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2020年04月13日
コロナの時代の「言論の自由」 「緊急」の中でコソ「批判の自由」が大切な理由
コロナの時代の「言論の自由」
「緊急」の中でコソ「批判の自由」が大切な理由
〜武蔵野美術大学教授 憲法・芸術関連法 日本ペンクラブ会員 志田陽子 4/12(日) 4:33〜
武蔵野美術大学教授 志田陽子氏
〜今必要な自粛は、波風を立て無い同調を求める事とは異なる〜
1 緊急事態 憲法が有るから必要な措置が出来無いは誤り
4月7日の緊急事態宣言から4日が経過した。この方向に向かうべきでは無い、と思う流れが幾つか出て来た。
ひとつ は、今回の「緊急事態宣言」と憲法改正論議の中で言われる「緊急事態条項」とは全く別物なのだが、 今回の緊急事態措置を行う為に憲法改正論議が必要 だ・・・との発言が一部議員と首相から出た事。もうひとつは 「批判」の価値を否定するムード が、著名人のメディア発言や一般人のSNS発言の中から出て来た事である。 ※緊急事態 改憲論議も必要 安倍首相 時事通信4月7日配信
今回の緊急事態宣言と、それに伴う各種の措置・・・政府と自治体が行う休業要請や自粛要請等は、現行憲法の下にある「改正 新型インフルエンザ対策特別措置法」に基づいて行われるものである。コレは憲法改正に依って新設する事が提唱されて居る「緊急事態条項」とは全く異なる。
一方「緊急事態条項」は、一口に言えば、政府の判断で民主主義のプロセスを止めて、政府(行政権)だけの判断で法律と同じ効力を持つ政令を発令出来ると云うものである。
今回の新型コロナウイルス対策に付いて「現行憲法の下では有効な対策が行え無い」とするのは、全くの誤りである。感染症拡大防止の為に政府が最大限の努力をすべき事は、現行憲法と抵触し無い処か、憲法が求めて居る事なのである。
国には、憲法25条1項によって「健康で文化的な制定限度の生活」を保障する責任、25条2項「公衆衛生」に依って感染症を防止する責任がある。25条2項は努力義務に留まる規定に為っては居るが、政策努力を行うべき事は、憲法が国に要請して居る。
この為に経済活動にどうしても今以上の制約をし無くては為ら無い時には22条・29条の「公共の福祉」に基づいて、法律の下、政策を打つ事が出来る。医療施設増設の為に、土地建物等の財産を収用する事も可能である。営業自粛に伴う損失補償を何処迄遣れるかは、今、国中を巻き込む争点と為って居るが・・・勿論国には最大限の誠実な対処を求めたい。
が、土地建物等の財産を国が収用して使う場合には、買い上げ等「正当な補償」をする事を条件に「遣って好い」と、憲法29条3項が言って居るのである。
これ等に憲法改正は必要無い。コロナ問題が憲法改正の正当化の為に利用されて居る、或いは、現行憲法が必要な措置を遣ら無い為の言い訳として利用されて居ると見えても仕方が無い。無用の回り道をして居る暇が有ったら、必要な措置を執る為の議論と実施を迅速に遣って欲しいと言わずには居られない。
2 民主主義と「表現の自由」
この擦り替えは、言葉が紛らわしい事に加えて、民主主義を真面に遣るのは面倒だと云う政府側の傾向に端を発して居るのでは無いだろうか。その傾向は、2015年9月の安保法制に関する法改正の実質強行採決の時にも、2017年に憲法53条に基づく臨時会開催要求を黙殺して衆議院解散が行われた時にも顕著だった。
解散総選挙を遣る事が民主主義なのでは無い。選ばれたからには「民主主義」のルールを定めている憲法を守りつつ、民意を汲み取りながら必要な仕事を粘り強く行う事が本来の民主政治である。その《粘り》が失われる傾向が続いて来た事を、先ず前提として思い起こして置く必要がある。
そして2020年4月11日現在、営業自粛をする人々への休業補償や生活保障が有効な形で進まず「宣言」を受けた自治体の決断に対して「宣言」を出した側の政府・内閣の方が及び腰な姿勢を見せてしまった為、多くの関係者をダブルバインド状態に置いてしまった事。更に未だ感染拡大リスクを高める行動を執って居る人々が散見される事・・・ナドナドが重為った。
その状態に業を煮やした一般人の側から 「もっと強い強制力を発揮して欲しい」 と云う声も出て来て居る。しかし、此処で警察等の「強制力」に頼る事は大きな代償を伴う。歌舞伎町で既にそれが起きて居る事を指摘する動画がツイッター上に投稿されて居る。
この様に警察に依る威嚇で抑え込んだり、憲法を改正して「緊急事態条項」を発動して抑え込んだりすれば、コロナ問題を切り抜けた後の社会が、民主的な社会に戻れ無く為って行く。此処には「民主主義では埒が明か無い」と云う一般人側の諦観も流れ込んで居る様に見える。
しかし此処で民主主義と云う面倒な方式を手放し「黙って政府にお任せコース」を選択する事は、肺の疾患から逃れる為に脳や心臓を手放す事と同じである。
此処で「脳」と云うのは「自分の事は自分で決める」と云う自己統治の意志「心臓」と云うのは、その意志や情報を社会に巡らせる血流ポンプの事である。その血流を支えるのが「表現の自由」である。「表現の自由」に執って「批判の自由」は最も大切な要素である。
民主主義を支えるのは「言論の自由」で有る。民主主義から「言論の自由」が見失われると「選挙で一旦選んだ人々のする事には従うしか無い」と云うロジックが罷り通って仕舞、民主主義と云う言葉は、為政者のする事を正当化する為の合言葉に堕してしまう。
日本国憲法は16条で「請願権」を保障し、19条で「思想良心の自由」を保障し、21条で「表現の自由」を保障して居るが、それは「一旦選んだらお仕舞」にし無い為の権利保障である。
3 批判の抑え込みと情報統制が行われるのか?
選ばれた側の為政者にして見れば、大変な時には口出しをし無いで欲しい、忙しい時には雑音に付き合っては居られない・・・と云う気分に駆られ易いだろう。そして為政者は常に大変だったり忙しかったりするだろう。だからコソ、その言い訳に依って「言論の自由」が封じられる事の無い様に、憲法は「表現の自由」を明確に保障する事で、その言い訳の方を封じる役割を担って居る。
しかし、コロナ対策に関連して、此処に懸念すべき状況が起きて来た。例えば、次の新聞報道の見出しが問題の所在を好く伝えている。私達は、このテーマに関しては、約80年前の歴史に学ぶべき事が、マダマダ有る。
※「国難だから政権批判するな」が生み出す「本当の国難」毎日新聞デジタル 4月11日
又、緊急事態宣言が発出された4月7日同日、外務省が新型コロナウイルスへの日本政府の対応に関し、SNS上の投稿をコントロールする事が報じられた。
※ 海外SNS投稿 AIで情報分析 政府コロナ対応巡り 毎日新聞デジタル4月7日
これに依れば、外務省は新型コロナウイルスへの日本政府の対応に関し、海外からのSNS投稿を人工知能(AI)等で調査・分析した上で、誤った情報に反論する取り組みを始めると云う。集団感染が起きたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の対応を批判する投稿が相次いだ事を踏まえた対応だと云う。
ツイッター等の情報を分析する企業に委託し、主要20カ国・地域・G20等からの書き込みを収集・分析する。誤った情報だけで無く、関心が集まる懸念事項が有れば、日本政府が正しい情報を発信する、共報じられて居る。
誤った情報(デマ)への対応は、状況に依っては必要だろう。表現を規制・制約するのでは無く・・・これは遣ってはいけ無い・・・例えば感染者数等の公共情報に付いて、謝った情報・デマが拡散された時・「正確な情報はコチラです」とアナウンスする・・・等である。関心が集まる懸念事項に付いて正しい情報を発信すると云うのは、素直に読めばこの意味だろう。しかし、この動きを「批判を封じ込める情報操作」と見て、強い警戒を示す論説もある。
※ 24億円! 厚労省でも同様の予算 国民の生活補償より情報操作に金掛ける安倍政権 リテラ 2020.04.10 配信
この記事に依れば、この外務省の対応には24億円の予算が計上されて居り、更に今月7日以降、外務省以外の省庁でも同種の対策に予算を割いて居ると云う。7日に閣議決定された新型コロナの緊急経済対策で、感染拡大防止の一環として「情報発信の充実」が掲げられた事を受けての事だと云う。
この対策は、政府批判を封じ込めて、政府が好しとする内容だけを正しい情報とする言論統制と為るのかどうか・・・その可能性は有る。今、そうだと断言する事迄は筆者には出来ないが、此処は国民がその方向を食い止める為に確り見続ける必要がある。※その時に必要なのは批判的思考である。
※ 4月12日追記:外務省が出したPDF文書を見てみると、この情報対策は「感染症を巡るネガティブな対日認識を払拭する為・・・SNS等インターネットを通じ,我が国の状況や取組に係る情報発信を拡充」と有る。発信を削除させる等の粗暴な抑え込みでは無い様である。しかし、日本の対策に対しては海外から、数々の疑問や批判が寄せられて居り、この中には貴重な指摘が多く含まれて居る。これを「払拭する」姿勢が正しいのかどうか。この問題は、後日稿を改めて論じたい。
4 「批判をして居る場合では無い」?
国難・緊急・非常時と云った言葉は 「今は批判をして居る場合では無い」 と云うムードを作り出し易い。例えば、次の記事の見出しはどうだろう。
※ YOSHIKI「今は誰かを批判する時ではない」「人間の強さを見せつける時」に賛同続々 スポニチ4/11(土) 配信
アーティストの発言は、時に大きな社会的影響力を持つ。YOSHIKIは「ライブ自粛を呼び掛ける等新型コロナウイルス感染拡大防止に付いて発信を続けて居る」と云う。ライブが感染を拡大させる危険性に付いては、大分明確に為って来た。
音楽に感染拡大の危険性が有る訳では無い。ライブでは、人間の呼吸を介した集団感染が起き易いと云う話である。コレは専門家だけが語り得る知識では無く周知の常識に為ったと見て好いだろう。
この人物のコノ言葉自体は、政策批判に言及したものでは無く、自粛せずに集客ライブを行った他のアーティスト達を批判する積りは無いと云う意味らしい。他にもスポーツ選手等の著名人の中から、似た趣旨の発言が見られる様に為って来たが、コレも、スポーツイベントが中止に為った事への無念や悔しさを今は堪え様と云う意味だと思う。私はこれ等の呼び掛けを、条件付きで意義の有るものと思って居る。条件付きと云うのは、コレが「批判の自由」を塞ぐ空気を作り出す可能性が有る事には注意が必要だからである。ソコで、取り敢えず「批判」を二つに分けてみる。
(1) 批判的思考と云うものは、人間が自分らしく生きる為にも、社会を作って行く為にも必要なものである。咬み砕いて言えば、与えられたものを絶対化せず、自分の頭で考えて、正しいと思う時には賛同し、間違って居ると思う時には賛同しないと云った事である。
又、当事者として「それでは無い」と言わ無くては為ら無い時もある。足を骨折して松葉杖が必要だと言って居る人に竹馬が与えられたら「私が必要として居るのは、ソレでは無くてコレなんです」と言うべきだ。真面な為政者で有れば、現実のニーズに噛み合った施策をしよう、その為の情報は「それは違う」と云う批判も含めて必要だと考える筈である。
この時、私達は当然に、批判的思考を働かせて居る。その結果の賛同為らば無自覚な同調や従属と云う事には為ら無い。
(2) 一方、或る人が言う事は反射的に全て間違って居ると考え、「その手は食わないぞ」と否定する姿勢を示す事を「批判」と呼ぶ場合もある。或いは、誰かを貶して叩いて楽しむ、憂さ晴らしとしての「批判」も有るかも知れない。或いは、言葉尻を捉えて揚げ足を執る知識や言い回しの巧拙を取り上げてマウンティングに走り、それが自己目的化して居る様な「批判」と云うものも有る。
知識の量や言葉の巧拙を競う知的ゲームの土俵ではそれもアリだが、コロナ問題はそうした知的ゲームのネタでは無い。生命・経済・社会的生存、そして各種人権の全てが懸かって居る、真正の緊要政策課題である。
民主主義と云うものは (1) で挙げた「批判的思考」抜きには成り立た無い。しかし実社会では「批判」は (2) のタイプのものも含む。先に挙げた 「今は誰かを批判する時では無い」 と云う呼び掛けは、この (2) のレベルの「批判」の事を言って居るのだとしたら、筆者もそれに賛成する。
或いは、ホッブズに倣って 「人は死の危険を目前にして、虚勢(優劣を競う欲求)に拘って居る場合では無いと気付いた時、生きる為の妥協を受け入れる、その妥協の産物が国家と法だ」 と云うべきだろうか。
例えば筆者は、必ずしも必要だったとは思われ無い「緊急事態宣言」には、消極的賛成しか出来無い。しかし発出されたと為れば、その是非を論じる事に注力するよりも、これが適切に運用される事・議論が「緊急事態条項」の話へと横滑りして必要な施策が行われ無い事態が起きればソコを「批判」する事に労力を使いたい。「緊急事態宣言」そのものに付いては、妥協の姿勢を執って居る事に為る。
しかし、もしも 「今は批判をして居る場合では無い」 と云う呼び掛けが (1) の意味の批判を塞ぐ結果と為ると、社会は今以上の危機に陥る。
今だからコソ「批判」と「批判リテラシー」が必要な理由
前にも書いた事だが、此処で国や自治体が、未知の経験に付いて最も賢明な策を執れる保証は無い。民主主義は元々、少数者の専断に委ねると陥り勝ちな《最悪のシナリオ》を、社会メンバー全体の参加とコントロールに依って回避しよう・・・と云うリスク回避思考の選択である。
未知の経験に付いては、政府の対応は不完全だったり的外れだったり・無策だったり無謀だったりする可能性は十分に有る。そう云う発想に立って、情報と知識を持ち寄るのが民主主義に適う思考である。コレは上記 (1) の批判的思考を生かさ無ければ出来ない事である。
此処には、自分の現実のニーズ・・・何処にどの様な補償や支援策が必要かに付いて知らせる表現・噛み合わ無い政策に付いて指摘する批判表現も含まれる。この為の「表現の自由」や「請願権」は、今、この状況だからコソ、為政者に届く様、最大限に尊重され確保されるべきなのである。仮にこれを塞ぐような「措置」があったとしたら、憲法違反と言わ無くては為ら無い。
YOSHIKIがライブ自粛を呼び掛けるのと同じく、不特定多数の人が参集して声を挙げるタイプの集会は、今は自粛した方が好いと筆者は考えて居るが、これは「表現」を自粛する事を求めて居るのでは無い。感染防止の観点から、今だけ表現の発信方法を切り替えよう・・・と呼び掛けて居るのである。
この自粛と「異を唱えるな、波風を立てるな」と云う「同調圧力」とは別物であり、コレが混同されて同調圧力へ傾いて行く事には、警戒心を持た無くては為ら無い。 そして、必要な「批判」の価値が否定される事の無い様、可能な限り (1) の意味の批判言論を意識すると云う「批判のリテラシー」をセットで心掛ける必要も今は有るだろう。
娯楽としての批判を封じて好いと云う意味では無いので、筆者が憲法研究者として言えるのは、発言者各人が「意識しよう」と云う処迄である。
政府要人に捕っては、「言論の自由」に依って発せられる多数の声に船を揺さぶられる事は、面倒な事では有るだろう。しかし、ソコにコソ価値の有る指摘や着想を発見出来るのではないか。人間の体で言えば、摂取した食べ物の中から、必要な栄養素をより分けて必要な処に届ける作用を、私達は日々行って居る。
民主主義の中の「言論の自由」と為政者との関係もこれに似て居る。ソレは、膨大な砂の中から砂金を採り出す作業に似て居る。その作業が出来る事が為政者の条件で有る。その作業を嫌って批判を塞いでしまっては、民主主義の社会は基礎体力を失って衰退して行く。
国難・緊急と云う言葉の下にこの状況を乗り切る事を余儀無くされた今、私達は、その分岐点に立って居る。既に日本は沢山の分岐点を通過してしまったが、筆者は未だ「手遅れ」とは書かない。外務省その他の省庁に割り当てられた情報コントルールに関わる予算が、規模とプライオリティ・優先性に置いて適切なもので有るか、その運用が民主政治・民主社会を損なう《統制》に傾く事が無いかどうか。更に民主主義の停止を正面から認める「緊急事態条項」の議論へ話が横滑りして、真に緊急を要する事柄が放置されはしないか。私達は粘り強く見守って行く必要がある。 (了)
志田陽子 武蔵野美術大学教授 憲法・芸術関連法 日本ペンクラブ会員 東京生まれ 早稲田大学法学部卒 専門は憲法 2000年より武蔵野美術大学で 「憲法」及び表現者の為の法学を担当 憲法「表現の自由」を中心とした表現者のための法ルール・ 文化芸術に関連する法律分野・人格権・文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にして居る 映画や音楽等の文化の中に憲法の精神や歴史背景を探る講演活動がライフワーク 著書に『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)『表現者のための憲法入門』(2015年)『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)『「表現の自由」の明日へ』(2018年)
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