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このところ、構造ということを考えている。考えているのだけれど、自分ではなかなか言葉が出てこない感じ…。しばらくは、構造というものについて言語化できていると思われる人の文章を引用して、触発されたことを書いてみようと思う。以下↓引用。-------------------------------------------人間と言うものは自ら設定した思考の枠組みに捕囚されると思考が硬直して、容易にそこから抜け出すことができない。そこに、悲劇が待っていてもである。かれらは、悲劇に吸い寄せられるようにして暴発する。暴発による以外には、その枠組みを突破できるすべがないかのように。このところ、この枠組み思考による呪縛ということがずっと気になっていたのである。ほとんど同じ環境に生活し、同じ言語を使い、同じ情報に囲まれていても、一方は左に進路をとり、一方は右に進路をとる。ひとりはテロリストになり、ひとりは人道主義者になる。ひとりはモダニストになり、ひとりは復古主義者になる。ひとりは護憲派になり、ひとりは改憲派になる。ひとりは拝金主義者になり、ひとりは義理と人情の渡世を生きている。かれらはお互いに非妥協的であり、憎みあう。人はそれぞれだというのは、もっともらしいが、当たっていない。どちらも、本当はひとりの人間の中にある可能性なのだと思うべきなのだ。だから、どっちがどっちかということ自体はあまりたいしたことではない。すくなくとも、そう思ってみることは必要なことだ。問題があるとすれば、「子別れ」や「芝浜」のように、片方の端から、もう一方の端へと引き返すということができなくなるということであり、そこに思考のアポリアがあると俺は思う。-------------------------------------------引用↑以上。唐突だけれど、マルクス主義っていうの、自分から見ると構造を捉えたものに過ぎないと思うのだけれど、それが革命の原動力になっちゃったっていうのが、自分にはどうにも不思議なんだよね。自分としては、読んだ人…なのかな?…が、「【思考の枠組みに捕囚され】た」としか考えようがない。んで、「捕囚された」とわかった人は転向するのかな?ところが、転向した人っていうのは、そもそも自分が何に囚われたかを見ていないような気がする。そこが、マルクス主義が本当に理解されていないのではないか?と思えるところなんだな。時代遅れなんだとすると、いかに時代遅れなのかをちゃんと理解して、それから葬ってあげなければならないと思う。
2007年05月02日
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2時間遅れて行った。いろいろ言い訳はあるけれど、本当のところはたぶん、知り合いと会いたくなかったからだな。今の旦那さんと初めて会った。Mちゃんと一回り以上年上の人だった。なんか、自分の中で、一つの時代が終わったというような感じ…。その「時代」ってのがなんだったか…?ってのをまだ言語化できる気がしない。元妻は結局、仕事で来られなかった。
2007年05月01日
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まずは引用↓以下。------------------------------------------- 血縁とか地縁とかではない結びつきによって成り立つ社会を作り、その社会での安定した生活を保障することによって、国家は揺るぎなく人びとを支配し、治めることができる。そのような強固な国家になるために、制度の確立と保持は不可欠であった。 (中略) 導入された制度の中でも、ことに国家として重要なものは、法と歴史であった。決まりを作り、それを守らせることによって人びとを掌握する、それは、国家にとって欠かすことのできない統治の基盤である。それは、強制力を持つ法の力によって運用されるものであるが、自分たちが国家に帰属し守られているという幻想を抱くことができなければ、国家は守れない、そして、そのために必要なものが歴史だった。 歴史は神話と言い換えてもよいが、支配者(ここでは天皇)がいかなる出自を持ち、自分たちをどうつながっているか、国家がどれほど由緒正しい謂れを持つがということが、確認されることによって、安定した持続が可能になるのである。唯一の正しい歴史を持つことは、国家を安定させるために欠かせない。それは、血縁的な、地縁的な共同体では口頭による語りでかまわないが、国家の場合には、歴史は書かれることによって役割を果たすことができるのである。-------------------------------------------引用↑以上。引用が長くなったけれど、歴史書が書かれることの理由は、上記ですべて網羅されていると思う。こういう基本的なことが、歴史家たちや歴史教科書を作る人たちには確認されていない感じがする。簡単に言うと、支配者がいかなる出自を持っていようが、嘘でも歴史書は唯一の正しい歴史として書かれるということ。…本当の可能性は否定しないよ。否定しないけれど、でもね、本当なのだとしたら、そもそも日本書紀と古事記で内容が異なるということは発生しないでしょ?なぜ、異なる内容が発生したか?と考えると、「唯一の正しい歴史を、当時、書こうとしたから」としかならないな。(その傾向は、より日本書紀に強いらしい。これは別に日記にするかも…?)ちょっと現代のことになるけれど、歴史教科書問題の問題は、どの立場であれ、唯一の正しい歴史をまだ書こうとしているからに過ぎないと思う。敢えて言うと、「一本の正しい道を進んできた」としたい傾向と、「変遷こそが歴史」としたい傾向の違いだけだと思う。「変遷こそが歴史」という立場のほうが、より事実に近いとは思うけれど、それによって「唯一の正しい歴史を作る」というところを見ているという面では同じ感じがする。結局、神話を必要と考える傾向に変わりがないと思う。これ、唯一の歴史がないと誇りが持てないと考える、人間の徹底的な弱さみたいなものを感じる。本当は、そういう、人間の徹底的弱さを知ることが「歴史を知る」ということなんじゃないか?って思う。今、安倍さんが「憲法改正」とか「教育」っていうようなことを性急にやっているのは、結局は、国家に帰属し守られているという幻想を抱かせる形での統治、っていうことがしたいんだと思うのね。でもね、「幻想がなければ生きていけないのか?」っていうところを疑うのが、今、歴史を勉強するってことなんじゃないかと思う。
2007年04月30日
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ある人が日記で取り上げていて、面白いかなと思って図書館で予約して読んだけれど、あんまり自分の好みじゃなかったな。○イモイさんの日記テイストで、○イモイさんの方が面白い感じ…。ブログによって、いろいろな人の文章が読める環境になったからこそなのだと思うけれど、自分にとっては、出版ってのが、もう陳腐なシステムになっているように感じる。「活字離れ」っていうけれど、お金を払って本を買うっていうシステムがおかしいってことなだけなんじゃないかと思うのね。ようちゃん2号的には、本の装丁とかあんま関係ないのよ。中身が面白いかどうかだけ。そんなようちゃん2号の極論だけれど、お金払って活字を読むというシステムがなくなれば、活字離れはなくなる感じがする。
2007年04月29日
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彼女と元妻のほうがよっぽど仲良くなっちゃったMちゃん、ってみんなから呼ばれていた女性がいる。(あとでわかる…というか、日記タイトルでわかるよね…、いた。)もともとは俺の知り合いだったのだけれど、俺が結婚してから元妻に紹介したのかな…?あんまり仲が良くなっちゃったもので、元妻の前で、Mちゃんに聞いちゃったことがあった。「Mちゃん、Mちゃんは俺の友だちだったよね…?」ってね。実際、元妻の実家にMちゃんは子どもを連れて遊びに来たこともあるくらい…。(俺たちが結婚していたときにだよ)…ぐらい二人は仲が良くなった。そのときには彼女、もう離婚していたかな?彼女の旦那とは、Mちゃんと仲良くなってから紹介された。実は、結婚式の仲人というか、式の進行役を任されたのは俺だよ。彼女と俺が知り合ったときには、もう彼氏がいたってこと。離婚の間接的なきっかけを作ったのも俺。…元妻と別れてから、一度も会わないうちに亡くなられちゃった、って感じ…。3月分の日記が空いているから、そこにMちゃんの思い出を書いて行こうと思う。5月になってしまうと、3月分の空き日記がシステム上、埋められなくなるから、ダミーの文章で埋めておきます。リンクしていただいている人には、更新、更新でお騒がせするかもしれません。
2007年04月28日
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のっけから引用↓以下。------------------------------------------- 敬語が、まちがっていたり、乱れていたり「使い方を知らない」になっていたりするのは、「敬語ってなんだったの?」という根本が、あやふやになっているからです。「そんなになっているんだったら、もう敬語なんかなくしちゃえばいい」と考える人だっています。でも、敬語がなくなってしまうと困ります。 なぜ困るのか?「困るだろう」と思ってはいても、「どうしてなくなったら困るのか?」ということになると、ちゃんと答えられる人はそんなにもいません。それはつまり、「敬語ってなんなんだ?」ということがよくわからなくなってしまった結果なのです。-------------------------------------------以上↑引用。敬語について寄り道しないで丁寧に書いてあるすごい本だと思った。敬語についての考察だけれど、他にも応用の効く本だと思う。ようちゃん2号がこの本を大切だと思うのは、「よくわからなくなっているということを認めないまま浅薄な共通理解に依拠して議論を立ち上げている人の喧しさに引き摺られて根本を見ないということが起きていて、それが無駄に議論を長引かせている」ということが、今、ほうぼうで起きている感じがするからだな。例えば、敬語が乱れていることを嘆く論調の不毛さって国語力が低下していることを嘆く論法と変わりがない感じ…。嘆くのはいいけれど、嘆くだけではなんも変わらないというところに問題があると思う。そういうことに中断を入れる本のような気がする。根本を見ないですますということは、ようちゃん2号にとって、かえっておっくうなことみたいだよ。(かといって、ようちゃん2号は、なかなか根本が見えない人なんだけれどね)著者はそういうところの無い人なので、安心して読めたよ。くりかえすようだけれど、この本は、敬語についてだけではなく、自分で考える方法や作法を示してくれている感じがする。だから、敬語に限らず、「教育」だったり、「歴史」だったり、「憲法」だったり、「戦争」だったり、っていう、いろいろなものに適用できる感じがする。以下↓引用。------------------------------------------- 現代で敬語が必要なのは、「目上の人をちゃんと尊敬するため」ではありません。「人と人との間にある距離をちゃんと確認して、人間関係をきちんと動かすため」です。-------------------------------------------以上↑引用。…なぜそういう位置づけになるのかは、いじわるに感じるかもしれないけれど、この本を読んで欲しいな。
2007年04月27日
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テレビのBSで見たのだけれど、湾岸諸国では「石油枯渇」を見据えて、「脱石油」に向けての取り組みをしているということだった。そんで、一つの方策として観光地化というようなことを考えているのかな?そうなるためには、「湾岸諸国にアクセスのいいハブ空港建設」とか言っていたけれど、なんか変。素朴な疑問なんだけれど、飛行機って石油燃やす以外に飛べるもんなのかな?石炭飛行機ってのは聞いたことがない…。(今の時代、機関士が石炭くべるっていうことにはならんだろうけど…)んで、電気飛行機ってのも知らん…。(その場合、モータ-回すんだかね?)原子力飛行機…?って言っても、原子力で取り出せるのは熱エネルギーなんでしょ?(核物質撒き散らして飛ぶっていうわけにいかんでしょう?)石油に代わりうる燃料としては「水素」ってのがあるのかな?…でもね、自動車に積むことさえ現状では大変なんじゃないの?陸地ならいざ知らず、水素で空飛んだら、ツェッペリン号ったっけか…の、二の舞?(舞っとるからって、飛んだことにはならんでしょ?)つらつら考えると、本当に石油がなくなるっていうことが産油国で本気で心配されているような気がしないんだな。…空港作るなんて発想自体にそういうの、感じる。どこか不真面目な感じ…。
2007年04月26日
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劇団ひとりの芸の面白さは、「笑えないもの・こと、が含んでいる面白さ」っていうようなことにあるんじゃないかと思う。それを小説という手法で表現したらこうなる、っていうようなことなんじゃないかな?著者にとっては、自分の芸風の中にあるもので、表現の方法が違っているってだけっていう感覚があるんじゃないかな?
2007年04月25日
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いきなり引用↓以下。------------------------------------------- その反対に、純正オリジナル、出来たてほやほやの無垢の「私の意見」は、たいていの場合、同じ話がぐるぐる循環し、前後は矛盾し、主語が途中から変わるような、「話している本人も、自分が何を言っているのかよく分かっていない」ような困った文章になります。こういう意見におとなしく耳を傾けてくれる聴衆はなかなかいません。いきおい、私たちは、コミュニケーションの現場では、起承転結の結構を承知している「ストックフレーズ」を繰り返すことになりがちです。-------------------------------------------以上↑引用。…自分が何を言っているのかよく分からない文章ってのは、まさにようちゃん2号。でもね、なんかストックフレーズを使うのには抵抗がある。んで、よく分からないまま、だったり、引用が多くなるのかな?以下↓引用。------------------------------------------- ですから、「私が語っているときに私の中で語っているもの」は、まずそのかなりの部分が「他人のことば」だとみなして大過ありません。(現に、私は確信を込めてこう断言していますが、そんなことができるのは、私がいま「ラカンの意見」を受け売りしているからです。) 「私が語る」とき、そのことばは国語の規則に縛られ、語彙に規定されているばかりか、そもそも「語られている内容」さえその大半は他人からのことば、ということになると、「私が語る」という言い方さえ気恥ずかしくなってきます。私が語っているとき、そこで語られていることの「起源」はほとんどが「私の外部」にあるのですから。-------------------------------------------以上↑引用。なんだか気恥ずかしい、ってのはある。気恥ずかしさを感じない人もいる感じ…。以下↓引用。------------------------------------------- さきほど、「私のアイデンティティ」は「私が語ったことば」を通じて事後的に知られる、と書きましたが、ご覧の通り、「私が語ったことば」さえ、それを構成するファクターの多くが「外部から到来したもの」です。だとすると、そのときの「私のアイデンティティ」というのはいったい何なのでしょう? ところが、このどうにも足元のおぼつかない「私のアイデンティティ」や「自分の心の中にある思い」を、西洋の世界は、久しく「自我」とか「コギト」とか「意識」とか名づけて、それを世界経験の中心に据えてきました。すべては「私」という主体を中心に回っており、経験とは「私」が外部に出かけて、いろいろなデータを取り集めることであり、表現とは「私」が自分の中に蔵した「思い」をあれこれの媒体を経由して表出することである、と。 このような考え方は私たちの中にまだ根強く残っていますが、(後略)-------------------------------------------以上↑引用。私のアイデンティティって、一度強く持ってみる時期が必要なのかもしれない。そしてそこからもう一度、自身で解体する必要があるような気がする。(勘だけ)ところが、それをつかんだら手放さ(せ)ないっていうベクトルがいろいろ働いているかな?って思う。それについては以下↓引用。-------------------------------------------「いま・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点、必然的な帰着点とみなす考えをフーコーは「人間主義」(humanisme)と呼びます。(これは「自己中心主義」の一種です。) 「人間主義」とは、言い換えれば、「いま・ここ・私」主義ということです。「いま・ここ・私」を最も根源的な思考の原点と見なして、そこにどっしりと腰を据えて、その視座から万象を眺め、理解し、判断する知の構えをフーコーは「人間主義」と呼んだのです。この人間主義的歴史観によれば、歴史は次々と「よりよいもの」、「より真実なもの」が連続的に顕現してくるプロセスとして理解されます。(だって、「いま・ここ・私」がすべての基準なのですから、それが最高到達点であることは自明の前提です。)-------------------------------------------以上↑引用。「人間主義」って、ある新聞社がラジオCMでやっていなかったっけ?(まだ、やっているかな?)以下↓引用。------------------------------------------- フーコーはこの人間主義的な進歩史観に異を唱えます。(中略) 「歴史の直線的推移」というのは幻想です。 というのは、現実の一部だけをとらえ、それ以外の可能性から組織的に目を逸らさない限り、歴史を貫く「線」というようなものは見えてこないからです。選び取られたただ一つの「線」だけを残して、そこからはずれる出来事や、それにまつろわない歴史的事実を視野から排除し、切り捨てる目にだけ「歴史を貫く一筋の線」が見えるのです。-------------------------------------------以上↑引用。組織的に目を逸らせるために、「人間主義」ってのがある感じがする。 「歴史を知れ」っていう人が多いように思うけれど、そう言う本人がどの意味で使っているか、わかっていって感じをようちゃん2号は持つんだな。ストックフレーズっていうやつ。うーむ、やっぱりぐるぐるしている…。
2007年04月24日
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この本、狂牛病のことだけわかると思ったら、そうじゃなかったな。著者ってものすごく頭のいい人だと思った。生命を機能パーツの集合体と見る、あるいは内燃機関とみなすのは、人に主体性があると見る事と近い感じ。主体性があるとみるところに、リスクの数値化という発想が生まれたり、臓器移植を肯定することが生まれたりするのかな?って思った。「そんなに簡単なものじゃないよ」っていうのが、この本を読むとわかる。以下↓引用。-------------------------------------------臓器移植を受けた人はあるいはいくぶん命を長らえるかもしれない。しかし、分子のレベルで解体されることのないまま受け入れた臓器のもつ情報と、自分の身体を構成する情報との間に起こる激しいせめぎ合いに、それからずっとさらされ続けることになる。それは、臓器に対する強い免疫学的攻撃、つまり拒否反応である。受け入れた臓器の細胞表面にあるタンパク質が示す情報が、自己のものではなく他者のものであることへの悲鳴だ。それを抑えるためには強力な免疫抑制剤を必要とする。免疫抑制剤は必然的に自分の身体すべての免疫システムを抑制してしまうから、今度は感染症を恐れなければならない。-------------------------------------------以上↑引用。俺がもうちょっと頭がよければ、もうちょっとうまく紹介できるのに…。もうちょっとだけじゃ足らんかもしれんが…。
2007年04月23日
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まずは引用↓以下。------------------------------------------- 構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちはほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。 私たちは自分では判断や行動の「自立的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。-------------------------------------------以上↑引用。マルクス主義を当時の人が思想と読みとった背景について考えていたりする。自分から見ると、マルクス主義って構造を分析したものに過ぎないと思えるのだけれど、当時の人はそうは受け取らなかったと感じられる。そうなったのは、その当時、構造主義の考え方がなかったことが大きかったのかな?とも思う。ここら辺、当時、マルクス主義を思想と捉えた人がサボっているように思う。まだ十分存命なはず…。「私が思想と誤解したマルクス主義とはなんだったか?」っていうようなものがあってもいい感じがする。あるのかもしれんが…周知されていない。周知されていないから、右翼的なものが今、出てきているという感じがする。あるいは、また構造主義を思想ととらえる勘違いを繰り返している感じがする。
2007年04月22日
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今日から『俺は、君のためにこそ死ににいく』が公開されるみたいだね。(書いているのは5月12日だよ)昨日付けの新聞だったか出演者の岸 恵子の記事をチラッと読んだ。「譲れぬ反戦の願い」っていうような見出しだったかな?読んで、岸 恵子、ちょっとわかっていないって感じがしたな。ようちゃん2号が、わかっていないということもありえる話だよ。…続けるね。たぶん、ようちゃん2号の持つこの違和感は、特攻なんてのを戦争の象徴としてしまうと「今度は勝ちゃーいいのね」っていう空間を強めるんじゃないか?っていうところにあるような気がする。特攻を扱うと、構造的に負け戦を否定することはできても、勝つとわかっている戦争だったら肯定しちゃう感じがするんだよ。(「やらいでかー!」ってね)戦争を否定したいと本人は言いながら、負け戦を演じる(岸恵子ね)と、今度は勝てばいいんだねと、見る人に考えさせざるを得ないということが起こりえる。そういう、起こりえることに加担しているという自覚、そういう自覚が、岸 恵子にあるようには読めなかったの。「引き裂かれてある」という状態というのか、諦念というのかな?本当は、勝ち戦の悲惨さっていうことが表現できる日本の歴史があればいいのかもしれん。(あるのかもしれんが…)…しょうがないからこれからその歴史を作る…?…ほーら、勝ち戦を肯定したくなったでしょ?
2007年04月21日
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いきなり引用↓以下。------------------------------------------- (1) 記号を操作するとき、わたしたちは「見えない」コードに規制されている (2) 記号を操作するとき、わたしたちは「他者」になっている 思い切って単純化すれば、バルトの思想と方法は、この二つのテーゼに集約されるだろう。この二つのテーゼは、じつは同じひとつの事態を表裏ニ面から眺めてみたものである。(1)は「構造主義者」バルトのテーゼ、(2)は「ポスト構造主義者」バルトのテーゼであるというふうに言い換えてもよい。一九五〇―六〇年代の「構造主義者」バルトは、どちらかと言えば「わたしたちは自由に記号をあやつることができない」という「記号運用の被制約性」に重点を置いて記号論を練り上げた(これは構造主義者全員に共通する傾向である)。一方、七〇年代以降の「ポスト構造主義者」バルトは、「私は私のテクストを統御している『主人』ではない」という主体性の脆弱性のうちに、「コギト」の神話からの解放の契機を見いだした。一貫しているのは、「主体」(sujet)という西欧において不可疑とされてきた概念を攻略しようとするバルトの攻撃的な意思である。 「私は私がいま語っている言葉の主人ではない」。そのことを主体性の全権性の翳りとして否定的に捉えるにせよ、「私以外のもの」との交通による自己解放の機会として肯定的にとらえるにせよ、彼の記号学的思考はつねにこの根本的確信に基礎づけられている。-------------------------------------------以上↑引用。引用したのは、ちょっとこういう考え方を自分でちゃんと定着したいと思っているからだな。だから、引用するし、間違っていても使いまわそうとしたいんだな。(使っているうちに定着するんじゃないかという甘い期待があるの)昨日分の日記、そして以前に書いたもの(トラックバック)と関連することになると思うのだけれど、バルトのたどり着いたものを敷衍すると、 (1) 「私」を操作するとき、わたしたちは「見えない」コードに規制されている (2) 「私」を操作するとき、わたしたちは「他者」になっている っていうようなことがあるんじゃないかと思う。だけど、そういう理解がぜんぜんされていない感じがする。どうしたわけか、「自分は自分を完璧に使いまわせる」という変な確信を人は持っている感じがする。この、「自分は自分を完璧に使いまわせる」という確信は、実存主義が否定されたときに、もうすでに木っ端微塵になっているような気がする。でも、実存主義は生き延びているということなのかな?生き延びさせているとすると、たぶん、それは、法体系だとかそういうものが実存主義的なもので構成されているからなのではないか?って思ったりする。「私は私がいま行動している仕方の主人ではない」ってなっちゃうと、法律で罰するという基盤が失われるから、主体性があるという考え方に縛り付ける必要がある感じがする。そういう法体系だから「心神喪失」っていうので無罪を勝ち取ろうとするベクトルが働くのではないかな?
2007年04月20日
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…今度は、NHKのひとがやらかしたみたいだね。ようちゃん2号、道徳的観点でもって個人をいちいち批判するつもりにはなれないのね。(なぜなのかはトラックバック)ただし、ちょっと気になるところはあるな。それを表現してみたい。酒飲むと、なんかタガが外れてわいせつな行為をする人がいる。そういう人って、酒を飲むとわいせつな行為をすることもありえるという自覚があったのかな?って思う。自覚がなかったとすると、なんか自分のことがわかっていないって思える。自覚があったとすると、それでもやっちゃったっていうの、「どういうこと?」って思う。ようちゃん2号として問題と見るところは、タガが外れる契機っていうの、酒だけに限ったことじゃないと思う。例えば、「権力を握った」という自覚から、タガが外れるっていうこともあるだろうと思う。最近では、どっかの農協なんかで、それがあったみたいだね。「タガが外れる」ってことは、「本能に従ってしまう」ということかな?そして戦争なんかもそういう契機になりえると思う。こういうところ、へんに無自覚だと思う。無自覚にさせられているっていうことも「あり」かな?…ちょっと、すっ飛ぶ感じになるかもしれないけれど、そんで、試写会を見たわけではないのだけれど、『俺は、君のためにこそ死ににいく』っていうの、なんか自覚的でないと思う。こういうところも無自覚にするベクトルがあるような気がする。戦争なんだから「ぼくは、君のためにこそ殺しにいく」っていうのが、ホントでしょ?見るべきところが他にあるような気がするのね。
2007年04月19日
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主催者がなんかちょっとはずしている感じがしたのね。
2007年04月18日
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以下↓引用。------------------------------------------- 脳には不思議なことがたくさんあります。ただ、はっきりしていることは、「意識できること」よりも「無意識のまま脳が実行していること」のほうがはるかに多いということです。日常生活に思いを巡らすとき、もちろん意識に上ることしか意識できませんから、意識で感知しえたことのみが、あたかも「自分のすべて」であると勘違いしがちです。でも本当は、無意識の大海原にこそ、脳の真の活動が潜んでいます。-------------------------------------------以上↑引用。脳の一つの役割に、「意識してやっていたことを、無意識へと繰り込む」というのがあるのではないかと思う。「身体に覚えこませた」という状態は、結局、「脳が意識しないでもできるようになった」という状態なんだと思う。以下↓引用。------------------------------------------- 服のボタンを掛けている自分の姿を思い浮かべてください。幼い頃は、ボタンを掛けるという行為にはひどく苦労しました。今ではたやすくこなすことができます。家族と会話しながらでも、テレビを見ながらでも、滞った仕事のことを考えながらでも、ボタンを掛けることができます。ほとんど無意識です。掛けはじめは意識したかもしれませんが、開始してしまえば、後は指がオートマティックに動いて、ふと気づけばボタン掛けは終了しています。-------------------------------------------以上↑引用。一般的には「意識を無意識に繰り込むことが上手な人」を指して「頭のよい人」としている気がする。「意識しないでもできる人」というのかな?ようちゃん2号の場合、ボタン掛けは無意識でできるにせよ、無意識でできる領域が狭い感じがするのね。家に帰って、背広を無意識にハンガーに掛ける、っていうようなことができないかな?たぶん、無意識に脱ぎ散らかしている感じ…。(はじめから無意識…?)こうやって、日記を書いていても、いっこうにキーを打つ速度が早くならない。(←愚痴)でもね、無意識でできることが少ないということが、いろいろ考えることにつながっているような気がする。一般に言う「頭がよい人」というのは、「常識を疑わない人」ということにもなるのではないか?ってね、そんなふうにも思う。以下↓引用。------------------------------------------- (前略)二年半足らずの海外滞在でしたが、この間に自分の内面はずいぶんと変化したように感じます。 とくに「人」の営みが持つ゛温かみ″に親和感を覚えるようになったのは、かつて科学万能主義的な理系バカであった私からは想像のできない変化だと思います。「科学は何でも解決できる。仮に今では無理でも、いつかはこの世のすべてが科学的に説明できる」などという独りよがりな傲慢さは、今では完全に消えています。そもそも「科学的でないものは信じない」と言い張っていたあの頃、その文末の「信じる」「信じない」という盲信的なトートロジーの非科学性にまったく気づいていなかったわけです。今はむしろ、科学を゛人為″として捉え、その限界と可能性を想像するほうが、はるかに楽しく感じています。-------------------------------------------以上↑引用。普通の人は、いったん無意識になったことをもう一度意識化するということって、苦手なんじゃないかと思う。でも著者は、それができる人なんだと思う。そして、ようちゃん2号は、「こういう人こそ頭がいい」って言うんじゃないかな?って思う。
2007年04月17日
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Hとようちゃん2号、似ているところがあるってちょっと思った。何が欲しいか明確でないってところ…。それについて書いてみる。小さいころ、母がよく「今日は何が食べたい?」って俺と妹に聞いた。でもね、俺、「そんなこと聞くな!」って思っていた。なんでか?っていうと、妹が必ず「カレー」って言うからなんだよね。何が欲しかったか今、考えてみると、妹の言う「カレー以外」が食べたかったかな?でもね、そのときは、「わからない」としか答えられなかったな。お母さんはだれでも苦労しているんだと思う。確かに、毎回の献立考えるのって、大変だよ。(栄養のバランスとかも考えなくちゃ、でしょ?)元妻もよく聞くみたい。でも、聞くと、Kが決まって「カラ揚げ」と言うらしい。Kが言うのは、「お母さんの作るカラ揚げが食べたい」ということなんだろうね。話が飛躍するかもしれんけど、「日本人男性はマザコンだ」とか言われたり「『東京タワー』はマザコン小説だ」とか言う人は、母親の料理をうまいと思えなかった人のゴタクのように思ったりする。犬でさえ一宿一飯の恩義を忘れないって言うでしょ?(←犬への差別用語かな?)ちょっと話がズレたけど、しょうがない。
2007年04月16日
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雰囲気がHに少し似ていると思って、気になってた女優がいて、最近、その人の名前を知った。蒼井 優。今日、元妻に聞いてみたら、実際、周りから「似ている」と言われるらしい。自分だけ(親の贔屓目)じゃないとわかって、なんかホッとしたな。H、Kと同じスポーツをやっているのだけれど、Kほどは好きじゃないみたい。(って、Kがそのスポーツを好きすぎるって感じだけれど…)受験もあるので、辞める可能性が高いみたいだな。偏差値が60ちょっとあるらしいけれど、それがどんなだか、自分、見当がつかない。Kと違って、Hの方は、何がしたいのか、まだわからないみたい。それはそれで、なんか心配。
2007年04月15日
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元妻に電話で聞いたことだけれど、今年の夏が終わって3年生が引退したら、K、キャプテンになるみたい。「どうしようかと思っている」って言うから、「なんで?」って聞いたよ。元妻の心配しているのは、「歴代のキャプテンの中で一番へたくそがキャプテンになる。それでもいいのかな?」ってことらしい…。「チームの中の上手な子がキャプテンになるんじゃないの?」ってことだね。たぶんその通り、歴代のキャプテンの中では一番のへたくそかもしれないな。でもね、Kはチームの中で一番そのスポーツが好きな子なんじゃないかと思うんだよね。だったら、キャプテンになる資格は充分なような気がする。直接Kに聞いたわけではなくて、これも元妻情報だけれど、「全日本の選手になりたい」って思っているってことだもの。本当はね、中学生で将来を決めるのって、なんか早いような気がする。自分で決められるってすばらしいことだと思うけれど、いろいろなことに興味を持って、広い選択から選びとってもらいたいって思うんだよな。
2007年04月14日
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今、言語化したいと思っているのは、たぶん「構造主義でいうところの『構造』ってのは、いかにして発生しているのか?」ということなんだと思う。これが、構造主義の、今まで問われていない急所なんじゃないかな?
2007年04月13日
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12月末、5ヶ月の出向が終わった。それまで借金があったのだけれど、清算できただけでなくバイクを現金で購入できた。それと、自分の夢のための資金というのかな?ある人の口座にお金をいくばくか振り込んだ。1月、前の仕事への復帰。正月休みボケと締め日の関係で、必要な金額に行かなくて会社からお金を借りた。2月、ちょっと前の勘が取り戻せたかな?と思いかけたのもつかの間、とある週末、バイクで30kmオーバーで捕まった。2月後半、3月からの出向が決まった。3月初旬の出頭命令が出ていたのだけれど、3月の平日に私用で会社を抜けるなんて無理。なんで、電話して2月中に出頭しても良いか電話して確認したら、オーケー。ただし、その場で罰金を払わないといけないらしい…。となると月末でなければ、払えない。2月末に出頭してお金払って、その足で免許センターに行ったけれど、その日に講習を受けられる時間には間に合わなかった。だから、一か月免停を自動的に選択。(郵便で免許証送ってくれる手続きを取った)出向先の社有車が使えるように現場責任者は交渉してくれたけれど、結局、上司の判断で断られたという。ところがようちゃん2号は、免許停止中だから願ったりかなったり。(停止中ということは伝えずに済んだ)一か月定期で通って、外に出なきゃいけない仕事は電車・バスで移動。3月中旬、前の出向先で解決せずに引き継いでもらった懸案が爆発したとの連絡あり。(ことの発端自体が12月初旬じゃなかったかな?)爆発しないで解決していれば特に問題とならなかったはずのことを問題とされる。その件で、お金が必要だったのだけれど、すぐには用意できなかった。けれど、とりあえず自分が問題とされたことにだけは手当てがつけれた。この件で、自分で自分にがっかりというか、へこたれちゃったな。手をつけずに残しておけれると思って預けておいたお金に手をつけちゃったからだな。(少しでよかったのだけれど、全額返された)なんか、へたくそというか計画性がないと言うか…。その人に対して、どうにもカッコがつかんし…。3月末、会社から給料が出た。借金を差っ引かれていないと思ったほどのお金が入った。でも、4月、5月で税金を払わなくちゃならないので(分割払い)、返してもらったお金を合わせても、もしかしたらトントン。とりあえずは、なんとかなっているというか、なんとかしかなっていない…。うまく行っているのだか、そうでないんだか…、自分ではわからない。
2007年04月12日
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一ヶ月弱なのかな?日記を書けなかったのは、むちゃくちゃ忙しかったということもあるけれど、「自分が自分自身にがっかりしちゃった」ってことが大きいと思う。誰が悪いってことではなくて、なんか起きていることがチグハグなんだよね。そういうことからぼちぼち書いていこうと思う。ご返事は、すみません、もうちょっと待ってくださいね。
2007年04月11日
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『愛と青春の旅立ち』のまんまパクリで、呆然とした。違いといえば、『愛と青春の旅立ち』では、女性からの憧れの対象であるのが、海保はそういう評価ではなくて、本人も少し自虐的なところ。それが、やっと違うものにみせているだけ、っていう感じ。日本映画ならこうなっちゃうっていうことを見せるのが意図なのかな?
2007年04月10日
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「ちゃんと負けてない」からこういう映画ができるのかな?って思った。負け戦を語ることに、それほど意味があるとは思えんの。↑こういう書き方に反感を覚える人はいると思うのだけれど、戦艦大和って、見ようによっちゃ無用の長物の象徴でしょ?「負けるにしても、負け方がある」っていうことが言いたいのだとすると、日本人は負けることを構造化されているように思う。ちょっと言い方変えるけれど、「上がバカでも我慢しろ!」っていうことを刷り込まされているというのかな?それなりに感動するけれど、ここには、なんの学びもない感じ。
2007年04月09日
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今日、床屋に行ったのね。(タイムスタンプを見てもらうとわかるのだけれど、行ったのは5月10日、日記の空きをあったことで埋めている)1000円でカットしてくれるっていうやつ。たぶん、10年にはならないにしても、8年くらいはそれで通していて、その間、普通の床屋に行ったことがない。そこ行って「短くして」って言うだけで、他に注文つけないの。そうすると、「耳は出しておきますか?」くらい聞いてくれて、「はい」とか「うん」とか答えて、…そうか「刈り上げないでいいですか?」とも聞かれるな。「はい」って言って、それ以降はなんか聞かれても「任せる」って言う。そこでもう一度、店員さんがなんか言ってきても「任せる」って言う。1000円だから(まして、3ヶ月に1度ほどだから)注文をつけるのがおこがましいっていうことではないのね。そもそも「ここをこうしてくれ」とか言わないの、普通の床屋さんに行っていたときと変わらない。専門の人なんだから、その人のやりやすいようにやってもらえばいいっていうスタンス。なんか、ファッションって言うの?そういうのにこだわるの、みっともないというような美意識みたいのが自分にはあるみたい。じつは今回、いつもより早く行くことになったのね。前回、こめかみあたりの髪の毛が長くなったのがやけに気になって、「ここが気になるから…」って言ったのがアダになったみたいで、いつも言う「短くして」っていうの言い忘れた。んで、たぶん指摘した部分と、耳を出すくらいだけ切って、終わっちゃったんだと思う。だから、いつもより早く床屋に行くことになったわけ。天然パーマのせいか、こまめに行かなくても短くしときさえすれば、けっこう3ヶ月、長ければ4ヶ月くらいはもつから、なかなかコストパフォーマンスのいい髪の毛だとは思っている。ふう、やっと日記タイトルに関係する話になってくるのだけれど、今回、「短くして」って言ったら、「三分の一くらい切りますか?」って聞かれたのね。三分の一ってのがわからんから、まあ任せようという気持ちで「はい」って答えたのね。そしたら重ねて、人差し指と中指をそろえて横にして、「指、二本分くらいで…」とも…。答えは当然、「はい」。んで、店員さん髪を梳き始めたのだけれど、はたと手を止めて、「一ヶ月か一ヵ月半前に散髪しました?」って聞いてきた。ようちゃん2号、びっくりしたな。「たぶんその通りだと思うけれど、なんでわかるの?」ってね。…聞いたよ。1000円カットに行くようになってから、髪を切ってもらう時には、よっぽどのことがないと黙ったまんまなんだけれどね。店員さんの言うには、「全体には三分の一切ればいいと思ったけれど、耳のところを梳いてみたら、1センチから1.5センチ。前回、耳のところは出るようにそろえているはずで、ふつう人の髪の毛は1ケ月に1センチから1.5センチ伸びるから…」ってことだった。(梳いてからわかったのは、やっぱりようちゃん2号が天然パーマだからだな)「さすがですね」って、それで、もうちょっとだけ話をすることになった。「よくお客さんから、『2、3センチ切って』って言われることがあるんですけど、その長さっていうのが、お客さんによってばらばらなんですよね。だから、実際、2、3センチがどれくらいか、測ったこともある。ちょうど、今使っているクシが、2センチくらいなんですよ。指で、髪の切る長さを示したのも、そういうことからなんです。」人の、「普通」っていう言葉がどれだけいい加減なものか、自分でもよく経験していることだから、こういう苦労話というか、…ちょっと違う…、人の感覚に沿おうという感じ、すごく好感を持ったな。1000円カットのシステムを知っている人は周知のことだろうけれど、散髪のときに使ったクシはもらえるのね。いつもはもらわないのだけれど、今回はもらった。俺の目から見ると、クシは2センチ以上あると思ったからなの。散髪終わって、クシをもらってから、その人に聞いてみた。「このクシ、2センチよりもう少し大きくない?」ってね。そしたら、「その通りで、一番短いところで、2.2センチ、一番長いところで2.5センチ。さすがですね。」って言われた。…なんか、得意になった。
2007年04月08日
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引き際がなんだか鮮やか過ぎるからなのか、いろいろ憶測が飛んでいたでしょう?自分なりに、なにかわかるかな?と思って図書館で借りた。読んで、単純に、「本人が求めているものが芸能界にない」という理解でいいんじゃないかと思った。ところが、これがどうにも理解できない人がいるみたい。そういう人は「有名であること、流行っているもの、稼げること」に価値があって、それ以外には価値ってものが認められなくなっている、っていう感じがする。自分が刷り込まれているものに鈍感なだけなんじゃないかな?いいことなのか悪いことなのか、それは判断を保留しておくけれど、家出して気ままにしていることが「楽しくてしょうがなかった」っていう人が、気ままにできないっていうことがどれだけ不自由に感じるか、わかりそうなものなんだけれど、そういう感覚がわからんのだとすると、ほとんど重症っていう感じがする。確かに芸能界に適応はしていたんだろう、していたのだろうけれど、「やっぱ違う」ってのが本人にはあったんじゃないかな?「適応しているのだからもったいない」っていう感覚が、「わからない人」にはわからないんだろうな。穿ちすぎかもしれないけれど、体調が悪くなったってのも本当のことで、それは私には芸能界があわないっていうのの、本人の体からのメッセージという感じがした。…そうか、ちょっと飛ぶかもしれないけれど、雅子さんが体調が悪いってのもそういうの、あるんじゃないかな?そういうの考えないで、「ちゃんと公務をしなくちゃだめ」っていうの、どんな環境でも適応がうまくできると勘違いしている人のたわごとと思ったりする。うーん、もうちょっと…。飯島 愛 っていう人特有か、それを女性一般に適用していいかちょっと判断は迷うところだけれど、女性が男性に求めているものと、女性に男性が求められていると思っているものに差があって、それはなかなか埋まらないものなんじゃないかと思ったな。この人の「いい男」っていう判断基準がどこにあるのか、俺にはさっぱりわからなかったな。そんで、わかったからといって、たぶんそれにあわせようとはぜんぜん思わない。ただ、差があるということだけだな。
2007年04月07日
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いきなり引用↓以下。------------------------------------------- ところで、よく年の一九四〇年(昭和十五年)という年は、朝鮮にとって、たいへんな年になりました。 およそ三千万人いる朝鮮人民全員が、日本式に名まえをあらためよ、という日本政府からの命令がくだったのです。 そして、これまでいじょうに、朝鮮語をうばう国の政治のやり方をつよめていきました。(中略) 人びとは長く、だいじにしてきた朝鮮語をうしなうまいとしつづけました。 といっても、役場にとどけてしまった日本式名まえは、けすことができません。 とうさんのヘンジュは、河本正二となり、セファンは、河本吉春、ジェハにいさんは、河本秋男とかえました。゛河本″というのは、しんるいのおじさんたちが集まってきめたのです。-------------------------------------------以上↑引用。これ「姓氏改名」っていうやつだね。むりやり日本人にしちゃったのかな?ってのが疑問なところ…。ある程度、年齢の行った人なら常識の部類なんだろうけれど、ようちゃん2号、たぶんここらへんのことは、教科書以上の知識はないんだと思う。んで、たぶん無理やり日本人にしちゃったんだと思う。でも、だとすると、「姓氏改名」っていう呼称はどうなんだろう?とも思う。(実態を反映していない感じ…)以下↓引用。------------------------------------------- 空腹でせなかをかがめるようにしながら、のきをつらねるべつの小屋の人たちと広場にならぶと、朝鮮人だけの点呼がはじまりました。 逃げだしたものはいないか名まえを一いちよんでたしかめるのです。 名まえは、すべて日本名です。 全員の点呼がおわると、天皇のすむ東の空にむかって、深く頭をさげさせられました。そればかりか、軍服の男がきて、゛一つ、われらは皇国臣民なり。忠誠をもって君国に報ぜん。″ などという、むずかしいちかいのことばを合唱させられました。-------------------------------------------以上↑引用。「皇国臣民なり」って言わしてるんだったら、日本人にしたってことじゃないかな?だったら「姓氏改名」っていうより「国籍編入」とかっていうような呼び方のほうが、正しいんじゃないかと思う。変なところに引っかかっているのかもしれん…。(ちょっと関連すると思うところをトラックバック)
2007年04月06日
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いきなり引用↓以下。-------------------------------------------「私」の生命も「私」のものではないし、「私」身体も完全に「私」のものとは言えない。もっと言えば、「私」の心や意識も「私」のものではないのは、現代思想の常識である。「私」の心はみんな(他人)からつくられている。「私」が内面で独自につくりあげたものではない。「私」たちは気づいたとき「私」だったのであり、「私」は最初から「私」を意識したり、「私」をつくろうとしたわけではない。「私」は「私」の元ではない。つまり、「私」は「私」でありながら、「私」という独自の精神世界を持ちながら、「私」独自ではありえない。もっとも、「私」独自でありえないから「私」たちは「私」でありえるのであり、本当に「私」独自だったら「私」ではなくなり(ひとの一般性も失い)、精神的には別の何者かになってしまっている。それが「私」の真実である。 ただ、所有ということになると、「私」の権利が圧倒的に認められることになる。それが近代である。そこでは、「私」は確定的なものとなる。経済的観念は「私」を絶対視する。だから、所有は「私」的な世界であり、所有してしまえば、所有の内実については、外部(「公」)からは決して問われない構造になっている。-------------------------------------------以上↑引用。現代の子供は気がついたときから消費社会にいるわけで、そのルールも説明されないままゲームに参加させられていると言えるのではないかと思う。(これはコトバと同じ構造があるように思う。トラックバック)消費社会というのは、コインを入れればガムが出るという、等価性に特徴があるかな?財貨とともに「私」自身をも所有しているという感覚が強調されているということが起きている感じがする。所有した気になっているから、広がりがないというか…。換金可能と見えがちの「学力」を手に入れようとはするけれど、「知」への飛躍というところには、なかなか行けない感じ。換金性の高い、つまりはシンプルでわかりやすくあることを求められていると子どもたちは思い込まされているような気がする。(社会はそういうゲームで構成されているって思っちゃっている感じがする)…ちょっとまとまらない。
2007年04月05日
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今回、著書の内容にはあまり触れるつもりはないのね。喫緊って言うと大げさだけれど、今、気になっている部分をあげる。著書の中に引用されていた文章。以下↓引用。-------------------------------------------「出征者に対して性欲を長く抑制せしめることは自然に支那夫人に対して暴行することゝならうと兵站は気をきかせ……其の主要なる目的は性の満足により将兵の気分を和げ皇軍威厳を傷つける強姦を妨ぐにあった……軍当局は軍人の性欲は抑えることは不可能だとして支那夫人を強姦せぬ様にと慰安所を設け……将校は率先して慰安所へ行き兵にも是をすゝめ慰安所は公用と定められた……慰安所へ行けぬ位の兵は気違だと罵つた将校もあつた」(「戦場ニ於ケル特殊現象ト其対策」)。-------------------------------------------引用↑以上。今読むと、差別用語満載の文章だけれど、これ、防衛庁に保管され、陸軍用箋に清書されていた、大学教授の「研究」だということだよ。差別用語を使っているということを非難したいのではないのね。時代が変われば、常識も変わるというようなことなだけなんじゃないかな?ここでようちゃん2号が問題としたいのは、内容のことだな。戦場という特殊な環境の中で、兵隊が一般市民を強姦しないように、慰安所が設けられた、ってことで、こういうのが戦争のリアリティだと思う。実際には、敗戦後、こういう研究が生かされてなのか、米軍兵士がその後、ご相伴に預かったっていうか…。(白状するけれど、ちょっとうらやましい…)以下↓引用。------------------------------------------- 敗戦の三日後、四五年八月一八日づけ通達いわく。「警察署長は営業については芸妓、公娼私娼、女給、酌婦、常習密売淫者を優先的に之を充当するものとす」(「外国軍駐屯地ニ於ケル慰安施設ニ関スル内務省警保局長通達」)。八月二六日には特殊慰安施設協会が設立され、翌日には警視庁が許可証を発行した。結団式が行われたのはなんと宮城(皇居)前広場だった。声明文はいう。「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」(神田文人『昭和の歴史8』所収)。「新日本女性」は、こういう文脈で使われたのである。-------------------------------------------以上↑引用。「戦争ができる国」っていうの、こういうことも覚悟するということだと思う。安倍首相が慰安婦問題で謝ったとかいうことらしいけれど、また戦争をするんだったら、安倍さんにはならないにしても、もう一度、首相が謝ることになるんじゃないかしらん、って思うんだよ。どうも、そういうリアリティというか、観点が大勢には抜け落ちているような気がするのね。
2007年04月04日
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構造主義は批判されていないという自分なりの勘があるのね。ありていに言うと「ポスト構造主義は、構造主義を批判していないんじゃないか?」っていう疑問。ポスト構造主義は、構造があること自体を批判していなくて、無批判に構造があることを前提としちゃったような気がする。フロイトとかユングを勉強しましたっていう人が、超自我とか抑圧とかを前提として疑わないのと似ているのかな?疑った人もいるかもしれんが、いつのまにかそれが前提とされているような気がする。自分なりの理解で言うと、フロイトやユングを勉強した人は、構造主義の考え方ををそもそも受け入れていると思うのだけれど、そういう自覚がその人にない感じがするんだよ。そこに葛藤がないので、流されるという構造があるように思う。
2007年04月03日
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自分を含めて、気分と風説に流されやすい、っていう構造が日本人にはあると思う。どっちかというと、「気分と風説に流されやすい」という構造を保っていたほうが、自分にとって有利と考える人が多いから、実際に気分と風説に流されやすいってことになっているんだろうね。俺、これ、あまりいい傾向だとは思えないのね。だから、自分、ちょっとそういうのに「待った」をかけたいみたいだよ。待ってもらうには、次善の策でしかないけれど、気分と風説に流されない気分と風説が作りたいって感じ…?本当は、気分と風説に流される構造がどこから来ているのか?っていうことを早く言語化できればいいんだと思う。
2007年04月02日
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このところ、構造ということを考えている。考えているのだけれど、自分ではなかなか言葉が出てこない感じ…。しばらくは、構造というものについて言語化できていると思われる人の文章を引用して、触発されたことを書いてみようと思う。以下↓引用。-------------------------------------------人間と言うものは自ら設定した思考の枠組みに捕囚されると思考が硬直して、容易にそこから抜け出すことができない。そこに、悲劇が待っていてもである。かれらは、悲劇に吸い寄せられるようにして暴発する。暴発による以外には、その枠組みを突破できるすべがないかのように。このところ、この枠組み思考による呪縛ということがずっと気になっていたのである。ほとんど同じ環境に生活し、同じ言語を使い、同じ情報に囲まれていても、一方は左に進路をとり、一方は右に進路をとる。ひとりはテロリストになり、ひとりは人道主義者になる。ひとりはモダニストになり、ひとりは復古主義者になる。ひとりは護憲派になり、ひとりは改憲派になる。ひとりは拝金主義者になり、ひとりは義理と人情の渡世を生きている。かれらはお互いに非妥協的であり、憎みあう。人はそれぞれだというのは、もっともらしいが、当たっていない。どちらも、本当はひとりの人間の中にある可能性なのだと思うべきなのだ。だから、どっちがどっちかということ自体はあまりたいしたことではない。すくなくとも、そう思ってみることは必要なことだ。問題があるとすれば、「子別れ」や「芝浜」のように、片方の端から、もう一方の端へと引き返すということができなくなるということであり、そこに思考のアポリアがあると俺は思う。-------------------------------------------引用↑以上。唐突だけれど、マルクス主義っていうの、自分から見ると構造を捉えたものに過ぎないと思うのだけれど、それが革命の原動力になっちゃったっていうのが、自分にはどうにも不思議なんだよね。自分としては、読んだ人…なのかな?…が、「【思考の枠組みに捕囚され】た」としか考えようがない。んで、「捕囚された」とわかった人は転向するのかな?ところが、転向した人っていうのは、そもそも自分が何に囚われたかを見ていないような気がする。そこが、マルクス主義が本当に理解されていないのではないか?と思えるところなんだな。時代遅れなんだとすると、いかに時代遅れなのかをちゃんと理解して、それから葬ってあげなければならないと思う。
2007年04月01日
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「元気でやっているんだ…。よかった。」って思ったかな?もしかしたら、俺に関係なく元気でいるということが、なんかちょっと残念なような気もしたかな?…そんなことを書くつもり。つづけ…られるかどうかわからん。
2007年03月31日
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「Mちゃんと、Sの子だから、頭いいから大丈夫」って言ったことがある。つづく。
2007年03月30日
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大学病院で手術して、入院中に傷口が開いたことがあった。俺、そうなってしまった現場に居合わせたけれど、何もできないし、何も言ってあげられなかった。つづく。
2007年03月29日
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出向先の駅の反対側に豆腐を看板にしている店があって気になっていたのね。(え-と、言わずもがなですが、看板が豆腐でできているんじゃないよ。)豆腐じゃなくて、「豆富」って書いてあるお店。(←ありそげでしょ?)あんま「こだわりの…」っての好きじゃないのだけれど、まあ、おいしいのかな?…と。で、入ってみたらなかなかおしゃれなお店、若い人たちがはつらつと働いていた。ようちゃん2号、ちょっとへそ曲がりなのかな?豆腐、そのまま頼まんの。ざーっとメニューを見て「卯の花のなんちゃら」ってあったから、「おから」って注文した。ようちゃん2号的には、なんかそこの豆腐の実力ってのがわかりそうな感じに思ったのね。丁寧に炊いてあったらおいしいでしょう?(お金払って食うようなものじゃないかもしれんけど…)よく、すし屋に行ったらコハダとか玉子を頼むようなもん?んだら、ひーっ、その言葉、通じなかった。(←通じなかったのよー)ちょっと驚いた。驚いたけれど、なんかそこで「忌み言葉」っていうことを考えたな。両方知っていて、意味はわかっている上で、ただし、使うのを避ける言葉って言うのが「忌み言葉」ってことかな?こういうこと、もしかしたら大事なことに思うのね。なんか、教育、ってことを考えちゃったな。両方教えなくちゃいけないとかそういうことじゃないのね。知っていて敢えて使わないというようなところに知性みたいのがあって、そういうことを教えるのが教育なんじゃないかな?ってちょっと思ったわけ。それが、なんか、こっちだけ知っときゃいいよって感じになっているのが今の教育の現状かな?そんで、もっというと差別語と忌み語っていうのかな?それがなんか、ごっちゃになっている感じもしたりする…。
2007年03月28日
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Mちゃんの旦那に本を薦めた。
2007年03月27日
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たぶん、俺と似ている。つづく
2007年03月26日
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中吊りで見たのだけれど、浅田真央語録ってのがあるらしい…。これ、自分としては長嶋茂雄語録と近いように思うんだな。たぶん、全体として肯定的会話ってことになるんじゃないかと思う。よくわからんが書いてみる…。タイトルの「ノーミスしてぇ」っていうのだけれど、逆に「○○してはならない」という言い方は、往々にしてその、○○を実現しちゃうことが多いらしいのね。(この場合、○○の中には「ミス」が入るね)否定すると、なんか○○を強調しちゃうっていうことなのかな?だから、そういうのやめて肯定的な会話にしよう!って感じ…?するとやっぱ、「ノーミスして」って言葉になるかもしれん…。これ、英語表現が肯定的とよく言われることと通じるかな?I have no money.(わたしはお金が無いのを持っている)えーと、ようちゃん2号、英語苦手なのね。んで、困ったことに、その通りお金ないの。で、結論。肯定的に変えようがなにしようが、ないものは無い!
2007年03月25日
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フィギアスケート女子シングルス、見てた。んで、ちょっと物足りなさがあったな。たぶん、「美しさ」の中でも「妖艶さ」みたいな要素が全体に欠けていたからじゃないかと思う。自分をどこの極みにもって行きたいかという青写真みたいなものが、選手たちそれぞれのなかになかったってことなのかな?曲、だけではなくて、なにかに踊らされていた感じ…。
2007年03月24日
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気丈な女性と思っていたMちゃんが、悲しくて…?泣いたときのこと。「ハンカチ一つ買ってもらったことがない」つづく…であろう…。
2007年03月23日
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今日、夕ご飯食べながらテレビを見ていたのね。んだら、○リカン便のコマーシャルをやっていた。○通って、○京○ィズニーランド(←伏字が全然役に立っていないけれど…)のスポンサーかなんかなのかな?んで、思ったこと…。10年後、あるいは5年、1年でもいいし、20年っていうスパンでもいいかな?そういう日に贈り物を届けるっていうサービスがあってもいいかな?ってね、思ったの。本当に社会にとって必要なサービスなら、それをしている会社がそれくらい存続していてもいいよね。このごろ、いろいろな不祥事が続いて起きているけれど、会社って、長く続けて行くっていう、そういう責任もあるんだと思うんだよ。
2007年03月22日
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俺が進行をした。司会までしたか?…たぶん…した。つづく。と思う。
2007年03月21日
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異動の季節だね。とくに強く誘われたわけではないのだけれど、出向している先のブロックの送別会に出席させてもらった。んで、別に強制されたわけでもないんだけれど、それと、お世話になっているからという強迫観念からでもなく、なんか自然のままカラオケ、一曲歌った。たぶん、ちょっと前の(っていつを指すのか自分でもよくわからないのだけれど)自分だったら、「盛り上げなくてはいけない」とか、そういう気持ちから動いていたような気がする。そういう囚われがなかったぶんなのか、そんなにウケも悪くなかったみたい。むしろ、好意を持ってもらえたみたい。翌々日(春分の日があったからね)、内線電話を取っていたら、名前を覚えてくれていて、「よかった」とか言ってくれた人が何人かいたよ。
2007年03月20日
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選挙制度のことで投稿をいただいた。読んだのは、帰りの電車の中なんだけれど、読んですぐに答えられる気がしなかったな。そういう投稿は、しばらくしょうがないから、ちょっと頭の隅に残しておくだけにするのね。んで、夕食食べ終わって風呂に入るときにパッとようちゃん2号なりの答えが浮かんだ…。(ようちゃん2号的には、それでも早いレスポンスかもしれん…)今の選挙制度の問題って、結局、「誰も勝っていない」っていうことに問題があるんじゃないかな?って思った。有権者の半数に満たない人が投票に行って、いやでもなんでも、それで誰かが決まっちゃうでしょう?だから、選挙に行かなかった人は負けている。で、投票したのに自分の投票した人が当選しない→当然負け…。投票して、自分の投票した人が当選した。あるいは立候補して得票数が一番だかったから当選したってのも、中身は投票していない人だけで半数以上いる…としたら、どう見たって負けじゃん、こんなもの…。それを「うへへー、勝った!」だけなら無邪気でいいけれど、それをどうしたわけか「民意を得た」…なーんていうの、本当に勝っているの?っていうより、負け惜しみに近い感じがする。そんなのにあろうことか、定型の文句なのか、胸張って言っちゃえることに、むなしさを感じないかな?…感じないんだとすると、なんか、価値観を刷り込まれている感じがする。(自分で好んで刷り込んでいるとも言えるかもしれないけれど、ただただ「勝ち負け」をやらされているよね。)「勝てば官軍」、「巨人大鵬玉子焼き」(←古い…?)、「長いものには巻かれろ」、「民は知らしむべからずよらしむべし」、「戦えば必ず勝つ」、…みたいな…。だれか一人でも、「うるせー、こんなもん八百長じゃ!投票率が少なくとも75%ない限り、俺は自分が当選したなんて認めんぞ!」っていう人が出てきてもいいんじゃないかな?(いたかもしれんが…)けっきょく「勝ちゃーいいのよ」っていう、バカな学びしかもたらさないでしょ?そんなだから当選した人がみんな結局、お山の大将になっちゃうんじゃないかな?結局、今、問題なのは、みーんな負けさせられる選挙制度でしかないってことなんじゃないかな?(誰も勝たない、ってこと)「おっしゃー!今回、投票したい人がいなかったから、選挙行かなかったけれど、行かない人を50%以上獲得したから勝ったー!」とか、そういう制度にならんかな?その場合、当選させたい人を輩出できなかった地域(国ってのも含めてね)っていうことで、負けは負けなんだろうけれど、そこをちゃんと負けない限り、選ばれるの、サル山のボスしかいなくなるんじゃないかな?今、うちの地元、そういう人がやっている感じ…。だれ、とは言わないんだけれどね。しつこくなるけれど、負けを負けと認めないから、目先の勝ち負けしかなくて、それで投票率が上がらないんだと思う。「黙ってると、こんなバカが当選しちゃうんだから投票しろ!」っていうの、かえって大負けを作る感じがするんだよ。
2007年03月19日
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候補が複数いる今の状態だと、石原さんが有利だね。ブログやっている人はまだ意識が高いだろうけれど、それ以外の人で、マニュフェストだとかを丹念に調べて誰に投票するか決める人がいるようには思えないもの。黒川さん…?っていったっけか?…の身の処し方がネックになるんじゃないかな?でも、この人も結局は降りれなくて、そんで票が分散しちゃって、その中では多い得票ってことで石原さんになるっていうのが、今の候補者だと一番わかりやすい着地点じゃないかな?「オンドレが出たから、石原さんが当選しちまったじゃねーか」って、選挙が終わってから言っても、黒川さんも責任の取りようもないだろうね。…なんとかならんかな?
2007年03月18日
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堀江さんと村上さんのやったことってあんま変わらないんだと思うのだけれど、堀江さんに厳しくて、村上さんには甘くなるような内容を持っているような感じがあるな。(いつもの勘だけだからね)たぶん、それでも収拾がつかなくて、これ以降、大きく見わたしてみると整合を欠く判決が増えていきそうな感じがする。そんで、日興コーディアルに甘い感じになるような気がする。
2007年03月17日
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Kのことで書くつもりだけれど、今はまだ書かないのね。少なくとも一週間ぐらい書かずにこのままにしておく。----------------------------------------書き始めるのね。この日、Kのことで相談したいという元妻からのメールがあったのね。気になって電話したら、家庭内暴力があったってことらしいが、あんま詳しいことは聞けなかった。結局、この日の夜、Kととあるところで会ったのだけれど、なんにも話をしなかったな。そんなところに元妻が後から来て、「もう夜も遅いから」ってことで、聞けずじまい。後から思うことなのだけれど、元妻、俺とKがとりあえず会えばいいって最初から思っていたんじゃないかと思う。「ちゃんと言うことを聞かない子は、お父さんのところに行けば?って私は考えているよ」っていうことを、Kがわかればいいってことだったんじゃないかな?Kと話はできなかったけれど、K、「なんで来たんだ」っていう、責めるようなオーラは発していたからね。元妻に便利に使われている感じではあるな。そのうちそういう、なんていうのか、小手先のことでは通用しなくなるときが来るとは思う。
2007年03月16日
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「あんたの逃げ方を一番知っているのは、私たちなんだよ」っていうMちゃんからもらった言葉について、書くつもり…。
2007年03月15日
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大学教授なのかな?のおじさんに、「人は星座をどうして星座として認識できるか」ということを教えている夢を見た。脳の認識の仕方というようなことを、今、漠然と考え続けていて、そういうことが自分の中でゆっくりまとまりつつあるのかもしれない。…と書いて、ちょっと思ったこと。正解のない答えを探し続けることに知性っていうのがあるような気がする。多くの政治家の場合、正解のない答えを正解のように述べるっていう傾向があって、多くの科学信奉者の場合、正解のある問題しか扱わないっていうようなことがあるのではないかな?
2007年03月14日
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