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2015年12月26日
『今年を漢字一文字で表すと』をプロデュース!〜「今年を漢字一文字で表すと」の「一文字」を「標識」にしてみたら?の巻〜
漫才「五郎丸ポーズ」
「どうも〜、今日はフォースが覚醒しております」
「(頭を叩いて)酒に酔ってるだけだろ!」
「酒じゃない。・・・酒とクスリだ」
「余計ダメじゃねーか! でも、大丈夫ですよ、お客さん、叶美香さんみたいにはなりません、こいつ、後でトイレで吐いてますよ」
「ずるいぞ!それ、俺のボケじゃねーかよ!」
「おめーのじゃねーよ!とにかく明るい安村のボケだよ!」
・・・・。
というわけで、今回は、
「 今年を漢字一字で現すと?」をプロデュース!
まぁ、客観的にいえば、変化の『 変』でしょうね。
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?@ 国内情勢
?A 国外情勢
?B 一般市民の暮らしカルチャーも含め)
?C 自分自身の生活
この4つの領域において、良くも悪くも「 変化」した年だと思いますけどね。
まず?@の「 国内情勢」で言えば、安保理の可決や、マイナンバー制度の導入や、TPP参加の決定など、政治システムに「変化」が起こった年でした。
そして、「国外の状況」においては、もちろん、先のパリ同時多発テロの「変」(いや、昔の桜田門外の変みたいな言い方するなよ)があり、世界情勢が大幅に「変動」しました。
次に、「一般市民の暮らし」ですが、やはり?@の「国内の政治」の影響で、日本産の食べ物が高騰したり、政治への不満から「変化」を起こそうとするデモ集団が現れたり、あるいは、不安定な生活境遇からか、多くの拉致・殺人を起こす「変人」(逮捕者)が続出しました。
そして、「自分の暮らし」でいえば、—ーまぁ、いろいろ「変動」が多い一年でしたね。バイトしなくても食っていける収入源をゲットしたのでバイト暮らしを辞めましたし、あと、小説家としては『インディーズ文庫』さんと喧嘩別れしましたし、『小説・神聖かまってちゃん』を巡ってパーフェクト・ミュージックさんと「訴訟沙汰」になりかけたりもしました。まぁ、今となってはどうでもいい話ですし、皆さんも興味ないでしょうから、これ以上は言いませんけどね(←この決まり文句を流行らそうとしましたが、全く、でした)。
ところで、話は「変」わりますが、こういう 今年を漢字一文字で現すという遊びに、「標識」を導入してみたら面白いかも、とちょっと思いましたけどね。
例えば、『 壊』という一字を「 標識」にして、あらゆるシュチュエーションを考えてみる、わけです。
例えば、『ここで携帯は使用しないでください』という「標語」の隣に、『 壊』という「 標識」を置いてみる。
そうすると、携帯を使用していなくても、その人の携帯のワイヤレスネットワークが壊れる、というね。
そして、その相手との関係も「壊れる」というね。
・・・う〜ん、普通過ぎて面白くないですね。
あるいは、こんなのはどうでしょう。
コンビニ。
足元の「ここにお並び下さい」の「ライン」の前に、『 壊』という「 標識」を置いてみる。
そうすると、・・・並んでいた客が一歩レジへ前へ進もうとした途端、落とし穴が空き、どすんと落ちます。
そう。
今、youtubeの広告CMでよくみる 出川哲郎です。
あるいは、コンビニverならば、『 変』でもいいです。
足元の「ここにお並び下さい」の「ライン」の前に、『 変』という「 標識」を置いてみる。
そうすると、僕の前に並ぶ客が「変」になって、狂いだし、「コンビニのあの子」に向かって暴力を働かそうとするわけです。
そこで、すぐさま僕は、
「暴力はダメじゃないですか。・・・・・大丈夫ですか、店員さん」
と「コンビニのあの子」をかくまうことで、その娘とお近づきになれるチャンスが生まれるわけです。。。(以下、妄想2000文字)
まあ、最後のコンビニの例に関しては、僕のtwitterやfacebookをチェックしていないと分からない実体験のネタなので、もし知りたければ僕(ともなりたかひろ)のtwitterやfacebookを覗いてみて下さい。
とにかく!
工夫次第で、こういうイベントも面白くなる、ということが分かれば全員100点!
では、よいお年を。
2015年12月16日
2015年から見る『オトナ帝国の逆襲』論 あるいは 『オトナ帝国の逆襲』批判〜「名作」は「完璧に近いきれい事」に過ぎない〜
『オトナ帝国の逆襲』は名作だ、と言う人は多い。
彼らの思う「名作」というのは、「笑いあり涙あり」的な全ての要素を巧みな構成の中に包括しており、なおかつ、「“深い”普遍的なテーマ」を提示しており、鑑賞者にポジティブなバイブレーションを与える作品のことを指している。
そういう意味では、『オトナ帝国の逆襲』は確かに「名作」だろう。
だが、「完璧が完全じゃない」ように、「名作」も、商業映画という安心・安全なパッケージの中にすっぽり内包している時点で、「完璧に近い『きれい事』」であり、「真理追求」の立場から見れば、甘ったるい「たかが名作」に過ぎない。
僕は「作品自体」に文句があるのではない。
もちろん「起承転結」という「構造」自体がすでに「きれい事」だが、それが商業作品である以上、「起承転結」という「きれい事」の中にパッケージングするのは当たり前のことだからである。
僕はこの作品の持つ「テーマ性」に文句があるのだ。
『オトナ帝国の逆襲』が扱っているテーマを「普遍的」と評する人がいるが、2015年の日本の現実に照らし合わせると、なんら「普遍的」でないことが分かる。
少なくとも2015年の段階において、『オトナ帝国の逆襲』が提示した「テーマ」や「メッセージ」の方向へと日本は向かっていない。
まず、「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」自体、まず「現代のメインテーマ」とはなりえない。
なぜなら、今の時代、あるいは、若い世代にとって、「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)なことだからであり、「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」からである。
「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)である、という点については、余り説明の必要はないように思われる。
社会に帰属することや就職難もさることながら、経済面、コミュニケーション面、様々な面から見て「結婚する」こと自体「平凡」(簡単)なことではなく、一個人として非常に「困難な事業」である。
次に「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」という点は、多少メディア論を通過しなければならない。
僕は、若い世代が、90年代のJ‐POP黄金期の曲を聴いて、「懐かしいなぁ」などと「感傷」を漏らすことに「欺瞞」を見出している者である。
なぜなら、実際は90年代の「記憶・思い出」は、「失われた記憶」ではなく、ただ単に「薄まった記憶」だからである。
未だ潜在的に存続している「薄まった経験」を「懐かしい」とは呼べない。
0’年代の特色は、むしろ90年代の「薄まった経験」を「失った経験」と積極的に呼べず、あるいは、「現状と過去」として「切り離すこと」が出来ず、「懐かしいなぁ」と心の底から「“言えない”居心地の悪さ」だけが陸続きで存在している、という点にある。
音楽でもゲームの世界でも、「ハード」(形式)は、3D化やら、カバーソングやら、サンプリング(引用)やら、スマホによる通信・配信やら、変化・進化はしたが、「ソフト」(内容)自体は、殆ど90年代の「リバイバル」(再利用)であって、なんら「新しい展開」などなかった。
しかし、メディアは「新しい“意味”」を絶えず提供しなければならない。
“意味”とは、「流行」であり、「スター」のことである。
現在のメディアがやっていることは、実際は何ら画期的でもない「流行」や「スター」を勝手に祭り上げ、「組織化」することで、新しい「“意味”っぽさ」を「捏造」し、「停滞している現状」を「派手に停滞している現状」として「先延ばし」しているだけである。
「ごまかしの“意味”」=「流行」「スター」も、「組織化」する(毎日放送したり、全国民が無知を装いそれを信じ込む)ことで、やがて「新たな“価値”」に見えてくる、というメディアのトリック。
話がだいぶ逸れてしまった。
とにかく「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」は、全く「普遍的」ではなく、ある時代において「一般的」だった問題意識に過ぎない。
次に『オトナ帝国の逆襲』という映画に対して気にかかるのは、野原家の「未来志向」の動機付けである。
ひろしは、「自分の家族のため」に「未来志向」を選ぶ。「それの何が悪いんだ!」と反発してくる人が多数であろう。
確かにそれは、「健全」なのでしょう。
が、それと同時に、「自分の家族のため」という「美名」は、「他者のことを一切排除している」という意味で、健全でない側面が含まれていることは無視できない。
『オトナ帝国の逆襲』には、敵キャラと子供たちを除き、出てくる大人たちに「他者」がいない。「簡略化」され、みな「野原家」と「同一線上に存在するもの」と見なされている。
そんな「現実」こそ、存在しない。
別段、「家庭の幸福」のために生きていない大人もいて、つまり、「他者」がいて、はじめて「現実」である。
「家庭の幸福は諸悪の元」という言葉がある。
分かりやすく言えば、『今、あなたが自己中心的に手に入れた「家庭の幸福」の「せいで」、その裏で不幸になる人が出るかもしれないよ』という意味だ。
もっと突き詰めて言えば、『世の中、「救われる人」と「救われない人」がいて、「絶対に全員は救われない」』という真理だ。
ひろしの「未来志向」=「家庭の幸福」は、野原家という「一個人」の「家庭の幸福」という「未来」を保障するかもしれないが、日本の「社会全体」の「未来」を保障するとは限らない。
答えは簡単。
「家庭の幸福」だけが生きがいの人が「全員」ではないから。
仕事が生きがいの人もいれば、懐古趣味に引きこもるのが生きがいの人もいるから。そして、それらの人たちの多様な生き方は否定されるべきではない。
が、『オトナ帝国の逆襲』は、「多様な生き方」=「他者」を排除している。
つまり、『オトナ帝国の逆襲』において、「過去の感傷に浸らせてコントロールしようとすること」が「独善的」(自己中心的)であるのと同時に、「未来を志向し自己中心的に自分の幸福のために努力すること」もまた「独善的」(自己中心的)なのだ。
ベクトルが違うだけなので、野原家の言い分が「上位」なわけではない。また、独善的という側面から「完全に正しい」わけでもない。
しんちゃんの「未来志向」の動機は、「大人になりたい」からであり、なぜ「大人になりたいか」といえば、「みんなと一緒にいたい」からであり、「きれいなお姉さんとたくさんお付き合いしたい」からである。
「みんな」というのは「家族を含め自分の身近なコミュニティーに属する人々」のことで、「他者」は含まれていない。
こんな独善的な理由の子供が作る「未来」は「良い未来」なのだろうか?
僕は小説『ひとつになるとき』 http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203 において、野原家に代表されるような「家庭の幸福」を守
ることだけにしか眼中がなく、それ以外の「他者」には関心を持たない、「罪のない独善的な大人たち」を描いた。
あるいは、以下の音楽動画で。
3.11以降、あるいは、パリにおけるイスラム国によるテロの激化以降、以上のような「家庭の幸福」さえ死守すればよい、「他者」はどうでもよい、というような「罪のない独善的な大人たち」が増えた気がする。
そういう大人たちは、究極において、醜く、頼りにならない人間である。
地震が来たら真っ先に引っ越すタイプだ。
語弊は承知で言うが、『オトナ帝国の逆襲』にて、「大人になりたいから」と言ったしんちゃんが育って、「大人」になり、「家庭」を持ったとしたら、3.11以降に目立った、自分の「家庭の幸福」(身近なコミュニティー)に固執し、それ以外の「他者」には関心のない、「罪のない独善的な大人たち」になったことだろう。
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [DVD]
以上である。
最後に、余談だが、「人前で泣いた」ことを、恥も外聞もなく、口外するのが当たり前みたいになっている風潮は、気持ち悪い。
宇多丸さんが言っていた通り、「人前で泣く」ということは、「人前でヌく」(人前でオナニーしている)ということだ。
——その「恥」に気付かない「神経」、、、考えられない。
彼らの思う「名作」というのは、「笑いあり涙あり」的な全ての要素を巧みな構成の中に包括しており、なおかつ、「“深い”普遍的なテーマ」を提示しており、鑑賞者にポジティブなバイブレーションを与える作品のことを指している。
そういう意味では、『オトナ帝国の逆襲』は確かに「名作」だろう。
だが、「完璧が完全じゃない」ように、「名作」も、商業映画という安心・安全なパッケージの中にすっぽり内包している時点で、「完璧に近い『きれい事』」であり、「真理追求」の立場から見れば、甘ったるい「たかが名作」に過ぎない。
僕は「作品自体」に文句があるのではない。
もちろん「起承転結」という「構造」自体がすでに「きれい事」だが、それが商業作品である以上、「起承転結」という「きれい事」の中にパッケージングするのは当たり前のことだからである。
僕はこの作品の持つ「テーマ性」に文句があるのだ。
『オトナ帝国の逆襲』が扱っているテーマを「普遍的」と評する人がいるが、2015年の日本の現実に照らし合わせると、なんら「普遍的」でないことが分かる。
少なくとも2015年の段階において、『オトナ帝国の逆襲』が提示した「テーマ」や「メッセージ」の方向へと日本は向かっていない。
まず、「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」自体、まず「現代のメインテーマ」とはなりえない。
なぜなら、今の時代、あるいは、若い世代にとって、「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)なことだからであり、「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」からである。
「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)である、という点については、余り説明の必要はないように思われる。
社会に帰属することや就職難もさることながら、経済面、コミュニケーション面、様々な面から見て「結婚する」こと自体「平凡」(簡単)なことではなく、一個人として非常に「困難な事業」である。
次に「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」という点は、多少メディア論を通過しなければならない。
僕は、若い世代が、90年代のJ‐POP黄金期の曲を聴いて、「懐かしいなぁ」などと「感傷」を漏らすことに「欺瞞」を見出している者である。
なぜなら、実際は90年代の「記憶・思い出」は、「失われた記憶」ではなく、ただ単に「薄まった記憶」だからである。
未だ潜在的に存続している「薄まった経験」を「懐かしい」とは呼べない。
0’年代の特色は、むしろ90年代の「薄まった経験」を「失った経験」と積極的に呼べず、あるいは、「現状と過去」として「切り離すこと」が出来ず、「懐かしいなぁ」と心の底から「“言えない”居心地の悪さ」だけが陸続きで存在している、という点にある。
音楽でもゲームの世界でも、「ハード」(形式)は、3D化やら、カバーソングやら、サンプリング(引用)やら、スマホによる通信・配信やら、変化・進化はしたが、「ソフト」(内容)自体は、殆ど90年代の「リバイバル」(再利用)であって、なんら「新しい展開」などなかった。
しかし、メディアは「新しい“意味”」を絶えず提供しなければならない。
“意味”とは、「流行」であり、「スター」のことである。
現在のメディアがやっていることは、実際は何ら画期的でもない「流行」や「スター」を勝手に祭り上げ、「組織化」することで、新しい「“意味”っぽさ」を「捏造」し、「停滞している現状」を「派手に停滞している現状」として「先延ばし」しているだけである。
「ごまかしの“意味”」=「流行」「スター」も、「組織化」する(毎日放送したり、全国民が無知を装いそれを信じ込む)ことで、やがて「新たな“価値”」に見えてくる、というメディアのトリック。
話がだいぶ逸れてしまった。
とにかく「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」は、全く「普遍的」ではなく、ある時代において「一般的」だった問題意識に過ぎない。
次に『オトナ帝国の逆襲』という映画に対して気にかかるのは、野原家の「未来志向」の動機付けである。
ひろしは、「自分の家族のため」に「未来志向」を選ぶ。「それの何が悪いんだ!」と反発してくる人が多数であろう。
確かにそれは、「健全」なのでしょう。
が、それと同時に、「自分の家族のため」という「美名」は、「他者のことを一切排除している」という意味で、健全でない側面が含まれていることは無視できない。
『オトナ帝国の逆襲』には、敵キャラと子供たちを除き、出てくる大人たちに「他者」がいない。「簡略化」され、みな「野原家」と「同一線上に存在するもの」と見なされている。
そんな「現実」こそ、存在しない。
別段、「家庭の幸福」のために生きていない大人もいて、つまり、「他者」がいて、はじめて「現実」である。
「家庭の幸福は諸悪の元」という言葉がある。
分かりやすく言えば、『今、あなたが自己中心的に手に入れた「家庭の幸福」の「せいで」、その裏で不幸になる人が出るかもしれないよ』という意味だ。
もっと突き詰めて言えば、『世の中、「救われる人」と「救われない人」がいて、「絶対に全員は救われない」』という真理だ。
ひろしの「未来志向」=「家庭の幸福」は、野原家という「一個人」の「家庭の幸福」という「未来」を保障するかもしれないが、日本の「社会全体」の「未来」を保障するとは限らない。
答えは簡単。
「家庭の幸福」だけが生きがいの人が「全員」ではないから。
仕事が生きがいの人もいれば、懐古趣味に引きこもるのが生きがいの人もいるから。そして、それらの人たちの多様な生き方は否定されるべきではない。
が、『オトナ帝国の逆襲』は、「多様な生き方」=「他者」を排除している。
つまり、『オトナ帝国の逆襲』において、「過去の感傷に浸らせてコントロールしようとすること」が「独善的」(自己中心的)であるのと同時に、「未来を志向し自己中心的に自分の幸福のために努力すること」もまた「独善的」(自己中心的)なのだ。
ベクトルが違うだけなので、野原家の言い分が「上位」なわけではない。また、独善的という側面から「完全に正しい」わけでもない。
しんちゃんの「未来志向」の動機は、「大人になりたい」からであり、なぜ「大人になりたいか」といえば、「みんなと一緒にいたい」からであり、「きれいなお姉さんとたくさんお付き合いしたい」からである。
「みんな」というのは「家族を含め自分の身近なコミュニティーに属する人々」のことで、「他者」は含まれていない。
こんな独善的な理由の子供が作る「未来」は「良い未来」なのだろうか?
僕は小説『ひとつになるとき』 http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203 において、野原家に代表されるような「家庭の幸福」を守
ることだけにしか眼中がなく、それ以外の「他者」には関心を持たない、「罪のない独善的な大人たち」を描いた。
あるいは、以下の音楽動画で。
3.11以降、あるいは、パリにおけるイスラム国によるテロの激化以降、以上のような「家庭の幸福」さえ死守すればよい、「他者」はどうでもよい、というような「罪のない独善的な大人たち」が増えた気がする。
そういう大人たちは、究極において、醜く、頼りにならない人間である。
地震が来たら真っ先に引っ越すタイプだ。
語弊は承知で言うが、『オトナ帝国の逆襲』にて、「大人になりたいから」と言ったしんちゃんが育って、「大人」になり、「家庭」を持ったとしたら、3.11以降に目立った、自分の「家庭の幸福」(身近なコミュニティー)に固執し、それ以外の「他者」には関心のない、「罪のない独善的な大人たち」になったことだろう。
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [DVD]
以上である。
最後に、余談だが、「人前で泣いた」ことを、恥も外聞もなく、口外するのが当たり前みたいになっている風潮は、気持ち悪い。
宇多丸さんが言っていた通り、「人前で泣く」ということは、「人前でヌく」(人前でオナニーしている)ということだ。
——その「恥」に気付かない「神経」、、、考えられない。