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こんちは!YamaHeyです。僕がもっとも影響を受けたI先生の続きです。合唱クラブでの先生の指導を紹介してきましたが、3年間の音楽の授業にも感じるのもがいっぱいありました。その一つが指揮法の授業です。生徒全員に指揮棒を作ってくる宿題がまずあたえられます。家庭にある天ぷらを揚げるための長いハシ(菜箸)を手元から数センチ残し先を細く削ります(先生は演奏会用もこれでした)。いよいよ授業です。先生が、目をつむった僕の右腕の手首をつかみ上にあげ、少しゆすりながら「腕、肩の力を抜いて!もっと楽にして」と先生。「はい抜けました」と僕。そこで先生が手をはなされます。ところが僕の手は持ち上がったままで、下に落ちてきません。指揮法の基礎は力を抜くことにあるとのことで、この取得にかなり時間が必要でした。そして最後には試験がありました。一人ずつピアにの前に立ち、課題曲を思い思いに棒をふります。先生はその棒(指揮)にあわせてピアノを弾かれます。これで成績がついたのです。自分の気持ちとは随分ちがう、およそ音楽的でないピアノの演奏を聴き、情けなくなったり、指揮は難しいものと感じたものです。昭和35年('60年)ごろのことでした。次回は授業中のレコード鑑賞について書きます。
2008年03月31日
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こんちわ!YamaHeyです。我が人生に最も影響を与えたI先生の続きです。前回、I先生の声は私たち合唱団員に「こうだ」と示される時も、音楽の先生として生徒に激しく叱責されつる時も、そのヴォイスはバリトンでオペラのようだったとお伝えしました。さて、3年間の高校合唱団、やっぱり悔しく残念なこともありました。団創立3年目の私の1年生の時(昭和33年)朝日新聞の主催する関西合唱コンクールに初参加したのです。結果は等外でした。次の年は会場は新設されたフェスティバルホールでした。張り切りましたが6位でした。いよいよ3年目、高校生活最後の年です。当時も府県での予選会はなく、いきなり関西大会です。広島から和歌山までの学校が集います。京都からは我が校のみだったのです。つね日ごろ、我が団は京都府下の高校ではトップクラスとの評は聞いていて、そのことに誇りも持っていたのですがね、残念ながらその証がありません。卒業までに何とか証がほしいと切願していました。当時の関西合唱コウクールでは5位まで発表され表彰されます。ですから、目標は5位以内です。幸いなことに、この年、同期は30数人おり団はこれらを中心に充実していました。みんな「今年こそは!」と燃えていたのです。先生の指導も熱が入っていました。そしてついに当日、緊張しつつも思い切り歌いました。そして、いよいよ発表!!しかし、結果はやっぱり6位でした。悔しいというより、体から力が抜けていくのを感じました。ああ! 終わったなという感じがしていました。コンクール終了後は会場で出場者全員により、課題曲を合唱することが恒例になっていました。この時もうこれで最後だとの想いが高揚し、周りの人が振り向くのを一向に気にせず、あらん限りの大声で歌ったのです。あとで、先生から「君の気持ちは良くわかるよ!」と慰められ胸が熱くなったのを今も、覚えています。僕の「甲子園」でした。次回に続きます。
2008年03月14日
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こんちは!YamaHeyです。僕の人生、最も影響を受けたI先生の続きです。'58年(s33)春に混声四部合唱のハーモニーのとりこになり、その半年後に「感激の本性」を知ったのです。I先生の指導に接しはじめてから、驚いたことがいくつかあります。発声練習で複式呼吸をしめされた先生の大きくふくらむお腹と、そこから出てくるすばらしい美声、張りのあるバリトン。しかもその声量は教室の窓ガラスが響くごとくであり、百人の部員でも太刀打ちできないほどでした。どんな難しい曲でも初見で伴奏されながら各パートを歌われるのにも感心しました。先生は音大の指揮科でピアノとヴァイオリンをマスターされたことを後に伺いました。その指導は、情熱的ではありましたが、いつもにこやかで優しさがありました。一度だけ、その先生が大変 立腹されたことがありました。音楽の授業で、誰かが先生の指摘にふざけて答えたのだと思います。先生はツカツカとその君に近づき、猛烈な大声で怒鳴りつけられました。それは本当に、すごい声量でした。顔は高潮しており、「あの先生が、、、」と驚くような声でした。でもバリトンの美声で、まるでオペラのようでした。次回に続きます。
2008年03月05日
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