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2021年12月07日

1941年12月8日 日米戦争開始から80年 特集



【特集1】 時代に翻弄(ほんろう)された「軍神」

真珠湾で戦死 前橋出身の岩佐中佐 事実を学び平和の糧に


12-7-1.png 12/7(火) 6:04配信



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岩佐中佐の肖像画 12-7-2


太平洋戦争が始まった、旧日本軍に依る真珠湾攻撃から8日で80年を迎える。魚雷を備えた特殊潜航艇5隻を率いて米艦隊への攻撃を目指したのが、群馬県前橋市出身で当時26歳の岩佐直治中佐だった。真珠湾で戦死し、死後に〔軍神〕として称揚された一方、戦後は批判的に語られ、今は存在を知る人も少なく為って居る。関係者はその変遷を空しく振り返り、有識者は 「時代に流されず、事実を客観的に学ぶ事が平和を維持する為に最も重要」 と指摘する。


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木々に囲まれ、ヒッソリと立つ岩佐中佐の墓 1日 前橋市本町の松竹院 12-7-3


 前橋市中心街に近い松竹院(同市本町) 1日に境内を訪ねると、木々に囲まれた岩佐中佐の墓がヒッソリと立って居た。中佐が残した句碑や、同級生が建てた墓標も立って居る。同寺で生まれ育った 明峯悦子(めいみねえつこ)さん(77) に依ると、過つて12月8日の命日には、生前の岩佐中佐を知る人や海軍兵学校OB等が集まり賑わったと云う。だが、高齢化に依り訪れる人は減り、数年前からはホボ途絶えた。

 明峯さんは 「時代が移り変わり、戦争への関心が薄れたと感じる。歴史が切れてしまった」 と寂しそうに語る。同寺の墓標は、一周忌の後、旧制前橋中の同級生が建立したものだ。
 墓標を建設する為に土地の使用許可を求めた当時の申請書や許可証が、県立歴史博物館(高崎市)に所蔵されて居る。同校時代の同級生、伊藤清一さん(故人)が所有し親族が同館に寄贈した。

 同館の佐藤有学芸員は、墓標と関連資料に着いて、地域の歴史を伝えて行く上での重要性を説明する。 「岩佐中佐の人柄を実際に知る人々の思いを現代に伝える貴重な資料」
 歴史に詳しい群馬地域学研究所の手島仁さん(62)に依ると、岩佐中佐は戦時中は 「軍神」 と称えられた一方、戦後は 「出身地の前橋が空襲で狙われた」 等とデマを流された事も在ったと云う。
「美化や俗説から離れ、残された資料を基に客観的な事実を捉える必要が在る」 と強調。イデオロギーや誤った情報の影響を受けた社会が、中佐を如何扱って来たかを学ぶべきだとして 「正しい情報に基づいて判断する事が、平和を維持する為に最も重要だ」 と話す。

 岩佐中佐は記者と同年代の26歳で戦死した。戦時中の1942年3月7日付の上毛新聞は、その死を 「死に生く軍神九勇士」 と称える。戦意高揚を煽る当時の紙面には大きな違和感を拭え無い。新聞を初めとするメディアは現代でも 「一面的な歴史」 を造りかね無い。責任の大きさと共に、戦争経験者が少なく為る中で歴史を検証し、伝えて行く大切さを改めて感じる。


岩佐直治中佐 1915(大正4)年 前橋市に生まれる 旧制前橋中を卒業後海軍兵学校へ進み潜水艦の研究や訓練に打ち込んだ 41(昭和16)年12月8日 大尉として特殊潜航艇5隻を率いて米国のハワイ真珠湾へ潜入し26歳で戦死した 死後は2階級特進して中佐と為り戦死した部下と共に「軍神」と称えられた



【特集2】 迫力の3分の1ゼロ戦 手作りした群馬の66歳

5月から制作 「戦争起こさぬ」思いも込め

12-7-1.png 2021/12/2 06:00


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3分の1サイズのゼロ戦を完成させた佐藤さん 12-7-4


旧日本軍の真珠湾攻撃に依る1941年の日米開戦から8日で80年と為るのを前に、群馬県藤岡市東平井の 佐藤丈夫さん(66) が、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をモデルにした模型を制作した。
 実機の3分の1サイズで、コックピット内を精巧に再現し、プロペラをモーターで動かせる本格的な仕様。4日から同市浄法寺に開設したギャラリーで公開する。佐藤さんは 「戦争は二度と起こしてはいけ無い悲劇」 とし、平和への思いを強調する。

 看板塗装業を営む佐藤さんはプラモデル作りを趣味にして居る。5月から本業の技術を生かして大型模型作りに挑戦し「三菱零式艦上戦闘機52号」のプラモデルや写真を参考にホボ1人で完成させた。
 縦3メートル・両翼3.65メートルの機体はアルミ複合板でフレームを組み上げ、ボール紙やシートを貼った後に塗装した。扇風機のモーターを活用したプロペラはスイッチで回り、主翼や尾翼も動かせる等細部に拘った。コックピットには知人に手作りして貰った操縦士の人形を乗せて居る。

 佐藤さんは 「昔の写真を見ながら少しずつ制作して来た。模型は作品として同じ趣味の人に見て貰えたら」 と話して居る。又、同市出身でゼロ戦の開発者として知られる 航空技術者・堀越二郎(1903〜82年) にも触れ 「堀越の優れた技術や造形美を後世に伝えて行く事も重要」 と話して居る。

 ギャラリーは浄法寺の向かいに在り、ゼロ戦10機と「赤城」「大和」と云った軍艦のプラモデルを並べた自作のジオラマも展示する。 午前9時〜午後4時半(土日のみ) 問い合わせは佐藤さん(090-3699-1273)




【特集3】 「一生懸命遣った事が戦後、馬鹿みたいに言われて」

〔戦闘機乗り〕 最期に遺した「空しい人生」の言葉



現代ビジネス 12/5(日) 6:02配信


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昭和16年12月8日 日本海軍機動部隊の奇襲を受け、炎上する真珠湾 12-7-5


昭和16(1941)年12月8日、日本海軍機動部隊に依るハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火蓋が切られて、今年・令和3(2021)年12月8日で80年に為る。
 アノ日、日本海軍の6隻の航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機・第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、僅か2時間足らずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。

 アメリカ側は、戦艦4隻が沈没又は転覆したのを初め19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊或いは損傷し、死者・行方不明者は2,400名以上・負傷者1,300名以上を数えた。
 一方、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻・戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)だった。しかし、この真珠湾の 「大戦果」 は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わ無かった事から 「騙(だま)し討ち」 と喧伝され、返ってアメリカの世論を一つにまとめる結果と為ってしまった。

「リメンバー・パールハーバー」 のスローガンの基、一丸と為ったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月に及んだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽・降伏と云う形で終わる。  
 真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名。途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、及び予備員の人数は含まず。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割に当たる 617名 がその後の激戦の中で戦死或いは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは 148名 に過ぎ無い。

 その殆どが今や故人と為ったが、此処では、筆者の四半世紀に及ぶ関係者へのインタビューを基に、アノ日、真珠湾の夜明けを見た男達の回想を9回シリーズでお届けする。


真珠湾攻撃計画が伝えられた


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進藤三郎大尉(昭和17年11月、南方戦線へ発つ前、東京駅にて)12-7-7


進藤三郎(しんどう さぶろう) 第二次発進部隊制空隊指揮官 空母「赤城」戦闘機隊(零戦) 当時海軍大尉  明治44(1911)年 横須賀に生まれ呉で育つ 昭和7(1932)年 海軍兵学校(六十期)を卒業 飛行学生を経て戦闘機搭乗員と為る 
 昭和12(1937)年 空母「加賀」乗組として第二次上海事変で初陣 昭和15(1940) 第十二航空隊分隊長として、採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中華民国空軍の戦闘機27機を撃墜(日本側記録) 損失ゼロと云う一方的勝利を納める 
 昭和16(1941) 空母「赤城」分隊長として 真珠湾攻撃第二次発進部隊制空隊を指揮 その後も第一線指揮官としてラバウル・マリアナ・フィリピンを転戦 筑波海軍航空隊飛行長として福知山基地で終戦を迎えた 終戦時海軍少佐 戦後は自動車ディーラー(山口マツダ)勤務 平成12(2000)年歿 享年88



進藤三郎氏・インタビュー談

昭和16(1941)年10月1日頃 各航空戦隊の司令官・幕僚・空母の艦長・飛行長・飛行隊長クラスの士官が、志布志湾に停泊中の「赤城」参謀長室に集められ、此処で第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将より「絶対他言無用」との前置きの元、真珠湾攻撃計画が伝えられました。
「仕舞った。コレを聞いたからには休ませて呉れとは言え無いな」 と観念しました。と云うのも、それ迄の長い戦地勤務で私の体は疲れ切って居て、黄疸の症状ま出出て来た為に、休養を申し出ようと思って居た処だったんです。

零戦の初空戦を指揮


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昭和15年9月13日、一方的勝利に終わった重慶上空での零戦初空戦を終え、漢口基地に帰投した進藤大尉 12-7-8


 昭和12(1937)年8月 第二次上海事変で初めて敵機と交戦して、15(1940)年9月には、制式採用されたばかりの零戦の初空戦を私が指揮する巡り合わせに為りました。それからハノイ基地に移って援蒋ルート(米英が蒋介石率いる中華民国政府を援助する為アジアに設けた輸送路)遮断作戦に従事し、それが一段落着いたら今度は「赤城」分隊長に発令された。

 私は「教官不適」と言われてたもんで、常に第一線部隊に出されて居ました。南雲中将の話を聞いた時「赤城」の戦闘機飛行隊長・板谷茂少佐が、ヤヤ興奮の面持ちで「進藤君、こりゃ、確り遣らんといかんな」と、声を掛けて来ました。私も「遣りましょう」と答えた。
しかし解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込む時にネ、板谷少佐が「俺達は死力を尽くして戦うだけだが、戦争の後始末は如何遣って着ける積りなのかな」と呟いたのを聞いて、こっちが本音なんだろうなと思いました。  

 板谷少佐の海軍兵学校五十七期と私の六十期は、ドチラも卒業後、遠洋航海でアメリカに行ってるんです。私は、8年前に見たアメリカを思い出しました。国土は広いし、街は立派だし、人々の暮らしは豊かだし、日本と比べてアラユルものが進んで居る。コンナ国と戦争しても勝てる筈が無い。それでももし戦争に為ったら、我々軍人は為るべく敵に痛い目を見させて、講和条件が有利に為る様全力で戦うしかありません。  
 空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃の時以外、陸上基地で訓練を行って居て「赤城」戦闘機隊は、鹿児島の鴨池基地を拠点にして居ました。兎に角猛訓練でしたよ。編隊同士の空戦は勿論、洋上航法や通信、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃に依る高度8,000メートルでの射撃訓練・・・

 母艦に搭載される零戦には〔クルシー〕と呼ばれる〔無線誘導による帰投装置〕が装備されて居ましたが、熊本放送局の電波を使って帰投訓練も念入りに遣りました。11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達され、その日の夜半、特別集合訓練が発動、翌4日から3日間に渉って全機・全力を以て、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれました。  

 私の当時のメモには〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前七時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日 〇五〇〇ヨリ訓練開始〉と書かれて居ます。激しい訓練で、攻撃隊の九九艦爆の中には不時着する機も出ました。

最早引き返す事は出来ない


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進藤氏が遺した真珠湾攻撃の機密書類の束。択捉島単冠湾で出撃搭乗員たちの打ち合わせが行われた11月24日から始まっている 12-7-9


 「赤城」が佐伯湾を出たのは11月18日の事です。機動部隊は一先ず北へ向かい択捉島単冠湾(えとろふとう ひとかっぷわん)に集結しました。湾の西に見える単冠山は、既に裾まで雪に覆われていましたね。
 11月24日、6隻の空母の全搭乗員が「赤城」に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と最終打ち合わせが行われた。私が手元に残して居たハワイ作戦関連の軍機書類の日付はこの日から始まって居ます。

 11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨(ばつびょう) ハワイに向かいました。12月8日、私は第二次発進部隊制空隊・零戦35機の指揮官でした。真珠湾に向け飛行中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえて来た。陽気な音楽が流れて居たのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、好くは聞き取れませんが、コレは第一次の連中遣ってるなと。  
 オアフ島北端、白波の砕けるカフク岬を望んだ所で高度を6,000メートル迄上げ、敵戦闘機の出現に備えます。オアフ島上空には、対空砲火の弾幕がアチコチに散らばって居る。それを遠くから見て、敵機だと勘違いして、接敵行動を起こしそうに為りました。途中で気づいて、何だ煙かと苦笑いしましたが。  

 第一次に遅れる事約1時間、真珠湾上空に差し掛かると、湾内は既に爆煙に覆われて居ました。心配した敵戦闘機の姿も見え無い。空戦が無ければ、地上銃撃が零戦隊の主な任務に為ります。私はバンクを振って(機体を左右に傾けて)、各隊毎に散開し、夫々の目標に向かう事を命じました。  
 私は「赤城」の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りましたが、敵の対空砲火は物凄かったですね。飛行場は黒煙に覆われて居ましたが、風上に数機のB-17爆撃機が確認出来、それを銃撃しました。

 高度を下げると、キナ臭い匂いが鼻を着き、余りの煙に戦果の確認も困難です。それで、銃撃を二撃で切り上げて上昇したんですが。銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認出来ず、味方同士の空中衝突の危険も懸念される程でした。  
 私は、予め最終的な戦果確認を命じられて居たので、高度を1,000メートル以下に迄下げ、単機で再び真珠湾上空に戻りました。すると、立ち上る黒煙の間から、上甲板迄海中に没したり、横転して赤腹を見せて居る敵艦が見える。

 海が浅いので、沈没したか如何か迄は判断出来無いものの方が多いんですが、それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆の凄まじさを見れば、完膚なき迄に遣っ付けた事は間違い無さそうだと思いました。  
 これは偉い事に為ってるナア、と思いながら胸が空く様な喜びが沸々と湧いて来る。しかしそれと同時に、此処で枕を蹴飛ばしたのは好いが、目を覚ましたアメリカがこのママ黙って降参する訳が無い、と云う思いも胸中を過ります。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、最早引き返す事は出来まい。戦争は行く処迄行くだろう、そうなれば日本は・・・私は、歓喜と不安、諦観が入り交じった様な妙な気分で、カエナ岬西方の集合地点に向かいました。  

 「赤城」に帰投すると、南雲中将が飛行甲板に降りて来て 「好く遣った」 と満面の笑みで私の手を握って呉れました。しかし残念な事に、居る筈の敵空母は真珠湾に在泊して居なかった。艦上では、第三次発進部隊の準備が進められて居ました。
 「蒼龍」の二航戦司令官・山口多聞少将からは「蒼龍」「飛龍」の発艦準備が完了したとの信号が送られて来ます。この攻撃隊を出撃させれば、1機辺り150発しか用意出来無かった零戦の20ミリ機銃弾は概ね尽きる処でした。

一番辛い1年を過ごした


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昭和18年 ラバウルにて 進藤氏はコノ時期が一番辛かったと言う 12-7-10


 私は当然もう一度出撃する積りで、戦闘配食のボタ餅を食いながら心の準備をして居ましたが、南雲中将が第三次攻撃は中止すると云う。それを聞いて、正直な処ホッとしました。詰めが甘いなとは思いましたが・・・
 無理を重ねて来た私は、そのママ祝勝会にも出ずに私室で寝込んでしまいました。それで、内地に帰って直ぐに軍医の診察を受けたら「航空神経症兼『カタール性』黄疸」 2週間の加療が必要との診断で「赤城」分隊長の職を解かれ、広島の実家で静養する事に為ったんです。  

 次に戦地に出たのは、昭和17(1942)年11月の事です。ラバウルを拠点にソロモン諸島のガダルカナル島やニューギニアのポートモレスビーの米軍機と戦って居た第五八二海軍航空隊の飛行隊長でした。私が休んで居る間にミッドウェー海戦で「赤城」も沈み、急激に戦況が悪化して居た。
 私としたら、此処での1年間が一番辛かった。毎日の出撃で搭乗割(編成表)は私が書くんですが、搭乗割を書くとね、そのうちの何人かは必ず死ぬんですよ。それを決めるのは私ですから・・・ソロモンの海に飛沫を上げて突っ込んだ艦爆や、空中で火の玉の様に為って爆発した部下の零戦の姿は今も忘れられません。  

 その後、空母「龍鳳」 次いで第六五三海軍航空隊飛行長に為ってマリアナ沖海戦・フィリピン戦に行き、沖縄戦の頃は第二〇三海軍航空隊の飛行長として鹿児島県の笠之原基地で零戦隊を指揮、それから筑波海軍航空隊福知山派遣隊指揮官として新鋭機「紫電改」の部隊を錬成中に終戦を迎えました。  
 二〇三空飛行長の時、司令が 「うちもソロソロ特攻を出さ無きゃいかんだろうか」 と言うので 「うちの隊には一遍コッキリで死なせる様な搭乗員は一人も居りません、何遍も飛んで戦果を挙げて貰わなきゃ為らんのだから、特攻は出したくありません」 と答えた事があります。司令は 「ソウだな」 と。司令部から何か言われて居たのかも知れませんが、私の隊ではソレっ切り特攻の話は出ませんでした。

「戦闘機乗り」が最期に遺した「空しい人生」の言葉


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進藤三郎氏(1996年 撮影 神立尚紀)12-7-11


 戦争が終わり、飛行服姿のママ基地から追い出される様に郷里の広島に帰ってみると、原子爆弾の焼け跡で遊んで居た子供達が私の姿を認め 「見てミイ、アイツは戦犯じゃ、戦犯が通りヨル」 と石を投げ着けて来た。
 真珠湾から帰った時は、道で会うと敬礼して呉れた子達です。もう遣る瀬無くてね・・・進駐して来た豪州兵にブラ下がる様に腕を組んで歩く日本人女性の姿を見た時、ツクヅク世の中が嫌に為った。一時は自決も考えましたが、終戦直前に生まれた長男が、差し出した人差し指を無心に握って来た感触がよみがえり死ね無く為ってしまって・・・我ながら情け無い気がしました。  

 生きる道を探そうと横須賀に出てトラック運転手を遣ったり、福島の鉱山で働いたり、そのうち創設された海上自衛隊から、航空隊要員として入隊を要請されてその気に為ったんですが、身体検査で不合格に為ってしまった。  
 それで、父が過つて勤めて居た東洋工業に入社して、ディーラーの山口マツダで車を売る事に為ったんです。ロータリーエンジンにはテコズリましたが、常務迄勤めさせて貰い67歳で退職しました。その直後に大動脈瘤が見付かり、生死を彷徨う様な大手術を受けて、今は自宅で静かに暮らして居ます。家内には内緒なんだが、心臓の機能が衰えて居て、医者には、何時止まっても可笑しく無いと言われてましてね。

 振り返ってみると、空しい人生だったと思いますね。戦争中、誠心誠意働いて、真剣に戦って、その事に聊かの悔いも在りませんが、一生懸命遣って来た事が戦後、馬鹿みたいに言われて来て。詰まらん人生でしたね・・・


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神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家 12-7-6


筆者注 進藤三郎氏は昭和15年 零戦のデビュー戦を指揮し、16年 真珠湾攻撃では第二次発進部隊制空隊指揮官を務める等、戦史に名を残す著名な戦闘機乗りだが、極限られた範囲の親しい相手を除いては、戦争の話をする事を最後迄好ま無かった。
 筆者の度重なる取材に応えて呉れたのは、海兵同期で親友の鈴木實氏〈中佐 零戦隊指揮官 戦後キングレコード常務〉の紹介のお陰で在る。進藤氏は平成12年2月2日、自宅のソファで眠る様に息を引き取った。


 筆者が制作協力した真珠湾攻撃80年関連番組「BS1スペシャル『真珠湾80年 生きて愛して、そして〜隊員900人の太平洋戦争〜」(仮)が、12月5日午後10時〜11時49分、NHK-BS1で放送予定です。 BS1スペシャル「真珠湾80年 生きて愛して、そして 〜隊員900人の太平洋戦争〜」
 (仮) 【放送予定】12月5日(日)[BS1]後10:00〜11:49

 80年前、太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃には900人近い航空隊の搭乗員が参加して居た。彼等はその後、ドンな運命を辿ったのか。一人一人の記録を辿ると、半数近くが開戦から1年以内に戦死し、生きて終戦を迎えたのは2割に満た無かった。
 卓越する技量を持つが故に、危険な最前線に投入され続けた者。死を覚悟する一方、家を継ぐ為に縁談を急いだ者。前線の基地から妻に宛て、焦がれる様な思いの手紙を何通も送り続けた者。10年以上に渉り撮影して来た元隊員や遺族の証言を通して〔真珠湾の英雄〕とその家族の生と死を描く。



【管理人のひとこと】

 海軍兵学校を卒業し飛行学生へ進み戦闘機のパイロットへ・・・軍人としては列記としたエリートを進み途中で病気に依る休養を経て、第一線の戦闘機隊の指揮官と為る。度重なる戦闘を経て終戦を迎える。誰にもヒケを捕ら無い素晴らしい経歴だろう。
 そして故郷へ帰り子をもうけ・・・定年迄、会社や家族の為に誠心誠意勤め上げる・・・その最後の言葉が《一生懸命遣って来た事が戦後、馬鹿みたいに言われて来て。詰まらん人生でしたネ・・・》では余りに虚し過ぎる。例え敗北した戦争だったと云えど、国民を代表する政府が決定した「戦争」に命令として参加し参戦した人達に、この様な感想を述べさせるのは、国家としては余りにも寂しい事だろう・・・「貴方達は実に好く遣ったのだ、心から感謝する、大威張りで生きて欲しい!」とエールを贈って当たり前なのです。この様な方達が無数に次々と亡く為られて行く・・・これが日米開戦から80年の経緯なのです。

















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