橋下徹 twitter より現在の日本の政治に 関係することで もっとも危惧していることは 希望の党の今後でもなく 立憲民主党の舞い上がりでもなく 橋下徹の暴言では当然なく 左派やリベラルのモラルの低下だ。 少し前までのリベラルは 理論なりセオリーなりがあって それに忠実であったり 正確さを求めたりと その言説に賛成できないことであっても 基本的な姿勢や 少なくとも ことを良い方向へ という気持ちは 感じることができたし 共感することもできたし 評価できた。 しかし 今の左派の動き方 または 動く根拠 行動原理には どうしても 肥大したエゴを感じてしまう。 それはかつての 良識的なリベラルが もっとも嫌悪していたことではないか。 今これほど アンフェアな行動が 良しとされるリベラルは 世界各国を覗いても 歴史を振り返っても 本当にないのではないか。 確かにサイドメニューのような 犯罪や悪事は 右派左派問わずあるし 右派左派問わず 極のつく 初めから暴力を前提にしたものもある。 そういったものはもちろん論外だし 人間のやることに 完璧を求めるのも 多いに稚拙な思考だ。 しかし 加計学園問題での 報道しない自由や リベラル系マスコミの 捏造やその煮え切らない謝罪 など サイドメニューとは言えない 行動原理の根本に関わることには 世の中をよくする とか 人間がもっと幸福になる とか そういった 正しい方向性の 理念が全く感じられない。 その行動から感じられることは エゴしか感じない。 相手より高い立場に立ちたい とか 相手をこらしめることが快感 とか つまり 主観・感情・生存本能のようなものが 行動の原点にあるとしか思えない。 だから 日本の民主主義や人権を守ると言いながら 彼らは 安倍晋三と橋下徹には 基本的人権を認めない。 本人も認める通り 暴言は非難されるが そのような状況にあって 実際の暴力行動には及ばず 暴言にとどめる橋下徹の理性は むしろ 賞賛されて良い。 また 加計学園問題での 報道しない自由は 極めて広義の「暴力」ではないか と考えている。 合法的な暴力の模索の結果といっても良い。 つまり リベラルのモラルの低下とは 根本的な行動原理の変更だ。 客観から主観へ 利他から利己へ そのことが 橋下徹のみならず 社会の様々なものを傷つけて いることに 気付く気配もない。 こう書くと 当然、観念的な思考に慣れておられる方は リベラル全員がアンフェアなのか と言われるかもしれない。 そうではない。 良識的なリベラルは今もいるし 頑張っておられる。 アンフェアな人たちがかなり増えたということだ。 かなり増えたし アンフェアな人たちのほうが 声が大きいので なかなか目立たなかったが この度は 枝野さんが脚光を浴びた。 枝野さんは 非常に柔軟な考えができるし 現実的な認識を踏まえた上で リベラルの必要を説く。 いやみな言い方をあえてすれば しばらく見なかった 善人顔のリベラルが 新鮮だったことが 枝野人気に つながっているのではないか とも思う。僕の日本維新の会丸山氏に対するツイッター表現に批判があるのは当然だ。 - 10月30日のツイート
僕の日本維新の会丸山氏に対するツイッター表現に批判があるのは当然だ。しかしツイッター一つで政治権力にモノ申そうと思えばこれくらいのことをしないとね。笑っちゃうのが僕の表現を批判する多くの人は、安倍さんや僕、その他自分の気に食わない相手には普段悪態の限りをつくしていること。
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