日本は「先進国」から脱落目前 2022年は歯止めの正念場



日本は「先進国」から脱落目前

2022年は歯止めの正念場 !





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〜日本の1人当たりGDPは 20年程前からOECDでの位置が低下しOECD平均を下回ろうとして居る 〔先進国時代の終わり〕 に為り兼ねません〜



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一橋大学名誉教授 野口悠紀雄氏


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写真はイメージです Photo:PIXTA 1-6-2


● 半世紀の先進国時代の終わり? OECD内で下がり続ける1人当たりGDP  

新年に当たって、日本の国際的な地位の変遷を振り返リ、今日本が何をし無ければ為らないかを考える事にしたい。次に在る図表1は可成りショッキングだ。日本はこれ迄約50年間に渉って先進国の地位を享受して来たが、今ソコから滑り落ちる寸前に在る事を示して居る。


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 1960年から現在に至る各国の1人当たりGDP(市場為替レートに依るドル換算値・世界銀行のデータ)に付いて、OECD(経済協力開発機構・加盟38カ国)諸国の平均値を1とする指数の推移を示したものだ。  
日本は、1970年頃から約50年間に渉って、1人当たりGDPでOECD平均よりも高い水準を維持して来た。OECD諸国の平均値は先進国の水準を表す指標と考える事が出来るだろう。だが今やその水準を維持出来無く為って来て居る。

 1970年以降半世紀の期間、日本は先進国の位置に在った。しかし20年程前からその位置が低下し続けて居る。日本はOECDの平均レベルに逆戻りし、そして今正にこのレベルを下回ろうとして居る。詰まり、先進国としての地位を失おうとして居るのだ。

先進国に為ろうとして居た 60年代末〜70年代初めと同じ

 詳しく云うと、2015年に日本の値は0.981と為り既にOECD平均の 1 を下回った。しかし、これは円安の影響で在り一時的なものに終わった。又世界銀行のデータでは無くOECDの統計に依ると、2020年に日本の値は既にOECDの平均を下回って居る。只20年はコロナの影響で長期的な傾向が乱されて居るので余り参考に為ら無い。

 此処ではOECD平均を先進国の水準と定義したが 〔先進国〕 に付いては様々な定義が在る。例えばIMF・国際通貨基金では、1人当たりGDPの他、輸出品目の多様性やグローバル金融システムへの統合度合いを考慮して40の国・地域を先進国として居り日本はその 第24位 だ。
 この定義で云うと、日本の地位が下がっても未だ暫くは先進国で在り続けるだろう。だから 〔先進国〕 と云う表現を用いる事には注意が必要だ。  

 此処で強調したいのは、日本が今歴史的な転換点に在る事だ。図表1に示されて居る日本のグラフは、 1995年 頃を軸にしてホボ左右対称形に為って居る。現在と丁度対称の位置に在ったのが、1960年代末から70年代初めに掛けての時期だ。
 日本は1964年(前回の東京オリンピックの開催年)にOECDに加盟をするのだが、60年代末から70年代初めに掛けての時期は、日本は高度成長の結果先進国の仲間入りを果たした直後だった。68年度の『経済白書』のタイトルは〔先進国への道〕だった。図表1で見ても、日本が急成長の結果OECD平均のラインに近付き追い抜いて行く状況が好く判る。  

 他方で、第2次大戦後、圧倒的な経済力を誇って居たアメリカの相対的な地位は低下して居た。これは、図表1でアメリカの線が傾向的に低下して居る事で示されて居る。1985年頃に一時的に上昇して居るが、これは85年のプラザ合意でドル高が修正された事に依る一時的回復だ。
 だがそれでも、1973年にアメリカの1人当たりGDPは日本の 約1.7倍 だった。アメリカに行けばその豊かさに圧倒された。尚、1973年の韓国の1人当たりGDPはOECD平均の10.4%で在り、日本101.3%とは比べ物に為ら無かった。

● 左右対称形のグラフは続くか 2030年頃にはOECD平均の半分に?

 今の日本の1人当たりGDPは、図表1で見る様にOECD平均とホボ同じだ。又OECDとの対比でも、又、アメリカとの対比でも、1960年代末から70年代初め頃と同じ状態に在る。アメリカの1人当たりGDPは日本の約1.6倍だ。この数字も70年代の初めとホボ同じだ。  
 95年を軸とする左右対称の姿が続いて行くとすると、日本は今後OECDの平均を下回って行く事に為り、2030年頃には日本の1人当たりGDPがOECD平均の半分程度の水準に為ってしまうだろう。  

 詰まり、日本はドンな定義に依っても 〔先進国〕 とは言え無く為ってしまう。尚、韓国の指数はこのグラフのホボ全期間を通じて上昇を続けて居る。1960年には、韓国の1人当たりGDPはOECD平均の11.9%に過ぎ無かったが94年に50%を超えた。
 98年にはアジア通貨危機で38.1%に落ち込み、2009年にはリーマンショックの影響で再び落込んだ。しかし、こうしたショックは短期的な影響に留まり、今韓国はOECD平均に迫って居る。  

 この図には示して居ないが台湾もホボ同様の傾向だ。今の状況が続けば、日本と韓国・台湾の位置が逆転し差が開いて行く可能性が在る。実際、OECDに依る長期経済予測はその様な姿を描いて居る。

● 1960年代には緊張感が在った 〔脱落〕目前なのに今危機感が無い

 日本がOECD加盟国に為った年は、日本の1人当たりGDPがOECD平均に為った年(1972〜73年頃)の8〜9年前だ。仮に、今後の事態がその時の対称形で起こるとすれば、今から8〜9年後・・・詰まり2030年頃に、日本がOECDから〔脱退〕する事に為事に為っても不思議で無い。 しかし、今の日本人の意識は1960年代当時とは非常に違うと思う。

 60年代、日本人は先進国の仲間入りする事を手放して喜んで居た訳では無い。先進国に為れば厳しい国際競争の時代が始まる事に身構えて居た。63年に、日本は GATT (関税と貿易に関する一般協定)11条国に移行した。
 これに依り 〔保護貿易が許されず世界に向けて市場を開く事が義務付け〕 られた。64年には、日本はIMF8条国に移行した。これに依り 〔国際収支上の理由で為替レートを変更出来無く〕為 った。  

 こうした事で自由貿易の荒波に晒されれば、日本経済が外資に支配されてしまうかも知れ無いと云う緊張感が在った。今日本は逆の意味での分水嶺に居るが、危機意識は感じられ無い。本当はこの傾向を食い止め無ければ為ら無いのだが、その様な声は上がら無い。それ処か、図表1の対称図形がOECD平均の下に向かって居る事も気が付かれて居ないで居る。

● 米国はIT革命で下降に歯止め 日本は〔大変化〕を起こせるか

 これ迄の傾向が今後も続いて行く事に為るのか? 或いはこれ迄の傾向を逆転出来るのか?  歴史的低下傾向に歯止めを掛け、変化を逆転する事は不可能では無い。実際、図表1で見る様に、アメリカは1995年頃迄下降を続けたがその辺りで止まり、その後は上昇過程に入って居る。これはIT革命に依って実現したものだ。  
 80年頃に言われたアメリカ経済力の低下は、歴史的な必然では無かったのだ。しかし、日本でそれに匹敵する様な大変化は起きて居ない。  

 だから、意識して積極的な対応をし無ければこれ迄の傾向が今後も続く事はホボ確実だ。こうした事態を食い止める為の条件は何か? それは、結局、経済成長率を高める事しか無い。そして、その為の様々な条件を整備する事だ。

 2022年度の予測経済成長率は、コロナからの脱却を見込んで高い値と為るだろう。しかし、それは世界のどの国も同じ事だ。OECD諸国との相対的な地位の低下を食い止める為には、最低限、OECD諸国平均の成長率を実現し無ければ為ら無い。 そして、日本の過つての地位を挽回するには、OECD諸国平均より高い成長率を実現する必要がある。

 処が、10年から20年に掛けての直近の10年の1人当たりGDPの増加率は、OECD平均が 1.09倍 なのに対して日本は 0.89倍 だ。00年から20年では、OECD平均が 1.66倍 なのに対して日本は 1.03倍 だ。この傾向を逆転するのは容易なことでは無い。  

 しかし、そうしない限り図表1に示されている日本の左右対称の図形が更に 〔先進国からの脱落〕 に向かってしまう事に為る。22年の世界の主要国はコロナ禍からの経済回復を図り、先端分野での競争力強化を通じて長期的成長の基礎を固め様とするだろう。そして、米中は未来世界での覇権を巡って更に激しい経済競争を展開するだろう。



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一橋大学名誉教授 野口悠紀雄



【管理人のひとこと】

 日本は先進国から脱落する・・・既に既定の事実の様に語られて居るのだが、少子高齢・長期的人口減少の続く我が国に果たして今後〔経済成長〕〔日本の再興〕が期待されるのだろうか? 20年以上続くデフレも克服出来ず少子化の歯止めも掛けられず、日本は日毎に?せ細って居る状況なのに、政治の変化・・・今より増しな政治の未来は一つとして期待出来ない。
 何一つの政策も全う出来無い自公政権を選択する国民にも、そんな期待は何一つ感じられ無い。 「こんな我が国に、今後の経済成長を求めても無理・無駄だ、別の目標を考えるべきだ!」 と、既に今後の経済成長を諦める政治家が多く為って居る。後退期に在る現在、成長期と同じ次元で考えても成功する確率は余りに低い。新たな経済的思想の下であらゆる政策を動員して〔やってみる〕しか無いのかも知れない。
 何故なら、少子高齢・人口減少傾向は他の先進国でも同じなのに、殆どの国が我が国より成長して居るのが現実なのだから、足った一つ政治を変えれば不可能では無い筈だ。



















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2022年02月11日

ロシアのウクライナ侵攻に備えよ! 日本が今すぐすべき事



ロシアのウクライナ侵攻に備えよ! 日本が今すぐすべき事



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ロシアによる侵攻が懸念される中、ウクライナ・キエフの公園で訓練を行う軍隊予備軍・ウクライナ領土防衛軍のメンバー達(2022年1月22日 写真AP/アフロ)1-24-11


文章  数多 久遠  小説家・軍事評論家・元幹部自衛官

ロシアがウクライナ周辺に軍事力を集中させて居り、今、この瞬間に侵攻が始まっても可笑しく無い状況と言われて居ます。その為アメリカ、そして欧州各国がロシアの侵攻を思い留まらせるべく動きを強めて居ます。処が、この様な情勢にも関わらず、日本政府はロシアと平和条約締結交渉を行って居る模様です。
 各国がロシアに依る侵攻を阻止すべく動いて居る中で、日本がこの様な姿勢を取り続け、もしもロシアが攻撃を開始すれば(しなくとも)、日本は欧米諸国から非難される事でしょう。

 思い出されるのは1991年の湾岸戦争です。日本は、金は出したものの人的貢献を行わず非難を浴びました。又将来、中国に依る台湾侵攻や北朝鮮に依る何等かの軍事行動が勃発した場合、日本にも被害が及ぶ可能性が大ですが、今回のロシアによるウクライナ侵攻に目を瞑り続けた日本を助けて呉れる国は無いでしょう。  
 ロシアによる東欧への侵攻は、極東日本のマスコミに取っては対岸の火事であり、大きな関心を持って報じられて居るとは言えません。しかしながらこのママでは、日本は深刻な外交的損失を招きかねません。  

 そこで以下では、ロシアに依る軍事侵攻に対して日本が出来る事・そして日本がすべき事を、元自衛官の目線で考えてみたいと思います。

■「侵略は許さ無い」と各国がロシアを非難

 イギリスは、急遽ウクライナに相当数の対戦車ミサイルを供給して居ます。 又バルト三国の二国、ラトビアとリトアニアは個人携行地対空ミサイルを、エストニアはイギリスと同様の対戦車ミサイルの提供を始めました。  
 アメリカは、これ等の行動に承認を与えては居ますが、アメリカ自体は、NATO加盟国であるルーマニア迄戦力を前進させて居るものの、直接ウクライナに対しては積極的に軍事力の提供には乗り出して居ません。

 積極的な交渉を続ける一方、バイデン大統領が「小規模な侵攻」であれば容認するかの様な発言を行い、その後釈明に追われる等姿勢を決めかねて居る様にも見えます。この他にもウクライナへの融資を決めた国が在る等、欧米各国は程度の差はあれ、基本的にウクライナを支持しロシアによる軍事圧力を非難して居ます。各国は基本的に「侵略は許さ無い」としてロシアを非難して居ます。

 特にバルト三国の場合は、ウクライナ侵略を許してしまうと次は自国が侵略される事に為ると云う事態を恐れて居ます。フィンランド等も歴史的経緯から同様のコンテクストで警戒を強めて居ます。  
 一方、ドイツの様に、ロシアに強い姿勢を取れずに居る国も在ります。ドイツは全原発の停止が迫って居ます。その状況で、パイプラインによるロシアからの天然ガス供給を止めた場合、エネルギー危機に為り兼ね無いと云う事情があります。

■日本はウクライナ侵攻を不問に?

 日本の対ロシア外交はどう為って居るでしょう。 ロシアのラブロフ外相は、1月14日、平和条約締結交渉の為数カ月以内に訪日予定であると発言しました。日本側の情報が在りませんが、否定をしていない処を見ると、訪日調整を行って居る事は間違い無い様です。
 日本は、今にもウクライナへ侵攻しようとしている国の外相を迎え、平和条約締結に向けた交渉を行おうとしているのです。これは、例え明言せずとも、ウクライナへの侵攻を不問にすると表明していることと変わりありません。

 実は、こうした日本政府・外務省の姿勢は、今に始まった事ではありません。2014年のクリミア危機・ウクライナ東部紛争に際しても、日本政府は北方領土交渉を続けて居た為、ロシアと接触を続けて居ました。欧米諸国と足並みを揃えず対ロ経済制裁にも消極的でした。
 その結果、2016年、当時の安倍首相が交渉の最終段階として場を設けた長門会談に於いて、日本は完全なちゃぶ台返しを食らいました。

 昨年(2021年)末に安倍元首相が明らかにした様に、当時の交渉は、歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)の二島返還に舵を切って居ましたが、プーチン政権はそれにさえ応じ無かったのです。処が日本側はそれに懲りる事無く、今回も平和条約締結交渉を行うようです。
 プーチン政権が今に為って譲歩して来て居るとはとても考えられませんが、何故か日本政府は交渉に前向きです。  

 2018年にプーチン大統領が主張した「前提条件の無い平和条約を締結した後、議論だけは続ける」と云う暴論を飲む積りなのかも知れません。しかしロシアは、2014年のクリミア危機・ウクライナ東部紛争の時と同様に、日本に譲歩の姿勢だけを見せて実質的には何も進展させ無いでしょう。要するに西側陣営を弱体化させる為に、先ずは最も脆弱な日本を切り崩そうと云う訳です。

■ 日本周辺でも実施されるウクライナ侵攻「支作戦」  

 ウクライナ侵攻がロシアの「主作戦」ですが、平和条約締結交渉による日本の切り崩し、それにガス等のエネルギー供給問題でのドイツの切り崩し等は、ロシアに取って主作戦を成功させる為の政治的「支作戦」だと言えます。
 ロシアはウクライナに対して圧倒的な軍事力を保持して居ますが、西側の結束した非難・制裁があれば、ロシア国内の政治・経済がプーチンに取って好ましく無い状況に為る可能性は十二分に在るからです。

 またロシアは軍事面においても「支作戦」を展開して居ます。1月20日、ロシア国防相は、1月から2月にかけ、ロシア近海や大西洋・地中海に留まらずオホーツクや太平洋でも大規模な演習を実施すると発表しています。
 これは、政治的にも西側に対する牽制に為って居ますが、陸上戦力の1/3をウクライナ周辺に集結させて居るロシアに取って、戦力を引き抜かれた地域に於ける軍事的な不安を払拭する為の行動なのです。  

 一般の方に取っては、この感覚を理解するのはナカナカ難しいと思います。ウクライナに侵攻する為太平洋に海軍を押し出す意味は見え無いでしょう。しかしながら、軍人の目線では自然な感覚です。ウクライナ周辺に送る為に戦力を引き抜いた極東域等の地域の防衛力が弱く為って居る為、それを補う目的で海軍を進出させ、警戒に当たって居ると云う訳です。  

 この点を考えると、1月初めに発生したカザフスタンの争乱も、暴動を仕掛けたのはロシアだったのではないかとの憶測が生まれます。争乱に対して、ロシアは最終的に軍隊を送り込んで鎮圧して居ます。これに依って、ロシアはウクライナ侵攻前に、カザフスタン周辺の不安を払拭する事が出来ました。

■ 日本に出来る事、日本がすべき事

この状況で、日本に出来る事・日本がすべき事は何でしょうか。最も大切なのは、ラブロフ外相の訪日をキャンセルし平和条約締結交渉を即刻ストップさせる事です。日本は、中国による「力を背景とした現状変更」を拒否する姿勢を示して居ます。
 しかし、ロシアによる「力を背景とした現状変更」即ちウクライナ侵攻を認めてしまえば、対中国で筋が通ら無く為ります。  

 1月21日に実施されたバイデンアメリカ大統領とのオンライン協議に於いて、岸田首相は「ロシアによるウクライナ侵攻を抑止する為に共に緊密に取り組み、如何なる攻撃に対しても強い行動を執る」と述べ「米国や他の同盟国・パートナーとの緊密な連携を継続」する事を約束しました。ロシアとの平和条約締結に向けた交渉は、この言葉を裏切る事に為ります。何よりも、この情勢下に於いて平和条約締結交渉を行うのは、ロシアを支援する事でしかありません。  

 日本は、もっと積極的な方策を執る事も可能です。イギリスやバルト三国の様に武器を供与したり、カナダの様に資金融資をする方法も在りますが、日本が使用して居る武器でウクライナが即座に使えるものは少なく、国内法的にも手続きが煩雑で時間が掛かります。それよりも「日本がウクライナとは遠く離れて居てもロシアとは近い位置に在る」と云う事実を有効活用すべきです。
 間も無く始まる見込みのロシア海軍の演習は、日本近海でも実施されます。これに対して偵察等の妨害行為を徹底的に行う事が有効です。

 1つには、妨害行為自体が「侵攻を許さ無い」と云う政治的なメッセージと為ります。そして何より、ロシアが更に極東域の戦力をウクライナ方面に移動させる事の牽制に繋がります。平和条約締結交渉を継続してロシアを安心させるのでは無く、逆に極東方面不安にさせる事で、ウクライナに集中出来無くさせるのです。

■ 日本とウクライナの共通点

 2月7日は「北方領土の日」ですが、ここ数年、ウクライナ首都キエフの外務省やロシア大使館周辺では、ウクライナ人に依る「日本への北方領土返還」を迫るデモが開催されて居ます。日本は北方領土を、ウクライナはクリミアや東部を、共にロシアに奪われて居るからです。
 両国共ロシアに領土を奪われて居る点で、日本とウクライナは協力し合える立場なのです。処が日本のマスコミは、こうした点を殆ど報道しません。

 2018年末筆者は、日本とウクライナが外交・軍事面で協力し、ロシアの謀略に対抗する小説『北方領土秘録 外交という名の戦場』(祥伝社)を上梓しました。作中でモデルとさせて頂いた、駐ウクライナ大使で在った角茂樹氏に伺った処、この小説は外務省内でも話題と為ったそうです。しかし、残念ながら日本の外交は、紛争が間近に迫ったこの状況に於いて平和条約締結交渉を続けて居る様な状態です。  

 ウクライナが更なる侵攻を受けそうな今こそ、ロシアを非難する事で各国と連帯して、北方領土がロシア領として固定化される事を防が無ければ為りません。


数多 久遠














2022年02月03日

からゆきさんと女衒の歴史



からゆきさんと女衒の歴史

日本の近代化に必要だった彼等の今




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フランス領ベトナム北部トンキンの・からゆきさん達 明治時代初期・インドシナ半島では、日本人の人口の大半を売春婦が占めて居た 2-1-2


連載  少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

江戸時代後期の成人向け絵解き本「七七四草(ななしぐさ)」には「女見の女を衒(う)るところより、女衒(ぜげん)と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。娼婦としての価値を見定める目利きを女見と呼んだ。  
 女衒は、凶作で生活に窮した貧農の親から娘を買い取り遊廓等に売り、売春労働に斡旋する事を業とした人買い稼業で、嬪夫(ぴんぷ)とも呼ばれる。  

 風来山人こと平賀源内の滑稽序文集『細見嗚呼御江戸序』の序跋には、目鼻から爪の先、指のそりよう、歩み振り迄注意して、その後価格が定まる・・・とある。娘を買い取る査定として極上・上玉・並玉・下玉と云う格付けが在り、それを瞬時に見極める・・・女性を見る術の秘伝が在った。
 遊女・瀬川と客・五郷との悲恋を描いた戯作に『契情買虎之巻(田螺金魚 著 安永7年(1778)刊)』が在る。その中で、親が病いに伏せって居るからと、兄と称する女衒が娘を吉原の妓楼に売り飛ばすシーンでは、楼主は女を見ては直ぐに気に入り、奉公人に命じて目先の利く女衒の権二を呼ぶと、権二は次の様にその娘を即座に鑑定して居る。  

「この娘で御座いますが、先ず、なたまめ・からたちの気遣いも無しと。そして小前で、足の大指も反るし、言い分無しの玉だ・・」

 娘の身売り額の1〜2割が斡旋仲介手数料として徴収される。その際、女衒は文字の読み書きが達者で、証文を認める等文書構成能力が在り、遊廓や岡場所・貸座敷業には欠くべからざる存在で在った。日本の戦場では古くから勝った方が負けた国の男女を戦利品として拉致する「乱妨取り」が行われて居た。
 ポルトガル人が1514年、日本に上陸し、マラッカ・中国・日本の間で貿易が始まると、ポルトガル人は捕獲に為った日本人を奴隷として買った。その殆どが女性で、船員の妻や妾、若しくは売春婦として東南アジア等に売られて行った。南蛮貿易で売られた娘達は、知性や勤勉な気質が尊ばれアフリカからの奴隷よりも人気が在った。  

 江戸幕府が、キリスト教圏の人の来航と日本人の海外渡航を禁止した1639年(寛永16年)長崎に丸山遊廓が誕生する。  
 丸山遊郭の遊女は日本人男性相手の「日本行」の遊女の外に、出島に出向きポルトガル人やオランダ人を相手にする遊女達も居て「紅毛行」と呼ばれた。唐人屋敷へ中国人を相手にする遊女達は「唐人行(からひとゆき)」と呼ばれた。  

 唐人屋敷の近隣・島原の辺りでは〔からゆき〕と云う言葉が生まれ、それは「唐人行」又は「唐(からん)ん国行(くにゆき)」と云う言葉が約(つづ)まり「からゆきさん」と為る。遊郭内では少女の人身売買が行われ、ポルトガル人の貿易業者に依り万単位の数の少女が東南アジアなどに売られて行った。  
 春を鬻ぐ(ひさぐ)女性は、人間の最も秘匿性の高い性的行為に依ってカネを稼が無ければ為ら無い。それは、理不尽とも云える低賃金で労働する生活よりもっと苛虐なものと言え様。

 そんな〔からゆきさん〕と為った女性の多くは、農村・漁村等飢餓に喘ぐ貧困家庭の娘達だった。貧窮した村の多くが間引きや捨て子等の悪習が蔓延したが、そうした窮乏した村落の娘達を海外の娼館へと女衒は橋渡しをしたのである。  
 女衒は全国の貧しい農村や漁村を周って年頃の娘を探し「海外で奉公させると、お金が儲かる」等と言葉巧みに親子を説得し、親に現金を手渡した。娘を売り飛ばした両親は我が子を売らなければ為ら無い程貧しかったのである。  

 女衒は娘達を下関や門司・長崎・神戸・横浜・清水の港から密航させた。学校に行く事が出来ず、ひらがなも数字も書け無い・読め無い少女等は、当然ながら彼女等が自らペンを執ってその生活の実情と苦悩とを訴えると云う事は出来なかった。  
 娘達は女衒に依り斡旋手数料や経費と云った名目で多額の借金を負わされて、それが返済される迄は日本に帰れ無い様に、カネでその身体を縛られたのである。  

 開国したばかりの明治4年、シンガポールには既に日本人の〔からゆきさん〕の姿が在った。そして、アジア太平洋戦争の敗戦迄、シベリア・中国・香港・朝鮮から台湾・シンガポール・フィリピン・ボルネオ・タイ・インドネシア等の東南アジア、オーストラリア等太平洋の各地、ハワイ・北米(カリフォルニアなど)・南アフリカやザンジバル等の至る処に約30万人以上の娘達が売られた。彼女等は現地で稼いだカネを日本に送金したのである。

 南洋の地域に売られて行った〔からゆきさん〕達は、日本よりももっと文明が遅れ、それ故に西欧列強の植民地とされてしまった東南アジアの国々で客を取らされた。客は主として中国人や原住民。彼女等は南国の夜毎、様々な肌の色をした異国の男達が入れ替わり立ち替わり遣って来てカネを払い彼女等の身体を弄び蔑(ないがし)ろにする。  

 インドシナ半島では早くから日本女性売春婦の市場が形成され、日本人の人口の大半を売春婦が占める様に為った。シンガポールのマレー街と呼ばれる通りには日本人娼館が連なり633人の娼婦が働いて居たとの記録が在る。  
 身体だけで無く心も蹂躙(じゅうりん)された彼女達の遣る瀬無い思いを、測り知る事は出来そうに無い。1910年の「福岡日日新聞」には、現地を訪れた記者は、当時の〔からゆきさん〕の様子を次の様に記して居る。  

「異類異形(いるいいぎょう)の姿せる妙齢の吾(わ)が不幸なる姉妹、之(これ)に倚(よ)りて数百人とも知らず居並び、恥し気も無く往来する行路の人を観て、喃喃(なんなん)として談笑する様、あさましくも憐(あわ)れなり」

 又、当時、シンガポール辺りに立ち寄った夏目漱石や森鴎外は手記にシンガポールの〔からゆきさん〕の事を書いて居る。  

「彼女達には微塵の暗さが無い。愚痴・泣き言を溢さ無い、如何してあんなに朗らかで明るく突き抜けた様に気分で居れるのか不思議でしょうが無い」

 酸鼻を極めた状況に置かれた少女達が、晴れ晴れとして居る様子に面食らって居た事が覗える。愛情の無い不特定多数の男性に金銭と引き換えに自らの肉体を自由にさせる生業は、その肉体のみ為らず精神迄蝕む事が多いとされる。
 一夫一婦制の婚姻方式が一般的と為りつつ在った当時の日本で、売春はモラルに反する事であり、それに従事せざるを得無かった女性達は、世間から無慈悲な差別を受けるのが普通だった。

 増してや、借金でガンジガラメにされ、何時まで経っても貧窮とは縁が切れ無いと為れば、精神的に絶望して投げ遣りと為って挙措(きょそ)を失う人も多いだろう。
 しかし、彼女等は心が潔く清らかに澄み切ったかの様に、暗鬱(あんうつ)が無く明るく朗らかに振る舞えたのは、現実に置かれた状況にマゴツク事無く、深刻な物事も忽(ゆるが)せに捉えて、気丈夫にそれを受け入れてしまう。それは真俗二諦(しんぞくにてい)の境地と云う絶対的真理に到達したかの様にも思えて来る。

 人は、ありとあらゆる汚濁に染まりながらも、様々な醜悪に出会えば出会う程に他人に対して寛容となり、円熟して行く事も稀に在るのだろう。女衒の顔役・村岡伊平治は、少女達が海外に売り飛ばされる事は日本の為であり、現地にも大きな利益と発展をもたらすと主張して居る。

「からゆきさん達が海外に送られると、国元にも手紙を出して毎月送金する」
「女の家も裕福に為ると税金が村に入る」
「どんな南洋の田舎でも、そこに女郎屋が出来ると直ぐに雑貨屋ができ、日本から店員が来る」
「その店員が独立して開業する」
「商社等会社の現地出張所が出来る」
「女郎屋の店主も嬪夫(ぴんぷ)と呼ばれるのが嫌で商店を経営する」
「1ケ年内外でその土地の開発者が増えて来る。その内日本の船が着く様に為る。次第にその土地が繁盛する様に為る」


 明治33年(1900年)当時『海外邦人発展史(入江寅次 著 井田書店 昭和17年刊 )』に依れば、ウラジオストクを中心としたシベリアの日本人出稼者が日本へ送金したのは約100万円(現代に換算すると約50億円)そのうちの6割、約30億円以上が〔からゆきさん〕からの送金だった。
 そうした女性達からの日本への送金は世界各地で行われて居た。明治政府は当初〔からゆきさん〕達の送金が経済に貢献して居るとして、海外で少女達を外貨獲得の為に働かせる事を奨励して居た。日本人女性の海外渡航は海外進出の先兵と位置付けられ「娘子軍」と賞されたのである。

 西欧諸国に政治・経済・軍事に対抗する為、近代国家を目指した日本に取って、彼女達の送金は欠けては為ら無いものだった。貨幣価値の高かった明治〔からゆきさん〕達の働きにより、それが外貨獲得に繋がる。彼女達は国家の富国強兵の一翼を担って居たのだ。

 『サンダカン八番娼館(山崎朋子 著 筑摩書房 1972年刊)』に依れば、大正から昭和のボルネオでは、娼婦の取り分は50%・その中で借金返済分が25%・客の1人当たりの時間は3分か5分・それより掛かる時は割り増し料金が掛かる。娼婦達は現地人を相手にする事は好まず、可成りの接客拒否が出来たと云う。
 又、日露戦争時、海外日本人娼婦が、明治政府に軍事に関する情報の提供もして居た。その役割は勝敗を決する上でも大きかったと言え様。

 衛星やレーダーの無かった当時、ヨーロッパのバルト海に展開するロシア海軍のバルチック艦隊が、バルト海を出てアフリカ大陸の南を通って日本に向かって居た時、マダガスカルからは 「バルチック艦隊が、今マダガスカルに入りました」
 そして、シンガポールを通過した時には 「マラッカ海峡をバルチック艦隊が四十数隻黒い煙を吐いて日本に向けて出航しました」 と世界各地の〔からゆきさん〕から日本に向けての電報が相次いだ。  

 明治末期に為ると〔からゆきさん〕は最盛期を迎えるが、国際的に人身売買への批判が高まり、国内でも彼女等は「国家の恥」と非難される様に為った。彼女等は平均で4・5年位海外で稼ぎ、借金の返済を終えて日本に帰ったが、残留した人・亡く為った人も数多く居る。その死因はマラリア・風土病・性病・肺病・阿片等で平均すると20歳前後で命を散らして行った。
 亡く為っても現地に墓を建てて貰う事は極めて稀で、殆どは何処かに埋められるか、海や密林に放り投げられた様だ。家族には何時何処で亡く為ったか命日を知らされる事も無かったと云う。

 昭和恐慌期(昭和5〜6年)に為ると、食う事もままなら無い貧窮した人達が追い詰められて、裕福な家に妻子や自分自身を売る人が相次ぎ、女衒に依る人買いは高度成長期初頭迄続いた。
 斡旋仲介業者は、上野と青森を結ぶ列車を買い取った娘達の輸送に使って居た。1950年、18歳未満の未成年者を人身売買した容疑で、警察に検挙された仲介者は377人。未成年者の送り先の55%は売春婦として計上されて居る。人類最古の職業と云われる女性が春を鬻ぐ(ひさぐ)と云う商売は無く為る事は無いだろう。  

 昨今では、女衒は消滅したかに見える。しかし、それは「スカウト」と云う言葉に代り今も活発に蠢いて居る。スカウトとは街中で女の子に声を掛けるプロの落とし屋である。 彼等は女性を口説く技術に磨きを重ね、女を落とす為の独自の指南書もあるらしい。  
 そこに仕事に金銭・恋人等身近な問題に悩んで居る女性を落とし込む為の、人間心理を巧みに突いた高度な口説きの技が記されて居ると云う。過つて、女衒は少女達を海外に売り飛ばし、娘に多額の借金を負わせて日本に帰れ無い様にした。  

 しかし、似た様な流れで、今度は逆に多額の借金を背負いながら海外から日本に働きに来る人達が居る。
それは日本の少子高齢化社会の労働力不足が深刻な問題を解決する為に国家が考えた技能実習制度により来日する人達である。
 日本政府は技能実習制度は途上国に技術を教えると云う国際貢献の看板を掲げて居る。だが、技能習得と云うのは名ばかりで、本国に帰っても役には立た無いうち容と云うのが実態と囁かれて居る。東南アジアから来日する技能実習生の働き先の多くは、日本人の若者が嫌がる労働力不足が極めて深刻な産業や職種への就業、そして低賃金労働者の確保として技能実習制度は機能している。  

 ベトナムでは、実習生が日本に働きに出る事を「労働力輸出」と称して奨励する。来日する実習生は親類縁者に平均100万円以上の借金を重ねて渡航費用を工面する事に為る。それを返す迄は故郷には帰る事が出来ない。 
 実習生の来日は現地外国の送り出し機関と日本の監理団体を通して行われるのだが、送り出し機関に過大な手数料を取られる悪質なケースが後を絶た無い。又、悪徳仲介斡旋業者が賃金の半額程度をピンハネしているケースや、受け取る給料が時給に換算すると300〜400円程度と云った働き先もある。

 こうした過酷で非人道的とも云える扱いは、かつての〔からゆきさん〕が置かれた状況と同じようなものと云え様。1816年(文化13)頃に書かれた江戸時代後期に書かれた「世事見聞録」に、拐かし(かどわかし)について記されている。  

「かどわかしというものありて、群集の場所、または黄昏の頃、遊び迷い居る子を奪いとりて、遠方などへ連れ行きてついに売るなり」

 「かどわかす」は騙して取る、欺き誘うと云う意味の古語の「かどふ」が、その語源である。それは強引に何かをすると云う意味の接続詞「かす」が付き「かどわかす」となる。人を騙し、欺き、借金で強引に縛って売り飛ばす稼業は名を変え形を変えて、今も暗躍して居る様だ。



【管理人のひとこと】

先日youtubeの無料映画で『天城ごえ』を視聴した。本作が松本清張の原作でありヒット曲の原案で在ったとの再認識をしたものだ。主人公の少年が、大人と為り戦争を経て、印刷会社の社長と為って居て、そこに当時の事件を捜査した刑事が現れる・・・まるでジャンギャバンのフランス映画の一シーンの様だ。
 昔、恋心を抱いた女性の住む加賀へ赴く・・・年老いた彼女は気丈にも魚の行商をして居た・・・ラストの描写が暫くの間心の余韻として燻った。彼女も、親に売られた娘だったのだろう。この文章を読んで直ぐにこの映画を思い出してしまった。女衒・ゼゲン・・・とは、昔は直ぐ隣に住む日常の存在だったのだろう・・・














2022年01月25日

何故「史上最悪の危機」は起きたのか?




何故 「史上最悪の危機」 は起きたのか?


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放置されて失敗に終わった危機



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丁度100年前の1920年代は、第一次世界大戦の余波で欧州諸国が苦しむ中、米国が繁栄を享受して株式バブルへと突き進んだ時代でした。そしてバブルが崩壊した後の1930年代は、大恐慌と戦争に象徴される、世界史上最悪の悲劇的な時代と為りました。  
 後世から振り返ってみると、大小様々な困難は一つの大きな危機を形作るパーツであり、危機はドンドン拡大して、経済・金融から政治・軍事に至る複合危機と為って、遂に世界は第二次世界大戦へと突入します。  

 その意味で、第一の危機は、放置されて失敗に終わった危機でした。第二次世界大戦後、現在に至る迄、この様な失敗を繰り返さ無い事が、国際社会の共通認識と為って居ます。  国際金融の観点から見ると、危機の原因は、大きく以下の三つにまとめられます。  

(1) 国際金融システムを支える制度が硬直的だった
(2) 米国から欧州に向かう資金の流れが逆流した
(3) 各国が自国第一主義に立って、国際的リーダーが不在だった

「金本位制」とは何だったのか



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 先ず、当時の国際金融制度の基盤であった金本位制の仕組みを見て行きましょう。19世紀の金本位制は、金貨を発行・流通させる代わりに紙幣(兌換紙幣と呼ばれます)を発行し、その紙幣と金との交換を約束するものです。  
 紙幣を保有する全ての人が金との交換を求める訳では無いので、紙幣の発行量は必ずしも金の保有量と完全に一致し無くても好いのですが、例えば米国では発行紙幣量の最低40%をカバーする量の金の保有が法律で義務付けられて居ました。  

 従って、個々の国の通貨発行量は金の保有量の増減に影響され、究極的には、世界中の金の産出量の増加と世界全体の通貨発行量の増加が連動する事に為ります。金本位制下では通貨発行量が無規律に拡大する事は無いので、ハイパーインフレーション等は起こり難い反面、成長の可能性が在る分野に十分な通貨が供給されるとは限ら無い為、成長力が抑制される側面があります。  

 金本位制を執る国の間では、金を媒介にして為替レートが固定されて居ます。例えば、1ポンドは純金113グレーン(1グレーン・1/480トロイオンス・約64.8ミリグラム)、1ドルは23.22グレーンと定義されて居たので、為替レートは1ポンド・4.86ドルと為ります。  
 事実上、金本位制は主要国間に単一通貨が在るのと同じ為、基本的に為替リスクは極小化され、国境を越えた貿易や投資が促進されました。  

 実際、第一次世界大戦前夜の1914年時点で、貿易が世界経済全体に占める割合は21%であり、ブロック経済化が進んだ第二次世界大戦前夜(1938年)の9%に比べると、如何に国同士の相互依存が進んで居たか分かります。勿論、その様に相互依存の進んだ国家間でも戦争が起こった事も事実です。  

 金本位制の理論では貿易収支の不均衡は自動的に調整されると考えられました。寧ろ、赤字国に於ける恐慌や倒産・失業、それに依る労働者の惨状は、輸出競争力を回復する為に必要かつ望ましいプロセスである・・・と云うのがその時代の常識で在ったと言えます。  
 英国では1918年の改革まで男性の一部と全ての女性に選挙権が在りませんでしたので、弱い立場の人々の声が政治に十分反映され無かった事も、こうした非人間的なプロセスが維持される一因と為ったのかも知れません。

停止した金本位制の「戻り方」

 金は、国家に取って最後の決済手段ですから、危機時に軽々と手放す訳には行きません。第一次世界大戦勃発と共に、各国が金の流出を禁止し金本位制を停止したのは当然です。では「総力戦」を経て国民全体の国家への貢献を重視する風潮と為った戦後に、硬直的で非人間的な金本位制では無く、新しいシステムを作って行こうと云う気運は盛り上がったのでしょうか?   

 残念ながら、そうではありませんでした。終戦と共に、各国は金本位制への復帰を考え始めます。当時の感覚では、金本位制が常態で在って、戦時に一時的に停止したのだから、終戦後は又常態に戻るのが当たり前と云う事だったのだと思います。  
 しかし、多くの国では戦争中にインフレが進んで居り、通貨の実質的価値は戦前から相当目減りして居ますから、問題は戻り方です。  

 英国を例にとると、当時の正統派の議論は、英国の威信に賭けて旧平価(以前の金価格・実質的にはポンドの為替レートを示す)で金本位制に復帰すべきであり、その為にインフレ退治が不可欠だから、健全な金融政策(引き締め)を執って国内不況を甘受し物価を引き下げるべきだ、と云うものでした。  
 ボールドウィン内閣の蔵相チャーチルが、この政策を推進しました。インフレで地代収入や投資収益が実質的に目減りした貴族・富裕階級の利益を図る意図も在ったのかも知れません。  

 一方、新進気鋭の経済学者ケインズは、現状の実力相応にポンドを切り下げ、戦前よりもポンド安の形で金本位制に復帰すべきだと主張します。  
 特に米ドルとの関係を見ると、米国のインフレ率の方が英国よりも低かった(即ち、ポンドの実質的価値が対ドルで目減りして居た)ので、ケインズは、10%程度低い金価格(即ちポンドの10%切り下げ)で金本位制に復帰すべきだと論じました。  
 正統派の主張する様な金融引き締め政策で一般的物価水準を10%程度引き下げるとすると、それは失業の増加をもたらすので社会正義に反する、とも主張しました。

英国の「離脱」

 ケインズの反対にも関わらず、1925年に英国は旧平価で金本位制に復帰し、案の定ポンド高から来る競争力の低下と為替レート維持の為の高金利に苦しむ事に為ります。各国でも、金本位制復帰後は固定為替レートの維持が金融政策の大目標と為りますので、国内経済の動向に関わらず、厳しい引き締めが行われる事も珍しくありませんでした。

 大恐慌の影響で失業率が15%程度まで上昇し、欧州大陸の銀行危機によって金が流出した1931年、英国は遂に金本位制を離脱します。 同様に、米国はルーズベルト大統領就任直後の1933年3月に金本位制を停止し、1928年に戦前よりフラン安のレートで金本位制に復帰したフランスも1936年には離脱しました。  

 尚、日本は1930年に旧平価で金本位制に復帰(所謂金解禁)しましたが、大恐慌の嵐の中で窓を開けた様なものであり、翌1931年に金本位制を再停止しました。各国では金本位制からの離脱に応じて、要約デフレーションが終息し物価が上昇して行きます。

 金本位制は硬直的な制度ですから、平時に於ける安定的な経済環境には適して居るかも知れませんが、ショックに対して柔軟に対応する事は出来ませんでした。
戦後復興や、大きなバブルとその崩壊と云う経済の激動を、金本位制と云う制約の中に押し込もうとしても無理な相談でした。  
 各国は、戦前の常態に戻ろうとして、国民に多大の犠牲を強制したのみ為らず、返って経済基盤に自らダメージを与え、それをリカバーすべく自国の利益を優先する利己的行動に陥って、国際金融システムの崩壊に加担して行きました。


1-25-1.jpg 宮崎 成人
















2022年01月19日

コロナ禍を機に「日米地位協定」を根本から是正すべき理由



コロナ禍を機に 「日米地位協定」

 を根本から是正すべき理由




1-19-3.png 1/13(木) 11:01配信




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米海兵隊が調達津を進める地対艦ミサイルシステム(出所 米海兵隊 以下同)1-13-10




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文章 軍事社会学者 北村 淳   1-19-1



〜沖縄だけで無く岩国・横須賀・厚木・三沢等各地の米軍基地で新型コロナ感染者が多数報告されるに至り、日本の大手メディアも、アメリカ軍関係者が日本入国に当たっては「日米地位協定」に依って日本の法令や規則から全くフリーパスで或る状況に関して問題を提起し始めた〜

2021年12月30日掲載の本コラム「沖縄米軍で感染拡大 露わに為った『異常な日米合意』の大問題」を参照


但し、中国政府が国際社会に向かって喧伝して居る様に〔日米地位協定〕や〔日米地位協定合意議事録〕の問題を 「アメリカ軍は新型コロナウイルスのスーパースプレッダーだ」 と云った視点に集約してしまうと、それ等の協定や議事録の本質的問題を見失ってしまう事に為ってしまう。

 今回多くの人々にその存在が知れ渉った〔日米地位協定〕や、更に問題の在る〔日米地位協定合意議事録〕そしてソモソモ日米同盟と云うものが、第二次世界大戦後の勝者(占領統治国)と敗者(被占領従属国)の関係をそのママ引きずって居り、日本政府や国会もその様な屈辱的現状を卑屈な態度で容認し続けて居る状態に付いて、国民的議論を高める契機とせねば為るまい。

■ 在日米軍・日米同盟は抑止効果を発揮して居るのか?

 そもそも、何故〔日米地位協定〕や〔日米地位協定合意議事録〕に依って米軍関係者に治外法権的な数々の特権を与えて居るのか・・・もしも日本が外敵に軍事攻撃を受けて居て、自衛隊だけでは全く太刀打ち出来無い状態に陥ってしまった為、アメリカが安保条約に基づいて日本に支援軍を送り込み、その外敵と戦闘を交えて居る・・・と云う状況に在るの為らばそれは止むを得無いと言えよう。  

 そして、沖縄を初めとして日本各地に駐留する在日米軍や、横須賀と佐世保を本拠地にする第7艦隊の存在が、現実的に日本に対して軍事攻撃を実施しようとして居る外敵に対して抑止効果を発して居ると考えられる場合には・・・米軍関係者に与えて居る特権は或る程度は容認せざるを得無いと言えるかも知れない。  

 しかしながら、現在日本は外敵との戦闘中では無い。そして、日米同盟を崇(あが)めアメリカの軍事力に縋り付いて居る人々が最大の軍事的脅威と見做して居る中国に対して、在日米軍や日米同盟が抑止効果を発揮して居るのか? と問う為らば、甚だ疑問と言わざるを得無い。

 ■ 海洋戦闘の戦力強化を怠って来た米国

 アメリカはソ連との冷戦終結後、湾岸戦争・アフガニスタン戦争並びにイラク戦争と砂漠地帯や山岳荒れ地、そしてそれ等の地域の市街地での戦闘を、2021年8月にカブールから撤退する迄30年にも渉って継続して来た。 
 取り分け2001年9月の同時多発テロ事件以降は、米軍は戦略組織訓練の全ての努力を 〔国際イスラムテロリスト集団との戦争に集中〕 させた。その結果、米軍は砂漠地帯・山岳荒地・イラクやアフガニスタンの市街地での戦闘能力は充実したものと為った。
 処がトランプ政権がアメリカの主たる仮想敵を 〔中国・ロシア〕 に転換すると、それ等の新たな主敵に対する戦闘力が欠乏して居る事が深刻な問題と為った。

 万が一にも中国との戦闘が勃発した場合、核戦争に発展しない通常兵器レベルの戦いに限定された為らば、海洋戦力とサイバー戦力に依る対決と為るのは明らかである。処が、アメリカは過去四半世紀以上に渉って本格的な海洋戦闘(海上・海中・空中での艦艇・航空機・各種ミサイルを駆使しての戦闘、場合に依っては海兵隊に依る海岸線エリアでの地上戦も必要と為る)に対する戦力強化にはそれ程力を入れて来無かった。と云うよりも、油断して怠って来たのである。

■ 接近阻止戦力の強化を推し進めた中国

 一方、中国は、台湾統合と云う国家目標を達成する場合に起こり得るアメリカによる軍事介入を事前に跳ね返してしまう為に、アメリカが対テロ戦争に没頭して居る四半世紀に渉って 〔接近阻止戦力〕 の強化を徹底的に推し進めて来た。
 詰まり、中国近海域に接近して来るアメリカ海洋戦力を出来るだけ遠方海洋に於いて撃退する為に、長射程対艦ミサイル・長射程防空ミサイル・潜水艦・水上戦闘艦・戦闘機・爆撃機・早期警戒機等の戦力を強化して来た。現在も対米接近阻止態勢の充実努力は継続中である。  

 その結果、中国の「第一列島線」周辺海域(上空域を含む)迄の接近阻止戦力の充実には質量共に目覚ましいものが在り、アメリカ国防当局もその強力さを認めざるを得ない状況に至って居る。  
 それに対して、米軍の接近侵攻戦力は、旧態然とした空母艦隊や水陸両用戦隊に依る威嚇を主力として居り、表看板として居る空母艦隊に搭載される航空機も、中国接近阻止戦力に対してはプロジェクション能力が欠乏して居る有様だ。

■ 海兵隊は大変革を開始

 そしてこれ迄永きに渉ってアメリカ軍の先鋒部隊を任じて来た米海兵隊も、最早伝統的戦術と戦力では、強力な接近阻止態勢を構築した中国軍との対決にはとても打ち勝つ事が出来無い為に、抜本的な戦術転換とそれに伴う組織と装備の大変革を開始して居る。  
 即ち、敵の領域に勇猛果敢な侵攻部隊を着上陸させると云う第二次世界大戦スタイルの戦術は少なくとも中国軍相手には捨て去り、地対艦ミサイルや地対空ミサイルを装備した海兵隊部隊を中国軍の支配が及んで居ない島嶼等に送り込み、それ等の陸地から迫り来る中国軍艦艇や航空機を攻撃し中国軍の接近を阻止する・・・と云うのが、海兵隊の中国との海洋戦闘の新戦術なのだ。  

 その為、海兵隊は地対艦ミサイルや対艦攻撃用ロケット砲・それに防空システム等の調達や部隊編成を開始して居る。その反対に、これ迄海兵隊のシンボルとも云えた水陸両用強襲車の水上に於ける使用は中止されて居る状態だ。  
 要するに、対中国戦に於いては 〔海兵隊の主戦力は機動力の在る地対艦ミサイル部隊〕 と云う事に為り、これ迄沖縄に陣取って来た海兵隊部隊とは様相を異にする事に為るので在る。

■ 在日米軍と中国海洋戦力の現状を再認識せよ

 この様に、海兵隊自身がこれ迄の戦術を捨て去って 〔ミサイル部隊化しよう〕 として居るので在るから、現在の海兵隊戦力は中国に対しては抑止効果は持って居ない事を、海兵隊自身が認めて居る事に為る。  
 海兵隊が推し進める 〔地対艦ミサイル戦力〕 が完成して、沖縄だけで無く対馬から与那国島迄数多くの海兵隊ミサイル部隊が配備される様に為った場合には、中国艦隊に対するする抑止効果が生ずる可能性は在る。

 しかし、その様な戦力を海兵隊が手にする迄は、抑止効果は発揮され無いのが現状だ。日米地位協定の問題が浮上したのを契機に、この様な在日米軍と中国海洋戦力の現状を再認識して、日米同盟そのものの改善策を検討する時期に立ち至って居る。




1-19-2.jpg 北村 淳


【管理人のひとこと】

 北村 淳氏が云わんとして居る本旨は〔アメリカ軍の変質〕であり〔米海兵隊の変質〕なのである。言い換えれば今迄の軍略とは異なる思想で替えられたのは、海兵隊が従来の様に艦船と航空機で敵の陣地に切り込み急襲するのでは無く(中国軍が重点的に島嶼部に軍備を補強したので) 地域ミサイル部隊化した海兵隊が広範囲な・・・中国軍の支配が及んで居ない島嶼等に送り込み、それ等の陸地から迫り来る中国軍艦艇や航空機を攻撃し中国軍の接近を阻止する・・・に変化した。
 だから、沖縄・グアムに駐在する海兵隊の中身も自ずと変化する・・・無論沖縄に建設中の新基地も無意味なものに為ってしまう。今一方的に不平等な日米地位協定の問題を解決すべき時だ・・・の両方なのである。












2022年01月15日

徳川幕府最後の老中・小笠原長行 が辿(たど)った「数奇な運命」



徳川幕府最後の老中・小笠原長行が辿(たど)った 「数奇な運命」

維新後は20年もの隠遁生活に




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唐津城 1-14-11


昨年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、ベテラン俳優の鈴木隆仁さんが演じた、 最後の老中・小笠原長行 (おがさわらちょうこう) 最後の徳川将軍・慶喜に仕えた人物だが、名前だけは学校の授業で何と無く覚えて居ても印象に強く残る人物では無いだろう。しかし、実は明治以降は数奇な運命を辿って居た。明治維新後はどの様な人生を送ったのか?
 歴史の偉人達の知られざる〔その後の人生〕を人気歴史研究家の河合敦氏が解説する・・・河合敦著『殿様は「明治」をどう生きたのか2』より一部編集の上抜粋。



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歴史研究家 河合敦氏


「廃人」として育てられたお家の事情


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明治期の小笠原長行の肖像


唐津藩の小笠原長行は幕末の老中で在る。只、極めて異例なのは藩主(当主)では無く、世嗣(跡継ぎ)のママ幕府の重職に着いたと云う点だろう。しかも、藩主で在る養父は自分より二歳も年下なのだ。実はコレには複雑なワケが在った。

 長行の父親で在る小笠原 〔長昌〕 は奥州棚倉(たなくら)藩主だったが、文化14年(1817)に唐津6万石へ移った。処が、28歳の若さで病歿(びょうぼつ)してしまったので在る。この時長男の長行は僅か二歳だった。
 普通に考えても藩主を務める事は困難だが、特に唐津藩は長崎警備を担当して居た関係から幼君の襲封は認められ無かった。その為、長行は藩主の長男と云う立場に在りながら〔廃人〕・・・障害や病気が在って通常生活を営む事が出来ない者として幕府に届けられ、ヒッソリと養育される事に為った。

 結局、次の唐津藩主には、庄内藩主酒井忠徳の六男で在る 〔長泰〕 が、長昌の養子に入って就任したのだった。だが、長泰は大変病弱な人物でロクに政務も執れ無い状況だった事も在り、十年で隠居を余儀無くされた。
 そこで、唐津藩小笠原氏の親戚に当たる旗本の小笠原長保の次男で在る 〔長会〕 が次の藩主に為るのだが、長会は27歳の若さで急死してしまう。この為、今度は大和郡山藩主柳沢保泰(やなぎさわやすよし)の九男に当たる 〔長和〕 が新藩主と為るも、これ又20歳の若さで亡く為ってしまう。

 唐津藩に取っては、マルで祟られて居る様な不運が続いた。唐津藩では次に信濃の松本藩主戸田光庸の次男 〔長国〕 を藩主とした。この長国が長行より二歳も年下だったのである。
 因みに 〔長行〕 は、先に述べた様な事情から、藩主の血統を継ぎながら家を継承する事が出来ず、ズッと唐津城下に捨て置かれた状況だった。

学問を熱心に学び「老中格」に抜擢



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河合敦『殿様は「明治2」をどう生きたのか 』(扶桑社文庫)1-14-12


 21歳に為った時、江戸に上って深川下屋敷の一角に住むが、その食い扶持ちとして一月僅か五両しか与えられ無かったと云う。
 しかし長行は不満を言う事も無く、松田順之・朝川善庵・江川太郎左衛門等から学問を熱心に学び、当代一流の学者である安井息軒・藤田東湖・羽倉簡堂等と親しく交わり、その英才振りは広く知れ渡る様に為った為に、藩内外から 「長行は将来、唐津の藩主と為り幕政に参与すべきだ」 と云う期待が高まり、長行を現藩主長国の世嗣にしようと云う運動が起こり、遂に36歳の時、長行は長国の跡継ぎの座に着いた。

 この時期、既にペリーが来航し、下級武士の間で尊王攘夷運動が盛り上がりつつ在った。だが、開明的な長行は一貫して開国を主張して居た。世嗣と為った長行は、藩主の名代として唐津で藩政に参画する様に為ったが、その才能を見込んで、土佐藩主の山内容堂が強く幕閣に長行を登用する様求めた。  
 その甲斐在って、誠に異例ながら文久二年(1862)七月、長行は幕府の 〔奏者番〕 に登用され、翌月には 〔若年寄〕 に転じ、更に九月 〔老中格〕 に抜擢され、その分掌として 〔外国御用取扱〕 即ち、今で云う 〔外務大臣〕 と為ったのである。

 長行は老中に就任すると、大きな外交問題の解決を迫られる事に為った。同年八月に発生した生麦事件(薩摩藩士に依るイギリス人殺傷事件)を巡り、翌文久三年イギリスの代理公使ニールが莫大な賠償金の支払いを幕府に強く迫って来たのだ。

内と外の圧力の間で

 この時長行は、将軍家茂と共に上洛して居た。江戸の幕閣達は、将軍が帰還する迄、賠償金の支払いの可否を引き延ばそうとしたがそれにも限界が在った。こうした切迫した事態を知り、長行は文久三年四月に江戸へ戻り、自らニールと交渉に当たった。そして、殆ど独断を以て、賠償金の支払いをイギリス側に了承したのだった。  
 一方、京都では、飛んでも無い事態が進行しつつ在った。京都に足止めされた将軍家茂が、朝廷の急進派の公家や彼等と裏で結ぶ尊攘派志士の圧力を受け、四月二十日に 「五月十日を以て攘夷を決行する」 と約束させられてしまったのである。

 この為、将軍後見役の一橋慶喜がその事実を江戸の閣僚に伝えて、イギリスへの賠償金の支払いを中止させる目的で京都から江戸へ向かい始めたのである。  
 賠償金の支払い期限は五月三日と決まって居たが、この事実を慶喜からの書面で知った長行は、仕方無く慶喜の到着迄支払いを先送りする事に決め 「発病したので三日間だけ支払いを延期させて欲しい」と 五月二日に家臣を通じてニールに申し入れた。

 これにニールは激怒し 「期限迄に賠償金が届か無い時は、軍事行動を始める」 と断言した。方や、慶喜はユルユルと江戸に向かいながら 「金を払うな」 と云う書面を盛んに送って来るので、長行は如何にも動け無かった。
 開港地横浜では、フランス海兵隊が上陸したりイギリス軍が戦闘準備を整える等、具体的な動きを始め緊迫した状況と為った。 「このママでは、確実に戦争に為る」 そう判断した長行は、武力衝突を避ける為、激しい非難を覚悟した上で、五月九日に多額の賠償金を横浜のイギリス公使館へ運び込んだのだった。

幕末の目まぐるしい政局に翻弄されて

 更にである、長行は驚くべき行動に出た。外国奉行や目付等と共に千人以上の兵を軍艦やイギリス船に分乗させ、海路西へ進み大坂に上陸したのである。そして、その大軍を引き連れて京都方面を目指して進軍を始めたのだ。この報を得て、京都の幕閣は仰天した。直ぐ様、若年寄の稲葉正巳が長行の元に駆け着け、京都へ入らぬよう制止した。

 けれど長行は淀迄歩を進めてしまう。だが結局、幕閣に入京を阻止された上、長行は老中を解任された。しかもその免職は朝廷が幕府に要求したもので在った。朝廷が老中の進退に口を出すと云うのは前代未聞の事だった。
 如何にこの時期、幕府の力が弱く為って居るかが判る。この軍事行動を咎められた際、長行は 「生麦事件の賠償金支払いに付いて将軍に事情を説明し、攘夷決行に付いて私見を話す積りだった。他意は無い」 と述べて居る。

 だが、千人を超える兵を引き連れて遣って来て居るのだ。そんな穏便な理由で在る筈が無い。明らかに嘘だろう。恐らく真の目的は、尊攘派に軍事的な圧力を与え、京都に軟禁状態に置かれ攘夷決行を迫られて居る将軍家茂を江戸に連れ戻そうとしたのだ。  
 実際、長行の無謀な行動のお陰で、間も無く家茂は江戸へ戻る事が出来た。しかし、長行はその後、江戸で謹慎と為ってしまう。

 幕末の政局の転換は真に目まぐるしい。翌元治元年(1864)七月、薩摩・会津藩等公武合体派に依って朝廷から尊攘派が駆逐され、それに激高して京都に襲来した長州軍が撃破(禁門の変)されると、九月に長行は再び老中に登用された。

長州の離反と幕府征討軍の敗退

 幕府は、禁門の変で敗れ朝敵と為った長州藩を征討すべく大軍を派遣した。(第一次長州征討) しかし、保守派政権に変わった長州藩が、尊攘派三家老の首を差し出して恭順して来たので、征討軍は戦わずして引き揚げた。
 そして、慶応二年(1866)二月、小笠原長行は幕府の責任者として広島に派遣され、長州藩側との交渉に当たる事と為った。長行は、交渉の為長州藩の家老や支藩の藩主達を広島に呼び出したが、彼等は病だと称して出頭を拒絶した。

 その後、四月に為って要約毛利の使者が遣って来たので、長行は長州藩に対し 「十万石の減封と藩主父子の蟄居」 を通告した。既に処分内容に付いては、孝明天皇の勅許は得て居た。長行は、長州藩主毛利敬親父子に 「請書(処分内容を受諾する書状)」 を五月末迄提出する様命じた。
 この頃の長州藩では、 高杉晋作 がクーデターを起こして保守政権を倒し、桂小五郎を中心とする革新政権が誕生して居た。更にそれに先立つ同年一月には、密かに 薩長同盟 が締結されて居たのである。この為、請書が藩主父子から長行に提出される事は無かった。そう、長州藩は幕府の要求を拒絶したので在る。

 これにより交渉は決裂、同年六月、第二次長州征討が始まった。十五万の征討軍が組織され、紀州藩主徳川茂承を御先手総督として大軍が長州に向けて進発、西国諸藩も続々と出陣し長州領の包囲を開始した。この時長行は九州方面軍の総督に任じられ、船で九州小倉へ向かい開善寺に本陣を据えた。

 戦いは幕府海軍が六月七日に長州領の周防大島を砲撃した事で火ぶたが切って落とされた。以後、石州口、小倉口、芸州口等で次々と戦いが始まった。既に薩長同盟が結ばれて居たので、薩摩はイギリスのグラバーから最新式の兵器を購入し、坂本龍馬の結社亀山社中を通してドンドンと長州藩に流して居た。
 尚且つ、長州軍は四国艦隊下関砲撃事件の時に外国軍との戦いを経験して居り、既に洋式歩兵軍への転換を遂げて居た。特に士庶有志で結成された奇兵隊を初めとする諸隊は、兵としての練度が極めて高かった。  

 長州兵は軽装で散開しながら敵に迫り、最新の連発式銃を巧みに扱って次々と敵を倒して行った。特に長州側では、大敵に包囲され自領を侵略されると云う事で、領土や家族、親族を守ると云う意識が高く士気は高揚して居た。
 対して幕府の征討軍の士気は低下し切って居た。薩摩藩や広島藩が征討軍への参加を堂々と拒否して居り、それも大きく関係して居た。その上諸藩の装備は、戦国以来の甲冑と火縄銃と云う者が多かった。これではとても勝負に為らず、必然的に各地で征討軍は長州軍に敗れて行った。

長行、敵前逃亡?


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幕末藩士の銅像(武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎)1-15-1


 しかも、強大な幕府艦隊は長州水軍を圧倒出来た筈だが、艦船が傷着くのを恐れて積極的に戦おうとせず殆ど役に立た無かった。退勢は小倉口でも同じだった。小倉方面は、小倉城主十五万石の小笠原忠幹率いる軍事力がその主力であり、これに熊本藩(細川氏)久留米藩(有馬氏)柳河藩(立花氏)幕府(江川太郎左衛門率いる八王子千人隊)等が加勢に来て居た。

 しかし六月十六日夜半に長州の奇兵隊、報国隊等が田野浦と門司に奇襲上陸を敢行、小倉軍はこの強行軍をロクに迎撃出来ず、大きな被害を受け退却を余儀無くされた。その後も度々長州軍の襲撃を受けるが、戦って居るのは小倉兵だけで、他の味方は後方で事態を静観している状態だった。
 又、繰り返しに為るが、幕府艦隊も小倉の征討軍を海上からロクに応援しようともし無かった。これに立腹した小倉藩は、長行に対し 「諸藩の応援や救助も無い。この上敵が攻めて来るなら、我々は城を枕に討ち死にする覚悟で在る」 と云う書面を差し出した。

 驚いた長行は、最新兵器を備えた五千人の熊本藩兵に強く交渉、結果、渋々彼等は前線に遣って来た。こうして熊本兵が最前線に配置されると、七月二十六日より長州軍の総攻撃が為され、小倉と門司を結ぶ長崎街道で凄まじい激突が始まった。
 熊本兵は長州軍に大きな打撃を与えたものの、幕府の千人隊は彼等を支援しようとせず、小倉兵も戦い疲れたのか城から出て来ず、幕府海軍もロクに味方しようともし無かった。この為、戦いが終わると熊本藩は激高して、勝手に陣をまとめて帰国してしまった。
 これを見た久留米軍や柳河軍も、続々と兵を退いてしまったのである。こうして小倉口には小倉藩兵と幕府千人隊しか居ない状況と為った。

長州軍を苦しめ続けたゲリラ戦

 正に危機的な形勢を迎えた小倉藩故、七月三十日の夜、小倉藩家老の田中孫兵衛がその窮状を訴え、幕府の助力を乞おうと長行の居る本営を訪ねた。処が、幕府の役人がそれを制止するではないか・・・怒った孫兵衛がそれを押し退けて居室に入ると、何と中は蛻の殻だったのである。
 この日の夕方、長行は誰にも知らせず本営から出て、小舟で川を下って沖合に停泊して居る幕府の富士山丸に乗り込んでしまったのだ。そう、敵前逃亡したのである。  

 事態を知った小倉藩では、使者が直ぐさま富士山丸へ向かったが、結局、長行との対面は叶わず、そのママ富士山丸は出航してしまった。実は、将軍家茂が大坂城で逝去したと云う情報が長行の下に入ったのである。この為、味方の混乱を恐れてこの様な行動に出たのだ。それにしても、戦いの最中に最高責任者が敵に背を向けて遁走する等、驚くべき卑怯な行動だった。

 こうして小倉藩は孤立する状況に為ったが、長州藩に降伏する道は執らず、自ら小倉城を焼き払って、ゲリラ戦を始め長州軍を苦しめ続けた。真に見上げた行動だった。それから間も無く、幕府は将軍の喪に服すと云う理由で勝手に長州領から兵を退き、第二次長州征討は終わりを告げた。が、明らかにこの戦いは征討軍の敗北で在り、幕府の権威は地に堕ちた。

新政府に恭順した唐津藩

 新将軍に為った慶喜は猛烈な幕政改革に依って権威の回復を図るが、倒幕の動きは変える事が出来ず、慶応三年十月十四日に自ら政権を朝廷に返上した。(大政奉還) 
 慶喜としては、新しく出来る朝廷の新政府に参画して政権を主導しようと考えて居た様だが、十二月九日に倒幕派がクーデターを決行、新政府樹立宣言である王政復古の大号令が出され、その後の小御所会議で、慶喜に対して辞官納地(内大臣の免職と領地の返上)が決定。これにより新政権の中心に為ると云う慶喜の期待は砕かれた。

 その後、江戸で佐幕派が薩摩藩邸を焼き打ちした事で、大坂城の旧幕臣や佐幕派が激高。遂に「討薩」を掲げて旧幕府軍は京都へと進撃した。
 長行は長州軍の強さを身を以て実感した事も在り、江戸に在って幕府の閣僚達に 「非戦」 を説いた。が、その主張は煙たがられて受け入れられず、結局、慶応四年(1868明治元年)正月、鳥羽・伏見で旧幕府軍は薩長軍と激突、撃破されてしまうのである。

 錦の御旗が委ねられた事で薩長は官軍と為り、西国諸藩は続々と新政府方に味方して行った。一方、徳川慶喜は大坂城から江戸へ逃亡したが、朝敵とされ征討軍が江戸へと近づいて来た。長行の唐津藩は当初、形勢を傍観して居たが、藩主長国は佐賀藩に朝廷への執り成しを乞い征討軍に加わって東へ進んだ。
 又、同年二月、長国は佐幕派の長行を廃嫡処分とした。唐津藩が生き残る為には、そうする他無かったのだろう。更に三月三日、江戸の深川屋敷に居た長行の下に、長谷川清兵衛が国元から使者として送られ、直ぐに帰国する様伝達された。長行はこれを快諾し 「明後日の早朝にお前と共に出立する」 と約束した。

会津に向かった長行の決意

 処がで在る。何とその夜に長行は忽然と姿を晦(くら)ましたのである。恐らく 「大人しく出頭すれば、新政府方に引き渡されるかも知れない」 と考えたのだろう。彼の事だ。それが恐ろしいのでは無く、虜囚と云う辱めを受けるのが嫌だったのだろう。
 長行は、正室や側室を他所へ隠した上で、過つて小笠原家が領して居た 〔奥州棚倉〕 へと向かった。従う者は僅か十数名で在ったが、何れも信頼に足る者達だった。  

 それから十日後に江戸無血開城が決まり、更に徳川が無条件降伏した事で、新政府はスケープゴートとして会津藩を朝敵とし征伐する事に決めた。そんな会津藩が新政府に抗戦する積りだと知ると、何と長行は彼等と共に戦うべく棚倉から会津へ向かったのである。
「自分はこのママでは終われ無い」 と思ったのだろう。居所として会津藩は、長行に藩主の別荘 「御薬園」 を提供した。

 新政府は、朝廷に楯突つく小笠原長行の逮捕命令を唐津藩に再三発した。唐津藩は新政府に忠節を誓い征討軍を派遣して居たが、長行の勝手な行動で心証が悪く為り、仕方無く唐津炭五百万斤を提供する等して印象の改善を図ろうとした。  
 五月、新政府の強引な会津討伐方針に反発した東北・北越諸藩が 〔奥羽越列藩同盟〕 を結び、政府に抵抗する姿勢を明確にした。同盟側は、盟主で在る仙台藩重臣の片倉氏が支配する白石城(仙台藩領)に列藩同盟公議府を設置した。

 明治天皇の叔父に当たる輪王寺宮(寛永寺貫主・日光輪王寺門跡)が上野戦争の後、上野寛永寺を脱し東北に遣って来た。この為、宮が奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されたのだ。このおり長行も白石へ向かい七月から輪王寺宮を補佐する立場に着いた。  
 この頃から新政府軍の猛攻が始まり、現在の福島県域に続々と新政府軍が侵入して来た。戦いは新政府軍の圧倒的優位の内に進み、二本松城、棚倉城、磐城平城等が次々と落ちた。又、三春藩は手のひらを返して新政府方に寝返り、守山藩も新政府に恭順してしまった。

新政府に抵抗 蝦夷地への転戦


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五稜郭 1-15-3


 こうした状況の中で、小笠原長行は仙台迄赴いて藩主と会談し、要地で在る二本松城の奪還を強く主張した。しかし、状況はその後も悪化の一途を辿り、イヨイヨ新政府軍は大挙して猪苗代湖方面へ進んで母成峠で旧幕府軍・会津軍・奥羽越列藩同盟軍を撃破、八月後半に鶴ヶ城(会津若松城)迄進撃して来た。
 長行は福島に居たが、この頃、列藩同盟の盟主で在る仙台藩は降伏に傾き始め、九月十日、正式にそれを藩の決定としてしまう。こうした中で長行は、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流して、更に新政府に抵抗する決意を固めたのである。

 長行は白石から仙台へ入り、同じく老中だった板倉勝静等と共に軍艦開陽に乗り込んで蝦夷地へ渡った。慶応四年(1868)十月十九日の事だった。上陸地点(鷲ノ木と云う場所)が見えて来た時、甲板に出た長行は次の様な気持ちを記している。

「四方の景色を眺め遣るに、雪白ふ降積りて、山の形、林の様何度、オドロオドロシク我国にはよも新地と、おもゆるばかりなる」(『夢のかごと』)

 剛腹な長行も、これ迄見た事の無い異国の如き光景に、心細さを覚えた様である。

旧幕府軍、新政府軍による死闘

 榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、噴火湾で比較的波が穏やかな鷲ノ木湾(わしのきわん)を選んで来航したのだが、激しく為る風雪と高波の中、仕方無く上陸を強行した。このおり、小舟が転覆して十数名の命が失われると云うアクシデントが起こったと伝えられる。
 大人数を本陣等の公共宿泊施設だけで収容出来る筈も無く、民家のみ為らず近隣の村々も一時旧幕府軍の兵士が陣取る状態に為った。

 旧幕府軍は、人見勝太郎と本多幸七郎の二名を使者とし、一小隊(約30名)に守らせ、箱館府(新政府が箱館五稜郭に置いた組織)へ派遣した。二人とも元幕臣で歴戦の強者だ。人見と本多は 「蝦夷地を徳川旧臣の為に下賜して欲しい」 と云う嘆願書をたずさえ、箱館府へ向かった。願いが通らぬ時は一戦を交える覚悟だった。

 実際、二人の後を追う様に大鳥圭介率いる旧幕府軍が進発して居る。大鳥軍は鷲ノ木から茅部街道を通って箱館迄の最短ルートを進んだ。率いる部隊は遊撃隊、伝習士官隊、新選組など総勢七百名。それとは別に元新選組副長の土方歳三を将とする額兵隊、陸軍隊を中核とする洋式部隊約五百名が進撃を開始して居た。
 同隊は森、砂原、下海岸、川汲峠へと進み、大きく右へ折れて湯ノ川から箱館市街へ突入する進路を取った。同月二十二日夜、峠下で宿営して居た人見と本多ら遣使小隊が、突然何者かの銃撃を受けた。箱館府の命令を受けた竹田作郎を隊長とする松前藩兵と津軽藩兵の夜襲だった。
 人見ら遣使小隊は、駆け着けた大鳥隊と力を合わせ兵を小高い山上に散開させて応戦した。こうして戦いの火蓋は切って落とされた。

箱館を巡る死闘


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新撰組発祥の地(京都)1-15-4


 大野と云う地域には、新政府軍が四・五百人陣取って居た。大鳥がそこに奇襲を掛けると、新政府軍は呆気無く大量の武器弾薬を捨てて遁走してしまった。更に文月でも難無く敵を瓦解させたが、人見率いる部隊については七重で激戦を展開した。
 七重は箱館五稜郭へ通ずる重要拠点なので、何としてもこの地で敵を防ぐべく、箱館府権判事堀真五郎率いる新政府軍五百が三隊に分かれて高台に陣取って居たのである。  

 人見隊は危機に陥るが、敵の包囲を破って遊撃隊副隊長大岡幸次郎や隊士の杉田金太郎、砲兵長諏訪部信五郎や新選組の三好胖ら猛士達が 「奮怒の刀を振い弾丸雨注を侵し敵中に躍り入り、数十人を殺傷」 (『今井信郎著『蝦夷之夢』』)した事で戦いの流れが変わった。
 これを見て奮い立った遊撃隊を初めとする人見隊が 「銃を投げ刀を振って衝き入り、縦横に馳せ回る。呼声地に震い、深雪変じて紅の如く、尸横たわって丘のごとし。南軍おおいに破れて散乱す」 (『前掲書』)とある様に、最後は敵陣に一丸と為って突撃を敢行すると云う気迫の白兵戦に依って勝利を掴んだのである。  

 この戦いで新政府軍は20名近くの犠牲者を出したが、旧幕府軍も突撃を行った新選組の 三好胖(みよしゆたか) やその家来の小久保清吉等7名の死者を出し、重傷を負った大岡幸次郎や諏訪部信五郎も治療の甲斐無く後日息絶えた。
 三好は僅か17歳であった。実はこの三好胖と云う少年の名は変名で、本名は小笠原胖之助(おがさわらゆたかのすけ)と云った。

 長行の父唐津藩主の小笠原長昌が死去した後、庄内藩主酒井氏から 〔長泰〕 が養子に入って家を継ぐが、胖之助はその末子であり長行が彼を養育したのだ。正に我が子の様に可愛がって来た少年であった。
 この胖之助も長行同様、大人しく新政府に下る事を潔(いさぎよ)しとせず、五月の上野戦争では数名の唐津藩士と共に彰義隊に加わった。戦いに敗れた後は身を隠して東北へ潜行し、会津で新政府軍に抵抗、その後は仙台迄逃れ、長行と共に蝦夷地へ行く事を決めたのだ。

 この際胖之助は、新選組に入隊して一兵士と為った。そして壮絶な最期を遂げた訳だ。何れにせよ、五稜郭の箱館府(新政府方)では味方の敗北を知ると狼狽し、二十四日夕方に全軍を五稜郭に撤収させた。
 更に五稜郭に籠城しても冬に援軍の到来が期待出来無い為、その日の夜半、箱館府知事の清水谷公考以下新政府の官僚は五稜郭を脱出し、翌二十五日未明、箱館港から船で逃亡した。こうして榎本武揚率いる旧幕府軍は箱館に入った。

胖之助の死で、悲嘆に暮れる長行

 行軍途中で愛した胖之助の壮絶な死を知った長行だが、それに付いて次の様な想いを残している。

「七重といふ村を過るに、おのれがいろとの(弟)、いぬる(死ぬ)かんな月の末の四日の日、たゝかひにこゝにて討死したるを、宝林庵てふ寺に送りたると聞くものから、そがおきつきにまう(詣)でしに、懐旧の涙とゞめあへず、名残のいとをしまれけれど、さてあるべき事ならねば、逶々としてたち去りつゝ、日くれはつる頃、五稜郭の城のほとりになんたどりつきぬる」(『夢のかごと』)

 この様に長行は胖之助の墓に詣で、共に過ごした日々を思い出しつつ涙を流したのである。どうも、これが切っ掛けで長行は厭戦気分が強く為ってしまったようだ。旧幕府軍はその後、松前藩を駆逐して蝦夷全島を統一して蝦夷政府を設立するが、長行が政権に参画する事は無かった。箱館の郊外の空き家に引き籠もって、世捨て人の如き生活を始めた。過つての主戦派老中がである。

「五稜郭の城より西北なる人の住すてし庵になんうつりてける。もとよりすみあらしたるいぶせき家にしあなれば、暁かけてさうじのひまより雪霰なんどの、吹いるゝものから、さむさたへがたくて、いも寝られず、海は少し遠けれどよるよるは浪の音の枕にひゞきて物思ふ身は一しほに、こしかた行末の事なんど、おもひ出られて、かの立しら波のよるぞわびしきてふ、いとゞあはれぞまさりける」(『前掲書』)

「アメリカへ逃走した」とデマを吹聴

 翌明治二年(1869)春、イヨイヨ雪が解けると、新政府軍が大挙して蝦夷地に押し寄せて来た。旧幕府艦隊の旗艦開陽は沈没してしまい、土方歳三が新政府の大軍を引き着けて善戦したものの、各地で味方の敗北が続き、遂に箱館に新政府軍が姿を見せ始めた。
 五月、総攻撃が行われ、土方歳三初め多くの歴戦の強者が戦死、五稜郭は城門を開いて榎本等蝦夷政府の閣僚は降伏した。

 この間、小笠原長行は姿を晦(くら)ました。実は総攻撃が始まる前、側近の新井常保と堀川慎の手引きに依って、箱館港からアメリカ汽船で脱出、横浜に到着すると直ちに東京へ入り、旧知の新発田藩士大野賢次郎の庇護を受け、湯島の妻恋に一戸を借りて潜伏したのである。
 この時期、東京に居た唐津藩士は、唐津に戻ったり士籍を抜いて各地に散ってしまって居た。唐津藩邸には、警備や事務に当たる者が数名居る程度であった。だから、長行の東京潜伏を知る唐津藩士は極僅かで、しかも彼等は盛んに 「長行はアメリカへ逃走した」 とデマを吹聴した。  

 更に横浜在住のアメリカ人に宛てて為替を振り込み、そのアメリカ人から長行の基にそれを転送させ、生活費に宛てさせたのである。箱館迄行った政府高官が戦後皆降伏して居るにも関わらず、長行は投降しようとしなかった。明治四年、廃藩置県によって唐津藩は地上から消滅した。それでも長行は出ていかなかった。  

 明治五年一月、朝敵とされた元会津藩主松平容保が宥免(ゆうめん)された。更にアノ榎本武揚も同月、特赦に依り出獄した。此処に置いて要約小笠原長行は人前に姿を現したのである。政府との仲介役は、旧藩主小笠原長国と元佐賀藩主の鍋島直大が買って出た。
 長国が東京府知事の大久保一翁に宛てた長行に対する赦免申請書には 「長国は東北へ脱出し、その後、箱館に出て洋船に乗り込んだ処、風浪が激しく漂流し、アメリカへ行ってしまったが、只今帰朝したので謹つつしんで政府の命を待たせて居る」 と在った。勿論嘘である。

二十年の隠棲生活

 こうして一月が経ち、晴れて小笠原長行は自由の身と為った。長行はその後、駒込動坂に小さな邸宅を購入してそこに移り、ガーデニングや盆栽を趣味とし、子供達の教育に当たったものの、政治の表には二度と顔を出さ無かった。
 それだけでは無い。親戚や旧故に対しても一切会おうとし無かったのである。明治九年、長行は従五位に叙されて名誉を回復、同十三年には従四位に上った。

 だが、過つての同僚と云える会津の松平容保や福井の松平春嶽が訪ねて来ても、居留守を使って決して対面し無かった。 「箱館に渡って胖之助(ゆたかのすけ)を失った時、老中小笠原長行も死んだ」 そう考えて居たのかも知れない。
 晩年、長行は 〔與人異七事〕 と云う漫言(まんげん)を記して居る。自分が他人と際だって異なる処を七つ書き記したものだ。

〜足に電気(エレキ)を当てても何も感じ無い。壮年の時は朝全然腹が減ら無かった。大好きなものは沢山食べ無い方が好い。三十六歳の時に初めて子が生まれ、その後、六十一歳迄七人の子が出来た。自分は子供の時から痩せっぽちで運動し無くても太ら無い〜

 この様な他愛の無い内容である。しかし、次の文章は、長行の資質を非常に好く現して居る様に思う。

「我性質は先厳格なる方にて、たとへていはゞ箪笥の引出に物を入置にも、右の方には如斯もの、左には何々、奥には何とチヤント位置をきめて、数度出しいれしても乱るゝ事なく、本箱の書物は一より十までそろへて入置、度々引出して見ても、本の通りそろへて入置故、くらやみにて取出しても間違ふ事なし。大小総て此類にて、物を置にも一分にても曲りては心よからず、という様なる気質是本体也」(『前掲書』)

潔癖症・完璧主義者だけど優柔不断?



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 完全な潔癖症・完全主義者で在る事が判る。しかしその一方で 「拘泥し、或は因循して変化なきは甚好まず」「飄然活溌を悦んで、総て奇抜の意思あらざるは大いに厭ひ嫌ふ」 (『前掲書』)
 実際、長行は飽く迄己の主張を通す完全主義者で在りながら、攘夷と云う大勢に逆らい、当時としては最初から一貫して開国を唱え続けて居る。又、自分は何時もは優柔不断の性格で、大抵は多数に従うが、場合に依っては 「勇断決定して不顧疾雷不及掩耳の趣あり」 と云う様に、思い切った決断を直ちに下すと云う矛盾した処が在ると回想して居る。  

 何れにせよ、維新後は人前に出ず20年を生きた小笠原長行は、明治二十四年(1891)一月二十二日に死去した。享年七十で在った。 晩年、長行は息子の長生に 「俺の墓石には、声も無し香も無し色も彩も無し、さらば此の世に残す名も無し」 とだけ刻んで、俗名も戒名も無しにして貰いたいと言ったと云う。

 また、その辞世の句は 「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」 と云う変わったものだった。藩主の子として生まれ 〔廃人〕 として育てられた長行は、その優れた才覚により幕府の老中迄上って激動の世の中を動かした。
 しかし時勢に依って幕府は倒れ、賊とされて全ての功績は消されてしまった。為らば、自分が此の世に居た事に何の意味が在ったのか・・・そんな長行の悲痛な叫びが聞こえて来る様だ。


TEXT  歴史研究家 河合敦  bizSPA!フレッシュ 編集部


【管理人のひとこと】

 歴史の変遷・・・世の移り変わりと人間の人生の儚さを思わずには居られ無い・・・時代が変わるとは、この様に人間の人生を大きく変えるものだった・・・そう感じずには居られない文章だ。そして小笠原長行の人生も冒険に富み波乱に満ち満足するものだった筈である。
 新選組副長・土方歳三が、今の世でも人気が高く多くのドラマの主人公として取り上げられるのは、彼の人生に多くの人々が同調し感動したからに違いない。武士で無い者が必要以上に武士らしく生きようと苦しみ足掻いた末の一生だった。
 多くの人々は、ソコに自分では無しえない〔美〕を感じ〔もののあわれ〕を感ずるのだ。世の中に迎合せず忖度もせず・・・思った〔忠義〕を頑なに信じ信じたいと努力する姿に感動する。その意味では、この小笠原長行の生涯も身分は違えども少し共通して居る。奇しくも北海道の五稜郭で一緒に為ったのも何かの縁だろう。
 勝利した維新側には、その後の歴史を真正面に受け入れる覚悟が必要だが、敗れた側には〔美談〕だけを残して行く・・・その様な余裕が在って然るべきだろう。





















2022年01月14日

安倍晋三の悪友が経営する 精神科病院「B棟4階」のおぞましい虐待



精神科病院「B棟4階 のおぞましい虐待


看護師等が法廷で明かした真相と



株式会社全国新聞ネット 2020/9/10 07:00 (JST)



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患者への虐待事件があった神出病院 神戸市西区 1-14-3


神戸市内の精神科病院「神出(かんで)病院」で今年3月、看護師等男6人(現在は全員退職)が患者に虐待をして居たとして、準強制わいせつや監禁等の容疑で兵庫県警に逮捕された。その後、神戸地裁で開かれた公判では常態化した患者虐待のおぞましい実態が次々と明らかに為った。だが、浮かび上がった問題はそれだけでは無かった。

(共同通信 市川亨 山本紘平)

▽大人しそうな青年が

 6月23日 神戸地裁 法廷に現れた33歳の元看護師2人はどちらも大人しそうな、何処にでも居る普通の青年だった。それに対し、検察側が明らかにした2人の行為は、外見からはとても想像が出来ない内容だった。

 1人は2018年10月の早朝、他の元看護師等2人と一緒に、60代の男性入院患者を病室でベッド上に押さえ着け陰部にジャムを塗り、食べ物に執着の強い別の50代男性患者に舐めさせた。
 もう1人は19年9月の夜、他の元看護師等2人と共謀し、60代の男性入院患者を布団の上に寝かせ、手すり付きベッドを逆さに被せ閉じ込めた。患者の傍にポテトチップスを置き、手を伸ばす姿を見て面白がった。



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元看護師らの公判が開かれている神戸地裁 1-14-4


 事件の舞台と為ったのは、重い統合失調症や認知症等の患者が入院する同病院の「B棟4階」 何れの事件でも現場では「主犯格」とされる元看護助手(27)がスマートフォンで動画を撮影。LINE(ライン)でグループを造り、共有した動画を見て仲間内で盛り上がって居たとされる。6人の起訴内容はこれだけでは無い。

男性患者2人の顔を押さえて無理やり口付けさせる
患者の顔にホースで水を掛ける
頭を粘着テープでグルグル巻きにする
鼻の穴に指を突っ込んで引っ張る・・・
 等計10件に及ぶ。

▽「上司が率先して・・・」

 何故そんな酷い事を・・・法廷で問われた元看護師らはこう答えた。 

「(15年に)病院に就職した最初の頃から、他の看護師達が暴力行為をするのを見て居て、自分も遣る様に為った」
 「『患者をおちょくって一人前』と云う空気が在った」


 検察側の主張に依れば、B棟4階では虐待が常態化して居た。

患者を投げ飛ばしたり引きズリ回したりする
車いす事後ろにヒックリ返す
病室のドアに粘着テープを貼って閉じ込める・・・
 と云った行為が度々在った。

 元看護師の1人は捜査段階で 「看護師長等上司が率先して酷い事をして居るので、そう云う人が出世して行く所なんだと感じ、上層部に言っても仕方無いと諦めて居た」 と供述したと云う。


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 中には上司に相談した被告達も居た。だが彼等は法廷で

「その上司も虐待に参加して居たので、確りした話し合いに為ら無かった」
 「相談したが、何も変わら無かった」


 と話した。事件を招いた要因に付いて検察側・弁護側の意見は一致した。B棟4階で勤務し始めた時点で既に上司や周りが虐待をして居たので感覚が麻痺してしまったのだ。だが、上司等は罪に問われて居ない。
 事件が発覚した切っ掛けは、元看護助手が病院以外の場所で女性の体を触ったとして強制わいせつ容疑で逮捕され、捜査でスマホから虐待の動画が見付かったからだ。詰まり〔偶々〕で在って、病院の自浄作用が働いた訳では無い。この別の事件が無ければ今も虐待は続いて居たかも知れない。

 警察が立件出来た理由も、この動画が動かぬ証拠と為ったからで、重い精神障害がある被害者の供述では、裏付けは難しかったと観られる。実際、6人は被害を訴える事が出来無い重度の患者を狙って虐待を繰り返して居たとされる。




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▽安倍首相の友人が病院グループCEO

 「神戸市の病院」と聞けば、街中に立つ風景を思い浮かべるかも知れ無い。だが現実には、神出病院は神戸市の外れで林野に囲まれた場所に在る。敷地の正門には〔関係者以外立入禁止〕と書かれ、外部の人間を寄せ付け無い雰囲気が在る。
 長年続いて居た虐待に病院や行政は気付いて居無かったのだろうか。3月の兵庫県警の逮捕発表当日、取材に応じた病院の事務部長は 「県警から話が在った昨年12月に(初めて)知った」 と主張。神戸市の担当者も 「定期的な調査を毎年して来たが、把握出来なかった」 と話す。



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神出病院 1-14-6


 只、警察の逮捕後に市が病院の職員に実施したアンケートでは、虐待行為を聞いた事が在ると答えた職員が数人居た。市の担当者は 「そう云う声が上に伝わら無い組織の在り方に問題がある」と 指摘。市は8月17日、院内で相談や報告が出来る様改善命令を出した。
 病院は〔虐待防止委員会〕を設置して再発防止策を検討し、抜き打ちで夜間に巡回すると云った対応を公表した。しかし、上司ら他の職員による虐待や処分に付いては 「誤解を招く恐れが在るので回答は控える」 と一切、明らかにして居ない。


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安倍晋三の悪だくみ仲間達 1-14-2


 同病院は大阪・兵庫で病院や介護施設等を手広く展開する〔錦秀会グループ〕の一つ。グループの籔本雅巳(やぶもとまさみ)最高経営責任者(CEO)は安倍晋三首相の友人で、度々ゴルフや会食をする仲だが、その社会的地位に照らすと、病院の説明責任の果たし方には疑問が残る。公判で検察側が読み上げた供述調書で、被害を受けた患者の家族はこう話して居た。

「病院の医師や看護師に問いたいです。貴方達はこんな事をする為に医師や看護師に為ったのですか。貴方達は同僚の虐待に本当に気付いて居ませんでしたか?」

 8月末現在、元看護師等6人の内3人は神戸地裁で有罪判決を受け、残り3人は公判が続いている。      

▽取材後記

 起訴された元看護師等を法廷で見て居ると、彼等の殆どは就職した病院が違ってさえ居れば今でも普通に働いて居たのではないかと思わざるを得無かった。そう考えると、彼等も或る意味では被害者の様に思えて為ら無い。
 病院の上層部は本当に虐待に気付いて居なかったのか。本当だったとしても、これだけ異常な事態に長期間気付く事が出来無い組織も又異常だろう。神戸市のチェックも、果たして機能して居たのか如何か。罪に問われるべきなのは6人だけでは無い筈だ。



【管理人のひとこと】

 総理・元総理と云う身分は超法規的なものなのだろうか・・・それとも我が国の司法が可笑しく歪んでしまったのか・・・安倍晋三が長期政権を続けた日本は、政治的にも経済的にも我が国を確りとダメにして仕舞った。その間に普通では考えられ無いアラユル不法が侵され続けた。それをいちいち取り上げるだけでおぞましく為ってしまう程だ。
 しかし、そう云った無念の涙を流す被害者や迷惑を被った国民・人々が努力・奮励して安倍晋三を権力から引きずり下ろしたのでは無く〔爾来の病気〕を理由に自ら身を引いた。これ以上の悪事を続ける気力も失せたからなのか。しかし、口では一切の懺悔も反省の一言も無い。彼の犯した数多い犯罪は、起訴される事も裁判も無く雨水と共に流れ去ってしまうのだろう。
 安倍晋三を憲法・法律の下に正確に弾劾する時期が来るのかどうかは、日本の民社主義の完成度に託すしか無い様だ。












2022年01月13日

皇位継承策 店晒(たなざら)し懸念 与野党隔たり参院選も意識



皇位継承策 店晒(たなざら)し懸念

与野党隔たり 参院選も意識



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安定的な皇位継承の在り方に関する政府の有識者会議の検討結果の報告書を細田博之衆院議長(中央右)山東昭子参院議長(同左)に手渡す岸田文雄首相(右から2人目)12日午前 国会内 1-13-2


岸田文雄首相は12日、細田博之衆院議長・山東昭子参院議長等と国会内で会談し、安定的な皇位継承を巡る政府有識者会議の検討結果を報告した。

【図解】有識者会議が示した皇族数確保策


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皇族数確保へ2案 女性皇籍維持と養子縁組 安定継承 議論先送り・有識者会議


 只、女性・女系天皇の是非等抜本対策には踏み込んで居らず、各党間の立場も隔たりが大きい。夏には参院選が控えて居り、国会での議論が店晒しと為る恐れも在る。首相は有識者会議がまとめた報告書を細田氏等に手渡し「政府として尊重する」と伝えた。

 報告書は、減少する皇族数の確保策として

(1) 女性皇族が結婚後も皇室に残る
(2) 旧宮家の男系男子が養子として皇籍復帰する

 の2案を軸とする一方、女性・女系天皇の是非への言及は避けた。保守層に男系堅持を求める声が強い事などが背景に在る。自民党の茂木敏充幹事長は12日、党本部で記者団に 「事柄の性格上、静かな環境の中で意見集約を進めたい」 と述べるに留めた。
 首相は昨年の自民党総裁選で、女系天皇容認への反対を明言して居り、同党は与野党協議でも皇族数確保を優先課題とする方針。閣僚経験者は 「旧皇族を復帰させ、将来的には女性天皇を認めれば好い」 としつつ 「女系は駄目だ」 と釘を刺した。  

 これに対し、立憲民主党は女性・女系天皇の容認も含め、抜本的な安定継承策や 〔女性宮家〕 創設を求めて行く構え。西村智奈美幹事長は記者会見で 「先延ばし出来無い筈の課題を、更に先延ばしにして居る」 と批判した。野田佳彦元首相をトップとした検討委員会で党内議論を進める。
 日本維新の会の馬場伸幸共同代表は会見で 「我が党には女性天皇を容認する考え方もある」 と指摘。共産党の穀田恵二国対委員長も会見で 「憲法の精神に基づく考え方からすれば女性を排除すると云う事は無い」 と述べた。  

◇18日から与野党協議

 衆参両院の議長は12日、連名で談話を発表した。2017年に天皇退位を巡り与野党が議論した事に倣い、各党・各会派の議論に委ねる方針で 「政府の検討結果、国民各層における幅広い議論を踏まえつつ、慎重かつ丁寧に検討を進めて行きたい」 と表明した。 与野党の代表は18日、松野博一官房長官から説明を受け今後の議論の進め方も話し合う。

 只、参院選を前に、与党側には国論を二分しかね無い問題を回避しようとの姿勢が滲む。自民出身の細田議長は記者団に 「十分な時間を掛けて検討して貰う段取りだ」 と強調した。  17年6月に成立した天皇退位特例法の付帯決議は、国会が政府に対し皇位安定に関する課題を速やかに検討し報告する様求めたが、安倍・菅政権で議論は遅々として進ま無かった。5年近くたって要約検討結果が提出されたが、国会での議論は早くも停滞する懸念が出ている。





皇位継承策 国会で熟議せよ 「国民の総意」形成への道

【解説委員室から】2022年01月11日



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2020年の新年一般参賀で手を振られる天皇・皇后両陛下と皇族方 2022年も新型コロナ感染拡大防止の為取り辞めと為った 2020年1月2日 皇居【時事通信社】1-13-4


 安定的な皇位継承の在り方を検討して来た政府の有識者会議(座長・清家篤元慶応義塾長)の最終報告書が2021年12月末に提出された。肝心の秋篠宮家の長男悠仁さまの後の皇位継承策の問題には触れず、現状の論点整理として出て来た皇族数の確保に付いて、軸と為る2案を提示するに留まった。報告書の内容は国会に報告され、議論の舞台は国会に移った。

 只、皇位継承問題の中核に在る女性・女系天皇の議論は全く為され無かった。女性天皇の子供が即位する女系天皇に付いては保守派が頑なに反対。各種の世論調査で大半の国民が容認する姿勢とは対照的で在る。憲法は天皇の地位を 「国民の総意に基づく」 として居る。その基盤を崩し兼ね無い難題に、国会はキチンと向き合い回答を出す事が出来るのか。
「国論を二分する」 ことを恐れて議論し無ければ 〔総意〕 への道は見えて来ない。国会議員が国民の代表としての能力を全開にし、その矜持(きょうじ)を見せる時が近づいて居る。 (時事通信解説委員 橋詰悦荘)

本質論を回避した報告書


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安定的な皇位継承の在り方を検討する有識者会議の清家篤座長(左)から報告書を受け取る岸田文雄首相 2021年12月22日、首相官邸【時事通信社】1-13-5


 先ず、報告書の内容を確認しよう。報告書は冒頭で 「天皇陛下、秋篠宮さま、悠仁さまが居られる事を前提にこの皇位継承の流れを揺(ゆ)るがせにしては為ら無い」 と指摘する。これは、週刊誌等で頻繁に登場する 〔愛子天皇〕 誕生を事実上否定した事に為る。
 続けて 「悠仁さまの次代以降の皇位継承に付いては議論するには機が熟して居らず」「将来において悠仁さまのご年齢やご結婚等を巡る状況を踏まえた上で議論を深めて行くべき」 として先送りした。
 未婚の男性皇族が悠仁さま一人と云う現状を踏まえて 「先ずは、皇位継承の問題と切り離して、皇族数の確保を図る事が喫緊の課題」 として、議論の方向性を限定。求められた 「悠仁さまの後を如何するのか」 と云う本質的な問いへの回答を避けた。

女系の否定

 報告書が示した皇族数の確保策は  ?@ 女性皇族が結婚後も皇室に残る ?A 皇族の養子縁組を可能にして、旧宮家の男系男子を復帰させる・・・ と云う2案だ。
?@ 案は女性・女系への道を模索(もさく)したものでは無い。 結婚した相手やその子は皇族としての身分を持たず、一般国民としての権利・義務を保持し続けるとして、 女性・女系天皇の誕生を否定 した。



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現在の皇室の構成と皇位継承順位【時事通信社】1-13-6


?A 案は明確な男系男子の継続を意味する。 宮内庁関係者が好く例示として口にするのが、子供が居らずお二方とも高齢と為られた常陸宮家の養子縁組。戦後間も無い1947年に皇籍離脱した11宮家51人の旧皇族の流れを汲む男性を養子として迎えると云うものだ。

 何れにしても、報告書には皇位継承策を議論する際の中核を成す女性・女系天皇に付いて検討した部分は出て来ない。安倍政権下の2017年に退位を認めた特例法が成立し、その後の菅政権で設置されたこの有識者会議の議論は、女系天皇を拒否する保守派政権の意向を完全に取り込んだ形だ。
〔悠仁さまの後〕 の本質的な議論を避けて先送りし、当面は 「男系男子で行けるとこ迄行く」 と云うのが報告書の基本的スタンスと読み取れる。

今後10年で解決

 報告書は最終部分で、福沢諭吉の〔帝室論〕を引用  「帝室は政治社外のものなり 」との指摘を紹介して 「国論を二分したりする様な事は在っては為ら無い。静ひつな環境の中で落ち着いた検討を行って頂きたいと願って居る」 と結んで居る。
 確かに悠仁さまの 恋愛⇒結婚等 の流れを考慮して行くと云うのは当然だが、現実の問題はその 恋愛⇒結婚 が希望通りに上手く進むかどうかだ。



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結婚後、記者会見する小室圭さん(左)と眞子さん=2021年10月26日午後、東京都千代田区[代表撮影]【時事通信社】1-13-7


 一人一人がスマートフォンを携帯し、何時でも何処でも発信出来る様に為った環境で、恋愛の成就に必要な秘密性をどう確保するのか。或る程度の段階に進行したとしても、相手の女性に対する度を越した誹謗(ひぼう)中傷が、ネット上に溢れる事は簡単に想像が出来る。
 美智子さまの時も雅子さまの時も 〔静ひつな環境が必要〕 との理由で、日本新聞協会加盟各社は一定期間の報道自粛(協定)を申し合わせた。メディア環境は格段に複雑・高度化している。平成の結婚を取材した経験から言えば、この報道協定は次は成立し得無いだろう。結婚へのハードルは、過去と比べものに為ら無い程高く為って居る。



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秋篠宮ご夫妻と長男悠仁さま 2019年8月20日 ブータン・ティンプー[代表撮影]【時事通信社】1-13-8


 更に、仮に結婚迄至ったとしても、男系男子と云う制度は、悠仁さまの相手に男子を産む事を要求する非人間的制度で在り、自然の摂理に従い人間らしく生きる事を否定するものである。若い女性にこれを強制する事が出来るのか。
 雅子さまが適応障害で苦しまれたのも、この制度の大きなプレッシャーが要因だったのではないか。私達はこの雅子さまの苦しみと教訓を次に生かす事を考え無ければ為ら無い筈だ。

 先送りで時間を浪費しては為ら無い。悠仁さまは今15歳。結婚の時期を考えれば、今後10年程度で男系男子と云う大きなプレッシャーを取り除く制度改正をする必要が或る。これこそが安定的皇位継承への道を切り開く事である。

国会に常置の皇室運営委員会を

 死ぬ迄天皇と云う終身天皇制を前提にする法体系の中で、上皇さまが退位を考えて居た事は宮内庁幹部の一部が知って居るだけで、国民は当初、誰も知ら無かった。皇室と国民の間のコミュニケーション回路が無かったからである。
 それを代議制民主主義の中で実現しようとすれば、矢張り国会の中に常置の専門の委員会(例えば皇室運営委員会)を設けて、こうした役割を果たす様にする事が必要なのではないだろうか。

 平成の退位の際に〔天皇の意思の暴走〕を危惧する意見を表明した渡辺治一橋大学名誉教授は、近著の「『平成』の天皇と現代史」(旬報社)の中で、国会に超党派の常置委員会の設置を提案して居る。
 憲法改正を議論する憲法審査会が在るが、その皇室バージョンとして設置する。その委員会で審議し、時には皇族側から生の意見も聞き取る。そう云う場が在れば、誕生日会見で突然表明された 「大嘗祭は私費で」 と云う秋篠宮さまの主張なども柔軟に検討する事が出来る様に為る。

 勿論、今後の皇位継承策についてもこの委員会の場を利用して、熟議を積み重ね、合意を広げる事ができる様にすれば好いのではないか。女系を認めるかどうか。「国論二分」を克服して、日本の民主主義を強靭(きょうじん)にするチャンスが到来していると楽観的に考え進むのが好いと思う。




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皇居・宮殿 東京都千代田区【時事通信社】1-13-9


【筆者略歴】 社会部 ロサンゼルス特派員 福島支局長 編集局次長等を経て現職 昭和から平成への代替わりを宮内庁担当として取材した 象徴天皇制 司法行政 文教政策などを中心にコラムを執筆 (2022年1月12日更新)











2022年01月06日

カザフ暴動死傷者多数か ロシア主導CSTOが平和維持部隊派遣へ



カザフ暴動死傷者多数か

ロシア主導CSTOが 平和維持部隊派遣へ




1-6-14.gif 1/6(木) 8:57配信


その1 【モスクワ小野田雄一】

中央アジアの旧ソ連構成国・カザフスタンで起きた燃料価格の値上げを巡る暴動で、トカエフ同国大統領は5日、一部都市で発令して居た2週間の非常事態宣言を全土に拡大した。トカエフ氏は又、暴動を国家テロと位置付け「対テロ作戦」を発動。
 同国内務省に依ると、治安部隊員等8人が死亡し300人以上が負傷した。デモ隊にも多数の負傷者が出て居ると観られる。トカエフ政権がデモ隊に対して過剰な鎮圧行動を取って居た場合、国際社会から強い非難を受けるのは必至だ。

 トカエフ氏は又、同国が加盟するロシア主導の「集団安全保障条約機構・CSTO」に対テロ支援を要請。これを受け、CSTO議長国を務めるアルメニアのパシニャン首相は6日、情勢安定化迄の期間限定で平和維持部隊を派遣すると発表した。ロシア大統領府サイトもパシニャン氏の発表を掲載した。
 これに先立ち、ロシア外務省は5日、対話に依る平和的解決を要求。米国や欧州連合(EU)も、政権側とデモ側双方に自制を呼び掛ける声明を出した。


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 5日 抗議デモが激化したカザフスタン・アルマトイで壊された商店のガラス(タス=共同)


 タス通信に依ると、カザフ当局は6日、アルマトイの空港に〔テロ集団〕が侵入し、空港施設や航空機を占拠したとして対テロ作戦を発動。当局側に2人の死者が出たと発表した。 タス通信やロイター通信に依ると、カザフ政府は、自動車燃料等に使われる液化石油ガス(LPG)の価格統制が生産者に損失を与えて居るとして、今月1日から価格統制を撤廃。
 LPG価格は従来の約2倍と為る1リットル当たり120テンゲ(約32円)に上昇し、2日から同国西部の都市等で抗議デモが発生した。デモは全国各地に波及した。

 トカエフ氏は治安部隊を投入してデモ隊200人以上を拘束する一方、価格統制の再開を表明。しかしデモは収まらず、同国最大の都市アルマトイでは5日迄に約400の商業施設が被害を受け、多数の警察車両や救急車が燃やされた。デモ隊はトカエフ氏の自宅や市庁舎も占拠した。



カザフ全土でデモ暴徒化 内閣総辞職

1-6-14.gif 2022/1/5 23:23


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5日 カザフスタンのアルマトイで 抗議デモ隊が占拠した市庁舎から白煙が上がる様子(AP)1-6-7


 中央アジアの旧ソ連構成国カザフスタンで、燃料価格の値上げを巡る抗議デモが全国規模の暴動に発展し、トカエフ同国大統領は5日、内閣総辞職を承認し首都ヌルスルタンに非常事態宣言を発令した。デモ隊や治安部隊員ら計190人以上が負傷し、治安部隊員に死者も出て居る。同国最大の都市アルマトイではデモ隊がトカエフ氏の自宅や市庁舎を占拠した。

 トカエフ氏は5日にテレビで演説し、2019年迄約30年間に渉り同国に君臨したナザルバエフ前大統領が務める安全保障会議議長の役職を同日付で引き継いだと発表。「暴動には厳しく対処する」と述べた。
 タス通信やロイター通信に依ると、カザフ政府は、自動車燃料等に使われる液化石油ガス(LPG)の価格統制が生産者に損失を与えて居るとして、今月1日から価格統制を撤廃。LPG価格は従来の約2倍と為る1リットル当たり120テンゲ(約32円)に上昇し、2日から同国西部の都市等で抗議デモが発生した。デモは全国各地に波及した。

 トカエフ氏は治安部隊を投入してデモ隊200人以上を拘束し、4日にアルマトイ等に約2週間の非常事態宣言を発令する一方、価格統制の再開を表明。しかしデモは収まらず、アルマトイでは5日迄に約400の商業施設が被害を受け、30台以上の警察車両や救急車が燃やされた。マミン内閣の総辞職に伴い、スマイロフ第1副首相が首相代行に就任した。

〔モスクワ 小野田雄一〕




実力者ナザルバエフ氏失脚

カザフで反政府デモ 混乱拡大



その2 1-6-10.png 1/6(木) 6:31配信 1-6-10



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カザフスタンのトカエフ大統領 2019年6月 ヌルスルタン(AFP時事)1-6-11


 中央アジア・カザフスタンのトカエフ大統領は5日、反政府デモが全土に拡大する中、地元テレビを通じて国民向けに演説し、ナザルバエフ前大統領に代わって、自身が安全保障会議議長に就任すると発表した。ナザルバエフ氏が失脚した事を意味する。
 報道に依ると、デモ隊との衝突で治安部隊の8人が死亡した。ナザルバエフ氏は旧ソ連末期から30年近くカザフを統治。大統領の座を2019年にトカエフ氏に譲ってからも影響力を保持して来たが、実力者の失脚に依り中国とロシアに挟まれた地政学的な要衝でも在る資源国は大きな転機を迎えた。




カザフで異例の反政府デモ 「非常事態」で内閣退陣



1-6-10.png 1/5(水) 19:42配信



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4日 カザフスタンの最大都市・南部アルマトイで政府に抗議するデモ隊(AFP時事)1-6-8



その3 【アルマトイ AFP時事】

 中央アジアのカザフスタンで、燃料価格高騰に端を発した異例の反政府デモが全土に広がり、トカエフ大統領は5日 沈静化を狙ってマミン首相率いる内閣を退陣させた。スマイロフ第1副首相が首相代行に就く。トカエフ氏は、最大都市の南部アルマトイと西部マンギスタウ州に非常事態宣言を発令した。




カザフで抗議デモ広がる

鎮静へ 旧ソ連諸国が支援部隊派遣へ




1-6-12.gif 1/5(水) 17:31配信 1-6-12



 1月5日 カザフスタンのトカエフ大統領は内閣総辞職を承認した 写真は燃料価格引き上げに対する抗議デモが行われる中、警察車両が燃え上がる様子。アルマトイで同日撮影(2022年 ロイター Pavel Mikheyev)1-6-9

[アルマトイ 6日 ロイター]

  中央アジアのカザフスタンで燃料価格引き上げに対する抗議デモの一部が暴徒化する中、トカエフ大統領は6日、鎮静に向けてロシア等旧ソ連諸国で造る集団安全保障条約機構(CSTO)に支援を要請した。これを受け、CSTO加盟国であるアルメニアのパシニャン首相は、カザフに平和維持部隊を一定期間派遣すると明らかにした。部隊の規模は不明。

 ロシアの国営通信社スプートニクに依ると、カザフ内務省は5日、抗議デモに依って4・5日に警官等8人が死亡したと明らかにした。ロシアの複数の通信社はその後、カザフメディアの報道として、最大都市アルマトイの空港での「対テロ作戦」で兵士2人が死亡したと伝えた。
 抗議デモは燃料価格引き上げが発端と為って発生したものの、参加者の間ではナザルバエフ前大統領への批判の声が広がって居る。

 ナザルバエフ氏は2019年に後任にトカエフ氏を任命し一線から退いたが、尚政治的な実権を握って居る他、同氏の親族が経済の大部分を掌握して居る。 こうした中、トカエフ大統領は5日、ナザルバエフ前大統領を安全保障会議議長から解任した。
 これに先立ち、内閣総辞職を承認し代行閣僚に燃料価格引き上げの取り消しを命じたが、騒乱は収まらず、首都ヌルスルタン(旧称アスタナ)の他、アルマトイと西部マンギスタウ州で非常事態を宣言した。

 ロシア通信(RIA)に依るとその後、非常事態宣言は全土に拡大された。 事情に詳しい関係筋に依ると、デモ隊はアルマトイの空港を占拠しフライトはキャンセルされた。 インタファクス通信は当局者の話として、その後、デモ隊は空港から排除されたと伝えた。ロイターはこの報道に付いて確認出来て居ない。

 トカエフ大統領は6日未明のテレビ演説で、ロシア・アルメニア・ベラルーシ・カザフスタン・キルギスタン・タジキスタンで構成するCSTOに支援を要請したと説明。外国で訓練を受けた「テロリスト」が建物やインフラを襲い、アルマトイの空港で航空機5機を占拠したと述べた。

 カザフスタンはナザルバエフ氏の長期政権の下で政治的に安定して居た事で、原油や金属等の産業に外国からの多額の投資が流入。今回の騒動を受けカザフスタンのドル建て債の価格が急落する等の影響が出て居る。 政治アナリストは、他の旧ソ連構成国と同様に、自由を否定された事に対する若者の不満が見せ掛け上の安定で覆い隠されて居たと指摘。

 ブルーベイ・アセット・マネジメントの新興市場ストラテジスト、ティム・アッシュ氏は、「民主主義の欠如に対する根源的な不満が根底に在る」との見方を示した。ロシア大統領府は、カザフスタンは自ら内政問題を迅速に解決出来るとの見方を示し、他国の干渉を牽制。米ホワイトハウスのサキ報道官は情勢を注視して居るとし、自制を呼び掛けた。その上で、米国が混乱を扇動したとのロシアの主張は誤って居ると述べた。




【管理人のひとこと】

 旧ソ連・東欧のカザフスタンは日本にそれ程馴染のある国では無い。ロシア・アルメニア・ベラルーシ・カザフスタン・キルギスタン・タジキスタンでCSTOの軍事同盟を結ぶ国だと在る。
 云わば西側のNATOに対抗する組織だが、資源が豊富な国だとも在り、 LPG価格は従来の約2倍と為る1L当たり120テンゲ・約32円に上昇したと在る。詰まり以前は1L16円だったのだ。これは、政府が産業や国民の為の統制価格なのだろう。
 それが、陰で産業を支配する旧大統領の「価格統制が産業の足を引っ張って居る」の一言で急遽二倍に跳ね上がった・・・それに対する国民の反対デモだそうだ。政府の価格政策もそれだが、如何に政府が経済政策に熱心に取り組んで居たのかも知れる。我が国では考えられぬ政策だ。恐らくカザフスタンも日本以上の経済発展をして居たのだろう・・・国内での暴動が早く収まる様に・・・

















2022年01月04日

「あの日、ヒトラーを見た私」直木賞作家・安西篤子さんが語る



「あの日、ヒトラーを見た私」

直木賞作家・安西篤子さんが語る ベルリンで目撃した光景



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安西篤子・エッセイ 「あの日、ヒトラーを見た私」



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 アドルフ・ヒトラー(Wikimedia commonsより)1-3-2



「ヒトラーと石原莞爾」 同年生れの二人を軸に東西の時局から大戦を描く、佐江衆一の渾身の史伝 『野望の屍』 が2021年1月に刊行された。
 幼少期をベルリンで過ごした 直木賞作家の安西篤子さん は、ナチスの隆盛時、父親に連れられてヒトラーの住まいを見に行くと、バルコニーの下に集まった群衆に手を振るヒトラーの姿を目にしたと云う。当時の体験を振り返りながら『野望の屍』の読み処を紹介する。

                     * * *  




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安西篤子(作家) あんざい・あつこ


2020年10月に亡く為った佐江衆一(さえしゅういち)氏の御遺作 『野望の屍』 を頂いた。佐江氏には何度か御目に掛かったが、取り立てて親しいと云う程では無い。御著書を頂くのも初めてだった。けれども、表紙を見て思い出した。
 以前にお会いした時、私が昔、ドイツに居て、ヒトラーを見たとお話しした事が在る。それを覚えて居られて、この御本を送る様手配して下さっていたのだろうと思った。

 早速拝読した。大層面白かった。私は子供の頃、中国各地で暮し、上海では蒋介石の邸の隣に住んで居たから、その点でも興味深かった。
 1927(昭和2)年8月に神戸で生れた私は、11月には日本郵船の伏見丸に乗って欧州へ向かった。銀行勤めの父がハンブルクへ転勤に為ったのである。母の話では、28年の1月1日にマルセーユへ着いたと云う。

 私がもの心着いたのはハンブルク時代で、庭の広い一戸建てで、隣家のドイツ人のお姉さんが好く遊んで呉れた。その後、父がベルリンへ出張所を開く様命じられベルリンへ移った。ベルリンでは、マンション住まいだった。女中のケーテが可愛がって呉れた。ヒトラーが台頭したのはその頃である。
 ベルリンで最初に住んだのは、カスタニアーレと云う通りの五階建てマンションの五階だったそうだが、僅かしか住まず私は覚えて居ない。次に移ったのが、アムパーク15番地のマンションで、此処は好く覚えて居る。
此処も五階建てで一フロアが一戸に為って居る。私共は二階に住んだ。マンションと云っても可成り広い。

 玄関を入るとホール、その奥の客間には大家さんが残して行ったものと私の母のもの、二台のグランド・ピアノが在ったが未だ広々として居た。続いてダーメン・チンマ(婦人用客間)ヘーアン・チンマ(父の書斎)寝室・食堂・子供部屋・女中部屋・台所・浴室等が在る。向いのマンションには、当時人気の映画スター、マルレーネ・ディートリッヒが住んで居り時々見掛けた。  

 私共のマンションの持ち主は資産家のユダヤ人で、ナチスが勢いを得て来た為、危険を感じ市外のワンゼー(湖)の畔の別荘に移り、後を家具着きで私共に貸したと云う。 一度招かれて、別荘へ遊びに行った事が在る。
 両親が食堂で御馳走に為って居る間、私は退屈して廊下をブラブラ歩き廻った。通り掛かった部屋のドアを開けると、そこは不要な道具を仕舞って置く所らしく、雑多な家具の間に、私の背丈より高い白い物が見えた。近寄って見るとそれは白鳥の羽だった。何だか怖く為って、慌ててそこを出たのを覚えて居る。  
 別荘には芝生の広い庭が在り、湖迄斜めに続いて居た。後に映画で、これとソックリの別荘が舞台に為って居るのを見た事が在る。  

 日本へ帰ってからも、両親は時々大家さんの事を思い出して話して居た。酷い目に遭って居ないだろうか、アメリカへでも逃げて居れば好いがと云って居た。 ベルリンでは、私は何時も女中のケーテにクッ付いて歩いて居た。日常会話はドイツ語で親ともドイツ語で話した。
 日本へ帰った時日本語が話せず、小学校へ上がる直前だったので、親が心配して、当時、住んで居た東京・阿佐ヶ谷の幼稚園に通わせた。私は忽ち日本語で話す様に為り、ドイツ語は頭から抜けてしまった。

 そのドイツ語だが、家へ来たドイツ人の客に云わせると、田舎訛が強いと云う。私のドイツ語は、女中のケーテから覚えたもので、ケーテは田舎の出身だったらしい。ケーテが、近所の小間物屋へ糸や針を買いに行く時も私は着いて行った。
 店の主人は、何時も黒い服を着た陰気な感じの中年の女性でユダヤ人だと云う。大家さんもそうだが、詰まり、ユダヤ人はベルリン市内に溶けこんで暮して居たのである。

 私がヒトラーに興味を抱くのは、どうしてアレ程ユダヤ人を排斥し虐めたか・・・と云う事で在る。日本でも、関東大震災の折、在日朝鮮人を酷い目に遭わせた。が、それは一過性に過ぎ無い。ヒトラーの場合、先ず宗教が背景に在りそうだ。少なくとも口実には為るだろう。
 日本人は宗教の受け入れに寛容だが、ヨーロッパ人はそうはいか無い。日本人は神式で結婚式を挙げ、人が亡くなれば仏式で葬儀をする。神様も仏教も有難い対象で片付けてしまう。

 ベルリンの人達は日曜日には必ず教会へ行く。父は学生時代、銀座教会で洗礼を受け、一応クリスチャンだが日曜毎に教会へ行く事は無い。
 キリスト教徒とユダヤ教徒、ソコには日本人にはチョット理解不能の溝が在るのかも知れ無い。ヒトラーが勢力を増して来た或る日、父は六歳の私を連れてヒトラーの邸の前に行った。その日はヒトラーの誕生日だった。
邸の二階のバルコニーにヒトラーが姿を現すと、バルコニーの下に集まった群衆が何事か叫んで手を振る。それに対して、ヒトラーが手を振り返す・・・大層な騒ぎだった。  

 私の見た処、群衆の大半は、17・8歳か20代前半の若い女性だった。金髪で色白、ふくよかな女の子達で、美しいと云うより、素朴で無邪気と云った印象だった。何故父は、そんな所へ私を連れて行ったのだろうか。  
 銀行勤めの父の下には、新しいニュースがドンドン入る。ヒトラーの台頭に依って、第一次大戦後の疲弊したドイツに何か変化が起こる・・・そう感じて、当のヒトラーがドンな男なのか、自分の眼で見たかったのではないか。

 男一人より幼い女の子を連れて居れば無難に見える。序に私に歴史に残る人物を見せて遣ろう・・・そんな処か。幼い私の印象では、ヒトラーは極普通の男性で、何故女の子達がキャアキャア騒ぐのか訳が判ら無かった。
 実は母もヒトラーを見て居る。カイザーホーフと云ったかベルリンのホテルで、日本人の夫人達のお茶の会が在った。ホールに居ると大階段をお供を連れたヒトラーが降りて来た。
 私が大人に為った後、その話を聞き 「どんな人だった?」 と尋ねた。母は何時も冷静な人で、その時も 「小さい人だったワ」 と答えただけだった。それが印象の全てらしい。  

 93歳に為る私は、最近、ユダヤ人関係の本を選んで読んで居る。例えばサーシャ・バッチャーニの『月下の犯罪』(伊東信宏訳、講談社) 深緑野分氏の『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房) クリストファー・R・ブラウニングの『普通の人びと』(谷喬夫訳、筑摩書房)等。  
 しかし、読めば読む程判ら無く為って来る。私がベルリンで体験した様に、ユダヤ人は市民に溶け込んで居た。嫌、私にはそう見えた。  

 私の住むマンションの前には、道路一つ隔てて公園が或る。冬には池が氷ってスケートが出来る。小山が在り橇(そり)で滑り下りて遊ぶ。私は同年輩の金髪の男の子と仲好く為り好く一緒に遊んだ。他にも友達が出来たが、ドイツ人かユダヤ人かで差別する・・・等と云った経験は一度も無い。日本人には判ら無いだけで、密かな差別は在ったのだろうか。



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『野望の屍』佐江衆一[著](新潮社)1-3-3


 佐江衆一氏の『野望の屍』を読むと、ヒトラーが如何に巧みに権力を握って行くかが、好く判る。 しかし、それは一方で、喜んで彼を受け入れて行くドイツ民族が居た為である。
 誕生日にバルコニーで手を振るヒトラーと熱狂する女性達、その光景を思い出すと、当時のドイツ人達の心情が如何で在ったか好く理解出来る様に思われる。  

 私の父は、ヒトラーの、そしてナチスの危険な事を好く知って居た。無論、口には出さ無かったが。1933(昭和8)年に、父が横浜の本店勤務に為り私共は照国丸で帰国した。偶然、渡欧の時の伏見丸と同じ大矢船長で、私を見て 「大きく為ったね」 と云って下さった。その後、父は中国の天津・上海・営口(えいこう)等を経て横浜本店に転勤した。

 1941(昭和16)年の事。横浜に上陸すると、ホテルニューグランドに2・3日滞在した。偶々訪日中の 「ヒトラー・ユーゲント」 の少年達と泊まり合わせた。彼等と廊下でスレ違う時声を掛けたかったが、決まりが悪く黙って通り過ぎた。彼等は帰国後、ドンな運命を辿っただろうか。  
 ヒトラーは公式には、生涯、独身を通した。誕生日のアノ騒ぎを見ればその意義も判る。一体、ヒトラーとはドンな男だったのだろうか。後にチャップリンが演じて居るが、本当に、チャップリンと一脈通じた処が在る様な気がする。

 本人は大真面目だが、傍から見ればチョット滑稽な男・・・そんな男とユダヤ人の関係が、私には如何しても判ら無い。あのアウシュヴィッツの悲劇・・・アレ程の事が如何して起こったのか。恐らく日本人で在る限り、先ず理解する事は出来無いのではないか。そう思いながら今日もアレコレ読んで居る。


筆者 安西篤子(作家) あんざい・あつこ

プロフィール 1927年 神戸生まれ 少女時代をドイツで過ごす 神奈川県立横浜第一高女卒 53年中山義秀に師事し小説を書き始める 主な著書に『張少子の話』(直木賞)『黒鳥』(女流文学賞)ほか多数 神奈川県教育委員会委員 神奈川近代文学館館長を歴任

新潮社  波 2021年5月号 掲載 新潮社



【管理人のひとこと】

 確かに、ヒトラーに関する本は数限り無く書籍化されて居る。それだけ彼が特異な存在であり或る意味偉大な業績を誇る偉人・軍人だったからには他なら無い。だが、彼と身近に接し彼の本性を赤裸々に探り、更に分析して綴ったものは意外に少ないのでは無かろうか。
 その意味でもこのエッセーは、ヒトラーの一瞬の姿を記録した貴重なものかも知れない。だから、彼の個人的性格や隠された本性・癖・・・等は案外と秘密のベールに包まれて居そうだ。

 彼は、恐らく可成り理数的頭脳の発達した・・・かと言って、或る種の芸術に傾倒した文科系的にも優れた個性在る偏狭的性格の強い人物だったで在ろう。言い換えれば〔おたく体質〕の〔しつこい〕〔特別個性的〕な変質者である。
 結果的に、反道徳的で宗教的にも異常な程のユダヤ人排斥思考と、彼の持つ正常な心とは何処で交わるかを、正確に理解出来る人は居ないだろう。青少年時代彼は、軍隊に応募し苦労して〔軍曹〕と云う下士官に為って居る。しかし芸術・絵画に興味を持ち、将来は画家への夢も持って居た。

 そして、第一次世界大戦後のドイツの置かれた立場に対して、戦勝国連合の仕打ちに対する怒りが収まらず〔ドイツの復権〕を掲げて政治に邁進する・・・政権を握ると、当時としては斬新な経済対策を続け瞬く間に〔ドイツの軍・産業の再興〕を成功させる。
 しかし、その偏狭的性格でナチズム・恐怖政治・全体主義国家へと第二次大戦を引き起こす・・・最大の戦争犯罪者へと変貌してしまうのである。そんな彼の姿を少女時代の筆者は「少女達に騒がれる背の低い普通のおじさん・・・」との感想を語って居る。
 管理人は、ヒトラー・ナチスドイツの奇跡的復興を遂げる〔経済政策〕に限りない興味を持って居る。前回に取り上げたが・・・実に天才的な不可思議な経済政策を建てたものである。





















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