テキスト漫才『バレンタインデー』(漫才ヘヴン)→ http://manzaiheaven.com/n/5cbb
まぁ「チョコ」と言えば「ビター」ということで、ちょっと「ビターな記事」になりますよ、今回は(話の持って行き方が強引すぎる)。
今一番「ビター」な、つまり、チョコのように「甘くない」現実と立ち向かっているのは、言わずもがな、清原容疑者でしょう。
清原容疑者のことは、だいたい僕のTwitter上→ https://twitter.com/jiga_from_jiga で余すところなく書いたように思うので、ここでは、この件のキーワードである「依存」の本質について書いておく。
「依存」ときくと、だいたいの人が、「薬物」や「覚せい剤」や「セックス」のことを想起するだろうが、ここで定義する『依存』とは「生活全般」に渡る言動のことを指す。
それらは、「合法か」、「非合法か」の違いに過ぎない。
つまり、これを読んでいる貴方も、無関係ではないのだっ!!
分かってんのか! 清原を叩いている「街ゆく人たち」よ! ・・・このノロマが!!(?)
ゆえに、自分のこととして、以下の記事をお読み下さい。
というわけで今回は、 『依存』の本質をプロデュース!
早速だが、ラッパーのGAKU‐MCさんの『a day in the life』という曲中に、こんな一節がある。
「いつものところに いつものものがない そんな小さなことで 僕らはおかしくなる」
この一節は、僕らの「生活全般」に渡る『依存』の本質を余すところなく言い当てていると言ってよい。
手始めに、僕らの「生活」の「小さな『依存』」から紐解いてみようか。
例えば、「携帯がなくなった」。
それだけで、貴方、大慌てでしょう? 誰とも連絡もつかないし、ネットにも接続できないわけですから。これ、いわゆる「携帯依存」ですよね。
あるいは、「自転車が盗まれた」。
それだけで、貴方、「あわわ、今日の仕事、間に合わないわ、どうしよう!」と大慌てでしょう?
これは別に、「車」でもいいし、「PASMO」でも構わないです。
あるいは、身近な例で言えば、「タバコがきれた」も、そうでしょう。一日吸えないだけで、もうイライラして、貧乏ゆすりが止まらないはずだ。
とにかく、たった一つ、たった一つでも、「生活」の「習慣」=『依存』を取られると、僕らはすぐにあたふたしてしまうわけです。
ここまでで、だいたい、『依存』の「本質」、分かってきて頂いたでしょうか?
次に、話を「人生」単位に移し、その『依存』の本質を暴いていこう、と思う。
——ここからは、 「生きがい」=『依存』と定義させて頂く。
なぜなら、 「生きがい」という言葉は、「かっこいいポジティブな言葉」だと思われているが、それを奪われたらおしまい、という意味では、「『依存』でしかない」という「ネガティブな側面」を有しているからだ。
例えば、「仕事」が「生きがい」の人が、定年を迎え、その「仕事」=「生きがい」を失った途端、何もする気がなくなった、というケースはよく耳にする話だろう。
つまり、逆説的に言えば、その人は「仕事」に『依存』していたのだ。
というわけで、はい、『依存』ハンコ、ポン!『依存』確定で〜す。(?)
あるいは、「家族」なども『依存』の代表例に入るだろう。
これもよく聞く話だと思うが、長く連れ添った夫婦が一組、いたとしよう。もう結婚して40年にもなる。ゆえに、夫の方は無口で、妻に対してロクに口もきかず、過ごしていた。決して冷たく接していたのではない。そんな不愛想な態度が、その夫にとっては当たり前だったのだ。
だが、ある日突然、妻が死んでしまったとする。
そうした途端、なんとたった一日で、その不愛想な夫の髪の毛が真っ白になってしまい、その日以来、廃人になってしまったという。
たとえ、お金も持っていても、豪華な一軒家を持っていても、妻という要素を引き抜いてしまえば、こんなふがいないことになってしまう。
これも、無意識のうちに、「妻」という存在に『依存』していた、ということが言えるだろう。
などなど、例を出せばキリがないが、僕たちの「生活」あるいは「人生」全般のすべてが、実は『依存』で成り立っていることがお分かり頂けただろう。
最後に、三島由紀夫のこんな言葉を置いておこう。
『 精神を凌駕できるのは、習慣という化け物だけなのだ。』
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