2024年11月28日

権利というのは言葉遊びである

権利というのは言葉遊びである。
権利はそれを担保する実力が無ければ、ただ主張するだけの虚しいモノだ。
権利を主張することが一般的になったのは、恐らく1947年の人権宣言からだと思われる。
生きている人間の都合の良いことばかりを主張して、実効性の無い虚無な内容を統一国家(国連)という戦勝国のサロンが宣言しただけの、思考感染の実験だ。
人権では生存権というのが有るらしいが、生きることに権利など無い。
例えば感染症に罹患した人間に生きる権利があるから感染症の病原体に何か出来るのか?
正に生存権を担保する本人の体力と運という実力が無ければ、死ぬだけだ。
自分を殺そうとしてやって来た人間に、私は生存権がある等と主張しても無意味なだけだ。例え警察官がその場にいて保護されたとしても、生存権の主張で守られる訳では無い。
警察は人権保護のために国民を守るのでは無い。
職務遂行の為だけに行動するのだ(突き詰めれば自信の生活のため)。



統一国家(国連)は人権という言葉遊びを思考感染させ、世界中の人間に権利という荒唐無稽な概念のみの言葉を、さも有るように印象操作を行ったのだ。
結果、世界中の人類は、何かと人権という荒唐無稽な概念を口走る。
統一国家(国連)は先の大戦で、殺し合うことを避けるためとして、この人権という思考感染を試みた。
真実の狙いは、生き物の本能である闘争を悪と認識させることであり、世界各地に存在する尊厳たる文化の破壊だ。
統一国家(国連)は平和を重視する戦勝国のサロンであることをアピールし、刷り込むためである。
その証拠に、人権宣言を行った後でも、統一国家(国連)の常任理事国のアメリカは人権を理由に世界中に戦争を吹っ掛け、殺戮を繰り返している。
有りもしない権利。
権利を有ると錯覚させて思考感染された人権。
世界大戦の集結という次期に合わせた戦勝国の世界統合の為の思想感染の結果が現代の尊厳の無くなった世界である。
闘争と尊厳という文化を失った人類は本能の赴くまま獣の様な奔放な生き方になる。
悪魔信仰者の生き方がそれである。
昆虫の異常発生は、その原因は増殖に都合の良い自然環境にある。
しかし、異常な増殖は種の尊厳を失った状態での増殖が営まれる。
具体的には、同性間での性交という生き物として異常な状態であり、無節操な性交は感染症を爆発的流行させる。
最後は個体数が激減して正常な状態に戻る。
人間の場合も恐らくそうなので在ろう。
その兆候は既に世界の先進国と言われる国々で散見されている。


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