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2016.03.31
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カテゴリ: 戦記
2003.11.09

対ソ国境線戦闘、関東軍の死闘「西部方面篇」。(加筆)
カテゴリ:カテゴリー未分類
満州国境戦、資料文献を読み終えていないが、専門用語のまじった膨大な文章なので、読了の頃には記憶があいまいになるおそれも感じ、書き始めることとした。
なお、本文は想科良次さん(現・想科さん)作成の別サイト、略して「怪獣少年の夢」コーナーに掲載していただく予定の「満州国境線配備の鉄人28号型戦闘ロボットジオラマ」に密接に関連する内容へと、次第に移行してゆくものだ。しばらくは読解困難な関東軍最後の描写が続く。しかし、このことを書かずして、空想物語への移行はできない。

まず初めに書くのは、史実である。拙い語いを以て形容すると、勇戦奮闘・壮絶・猛抵抗・悲惨・死守・無私の精神によって展開された関東軍終末近き劣勢下の、対ソ戦描写である。

関東軍。これは世界精強と形容された名実共に精鋭なる陸軍兵団であった。なお、再三書いてきたが、私は旧軍全面悪と評する謬見(びゅうけん。誤った見解の意)を正す考えからも、 大東亜戦争の終末近く、日本軍がいかに勇猛果敢なる戦闘行動を行なったかを、できるだけつづりたいと思うので、思想面に意見ある人には、私見をまじえず読んでいただけたら幸いである。

再び関東軍について知るところのみ書く。関東とは言ってもこれは支那大陸の関東州のことである。満州帝国を樹立したのち、駐在部隊として次第に兵力を拡大発展し、世界的に有名になった一大陸軍組織として、「泣く子もだまる関東軍」とまで言われた。
「関東軍」とは大日本帝国の中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京に移転した。淵源をたどれば1900年の「北清事変」にさかのぼるが、詳述は措(お)く。

北京の55日.jpg
北清事変を描いた映画「北京の55日」。白人の活躍が目立つが、史実は距離に問題のあった英国の要請を受けて、我が日本軍が、即座に各国公使館死守に向かった。ただし、さらに近かったロシアも出兵し、これがのちの日露戦争につながる。

昭和20年4月、ソ連は一方的に「日ソ中立条約」を破棄、通告してきた。破棄とはいっても、条約は一ヵ年は有効であり、そのかん戦端が開かれるはずはなかった。


なお、昭和18年7月ごろの彼我の戦力比較以下の如し。
師団数、関東軍20、ソ連軍25。
総兵員、関東軍60万人、ソ連軍70万人。
飛行機、関東軍600機、ソ連軍1000機。
戦車、関東軍300台、ソ連軍1000台。
戦闘は兵器・物量に優るほど優勢なことも確かだが、戦う兵員の鍛錬度・技量・精神力も欠くべからざる要素である。陸戦では海戦よりも、これが勝敗に大きく影響する。この点に於いて、昭和18年当時の軍容のままならば、我がほうが圧倒的優勢で、必勝疑いなしの実情だった。

だが、大東亜戦争各地の戦闘状況、我れに優勢ならず、最終的には精強なる我が関東軍は、実に師団数20個を、主に南方戦線へ向けて転出の余儀なきに至った。ひとくちに20個師団という。師団とは、時代・状況により異なるが、大東亜戦争で見る限り、一個師団、二万人前後である。それがしかも選りすぐりの精鋭を以て整えられた確固たる20個師団であった。兵員数にして40万人。この精強なる40万人が南方を中心とする各地へ転用されたのだった。勝機の決定が兵員の精鋭度で計れる好例がミッドウェイ海戦である。

本海戦は情報戦でもおくれをとっていたと言われるが、少なくも艦船350隻、航空機1000機、参加将兵約10万人の、世界海戦史上例を見ない一大兵力であった。そして、これには真珠湾攻撃で見事な戦果を挙げた優秀なるパイロットが充実していた。
その海戦で敗れたあとの日本海軍もまた、質・量共に著しき低下を見ることとなった。

対ソ戦の抽出20個師団もまた然り。劣勢は火を見るよりも明らかだった。すなわち、精強20個師抽出後の、昭和20年7月末の戦力比較以下の通り。
師団数、関東軍24、ソ連軍50。

飛行機、関東軍160機、ソ連軍4800機。
戦車、関東軍80台、ソ連軍3500台。

師団数や兵員数だけ見ると、劣勢とはいっても、数に大差はないようにみえる。が、これらは間に合わせの軍容であり、24個師とはいっても、いわば固形物をかめない総入れ歯の兵団に過ぎなかった。それにしてもよく形ばかりとはいえ、24個師を集めたものだと思うが、詳述は省く。ともかく、2年前の20個師とは激差のある、寄せ集め軍隊には違いなく、わかりやすく言えば、「実力5個師団」と酷評できるほどの戦力であり、歩兵戦力はソ連軍の50個師に比して、十分の一でしかなかった。

我が軍機械兵力に至っては、飛行機がソ連軍の1/30、戦車が1/40以下である。訓練・装備の大差をみると、恐らく勝負にならぬ戦になると誰もが思う。
「大兵に戦術なし」とすれば、小兵にも逆の意味で戦術なしのはずだ。さらば、日本軍はなだれを打って敗退したか? 否、小兵なりとはいえ、関東軍には骨が残っていた。



(満州国境線西部方面ソ連軍侵入経路図など).jpg
満州国境線西部方面ソ連軍侵入経路図など。


まず、国境守備三箇所の要所のうち、防衛手薄の西部方面をみる。この広大なる地域は、北方国境都市、満州里からチチハルへの途上にハイラルの陣地がある以外は裸の戦場であった。ハイラルのみは、防備中枢として、昭和13年から築城され、五つの陣地を以て都市を包んでいたので、そこへ殺到したソ連軍は、予想の突破を阻止された。我が西部方面全軍頑強なる抵抗により、終戦まで大半の陣地を保ち得たのである。

しかし陣地も準備もなかったノモンハン以南の長大なる国境はやすやすと急襲突破されただけでなく、国境アルシャンにあった第90連隊は、苦戦を重ねながら歩々退却、その主隊たる第107師は、途中から山道を迂回して退却に就き、そのため終戦の無電通ぜず、敵の大軍にはさまれて8月23日に救出された物語も生まれた。

以上の如く、西部国境方面は、ハイラルの堅固なる陣地と我が軍の頑強なる死守による抵抗以外には、ソ連西部戦線軍の破竹の進撃にあって、反撃あたわず戦闘終了の余儀なきに至った。
だが、残る北部・東部国境に於いては、ソ連軍にやすやすと突破攻略の余裕を与えず、その猛攻を各地で撃退した。

ここで早くも私は空想物語の挿入を考えたき衝動を抑えられない。もし、西部国境のうち、手薄だった南部方面はもとより、頑強なる抵抗を為したハイラル方面にも鉄人28号が配備されていたら、我が軍の反撃は実現したばかりか、ソ連戦車の大砲弾はもとより、航空機の機銃・爆弾攻撃ことごとくをはねかえす装甲によろわれた鉄人の守備、否、「攻撃は最大の防御なり」をまこと実現してなお余りある鉄槌猛撃により、ソ連西部方面軍は、逆にこてんぱんにたたきのめされたこと必定と思うのである。

今回は西部国境攻防戦記述にてしめくくる。
参考文献 / 伊藤正徳氏著「帝国陸軍の最後・終末篇」昭和36年(1961)10月10日初版発行(文藝春秋新社)

帝国陸軍の最後・終末篇.jpg


最終更新日 2003.11.09 13:30:10







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最終更新日  2016.03.31 12:38:19
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