アフィリエイト広告を利用しています

2024年10月09日

山岡鉄舟と静岡市 その2

鉄舟寺は、静岡市清水区村松にあり、元は飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した堂に始まり、その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したといわれています。

時代は流れ、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住(住職がいないこと)になって寺は荒廃してしまいました。

その後、旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められました。そのため鉄舟の書跡の遺品も多くあります。

鉄舟寺.jpg

2024年10月08日

山岡鉄舟と静岡市

山岡鉄舟は、江戸に生まれ、家が武芸を重んじる家だったため、幼少から北辰一刀流等を学び、武術に天賦の才能を示す。
幕臣として、慶応4年(1868年)、新たに設立された精鋭隊歩兵頭格となり、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会する。


山岡鉄舟碑.jpg

山岡鐵舟 最後のサムライ [ 圓山牧田 ]

価格: 1980円
(2024/10/8 15:59時点)
感想(0件)



2024年02月25日

静岡名所旧跡 静岡市にある天満宮が川中の天神様と呼ばれる理由

天満宮は、全国にあると思いますが

静岡市葵区中町にある「天満宮」は、『川中の天神様』と呼ばれてきました。

これは、 川の中の岩上に鎮座していた ためでかつての安倍川が浅間神社付近で

左右に分かれ中町がその支流の流路にあたっていたことを物語っています。

今川義元の頃の中世の安倍川は、藁科川から独立し複雑な流路を形成していました。

安倍川の本流は、現在の中町を流れており、そこに祀られていたのが『川中の天神様』

(現在の中町の天神さん)です。

つまり中洲を形成していた所に、この天神さんが祀られていたということです。
2024安倍川天満宮.png
≪≫若い人のために注釈≪≫
 天満宮(てんまんぐう)は、菅原道真を祭神とする神社です。

(追記地図参照)
安倍川本流から分かれた北川と呼ばれた川(上記地図参照)もあります。

北川は浅間神社前を迂回して、

臨済寺方面から麻機沼へと流れ、途中から足洗方面へ流れました。

安倍川の本流は、現在の中町(静岡市街地)を堂々と流れていて、

そこに祀られていたのが、繰り返しますが、川中の天神さん
(現在の中町の天神さん)

です。つまり中洲を形成していた所に、この天神さんが祀られてい

たといいます。この流れの一つは静岡市役所静岡庁舎を過ぎた辺りから

また別流となり、妹川とか横雄川となって新静岡センター(現在新静岡セノバ)

方面にも流路を形成していたといいます。

時は流れ

江戸時代の慶長11年(1606年)頃の徳川家康の駿府城拡張工事に伴い

薩摩藩に命じて、安倍川と藁科川の合流工事を敢行させた。 そのこと

により薩摩土手と呼ばれている。

この工事により、天神様は、川中ではなくなりました。今では、街中となり

安倍川が流れていたことは、ほとんどの方が知らないと思います。

静岡市の天満宮は、「川中にあったんだよ」というと静岡の人でもビックリします。

「薩摩土手の記事」も合わせてお読みください。
薩摩土手.jpg

2019年04月18日

静岡名所旧跡 「赤い靴はいてた女の子像」その2

前回、「赤い靴はいてた女の子はアメリカへ渡っていなかった
で終わりました。

今回は続きです。
日本平観光組合ホームページ」より
赤い靴のきみちゃんはアメリカへ渡っていなかったことがわかったのです。宣教師が任務を終えて帰国しようとした時、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれていた結核におかされ身体が衰弱していて長旅ができず、やむなく東京のクリスチャン系の孤児院へ預けられ、そこで薬石の効なく独り淋しく幸せ薄い九才の生涯を閉じていたのでした。

それは明治の終わり頃の四十四年九月十五日の夜、死因は結核性腹膜炎だったとのことです。
このドラマチックな「赤い靴」の人間模様は、北海道テレビのドキュメンタリー番組として制作され、全国ネットで放映されたり、菊池寛さんが著述した「赤い靴はいてた女の子」が赤い靴児童文化大賞特別賞に輝いたりして大きな反響を呼び起こしました。

「赤い靴」のふるさと きみちゃん母子の里帰りを母子像建設でこうしたことを背景に、昭和六十年六月から「赤い靴の女の子」きみちゃんと母かよの母子(おやこ)を、八十一年ぶりに故郷(ふるさと)の清水へ里帰り再会させ、母子(おやこ)の永遠(とこしえ)のやすらぎを母子像に託そうと、清水市長を先頭に官民一体となって、建設へ向かっての募金運動が展開されました。

この運動はマスコミ関係の協力もあって、燎原の火のようにまたたく間に全国に波及し、昭和六十一年三月三十一日の除幕までの間に、七万有余人という多くの方々から二千万円という浄財と、数多くのメッセージが寄せられました。

多くの人々の熱いまなざしと期待を背に、母子(おやこ)の出生地先の、日本観光地百選コンクール平原の部第一位の景勝地である日本平山頂の一角に、母子像が建立されたことは、母子(おやこ)への最高のプレゼン
トであり、さぞかし泉下で手を取りあって喜んでくれていることと思います。

と「日本平観光組合ホームページ」には記載されています。

赤い靴の女の子.jpg

以上が静岡市に「赤い靴はいてた女の子像」がある理由です。





日本平観光組合ホームページより
静岡市清水区馬走1500-2
電話:054-335-1134(代)  FAX:054-335-8955
(日本平ホテル内)

2019年04月14日

静岡の地名 富士見台 

富士見台(ふじみだい)という地名の由来は、富士山あるいは各地の郷土富士が見える場所という意味です。日本最高峰の富士山が見えることに由来するものは関東地方、中部地方に数多いそうです。

もちろん、静岡市にも「富士見台」という地名がありそこから見る富士は感動します。
ここに行くと目の前に雄大で綺麗な富士が威風堂々と現れ圧倒される大きさで迫ってきます。
そして、至極のひと時をむかえます。

静岡市なら市街地から郊外へ20分くらい行けば富士山は見えます。富士見台から見る富士さんほどではありませんがすごく綺麗なので感動します。

静岡は自然に恵まれたいいところなのですが、人口減少問題が議論されています。特に若い女性が出っていってしまします。
若い女性でなくてもよいですから皆さん静岡市に移住しませんか。



静岡富士見台からの富士山.jpeg

2019年04月05日

静岡歴史探訪 空海

静岡市駿河区稲川1丁目に「崇福寺」というお寺があります。このお寺は、「鯖弘法大師霊場」という石碑があります。

鯖弘法大師とは「空海」のことです。

空海と鯖の関係に
*顕光院のホームページより
崇福寺は、一般に「鯖大師」の寺として知られている。
鯖大師とは、弘法大師が四国を巡錫している時に、阿波国(徳島県)海部郡で馬の背中に塩鯖を積んだ馬子に出会った。

大師が鯖を一つ譲ってくれるように頼むと、馬子は大師をののしって断ってしまった。すると、間もなく馬が腹痛を起こしたので、馬子は大師に謝って、鯖を一つ差し上げた。途端に馬の腹痛は直り、大師が鯖を海に投げ込むと、鯖は生き返って泳ぎ出した。

そこで、この馬子はその地に鯖を手にした弘法大師の像を祀ったという。それが後に鯖大師本坊八坂寺となり、鯖を三年間食べずに願い事をすれば、病気がなおり、願いがかなうと伝えられるようになった。

 崇福寺の鯖大師は、同寺六世住職の伊藤善法師が、大正年間に八坂寺からその分身を勧請したものである。縁日は九月一三日。
もとは病気回復の祈願所であったが、現在は大漁祈願の霊場として、漁師たちの信仰を集めている。山門を入って右側の大師堂には、進水式を迎えた漁船の写真や絵馬が所狭しと飾られている。

また、山門の左側には、相良町の篤心者が寄贈したもう一体の鯖大師像と、十二支の守り本尊の石像、百度石なども祀られている。
顕光院のホームページより

国産さば使用 さば缶 水煮(150g*24コセット)

価格: 4,272円
(2019/4/8 15:01時点)
感想(14件)




IMG_0124.JPG
IMG_0125.JPG

2019年04月01日

静岡歴史探訪 塩留めと敵に塩を送る

今川氏の「塩留め」と「敵に塩を送る」  

「敵に塩を送る」とは、 戦国時代、越後の上杉謙信が敵対していた甲斐の武田信玄に塩を送ったという話ですが、今川氏もからんでいました。  

武田信玄が今川氏との同盟を破棄して東海方面への進出をした  ことにより今川氏真は武田領内への「塩留め」(経済封鎖)をしました。

武田の領地は(山梨県・長野県)にあり、「塩」を  取ることが出来ず領民は苦しみました。この苦しみを見過ごすことが出来なかったのが、「義」を重んじる「上杉謙信」でした。

越後から信濃へ「塩を送る」ことを決意。また、越後と甲斐で 取引される塩が、高価にならないようにしたといいます。  

徳川家康が駿府を天領としたのにも、金山と製塩に理由があったといわれます。  

金山の「金」は静岡名物「安倍川もち」の「黄な粉もち」に名  残を残しました。  

塩は「あらしお」として今日に伝えられています。


瀬戸のあらじお(フレーク塩) 750g袋入り

価格: 216円
(2019/4/1 14:40時点)
感想(1件)




2019年03月31日

静岡歴史探訪 清少納言と有度浜

有渡浜と清少納言  

平安時代、清少納言の「枕草子」、「浜」の項に、  

”浜は有度浜(うどはま) 長浜 吹上の浜
 打出(うちいで)の浜 もろよせの浜 千里の浜。  広う思ひやらる”


と記されくらい静岡駿河区から清水区にかけての浜は、駿河湾に面し、明るい太陽が降り注ぐ美しい海岸線として知られていました。  

このような自然条件や地理的条件に恵まれて、駿河湾沿岸は昔 から良い塩が採れる土地柄だったようです。

IMG_0769.JPG

清少納言枕草子 (NHK「100分de名著」ブックス) [ 山口仲美 ]

価格: 1,080円
(2019/3/31 13:53時点)
感想(0件)






2019年03月30日

静岡歴史探訪 今川と製塩

今川と製塩(有渡浜)  
戦国時代には、今川義元が製塩(有渡浜)と金山で財を成し、富国強兵策をとり勢力を伸ばしました。

*有渡浜とは、駿河湾に臨む静岡市 南部の有度山南麓から久能山に広がる浜のことです。

*有度山とは、正確ではありませんが日本平のことと言ったほうが通りが良いかもしれませんが、正確には、静岡市にある丘陵性の 山。
標高307メートル。「うどさん」ともいう。南は駿河湾、東は清水港の海に面して海食崖の急斜面をもつ。  
山頂付近の平坦面は日本平(だいら)とよばれ、富士の眺望が絶景 な山である。

有度浜.jpg
駿河浜塩作り.jpg
塩は「あらしお」として今日に伝えられています。
*あらしお株式会社のホームページを参考にしました。
〒421-0121 静岡県静岡市駿河区広野2308番地-1

【あらしお株式会社】 あらしお 600g【05P03Dec16】

価格: 162円
(2019/3/30 17:07時点)
感想(0件)


2019年03月28日

静岡歴史探訪 薩摩土手(さつまどて)静岡にあるのに

静岡歴史探訪 静岡にあるのに薩摩土手(さつまどて)とは

静岡市の井ノ宮町・ 水道町にある 薩摩土手 (さつまどて)

江戸時代の慶長11年(1606年)頃の徳川家康の駿府城拡張工事に伴い薩摩藩に命じて、安倍川と藁科川の合流工事を敢行させた。 そのことにより薩摩土手と呼ばれている。
(静岡県の遺跡・古墳・城跡ガイド より抜粋)  

静岡市は、徳川家康の駿府城が築かれた場所です。  薩摩土手(権現様堤)と呼ばれる安倍川の旧堤防は、城下町の整備で、薩摩藩が中心となって妙見山の下に築かれました。  

初代薩摩藩主 島津忠恒(しまづただつね)は、堤防建設に必要な石材・木材を清水湊まで150艘の船で運んでいます。  堤防の規模は、全長約4.4km、高さ約5.4m、基底部21.6m、上面幅約10.8m。  

現在の堤防は西側にあり、薩摩土手は開発で削られ一部を残すのみです。

薩摩土手.jpg

大御所徳川家康と駿府城公園 (単行本・ムック) / 田中省三/著

価格: 1,543円
(2019/3/28 13:15時点)
感想(0件)



プロフィール
慈しみ深くさんの画像
慈しみ深く
長い坂道を歩いてきました。「まさか」という坂も経験しました。
最新記事
カテゴリーアーカイブ
写真ギャラリー
<< 2024年11月 >>
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索
ファン
最新コメント
タグクラウド
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: