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学校やら宿題やらで忙しくしてるけど、そういう予定のない休日なんてなにもやることないね。かといって仕事がないときになにをするかすることがあるわけでもないですよ。そもそも仕事やら人間関係からを取り除いたら、自分なんていなくなる。周りとの縁起のなかにいるんだから、それをなくして自分なんてのはいないね。だからなんにもやることのない日はざぜんしかやることないですよ。寝る前の夢心地が続いて、自分が周りに溶け出す感覚になって、落ち着いて、まぁ休める。
2009年01月24日
考えてみれば最近まったく外出していなかった。体調がこの二三日悪かったのは、そのせいだったかもしれない。3時頃に近くの本屋に自転車でいったら体が軽くなった。昨日なんてぜんぜん勉強できなかったからね。今朝もできなかった。かといってしないわけにはいかないからずっと机に向かっていたわけだけど、すすまない。この二日なにやったかって、虚しいものですよ。机にはかなり長く向かっていたんだけど、本屋から帰っての一時間のほうがよっぽどやれたかもしれない。まぁしかし寒いですな。明日は15度になるとか。朝起きやすいから暖かいのはうれしいです。
2009年01月22日
テスト前なので今日は午後の授業がなかったのだけど、そのあと先生に質問をしにいったら午後三時からならいいと言われたので、三時間まってから質問をして帰ってきた。引っ張りだこの先生の時間をとってもらってありがたいですね。いつもいつも電話かかってきてるし。病院のお医者さんと似た感じかな。先生のところに出向くのは敷居たかいですね。一度でも質問しにいったら確実に名前と顔覚えられるし。まぁしかし、その辺を考えすぎるとなにもできないから、ズウズウしくなろうという心のスローガンのもと、最近は自分を奮い立たせていくようにしてる。分らないところがわかるって言うのは気持ちいいことだね。精神衛生上非常に良い。
2009年01月19日

2009年01月18日
スポーツジムってありますね?最近は若い女の人が行くそうですね。以前調べたら、たいていヨガのコースっていうのがあります。まぁ、身体がきれいになりそうだし、ちょっと違う自分を演出するのによさそうなイメージがあります。結跏趺坐を組んで左右の手を、手の平を上に膝にのせ、深呼吸→α波と。 禅のお寺でもそういうのはありますけど、少し宗教じみていてとっつきにくいかもしれないですね。こないだ本屋の宗教コーナーにいたら、6歳くらいの女の子が来て、その後ろを母親があわてて追いかけてきました。「こんなところにきちゃだめ!早く行くよ、ほら!!」。その点ヨガは宗教じみていないので、スポーツジムでも取り入れられやすいのかもしれないです。 ヨガにしろ、座禅にしろ、脳波には何かしらの特異な変化は現れるらしいですが、それを宗教のコンテクストに位置づける必要はなく、瞑想は運動や読書と同じようにひとつの体験としてもありかなと僕は思いますね。 実際に朝にそのたぐいのことをすると、その落ち着きが一日続いたりして、した日はのんびり過ごせるような気がします。それをしている最中も、明晰なまま寝付く直前の心地よさが味わえたりするんですね。 ただそのような体験が「特別」な「真実」の体験、というように解釈されるのは厄介な問題で、こちらにつまらない現実、あちらに本当の自分がいかせる特別な境地、という二元思考はオウム真理教でも使われたわけです。苦行の果てに解脱して、すべての苦しみを超越するべきだ、そうなることが本当の幸せだ。こういう前提があったゆえに、それを知らない人は生まれ変わらせて、そこへ導いてあげるのが本人のためだ→ポアさせてあげよう、という話に展開した。サリン事件はそれとはまた違う話であるけれど、現実から逃げるための考えというのは、自分を投げ出してしまうという点で流される危険がありますね。 瞑想をそのようなコンテクストに位置づけるというのは、瞑想を始めるなかでかなりの人がはまるであろうし、その点において座禅する人間は警戒するべきですね。だから僕も人には言わないですよ。 しかし難しいのはそのような体験はなにかしらのコンテクストに位置づけざるを得ないということかもしれないですね。なにかしらの体験をしたとき、自分の今までの人生に照らし合わせてその体験を解釈するわけだけれど、瞑想もその例外ではないでしょう。しかしそれが今までにない特殊な体験であれば、自分の解釈ではとらえきれない。だからそれを解釈する枠組みを外部から導入しなければならない。正しい解釈が与えられればいいけれど、危ない解釈を与えられることもある。そこの判断が非常に難しいわけですね。触らぬ神にたたりなしというように、瞑想の類には近づかない方が無難かもしれません。 瞑想が自分の生き方の延長に自然にできるようになればいいんですけどね。そうすれば、音楽やスポーツを究めた人が生きがいをもって生きるのと 同じ ように、学問を究めた人が落ち着きをもっていきるのと 同じ ように、焦りなく静かに生きられると思いますよ。
2009年01月18日
おじいちゃんがなくなる直前に入院していたとき、お見舞いにいったことがある。アツアツのコーヒーが常々飲みたかったそうだけど、下の階の買って病室に持ってくる頃には冷めていて、でも本人は下の階までいけないから、どうにもならなかったらしい。その話を聞いておれは買ってきたコーヒーを病室の横の食堂にあった電子レンジで再度温めて渡したことがある。そしたら恥ずかしいくらいに喜んでくれて、俺が帰ったあとも、おばあちゃんが同じように温めて持ってくるたびにしみじみ喜んでくれていたとか。人を喜ばすのに大した労力はいらないんじゃないかねぇ。今朝は外が明るかった。雪がふるっていうことだった昨日はどんよりして低い雲が一面に広がっていたけど、今日は白い雲の合間から日が揺れるように差すような気持ちいい朝だった。10時に起きてしたの階に行って、新聞を読みながらご飯をたべた。そのあとはいい天気のなかのんびり勉強ですか。いまはひと段落してコーヒーを入れてたまたま横にあったCoccoベスト2を聞いている。そしたらじいちゃんのことを思い出した。
2009年01月10日
ショックだったけど、知り合いが機械競技で頸椎をけがしたらしい。個人的な付き合いはないけどけがの前日の元気な姿も見てたしショック。お見舞いにも自分との関係を考えるといけないけど、リハビリ次第では来年に復帰できるかどうかとか。前日まで元気だった人が、一瞬で変わってしまうのがこんなにショックだったとは。縁起でもないけど、この感触はきっと誰かが死んだ時にはもっと鮮明になるのかもしれない。将来のことは本当にわからない。自分が嘆く現状があっても、そのずっと下にいたかもしれない可能性を考えると、幸せとは言えないかもしれないけれど、その現状をつつましく生きるしかないかもしれない。なんていうことか。試練だろうな。
2009年01月08日
僕は、変わらなければつまらない人間だと思います。
2009年01月07日
携帯から投稿できるようにした。ロッカーの鍵をなくしたからこれから作りにいかなくては。実験はパートナーにだいぶ任せてしまった。結局俺が最初に別の試薬使って反応しなかったけど。。電車が着くのででは。
2009年01月06日
基本的な考えとしては絶対多数の最大幸福と同じです。幸せとふ幸せを決める要素がいくつもありますね。それに点数をつけて、合計点が一番高くなる選択肢をするのが最大の選択ということです。 職あり 職なし経済的な状況 +4点 -5点心理的負担 -10点 0点将来の安定 +4点 -5点計 -2点 -10点 などいろんな要素について点数をつけて一番良くなるような選択をする。こういう考えが一番冷静で的確な判断になると思ってる。上の場合なら当然職ありの選択の方がいい。しかし心理的不安が職ありとなしで-30と0なら、当然合計の点数も職なしのほうが高くなる。また上の例に別の要素がどんどん加わってくれば、職なしのほうがいい選択ということもある。・要素の数を増やす。(状況把握をちゃんとする。)・要素をうまく分類する(状況分析をする。)・点数を正直につけるこれが重要だ。
2009年01月05日
こう、少しずつ名古屋を離れ、少しずつ東京に近付いていくのが。。距離が少しずつ離れていって、時間も同じように過ぎて行ったんだなーと思った。バスも時間も自分にはどうかできることじゃないしね。君と別れて今旅立つ 東京 空港の人波に疲れて ふと立ち止まり めまぐるしく変わる 標示板を見つめてる みんな独り 君が生まれて育った町 東京 もうそれだけで好きな町だった 川の流れも 歩道橋から見た 車の流れも 人の流れも 時の流れも 東京 東京 孤独で 切なくて 虚しくて 冷たいくせに優しくて弱い 思えばみな僕の 心が町に写っていただけ 舞い上がるジェットの爆音が 君と君の町にさよなら もしもまた会えたら笑ってほしい 君や君の町のやり方でいいから 東京 東京 ゆるやかに傾く小さな窓から 拡がる街の灯がきらめいて そのひとつひとつに 愛と哀しみが暮らしてる 東京 東京 摩天楼に咲く光の海が いつしか銀河にながれこんでゆくよ とても愛していた 僕にはいい町だったさだまさしの曲をリピートさせてね。高速のうえからホテルがみえて。6月に来たときもみたこと思い出す。芋づる式に、過ぎちゃった時間が頭の中に出てくる出てくる。なににも増して辛いのは理解されないことだと思うね。40,50歳の一人身がさみしいのは、人生を共有できる人のいないさみしさじゃないかと思ったりする。それも人生そのものと言えるようなことを共有できる人がいないとだめで。若い時の勢いがなくなったとき、自分を支えるのは思いでを共有できる相手であり関係かな。バスのなかで思い出した記憶は共有されようがないね。人の思い出は作り話と同じ厚みしかないから。自分の人生を語っても他人には作り話と同じ厚みだから、共有されない。この場合にはななを除いて。思い出とは歴史で歴史は自分さ。他人に共有されない歴史は悲しいし、その裏返しで一人でも共有できる人がいることがうれしい。この場合にはななと自分の歴史であり、歴史を積み重ねれば絆が固くなる。そこにあるのは二人の思いで、二人の人生。
2009年01月05日
お正月の日の出と他の日の日の出となにが違うんだ。元旦が他の日にはとって代えられない「お正月の本質」を内包しているものであれば、お正月の日の出は他の日の日の出とは違うかもしれない。しかしお正月はお正月の本質ゆえにお正月なのではなく、お正月を祝う文化のなかで、個人がそれを一年という概念のスタートとして決めているからお正月なのだ。中国の正月は別の日にある。お正月をお正月として過ごさなければ、それはお正月ではない。だからお正月はその準備のために大掃除をして迎え、その日が来たらお屠蘇を飲み、雑煮を食べるものでなければお正月ではない。一年の始まりを元旦として、一年を計を建て、お正月をお正月とする。形がなければお正月ではない。お正月に限らず他の行事ももちろん同じである。そのような形をなくしていけば、行事もなくなると同時に自分もなくなってしまう。
2009年01月01日
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