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2016年01月23日
こんな寒い日には・・・・・・独り、短編小説を読むのが一番でしょう。
こんな雪の降るような寒い日には、——小説を読むのが一番でしょう。
以下に、初期の僕が書いた「雪」をテーマにした短編小説を。
読者である貴方の心に、ちょっとした「灯り」がともればいいな、と思ってます。
では。
タイトル『野暮ったいやつ』
例えば、福岡などの九州でさえ降る雪が、なぜか関東だけは降らない、ということがよくある。
そのたびに僕は、
「関東っていうのは、ほんと、気の利かない、野暮ったい奴だな。」
と思ってきた。
その呟きは、関東の野暮ったさについての感慨であると同時に、僕自身の中にある野暮ったさに対する感慨でもあったのである。
本当に、雪ぐらい気軽に降ってくれさえいれば、こんな「別れ」にはならなかっただろうに、と口惜しく思われる、小さな小さな物語がある。それを物語ろう。
当時、26歳の僕は、神奈川県の海老名市という片田舎に住んでいた。
小説家を目指していた僕は、昼は地元の食料関係を取り扱う物流倉庫で働き、夜空いた時間に小説を執筆する、という生活を続けていた。一日の大半を倉庫内で過ごし、それも仕事が終わるのは大抵夜7時過ぎ、となると、当然、仕事終りに事務所の玄関から外に出ると、もうすでに辺りは真っ暗になっている。ゆえに、必然的にもう長いこと日中の日差しを浴びたことがなかったし、ましてや、西日の美しさを見る機会など皆無と言っていいほどなかった。
うす汚れた喫煙室にて、あらくれ者たちとタバコを吹かしながら、とりとめもない雑談を交していると、何度となく「僕は一生、こんな世界の片隅で終わるのだろうか?」という考えに囚われたものだ。雑談に溶け込み、「顔」は笑っていたとしても、僕の「影」は泣いているに違いなかった。
そんな倉庫内の仕事の中にも、一つの救いがあった。
それは事務の中谷さんという女のひとの存在であった。僕は彼女のことが好きだったのだ。
中谷さんは、事務所内でもなかなかの古株らしく、歳も36、7ぐらいと噂されていたが、未だに独身のようであった。どころか恋の気配すらなく、仕事一徹の堅物といった感じであった。面長の顔立ちで、顎が突き出ており、目も一重で光なく、かわいそうなほど顔中の至るところに赤いにきび痕が残っていて、少しも垢抜けていなかった。からだも小柄すぎるほど小柄で、足などは紺のハイソックスのせいか、小学生のようにさえ見えるほどで、要するに、女性としての色気はまったくと言っていいほどなかった。
しかし、小さなくちびるを真一文字に締め、小さな背筋をぴんと伸ばし、書類をトントンと揃え、てきぱきと仕事をこなす姿は、僕にはとても理知的に見えた。中谷さんと僕の担当業務は違ったので、僕はそんな中谷さんの仕事姿を、ただ遠くから見つめるばかりであったのだが、僕が見た限りでは、中谷さんはそんな理知的に振る舞いによって、自身の女性としての深い苦悩を隠蔽しているように思えてならなかった。むしろ彼女が女性としての魅力のなさを、気にしていないかのように振舞えば振舞うほど、それが「影」として浮き彫りになるのだから、不思議なものだ。
中谷さんの「影」は泣いている。僕はそこに好意を抱いてしまったのである。前述のとおり、僕も「影」が泣いていたのだから、この人とはきっと理解しあえる、と思い込んでしまったわけだ。
しかし、担当業務が違うので、そもそも話す機会がなかった。万に一、あるとすれば、それは帰り際、雨の降っている日に限っていた。
ある雨の日の仕事終わり、偶然にも、僕は中谷さんと事務所の玄関先で一緒になったことがある。
その際僕は、
「雨、ですね。」
と言った。
中谷さんも平気な顔で、
「ですね。」
とだけ言った。
たったそれだけのやりとりであった。
彼女はしっかり者であるから、小柄な体型にしては大きすぎるピンクの傘を携帯しており、それをぱっと開いて、「それじゃ、お先に失礼します。」と小声で僕に言い残し、しのつく雨の中へと消えていった。僕は僕で、安物の傘を持っていたのだから、お話にならない。そう。雨では駄目なのだ。お互いに傘を持っていれば、雨などなんの「きっかけ」ももたらしてはくれない。
時間が過ぎるのは早いものである。季節はすでに12月になっていた。気温が一桁台の寒い日々が続いた。未だ雪は降っていないが、この調子ならこの冬は関東にも雪が降るだろう、と思われた。
もし雪が降ったとしたら、中谷さんと急接近できるかもしれない。なぜならば、雪の場合、「雪が降ったこと」自体がすでに話のネタになるからだ。そうなれば、もはや傘の有無で一喜一憂する必要がなくなるわけだ。
しかし、待てど暮らせど、関東だけは決して雪が降らなかった。
12月という季節は、物流系、なかでもうちのような食料を取り扱う仕事にとっては、一番の書き入れ時らしく、多忙をきわめる。僕の担当する業務もそのご多分にもれず、12月から年末にかけて、過労死するほどの仕事量を押しつけられ、僕もめくらめっぽう八面六臂に立ち働かされた。その間はさすがに中谷さんのことを思い慕う余裕などなかった。
年末が去り、1月に入った。しばらくしてから、ふと、事務所内に中谷さんの姿がないことに気がついた。
これは後で聞いたことなのだが、彼女は12月中にはもうこの仕事を辞めることを決めていたという。
中谷さんは、暇を見つけては度々、同期の大木さん(同期といっても、一回り上のおばさんなのだが)に、身の上相談をしていたらしい。大木さんは勿論、なぜその歳で仕事を辞めるのか、その理由を詰問したそうだ。すると中谷さんは、静かな口調で、「これからの人生を、一度、真剣に考え直してみたいんです。」とだけ答えたそうだ。
そんな後日談を聞いて僕は、「やはり恋愛や結婚のことで悩んでいたのだな」としみじみ思った。と同時に、そんな彼女の裏の「人生問題」に僕という存在は含まれていなかったのだ、と思うと、真っ向から眉間を割られた思いだった。
それを知らされた日の仕事帰り、呆然とした思いで外に出てみると、——馬鹿な話、雪が降っていたのだ。塵を散らしたようなボタン雪であった。泣けなかった。ただ、間の悪さに、胸が一杯になっただけだった。
いくらこの雪が今日深夜から明日の朝にかけて断続的に降ったとしても、この関東地方においては、翌日には暖かい日差しを受け、跡形もなく消え失せるだけなのだ。おそらく、僕の彼女に対する思いも、この関東地方における雪のように、明日になってしまえば、仕事の忙しさの中へと埋没してしまうに違いない。やがて、彼女の存在自体もまた、次第次第に忘れ去られていってしまうに違いない。
僕は長い間じっと、そのボタン雪を見るともなく見ながら、もし、彼女が辞める前に、雪が降っていたとしたらどうなっていただろう? と考えた。
僕は、雪を見て、
「あ。雪、ですね。」
と言う。
中谷さんは、
「ほんとだ。雪ですね。」
とやはり理知的に答えたに違いない。
そして、白い息を弾ませて、ふたり、自然と同じ方向へと歩き出していたかもしれない。
そんな甘い空想を思い浮かべていると、どうにも目が滲んできて、困った。僕はボタン雪を眺めたまま、やがて諦めたように白い息を吐き、苦笑しながら次のように呟く他なかった。
「おまえは、ほんと、気の利かない、野暮ったい奴だよ。」
2016年01月10日
「今年の目標」 feat. 「2016年日本はどうなるか」?&「ベッキーの不倫騒動における真の情報提供者は実は僕かもしれない」・・・をプロデュース!
どうも。
基本的に、毎日、何人観覧数が来ているのか、あるいは、ランキング(?)で何位になっているのか、とか、あるいは、数少ないコメントにも、まったく目を通さない主義の、ともなりたかひろです。
理由は、・・・はい、メンディーくさいからです。
まぁ、今日のテーマは、「今年の目標は?」っていう、fanblogさんからの要請ですけどね、このブログは「時事ネタブログ」という体裁ですし、時局も時局ですから、ちょっと「今年のテーマ」は横に置いておいて、“ よく知ればゲス”(有吉の“よく見ればブス”を拝借)の「ベッキー」について、ちょっと語らせてもらいますけどね。
もちろん、「今年の目標は?」については後々、書きますよ。 ・・・たぶん。
で、ベッキーについてはですね、色々な人が色々な場所で書いているだろうし、今回の件を利用した「大喜利」(上手いことを言うこと)もネット上で散々出回っていることでしょう、なので、僕が改まって書くことは何もないので、ちょっと視点を変えて、僕らしく、つまり、小説家らしく、以下の図のように、「言葉」(句読点)の違いによって、ベッキーの「精神構造」を分析する「遊び」にとどめておきましょう。
どうです?
当たらずとも遠からず、というところでしょう。
だから彼女は、あまりに「清く正しく美しい」という、芸能人としての「キャラ」=「自己像」を最初から打ち出していたから、「損」ですよね。
だって、これが、オアシズの大久保さんとかだったら、こんな略奪愛に走っても、全然「ネタ」(笑い)になるじゃないですか。
「ええ、不倫してましたよ。だって、最初から私はゲスですから」って言えますもんね。
そういうところを含めて、・・・ベッキー、残念だったね。
そんなことより、僕、ベッキーについて隠していることがあります。
・・・あの、ここだけの話ですよ?
これは、この記事を読んでいる貴方にだけ漏らす大事なので、他言しないように。
あのですね、今のベッキーの置かれている状況を、・・・誇張ではなく、栗原類54世(いや、山田ルイ54世みたいに言うな)よりもはるかに具体的に「具体的に予見」してたんですよ。
『人に迷惑をかけるな』(パブー・無料)→ http://p.booklog.jp/book/76338
まぁ、それはさておき、「今年の目標」ですけど、・・・まず言いたいのは、「僕自身の目標」なんて、僕自身興味ないですし、どうでもいいです。特にないですし。
そんな僕の個人的なことはさておいてですね、ちょっと日本情勢がどうなるか、それを考えてみましょう。
では、「今年、日本情勢がどうなるか?」、お教えします。
答え。
・・・まったく、分かりません。
すみません、去年は「パクリ問題」が起こる(小説『太郎取扱説明書』→ http://indiesbunko.com/index.php?IB_taro )とか、「水害」が起こる(小説『ひとつになるとき』→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203 )とか、ある程度「予見」できていたんですけど、今年に限ってはどうなるか、皆目、見当もつきません。
ただ一つ。
ただ一つ、「見えること」が、あるんです。
それは、「 安倍総理、というか、自民党が、夏の参院選で勝つ」ということです。
それはなぜか?
答え、「 安倍総理が、ズルいから」、です。
昨年、数々の政策を決定導入してしまった結果、国民生活にも良くない意味でさまざまな「変動」が起こりましたよね。
TPPで国内のお野菜が高い、とか。
増税で、懐が寒い、とか。
そのくせ、国民年金料は下がったり、とか。。
だから、今の一般的な国民は、・・・いいですか、ここが重要なのですが、—— 日々の生活にいっぱいいっぱいなので、「安倍政権反対!」なんて声をあげる「体力」がないほどに、「生活」に疲れきっているんです。
ゆえに、「反政府の声」は、昨年のシールズのように、「過激に高まる」ことはないでしょう。
繰り返すようだけど、安倍さんが決めた政策のせいで、日々の生活に「疲れてきっている」からね、僕たち一般国民は。
一般市民は不満がなくて「安倍反対!」を叫ばないのではなくて、不満はあるのだけど、安倍さんによって変えられた「生活」自体に「疲れ切っている」ので、半ば「投げやりで諦めがち」なわけです。
新政策導入で国民を「生活レベル」で「疲れさせて」、「反発の声」さえ国内から出させなくする——。
これが、 安倍総理の「ズルさ」なわけです。
・・・あー、僕も疲れきっているよ、安倍さん、・・・クソ。
安倍さん。
あんたの首相官邸の屋上に、ドローンで、「子供用のドレス」を置いてやろうか。
もちろん、皮肉の意味で。(安倍さんには、子供がいないから)
基本的に、毎日、何人観覧数が来ているのか、あるいは、ランキング(?)で何位になっているのか、とか、あるいは、数少ないコメントにも、まったく目を通さない主義の、ともなりたかひろです。
理由は、・・・はい、メンディーくさいからです。
まぁ、今日のテーマは、「今年の目標は?」っていう、fanblogさんからの要請ですけどね、このブログは「時事ネタブログ」という体裁ですし、時局も時局ですから、ちょっと「今年のテーマ」は横に置いておいて、“ よく知ればゲス”(有吉の“よく見ればブス”を拝借)の「ベッキー」について、ちょっと語らせてもらいますけどね。
もちろん、「今年の目標は?」については後々、書きますよ。 ・・・たぶん。
で、ベッキーについてはですね、色々な人が色々な場所で書いているだろうし、今回の件を利用した「大喜利」(上手いことを言うこと)もネット上で散々出回っていることでしょう、なので、僕が改まって書くことは何もないので、ちょっと視点を変えて、僕らしく、つまり、小説家らしく、以下の図のように、「言葉」(句読点)の違いによって、ベッキーの「精神構造」を分析する「遊び」にとどめておきましょう。
どうです?
当たらずとも遠からず、というところでしょう。
だから彼女は、あまりに「清く正しく美しい」という、芸能人としての「キャラ」=「自己像」を最初から打ち出していたから、「損」ですよね。
だって、これが、オアシズの大久保さんとかだったら、こんな略奪愛に走っても、全然「ネタ」(笑い)になるじゃないですか。
「ええ、不倫してましたよ。だって、最初から私はゲスですから」って言えますもんね。
そういうところを含めて、・・・ベッキー、残念だったね。
そんなことより、僕、ベッキーについて隠していることがあります。
・・・あの、ここだけの話ですよ?
これは、この記事を読んでいる貴方にだけ漏らす大事なので、他言しないように。
あのですね、今のベッキーの置かれている状況を、・・・誇張ではなく、栗原類54世(いや、山田ルイ54世みたいに言うな)よりもはるかに具体的に「具体的に予見」してたんですよ。
『人に迷惑をかけるな』(パブー・無料)→ http://p.booklog.jp/book/76338
まぁ、それはさておき、「今年の目標」ですけど、・・・まず言いたいのは、「僕自身の目標」なんて、僕自身興味ないですし、どうでもいいです。特にないですし。
そんな僕の個人的なことはさておいてですね、ちょっと日本情勢がどうなるか、それを考えてみましょう。
では、「今年、日本情勢がどうなるか?」、お教えします。
答え。
・・・まったく、分かりません。
すみません、去年は「パクリ問題」が起こる(小説『太郎取扱説明書』→ http://indiesbunko.com/index.php?IB_taro )とか、「水害」が起こる(小説『ひとつになるとき』→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203 )とか、ある程度「予見」できていたんですけど、今年に限ってはどうなるか、皆目、見当もつきません。
ただ一つ。
ただ一つ、「見えること」が、あるんです。
それは、「 安倍総理、というか、自民党が、夏の参院選で勝つ」ということです。
それはなぜか?
答え、「 安倍総理が、ズルいから」、です。
昨年、数々の政策を決定導入してしまった結果、国民生活にも良くない意味でさまざまな「変動」が起こりましたよね。
TPPで国内のお野菜が高い、とか。
増税で、懐が寒い、とか。
そのくせ、国民年金料は下がったり、とか。。
だから、今の一般的な国民は、・・・いいですか、ここが重要なのですが、—— 日々の生活にいっぱいいっぱいなので、「安倍政権反対!」なんて声をあげる「体力」がないほどに、「生活」に疲れきっているんです。
ゆえに、「反政府の声」は、昨年のシールズのように、「過激に高まる」ことはないでしょう。
繰り返すようだけど、安倍さんが決めた政策のせいで、日々の生活に「疲れてきっている」からね、僕たち一般国民は。
一般市民は不満がなくて「安倍反対!」を叫ばないのではなくて、不満はあるのだけど、安倍さんによって変えられた「生活」自体に「疲れ切っている」ので、半ば「投げやりで諦めがち」なわけです。
新政策導入で国民を「生活レベル」で「疲れさせて」、「反発の声」さえ国内から出させなくする——。
これが、 安倍総理の「ズルさ」なわけです。
・・・あー、僕も疲れきっているよ、安倍さん、・・・クソ。
安倍さん。
あんたの首相官邸の屋上に、ドローンで、「子供用のドレス」を置いてやろうか。
もちろん、皮肉の意味で。(安倍さんには、子供がいないから)
2016年01月06日
「なぜ年明けした感じがないのか?」の理由
どうも。
あけましておめでとうございます。
最近は、真面目に新たな小説の執筆に励んでいる、ともなりたかひろです。
なので、今日の記事は、真面目で、つまらない記事になるでしょう、きっと。
ところで、さっきの「あけましておめでとうございます」ではないですけれど、多くの人がたぶん、
なんか、年が変わった感じがしないんだよなぁ。。
という感慨にふけっていることと思います。かくいう僕も、その一人です。
というわけで、今日は、「なぜ年明けした感」がないのか、を考えてみましょう。
思うに、その理由は2つある、と踏んでいます。
一つは、簡単です。
以前、 世紀末のころは、1997年、1998年、1999年、と新たな年を迎えることに「カウントダウン感」(ワクワク感)があったからです。
でも、2001年以降は、ただ、2002年、2003年、そして2016年と、ただ一年が増えていくだけで、なにか「区切り」となる「イベント感」がなくなってしまったからです。
もう2つ目は、ちょっと難しいです。
そして、僕の推論に過ぎません。
結論を先に言いますと、やはり最近の「気候変動」が大きく関係している、と思います。
・・・例えば、そうですね、これを書いている現在2016年の1月5日の時点で、気温が15℃もあるんですよね。
15℃、ということは、これは別の季節である「春」でも成立する気温ですし、はたまた、先ごろ去って行った「秋」でも成立する気温でしょう。
ゆえに、この「新年」という「季節」が、「冬」なのか、「春」なのか、「秋」なのか、僕たちは分からなくなり、「一年」という「時間」に対するバイオリズムも狂ってしまうわけです。
以前はそんなことなく、例年どおり「四季」が巡っていたので、「ああ、今年も一年が終わるのかぁ」という感慨を持つことが出来ていたんです。
でも、今は先述の通り、「四季」が崩壊し、「季節感覚」がはっきりと区別できない日本になってしまいました。
こうなると、どういうことが起こるのか。
・・・皆さん、ちょっと、去年(2015年)に起こった出来事を思い出してみてください。
安保デモが過激に行われたなぁ。
あとは、マイナンバー制度が導入されたなぁ。
あ、あとはあれだ、そうそう、日本ラグビーだよね、やっぱり。うん。五郎丸ポーズ。
つい最近のことだから、忘れていたけど、やっぱりフランス同時多発テロだよなぁ。
——などなど、人によって違うでしょうが、様々に去年(2015年)に起きた「社会的事象」が思い出されたことでしょう。
し・か・し、です。
皆さん。
それらの「社会的事象」が、「体感」として、どの「季節」に起きたものなのか、即答することが出来ますか?
難しいでしょう。
そここそが「2015年」という「一年間」を「一年間らしく感じられない」問題を解くキーなんです。
安保デモが国会前で起こったのは「梅雨」〜「初夏」の「季節」でした。
そして今年の「夏」は酷暑で、残暑も厳しかったので、五郎丸選手がクローズアップされた「季節」も、本来の「秋」の出来事ではなく、「夏」の出来事だと、僕たちの「季節」に対するバイオリズムでは判断してしまうわけなんです。
もちろん例外はありますし、暴論だとも思いますが、正直、僕個人としては、「2015年」に起こった「社会的事象」のほとんどが「夏」だった、ぐらいに思っているんです。
「2015年」という「一年間」には「夏」という「季節」しかなかった。
と、言い切ってしまっても、腑に落ちてしまうぐらいに。
通常、寒い「冬」からほの温かい「春」が来て、次第に「梅雨」(初夏)に入り、やがて突き抜けるように暑い「夏」が来て、その後の「残暑」に耐えていると、やがて徐々に気温が下がり「秋」が来て、年末にかけてその寒さは増してゆき「冬」が来ます。
以前は、そういう日本の「四季」というルーティーン(習慣)に、僕たちの「一年間」に対するバイオリズムがぴったり合致していたので、「一年間」を「一年間らしい」と感じることが出来た。
が、今では「春」でも「初夏」ぐらいの気温の高い日も珍しくないですし、「梅雨」の時期もほとんど「真夏日」と言えるほど気温が高かったり、「冬」になっても対して寒くならず、「冬」という「季節」が「秋」でも「春」でも構わないような、異常な気候変動の中に僕らは暮らしているわけです。
これからさき、こういった異常な気候変動により、「四季」は崩壊し、ますます僕たちの「四季」に関するバイオリズムは狂っていき、結局、「まったく一年が終わったと感じられない」年越しを過ごすことになるでしょう。
・・・以上(異常)です。
おまけ。
異常気象の一つである「水害」を「予見」した天災小説『ひとつになるとき』→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
あけましておめでとうございます。
最近は、真面目に新たな小説の執筆に励んでいる、ともなりたかひろです。
なので、今日の記事は、真面目で、つまらない記事になるでしょう、きっと。
ところで、さっきの「あけましておめでとうございます」ではないですけれど、多くの人がたぶん、
なんか、年が変わった感じがしないんだよなぁ。。
という感慨にふけっていることと思います。かくいう僕も、その一人です。
というわけで、今日は、「なぜ年明けした感」がないのか、を考えてみましょう。
思うに、その理由は2つある、と踏んでいます。
一つは、簡単です。
以前、 世紀末のころは、1997年、1998年、1999年、と新たな年を迎えることに「カウントダウン感」(ワクワク感)があったからです。
でも、2001年以降は、ただ、2002年、2003年、そして2016年と、ただ一年が増えていくだけで、なにか「区切り」となる「イベント感」がなくなってしまったからです。
もう2つ目は、ちょっと難しいです。
そして、僕の推論に過ぎません。
結論を先に言いますと、やはり最近の「気候変動」が大きく関係している、と思います。
・・・例えば、そうですね、これを書いている現在2016年の1月5日の時点で、気温が15℃もあるんですよね。
15℃、ということは、これは別の季節である「春」でも成立する気温ですし、はたまた、先ごろ去って行った「秋」でも成立する気温でしょう。
ゆえに、この「新年」という「季節」が、「冬」なのか、「春」なのか、「秋」なのか、僕たちは分からなくなり、「一年」という「時間」に対するバイオリズムも狂ってしまうわけです。
以前はそんなことなく、例年どおり「四季」が巡っていたので、「ああ、今年も一年が終わるのかぁ」という感慨を持つことが出来ていたんです。
でも、今は先述の通り、「四季」が崩壊し、「季節感覚」がはっきりと区別できない日本になってしまいました。
こうなると、どういうことが起こるのか。
・・・皆さん、ちょっと、去年(2015年)に起こった出来事を思い出してみてください。
安保デモが過激に行われたなぁ。
あとは、マイナンバー制度が導入されたなぁ。
あ、あとはあれだ、そうそう、日本ラグビーだよね、やっぱり。うん。五郎丸ポーズ。
つい最近のことだから、忘れていたけど、やっぱりフランス同時多発テロだよなぁ。
——などなど、人によって違うでしょうが、様々に去年(2015年)に起きた「社会的事象」が思い出されたことでしょう。
し・か・し、です。
皆さん。
それらの「社会的事象」が、「体感」として、どの「季節」に起きたものなのか、即答することが出来ますか?
難しいでしょう。
そここそが「2015年」という「一年間」を「一年間らしく感じられない」問題を解くキーなんです。
安保デモが国会前で起こったのは「梅雨」〜「初夏」の「季節」でした。
そして今年の「夏」は酷暑で、残暑も厳しかったので、五郎丸選手がクローズアップされた「季節」も、本来の「秋」の出来事ではなく、「夏」の出来事だと、僕たちの「季節」に対するバイオリズムでは判断してしまうわけなんです。
もちろん例外はありますし、暴論だとも思いますが、正直、僕個人としては、「2015年」に起こった「社会的事象」のほとんどが「夏」だった、ぐらいに思っているんです。
「2015年」という「一年間」には「夏」という「季節」しかなかった。
と、言い切ってしまっても、腑に落ちてしまうぐらいに。
通常、寒い「冬」からほの温かい「春」が来て、次第に「梅雨」(初夏)に入り、やがて突き抜けるように暑い「夏」が来て、その後の「残暑」に耐えていると、やがて徐々に気温が下がり「秋」が来て、年末にかけてその寒さは増してゆき「冬」が来ます。
以前は、そういう日本の「四季」というルーティーン(習慣)に、僕たちの「一年間」に対するバイオリズムがぴったり合致していたので、「一年間」を「一年間らしい」と感じることが出来た。
が、今では「春」でも「初夏」ぐらいの気温の高い日も珍しくないですし、「梅雨」の時期もほとんど「真夏日」と言えるほど気温が高かったり、「冬」になっても対して寒くならず、「冬」という「季節」が「秋」でも「春」でも構わないような、異常な気候変動の中に僕らは暮らしているわけです。
これからさき、こういった異常な気候変動により、「四季」は崩壊し、ますます僕たちの「四季」に関するバイオリズムは狂っていき、結局、「まったく一年が終わったと感じられない」年越しを過ごすことになるでしょう。
・・・以上(異常)です。
おまけ。
異常気象の一つである「水害」を「予見」した天災小説『ひとつになるとき』→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
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