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こんちは!YamaHeyです。13日の日曜日、所属している混声合唱団の第25回の定演でした。38度近くの発熱で体調は極めて悪かったのですが、何とか全ステージこなしました。さあ、その夜が大変でした。何が大変だったか? それについてはまた後ほどお伝えることにし、今回は以下をお読みください。12年間 休眠していましたが、いよいよ合唱を再開したのです。'81年(s56)のことです。l日本社会は絶好調の'80年代を迎え"Japan As Nomber One"とおだてられ、遂にアメリカを追い越したと浮かれていたのです。僕なんかは日本株式会社のまさに企業戦士そのものの生活でした。子供はすべて専業主婦の女房殿にお任して、仕事・仕事の会社人間でした。すでに完全週休二日制になっていましたが、ほとんど休めませんでした。社宅と工場のある臨海工業地帯の往復で、住んでいる地域の人たちとは没交渉でした。そんななか、朝比奈隆ひきいる大阪フィルハーモニーが年末に我が街にやってきて第九を演奏する、ついては合唱団員を募集するとの市の広報誌の呼びかけを、女房殿がみつけ「いったらわ!」と勧めてくれたので「それではやってみるか!」となったのです。練習に出てみると、そこは別世界でした。日ごろの仕事では、数々のストレスを感じてくたびれることもありましたが、そこにはそんなものありません。存在することが非常に楽で、居心地が大変いいのです。土曜日の練習日が待ち遠しいのです。仕事ではうまくいかなかったり、失敗して怒られたりします。が、そこはもともと好きな合唱の場です。長年の経験から歌うことには多少の自信があります。第九は経験しています。ドイツ語も苦になりません。声も出て、12年間のブランクをまったく感じませんでした。女声が圧倒的に多い中、男声は貴重な存在で、私の所属するテノールは特に少なく大事にされたものです。この頃アマチア合唱団で第九を経験している人はまだまだ少なく、16年前に学生だけで第九を演奏した経験を生かすことができました。本番は大盛況であったのは言うに及びません。久しぶりに打ち上げを充分楽しみました。そして'82年(s57)この第九合唱団メンバーが中心になり市合唱団が発足しました。僕も参加しました。その第25回定演が13日(日)にあったというわけです。その夜、僕に何が起こったのか、次回お伝えします。
2008年04月20日
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こんちは!YamaHeyです。手術後の1週間の絶食時、今まで食べた物の中でもっともおいしかったのは何かと振り返った時、あれやこれやと思案の後、強力なインパクトと共に思い出したのは、豪華な食材や高級料理さらには郷土の伝統料理でもなく、ただの「野菜炒め」であったことをお伝えしました。それを食べたのは1962年(s37)、大学に入った年です。初めての親元を遠く離れた寮生活でした。寮は三食つきで専門の栄養士はいましたが、乏しい寮費のもと最低限をやっと確保する食事でした。粗食はいいのですが、量が足りません。特に夕食の数時間後の空腹感は堪えました。まだ要領の分からない新入生でしたから、ただ早く寝るだけでした。そんなある夜、同室の上級生が「オイ!飯くいに行こう!」と誘ってくれ、連れて行ってくれたのが、10人もお客が入れば一杯になる小さな食堂でした。そこでは、やや割腹のいいご夫婦が懸命に働いているという感じの店でした。注文したのが、野菜炒めにどんぶりご飯。出てきた野菜炒めはキャベツが中心で野菜の種類は少なかったですが、その中に「豚の角肉」が入っており、野菜との調和が絶妙で一口食べたとたん「こんな旨いものは今まで食べたことがない」と、強力な衝撃を受けました。その感覚は46年後の今も残っています。その後、数々美味しいものを食べてきたはずですが、それが残っていないということは、人の記憶に残るとかどうかは、その時どのような環境にあったかが、大きく左右するということなのでしょう。皆さんのもっとも美味しい食べ物は何ですか?
2008年04月11日
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こんちは!YamaHeyです。もうすぐ66歳になります。その間40年近く合唱をやっています。これまで十数回にわたり、合唱漬けであった11年間の高校、大学の活動をお伝えしました。卒業後はしばらく合唱とは無縁な生活が続いたんです。1981年(s56)住んでいる街に朝比奈隆ひきいる大阪フィルハーモニーがやってきて第九を演奏する、「ついては合唱団員を募集する」旨の市発行の広報誌を目にし、合唱を再開したのです。その翌年、第九合唱団員が中心になり、町に混声合唱団ができ現在まで続いています。こちらの活動については折に触れ紹介したいと思ってます。今回は合唱をちょっと離れて食べ物のはなしをしてみます。お付き合いください。皆さん、いろんなものをお食べになってこられたでしょうね!その中で一番おいしかったものはなんでしょう?というお話です。私の場合です。ちょうど15年ほど前、胃の手術を受け2ヶ月ほど入院したときのことです。術後、1週間ほど絶食期間がありました。その間24時間の点滴です。ベッドの枕元のレンタルテレビからは食べ物のシーンもよく見かけましたが、不思議なことにあまり食べたいとは思いませんでした。そこでフト考えました。これまで食べた物で一番おいしかったのは何だろう?どうしてそんなことを考えたのか? 治ったら、そいつを食べてやろうと考えたのかもしれませんね。それまで、京都、札幌、東京、横浜、大阪で生活し、出張では神戸、広島、九州、四国さらに海外も何回か経験していました。また各地の観光地にも行っています。おかしなもので海外であまりおいしい食べ物に出会ったことがないと多くの人がいいます。僕もそう思います。もっとも体験したのは北米とヨーロッパですが、イタリア、スペインは知りません。あちことで食べた物を思い出しては比較しましたが、これだというものがでてきません。もうひとつインパクトがないのです。やや疲れてきたころです。ハット思いついたものがあります。それは「野菜炒め」でした。なぜ「野菜炒め」のような平凡なものがもっともおいしい物なのか、次回お知らせします。
2008年04月09日
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こんちは!YamaHeyです。前回はもっとも影響を受けたI先生の音楽の授業で菜箸で作った指揮棒で指揮法を教わったことを、お伝えしました。今回はレコード鑑賞授業をお話しましょう。今から50年近く前、音楽教室はおんぼろの木造校舎の端にありました。建物は古くても教室には当時の田舎の高校には不釣合いな、高級なオーディオセットが揃っていました。先生は個人として2千枚ほどのレコードを所蔵されていて、それらを惜しみなく授業で使われました。作品が生まれた時代背景、作曲者の人となりやエピソード、指揮者やオーケストラの説明など、作品の音楽的、技術的解説は先生ならではのものでした。交響曲の場合、各楽章のモチーフ、主旋律などを印刷したプリントが配られます。先生がモチーフ、モチーフの展開、各楽器の主旋律などをピアノで弾かれます。「ここからこのように転調する」「この打楽器のリズムはこうだ」「ここではめずらしく大砲が撃たれる」など、、、。このように十分に予備知識を得てから、いよいよレコード鑑賞です。その後のテストがこれまた徹底してました。レコードを聴き、曲名、作曲者、何楽章を答えます。次に先生が主だった曲のある部分をピアノで弾かれ、聴音の試験となります。「エリーゼの為に」の冒頭部の「ミ ♯レ ミ ♯レ ミ シ レ ド ラ」に大変苦労したのを憶えています。このようにして鑑賞した曲は、不思議なことに気に入ってしまい、そのあとも良く憶えており、いつ聴いても当時を思い出し、胸にくるものがあります。このようにクラブ活動に音楽の授業に先生は情熱的で誠実でした。音楽祭、コンクールなどの練習は厳しい面もありましたが、合宿、ハイキング、クリスマスの集いと十分に楽しみました。友との語らい、友情、反目、信頼、青春、恋、、、、まさにそれはドラマでした。そのドラマは「音楽・合唱」を共通項にしたもので、先生はわれらの織りなす青春ドラマのいわば演出家、コンダクターでした。かくて、僕は完全に合唱にはまってしまい以来この年まで(もうすぐ66歳)途中休み期間もありましたが、40年近く合唱をすることになったのです。高校にI先生がおられなかったら、まったく別の人生を歩んでいたはずです。先生は僕の卒業後 数年で転校されたのですが、それで合唱部もなくなりました。人生80年のほんの数年の偶然の出会いで決まってしまう、不思議な想いです。それではまた、、、。
2008年04月06日
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