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2022年01月15日

徳川幕府最後の老中・小笠原長行 が辿(たど)った「数奇な運命」



徳川幕府最後の老中・小笠原長行が辿(たど)った 「数奇な運命」

維新後は20年もの隠遁生活に




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唐津城 1-14-11


最後の老中・小笠原長行 (おがさわらちょうこう) 最後の徳川将軍・慶喜に仕えた人物だが、名前だけは学校の授業で何と無く覚えて居ても印象に強く残る人物では無いだろう。しかし、実は明治以降は数奇な運命を辿って居た。明治維新後はどの様な人生を送ったのか?
 歴史の偉人達の知られざる〔その後の人生〕を人気歴史研究家の河合敦氏が解説する・・・河合敦著『殿様は「明治」をどう生きたのか2』より一部編集の上抜粋。



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歴史研究家 河合敦氏





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明治期の小笠原長行の肖像


唐津藩の小笠原長行は幕末の老中で在る。只、極めて異例なのは藩主(当主)では無く、世嗣(跡継ぎ)のママ幕府の重職に着いたと云う点だろう。しかも、藩主で在る養父は自分より二歳も年下なのだ。実はコレには複雑なワケが在った。

 長行の父親で在る小笠原 〔長昌〕 は奥州棚倉(たなくら)藩主だったが、文化14年(1817)に唐津6万石へ移った。処が、28歳の若さで病歿(びょうぼつ)してしまったので在る。この時長男の長行は僅か二歳だった。
 普通に考えても藩主を務める事は困難だが、特に唐津藩は長崎警備を担当して居た関係から幼君の襲封は認められ無かった。その為、長行は藩主の長男と云う立場に在りながら〔廃人〕・・・障害や病気が在って通常生活を営む事が出来ない者として幕府に届けられ、ヒッソリと養育される事に為った。

 結局、次の唐津藩主には、庄内藩主酒井忠徳の六男で在る 〔長泰〕 が、長昌の養子に入って就任したのだった。だが、長泰は大変病弱な人物でロクに政務も執れ無い状況だった事も在り、十年で隠居を余儀無くされた。
 そこで、唐津藩小笠原氏の親戚に当たる旗本の小笠原長保の次男で在る 〔長会〕 が次の藩主に為るのだが、長会は27歳の若さで急死してしまう。この為、今度は大和郡山藩主柳沢保泰(やなぎさわやすよし)の九男に当たる 〔長和〕 が新藩主と為るも、これ又20歳の若さで亡く為ってしまう。

 唐津藩に取っては、マルで祟られて居る様な不運が続いた。唐津藩では次に信濃の松本藩主戸田光庸の次男 〔長国〕 を藩主とした。この長国が長行より二歳も年下だったのである。
 因みに 〔長行〕 は、先に述べた様な事情から、藩主の血統を継ぎながら家を継承する事が出来ず、ズッと唐津城下に捨て置かれた状況だった。

学問を熱心に学び「老中格」に抜擢



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河合敦『殿様は「明治2」をどう生きたのか 』(扶桑社文庫)1-14-12


 21歳に為った時、江戸に上って深川下屋敷の一角に住むが、その食い扶持ちとして一月僅か五両しか与えられ無かったと云う。
 しかし長行は不満を言う事も無く、松田順之・朝川善庵・江川太郎左衛門等から学問を熱心に学び、当代一流の学者である安井息軒・藤田東湖・羽倉簡堂等と親しく交わり、その英才振りは広く知れ渡る様に為った為に、藩内外から 「長行は将来、唐津の藩主と為り幕政に参与すべきだ」 と云う期待が高まり、長行を現藩主長国の世嗣にしようと云う運動が起こり、遂に36歳の時、長行は長国の跡継ぎの座に着いた。

 この時期、既にペリーが来航し、下級武士の間で尊王攘夷運動が盛り上がりつつ在った。だが、開明的な長行は一貫して開国を主張して居た。世嗣と為った長行は、藩主の名代として唐津で藩政に参画する様に為ったが、その才能を見込んで、土佐藩主の山内容堂が強く幕閣に長行を登用する様求めた。  
 その甲斐在って、誠に異例ながら文久二年(1862)七月、長行は幕府の 〔奏者番〕 に登用され、翌月には 〔若年寄〕 に転じ、更に九月 〔老中格〕 に抜擢され、その分掌として 〔外国御用取扱〕 即ち、今で云う 〔外務大臣〕 と為ったのである。

 長行は老中に就任すると、大きな外交問題の解決を迫られる事に為った。同年八月に発生した生麦事件(薩摩藩士に依るイギリス人殺傷事件)を巡り、翌文久三年イギリスの代理公使ニールが莫大な賠償金の支払いを幕府に強く迫って来たのだ。

内と外の圧力の間で

 この時長行は、将軍家茂と共に上洛して居た。江戸の幕閣達は、将軍が帰還する迄、賠償金の支払いの可否を引き延ばそうとしたがそれにも限界が在った。こうした切迫した事態を知り、長行は文久三年四月に江戸へ戻り、自らニールと交渉に当たった。そして、殆ど独断を以て、賠償金の支払いをイギリス側に了承したのだった。  
 一方、京都では、飛んでも無い事態が進行しつつ在った。京都に足止めされた将軍家茂が、朝廷の急進派の公家や彼等と裏で結ぶ尊攘派志士の圧力を受け、四月二十日に 「五月十日を以て攘夷を決行する」 と約束させられてしまったのである。

 この為、将軍後見役の一橋慶喜がその事実を江戸の閣僚に伝えて、イギリスへの賠償金の支払いを中止させる目的で京都から江戸へ向かい始めたのである。  
 賠償金の支払い期限は五月三日と決まって居たが、この事実を慶喜からの書面で知った長行は、仕方無く慶喜の到着迄支払いを先送りする事に決め 「発病したので三日間だけ支払いを延期させて欲しい」と 五月二日に家臣を通じてニールに申し入れた。

 これにニールは激怒し 「期限迄に賠償金が届か無い時は、軍事行動を始める」 と断言した。方や、慶喜はユルユルと江戸に向かいながら 「金を払うな」 と云う書面を盛んに送って来るので、長行は如何にも動け無かった。
 開港地横浜では、フランス海兵隊が上陸したりイギリス軍が戦闘準備を整える等、具体的な動きを始め緊迫した状況と為った。 「このママでは、確実に戦争に為る」 そう判断した長行は、武力衝突を避ける為、激しい非難を覚悟した上で、五月九日に多額の賠償金を横浜のイギリス公使館へ運び込んだのだった。

幕末の目まぐるしい政局に翻弄されて

 更にである、長行は驚くべき行動に出た。外国奉行や目付等と共に千人以上の兵を軍艦やイギリス船に分乗させ、海路西へ進み大坂に上陸したのである。そして、その大軍を引き連れて京都方面を目指して進軍を始めたのだ。この報を得て、京都の幕閣は仰天した。直ぐ様、若年寄の稲葉正巳が長行の元に駆け着け、京都へ入らぬよう制止した。

 けれど長行は淀迄歩を進めてしまう。だが結局、幕閣に入京を阻止された上、長行は老中を解任された。しかもその免職は朝廷が幕府に要求したもので在った。朝廷が老中の進退に口を出すと云うのは前代未聞の事だった。
 如何にこの時期、幕府の力が弱く為って居るかが判る。この軍事行動を咎められた際、長行は 「生麦事件の賠償金支払いに付いて将軍に事情を説明し、攘夷決行に付いて私見を話す積りだった。他意は無い」 と述べて居る。

 だが、千人を超える兵を引き連れて遣って来て居るのだ。そんな穏便な理由で在る筈が無い。明らかに嘘だろう。恐らく真の目的は、尊攘派に軍事的な圧力を与え、京都に軟禁状態に置かれ攘夷決行を迫られて居る将軍家茂を江戸に連れ戻そうとしたのだ。  
 実際、長行の無謀な行動のお陰で、間も無く家茂は江戸へ戻る事が出来た。しかし、長行はその後、江戸で謹慎と為ってしまう。

 幕末の政局の転換は真に目まぐるしい。翌元治元年(1864)七月、薩摩・会津藩等公武合体派に依って朝廷から尊攘派が駆逐され、それに激高して京都に襲来した長州軍が撃破(禁門の変)されると、九月に長行は再び老中に登用された。

長州の離反と幕府征討軍の敗退

 幕府は、禁門の変で敗れ朝敵と為った長州藩を征討すべく大軍を派遣した。(第一次長州征討) しかし、保守派政権に変わった長州藩が、尊攘派三家老の首を差し出して恭順して来たので、征討軍は戦わずして引き揚げた。
 そして、慶応二年(1866)二月、小笠原長行は幕府の責任者として広島に派遣され、長州藩側との交渉に当たる事と為った。長行は、交渉の為長州藩の家老や支藩の藩主達を広島に呼び出したが、彼等は病だと称して出頭を拒絶した。

 その後、四月に為って要約毛利の使者が遣って来たので、長行は長州藩に対し 「十万石の減封と藩主父子の蟄居」 を通告した。既に処分内容に付いては、孝明天皇の勅許は得て居た。長行は、長州藩主毛利敬親父子に 「請書(処分内容を受諾する書状)」 を五月末迄提出する様命じた。
 この頃の長州藩では、 高杉晋作 がクーデターを起こして保守政権を倒し、桂小五郎を中心とする革新政権が誕生して居た。更にそれに先立つ同年一月には、密かに 薩長同盟 が締結されて居たのである。この為、請書が藩主父子から長行に提出される事は無かった。そう、長州藩は幕府の要求を拒絶したので在る。

 これにより交渉は決裂、同年六月、第二次長州征討が始まった。十五万の征討軍が組織され、紀州藩主徳川茂承を御先手総督として大軍が長州に向けて進発、西国諸藩も続々と出陣し長州領の包囲を開始した。この時長行は九州方面軍の総督に任じられ、船で九州小倉へ向かい開善寺に本陣を据えた。

 戦いは幕府海軍が六月七日に長州領の周防大島を砲撃した事で火ぶたが切って落とされた。以後、石州口、小倉口、芸州口等で次々と戦いが始まった。既に薩長同盟が結ばれて居たので、薩摩はイギリスのグラバーから最新式の兵器を購入し、坂本龍馬の結社亀山社中を通してドンドンと長州藩に流して居た。
 尚且つ、長州軍は四国艦隊下関砲撃事件の時に外国軍との戦いを経験して居り、既に洋式歩兵軍への転換を遂げて居た。特に士庶有志で結成された奇兵隊を初めとする諸隊は、兵としての練度が極めて高かった。  

 長州兵は軽装で散開しながら敵に迫り、最新の連発式銃を巧みに扱って次々と敵を倒して行った。特に長州側では、大敵に包囲され自領を侵略されると云う事で、領土や家族、親族を守ると云う意識が高く士気は高揚して居た。
 対して幕府の征討軍の士気は低下し切って居た。薩摩藩や広島藩が征討軍への参加を堂々と拒否して居り、それも大きく関係して居た。その上諸藩の装備は、戦国以来の甲冑と火縄銃と云う者が多かった。これではとても勝負に為らず、必然的に各地で征討軍は長州軍に敗れて行った。

長行、敵前逃亡?


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幕末藩士の銅像(武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎)1-15-1


 しかも、強大な幕府艦隊は長州水軍を圧倒出来た筈だが、艦船が傷着くのを恐れて積極的に戦おうとせず殆ど役に立た無かった。退勢は小倉口でも同じだった。小倉方面は、小倉城主十五万石の小笠原忠幹率いる軍事力がその主力であり、これに熊本藩(細川氏)久留米藩(有馬氏)柳河藩(立花氏)幕府(江川太郎左衛門率いる八王子千人隊)等が加勢に来て居た。

 しかし六月十六日夜半に長州の奇兵隊、報国隊等が田野浦と門司に奇襲上陸を敢行、小倉軍はこの強行軍をロクに迎撃出来ず、大きな被害を受け退却を余儀無くされた。その後も度々長州軍の襲撃を受けるが、戦って居るのは小倉兵だけで、他の味方は後方で事態を静観している状態だった。
 又、繰り返しに為るが、幕府艦隊も小倉の征討軍を海上からロクに応援しようともし無かった。これに立腹した小倉藩は、長行に対し 「諸藩の応援や救助も無い。この上敵が攻めて来るなら、我々は城を枕に討ち死にする覚悟で在る」 と云う書面を差し出した。

 驚いた長行は、最新兵器を備えた五千人の熊本藩兵に強く交渉、結果、渋々彼等は前線に遣って来た。こうして熊本兵が最前線に配置されると、七月二十六日より長州軍の総攻撃が為され、小倉と門司を結ぶ長崎街道で凄まじい激突が始まった。
 熊本兵は長州軍に大きな打撃を与えたものの、幕府の千人隊は彼等を支援しようとせず、小倉兵も戦い疲れたのか城から出て来ず、幕府海軍もロクに味方しようともし無かった。この為、戦いが終わると熊本藩は激高して、勝手に陣をまとめて帰国してしまった。
 これを見た久留米軍や柳河軍も、続々と兵を退いてしまったのである。こうして小倉口には小倉藩兵と幕府千人隊しか居ない状況と為った。

長州軍を苦しめ続けたゲリラ戦

 正に危機的な形勢を迎えた小倉藩故、七月三十日の夜、小倉藩家老の田中孫兵衛がその窮状を訴え、幕府の助力を乞おうと長行の居る本営を訪ねた。処が、幕府の役人がそれを制止するではないか・・・怒った孫兵衛がそれを押し退けて居室に入ると、何と中は蛻の殻だったのである。
 この日の夕方、長行は誰にも知らせず本営から出て、小舟で川を下って沖合に停泊して居る幕府の富士山丸に乗り込んでしまったのだ。そう、敵前逃亡したのである。  

 事態を知った小倉藩では、使者が直ぐさま富士山丸へ向かったが、結局、長行との対面は叶わず、そのママ富士山丸は出航してしまった。実は、将軍家茂が大坂城で逝去したと云う情報が長行の下に入ったのである。この為、味方の混乱を恐れてこの様な行動に出たのだ。それにしても、戦いの最中に最高責任者が敵に背を向けて遁走する等、驚くべき卑怯な行動だった。

 こうして小倉藩は孤立する状況に為ったが、長州藩に降伏する道は執らず、自ら小倉城を焼き払って、ゲリラ戦を始め長州軍を苦しめ続けた。真に見上げた行動だった。それから間も無く、幕府は将軍の喪に服すと云う理由で勝手に長州領から兵を退き、第二次長州征討は終わりを告げた。が、明らかにこの戦いは征討軍の敗北で在り、幕府の権威は地に堕ちた。

新政府に恭順した唐津藩

 新将軍に為った慶喜は猛烈な幕政改革に依って権威の回復を図るが、倒幕の動きは変える事が出来ず、慶応三年十月十四日に自ら政権を朝廷に返上した。(大政奉還) 
 慶喜としては、新しく出来る朝廷の新政府に参画して政権を主導しようと考えて居た様だが、十二月九日に倒幕派がクーデターを決行、新政府樹立宣言である王政復古の大号令が出され、その後の小御所会議で、慶喜に対して辞官納地(内大臣の免職と領地の返上)が決定。これにより新政権の中心に為ると云う慶喜の期待は砕かれた。

 その後、江戸で佐幕派が薩摩藩邸を焼き打ちした事で、大坂城の旧幕臣や佐幕派が激高。遂に「討薩」を掲げて旧幕府軍は京都へと進撃した。
 長行は長州軍の強さを身を以て実感した事も在り、江戸に在って幕府の閣僚達に 「非戦」 を説いた。が、その主張は煙たがられて受け入れられず、結局、慶応四年(1868明治元年)正月、鳥羽・伏見で旧幕府軍は薩長軍と激突、撃破されてしまうのである。

 錦の御旗が委ねられた事で薩長は官軍と為り、西国諸藩は続々と新政府方に味方して行った。一方、徳川慶喜は大坂城から江戸へ逃亡したが、朝敵とされ征討軍が江戸へと近づいて来た。長行の唐津藩は当初、形勢を傍観して居たが、藩主長国は佐賀藩に朝廷への執り成しを乞い征討軍に加わって東へ進んだ。
 又、同年二月、長国は佐幕派の長行を廃嫡処分とした。唐津藩が生き残る為には、そうする他無かったのだろう。更に三月三日、江戸の深川屋敷に居た長行の下に、長谷川清兵衛が国元から使者として送られ、直ぐに帰国する様伝達された。長行はこれを快諾し 「明後日の早朝にお前と共に出立する」 と約束した。

会津に向かった長行の決意

 処がで在る。何とその夜に長行は忽然と姿を晦(くら)ましたのである。恐らく 「大人しく出頭すれば、新政府方に引き渡されるかも知れない」 と考えたのだろう。彼の事だ。それが恐ろしいのでは無く、虜囚と云う辱めを受けるのが嫌だったのだろう。
 長行は、正室や側室を他所へ隠した上で、過つて小笠原家が領して居た 〔奥州棚倉〕 へと向かった。従う者は僅か十数名で在ったが、何れも信頼に足る者達だった。  

 それから十日後に江戸無血開城が決まり、更に徳川が無条件降伏した事で、新政府はスケープゴートとして会津藩を朝敵とし征伐する事に決めた。そんな会津藩が新政府に抗戦する積りだと知ると、何と長行は彼等と共に戦うべく棚倉から会津へ向かったのである。
「自分はこのママでは終われ無い」 と思ったのだろう。居所として会津藩は、長行に藩主の別荘 「御薬園」 を提供した。

 新政府は、朝廷に楯突つく小笠原長行の逮捕命令を唐津藩に再三発した。唐津藩は新政府に忠節を誓い征討軍を派遣して居たが、長行の勝手な行動で心証が悪く為り、仕方無く唐津炭五百万斤を提供する等して印象の改善を図ろうとした。  
 五月、新政府の強引な会津討伐方針に反発した東北・北越諸藩が 〔奥羽越列藩同盟〕 を結び、政府に抵抗する姿勢を明確にした。同盟側は、盟主で在る仙台藩重臣の片倉氏が支配する白石城(仙台藩領)に列藩同盟公議府を設置した。

 明治天皇の叔父に当たる輪王寺宮(寛永寺貫主・日光輪王寺門跡)が上野戦争の後、上野寛永寺を脱し東北に遣って来た。この為、宮が奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されたのだ。このおり長行も白石へ向かい七月から輪王寺宮を補佐する立場に着いた。  
 この頃から新政府軍の猛攻が始まり、現在の福島県域に続々と新政府軍が侵入して来た。戦いは新政府軍の圧倒的優位の内に進み、二本松城、棚倉城、磐城平城等が次々と落ちた。又、三春藩は手のひらを返して新政府方に寝返り、守山藩も新政府に恭順してしまった。

新政府に抵抗 蝦夷地への転戦


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五稜郭 1-15-3


 こうした状況の中で、小笠原長行は仙台迄赴いて藩主と会談し、要地で在る二本松城の奪還を強く主張した。しかし、状況はその後も悪化の一途を辿り、イヨイヨ新政府軍は大挙して猪苗代湖方面へ進んで母成峠で旧幕府軍・会津軍・奥羽越列藩同盟軍を撃破、八月後半に鶴ヶ城(会津若松城)迄進撃して来た。
 長行は福島に居たが、この頃、列藩同盟の盟主で在る仙台藩は降伏に傾き始め、九月十日、正式にそれを藩の決定としてしまう。こうした中で長行は、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流して、更に新政府に抵抗する決意を固めたのである。

 長行は白石から仙台へ入り、同じく老中だった板倉勝静等と共に軍艦開陽に乗り込んで蝦夷地へ渡った。慶応四年(1868)十月十九日の事だった。上陸地点(鷲ノ木と云う場所)が見えて来た時、甲板に出た長行は次の様な気持ちを記している。

「四方の景色を眺め遣るに、雪白ふ降積りて、山の形、林の様何度、オドロオドロシク我国にはよも新地と、おもゆるばかりなる」(『夢のかごと』)

 剛腹な長行も、これ迄見た事の無い異国の如き光景に、心細さを覚えた様である。

旧幕府軍、新政府軍による死闘

 榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、噴火湾で比較的波が穏やかな鷲ノ木湾(わしのきわん)を選んで来航したのだが、激しく為る風雪と高波の中、仕方無く上陸を強行した。このおり、小舟が転覆して十数名の命が失われると云うアクシデントが起こったと伝えられる。
 大人数を本陣等の公共宿泊施設だけで収容出来る筈も無く、民家のみ為らず近隣の村々も一時旧幕府軍の兵士が陣取る状態に為った。

 旧幕府軍は、人見勝太郎と本多幸七郎の二名を使者とし、一小隊(約30名)に守らせ、箱館府(新政府が箱館五稜郭に置いた組織)へ派遣した。二人とも元幕臣で歴戦の強者だ。人見と本多は 「蝦夷地を徳川旧臣の為に下賜して欲しい」 と云う嘆願書をたずさえ、箱館府へ向かった。願いが通らぬ時は一戦を交える覚悟だった。

 実際、二人の後を追う様に大鳥圭介率いる旧幕府軍が進発して居る。大鳥軍は鷲ノ木から茅部街道を通って箱館迄の最短ルートを進んだ。率いる部隊は遊撃隊、伝習士官隊、新選組など総勢七百名。それとは別に元新選組副長の土方歳三を将とする額兵隊、陸軍隊を中核とする洋式部隊約五百名が進撃を開始して居た。
 同隊は森、砂原、下海岸、川汲峠へと進み、大きく右へ折れて湯ノ川から箱館市街へ突入する進路を取った。同月二十二日夜、峠下で宿営して居た人見と本多ら遣使小隊が、突然何者かの銃撃を受けた。箱館府の命令を受けた竹田作郎を隊長とする松前藩兵と津軽藩兵の夜襲だった。
 人見ら遣使小隊は、駆け着けた大鳥隊と力を合わせ兵を小高い山上に散開させて応戦した。こうして戦いの火蓋は切って落とされた。

箱館を巡る死闘


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新撰組発祥の地(京都)1-15-4


 大野と云う地域には、新政府軍が四・五百人陣取って居た。大鳥がそこに奇襲を掛けると、新政府軍は呆気無く大量の武器弾薬を捨てて遁走してしまった。更に文月でも難無く敵を瓦解させたが、人見率いる部隊については七重で激戦を展開した。
 七重は箱館五稜郭へ通ずる重要拠点なので、何としてもこの地で敵を防ぐべく、箱館府権判事堀真五郎率いる新政府軍五百が三隊に分かれて高台に陣取って居たのである。  

 人見隊は危機に陥るが、敵の包囲を破って遊撃隊副隊長大岡幸次郎や隊士の杉田金太郎、砲兵長諏訪部信五郎や新選組の三好胖ら猛士達が 「奮怒の刀を振い弾丸雨注を侵し敵中に躍り入り、数十人を殺傷」 (『今井信郎著『蝦夷之夢』』)した事で戦いの流れが変わった。
 これを見て奮い立った遊撃隊を初めとする人見隊が 「銃を投げ刀を振って衝き入り、縦横に馳せ回る。呼声地に震い、深雪変じて紅の如く、尸横たわって丘のごとし。南軍おおいに破れて散乱す」 (『前掲書』)とある様に、最後は敵陣に一丸と為って突撃を敢行すると云う気迫の白兵戦に依って勝利を掴んだのである。  

 この戦いで新政府軍は20名近くの犠牲者を出したが、旧幕府軍も突撃を行った新選組の 三好胖(みよしゆたか) やその家来の小久保清吉等7名の死者を出し、重傷を負った大岡幸次郎や諏訪部信五郎も治療の甲斐無く後日息絶えた。
 三好は僅か17歳であった。実はこの三好胖と云う少年の名は変名で、本名は小笠原胖之助(おがさわらゆたかのすけ)と云った。

 長行の父唐津藩主の小笠原長昌が死去した後、庄内藩主酒井氏から 〔長泰〕 が養子に入って家を継ぐが、胖之助はその末子であり長行が彼を養育したのだ。正に我が子の様に可愛がって来た少年であった。
 この胖之助も長行同様、大人しく新政府に下る事を潔(いさぎよ)しとせず、五月の上野戦争では数名の唐津藩士と共に彰義隊に加わった。戦いに敗れた後は身を隠して東北へ潜行し、会津で新政府軍に抵抗、その後は仙台迄逃れ、長行と共に蝦夷地へ行く事を決めたのだ。

 この際胖之助は、新選組に入隊して一兵士と為った。そして壮絶な最期を遂げた訳だ。何れにせよ、五稜郭の箱館府(新政府方)では味方の敗北を知ると狼狽し、二十四日夕方に全軍を五稜郭に撤収させた。
 更に五稜郭に籠城しても冬に援軍の到来が期待出来無い為、その日の夜半、箱館府知事の清水谷公考以下新政府の官僚は五稜郭を脱出し、翌二十五日未明、箱館港から船で逃亡した。こうして榎本武揚率いる旧幕府軍は箱館に入った。

胖之助の死で、悲嘆に暮れる長行

 行軍途中で愛した胖之助の壮絶な死を知った長行だが、それに付いて次の様な想いを残している。

「七重といふ村を過るに、おのれがいろとの(弟)、いぬる(死ぬ)かんな月の末の四日の日、たゝかひにこゝにて討死したるを、宝林庵てふ寺に送りたると聞くものから、そがおきつきにまう(詣)でしに、懐旧の涙とゞめあへず、名残のいとをしまれけれど、さてあるべき事ならねば、逶々としてたち去りつゝ、日くれはつる頃、五稜郭の城のほとりになんたどりつきぬる」(『夢のかごと』)

 この様に長行は胖之助の墓に詣で、共に過ごした日々を思い出しつつ涙を流したのである。どうも、これが切っ掛けで長行は厭戦気分が強く為ってしまったようだ。旧幕府軍はその後、松前藩を駆逐して蝦夷全島を統一して蝦夷政府を設立するが、長行が政権に参画する事は無かった。箱館の郊外の空き家に引き籠もって、世捨て人の如き生活を始めた。過つての主戦派老中がである。

「五稜郭の城より西北なる人の住すてし庵になんうつりてける。もとよりすみあらしたるいぶせき家にしあなれば、暁かけてさうじのひまより雪霰なんどの、吹いるゝものから、さむさたへがたくて、いも寝られず、海は少し遠けれどよるよるは浪の音の枕にひゞきて物思ふ身は一しほに、こしかた行末の事なんど、おもひ出られて、かの立しら波のよるぞわびしきてふ、いとゞあはれぞまさりける」(『前掲書』)

「アメリカへ逃走した」とデマを吹聴

 翌明治二年(1869)春、イヨイヨ雪が解けると、新政府軍が大挙して蝦夷地に押し寄せて来た。旧幕府艦隊の旗艦開陽は沈没してしまい、土方歳三が新政府の大軍を引き着けて善戦したものの、各地で味方の敗北が続き、遂に箱館に新政府軍が姿を見せ始めた。
 五月、総攻撃が行われ、土方歳三初め多くの歴戦の強者が戦死、五稜郭は城門を開いて榎本等蝦夷政府の閣僚は降伏した。

 この間、小笠原長行は姿を晦(くら)ました。実は総攻撃が始まる前、側近の新井常保と堀川慎の手引きに依って、箱館港からアメリカ汽船で脱出、横浜に到着すると直ちに東京へ入り、旧知の新発田藩士大野賢次郎の庇護を受け、湯島の妻恋に一戸を借りて潜伏したのである。
 この時期、東京に居た唐津藩士は、唐津に戻ったり士籍を抜いて各地に散ってしまって居た。唐津藩邸には、警備や事務に当たる者が数名居る程度であった。だから、長行の東京潜伏を知る唐津藩士は極僅かで、しかも彼等は盛んに 「長行はアメリカへ逃走した」 とデマを吹聴した。  

 更に横浜在住のアメリカ人に宛てて為替を振り込み、そのアメリカ人から長行の基にそれを転送させ、生活費に宛てさせたのである。箱館迄行った政府高官が戦後皆降伏して居るにも関わらず、長行は投降しようとしなかった。明治四年、廃藩置県によって唐津藩は地上から消滅した。それでも長行は出ていかなかった。  

 明治五年一月、朝敵とされた元会津藩主松平容保が宥免(ゆうめん)された。更にアノ榎本武揚も同月、特赦に依り出獄した。此処に置いて要約小笠原長行は人前に姿を現したのである。政府との仲介役は、旧藩主小笠原長国と元佐賀藩主の鍋島直大が買って出た。
 長国が東京府知事の大久保一翁に宛てた長行に対する赦免申請書には 「長国は東北へ脱出し、その後、箱館に出て洋船に乗り込んだ処、風浪が激しく漂流し、アメリカへ行ってしまったが、只今帰朝したので謹つつしんで政府の命を待たせて居る」 と在った。勿論嘘である。

二十年の隠棲生活

 こうして一月が経ち、晴れて小笠原長行は自由の身と為った。長行はその後、駒込動坂に小さな邸宅を購入してそこに移り、ガーデニングや盆栽を趣味とし、子供達の教育に当たったものの、政治の表には二度と顔を出さ無かった。
 それだけでは無い。親戚や旧故に対しても一切会おうとし無かったのである。明治九年、長行は従五位に叙されて名誉を回復、同十三年には従四位に上った。

 だが、過つての同僚と云える会津の松平容保や福井の松平春嶽が訪ねて来ても、居留守を使って決して対面し無かった。 「箱館に渡って胖之助(ゆたかのすけ)を失った時、老中小笠原長行も死んだ」 そう考えて居たのかも知れない。
 晩年、長行は 〔與人異七事〕 と云う漫言(まんげん)を記して居る。自分が他人と際だって異なる処を七つ書き記したものだ。

〜足に電気(エレキ)を当てても何も感じ無い。壮年の時は朝全然腹が減ら無かった。大好きなものは沢山食べ無い方が好い。三十六歳の時に初めて子が生まれ、その後、六十一歳迄七人の子が出来た。自分は子供の時から痩せっぽちで運動し無くても太ら無い〜

 この様な他愛の無い内容である。しかし、次の文章は、長行の資質を非常に好く現して居る様に思う。

「我性質は先厳格なる方にて、たとへていはゞ箪笥の引出に物を入置にも、右の方には如斯もの、左には何々、奥には何とチヤント位置をきめて、数度出しいれしても乱るゝ事なく、本箱の書物は一より十までそろへて入置、度々引出して見ても、本の通りそろへて入置故、くらやみにて取出しても間違ふ事なし。大小総て此類にて、物を置にも一分にても曲りては心よからず、という様なる気質是本体也」(『前掲書』)

潔癖症・完璧主義者だけど優柔不断?



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 完全な潔癖症・完全主義者で在る事が判る。しかしその一方で 「拘泥し、或は因循して変化なきは甚好まず」「飄然活溌を悦んで、総て奇抜の意思あらざるは大いに厭ひ嫌ふ」 (『前掲書』)
 実際、長行は飽く迄己の主張を通す完全主義者で在りながら、攘夷と云う大勢に逆らい、当時としては最初から一貫して開国を唱え続けて居る。又、自分は何時もは優柔不断の性格で、大抵は多数に従うが、場合に依っては 「勇断決定して不顧疾雷不及掩耳の趣あり」 と云う様に、思い切った決断を直ちに下すと云う矛盾した処が在ると回想して居る。  

 何れにせよ、維新後は人前に出ず20年を生きた小笠原長行は、明治二十四年(1891)一月二十二日に死去した。享年七十で在った。 晩年、長行は息子の長生に 「俺の墓石には、声も無し香も無し色も彩も無し、さらば此の世に残す名も無し」 とだけ刻んで、俗名も戒名も無しにして貰いたいと言ったと云う。

 また、その辞世の句は 「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」 と云う変わったものだった。藩主の子として生まれ 〔廃人〕 として育てられた長行は、その優れた才覚により幕府の老中迄上って激動の世の中を動かした。
 しかし時勢に依って幕府は倒れ、賊とされて全ての功績は消されてしまった。為らば、自分が此の世に居た事に何の意味が在ったのか・・・そんな長行の悲痛な叫びが聞こえて来る様だ。


TEXT  歴史研究家 河合敦  bizSPA!フレッシュ 編集部


【管理人のひとこと】

 歴史の変遷・・・世の移り変わりと人間の人生の儚さを思わずには居られ無い・・・時代が変わるとは、この様に人間の人生を大きく変えるものだった・・・そう感じずには居られない文章だ。そして小笠原長行の人生も冒険に富み波乱に満ち満足するものだった筈である。
 新選組副長・土方歳三が、今の世でも人気が高く多くのドラマの主人公として取り上げられるのは、彼の人生に多くの人々が同調し感動したからに違いない。武士で無い者が必要以上に武士らしく生きようと苦しみ足掻いた末の一生だった。
 多くの人々は、ソコに自分では無しえない〔美〕を感じ〔もののあわれ〕を感ずるのだ。世の中に迎合せず忖度もせず・・・思った〔忠義〕を頑なに信じ信じたいと努力する姿に感動する。その意味では、この小笠原長行の生涯も身分は違えども少し共通して居る。奇しくも北海道の五稜郭で一緒に為ったのも何かの縁だろう。
 勝利した維新側には、その後の歴史を真正面に受け入れる覚悟が必要だが、敗れた側には〔美談〕だけを残して行く・・・その様な余裕が在って然るべきだろう。





















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