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こんちわ!YamaHeyです。高校混声合唱部での部活が始まりました。音楽室は木造のおんぼろ教室でしたが、I先生指導で100人以上が歌う4部合唱は熱いものがありました。練習は暑い夏休みも続きました。僕の家から学校まで自転車で30分。行きはかなりの上り坂があり夏は学校につくと、汗だくだくでしたね。でも一日も休まずかよいましたよ。さて、夏の練習を経て、秋を迎えます。秋には合唱部のメインイベントの一つ、定期音楽会があります。その年('58年)第三回を迎えていました。4月に混声四部合唱のハーモニーの「とりこ」になった僕は、その半年後のこの秋、今度は「感激の本性」を体験すつことになったのですよ。第三回定期音楽会は例年どおり、我が校の木造体育館が会場です。体育館には舞台はありましたが、オーケストラ付きの100人の合唱には狭すぎます。机をいくつも集め上にシートを敷いた急造の張り出しステージが設けられました。この作業には先生方が総出で当たられ、僕たちはただ練習でした。会場は満員で後ろには立ち見の人もいました。だんだん盛り上がり、いよいよ最終ステージを迎えます。このステージ 出し物は先生が指揮をされていた大学のオーケストラをバックに「美しき碧きドナウ」。はりきっていました。この頃、京響は発足3年目でまだまだ一般の人には知られていない存在でした。そんな頃に京都市に南接する小さな町の田舎の高校にオーケストラがやってくるのです。会場の多くの方もはじめて生のオーケストラに接する機会でした。オケ合わせには京都市内まで出かけ夜遅くまで苦労し、この日のために練習しのです。でも、それがまた楽しく誇りに思うひと時でもありました。さあ!「美しき碧きドナウ」そのいよいよフィナーレを迎え最高に盛り上がった時です。突然拍手が起こりだし、それが会場いっぱいに割れんばかりに広がりました。舞台の上の僕は、拍手と同時に足の先から震えだし、それが、だんだん体の上に昇ってきて、やがて体全体に電気に感電したようなショックです。「これが感激なのだ!」。曲は終わりましたが、拍手は鳴りやみません。体はジーンとしたままです、、、、、、、。仲間も同じように感じていたようです。演奏会終了後もみんな興奮さめやらずで、どうしていいかわからず誰かれとなく話しかけると友、ボーとしている友、様々です。岐路につくまでには、ずいぶん長い時間が必要でした。今振り返りますと、これで「感激」を知ったことが、その後の「合唱漬け」の人生を決定づけたようです。次回に続きます。
2008年02月25日
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こんちわ!YamaHeyです。僕の人生にもっとも影響を与えたI先生がどのような人であったのかお伝えします。昭和30年代前半の頃です。高校に入学しました。新入生はどこかの課外クラブの入ることを指導されました。今で言う「部活」です。しかたなく(かな?)「混声合唱団」に入りました。なぜ「混声合唱団」なのか? 小学校の頃、ピアノ教則本のバイエルを教わりましてね、楽譜を読むことには多少、経験があったからです。クラブはI先生の赴任で発足し3年目を迎えていました。先生は当時30代なかば、学校内で輝いてみえました。団員は100名以上集まりました。当時は「男の音楽の先生はめずらしい」時代でした。期待に胸ふくらませ、最初に歌ったのは「森の教会堂」でした。練習がすすむにつれ、4つのパートが織りなす和音の響きが、木造教室の床をとうして伝わってきました。「本物」に接する嬉しさと、初めて身体に感じる混声四部合唱の重厚なハーモニーに胸が熱くなり、震えました。こうして僕の合唱生活が始まりました。次回は完全に合唱にはまってしまう事になった体験を書きます。
2008年02月22日
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こんちは!YamaHeyです。僕の人生にもっとも影響を与えた人、それは高校に入学したときに音楽の教師としておられたI先生です。'58年(s33)でした。I先生がおられなかったら、僕は合唱をやっていなかったはずです。この先生のお陰で(?)合唱にはまることになったのです。以後11年間の合唱漬けの生活さらに'81年(s56)から現在までの27年、つごう38年間も合唱をすることになったのです。合唱をやっていなかったら、まったく違った道をあゆんでいたはずです。先生の教えを受けた仲間の中にも、僕と同じ想いの者が何人もいます。後年、先生にそのことをお話しすると、いやな顔をされます。「それで本当に本人のために良かったのか?」との想いだと思います。では、先生はどんおような人なのか、どのような教育をされ、僕たちはどのように感じていたのか?など、僕の高校時代を次回からしばらく紹介します。よろしくお付き合いください。
2008年02月13日
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こんちは!YamaHeyです。最初の第九の続きです。大学4年生のとき('65年)、僕は合唱団の代表をしていましたのです。同じ学科の同期に大学オーケストラの団長がいました。4月のある日、彼から秋の定期演奏会で、2晩連続でベートベンの第九交響曲をやるので、合唱部をお願いしたいとの依頼がありました。なんでもその年はオーケストラ部にとって、記念すべき年だったようです。ですが、こちらは男声合唱団です。女声はどうするのかとの僕の問いに、それは任せるとの返事。さてどうするか?学生だけの第九というのは、当時はかなり画期的で魅力的なことでした。やりたい気持ちは十分です。ですが、我が団のメインイベントは秋に開催する定期演奏会です。そのための練習を割いて第九に持っていくことはできない。第九は2~3回の練習で歌えるような曲ではない。議論を重ね、通常の団の練習以外に第九の練習日を設ける。第九の練習指導者は現正副指揮者以外から選び、特別役員とする、ということで引き受けることにしました。さあ、次は女声パートをどうするか?二つの候補がありました。その一つとは前年 大学合唱連盟の合唱際で合同演奏をした関係があります。やっぱり声をかけないと失礼だろうということになり話を持っていったのですが、彼女らには荷が重いからと断られました。残るは一つ。女子大と併設短大の合同女声合唱団が引き受けてくれ、5月から週一回の割合で練習が始まりました。団の通常の練習の上に、第九の練習と二つの合唱団での活動となり、大変でした。でも、練習は女声陣のがんばりもあり、また女性といっしょの練習ということが、男ごころを刺激し出席率は大変良好でした(これは女性にもあてはまるようでした。たまには混声もいい!)。学生だけの第九ということが評判になり、報道機関も取り上げてくれました。当時、札幌市交響楽団が活躍していました。市が運営する交響楽団はめずらしく、他には京響、群響ぐらいだったはずです。札響は例年 年末に第九を二晩 演奏していました。ところが、この年は一晩だけになりました。学生だけの第九を意識したものだろうと僕たちは鼻高でした。本番は二晩とも大盛況、1500人ホールが満席で大感激をしました。まだ第九が今ほど、大衆化していない時期でしたので、大変いい経験をしました。この経験が16年後に合唱活動を再開することにつながりました。
2008年02月09日
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こんちわ!YamaHeyです。コーラスをやって40年近くなります。ベートベンの第九交響楽曲「第九」は、コーラスをやり始めた者にとっては、ジョギングをしている人にとっての「フルマラソン」と同じ程度の目標だろうと思います。余談ですが、わが国で第九を歌った人と、フルマラソンを完走した人はどのような人数になっているのでしょうね。興味のあるところです。僕の合唱団の仲間で両方を経験した人がいます。どちらがしんどいですか?との問いに、「マラソンは一人でやれますが、合唱はあわさねばなりません。この辺は相当ちがうところですね」との答えでした。僕は、マラソンは経験ありませんし、これからも無理です。第九は何回も歌いましたが、もう体力的にしんどく、この数年は歌っていません。僕の最初の第九は合唱漬けであった11年間の8年目(昭和40年)、大学4年生の時でした。続きは次回、お届けします。
2008年02月08日
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こんちわ!YamaHeyです。バレンタインデイが近づきましたね。みなさんはこの日をどのようにお過ごしですか?僕がこの日の意味を知ったのは、高校時代でした。ちょうどその頃 日記をつけていましてね、2月14日の項に「本日は2月14日なり、別に変わった事はなしなり」とあります。この頃(昭和30年代前半)、女性が男性にチョコレートを送るという習慣はまだありませんでしたよ。誰が考えたのでしょうね。チョコレート会社が企画したのだと思いますが、その後だんだん普及していったようです。僕が初めてバレンタインデイに女性からチョコレートをもらったのは大学の2年生のときでした。前に書きましたように、この年は合唱付けであった11年間のうちでも最も合唱付けであった年でした。チョコレートを手にするまでのいきさつが、ちょっと変わっています。2月のある日、学科の掲示板に「左記の者、学科事務所に来るように」との知らせの横に僕の名が書かれてあります。どもね、僕には思い当たることがありません。僕だけ出て来いということはどういうことだろ、何か不祥事でもやったんだろうかと、不安になりました。恐る恐る事務所に出頭しました。すると事務官がまったく事務的に「これが、君に来ている」と小さな郵便封筒を渡してくれました。何か拍子抜けした感じでしたがホットしました。でも、事情がまだのみこめません。事務所出た後、早速点検しましたが、あて先は大学の学科で確かに僕の名前になっています。裏面の差出人の住所は途中まででしたが、伊東さん(名前は失念しました)女性です。封筒を開いてみました。なんとチョコレートが出てきました。封筒が暖かいところに保存されていたのでしょう、そのチョコレートはすこし融けだしていました。これで分かりました、「これはバレンタインデイのチョコレートだ」と。うれしくなりました。差出人に思い当たりありませんが、字体からは大人ではなく中学生だろうと思いました。この年、大学合唱団の副指揮者としていくつかの演奏会で指揮をしています。どこかの演奏会に来てくれて、そのプログラムなどから、僕の所属を知り、送ってくれたのだろうと想像しました。もちろん仲間には自慢しました。だけど、残念ながらお礼の返事は出せませんでした。差出人の正確な住所が分からなかったのです。最も合唱付けだったこの年を締めくくるちょっとしたご褒美だったと考えています。
2008年02月05日
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