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2019年01月08日
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不純物を強力に吸着する麦飯石(ばくはんせき)が含まれているので高い洗浄力があります。
そのためメイクの汚れや古い角質、
皮脂の汚れまでスッキリ落としてくれます。
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(センシティブザイフ)
キメの細かい柔らかな泡でまっさらな素肌へと仕上げます。
この石鹸には16種類の保湿成分も含まれているので、
この段階で潤いがあります。
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洗顔であれ化粧水を塗るであれ、
肌をこすることは肌へのダメージになってしまいます。
そこでVERNALではスプレーで潤すことに
着目しました!
微粒子ミストだから肌の奥※までしっかり潤してくれます!
※角質層まで
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洗顔でキレイになり潤った肌に、
さらに潤いを与えることでお肌を保護します。
お肌の常在菌バランスも保ってくれるので、
肌トラブルを遠ざけます!
この機会にぜひ試してみませんか?
2018年11月26日
華やかに化粧をすることよりも、慎ましい化粧へ
昭和10年代、にわかに戦時色を帯びていく日本。そんな中、日本女性のよそおいはどのように変化したのでしょうか。今回は戦中の女性たちのファッション、化粧、髪型をみてみましょう。
ブラウスとスカートから防空頭巾ともんぺに
昭和10年代頃までは欧米から入ってくるファッション文化を取り入れ、華やかなよそおいを楽しんでいた女性たち。それが昭和12年、日中戦争が始まり、戦時色が強くなってくると着物の柄に軍国調のものが現れたりと、その様子はだんだんと変化していきました。そして昭和15年には、奢侈品製造販売規則が発令、昭和17年には購入できる衣服の量が年齢によって制限されるようになったのです。
当時、丈夫で質の良い繊維の多くは軍需用に消費されていました。そのため、婦人雑誌では、家庭にある布や着物、学生時代の制服をリフォームして、シンプルで活動しやすさに重点を置いた洋服を手作りすることが紹介されるようになります。また戦局が悪化していく頃には、多くの女性たちは、非常時に備え、もんぺと防空頭巾が日常着になっていきました。
華やかに化粧をすることよりも、慎ましい化粧へ
質素倹約で切り詰めた生活がよぎなくされる中で、女性の化粧も厳しい規制を受けるようになります。昭和12年には、輸入化粧品は贅沢品として規制され、昭和14年には驚いたことに文部省が口紅や白粉、頬紅の禁止を通達しました。こうした中で、白粉や紅、クリームといった化粧品はだんだんと手に入りにくくなっていきました。
婦人向け雑誌にもその影響は色濃く、昭和10年代後半には、それまで掲載していたメークや肌のお手入れのしかたといった美容に関する記事が少なくなっていきます。戦前のような最新のファッションや髪型に合わせた化粧といったおしゃれに対して、自粛が呼びかけられるようになったのです。化粧品の広告をみても時代を反映した「健康な肌」や「肌荒れ防止」「手軽」「節約」「簡素な化粧」といった内容になっていったことがわかります。
華やかなウェーブヘア全盛から一転、質素な戦中スタイルへ
大正時代末期から鏝を使ったウェーブヘアが流行していましたが、昭和初期には日本にも電気でウェーブをつけるパーマネントウエーブが入ってきていました。パーマネントウェーブは鏝を使ったウェーブとは違い、美容院での施術時間も長く、料金も従来のものより高価だったにもかかわらず、大流行していました。
しかし、昭和13年には警視庁によって業者の新設や移設が禁止。また、翌14年には「パーマネントはやめましょう」との追放運動が起こり、パーマネントウェーブは次第に自粛されるようになっていきました。
かわって登場してくる髪型は、黒髪の美しさをそのまま表現したもので、その割には手間もかからないものでした。例えば、銃後髷と呼ばれる髪型は、鏝も電気も使わず、3分で結える髪型として紹介されました。
戦前まで欧米の文化を積極的に取り入れ、女性たちも新しいよそおい、化粧に目覚め美容の近代化が進みました。
しかし、戦時中は一転して、おしゃれどころではない空白期間となります。それでも、戦中におさえつけられていたおしゃれ心が、昭和20年に終戦を迎えてから、ゆっくりと取り戻されていくことになります。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『整容』/昭和15年、小幡恵津子著
『昭和家庭史年表』/河出書房新社
ブラウスとスカートから防空頭巾ともんぺに
昭和10年代頃までは欧米から入ってくるファッション文化を取り入れ、華やかなよそおいを楽しんでいた女性たち。それが昭和12年、日中戦争が始まり、戦時色が強くなってくると着物の柄に軍国調のものが現れたりと、その様子はだんだんと変化していきました。そして昭和15年には、奢侈品製造販売規則が発令、昭和17年には購入できる衣服の量が年齢によって制限されるようになったのです。
当時、丈夫で質の良い繊維の多くは軍需用に消費されていました。そのため、婦人雑誌では、家庭にある布や着物、学生時代の制服をリフォームして、シンプルで活動しやすさに重点を置いた洋服を手作りすることが紹介されるようになります。また戦局が悪化していく頃には、多くの女性たちは、非常時に備え、もんぺと防空頭巾が日常着になっていきました。
華やかに化粧をすることよりも、慎ましい化粧へ
質素倹約で切り詰めた生活がよぎなくされる中で、女性の化粧も厳しい規制を受けるようになります。昭和12年には、輸入化粧品は贅沢品として規制され、昭和14年には驚いたことに文部省が口紅や白粉、頬紅の禁止を通達しました。こうした中で、白粉や紅、クリームといった化粧品はだんだんと手に入りにくくなっていきました。
婦人向け雑誌にもその影響は色濃く、昭和10年代後半には、それまで掲載していたメークや肌のお手入れのしかたといった美容に関する記事が少なくなっていきます。戦前のような最新のファッションや髪型に合わせた化粧といったおしゃれに対して、自粛が呼びかけられるようになったのです。化粧品の広告をみても時代を反映した「健康な肌」や「肌荒れ防止」「手軽」「節約」「簡素な化粧」といった内容になっていったことがわかります。
華やかなウェーブヘア全盛から一転、質素な戦中スタイルへ
大正時代末期から鏝を使ったウェーブヘアが流行していましたが、昭和初期には日本にも電気でウェーブをつけるパーマネントウエーブが入ってきていました。パーマネントウェーブは鏝を使ったウェーブとは違い、美容院での施術時間も長く、料金も従来のものより高価だったにもかかわらず、大流行していました。
しかし、昭和13年には警視庁によって業者の新設や移設が禁止。また、翌14年には「パーマネントはやめましょう」との追放運動が起こり、パーマネントウェーブは次第に自粛されるようになっていきました。
かわって登場してくる髪型は、黒髪の美しさをそのまま表現したもので、その割には手間もかからないものでした。例えば、銃後髷と呼ばれる髪型は、鏝も電気も使わず、3分で結える髪型として紹介されました。
戦前まで欧米の文化を積極的に取り入れ、女性たちも新しいよそおい、化粧に目覚め美容の近代化が進みました。
しかし、戦時中は一転して、おしゃれどころではない空白期間となります。それでも、戦中におさえつけられていたおしゃれ心が、昭和20年に終戦を迎えてから、ゆっくりと取り戻されていくことになります。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『整容』/昭和15年、小幡恵津子著
『昭和家庭史年表』/河出書房新社
2018年11月25日
洗顔後は化粧水とクリームのお手入れが基本に
美しい素肌を保つための洗顔
昭和初期の女性たちにとっても、健康的な素肌を保つために、洗顔は重要なポイントでした。洗顔料には、古くから使われている糠や洗粉も愛用されていましたが、この頃になると石鹸で洗顔するということが普及し、さらに一部では、洗顔クリームが登場してきます。
昭和2年の女性誌「婦女世界」では、美容家によるさまざまなアドバイスや、美容法の解説などを掲載した美容特集号を出しています。それだけ、当時の女性たちが美容に高い関心を寄せていたのでしょう。
その中に洗顔の仕方や注意事項が書かれています。蒸したタオルで毛穴を開いた後、石鹸を使って顔を洗い、ぬるま湯でよく拭うとか、タオルなどに石鹸をつけて、肌をこすっているが、これは表皮を破壊し、肌を疲れさせるのでよくない。また、石鹸ならば良く泡立てて軽く摩擦して使い、洗顔クリームならば手にとってお湯か水に溶かして洗顔する、といったように、当時一般に普及しはじめた化粧石鹸、また、目新しい洗顔料であった洗顔クリームに対するアドバイスが数多く紹介されています。
洗顔後は化粧水とクリームのお手入れが基本に
洗顔後はやはり、洗いっぱなしにせずに、化粧水やクリームを塗って肌を整えていました。
この頃になると化粧水も多くのメーカーからグリセリン性、植物性、油性などさまざまなタイプが発売されていました。例えば、水分を吸収しやすいグリセリン性の化粧水は、外気中の水分をとって肌にうるおいを与え荒れを防ぐとされ、淡化粧下に用いられました。当時の女性たちも、それぞれ肌性や効果、季節によって自分に合うものを選んで使っていました。また、化粧水として昭和初期に流行した商品に、アストリンゼントがあげられます。アストリンゼントは、初めに桃谷順天館から発売されましたが、洗顔後に肌につけると、肌をひきしめ白粉のノリがよくなるとして、夏用の化粧水として人気を博し、さまざまなメーカーから同一商品名で発売されました。
クリームは、明治時代には輸入物が入ってきていましたが、国産のものが出回り、普及しはじめたのは大正時代のこと、またさらに昭和に入ってからは本格的に国内でクリームの製造が行われるようになり、一般に広く使われるようになっていました。
クリームは主に2種類あって、ひとつはコールドクリーム。寝る前に白粉を落とした後、コールドクリームを塗って顔をマッサージしてふき取る。もうひとつは、バニシングクリームで、化粧下地として使い、日中肌を保護する役割をしていました。
美しくなるには、身体の内側からのケアも
昭和初期、東京や大阪にアイススケート場が相次いでオープンしたり、昭和11年には、オリンピックで女性水泳選手が金メダルを取るなど、女性にとっても身体を動かすことやスポーツへの関心が高まり、水泳、テニス、スケートなどのスポーツ、海水浴や登山などのレジャーが広がっていきました。
しかし、スポーツによっては、当時はまだ誰でも簡単にできるといったものではありませんでした。そこで、美容と健康のために、道具や設備にとらわれず、室内で簡単にできる美容体操と呼ばれる運動が盛んに行われたといいます。
早見君子著『見違へる程美しくなる美容法と結髪』/昭和2年によると、美容体操は、欧米から輸入された体育法として、前屈などの簡単なストレッチ法が紹介され、寝る前や起床時に寝床の上でするとよいとしています。また、美容体操だけではなく、肌を美しく保つためには、バランスの良い食事を心がけること、十分な睡眠、心の健康といった、現代にも通じる美肌を保つための、身体の内側からのケアを唱えています。
こうしてみてみると、化粧品を使った外部からのスキンケアもさることながら、適度な運動や食事のとり方といったことが美しさに繋がるとされ、美しさはスキンケアやメークで作られた顔の美しさだけではなく、身体の内側の健康が伴ってこそ、といった健康美を目指す考え方が伝えられはじめた時代でした。
昭和初期の女性たちにとっても、健康的な素肌を保つために、洗顔は重要なポイントでした。洗顔料には、古くから使われている糠や洗粉も愛用されていましたが、この頃になると石鹸で洗顔するということが普及し、さらに一部では、洗顔クリームが登場してきます。
昭和2年の女性誌「婦女世界」では、美容家によるさまざまなアドバイスや、美容法の解説などを掲載した美容特集号を出しています。それだけ、当時の女性たちが美容に高い関心を寄せていたのでしょう。
その中に洗顔の仕方や注意事項が書かれています。蒸したタオルで毛穴を開いた後、石鹸を使って顔を洗い、ぬるま湯でよく拭うとか、タオルなどに石鹸をつけて、肌をこすっているが、これは表皮を破壊し、肌を疲れさせるのでよくない。また、石鹸ならば良く泡立てて軽く摩擦して使い、洗顔クリームならば手にとってお湯か水に溶かして洗顔する、といったように、当時一般に普及しはじめた化粧石鹸、また、目新しい洗顔料であった洗顔クリームに対するアドバイスが数多く紹介されています。
洗顔後は化粧水とクリームのお手入れが基本に
洗顔後はやはり、洗いっぱなしにせずに、化粧水やクリームを塗って肌を整えていました。
この頃になると化粧水も多くのメーカーからグリセリン性、植物性、油性などさまざまなタイプが発売されていました。例えば、水分を吸収しやすいグリセリン性の化粧水は、外気中の水分をとって肌にうるおいを与え荒れを防ぐとされ、淡化粧下に用いられました。当時の女性たちも、それぞれ肌性や効果、季節によって自分に合うものを選んで使っていました。また、化粧水として昭和初期に流行した商品に、アストリンゼントがあげられます。アストリンゼントは、初めに桃谷順天館から発売されましたが、洗顔後に肌につけると、肌をひきしめ白粉のノリがよくなるとして、夏用の化粧水として人気を博し、さまざまなメーカーから同一商品名で発売されました。
クリームは、明治時代には輸入物が入ってきていましたが、国産のものが出回り、普及しはじめたのは大正時代のこと、またさらに昭和に入ってからは本格的に国内でクリームの製造が行われるようになり、一般に広く使われるようになっていました。
クリームは主に2種類あって、ひとつはコールドクリーム。寝る前に白粉を落とした後、コールドクリームを塗って顔をマッサージしてふき取る。もうひとつは、バニシングクリームで、化粧下地として使い、日中肌を保護する役割をしていました。
美しくなるには、身体の内側からのケアも
昭和初期、東京や大阪にアイススケート場が相次いでオープンしたり、昭和11年には、オリンピックで女性水泳選手が金メダルを取るなど、女性にとっても身体を動かすことやスポーツへの関心が高まり、水泳、テニス、スケートなどのスポーツ、海水浴や登山などのレジャーが広がっていきました。
しかし、スポーツによっては、当時はまだ誰でも簡単にできるといったものではありませんでした。そこで、美容と健康のために、道具や設備にとらわれず、室内で簡単にできる美容体操と呼ばれる運動が盛んに行われたといいます。
早見君子著『見違へる程美しくなる美容法と結髪』/昭和2年によると、美容体操は、欧米から輸入された体育法として、前屈などの簡単なストレッチ法が紹介され、寝る前や起床時に寝床の上でするとよいとしています。また、美容体操だけではなく、肌を美しく保つためには、バランスの良い食事を心がけること、十分な睡眠、心の健康といった、現代にも通じる美肌を保つための、身体の内側からのケアを唱えています。
こうしてみてみると、化粧品を使った外部からのスキンケアもさることながら、適度な運動や食事のとり方といったことが美しさに繋がるとされ、美しさはスキンケアやメークで作られた顔の美しさだけではなく、身体の内側の健康が伴ってこそ、といった健康美を目指す考え方が伝えられはじめた時代でした。
2018年11月24日
よそおいで自己主張、“モダンガール”登場!
大正時代の第一次世界大戦、関東大震災を契機に日本は近代化し、昭和初期には女性たちも社会に出て活躍する場が着実に根付きはじめ、新しいライフスタイルを切り開いていきました。また、そうした中で、おしゃれや文化も自分たちがよいと思うもの、また意見を発信するという新しい時代に入っていきました。ではそんな時代の女性たちとは、どんな女性だったのでしょう。
まず代表的なのが、昭和のはじめごろ都市部に登場した「モダンガール」と呼ばれる女性たちです。当時の一般的な女性たちは、ウェーブをつけた長い髪を切らずにまとめた髪型に和服姿が多く、ワンピースなどの洋服を着た女性はまだまだ少数派でした。しかし、モダンガールと呼ばれた女性たちは、髪は短く切ったショートボブが特徴的で、ファッションは大胆な柄物を着こなしたり、ロングスカート、ハンドバッグといった最新のスタイルで街を歩きました。彼女たちは、常に自由な発想で新しいスタイルを追求する先進的な女性として一躍注目の的となりました。
現代のビジネスウーマン、“職業婦人”のおしゃれ感
大正時代後期から昭和にかけて、経済の発展とともに働く女性たちが増えていったことは、第10回で詳しく紹介しています。そして、特にこの時代になると都市部では、企業や官公庁の事務員、現代でいうところのファッションモデルであるマネキン、ダンサーなどといったさまざまな新しい職業に就く女性たちが登場し「職業婦人」と呼ばれました。彼女たちは、その職業にふさわしい礼儀や身だしなみも大切にしていましたが、そこに自分なりの個性を活かすおしゃれを楽しんでいました。
こうした「モダンガール」や「職業婦人」のおしゃれに代表されるように、同じおしゃれをするにしても、大正時代以前の礼儀を重視したよそおいから、単純にきれいになりたいという思いでおしゃれをし、自分を表現する女性たちが増えていきました。では、そんな女性たちに支持された最新の化粧とはどのようなものだったのでしょうか。まずは当時の女性たちのメークからみてみましょう。
現代に繋がるメークのきざし
化粧下地の上に白粉を塗り、眉墨で眉を書き、口紅、チークといった基本的なメーク法は大正時代から変わりませんが、この時代、それぞれの化粧品にさまざまな色、タイプが登場してきます。つまり、ライフスタイルや個人の好みに合わせ、だんだんと化粧法や化粧品が多様化しはじめた時代だったのです。ではどのような化粧法、化粧品が登場したのでしょうか。
ベースメークは仕上がりの好みに合わせて
昭和初期、ベースメークに使う白粉はそれぞれの好みに合わせ、水白粉、練り白粉、粉白粉の3種類のタイプが使われていました。中でも粉白粉を使ったベースメークは手軽さから多くの女性たちに支持され、大流行しました。その方法はまず、下地には、大正時代末期から普及し始めたバニシングクリームを使って顔や首筋に塗り、そしてその上にパフで粉白粉をはたくという手順。仕上げに余分な白粉を刷毛でささっとはらって完成です。
また、白粉の色も自分の肌に合った自然な肌色や小麦色に仕上がるよう、定番の白、肌色はもとより、桃色、黄色、緑色、紫色といったさまざまな色が使われるようになりました。日本でも1890年代には、既に色付きの白粉が出始めていましたが、多くの女性たちに普及していったのは、個人の好みに合わせたメークをするようになっていったこの時代に入ってからのことです。
リップスティックと新しい口紅の塗り方
日本では、1910年代、大正時代に「棒口紅」と呼ばれるリップスティックが作られるようになりましたが、現代のように多くの女性が気軽に使うといった状況にはなっていませんでした。しかし、昭和に入ると棒口紅は、一般の女性たちに浸透していきます。昭和3年には平尾賛平商店、昭和6年にはウテナ、また昭和10年には、オペラから当時としては画期的な繰り出し式の棒口紅が登場しました。
棒口紅は、筆などを使わず直接塗れる簡単さも手伝って、少しずつ広がっていきました。また、口紅の塗り方も大正時代以前の女性たちに見られる白粉で唇を隠し、おちょぼ口に書くのではなく、本来の唇に沿って書き、ひとりひとりの唇の特徴に合わせて書くことが美しいとされるようになっていきます。
目ヂカラメークのはじまり?!
日本でアイシャドーが登場した大正時代、当時はまだアイシャドーを使うことへの抵抗感や一般女性はあまり使わないといった偏見もありました。しかし、昭和7年以降の洋服の普及とともに、和服ではなく洋服に似合う化粧法として少しずつ認知されるようになっていきました。色も緑、茶、ダークブルーなどが日本人に合うとされました。また、アイシャドーだけではなく、つけまつげやアイペンシルでラインを書くなど、目を強調するメークが登場しはじめました。
こうしてみてみると、ベースメークが多様化したり、リップスティック、アイシャドーの登場など、現代の女性たちの化粧方法、化粧品に近いものが登場してきたと思いませんか?昭和初期は現代に通じる、おしゃれのきざしが見え始めた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『近代の女性美 -ハイカラモダン・化粧・髪型-』/村田孝子編著
まず代表的なのが、昭和のはじめごろ都市部に登場した「モダンガール」と呼ばれる女性たちです。当時の一般的な女性たちは、ウェーブをつけた長い髪を切らずにまとめた髪型に和服姿が多く、ワンピースなどの洋服を着た女性はまだまだ少数派でした。しかし、モダンガールと呼ばれた女性たちは、髪は短く切ったショートボブが特徴的で、ファッションは大胆な柄物を着こなしたり、ロングスカート、ハンドバッグといった最新のスタイルで街を歩きました。彼女たちは、常に自由な発想で新しいスタイルを追求する先進的な女性として一躍注目の的となりました。
現代のビジネスウーマン、“職業婦人”のおしゃれ感
大正時代後期から昭和にかけて、経済の発展とともに働く女性たちが増えていったことは、第10回で詳しく紹介しています。そして、特にこの時代になると都市部では、企業や官公庁の事務員、現代でいうところのファッションモデルであるマネキン、ダンサーなどといったさまざまな新しい職業に就く女性たちが登場し「職業婦人」と呼ばれました。彼女たちは、その職業にふさわしい礼儀や身だしなみも大切にしていましたが、そこに自分なりの個性を活かすおしゃれを楽しんでいました。
こうした「モダンガール」や「職業婦人」のおしゃれに代表されるように、同じおしゃれをするにしても、大正時代以前の礼儀を重視したよそおいから、単純にきれいになりたいという思いでおしゃれをし、自分を表現する女性たちが増えていきました。では、そんな女性たちに支持された最新の化粧とはどのようなものだったのでしょうか。まずは当時の女性たちのメークからみてみましょう。
現代に繋がるメークのきざし
化粧下地の上に白粉を塗り、眉墨で眉を書き、口紅、チークといった基本的なメーク法は大正時代から変わりませんが、この時代、それぞれの化粧品にさまざまな色、タイプが登場してきます。つまり、ライフスタイルや個人の好みに合わせ、だんだんと化粧法や化粧品が多様化しはじめた時代だったのです。ではどのような化粧法、化粧品が登場したのでしょうか。
ベースメークは仕上がりの好みに合わせて
昭和初期、ベースメークに使う白粉はそれぞれの好みに合わせ、水白粉、練り白粉、粉白粉の3種類のタイプが使われていました。中でも粉白粉を使ったベースメークは手軽さから多くの女性たちに支持され、大流行しました。その方法はまず、下地には、大正時代末期から普及し始めたバニシングクリームを使って顔や首筋に塗り、そしてその上にパフで粉白粉をはたくという手順。仕上げに余分な白粉を刷毛でささっとはらって完成です。
また、白粉の色も自分の肌に合った自然な肌色や小麦色に仕上がるよう、定番の白、肌色はもとより、桃色、黄色、緑色、紫色といったさまざまな色が使われるようになりました。日本でも1890年代には、既に色付きの白粉が出始めていましたが、多くの女性たちに普及していったのは、個人の好みに合わせたメークをするようになっていったこの時代に入ってからのことです。
リップスティックと新しい口紅の塗り方
日本では、1910年代、大正時代に「棒口紅」と呼ばれるリップスティックが作られるようになりましたが、現代のように多くの女性が気軽に使うといった状況にはなっていませんでした。しかし、昭和に入ると棒口紅は、一般の女性たちに浸透していきます。昭和3年には平尾賛平商店、昭和6年にはウテナ、また昭和10年には、オペラから当時としては画期的な繰り出し式の棒口紅が登場しました。
棒口紅は、筆などを使わず直接塗れる簡単さも手伝って、少しずつ広がっていきました。また、口紅の塗り方も大正時代以前の女性たちに見られる白粉で唇を隠し、おちょぼ口に書くのではなく、本来の唇に沿って書き、ひとりひとりの唇の特徴に合わせて書くことが美しいとされるようになっていきます。
目ヂカラメークのはじまり?!
日本でアイシャドーが登場した大正時代、当時はまだアイシャドーを使うことへの抵抗感や一般女性はあまり使わないといった偏見もありました。しかし、昭和7年以降の洋服の普及とともに、和服ではなく洋服に似合う化粧法として少しずつ認知されるようになっていきました。色も緑、茶、ダークブルーなどが日本人に合うとされました。また、アイシャドーだけではなく、つけまつげやアイペンシルでラインを書くなど、目を強調するメークが登場しはじめました。
こうしてみてみると、ベースメークが多様化したり、リップスティック、アイシャドーの登場など、現代の女性たちの化粧方法、化粧品に近いものが登場してきたと思いませんか?昭和初期は現代に通じる、おしゃれのきざしが見え始めた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『近代の女性美 -ハイカラモダン・化粧・髪型-』/村田孝子編著
2018年11月23日
またたく間にトレンドとなったウェーブヘア
大正3年に始まった第一次世界大戦による軍需景気の中にあった日本。生活も向上し、化粧やファッション、髪型といったよそおいの面でも欧米からの流行が次々と上陸していました。
そんな西洋志向の流れのなかで、大正10年頃に“洋髪”がはじまりました。「洋髪」とは当時ウェーブをつけた髪で結った髪型をさして「洋髪」や「欧風結髪」と呼んでいました。中でも、髪にウェーブをつけ、額から両サイドの髪に流し、両耳を覆い、毛先を後頭部にまとめた髪型を「耳かくし」と呼びました。この「耳かくし」を広めたのは銀座の美容院が当時のパリジェンヌのトップ・モードをその技術とともに紹介したのがはじまりといわれ、それまでの日本女性の髪型とはまるで違う斬新さで女性たちの心を捉えていきました。
「耳かくし」は、和服にも洋服にも似合い、同じアップスタイルでも髪にウェーブをつけたことで、それまで見たことのないモダンな仕上がりだったことから、当時、まだまだ新しいことに消極的な一般の女性たちには、はじめは躊躇されたようですが、すぐに多くの女性たちの心をつかみ、大流行となりました。
大正末期の髪型といえば、すぐに「耳かくし」といわれるほどで、さらに「耳かくし」はウェーブをつけた前髪を七三に分けたり、片耳側だけを覆ったりと、さまざまなアレンジを生みながら、大正末期から昭和初期の頃まで流行が続きました。
ショートボブは流行の最先端
「耳かくし」から、さらに一歩進んだ髪型が、現代でいうところのボブスタイルで、当時「断髪」と呼ばれました。女性の断髪は、明治時代、文明開化の頃にも見られましたがすぐに禁じられ、再び注目されはじめたのは大正時代の終りのころからです。
とはいえ、長い髪を短く切ることは、多くの日本女性にとってはじめてのことで、今では想像もつかないくらい勇気のいることでした。当時、髪を切ったことで親から縁を切ると言われたり、泣かれたといった話もあるほどです。
大正時代末期、断髪は当時としては、丈の短いスカートとセットのよそおいであったことから、そのスタイルはモダン・ガール(モガ)と呼ばれ、トレンドの最先端をゆく一部の女性たちから取り入れられ、昭和にかけてだんだんと一般へと広まっていきました。
また、女性たちを活動的なよそおいへと変化をもたらすきっかけとなったのが、大正12年に起きた関東大震災です。これを契機に和服から、動きやすく機能的な洋服を着る女性たちが増えたといいます。こうしたファッションの変化も、より活動的な髪型へと影響を与えていったといえるでしょう。
欧米文化の流入、社会の近代化、震災といったさまざまな時代背景がライフスタイルに変化をもたらし、それに伴い髪型も、決められたものではなく、自分のスタイルに合った髪型へと意識の変化をもたらしました。
日本髪から束髪、洋髪、断髪へと明治から大正にかけての髪型の変化は、現代の女性たちのおしゃれ意識に近づき、今ではあたりまえのことのように思える、自分に似合うヘアスタイルを模索しはじめた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『どなたにもわかる洋髪の結ひ方と四季のお化粧』/早見君子著
そんな西洋志向の流れのなかで、大正10年頃に“洋髪”がはじまりました。「洋髪」とは当時ウェーブをつけた髪で結った髪型をさして「洋髪」や「欧風結髪」と呼んでいました。中でも、髪にウェーブをつけ、額から両サイドの髪に流し、両耳を覆い、毛先を後頭部にまとめた髪型を「耳かくし」と呼びました。この「耳かくし」を広めたのは銀座の美容院が当時のパリジェンヌのトップ・モードをその技術とともに紹介したのがはじまりといわれ、それまでの日本女性の髪型とはまるで違う斬新さで女性たちの心を捉えていきました。
「耳かくし」は、和服にも洋服にも似合い、同じアップスタイルでも髪にウェーブをつけたことで、それまで見たことのないモダンな仕上がりだったことから、当時、まだまだ新しいことに消極的な一般の女性たちには、はじめは躊躇されたようですが、すぐに多くの女性たちの心をつかみ、大流行となりました。
大正末期の髪型といえば、すぐに「耳かくし」といわれるほどで、さらに「耳かくし」はウェーブをつけた前髪を七三に分けたり、片耳側だけを覆ったりと、さまざまなアレンジを生みながら、大正末期から昭和初期の頃まで流行が続きました。
ショートボブは流行の最先端
「耳かくし」から、さらに一歩進んだ髪型が、現代でいうところのボブスタイルで、当時「断髪」と呼ばれました。女性の断髪は、明治時代、文明開化の頃にも見られましたがすぐに禁じられ、再び注目されはじめたのは大正時代の終りのころからです。
とはいえ、長い髪を短く切ることは、多くの日本女性にとってはじめてのことで、今では想像もつかないくらい勇気のいることでした。当時、髪を切ったことで親から縁を切ると言われたり、泣かれたといった話もあるほどです。
大正時代末期、断髪は当時としては、丈の短いスカートとセットのよそおいであったことから、そのスタイルはモダン・ガール(モガ)と呼ばれ、トレンドの最先端をゆく一部の女性たちから取り入れられ、昭和にかけてだんだんと一般へと広まっていきました。
また、女性たちを活動的なよそおいへと変化をもたらすきっかけとなったのが、大正12年に起きた関東大震災です。これを契機に和服から、動きやすく機能的な洋服を着る女性たちが増えたといいます。こうしたファッションの変化も、より活動的な髪型へと影響を与えていったといえるでしょう。
欧米文化の流入、社会の近代化、震災といったさまざまな時代背景がライフスタイルに変化をもたらし、それに伴い髪型も、決められたものではなく、自分のスタイルに合った髪型へと意識の変化をもたらしました。
日本髪から束髪、洋髪、断髪へと明治から大正にかけての髪型の変化は、現代の女性たちのおしゃれ意識に近づき、今ではあたりまえのことのように思える、自分に似合うヘアスタイルを模索しはじめた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『どなたにもわかる洋髪の結ひ方と四季のお化粧』/早見君子著
2018年11月22日
ヘアスタイルに対する意識を変えた髪型
大正時代、社会に出て働くことなど、女性たちのライフスタイルは変化し、化粧意識も大きく変わりました。欧米からもたらされた新しい化粧法が次々と取り入れられ、同時に髪型も新しいおしゃれ志向に合わせた髪型が求められるようになっていきました。では、当時どのような意識の変化が起こり、どんな髪型が女性たちの心を捉えていったのでしょうか。
大きな「日本髪」から小さな「束髪」アレンジへ
明治時代から新しい時代に合わせ、それまでの伝統的な日本髪から束髪という、日本髪よりも簡単に結うことができる髪型が推し進められてきましたが、まだまだ日本髪も多く結われていました。しかし、明治時代も末期のころから大正時代にかけて、社会に進出した女性のニーズにも合って、日本髪より軽く、簡単に結うことができる束髪を結う女性たちが増え、日本髪を結う女性がだんだんと減っていきました。
明治時代末期から大正時代にかけて、多くの日本女性が結った束髪は「庇髪(ひさしがみ)」といい、すき毛やアンコ[※]といったつめ物を入れて前髪を大きく膨らませた髪型でした。この「庇髪」は大正時代に入っても後頭部の髷部分の結い方の違いで「大正巻」「改元巻」「九重巻」など、さまざまなアレンジを生みながら、女性たちにとって定番の髪型となっていきました。
大正時代に登場した束髪のひとつに「女優髷」という髪型があります。女性の新しい職業として登場した帝劇の女優たちがしていたのが「女優髷」で、そ れまでの束髪には欠かせなかったボリュームを出すためのつめ物を入れず、鬢付け油も使わないスッキリとした髪型でした。見た目の華やかさはありま せんでしたが、つめ物を取ったことで一段と軽く、手入れの簡単な機能的スタイルとして紹介されました。人気の髪型とまではなりませんでしたが、当時、 決まった髪型ではなく、自分のライフスタイルに合った髪型にするという、新しい志向を女性たちに投げかけた髪型でした。
現代でこそあたりまえのようになっている、自分の意思で似合う髪型にすることが、大正時代に入ってやっと一般の女性たちの間で行われはじ めたのです。
このような意識の変化から、新しいライフスタイルに合わせた、より小さくて軽い活動的な髪型が求められていきました。その結果、大正時代中 ごろから終りにかけて、前髪を膨らましていたつめ物がだんだんと取れ、さらに小さくコンパクトな束髪にすることが主流となっていきました。
大きな「日本髪」から小さな「束髪」アレンジへ
明治時代から新しい時代に合わせ、それまでの伝統的な日本髪から束髪という、日本髪よりも簡単に結うことができる髪型が推し進められてきましたが、まだまだ日本髪も多く結われていました。しかし、明治時代も末期のころから大正時代にかけて、社会に進出した女性のニーズにも合って、日本髪より軽く、簡単に結うことができる束髪を結う女性たちが増え、日本髪を結う女性がだんだんと減っていきました。
明治時代末期から大正時代にかけて、多くの日本女性が結った束髪は「庇髪(ひさしがみ)」といい、すき毛やアンコ[※]といったつめ物を入れて前髪を大きく膨らませた髪型でした。この「庇髪」は大正時代に入っても後頭部の髷部分の結い方の違いで「大正巻」「改元巻」「九重巻」など、さまざまなアレンジを生みながら、女性たちにとって定番の髪型となっていきました。
大正時代に登場した束髪のひとつに「女優髷」という髪型があります。女性の新しい職業として登場した帝劇の女優たちがしていたのが「女優髷」で、そ れまでの束髪には欠かせなかったボリュームを出すためのつめ物を入れず、鬢付け油も使わないスッキリとした髪型でした。見た目の華やかさはありま せんでしたが、つめ物を取ったことで一段と軽く、手入れの簡単な機能的スタイルとして紹介されました。人気の髪型とまではなりませんでしたが、当時、 決まった髪型ではなく、自分のライフスタイルに合った髪型にするという、新しい志向を女性たちに投げかけた髪型でした。
現代でこそあたりまえのようになっている、自分の意思で似合う髪型にすることが、大正時代に入ってやっと一般の女性たちの間で行われはじ めたのです。
このような意識の変化から、新しいライフスタイルに合わせた、より小さくて軽い活動的な髪型が求められていきました。その結果、大正時代中 ごろから終りにかけて、前髪を膨らましていたつめ物がだんだんと取れ、さらに小さくコンパクトな束髪にすることが主流となっていきました。
タグ: 化粧品
2018年11月21日
社会進出によって変わっていく化粧意識
近代化に拍車をかけるように、大正3年(1914年)、日本も欧米の国々と肩を並べようと、第一次世界大戦に参戦。軍需品の輸出で好景気となり、人々の消費や生活が向上していきました。こうした中、欧米と同じく女性の社会進出も進み、女性たちのよそおいは大きく変化していきました。
女性たちが化粧をする意識や目的は、時代や社会状況によって絶えず変化してきました。明治時代の文明開化には、それ以前の伝統的な化粧ではなく、西洋文化の影響を強く受けたものに変化しました。明治時代には外見による身分や年齢、未既婚を示す制約が薄れていったのです。
そして、大正時代に入ると、化粧意識は再び大きく変化します。明治時代の中ごろから日本でも社会に出て働く女性が登場しはじめましたが、大正時代にはさらに増加し、百貨店の店員、看護師、事務員、電話交換手など、女性たちはさまざまな職業に就いていきました。それは、女性たちにとって外出する機会を増やし、多くの人とコミュニケーションをとることが求められることとなりました。
人と接する機会が増えた女性たちにとっての化粧は、コミュニケーションの上で、相手に不快な印象を与えないマナーでもあることを強く意識させるようになりました。つまり、大正時代は、美しくあるための化粧と、社会にうまく適応するマナーとしての化粧、両方を兼ね備えた、現代の女性たちと同様の意識を持ちはじめた時代といえます。では、そんな時代のスキンケアやメークアップはどのようなものだったのでしょうか。
大正時代のスキンケア 〜石鹸洗顔、化粧水、クリームの普及〜
素肌の美しさを保つために洗顔が重要視されているのは今も昔も同じこと。洗顔料は糠[※1]や洗い粉[※2]、また石鹸を使って洗顔をしていました。ただ、石鹸は輸入品とともに明治時代には製造もされていましたが、とても高価で庶民の手には届かないものでした。しかし大正時代になって、安価で品質もよいものが作られるようになり、石鹸を使うことが少しずつ一般に浸透していきました。
洗顔をした後は、肌を整え白粉のノリを良くするために、化粧水やクリームを使いました。化粧水は【美顔水】や【ヘチマコロン】と呼ばれたベーシックなものから、「日焼けを防ぎ、色を白くする」など美白効果を謳った【ホーカー液】や【レートフード】といった商品が大流行しました。当時、旅行や海水浴など、レジャーやスポーツを楽しむ女性たちも増え、自然に日焼けに対処する化粧品に注目が集まりました。より白い肌を求める気持ちは現代の女性たちと変わらなかったのです。
また、クリームも肌を整える化粧下地として明治末期から大正時代にかけて需要が高まっていきました。当時、健康的で自然な美しさが求められていたことから、油性のクリームよりもさっぱりとした薄化粧に仕上がる無脂肪性のクリーム、バニシングクリームに人気がありました。また、バニシングクリームは化粧くずれしにくく、長時間美しさを保てるものとして、昭和まで長く愛用されていきました。
一方、女性たちのメークアップはどのようなものだったのでしょうか。基本は無鉛白粉でベースメークを仕上げた後、ポイントメークとして眉墨で眉を書き、唇には紅を付けるのが基本でした。紅はそれまでの紅猪口に代わって、携帯しやすいスティック状のものが欧米から輸入されるようになります。現代では普通に使っているスティック状の紅ですが、大正7年にようやく国産品が発売されてから、だんだんと一般女性へと広まっていきました。
また、このころ白粉をつけた肌の血色を良くし、健康的で表情を豊かにするものとして、頬紅も注目されるようになりました。さらに、現代には欠かせない化粧道具、外出先でも手軽に化粧直しができるコンパクトが使用されるようになったのもこのころのことです。特に欧米からの輸入コンパクトは、機能性とアクセサリーのような美しさから、一般女性たちにとって憧れの化粧道具でした
学校や仕事へと、社会に出ること、スポーツやレジャーを楽しむこと、女性たちのライフスタイルがより活動的に変化した大正時代。女性たちのよそおいは、おしゃれであることはもちろん、社会的マナーとしての化粧が意識されるようになり、化粧品や化粧道具には、より短時間でできる手軽さや、機能性が求められるようになりはじめた時代でした。
女性たちが化粧をする意識や目的は、時代や社会状況によって絶えず変化してきました。明治時代の文明開化には、それ以前の伝統的な化粧ではなく、西洋文化の影響を強く受けたものに変化しました。明治時代には外見による身分や年齢、未既婚を示す制約が薄れていったのです。
そして、大正時代に入ると、化粧意識は再び大きく変化します。明治時代の中ごろから日本でも社会に出て働く女性が登場しはじめましたが、大正時代にはさらに増加し、百貨店の店員、看護師、事務員、電話交換手など、女性たちはさまざまな職業に就いていきました。それは、女性たちにとって外出する機会を増やし、多くの人とコミュニケーションをとることが求められることとなりました。
人と接する機会が増えた女性たちにとっての化粧は、コミュニケーションの上で、相手に不快な印象を与えないマナーでもあることを強く意識させるようになりました。つまり、大正時代は、美しくあるための化粧と、社会にうまく適応するマナーとしての化粧、両方を兼ね備えた、現代の女性たちと同様の意識を持ちはじめた時代といえます。では、そんな時代のスキンケアやメークアップはどのようなものだったのでしょうか。
大正時代のスキンケア 〜石鹸洗顔、化粧水、クリームの普及〜
素肌の美しさを保つために洗顔が重要視されているのは今も昔も同じこと。洗顔料は糠[※1]や洗い粉[※2]、また石鹸を使って洗顔をしていました。ただ、石鹸は輸入品とともに明治時代には製造もされていましたが、とても高価で庶民の手には届かないものでした。しかし大正時代になって、安価で品質もよいものが作られるようになり、石鹸を使うことが少しずつ一般に浸透していきました。
洗顔をした後は、肌を整え白粉のノリを良くするために、化粧水やクリームを使いました。化粧水は【美顔水】や【ヘチマコロン】と呼ばれたベーシックなものから、「日焼けを防ぎ、色を白くする」など美白効果を謳った【ホーカー液】や【レートフード】といった商品が大流行しました。当時、旅行や海水浴など、レジャーやスポーツを楽しむ女性たちも増え、自然に日焼けに対処する化粧品に注目が集まりました。より白い肌を求める気持ちは現代の女性たちと変わらなかったのです。
また、クリームも肌を整える化粧下地として明治末期から大正時代にかけて需要が高まっていきました。当時、健康的で自然な美しさが求められていたことから、油性のクリームよりもさっぱりとした薄化粧に仕上がる無脂肪性のクリーム、バニシングクリームに人気がありました。また、バニシングクリームは化粧くずれしにくく、長時間美しさを保てるものとして、昭和まで長く愛用されていきました。
一方、女性たちのメークアップはどのようなものだったのでしょうか。基本は無鉛白粉でベースメークを仕上げた後、ポイントメークとして眉墨で眉を書き、唇には紅を付けるのが基本でした。紅はそれまでの紅猪口に代わって、携帯しやすいスティック状のものが欧米から輸入されるようになります。現代では普通に使っているスティック状の紅ですが、大正7年にようやく国産品が発売されてから、だんだんと一般女性へと広まっていきました。
また、このころ白粉をつけた肌の血色を良くし、健康的で表情を豊かにするものとして、頬紅も注目されるようになりました。さらに、現代には欠かせない化粧道具、外出先でも手軽に化粧直しができるコンパクトが使用されるようになったのもこのころのことです。特に欧米からの輸入コンパクトは、機能性とアクセサリーのような美しさから、一般女性たちにとって憧れの化粧道具でした
学校や仕事へと、社会に出ること、スポーツやレジャーを楽しむこと、女性たちのライフスタイルがより活動的に変化した大正時代。女性たちのよそおいは、おしゃれであることはもちろん、社会的マナーとしての化粧が意識されるようになり、化粧品や化粧道具には、より短時間でできる手軽さや、機能性が求められるようになりはじめた時代でした。
2018年11月20日
憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
明治時代中期から後期、日本政府は欧米諸国に追いつこうと日清戦争、日露戦争を引き起こし、一方文化面では欧米のトレンドがほぼ同時期に日本に入ってきていました。このころ女性の教育も盛んになり、女性が少しずつ社会に出始めた時代でもありました。
『女学世界』『婦人世界』『婦人画報』といった女性向け雑誌も続々と創刊され、女性をとりまく環境もめまぐるしい変化を遂げていました。そんな時代、女性たちはどんな美人像を描き、おしゃれを楽しんでいたのでしょうか。
憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいま憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいます。
また、女性の教育が盛んになったこの時代、女学校に通うことが一種のステータスであり、女学生もまた、庶民の憧れの存在になっていきます。彼女たちのファッションといえば和洋折衷スタイル。袴に洋靴、束髪を結い大きなリボンをつけたスタイルが定番でした。当時リボンはこの女学生のよそおいから流行し、一般に広がっていきました。
『女学世界』『婦人世界』『婦人画報』といった女性向け雑誌も続々と創刊され、女性をとりまく環境もめまぐるしい変化を遂げていました。そんな時代、女性たちはどんな美人像を描き、おしゃれを楽しんでいたのでしょうか。
憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいま憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいます。
また、女性の教育が盛んになったこの時代、女学校に通うことが一種のステータスであり、女学生もまた、庶民の憧れの存在になっていきます。彼女たちのファッションといえば和洋折衷スタイル。袴に洋靴、束髪を結い大きなリボンをつけたスタイルが定番でした。当時リボンはこの女学生のよそおいから流行し、一般に広がっていきました。
2018年11月19日
美意識の大改革 〜お歯黒と眉剃りの禁止〜
1868年、新しい国づくりを目指す人々のもと、明治時代が幕を開けました。新しい政府では、欧米に習って国の近代化が推し進められました。街には髷を切った男性や洋装の人々が登場するなど、文明開化の掛け声とともに西洋文化が次々と推奨されていきました。生活環境が大きく変わることによって、女性たちのよそおいにもさまざまな変化が訪れることになるのです。
美意識の大改革 〜お歯黒と眉剃りの禁止〜
変化はまず、化粧において始まりました。政府は手始めに公家や華族といった上流階級の人々に対し、伝統的な化粧の眉剃りやお歯黒の廃止を求めました。そして、明治4年には、眉剃りとお歯黒をやめ、白い歯にしようという声がさらに高まっていきます。理由は来日した外国人の目にその伝統が奇異に映ったからでした。
眉剃りやお歯黒は、女性は結婚すると歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすという通過儀礼から行われるようになった化粧法です。眉剃りとお歯黒を止めるということは、それまでの慣習、さらには女性観や美意識を180度ひっくり返す大きな転換だったのです。
ですから、一般の女性たちがそれまでの意識を変え、お歯黒をすぐにやめることはできなかったようです。明治6年、率先して昭憲皇后が止めたことから、一般の女性たちにも白い歯が浸透しはじめました。これを契機として、現代の価値観に近い自分の顔に似合った眉化粧や自然な白い歯が美しいとされるようになったのです。
美意識の大改革 〜お歯黒と眉剃りの禁止〜
変化はまず、化粧において始まりました。政府は手始めに公家や華族といった上流階級の人々に対し、伝統的な化粧の眉剃りやお歯黒の廃止を求めました。そして、明治4年には、眉剃りとお歯黒をやめ、白い歯にしようという声がさらに高まっていきます。理由は来日した外国人の目にその伝統が奇異に映ったからでした。
眉剃りやお歯黒は、女性は結婚すると歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすという通過儀礼から行われるようになった化粧法です。眉剃りとお歯黒を止めるということは、それまでの慣習、さらには女性観や美意識を180度ひっくり返す大きな転換だったのです。
ですから、一般の女性たちがそれまでの意識を変え、お歯黒をすぐにやめることはできなかったようです。明治6年、率先して昭憲皇后が止めたことから、一般の女性たちにも白い歯が浸透しはじめました。これを契機として、現代の価値観に近い自分の顔に似合った眉化粧や自然な白い歯が美しいとされるようになったのです。
2018年11月18日
女性たちのよそおい
武士階級から町人の時代へ
江戸時代には商工業が飛躍的に発達し、大阪や京都、江戸といった都市部の人々の生活が向上しました。豪商とよばれる大商人が富を築いていき、同時に文化を担う主役もそれまで権力を握っていた武士階級から町人へと移り変わっていきました。
花見や相撲、歌舞伎見物といった文化が生まれ、やがて江戸町人の文化として定着していきました。ハレの日に精一杯のおしゃれをして、そうした場所に繰り出すのが当時の人々の一番の楽しみだったのでしょう。
女性たちのよそおい
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた「歌舞伎図屏風」から、当時の歌舞伎役者の衣装や見物にきている女性のよそおい、髪型を見てみましょう。
この頃は華麗な文様を描いた友禅染の手法が生み出された時代でもあり、衣装の華やかさが伝わってきます。
一方髪型も、長い黒髪をダイナミックに結い上げています。日本髪は江戸時代にもっともオリジナリティ溢れる発展を遂げた、よそおいの文化のひとつです。安土桃山時代頃から、それまで後ろに長く垂らしていた髪をだんだんと結い上げるようになり、やがて技巧的なアップスタイルへと“進化”していきました。
こうした衣装や髪型などのおしゃれを牽引していたのは、当時のファッションリーダーである歌舞伎役者や遊女たち。彼らが生み出した一見奇抜なよそおいをお手本にしながら、一般の女性たちはおしゃれを自分なりに楽しんでいたのです。
ところで、そんな華やかな衣装や髪型に似合う化粧は、どんなものだったのでしょうか。
化粧に目覚めた女性たち
平和が訪れたこの時代、化粧は一般庶民にも爆発的に広がっていきました。元禄時代には、豪華な髪型と衣装とのバランスから、濃い目の化粧が流行していたようです。
それを象徴するのが白粉化粧です。白粉は水で溶き、顔だけではなく、首や襟足、肩、胸元の辺りまで刷毛を使って丹念に塗るのが常識とされていました。これを何度も塗り重ねていると、濃い化粧が完成します。
しかし、当時の女性の身だしなみについて指南している文献『女用訓蒙図彙』/元禄7年(1694年)には「生地黒きに化粧の濃は軽粉肌に沈まぬゆへに、底厳なく、やがてのうちにはげおつるなり。かやうの顔は底から拭ひたてて、なる程細なるおしろいを、うすうすとあるべし」(黒い肌に、化粧を濃くすることは、白粉が肌になじまず、つやもなくなり、時間がたつと、はげてくるのでよくない。こういう肌には、白粉を薄くつけるのがよい)と書かれています。
また、『西鶴織留』/元禄7年(1694年)にも「素顔でさえ白きに、御所白粉を寒の水でとき、二百へんも摺りつけ・・・」(素肌でさえも白いのに、水で溶いた白粉を二百回もすりつけ・・・)という記述があります。濃い化粧は下品だと考えられ、薄化粧が好ましいとされていたことがわかります。
この時期、京都や大阪を中心によそおいの文化が栄え、髪型からファッション、化粧まで何より華やかさを重視したものが流行しました。白粉をしっかりと塗り、紅や眉化粧を施すメークが定着していたのでしょう。
次回は、江戸時代中期、その時代背景とよそおいをご紹介します。
江戸時代には商工業が飛躍的に発達し、大阪や京都、江戸といった都市部の人々の生活が向上しました。豪商とよばれる大商人が富を築いていき、同時に文化を担う主役もそれまで権力を握っていた武士階級から町人へと移り変わっていきました。
花見や相撲、歌舞伎見物といった文化が生まれ、やがて江戸町人の文化として定着していきました。ハレの日に精一杯のおしゃれをして、そうした場所に繰り出すのが当時の人々の一番の楽しみだったのでしょう。
女性たちのよそおい
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた「歌舞伎図屏風」から、当時の歌舞伎役者の衣装や見物にきている女性のよそおい、髪型を見てみましょう。
この頃は華麗な文様を描いた友禅染の手法が生み出された時代でもあり、衣装の華やかさが伝わってきます。
一方髪型も、長い黒髪をダイナミックに結い上げています。日本髪は江戸時代にもっともオリジナリティ溢れる発展を遂げた、よそおいの文化のひとつです。安土桃山時代頃から、それまで後ろに長く垂らしていた髪をだんだんと結い上げるようになり、やがて技巧的なアップスタイルへと“進化”していきました。
こうした衣装や髪型などのおしゃれを牽引していたのは、当時のファッションリーダーである歌舞伎役者や遊女たち。彼らが生み出した一見奇抜なよそおいをお手本にしながら、一般の女性たちはおしゃれを自分なりに楽しんでいたのです。
ところで、そんな華やかな衣装や髪型に似合う化粧は、どんなものだったのでしょうか。
化粧に目覚めた女性たち
平和が訪れたこの時代、化粧は一般庶民にも爆発的に広がっていきました。元禄時代には、豪華な髪型と衣装とのバランスから、濃い目の化粧が流行していたようです。
それを象徴するのが白粉化粧です。白粉は水で溶き、顔だけではなく、首や襟足、肩、胸元の辺りまで刷毛を使って丹念に塗るのが常識とされていました。これを何度も塗り重ねていると、濃い化粧が完成します。
しかし、当時の女性の身だしなみについて指南している文献『女用訓蒙図彙』/元禄7年(1694年)には「生地黒きに化粧の濃は軽粉肌に沈まぬゆへに、底厳なく、やがてのうちにはげおつるなり。かやうの顔は底から拭ひたてて、なる程細なるおしろいを、うすうすとあるべし」(黒い肌に、化粧を濃くすることは、白粉が肌になじまず、つやもなくなり、時間がたつと、はげてくるのでよくない。こういう肌には、白粉を薄くつけるのがよい)と書かれています。
また、『西鶴織留』/元禄7年(1694年)にも「素顔でさえ白きに、御所白粉を寒の水でとき、二百へんも摺りつけ・・・」(素肌でさえも白いのに、水で溶いた白粉を二百回もすりつけ・・・)という記述があります。濃い化粧は下品だと考えられ、薄化粧が好ましいとされていたことがわかります。
この時期、京都や大阪を中心によそおいの文化が栄え、髪型からファッション、化粧まで何より華やかさを重視したものが流行しました。白粉をしっかりと塗り、紅や眉化粧を施すメークが定着していたのでしょう。
次回は、江戸時代中期、その時代背景とよそおいをご紹介します。