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ともなりたかひろ
小説家界の革命児。 主な著作に『太郎取扱説明書』(インディーズ文庫)。『小説・神聖かまってちゃん』(Amazon Kindle)などがある。 もっと詳しい著作が知りたい場合は、以下を参照下さい。 メインホームページ(ニコニコ動画)→http://com.nicovideo.jp/community/co1841805 Twitterアカウント→https://twitter.com/jiga_from_jiga ちなみに、このブログはアフィリエイト(金稼ぎ)のためにやってみよう、と思って開設したんですが、まったくの無知(あるいはバカ)のため、そうですね、うん、まずまぁ、稼げないでしょうね。
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posted by fanblog

2016年04月20日

「『熊本地震』をめぐる状況」についての正しい分析

やめっ!

もうこれ以上の 「言葉」は「汚い」
——そう思って、「 今月はもう何も書かない」ことを「宣言」したが、どうしても書いておきたいことが出てきたので、今日限りの二言、三言、許してくれ給え。
言うべきことを言ったら、さっと身を引くつもりである。

ブログテーマ、『 新生活に変化はありましたか?』であるが、れいの「熊本地震」で、ほとんどの人に「変化」があっただろう。
はい、これでブログテーマ全部回収。終り。

改めて、 「援助物資が行き届かない」理由を明確にしておこう。
まず、「公的な避難所」だけでなく、 「公的」に「避難場所」と「されていない場所」を「避難所」としている人々が多数いる。
理由は単純。
「物理的」な理由(距離的に遠い/道の陥没のせいで自動車が使えない等)から「公的な避難所」まで行けないからである。


まず、そうした 「非公的な避難場所」を含めた「すべての避難場所のマップ」を作らなければならない。
結局、 「熊本」といっても、都市中心を離れれば、 片田舎の「村」や「集落」が多い。
そこに住む人々にとって、「公的な避難所」など、「遠すぎて」いけるはずもないのだ。


また 、『「地震」によって亡くなれた人』の「定義」も、見直し、もっと 「拡大解釈」するべきである。
皆、 「地震」という「直接的被害」を受けた人を「被災者」と言いがちだが、「地震」によって、 ライフラインが途絶え、その「副次的被害」によって、死んでいった方々も「被災者」なのだ。


ある医者の友人が語っていたことだが、今回の「熊本地震」に遭っても、 「無傷だと思われている病院」内でも「死者」は出ている、と言っていた。
理由は勿論、病院内の「ライフライン」が復旧していないからである。


然るに、 病院内は高齢者が多い ことにも投石患者には大量の「水分補給」が必要である、が、「水」がライフラインの崩壊によって足りていないので、「死ぬ」のである。
こうした 「間接的な二次被害」によって「死亡」したケースは、 メディアによって「無視」されがちな「側面」である。

だが、そんなことよりも、である。
そんなことよりも「重要」な「問題」は、 「熊本地震」という「社会的事象」に対して 僕たち「個人」が、 「どのような立場から語っているのか?」あるいは、 「どのような関わり方を持っているのか?」という 「そもそも論」である。

「つながろう!」「ひとつになろう!」という「風潮」がまた来た。
だが、 「3.11」にしても、「熊本地震」にしても、同じことである。
その 「社会的事象」に、 「どのような関わりを持つのか?」は、 「私」個人の「選択」の問題であり、 「私たち」全体の問題ではない。


「熊本地震」は「私たち」全体の「問題」だ!
と口にするとき、すでに ありもしない「問題」が文中に「出現」している。

だが、 「熊本地震」という「社会的事象」が、その人 「個人」にとって「問題」になるか・ならないか 、「人それぞれ」なのだから、 「『私たち全体』の問題」という構えは「誇張した問題意識」である。


本来は、 「積極的にボランティアをする人」 「これを機に売名する芸能人」 「熊本地震とはまったく無関係に日常を送る人々」も、それらすべて 「並列」に扱うべきである。
「自発的にボランティアをする偉い人」も「売名する恥知らずな人」も「無関心な心ない不謹慎な人」も、等しく「共存」しているのが、「この世界」の「本質」なのだから。

立場も事情も全く違う、てんでバラバラな「他者」同士が「共存」しているのが、「この世界」の「共通前提」である。
言うさえ野暮な、当たり前の「事実」だ。
しかし、彼らは「ひとつになろう!」という名の下、一つの「権力」を形成し、それに「同調」するよう「無言の圧力」をかけてくる。


御多分にもれず、僕も、昨今の「つながろう!」的な「同調圧力」を、勿論、3.11の時の状況の「再体験」として感じたが、その「権力性」を明らかにするには、むしろ昨年の『安保法案』の時の奥田愛基くんの「国会答弁」を例に出すのが有効的だと考える。


奥田愛基くんは国会答弁の際、 「『個』で動いている」と主張しつつも 、『私たち』という 「主語」を使用したのである。
あの状況で、 『私たち』と発言すれば、 『私たち』=『私のような若者一般は全て』 「曲解」されてもおかしくない。
事実、メディアも 『私たち』=『私のような若者一般は全て』として彼の答弁を「理解」し、放送してしまった。


そのとき僕は、『 いや、勝手に僕を『私たち』というカギカッコの中に入れないで下さい』と思ったものだ。
つまり、政府という 「権力」に対する民衆のデモという 「反権力」も 「権力」には違いないのだ。
「賛成か/反対か」 二項対立だけで考え、 「グレーゾーン」を全く「黙殺」している時点で。
それと同じ「権力性」を「つながろう!」という「同調圧力」にも感じるのだ。


「安保法案に対して賛成か/反対か」という言葉を、「震災に対して同情的か/非同情的か」という言葉に置き換えてみれば、昨今の「ひとつになろう!」という「同調圧力」の持つ「権力性」が明らかになるだろう。
考えてみたまえ。
別に、同情的でも、非同情的でもない、そんなに関係ないなぁ、と思っている「グレーな人々」が、一言でも意見を口にしようものなら「不謹慎だ!」と叩かれるであろう。
その時点で、 「つながろう!」という善意は、 完全に「権力」である。


そして、「つながろう!」と呼びかけ、それに同調しなかった人を「不謹慎だ!」と指弾する 不謹慎厨の「根本」にあるのは、実は、 ただ「大きな社会的事象」を「背景」に「みんなが一つになっている!」という「エクスタシー」を感じ、それに「酔っ払いたい」だけの「不謹慎」な「陶酔」でしかないのだ。

——こう考えてみると、 「他者」との関係を深く考えるがゆえに「何もしない」僕のような人間と、彼らのような人間、どちらが「不謹慎」か、分かったものではない。


そして、「ひとつになろう!」「つながろう!」という「大きなこと」を主張している人に限って、意外と、「小さなこと」——学校や職場などの身近な人たち=「他者」との関係が上手くいっていなかったりすること——を僕は知っている。
「小さなこと」——身近な「他者」との人間関係すら上手くいっていない人が、「ひとつになろう!」などという「大きなこと」を声高に主張しても何の説得力も感じないのである。


結論。
今回の「熊本地震」は、「人それぞれ」であって、「それ以上」でも「それ以下」でもない。
そして、 「それ以上」のこととして受け止め、はしゃいでいる人々は、それはご勝手にすればいいと思うが 、「それ以上でもそれ以下でもない」人たちに「同調」するよう「強要」しないこと。
以上だ!
もう、ほんとうに、今月は何も書かん!


震災小説『ひとつになるとき』(縦書き文庫/無料)→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
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