『あ・り・が・と・う』はね、音階で『ド・レ・ミ・ファ・ソ』なの」村松「え ! 」夕子「あ、野ばら社の同じ歌集あったでしょ」村松「え、載ってるの ! 」・・・・・村松「あ、ホントだ ! 野ばら社、健在なりだな。でも、新しいいい曲が載ってるんだ。ハハハ、目が節穴だ」夕子「それとね、少し細かい、理屈っぽいこと言うけど、『ありがとうって』って歌うところの『て』のところ、あるでしょ」村松「うん。楽譜見てる」夕子「このところね、仮に『うっ』ってハネるところの『ソ』と同じ音階ってことも検討してみたの。ねえ、話、固くてつまんなくない ? 」村松「とんでもない」夕子「へーえ」村松「何んだよ」夕子「あなた、ドラム・レッスン良く今年じゅう続いたわね。ノロケではなくて、感心したの。それでね、私たち今までも音楽は強い興味持ち続けて来たけど、あなたの音楽への関心度が、何んだかドラム・レッスン続ける回数って言うか月日が増えるうちに、高まって来たとしか思えない」村松「それ、ほめてるの ? 」夕子「当り前よ。音楽はね、楽しむと同時に学ぶものでもあるの。レッスンは先生が優しいけど、テクニックは妥協しないんでしょ」村松「そう。今年最後のレッスンは、また基本に戻るダメ出し。で、夕子続きは」夕子「あら。そうなの・・。年末最後は少し手加減してくれるかと思った」村松「とにかくソフトに指導しながら、テキトーなやり方は見抜いてるよ。それと耳も鋭い。夕子いいよ。俺今んとこ、当然だと思ってるから。別れのあいさつは『良いお年を』で終わったし。で、続きは ? 」夕子「そう。あ、ちょっとこの部分二つのバージョンで歌ってみるね」・・・音域の高い彼女、「ドレミファソーラ」のパターンと「ドレミファソーソ」との、二つを歌い分けた。夕子「どう」村松「お前、いい声してるなぁ」夕子「ありがと。でも、二つの比較は ? 」村松「夕子の講義聞いたほうがいい。どう異なるの ? 」夕子「ほんの一瞬『ラ』を入れるだけで、『つたえたくて』のメロディーにハリが出ると思うの」村松「なるほど。『ソ』のままでもメロディーの破綻までは行かないよね、でも、ボーカルのこのキュートな娘(こ)の歌唱も生かされる・・のかな」夕子「そうなの。でも話が合って良かった。こういう話って、興味ない人には伝わらないもの。その通りでね、吉岡さんの声質がこの一瞬に生きてキラッと輝くの。それからサビのとどめは、さらに高音域になる『あなたを見つめるけどー』のところ」話は尽きず、ブログ会話とりあえず了。ちょっと短過ぎるか。もう少し。何しろ会話ブログは、録音機などという機械ものに頼らずに交わされた話を、あとで文章で再現するから、我ながら一苦労である。それに相棒は目下、十年余りのちに訪れる定年までのあいだに、ラスト・スパートをかけねばならず、私もこのごろは己れの生活がある形に定着しつつあるので、相棒に甘えずに済むいい機会である。相棒はと、改めて称える如きを書くが、結婚まもなく離婚、一粒種の息子を育てて、最近ようやく経済的に手が離れたというのは表向きで、老婆心はとかく子供にはけむたいものだが、これも親なればこそ。しかし50代で家一軒建てたのは見事だ。で、私との行き来はこのところパッタリ途絶えたまま。・・ということにしておく。実際、相棒には仕事があるので、以前ほどひんぱんな訪問は互いにない。さて会話を思い出したので再現。夕子「もう一つこれはこじつけだけどね、童謡の『赤い靴』ってあるでしょ。あの歌は短調の悲しい旋律だけど、いきものがかりの『ありがとう』の歌い出しの『♪ありがとう(ドレミファソー)』ってところをね、イ短調の音階に変えると、『♪赤い靴(ラシドレミー)』ってなるの。つまらなかったか」村松「なるほど。感謝や歓喜の気持ちと悲しみの気持ちとは裏表、紙一重ってとこか。お前、良く研究してるね」夕子「もともと好きだからね、音楽は」村松「だけどさ、『ありがとう』をさ、ラシドレミで歌ったら・・」夕子「やだあ、恐いわね」村松「赤い靴の節で歌うとさ、ありがとうって伝えたくて(ラシドレミー、ミミファレミー)だからね、恐いね。亡霊が化けて出て来そうだよ。ありがとうって伝えたくて、うらめしやー」夕子「朝ドラ、それで歌ったら、恐いムードになってしまったね・・」村松「うーむ、わからない。何んかバカっぽい話になったかな」夕子「・・・ ? 」村松「・・・・・」夕子「オチはないの ? 」村松「そんなに言うなら、では。♪ありがとうって伝えたくて、うらめしやー、伊右衛門殿―」夕子「それ、恐い」村松「恐いね。謝ろうか」夕子「んもお、あたし、ここに一人なのよ」村松「俺だって家(うち)帰りゃ、同じ」夕子「あたしは恐がりなの ! 」村松「お前、さきおととし一度死んだじゃんか。それでも ? 」夕子「もう生き返ったから恐いの ! 」村松「うーむ、俺は思い出しても恐い」夕子「あたしがケータイかけた時 ? 」村松「おお、鳥肌が立った。おお恐い」夕子「もお、あたし、いよいよとなったら、合鍵でそっと寝室に」村松「おお、こわ。夕子が突然セミロングのヘアピースで入って来たら、よし、俺、しばらく枕元に模造刀置いとこ」夕子「それでけさがけにじゃなくて、ズバッと突き刺すなんて、恐いわ」村松「恐い話になったね。俺が恐怖のあまり、夕子を刺殺かぁ。おおこわ」夕子「殺さないでね」村松「お前が忍び込まなければね」夕子「どうしても恐くてこっそり行ったら ? 」村松「キャーって悲鳴上げて、それで夕子ってわかっておしまい」夕子「ああ、安心した。でも万一ってことあるかもね」村松「恐い話になったね」
2019.12.20
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「ユコタン音楽シリーズ」東宝映画『海底軍艦』より「真琴のテーマ」楽譜(20191201開始)村松「ホントにありがとう。助かりました。書き写すのが下手だから正直疲れたけど、そんなこと罰当たり。忙しいのに改めて御礼(おんれい)申し上げます」夕子「そう。お役に立ててよかった。で、ほかに言うことは ? 」村松「あ、あの、お礼におごるから」夕子「シャラップ ! ゴマカすな」村松「え、何が ? 」夕子「そのまま書き写して載せる気なら、掲載棄却」村松「え、何んで ? 感謝こそすれ」夕子「正直に言いなさい」村松「あ、すると、夕子チェックして気づいたの」夕子「そう、ミスにね」村松「どうもすみません。訂正なんて罰当たりなこと・・」夕子「照らし合わせするからメールに添付して。あ、その前に訂正箇所を答えて」村松「あのぅ、何ヶ所か」夕子「正直でよろしい。どことどことどことどこ ? 」村松「そんな多くはありません」夕子「ハーモニカで確かめたの ? 」村松「You Tubeと、あとギターで。ギターは半音出せて便利だから」夕子「ごめんね。かえって作業させて。じゃメールね」村松「実に心より、衷心から、ありがたきことと」夕子「よし。帰ってよろしい」村松「帰ります」夕子「じゃねー」村松「ちょ、ちょっと」夕子「何か」村松「そんなぁ、も少しお話させて」夕子「甘えるな ! もとい」村松「はッ ! 今少しお話など、しとうございます」夕子「うふふッ、さびしい ? 」村松「うん。ボクちゃん、ちゃびちい。このごろ会えないから」夕子「そうね。あたしの変則週休にかぶさったからね」村松「そっちへの外泊も不可能でなくてもね」夕子「キツいよね。でもあなた、遂に退院期間一年達成よ。何か気持ちの変化あったでしょ」村松「うん。正確には免許更新終わった時。何言われても気にしないでいられたほど肩の荷がおりた。今回は、複数の人のおかげだと思うよ」夕子「このまま自宅に居られるといいね・・。少なくともあたしは大丈夫と思うよ。あ、そうだった。それからこれさ、何しろ偉大な『伊福部昭さん』だから、音階のほかにも、音符の長さ、もっと細かいこと言うと、速度記号なんか、いろいろ恐いのよ。言い訳だけど、極力、音階と音符を簡潔に記すことに徹底したの」村松「でもね、夕子がいなかったら、楽譜完成出来なかったし、これについて言わば文責は俺にある。ブログ中で断わっておくよ。技術的なことよりね、俺がもたついたり間違ったりしたから、消しゴムで消しきれない跡がついたりして」夕子「判読できればいいと思うけど。試しに送ってみて」・・・送信・・・夕子「ありがと。何んだ、オッケーよ。読める読める。あ、スゴい。ミス全部訂正出来てる。あたしが楽(らく)出来るわよ。くどいけど、プロの音楽家の楽譜の凄さを意識しないで書いたから」村松「それもスゴい謙そんだな。だけどね、夕子がこの世界に強く興味を持ってくれなかったら、ほかにも予定してる数々の伊福部音楽を周知出来なかったのは事実だからね。お前がエレクトーンで伊福部節を弾いたらどれだけ見事なオーケストレーションになるか」既に私、正しくは私たちがつとに感激を共にした伊福部昭氏の独特の音楽を、今回の『真琴のテーマ』以外にも下書きを書いている。東映動画昭和38年(1963)「わんぱく王子の大蛇退治」冒頭近くの一場面。伊福部昭氏の妙(たえ)なるメロディーの歌「母のない子の子守唄」(作詞・もりしま たかし氏)が流れる。いずれが先に清書出来るかわからないので、併記しておく。今一つの伊福部節の妙は東映動画「わんぱく王子の大蛇退治」の中の冒頭近くの『母のない子の子守唄』である。上掲二枚とも伊福部昭氏による映画「ゴジラ」楽譜。下は相棒が読み取った「ゴジラ」メインテーマ出だしの、バイオリン・パートの楽譜。「ドシラ、ドシラ、ドシラソラシドシラ」のおなじみのメロディーが書かれている。(出典「東宝特撮映画全史」)なお、相棒・夕子が心配していた楽譜のこととは、例えば何拍子の設定かということと、もう一つは音符の長さの聴き取りと楽譜決定である。「真琴のテーマ」では、本人なりに、エレクトーンで複数のバージョンを検討してみたが、一定リズムに乗せてほかの小節と合うように調整すると、今回私が採用決定した一つのパターンとなる。ゆえに、この楽譜で長さに不正確なところがあったなら、それは私の選択に責めがある。彼女は『変拍子』というオーケストラ・スコア(オーケストラの楽譜 ? )をも提案していたが、私にはむずかしいので、あえて一定拍子を選んだ。それから、これは改めて記すが、伊福部メロディーは、「真琴のテーマ」のように、ゆっくりした長さのものがある。一応四分の四拍子と記したが、演奏速度は例えば「アダージオ」つまり「四分音符=56~80」などだ。ここで音符の記号は、四分音符が環境依存になるので、言葉で記すしかなかった。さらに曲の調は「ハ長調」、ギターなどのコードでいう「C」にしてある。そのほか、これはまだ音階を聴き取ってメモしただけの段階のものだと、同じ「わんぱく王子の大蛇退治」の夜の食国(よるのおすくに)の入り口でスサノオがその国の名を叫ぶシーンに流れるメロディーが、妙(たえ)なる旋律であり、限りなく心優しいムードをみなぎらせている。出だしの一部を音階で書くと、「ミドシラシソラファー」(ハ長調のミから始めることにした)。相棒・夕子曰く。「繰り返しの効果などとも評されるけど、曲によっては、ごく短い間にほんの少しの音階を上下させるだけで、音の数以上の迫力を与える。伊福部昭さんは、二度と現われない。不世出の天才・奇才だわ」彼女の話をもう少し書くと。この短い小節の中に、これまたごくわずかの数の音階を入れて組み合わせた結果、特に「海底軍艦」では、信じがたいほどの衝撃を与える曲がある。委曲を尽くさんとすると、全く枚挙しきれない。さらに彼女は類別して言う。「海底軍艦」には、いや、海底軍艦に限ったことではないだろうと他作品に配慮したうえで、海底軍艦には各曲にタイトルを付すべき印象的なものが多い。既にスクリーンに映像が映ったとたんにそれは始まる。「東宝」のクレジット・タイトルが出た瞬間に流れるというより、「起こる」メロディーである。出だしの一部を音階で書くと「ミ ♯レ ラ ♯ラ シ ファ(註/別案『ミ ♯レ ラ ♯ラ シ ♯ファ』」(ハ長調のミから始めることにした)。彼女はこれについても、半音ずつ探って、調整したが、これまた私が採用決定している。さて、そろそろ私が相棒の楽譜候補の中から採用した「真琴(まこと)のテーマ」の楽譜を掲載してみる。ただし、映画の中では無論、神宮司大佐と娘・真琴とのあいだで、戦争に翻弄された父と娘の、激しくも切ない、そして味わい深いセリフの応酬が繰り広げられる。出来る限り聞き取ったまでのことながら、細大もらさず聞き取ったと独断したところを再現しておく。二人のセリフの応酬を劇的なものにするため、実の親子に相違ないながら、父親を神宮司、娘を真琴と表わす。くどいが、相棒・夕子は、オーケストラ・スコアにありがちな「変拍子」に最後までこだわって、詳しい人の目の鋭さを恐れたが、掲載した楽譜について、文責はすべて私にある。また、ブログ本文が長文に及ぶことから、楽譜の画像を、必要ならば複数回同じものを掲載するかも知れない。では神宮司と真琴の会話シーンから。無論バックには「真琴のテーマ」が流れる。★神宮司「真琴。真琴、何を泣いているんだ」真琴「・・・・・」神宮司「お前は父を恨んでいるのか」真琴「お目にかからないほうが良かったと思っています。夢で見ていたほうが、真琴は幸せでした。お父様、真琴のお願いです。どうか楠見のおじさまのおっしゃる通りにして下さい」神宮司「真琴、この二十年間、お前を人に預けてまで、日本再建を考え続けたこの父の気持ちがわからんのか」真琴「お父様こそ、真琴の気持ちがおわかりになっていません。戦争のために親と別れた子供の気持ち、お考えになったことがありますか」神宮司「わかってる」真琴「いいえ、わかっていません。わかっていれば、世界のために働いて下さるはずです。お父様の頭はムウ人と同じです。そんなお父様はきらいです」神宮司「真琴」真琴「いいえ、きらいです。きらいきらい、大っきらいです ! 」★父親に精一杯抗議して、「きらい」を繰り返す真琴こと、藤山陽子さんの演技が胸を打つ。「てめえなんか、親じゃねえ、バッキャロー」という気持ちは実はミジンもないと察する。言葉が、言葉遣いがきれいである。映画などの劇中のセリフとは勢い過激になるもので、現実の世界の日常にはふさわしくないことも少なくない。だが、藤山陽子さん演ずる神宮司真琴は、日本海軍再建の念に凝り固まっている帝国海軍軍人の父親に精一杯抗議しても、激昂され殴られるかも知れない言葉を、清楚な若い婦人の手本の如き清潔な言葉で抑え尽くしているから、父・神宮司大佐も、手をあげることなぞ出来ない。父親役の田崎潤氏の名演技に負うところも大きい。真琴の、美しい日本語を上品につかう態度・物腰に感じ入り、察したかどうか、紛(まご)うことなき我が娘なりと認めたかどうか、無論推測の域を出ないが、田崎氏演ずる神宮司の表情には、猛々しさの奥に、何か人を忖度する、思いやる人格者の分別があったように思えてならない。再び藤山陽子さんのことを書いておくと、昭和16年(1941)生まれの藤山さんは、映画「海底軍艦」公開当時(昭和38年、1963)12月で、実に弱冠22歳である。ウィキペディアの彼女の説明に、目鼻立ちが整った正統派美人とある通り、本物の美人で、それだけ大人の婦人に見える。その藤山陽子さんが演じた神宮司真琴役は、余人に変えられぬものだったと納得出来る。そして繰り返すが言葉遣いが手本のように上品だ。私が「海底軍艦」に魅了された原因の一つが藤山陽子さん演ずる真琴の存在だ。それに引き換え、今の女どもは老いも若きもダメだ。いたく感激した時も、寒くてたまらぬ時も「メッチャ、感激しました」、「メッチャ寒いです」だものね。バーカ、お前のそのツラが「メッチャ、不細工なんだよ」とでも言ってやりたくなる。が、「そう言うおめえも不細工なジジイじゃんか」と言い返されるがオチだから是非もない。「真琴のテーマ楽譜」作成・監修/ユコタン(広瀬夕子)
2019.12.14
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